時、彼自身が農奴百人ばかりの立派な村の持主になりすまし ただ断わりを食うのが怖しさに控えている。もっとも、 たのを見て、人々は開いたロがふさがらなかった ! それチェエフ氏についてはまた別の機会に、別の物語の中でもっ は、伯爵の領地からちょうど四十露里のところにあって、破と詳しく話したいと思っている。 : そうだ ! 産した昔馴染みの軽騎兵から買い取ったのである。この百人さて、これでみんな一わたりすんだらしい の農奴を、彼はすぐ抵当に入れて、一年もたった時には、更忘れていた。ガヴリーラはすっかり老いこんで、ケランス語 に近在で六十人の農奴をかかえる身分となった。今では彼もの会話は綺麗に忘れてしまった。ファラレイは立派な一人前 れつきとした地主で、その経営ぶりは類と真似手がない。彼の馭者になった。ヴィドプリャーソフはかわいそうに、とっ がどうして急にまとまった金を手に入れたのかと、みんな不くのむかし瘋癲病院に入って、そこで死んでしまったらしい 思議がっている。中には、うさんくさそ、つに、首ばかり捻っ ・ : 近日スチェパンチコヴォ村へ出向くから、必ず叔父にこ ている者もある。しかし、ミジンチコフは落ちつきすましたの男のことをきいてみるつもりだ。 もので、いっこうに疚しそうな様子もない。彼はモスグワか ら妹を呼び寄せた。それは、彼がスチェパンチコヴォへ向け て立っ時に、靴代としてなけなしの三ループリを兄にやった きわめて可憐な娘である。もうごく若いというわナこま、 ないが、おとなしくて、愛情がこまやかで、相当に教育もあ った。ただ恐ろしく臆病になりきっていた。彼女は、自分の 恩人にあたる婦人の話し相手を勤めて、始終モスクワのどこ かで、浮き草のような生活をしていたのである。今では兄を 神のように敬って、その家政を切り盛りしていき、兄の意志 を動かすべからざる法則のように遵奉しながら、自分ではす つかり幸福になったと信じている。兄は彼女に甘い顔を見せ ないで、多少虐待している形だが、当人はそんなことに気が つかないでいる。スチェパンチコヴォ村の人はすっかり彼女 が好きになっ ( 、 ハフチェエフなどは、だいぶ思し召しがあ るという噂である。彼は結婚の申込みもしかねないのだが、
ドストエーフスキイ全集 2 目次 スチェパンチコヴォ村とその住人 : 戸り、 人妻と寝台の下の夫・ : 正直な泥棒 : ・ クリスマスと結婚式 : ・ 白夜 解説 4 3 2 3 ロ絵一八五八年のドストエーフスキイ ・ 3 3 2 お 3 271
スキイが洞察力に充ちた厳正なリアリストとして事象の核心アリヨーシャも、くれないの頬をした健康な青年として作者 を精確に据えながら、しかも自分の描いている人物に芸術家から紹介されているけれど、われわれはその健康を直接彼の これに反して、ロスター 言行から感じ取ることができない。 的な愛を放射する秘密を知っていたからにほかならぬ。『ス チェパンチコヴォ村』一編を光被しているユーモアは、実にネフ大佐は見事に完成された人間像として、その濶達な男ら しい魂を読者に開いて見せてくれる。ここにこの典型の独自 この偉大な芸術家的愛からおのずと湧き出したものであっ な価値があるのだ。まことにドストエーフスキイが手紙の中 て、けっして滑檮なシチュエーションの所産ではない。 でいっているごとく、彼自身の魂を映し、その肉と血をわか ロスターネフ大佐は、「弱い、い』のシュムコフ、島非と副』 のソーニヤ・マルメラードワ、「白痴』のムイシュキン公爵、った崇高な創造である。 スト ロスターネフ大佐の性格については、かってこの人物を舞 『カラマーゾフの兄弟』のアリヨーシャらとともに、ド エーフスキイの典型の一系列をなす、いわゆる謙抑型に属す台上に演じたスタニスラーフスキイの言葉が、深い示唆を含 んでいる。前世紀の終わり頃、かのモスグワ芸術座の前身で るものである。