諸君 - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)
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1. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

へ通すことはおろか、自分の家扶のところへ客として寄せつ けないような連中を、おそらくご承知のことと思う。まった くいやなことだ ! その当の男も、自分が悪いということを 〔一八四七年五月十一日〕承知していて、尻尾を股の間に挾み、耳を伏せながら、うまい 諸君、わが広大なる都会にあって、何にもせよ人に知られ折を待っている犬っころに髣髴とするのである。ところが、 ていないニ = ースを貯え持っていて、その上、それを面白くさあ、折が来ると、この先生が堂々と自信に満ちた態度で玄 話す才能を備えた人間が、いかなる意味を有するものである関のベルを鳴らし、呆気にとられた従僕のそばを通り抜け、 、、諸君はそれをごぞんじだろうか ? 筆者の意見をもって晴ればれとした顔つきで、鷹揚に諸君のほうへ手を差し伸べ すれば、それはほとんど偉大な人間である。ニ = ースを貯える。で、こちらもすぐさま、この男はそうするだけの立派な 、うま権羽を持っているのだ、これは何かのニュースか、中傷か 持っということは、財産をもつより優っているのは、し でもない。ペテルプルグの人間が何か珍しいニュースを嗅ぎそれとも、なにか非常に愉快な話を持っているのだな、と気 がつくのである。そういう事情がなかったら、こういう先生 つけて、それを他人に話そうとして駆けだして行くとき、も うあらかじめ何か精神的情欲とでもいうようなものを感じがずうずうしく入って来られるはずのものでない。そこで、 る。声は萎えて、満足のあまり慄え、心はさながら薔薇油に諸君は多少の満足を感じながら、耳を傾けることになるの ゅあみ まだ、そのニュースだ。もっとも、ニュースとい、つものはいっさいきらいなくせ 浴するかのようである。その瞬間、 、子供たちに英語を教えていた細君が、亭主を折檻した話 を人に話さず、ネーフスキイ通りを友人のもとさして走って 行く間、彼はありとあらゆる不快事から一挙にして解放されは喜んで聞いたという、あの尊敬すべき社交界の婦人には、 た状態になっている。それどころか ( 筆者の観察によると ) 、諸君はてんで似ていないのかもしれないが。 * ゴーゴリ 頑固な持病さえも癒ってしまって、自分の敵すらも喜ん でゆるしてしまうほどである。そういう時の彼はきわめて謙諸君、中傷というやつは美味いものである ! 筆者はよく 部虚であり、偉大である。なぜか ? ほかでもない、ペテルプ考えたことだが、もしわがペテルプルグに天才が現われて、 第ルグの人はそういう晴れの場合、自分のあらゆる美点長所を共同生活を気持ちのいいものにするために、今までどこの国 にもなかったような新しい何ものかを発見したら、その男は 録認識して、おのれみずからをよしとするからである。それば かりではない。筆者のみならず、諸君にあっても、どうかすどれだけ金を儲けるか、見当もっかないくらいだろう。とこ 論ると ( 何か当面のの「びきならぬ事情がない限り ) 、控え室ろが、われわれは相も変わらず、手製のお話相手や、居候 3

2. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

きはもう諸君を救いに行くこともできない。予は、おのれの に登りながら悔悟した罪人のように振舞うことを欲するの 原則に忠実であることによって、フランスがその中で喘いでか ? 予は諸君に何ものも願わなかったし、 いかなる慈悲も いる、毒された雰囲気を癒すことができるのだ。予の原則を乞わなかった。予はおのれの権利にしたがって、王座に登る 放棄すれば、予は、諸君がすでに百年からというもの、諸君のであるが、それは、暴力によるものでもなければ、手に剣 の欠陥を埋めようと、たえずとり替えひき替え使ってきた、 を提げてなされるものでもない。 しかし、予の権利と諸君の 間にあわせの埋め草のようなものに、たちまちなってしまう望みがともに一致したのだから、諸君が今まであれほど嫌っ だろう。諸君がプロイ氏とともに残るか、ティエール氏を復た、予の即位のさいに持ち帰る旗は、この時から、予と同じ 活させるか、あるいはガンべッタ氏をいま一ど試みるか知らく一 諸君にとっても、貴く栄あるものでなければならない。そ ないが、予にはかまわすにいてもらいたいものだ。諸君は予れよりはかにはあり得ないのだ。こうした和解の場合には、 の旗を恐れている。それは理由のないことである。いずれに自分自身の威厳と真実が、大切である。予はけっして悔悟し せよ、予はおのれの旗を譲らないし、諸君も、予がこの点でた罪人でもなければ、王位簒奪者でもない。ナポレオンの旗 、、 : はたして予 正しいことを、理解するのが当然だ : : これはから威張りでを奪うことが、そのような非難を受けることカ もなければ、無益な気まぐれでもない。政治的な見地からだ にふさわしいことだろうか ? アルコルからセダンにいたる けでも、そうする必要がある : ・ : ・この旗は予の原則のシンポまでの彼の旗は、ナポレオン家にまかせておこう。白色旗に ルである。諸君が皆この旗を受け入れるとき、予はわれわれはそれ自身の光栄だけで十分だ。白色旗をして、フランス人 が心からまったく和解したことを感じ、諸君がその屈辱を忘と戦うことなくフラ / スに入らせたいものである。この入城 れ、予になしたいっさいの不正の許しを乞うていることを感が白色旗の最大の光」木となるであろう』 とルイ・ヴィョ じるだろう。もし予がおのれの旗を裏切って、諸君の旗を手「こうアンリ五世はいうことができる、 にしたならば、諸君は予を尊敬することができないに違いな ーは付けたしている、 いっそ、フよいことこは、 し。諸君は、いつも、勝者が敗者を見るように、予を見るだ彼は沈黙しているのである。説明しなくともフランスが理解 部ろう。諸君は、諸君の手によって断頭台に流された予の祖先しているものを、なんで説明することがあろう。彼の事業が 第の血を、始終、思いだし、それを予が思いだすといって、た勝利するには、演説などはいっさいいらない : ・ : 王政か無政 録えまなしに、予を非難するに違いない。ただ予の名誉の要求府か、国王か無か ! われわれの救済のためにぜひとも必要 するものを、予は要求するだけである。しかも、予の名誉なこの王冠が、彼の栄誉のためには、けっしてそれほど必要 論は、そのまま諸君の名誉なのである。なぜ諸君は、予が王座でない。彼は栄誉をもって王冠を戴くこともできるが、名誉 2

3. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

た。「こうすると楽なんで」「そうか、それならお前は割り 、や、時とし は、必ず卑劣漢に決まっているのだろうか ? し てはこういうことがある、ーーー生活の現われが不具的であれなさい。おれがお前の代わりに唸ってやる」とユダヤ人はい ばあるはど、その現われが持続的で、醜悪で、痙攣じみて来った。百姓が斧を振り上げるたびに、ユダヤ人はそれに合わ れば来るほど、生活はますます、是が非でも、おのれを発顕せて唸った。薪を割り終わって、百姓が賃金を請求したと き、ユダヤ人は約束より少なく払った。百姓はいった。「こ にもかかわらず、諸君は生命 せんと欲するものである、 さえもない といわれるのだ。そこには悩みがあり、苦痛がりやどういうわけなんで ? わっしやみんな割ったでねえ 」「だって、おれが唸ってやったので、お前は楽に あるのだが、諸君はそんなことになんのかかわりもない ! よっこじゃないか」 そんなことはみんな、諸君の秘密な理想に一致しない、した ユダヤ人は狡猾な連中である ! ところで、諸君が唸って がって、そこに悩みも生の渇望も認める必要はない、何もか いや、そ おられるのも、無駄なことではないのだろうか ? もシャポン玉、だというわけである ! 諸君は、たとえば高飛車なものの言い方をして、教訓を授れは大違い、諸君は損得ということを頭に置いているのだ。 けておられるが、それは、諸君の教訓は単なる修身教科書でほかでもない、諸君ははかのものの歌はみんな調子はずれ で、おれだけが鶯のように歌っているんだ、ということを宣 あり、じつに頭の鈍い抽象論であり、ひどいアプスト丿ュ 伝したいのである。が、われわれは諸君のいいぐさをほんと ズ ( 難解 ) なのである ( おお、なんというおもしろい言葉 ! うにするだろうか ? とんでもない、一つ諸君独自の「フュ いったいどこから手に入れられたのか ? こういうことにか フュー」をやって聞かせてもらいたい ( これは けたら、諸君はなかなかの名人らしい ) 。彼らごろっきども は、たとえ何かでもやっているし、正道へ出るためにこっこ諸君もよくごぞんじの、シチェドリン氏の言葉である ) 。 っ努力もしている。よしんば誤りを犯しているにもせよ、あや、諸君がほんとうに善を欲するならば、どうしたら誤りな しにうまくやれるか、諸君自身でやってみせてもにいたい。 とから続く人々が同じような誤りを犯すのを防いでいるわけ しかし、お見うけしたところ、諸君は高慢そうににたにた笑 だから、したがって消極的ではあるにもせよ、役に立ってい いをしておられるらしい。生活はひとりでにやって来て、何 部るのである。ところが、諸君はメロドラマふうに腕を組んで かしら一番いいもの、イギリス舶来の品を持って来てくれる 第突っ立ったまま、はくそ笑んでいるのだ。 録あるユダヤ人が労働者を雇って、薪を割らせた。その百姓から、それまで何も心配する必要がないということを、諸君 は薪を割りながら、ひと振りごとに唸るのであった。ユダヤもちゃんと確信しておられるはずである。しかも、背負いに くい重荷を押しつけられておられる : : : 等々といったぐあい 論人はそれを見て、「お前なんだって唸るんだね ? 」とたずね

4. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

痙攣や誤謬を嘲笑するばかりで、自分の手を汚したくないばし立て、それでなくとも新思想に敵意をいだいている大衆の 、 0 亠丿っキ、よノ、 目に、卑俗なものと映るようにしている。ただそれだけで かりに、その仕事に指一本ふれようとしなしレ も、彼らは裏切り人のような軽率さで、あらゆる新思想に害 諸君こそ、諸君があれほど憤慨しておられる空論家のひとり 諸君はおそろを加えているのだ。しかし、諸君はまず第一に、自分を除い ではないだろうか ? それからもう一つ、 しく軽率である。諸君は、人をだますことなど造作のない話て、すべての思索する人々、光を望む人々を、ひとりのこさ だ、と思っておられる。「おれは実に憂悶の情にたえないのず、わめき屋と見なしている。第二に、諸君はこれらすべて のわめき屋、進歩派を、良心のない連中と決め込んで、ほか だ。わめき屋や小僧っ子どもの侮辱し、抹殺しようとしてい ならぬその点を強調し、まさにそのことを証明しようとして る学術を、擁護しているものなのだ。おれはそういうありさ いるのだ。諸君にいわせれば、わが国にはりつばに保証でき まを見て、自分でも憂悶し、悲嘆しているものだから、こう とのことである : ・ : ・これは るような良心的な人間がいない、 して哀歌的な号泣の声を上げたのだ」といったわけである。 諸君自身の言葉である。それから諸君はさらに言葉をすすめ その長広舌をふるう腕前はお見事ながら、諸君はあまりにも 素朴に真の目標を暴露している ! 諸君が苦慮しているのはて、われわれが ( このわれわれというのは、もちろん、言葉 学術のことではない、諸君は何ごとについても憂悶などしてを飾るためである ) 、われわれが進歩派であるのは、時代お こわ はいな、。諸君にとって必要なのは、すべての「進歩派」どくれという評判を取るのが怖いからである。「われわれはた もを、無良心な空論家であり、マネキンと呼ぶことなのであだ非進歩派であるという疑いを招かないためのみに、ありと る。その仕事にまじめな、神聖な気持ちで同感している人、あらゆるでたらめを口走ったり、またじっと聞いているのも 辞さないのである」 ( してみると、意識しながら無良心だ、 たとえいくらかでも人間を見分ける目を持った人なら、こう いう軽蔑はあり得ないはずである。なんというシニッグな態というわけである ) 最後に諸君はいう。「もしかりにだれか が、進歩なんてものはない、人生のすべては無意味で、偶然 いやはやー 度で、諸君は自己を暴露したことか ! あの論文で、能なしな粗雑なやり方で、思想の上っつらだけ的なものである、とわめいてみたまえ : : : われわれはただ進 部をとらえ、それを一面的に解釈しているわめき屋や、無能な歩派と思われたいがためばかりに、そういう決定にもおとな 第 小僧っ子だけのことを語ったのなら、ああ、その時はわれわしく屈服するのである」 録れも進んで、合流したであろう、諸君がそういう仲間を歓迎そうだろうか ? はたしてそうだろうか ? 良識の点のみ から見ても、すべての人にとって、ひとりのこさずすべての しようと、しまいとにかかわらずである ! なにぶんにもこ 文 の小僧っ子連中は、新しい思想のことをわめき散らし、はやものにとって、はたしてありうることだろうか ? わが国の和 1 言ロ

5. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

腎な点なので、なるほどわきのほうで日向ばっこには相違なの中に、分離点よりも結合点のほうがはるかに多い。そこに 、しかしわれわれは諸君に同情したのだ ! つまり、こ問題のすべてが存するのである。それはわが国全般の平和、 こに謎のいっさいがふくまれているのだ。現に、たとえば、安穏、同胞愛、繁栄の保証である。すべてのロシャ人は何よ 諸君はどこから取ってきたのか、われわれのことを狂信者だりもまずロシャ人であって、さてそれから後なんらかの階級 といっておられる。換言すれば、ロシャでは兵隊を狂信主義 に属するのだ。ところが、諸君のほうではそういうふうでな それがど で鼓舞している、というわけだ。とんでもない ! いから、筆者は諸君を気の毒にはう。諸君のほうでは、まっ んなに滑稽なことか、お目にかけたいくらいである ! もし たくその逆のことがしばしば見られる。諸君のほうでは階級 この世にいかなる狂信主義にもまったく無関係な存在がある的利害のために、時として、否、むしろ最近、全国民が犠牲に としたら、それはほかならぬロシャの兵隊なのである。われ供せられたことがあったが、これはまだ何度もくり返される われの中で兵隊といっしょに暮らしたことのあるものは、そことに相違ない。してみると、諸君のほうではいまだに階級 れを正確に知っている。彼らがいかに愛すべく、親しむべきや、ありとあらゆる組合がきわめて強力である。諸君はおそ タイプであるかを、もし諸君が承知されたら ! 諸君がせめらくあっけにとられて、こう反問されるであろう。「しかし、 てトルストイの短編を通読されたら ! そこには何やかやが きみの自慢する発達はどこにあるのだ、ロシャのプログレス いや、何もは何に存するのか ? どうも事実の上には見当たらぬようだ 実に正確に、実に同情ふかく把握されているー くとくどい , っことはない が ? 」いや、ちゃんと見えている、 と筆者は答える、た いったいロシャ人は宗教的な狂 だ諸君にそれが見えないばかりなのだ。諸君の見ている見当 信主義から、あのセヴァストーポリを防衛したのだろうか ? うに、諸君の勇敢なるズアーヴ ( し アラビヤの服装を ) はわが国のがちがうのだ。それが全国民の精神と要求の中に存して 兵隊たちと前線で相識って、その性質を承知していることだる、というだけでもたくさんなのである。たといきわめて少 ろう。はたして彼らはわが国の兵隊に深い憎悪を認めただろ数の人々であっても、一般的、全体的なことで互いに協調し うか ? また諸君は、わが国の将校たちをも同様に、よく熟 はじめている、ということだけでもたくさんではないか。ど 部知しておられるはずだ ! 諸君は、ロシャには lesboyards うかわれわれのことを思いあがった、遠い見透しのきかない 否われわれはもうとっく 第と les serfs と、二つの階級しかないときめ込んで、その上未熟者と呼ばないでもらいたい。、、 から、 録にあぐらをかいている。いったいどんな bo ards があるとい いっさいのものに目を見据え、いっさいのものを分析 うのたろう ! かりにロシャでは、かなりはっきりと階級が し、自分で自分に謎をかけ、それを解くのに苦しんでいる。 論区別されているとしよう。しかし、わが国ではすべての階級わが国に分析がはじまったのはごく最近ではあるけれども、 1 びロ 5 2

6. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ドル・デュマに恐ろしく似かよっていることである。それはヴェーシュが、昔ライン河の彼方から、ロシャを教育するた アレグサンドル・デュマの小説の主人公でなく、デュマそのめにやって来た。しかも、ジュネーヴ人レフォルト云々とい うことよりほか、どんな学問も知らないのだが、この唯一の 人、本物の Davis de la Pailletterie 侯爵に似ているのだ。 「諸君はわれわれも、またわが国の歴史も、まるつきり知ら知識をロシャ人 (boyards) の子弟に伝えて、われわれから ないのだ」と、筆者は彼らに向かって、三たびくり返したで金と社会的地位を得たのである。いやまったく、諸君がロシ あろう。「今日にいたるまで、諸君の知っているのはただ 一ヤを研究する理由などどこにあろう ? そんなことをする合 ジュネーヴ人レフォルト云々、云々である」このジ理的根拠がどこにあるのだ ? まあ、芸術のためとでもいお ュネーヴ人レフォルトは、ロシャ歴史に関する諸君の知識にうか ? しかし、諸君は実際的、事務的な国民だから、よし とって、あくまで必要かくべからざるものであって、筆者のんばポンサールをアカデミイに据えたとしても ( もっとも、 考えによると、 リの庭番の女房までが一人一人、もうちゃそれが彼に似合いの場所だ、という考慮から出たのかもしれ たわごと んとレフォルトを知っていて、夜おそく le cordon s'il vous ない ) 、芸術のための芸術などという囈語のために、時を空 plait ( ベルの紐を教えてくれたまえ ) というロシャ人を見て、費するようなことはあるまい。では、科学のためだろうか ? ロの中でこんなことをばやくに相違ない。「本当に、もしジ ところが、われわれは今日にいたるまで、いかなる科学の尺 ュネーヴにジュネーヴ人のレフォルトが生まれなかったら、度にも合わぬ国民で、そこが問題なのである。諸君、かよう ハリ・ヘ、 au centre de CiVili ・ お前は今まで野蛮人でいて、 な次第で、たとい今までわが国に諸君の文明しかなかったと sation ( 文明の中心へ ) 来ることもなければ、今よる夜中わたしても、それはもうあまりに水つばく、むしろ侮辱でさえあ しを起こして、 le cordon s ・ il vous plait 一と、喉いつば ることを、諸君は今だにごそんじないのである。われわれは にわめくこともなかったろうに」 すでにそれを試みたので、今では何もかも実験で承知してい しかし、諸君はロシャのことをまるで何も知らないと、三るのだ。 度もくり返したにもかかわらず、諸君がただレフォルトだけ つまり、こうしたわけで、諸君の文明がわが国において ポーチヴァ 部しか知らないということを、筆者はけっして諸君の罪であるは、わが国の土地によって要求された自然の結実として、わ 第などとは思わなしオ 、。ょに、レフォルトなどは諸君としてゆるが国にあらわれたのであって、この世にジュネーヴ人レフォ 録すべきである。というのは、彼が諸君の多くを餓死から救っ ルトが存在した、云々という、ただそのためのみではないと いうことを、われわれのほうでは知っているけれども、諸君 たからにはかならぬ。数知れぬはどの家庭教師、学校教師、 文 はごぞんじないのである。そればかりではない。わが国では ありとあらゆるサン・ジ = ローム ( トルストイ ) 、 「少年時代』

7. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

のように彼女を嘲笑し、彼女を侮辱する権利があるのだろうしたような駄じゃれの中い、彼女の名前を書くということだ か ? 諸君は、現実の彼女がそのような人間でないという仮けでも、その当人にとっては、この上もない無礼であり、侮 定のもとに、じめて、彼女を嘲笑し、侮辱したのではない辱なのである。編集者諸君、い 0 たい諸君はそれさえごそん か。このような問題について、どうして単なる仮定を基とすじないのか ? はたして諸君は、そこに大きな非礼と侮辱が ることができるのか ? さて、もし諸君の仮定がまちがってあることを悟らす、通信員がトルマチョーヴァ女史の言葉を 正しく伝えることができなかったという、ただそれだけのこ いるとしたら、当然、諸君の侮辱的な表現は、現存するトル マチョーヴァ女史に適用されるわけである。第二に、諸君のとを根拠として、ああいうデリカシーに欠けた文章 ( 諸君に 想像が当たっているとしよう。かりにトルマチョーヴァ女史いわせれば戯文 ) を、誌上に公表する権利があると考えてお がああいうことをいわず、ああいうふうに考えず、すべては られるのか ? もしそれが理解できないならば、トルマチョ 通信員の誤りであったとしよう ( それはどんなことだってあ ーヴァ女史の立場に立ってみたまえ。 りうる ! ああいったふうの言葉も意見もなかったし、それ どころか、「エジプトの夜』の朗読もなかった、なんにもな わが身にあてはめてごらんになったらいかが ? かった、「ペテルプルグ報知』の雑録は地方から出たいたず らにすぎない、駄ばらにすぎない、 とい、フことさ ) んあり、つ ひとっこういうことを想像してみたまえ。だれかが諸君の るのだ。なにしろ、十万の場合の中に、ただ一つだけそうい ことについて、讃辞を原稿紙にしたため、それを活字にした う場合もありうるのだから ! ) 。が、それだからといって、 が、その書き方がまずくてこつけいなものにさえなった。す どうなのだ ? その事情を完全に納得するまでは、人々はなるとまたある人が、これにからんで、諸君の名前と人格を、 んといっても、「ペテルプルグ報知』の雑録に、実在のもの いとも恥ずべき事がらに当て嵌めて、面よごしになるような と声明された人の名前が出、その人物まで説明されたのを、当形で曝しものにしたとしよう。諸君をじつに忌まわしい立場 然記憶するはずである。いわく、ベルミに住む五等官の妻ト に置いて、見せしめのためにそういう立場に置かれた諸君を 部ルマチョーヴァ女史、というのである。これは現実のトルマ嘲笑し、罵倒し、唾を吐きかけるとしたらどうだろう。鑽慨 第チョーヴァ女史でなく、通信員によって描かれた別の女性ですべき行為、同時にみじめでこつけいな行為を諸君に塗りつ 録あると、ただそれだけを弁明の言葉として、あのような悪口けて、狂暴といっていいほどの快感をいだきながら、いたる : 、はたして許さ 雑言をつらねて、実有せる人を評することカ ところ諸君の名を持ち出し、嘲笑しカリカチュア化しなが 文 れるであろうか ? その上、わがユーモリストがあえて発表ら、これはほんの冗談だ、ほんとうにはなかったのかもしれ

8. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

に、そういう人々の間に、、つこいどうして生活がはじまる の希望は即座に霧散してしまった。諸君はいったいなんとい うふうに事態を歪曲したものだろう ? 諸君はまずわが国のだろう ? かますの命令 ( の 。シャ民話 ) にでもよるのだろう の「進歩派」、わが国の「達筆家」ども、わが国の「わめき しかし、ご免をこうむって、順を追いながら話すとしょ 屋」たちを罵倒した。それが、彼らの行き過ぎや浅薄のため だけなら、まあそれもよかろう ! ところが、そうではなく て、諸君はまだその上に、彼らが不正直な人間であり、良心 諸君のいうところによると、すべての人が思想の独立不覊 のない連中であるということを、証明せずにはいられないのを口にしている現代ほど、空語空言がおびただしく氾濫した ーし ことは、かってないとのことである。それには異存ない。 だ。諸君ははかならぬそのために、あの哀歌的な号泣を上げ たのだとさえ、確信する次第である : : : もしそうでなかった かし、これは無理からぬことなのである。あり合わせのもの ら、わが国には学術がない、文学がないとくり返すことによでは何もできやしない。すべてつくり出し、生み出さなけれ って、諸君はいったいなんの益があるだろう ? それはあまばならぬ、それどころか、苦悩によって獲得しなければなら りにも陳腐なことではないか ! 諸君はもう前から、しばしぬ。そして、何もかも新規にはじまるのだ、いつもそんなふ ばそれを口にしていたものである : : : 諸君はそれどころか、 うにしてはじまるのだ。何一つとして初めから一どきに、 ロシャには国民性もない、 とさえ断言したものである : 後の言葉に達しはしない、人生における窮極の調和に到達す や、諸君にはほかの目的があったのだ。つまり、われわれのることはできなし言 、。者君はいう。「今は一見したところすべ 指摘した目的である。諸君はいらいらしておられる。われわての人が、自分自身の知性で生き、権威に跪拝しまいとし いて、ただそれがために苦慮しているかのごとく思われるにも れは諸君の癪がどこから起こったか、ちゃんと承知して る : ・・ : が、そのことは・後にしょ , フ。 かかわらず、俗悪きわまる月並主義が、今日ほど万能の権威 こうして達筆家や、迷いに陥った人たちの間に ( この点はをもって君臨したことは、かってなかった。他人の生活から しばらくのあいだ、完全に諸君に譲歩しよう ) 、ひとりとし借りて来た意見の、無意味な奴隷的反覆ばかりである」しか 部て清らかな良心を持ったものがなく、ひとりとして空虚ならし、もし地盤がなくて、活動が不可能だとしたら、前進を欲 第ぬ人間がなく、ひとりとしてまじめに働くものも、心配したする精神はアプノーマルな、秩序のない現象に表現されざる 録り苦しんだりするものもなく、思想と学術の受難者もないとを得ない。すなわち、空言を生活と取り違え、でき合いの他 しよう。しかるに諸君は、「生活がはじまると、腐敗菌も自人の公式に飛びかかり、大喜びでそれを現実に代えるだろ 論然に消えていく」といっておられるが、そういう社会の中う ! 幻想的な生活にあっては、そこに生ずることもすべて 0

9. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

4 ず、諸君の終わったところからはじめて、諸君一同を引っぱの、一つの試みにフランス人に、まあ、たとえば、勇敢とい 2 っていくのだ。われらの詩人レールモントフは、ロシャをイ 、つ点でも ー ) 、 16g 一 on d'honneur ( レジオン・ドスール動 ~ リャー・ムーロメッに譬えた。ィリャーは三十年の間、ただ章 ) に関してでもいいから、ちょっとさわってみるがいし じっと坐りとおしていたが、突如おのれの内部に勇士の力をまたイギリス人に、たといごく些細な日常茶飯的な習慣に関 意識するや否や、立って歩きだしたものである。そうした豊して、ちょっと小当たりに当たってみるがいい , 彼らがどん かな独自な能力が、なんのためにロシャ人に与えられたのだ なことをいうかわかるだろう。われわれロシャ人には、ま ろうか ? はたして何もしないためなのだろうか ? おそらあ、いわゆる文学の将軍たちを除いて、そうした神経質なと いったいきみはどこからそんなうぬ惚れを取ってき ころや怒りつばいところがないといって、なぜわれわれは自 たのか、その増上慢はどうしたことだ ? きみのあれほど自慢をしてはならないのだろう。筆者はだれにもまして、ロシ 慢した自己批判の能力や、冷静なものの見方はどこへいったヤの精神力を信ずるものである。はたしてロシャ精神は称謾 のだ ? というだろう。しかし、筆者はこう答える。われわに堪え切れないだろうか ? 否、ヨーロッパ人諸君よ ! 当 れは自分から好んで、あれほど長いあいだ自己批判をし、卑分のあいだわれわれから、諸君やわれわれ自身に関する意見 下の状態を忍んでいたのだから、今度は別の真実を忍ぶことの証明を徴さないで、その前に、もし諸君にそれだけの暇が もできるはすである、たといそれが自己批判に正反対なものあったら、もっとよくわれわれを認識するように努力せられ であっても、と。われわれが現在のごときヨーロッパ人にな たい。諸君があれほど雄々しくかっ寛大に、プログレスの新 ることができなかったがために、自分で自分をスラヴ人と称しき道へ突進していった時、われわれは諸君の失敗にロ笛を して罵ったのは、われわれの記憶に新しいところである。 鳴らし、傲慢な態度で歓声をあげ、諸君の努力に唾を吐きか が、今となって、あの時はわれわれがでたらめをいったのだ けた、とこう諸君は信じ切っておられる。否、否、われらの と自白することは、はたして不可能なのであろうか ? 筆者兄であり親しき友である諸君よ、われわれは諸君の失敗にロ は自己批判の能力を否定するものではない。むしろ愛してい笛も吹かなければ、歓声をあげもしなかった。われわれは時 るくらいで、ほかならぬその能力を、ロシャ人の自然性のよ として、諸君とともに泣いたくらいである。もちろん、諸君 き一面と見、諸君の全然もっておられぬ特質と認めるものでは今びつくりして、「お前たちはなんのために泣いたのだ ? ある。われわれはまだ長いあいだ自己批判を実践せねばならお前たちになんの関係があるのだ ? お前たちはわきのはう ぬ。それどころか、さきへ行けば行くほどひどくなるかもしで日向ばっこをしていればいいではないか ? 」とたずねるだ れない、 ということはちゃんと承知している。とはいうものろう。ああ、諸君、 とわれわれは答える、 そこが肝

10. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

諸君はロ笛が大変お嫌いである。それはもちろん、だれものずばりの名で呼ぶことができないのを見て、彼らは時とし 丿蕓するわナこ、、よ 緒君よロ笛を下の下の、恥ずて口笛を吹くこと、つまり、独善的な饒舌漢や、簡単に自己 べきことと考えておられるが、それはおまちがえのようであ満足をする活動家や、衒学主義や、文壇の順位あらそいや、 る。われわれはもう前に、『ロ笛』はわれわれにとって、む等々を大声に笑い飛ばすことを、むしろ有効と見なしている しろ有益であるかもしれない、 といった。少なくとも、われのである。彼らは時として公正を欠き、行きすぎをやり、軽 われの見るところによると、その中には、ある種の教訓、た率であり、過激であるとしても、彼らの思想は悪くない。そ いくらか多くの教訓がれはわが国の文学において新しいものである。それはわが国 とえば、諸君の剩癪におけるよりも、 存している。もっとも、諸君は癇の発作にかられて、時にのディオゲネスの樟であって、彼らはその中にかなりしつか は「ロ』のまねをしようとさえ決心することがある。しか りと、独立不覊の態度を持しているのだ。もしかしたら、わ し、諸君の怒りが、心底から、単純に笑うことを妨げるのれわれはこの笑いの意義を誇張し、詩化しているかもしれな で、その結果がどうもうまくいかないのである。われわれは いが、この場合、もしわれわれがあやまっているとしたら、 「現代人』のロ笛を吹きたがる傾向に、けっして引きずり込それは非常に不愉快なことである : もちろん、われわれは諸君の意とするところをも理解す まれはしない。あの雑誌のロ笛は時として、ひどく軽薄であ るばかりか、公平を欠いてさえいる。少なくとも、われわれる。諸君は自分の周囲に混沌を見ているので、せめて何かに はそういうふうに考える。が、とはいうものの、くり返してすがりつきたいのである。諸君はみずからを慰め、何にすが いうが、われわれは多くの点において、それを有益なものとるべきかを、知りたいのだ。諸君は自分の足下に地盤を要求 していられる。われわれは心からそれに同感したいと思って 認める。『ロ笛』はわれわれにいわせると、わが国の文学に ところが、諸君は しる、 それを信じていただきたい , おいて、ある程度ノーマルな現象でさえあるのだ。この雑誌 は昔話や、さまざまな気持ちのよい空想で、みずから慰めよ人のことを極端だとか、範を越えるとか、混沌としているな うとしない。活動家からは行動を求めて、鈍感な自己満足をどといって非難されるが、しかし諸君自身も、常軌を逸して 部排斥する。あらゆるものを、そのものずばりの名で呼んで、 おられるではないか。諸君は、素材が脆弱で、役に立たな、 、つぐいす 第を鶯として受け入れようとしない。「ロ籥を吹きたがるのにもかかわらず、何かを創造し、捏ね上げたくてたまらな 録連中」は、たとえば、自分たちがロシャ文学に参加している いのだ。諸君は、自分の素材が役に立つものだと、われわれ ということによって、わが国の文学に貢献する、ただそれだ ばかりでなく、自分自身をさえ、一生懸命に説得しようとし 論けで十分だ、などと考えてはいない。あらゆるものをそのもておられるが、それがみな単なる妄想にすぎず、諸君の捏ね鋼