「たくさんだよ、アルカージイ、もうたくさんだよ」と彼はは期限にゆとりがつけられるらしいせ。ュリアン・マスタコ いった。「このことはもう解決がついているのだ。なに、仕ーヴィチは催促なんかしないかもしれない。そしたら、何も かも救われるのだ」 事が片づかなかったんだから、それでいいのさ。片づかなか ヴァーシャは危ぶむように首を振った。けれども、感謝す ったものは、片づかなかったものさ。きみに行ってもらうま でもない、ー まくが自分で出かけて、自分ですっかり話してしるような眼ざしを、親友の顔から離さなかった。 「まあ、たくさんだよ、たくさんだよ ! ばくはすっかり疲 まうよ。今こそもうすっかり落ちついた。もう本当に平気だ よ。ただ、きみが行くのだけはよしてくれ : : : ね、これだけれて、ぐったりしちゃった」と彼は息切れのする声でいっ は聞いてくれたまえ : ・・ : 」 こ。「ばくは自分でもそのことを考えたくないんだよ。さ ばくはね、いま筆写の 「ヴァーシャ、本当にきみはかわいい男だ ! 」とアルカージあ、ほかの話をしようじゃないカ イは嬉しまぎれに飛びあがった。「ばくがいったのも、きみほうもしないかもしれないよ。ただちょっと一、二ページ書 のいうのと同じだ。きみが考え直して、気を取り直してくれいて、どこか切までいったら、それでおしまいにするんだ。 たので、ばくも嬉しいよ。たとえきみがどうなろうとも、きねえ、きみ : : : ばくは前から聞こうと思っていたんだが、ど みの身の上に何が起ころうと、ばくはきみの傍についているうしてそんなにばくをよく知っているんだね ? 」 ヴァーシャの目からは涙が流れ出して、アルカージイの手 よ、それを忘れないでくれ ! どうも見たところ、きみはば くがユリアン・マスタコーヴィチに何かいやしないかと、そにばたばた落ちた。 「ヴァーシャ、ばくがどのくらいきみを愛しているか、それ だからばくもいわない、な れを気にかけているらしい んにもいやしない。きみが自分で話すさ。ね、きみあす行っをもしきみが知ってくれたら、そんなことをたずねはしなか わ、、、年ノよ、、 きみは行かないで、ここでったはずだ、 そうだよ ! 」 て来たまえ : : : い わかったかい ? ばくがあちらの様「そうだ、そうだ、アルカージイ、ばくはそれを知らないん 書いていたほうがしし だよ。だって : : : だって、なんのためにそれほどまでにばく 子を探って、これがいったいどんな仕事か、非常に急ぐのか どうか、必す期限までに仕上げなくちゃならぬものか、もしを愛してくれるのか、合点がゆかないんだもの ! それに、 期限を遅らしたら、どうなるものか、その辺のところを嗅ぎアルカージイ、きみは知らないだろうが、きみの愛情さえば くには苦痛だったんだよ。実はね、ばくは幾度となく、 出して来よう。そして、きみのとこへ報告に駆けつけるよ : ね、わかったろうー どうもそこに一脈の望みがあることに夜、寝床に入る時、きみのことを考えながら ( たっ よ、ね、どうもこれは至急の仕事じゃないらしい 少して、ばくはいつも寝る時、きみのことを考えるんだものね ) 、
アーシャを見ているうちに、すっかりまごっいてしまった。 一分ばかりたってから、彼は一つの希望に勇気づけられ て、急に椅子から躍りあがった。『あいつは仕事をすました コロムナの様子を聞くと、ヴァーシャは元気づいて来た。 そして、調子づいておしゃべりまでするようになった。二人んた』と彼は考えた。「それだけのことなんだ。それで我慢 は食事をすました。老母がアルカージイ・イヴァーノヴィチしきれなくなって、あすこへ駟け出して行ったのだ。もっと のポケットへ、ビスケットをいつばいつめこんでくれたので、も、違うかな ! それにしても、ばくの帰りくらい待ちそう なもんだ : ・ ・一つどうなっているか見てやろう』 二人の親友はそれを食べながら、すっかり浮き浮きして来た。 食事のあとでヴァーシャは一寝入りして、その後で徹夜する彼は燭に火をつけて、ヴァーシャの仕事机のほうへとん と誓った。彼は本当に横になった。