したがって、彼の性格の根本をなすものは、 忍従、寛容、悪に対する無抵抗、人生の不幸に対して何よりある文芸アマチュア協会が、『スチパンチコヴォ村とその もまずおのれを罪びととなす精神である。しかし、ロスター住人』を脚色上演したことがある。脚色者はスタニスラーフ スキイ自身であった。前にも述べたとおり、ドストエーフス ネフ大佐が他の謙抑型と異なるところは、シュムコフやソー キイは最初この作品を喜劇として書き始めたのであるから、 ニヤのような病的な脆弱性がなく、ムイシュキンやアリヨー その中に劇的素因を発見してみずから脚色の筆を執ったスタ シャに見られる宗教的・説教者的傾向の皆無なことである。 ニスラーフスキイは、作者の本懐を達したものとい、つべきで 彼は一個の武人として磊落放胆であり、健康快活であって、 蒼白な不健全性や僧院的なファナチズムなどは影すらもなあろう。さてスタニスラーフスキイの語るところによると、 彼は性格が単純であるように、頭脳もきわめて単純であこのロスターネフ大佐の役は、俳優としての彼にとって画期 るだけに、彼の無抵抗も理論的信念といったようなものにと的なものであった。彼が役と自分自身の魂との融合一致を体 らわれていないから、自分の最高の理想が変されようとする験したのは、長い俳優生活を通じてこの時ただ一度きりだっ のを見ると、羊のごとく柔和な大佐も、奮然立って侮辱者とた。他の人々がロスターネフ大佐を評して、あまりにも単純 闘うだけの強さを蔵しているのである。この謙抑忍従と融合幼稚な人間であっておめでた過ぎる性質のために、しないで というような見方をしても、ス した健康さと男性的なカこそ、ロスターネフ大佐を同一系列も済む苦労をしている、 中の他の典型と分っ所以のものである。「カラマーゾフ』のタニスラーフスキイはそれにまったく同意することができな
リスト、卓越した性格俳優として知られたモスクヴィンが、 かった。大佐の不安や興奮の因となるものは、すべて人間的 フォマー・オピースキンの役を演じて、驚嘆すべき典型を舞 高潔心の見地から見て重要なことばかりであるように感じら れた、とこんなふうに彼はその著「芸術におけるわが生涯』台に再現して見せたことを付記しておくのも無駄ではなかろ の中で告白している。これはきわめて興味ある報告で、一見う。 したところ誇張のように思われる大佐の善良な単純さも、そ全体として「スチェパンチコヴォ村とその住人』は、終始 の実は作者が徹底した人間観察の中から汲み取って蒸溜した一貫して明朗健康な調子で塗り上げられ、一点の暗い影をも ドストエーフスキイとしてはほとんど唯一 ものにほかならぬことを、舞台の天才が自分の肉体によってとどめていない、 直覚したのである。実に天才こそは天才の正しき理解者であの作品である。ことに終末においてカタストロフがハ、 るといわねばならぬ。その後、約四半世紀を経た一九一六 イ・エンドと化した時、酔漢コローフキンを点出して、その 年、文芸アマチュア協会がモスグワ芸術座に発展したのみな退場後に一同のホメロス的な爆笑で幕を閉じた技巧に、筆者 らず、世界的存在にまで成長した時、「。スチェパンチコヴォ は心からの尊敬を捧げずにはいられない。否、これは技巧な 村』がその檜舞台に再演せられたが、この頃スタニスラーフどという言葉で抱擁しきれないほど、あまりにも見事な芸術 スキイはすでに舞台に立たなくなっていたので、ロスターネ上の輝かしい勝利である。この笑いは、作中人物一同の、そ フ大佐の役はマッサリチノフが演じた。なお、優れたジャン して作者自身の魂の底から奔騰したよろこびの凱歌であっ て、太陽のごとく全編を照らし生かす強烈な力をもってい る。また、エビローグを飾るタ立後の庭園の描写も素晴らし これはロスターネフ大佐の美しい魂と、単純にして複雑 な感情や心理が、内面的音楽となって流れ出たものであると 同時に、ドストエーフスキイの有する光明的なもの、美しき ものが、もっとも純化された形で旋律を奏したものである。 作者はこの作品の欠点として冗長ということを気にしてい るが、ここにはいささかの冗漫もない。すべてが芸術的均衡 をえて楽しい諧和をなしている点、ただ「永遠の夫』と比肩 しうるのみである。 最後に特筆すべきは、この二二四頁ページの長編がわずか スタニスラーフスキイ
米川正夫全訳 愛蔵決定版 ドストエーフスキイ全集 全 20 な・別巻 1 巻 ート 定価 980 円 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 貧しき人々 / 分身 / プロハルチン氏 / 主婦 / ポルズンコフ / 他短編 1 編 スチェパンチコヴォ村とその住人 / / 弱い心 / 正直な泥棒 / 白夜 / 他短編 2 編 虐げられし人々 死の家の記録 / ネートチカ・ネズヴァーノヴァ 地下生活者の手記 / 初恋 / 伯父様の夢 / いやな話 / 夏象冬記 / 鰐 悪霊 ( 下 ) / 悪霊攤ノート / 永遠の夫 悪霊 ( 上 ) 白痴 ( 下 ) / 白痴創作ノート / 賭博者 白痴 ( 上 ) 罪と罰 / 罪と罰創作ノート 未成年 / 未成年ノート カラマーゾフの兄弟 ( 上 ) カラマーゾフの兄弟 ( 下 ) / カラマーゾフの兄弟 創作ノ 14 ・ 15 作家の日記 ( 上 ) ( 下 ) 16 ・ 17 ・ 18 書簡 ( 上 ) ( 中 ) ( 下 ) 19 ・ 20 論文・記録 ( 上 ) ( 下 ) 別巻米川正夫著ドストエーフスキイ研究
スチェパンチコヴォ村とその住人 一度も破らなかったと いると、同じように笑い出さずにはいられなかった。 わが良心と名誉にかけて 「これはね、お父様、滑稽詩なのよ ! 」自分の子供らしい計 立派に誓えるのだからなあ 圃に、いから夢中になった様子で、彼女は叫んだ。「それはみ まるまる九年のその間 んなわざとなのよ。作者がみんなをおかしがらすように、わ 牛乳のほかは何一つ ぎとそんなことを書いたのよ、お父様」 喉を通しはしなかった ! と 「ははあ ! 滑稽詩か ! 」満面を笑み輝かしながら、叔父は また叫んだ。「つまり、コミックな詩なんだね ! なるほど 「なんという間抜けだ ! 」とまた叔父がさえぎった。「九年 道理で : ・ : ・まったく、まったく滑稽詩だ ! 実におかしい、 間、牛乳ばかり飲みつづけたのを、気休めにするなんて ! 本当に笑わせる。何かの誓いのために、軍隊を牛乳攻めにし : いったいそれがなんの自慢になるのだ。たとい毎日、 て、弱らしてしまうなんて ! そんな誓いをたてる必要がど そうじゃないかね、フォ羊を一匹ずつ食べたところで、軍隊を干乾しにしないほう こにあるんだ ! 実に奇抜だ ・か十 ( ーレドしゃよ、、 . / しカ ! 素敵だ、大出来だ ! わかったよ、 マー ? これはね、お母さん、特別な滑稽詩で、ときどき作 ・ : なんと 者がこんなものを書くんですよ、そうじゃないか、セルゲ今こそわかったよ。これはサタイヤだ、それとも : いったつけな、アレゴリーだったかな ? ことによったら、 イ、ときどき書くのだろう ? まったく滑檮だ ! さあ、さ だれか外国の将軍をあてこすったのかもしれないね」叔父は あ、イリューシャ、その次はどうだね ? 」 意味ありげに眉をひそめ、目を細くしながら、わたしに向 かってこういい足した。「え ! お前はど、つ田 5 、つ ? しか し、むろんだれも腹のたたないような、無邪気で上品な諷刺 だ ! 素敵だ、素敵だ ! それに、第一、上品だ ! さあ、 ィリューシャ、さきをお読み ! ああ、お前たちは悪戯者だ な ! 」彼はサーシャを眺めると同時に、顔をあからめて徴笑 しているナスチェンカのほうを盗み見しながら、情けのこも った声でいった。 「好の言葉に勢いづいて 「十と九人を残すのみ ! それを集めてゴメッツは いって聞かせた。『十九人の者どもよ ! ありとあらゆる旗を靡かし ラッパを高く吹き鳴らし 太鼓の音も勇しく ハンパを退却しよ、つじゃないカ われらは城こそえ取らなんだが 自分で自分にたてた誓いを