翌朝アルカージイ・イヴで行った。見受けたところ、仕事はかなり進んで、しまいま アーノヴィチは、断わり切れない義理のある人からお茶の招でいくらも残っていないらしかった。アルカージイ・イヴァ ーノヴィチはもっと詳しく調べようと思ったが、そこへ不意 待を受けた。二人の親友はまた別れ別れになった。アルカー ジイはなるべく早く、もしできたら八時頃に帰って来ると約にヴァーシャが入って来た : 「ああ ! きみはここにいたのか ? 」驚きのあまりびくっと 東した。三時間の別れは彼にとって、三年くらいの長さに思 われた。彼はやっとのことで、ふりきるようにして帰って来しながら、彼はこう叫んだ。 アルカージイ・イヴァーノヴィチは黙っていた。ヴァーシ 。部屋へ入ってみると、中は真っ暗だった。ヴァーシャは 家にいなかった。彼はマヴラに様子をたずねた。マヴラの話ヤに様子を聞くのが、恐ろしかったのである。こちらは目を によると、ヴァーシャはまんじりともしないで、のべっ書き伏せて、無言のまま書類を調べ始めた。とうとう一一人の目が 通していたが、やがて部屋の中をこっこっ歩き出して、とう出会った。ヴァーシャがなんともいえない祈るような、哀願 とう一時間ばかり前に、三十分たったら帰って来るといっするような、叩きのめされたような目つきをしていたので、 アルカージイはその目を見ると、思わずぎつくりした。彼の て、駆け出してしまったとのことである。 「そしてね、アルカージイ・イヴァーノヴィチが帰ってみえ心臟はいつばいになって、おののきはじめた : 「ヴァーシャ、きみ、、つこ、 ' しオしとうしたのだ ? なんという たら」とマヴラは言葉を結んだ。「おれは散歩に出かけたと いってくれ、とこうおっしゃいましてね、三度も四度も念をことだ ? 」親友のはうへとんで行って、両の腕に抱きしめな がら、彼はこう叫んだ。「よく納得のゆくように話して聞か お押しになりました」 してくれ。ばくにはきみの気持ちがわからない、きみのくよ 『アルテーミエヴァのとこへ行ったんだ』とアルカージイ・ くよするわけがわからない。いったいどうしたというんだ ? イヴァーノヴィチは考えて、首をふった。
「ばくはただちょっと、その、散歩しようと思って」 「そうだ、そうだ、アルカージイ。だけど、今はそれとちが 「辛抱し切れないで、コロムナへ出かけたところなんだろうんだよ。今はまるつきり別のことなんだ : う ? ああ、ヴァーシャ、ヴァーシャー いったいなん「何が別なことなもんか。とんでもない ! それに仕事だっ だってきみはユリアン・マスタコーヴィチのとこなんかへ行て、何も急を要することじゃないかもしれないのに、きみは ったんだ ? 」 自分で自分の体を毀しているんだよ : : : 」 ヴァーシャは返事をしなかった。しばらくたって、片手を「なんでもないよ、なんでもないよ。ばくはただちょっと 一つ振りながらこういった。 さあ、帰ろう ! 」 「アルカージィー 「なんだって家へ帰るんだ、あすこへ行くんじゃないのか ばくは自分ながら、自分がどうなってい るかわからないんだよ ! 「たくさんだよ、ヴァーシャ、たくさんだよ ! それがどう「駄目だよ、きみ、どのつら下げてあそこへ行けると思う ? いうことだか、ばくにはちゃんとわかっている。気を落ちっ : ばくは考え直したよ。ばくはきみがいなくなると、一人 けてくれ ! きみはきのう以来興奮して、気が顛倒しているばっちで辛抱しきれなかったのさ。今度はもうきみがついて んだよ ! よく考えて見たまえ、え、どうしてそのくらいのてくれるから、ばくも腰を落ちつけて書くよ。さあ、帰ろ 辛抱ができないんだ ! みんながきみをかわいがって、きみう ! 」 のためにやきもきしているんだから、きみの仕事も捗がいく 二人は歩き出したが、しばらくのあいだ黙っていた。ヴァ わけじゃよ、、。 オし力あんな仕事なんかすぐ片づくよ、きっと片 シャは道を急いだ。 づくよ。ばくが請け合っておく、きみは何か変な妄想を起こ 「なんだってきみはあすこの様子を聞こうとしないんだ しているんだよ。