トエーフスキイが初めて開拓した領域である虐げられたる人境遇は、たちまち一変した。母の意志を絶対に神聖なものと 人のグループに属する一人であるが、彼によって描かれたこして服従する未亡人の息子ロスターネフ大佐の純真な性情を の種の典型が、同じ「スチェパンチコヴォ村』の登場人物で利用して、彼は大佐一家に太陽のごとく君臨する身となった あるエジェヴィーキンのように、おおむね自己卑下と自尊心のである。そして、過去においてはずかしめられた自尊心に の相剋による空しい無力の反抗と、消耗性の呪詛と、道化め対する復讐として、かっての道化は、今や他人を道化として いた嘲笑の範囲に局限されているのに対して、これは不思議おのれの前に跪拝させ、無限の権力を有する暴君として周囲 な運命の悪戯によって無限の権力を掌握し、命令者の地位にのものをはずかしめ嘲笑する。しかも、往時充たされなかっ 置かれた人生の敗残者であって、そこに、この人物が他の類た思想界文学界への野望は、従順なロスターネフ大佐一家の 型と截然と区別される特異性が存するのである。彼は哀れむ人々に対する鈍重凡庸な教訓の中に、はかない自己満足を見 べき凡才のゆえ出すのである。読者はその愚劣をきわめた横暴ぶりと、唾棄 に文学的野心にすべき醜い偽君子ぶりと、それに対する大佐の度を超えた忍 失敗した後、一耐と寛大さを見て、時に義憤を感じ、時に驚き呆れるけれ 個の食客・道化ど、しかし不思議にも、心から彼を憎悪し呪詛する気にはな にまで成り下っらない。それは作品の基調となっているユーモアによって緩 チ絵 ッしたけれども、彼和されているというよりも、作者が、オビースキンの愚劣で = のを虐げていた保卑小な魂の中に潜んでいる、悲しくも哀れな誠実味をしつか 画の碌した無知な未である。 ンそ ジと亡人から一種不といっても、ドストエーフスキイはけっして、「こんなや ラ村 カオ可解な崇拝を受くざな卑劣漢の中にも、やはり人間的な魂がある ! 」といっ Z コけるよ、つになっ たような、安価な人道主義の押売りをしているわけではな たため、今までい。彼は最後まで終始一貫して、オピースキンを俗悪で鈍感 惨めな食客であな愚物として取り扱っているのである。にもかかわらず、人 り道化であったをして嫌悪や反感の念を起こさせないのみならず、全編に陰 オビースキンの鬱な色調の跡すらもとどめていないのは、作者ドストエーフ を
「わたしはこの秘密を吹聴したら」とフォマーは負けずに金潔無垢だった処女を、淫奔無比な女にしてしまったのです 切り声をたてた。「それこそ高潔きわまりない行為をするこぞ ! 」 フォマーが最後の一言をいい切るか切らないかに、叔父は とになるんです ! わたしは全世界の陋劣醜悪を暴露するた めに、天帝からこの世へ遣わされた人間なんですぞ ! わたその両肩に手をかけ、まるで藁しべのように、くるりと向き しは百姓小屋の藁屋根の上に昇って、そこからあなたのいむを換えたかと思うと書斎から庭へ通するガラス戸へ、カまか しいと思せに叩きつけた。その勢いが激しかったので、閉まっていた べき所業を、近在の地主や通行人一同に知らせても、 っておるー : さあ、皆さん聞いてください、ゆうべわた戸がさっと一杯に開いて、フォマーは石段の七つの段を独楽 しは庭の繁みの陰で、虫も殺さんような顔をしているこののように転がり落ち、地べたへ大の字なりになってしまっ 娘が、大佐といっしょに忍んでおるところを見つけたのですた。粉徴塵に砕けたガラスは、がらがらと階段に飛び散っ ) 0 「ああ、なんて恥さらしでしよう ! 」と、ペレベリーツイナ 「ガヴリーラ、あいつをつれて行け ! 」と叔父は死人のよう に真っ青になってどなった。「あいつを馬車に乗せて、二分 嬢が黄いろい声で叫んだ。 「フォマー 以内に、こいつの匂いがスチェパンチコヴォ村にしないよ、フ 自分で自分の破滅になるようなことをしない にしてくれ ! 」 かいいぞ ! 」両の拳を握りしめ、目をぎらぎら輝かせなが フォマー ら、叔父はこうどなった。 ・フォミッチが何を企んでいたにもせよ、こうし : ところが、大佐は」とアオマーは金切り声を絞った。 た結末ばかりは夢にも思いがけなかったに相違ない。 「わたしに見つけられたのにびつくりして、出たらめの手紙 こういう出来事が起こってから、最初二、三分間の一座の 人でわたしをごまかそうとした、 正直で一本気なわたしを様子は、改めて書き立てないことにしよう。将軍夫人は肘掛一 さよけいすにのけぞりながら、胸をひき裂くような悲鳴を発する のごまかして、自分の犯罪を黙過させようとした、 とう、確かに犯罪ですわい ! : なぜといって、今まで純潔無し、ペレベリーツイナ嬢は、今までおとなしかった叔父が、 垢だった処女を誘惑して : ・ : ・」 思いがけなくこんなことを仕出かしたので、呆気にとられて 「もう一言このひとを侮辱するようなことをいってみろ、棒だちになってしまうし、居候の女たちは、かわるがわる溜 チ ン わたしはきみを殺してしまうぞ、フォマー これは真剣め息を洩らしていた。ナスチェンカは、卒倒しそうなほど慴 にいってるんだから , えあがったので、父親はそのそばを心配そうにうろうろして ス「その一言をいわずにはおきませんわい。あなたは今まで純 いた。サーシェンカは恐ろしさのあまり、気が遠くなってし
「ええ、 , つるさ い ! 」スチェパン・アレグセーイチははあは ロ > 子ノ あ息をきらしながら、やっとのことでこういった。あまり肥 「無分別な人ね ! 」彼女はあだつばいしなをつくりながら、 りすぎて、すっかり歩くことを忘れてしまったのである。 こう言うと、すぐに扇子で顔を隠してしまった。 「全速力でかっとばせ ! 」とミジンチコフは馭者にいいつけ 「なあんだって ? 」と太っちょはどなった。「なんですって、 マダム ? 今度はいよいよ、わしにまで手を伸ばしなさるのた。 とめろ ! 」と叔父が 「きみなにをいうんだ、とんでもない、 「無分別な人 ! 無分別な人 ! 」とタチャーナ・イヴァーノ叫んだけれど、馬車はもうまっしぐらに走り出していた。ミ ジンチコフの魂胆は図にあたった。すぐに望みどおりの結果 ヴナはいったが、急にからからと笑い出して、手を叩いた 「とめろ ! 」と・ハフチェエフは馭者にどなりつけた。「とめが現われたのである。 「待て ! とめろ ! 」こういう絶望的な悲鳴がうしろから 車は停まった。・ハフチェエフは扉を開けて、せかせか馬車聞こえた。「とめろ、悪党め ! 待ってくれ、この人殺し を降り始めた。 やがて、へとへとに疲れきった太っちよが、半死半生の体 「いったいきみはどうしたんだね、スチェパン・アレグセー でやって来た。額には玉なす汗を流しながら、ネグタイを外 イチ ? どこへ行くんだ ? 」と叔父は驚いて叫んだ。 し、帽子も脱いでいた。彼は無言のまま、むずかしい顔をし 「いや、もうたくさんだ ! 」と、憤慨のあまり全身を顫わし ながら、太っちょは答えた。「世界中のものが何もかも腐って、馬車に乗りこんだ。今度はわたしが自分の席を譲った。 こうすれば、タチャーナの向こうに坐らなくてすむわけであ そんな色事を持ちかけられるにや、わし てしま、つ力ししー は少し年をとりすぎましたよ、マダム。そんな目に遭うよる。タチャーナはこの出来事の間じゅう、転げ転げ笑いなが さようなら、手を叩いて喜んでいた。そして、家へ帰るまで、ステ工 、っそ街道で野たれ死にしたほうがましだ ! ハン・アレクセーイチを無関心な目で見ることができなかっ ら、マダム、コマン・ヴ・ポルテ・ヴ ! ( ご機嫌いかがですか ! ) 」 彼は本当にてくてく歩き出した。馬車はその後から並足でた。ところが、彼のほうは、初めからしまいまで、ひと一「〕も 口をきかないで、馬車の後輪がくるくる廻るのを、じっとし 進んだ。 「スチェンパン・アレクセーイチ ! 」叔父はとうとう我慢しつこく眺めつづけるのであった。 きれなくなって、大声にどなった。「ばかな真似はもうたくわたしたちがスチェパンチコヴォ村へ帰ったのは、もうひ る頃だった。わたしは真っすぐに離れへひきあげた。する さんだ、早く乗りたまえ ! 帰りが遅くなるじゃないか ! 」
筈をきめているのだった。それは嫁き遅れた老嬢で、何かし 、とわたしは腹の中で固くきめていたので、あの不幸なと はいえ興味のある娘に結婚を申し込んで、彼女を幸福にして ら突拍子な経歴を持った、半気ちがいのような女だったが、 ほとんど五十万ループリからの持参金を持っているので、将やろう、などというようなことを考えたのである。しだいに、 軍夫人はもうさっそくこの女に、自分たちは親類同士の間柄わたしは感激に駆られて、すっかりいい気持ちになってしま だからといって、自分の家へ招き寄せたのであった。叔父は った。なにぶん年は若いし、これといってすることもないの もちろん、いても立ってもいられないほど苦しんでいるが で、疑惑の心境から一躍して、反対の極に飛び移ってしまっ 結局、この五十万ループリの持参金と結婚するに相違ないらた。少しも早くいろいろな奇跡や功業を現わそうという、烈 しい希望に燃えたのである。わたしは無垢な美しい処女を幸 しかった。ところで、将軍夫人とフォマーの知恵者両人は、 哀れな頼りない家庭教師に恐ろしい迫害を加え始め、一生懸福にするために、、 しさぎよく自分を犠牲に供することによっ 命に彼女を家の中からいびり出そうとしている。それはたぶて、並々ならぬ任侠を示すようにさえ感じられた ん、大佐が彼女に恋するようなことはないかと、い配したがこ く、わたしは旅行の間じゅう、すっかり自分で自分に満足し め、いや、ことによったら、すでに恋しているがためかもしきっていた。それは七月で、太陽はさんさんと輝き、熟しか れない。 この最後の言葉はわたしを卸天させた。もっとも、 かった麦の野が際涯もなく広がっている : : : わたしは長いこ 叔父はじっさい恋しているのでないかというわたしの問い とペテルプルグに蟄居していたので、今はじめて本当に神の に対して、その人は正確な返事ができなかった。或いは、す世界を覗いたような気がしたのである。 ることを欲しなかったのかもしれない。全体として、彼の話 はロ数が少なく、大儀そうで、詳しい説明を避けているのが ハフチェエフ氏 ありありと見えすいていた。わたしは考えこんでしまった。 この報知は不思議にも、叔父の手紙とその申入れに矛盾して わたしはもう旅行の目的地に近づきつつあった。スチエバ いるではないかー : しかし、もうぐずぐずしている場合でンチコヴォ村までもう十露里しかないという小さな町を通 はなかった。わたしはすぐスチェパンチコヴォ村へ出発しより抜ける時、馬車の前輪が破損したために、町の入口に近い うと決心した。そして、単に叔父を諭して慰めるばかりでな鍛冶屋へ寄らねばならなかった。あと十露里の旅行のためだ から く、できるだけ彼を救うように努力しよう、つまりフォマー 、い川減に車輪を付けておくのは、そう手間ひまかか を追い出して、いまわしい老嬢との結婚をぶち壊してしまおらない。で、鍛冶屋が仕事を終えるまで、どこへも行かない う。それに、叔父の恋云々はフォマーの言いがかりにすぎなで待っていることにして、馬車から出た時、わたしは一人の