何か恐怖病にかかっているんだ : し ? 」とアルカージイ・イヴァーノヴィチはいっこ。 「違う、なんでもありやしない、なんでもありやしない : 「ああ、そうだー どうなんだね、アルカーシェンカ ? 」 「覚えているだろう、ヴァーシャ、覚えているだろう。きみ「ヴァーシャ、きみはまるで普段と人が変わってるようだ は前にもそんなことがあったじゃないか。ほら、ね、きみがよ ! 」 任官した時、嬉しさのあまりお礼心に、 仕事に馬力をかけ過「なあに、なんでもないよ、なんでもないよ。すっかり話し ぎて、一週間ばかりというもの、ただ仕事をぶちこわす一方て聞かせたまえ、アルカーシャ ! 」ヴァーシャはそれ以上の いだったじゃよ、 オしか。今もそれと同じことになっているんだ 追求を避けるように、哀願するような声でこういった。アル カージイ・イヴァーノヴィチはほっと溜息をついた。彼はヴ
もしこれが・ 、さ、行ってくれ、かまわないか ない家庭内のちょっとした不快事を、自分一人で仰山に不幸 B ら」とヴァーシャは、つこ。「ばくはね、ユリアン・マスタ 化しているのに、自分でも気がっかないで、アルカージイは コーヴィチのとこへは、断然ゆかないことに決めたよ」 こんなことを口走っていた。やっと十一時頃に、彼はユリ 「じゃ、失敬 ! 」 アン・マスタコーヴィチの玄関に入っていった。縦横に書き 「ちょっと、きみ、ちょっと待って。あの人たちによくいっ つぶされて、インキのしみだらけになった紙の上に、年賀に てくれ : : : まあ、なんでも、 しいよ。きみの頭に浮かんだこと来た名士たちが残していった長い署名の列に、自分のつつま をね。それから彼女を接吻してくれたまえ : : : そして、帰っしい名前を書き添えるつもりなのであった。ところが、彼の てから様子を話して聞かすんだよ、すっかり何もかも : : 」驚きはどうだったろう。ヴァーシャ・シュムコフが自分の手 「うん、そりやもういうにや及ぶさーーーそんなことわかり切で書いた署名が、ちらりと目に映ったのである ! これに ってるじゃよ、 オしか ! それはね、幸福のあまりにきみの頭がは、彼も面くらってしまった 『あいつ、 しュ / しンっーし でんぐり返っているんだよー これは実に意想外だ。きみは たんだろう ! 』と彼は考えた。つい先ほどまで希望に胸を躍 昨日からまるで別人のようだぜ。つまり、きのう受けた印象らしていたアルカージイは、すっかりしょげ返って外へ出た。 で興奮した頭を、休める暇がなかったわけさ。まあ、これではたして、災難が降って湧こうとしているのだ。しかし、そ 片づいた ! よく気分を落ちつけたまえ、ヴァーシャ、、、 。したいどこで、またどんな種類のものだろう ? 子だからー じゃ、失敬、失敬 ! 」 彼は暗い思いに閉ざされながら、コロムナへやって来た。 二人の親友はやっと別れ別れになった。アルカージイ・イ初めの間は、なんとなくばんやりしていたが、 ーザンカと ヴァーノヴィチは午前中そわそわして、ただヴァ シャの少し話をして外へ出た時には、目に涙を浮かべていた。ヴァ ことばかり考えていた。彼は親友の苛立ちやすい、し ーシャのことがなんとも心配でたまらなかったからである。 格を知り抜いていたのである。『そうだ、あれは幸福のあま彼は駆け足でわが家へ向かった。すると、ネヴァ河の上で、 りに頭がでんぐり返ったのだ、おれの観察は間違っていな ほとんど鼻と鼻をぶつつけないばかりに、シュムコフに行き い ! 』と彼は独りごちた。『ああ、なんということだ ! あの当たった。ヴァーシャもやはり駆け足だった。 男のおかげで、おれまでくさくさして来た。あいつは、ど 「きみ、どこへ行くんだい ? 」とアルカージイ・イヴァーノ んな下らないことでも、一大悲劇にしてしまうたちだからヴィチは叫んだ。 な ! まるで熱病やみだ ! いや、あいつは救ってやらなけ ヴァーシャは犯罪の現場を押えられたような顔つきで足を りゃならない。救ってやらなきや ! 』実際のところ、つまら止めた。
で睨んだのを見て、ヴァーシャはこうさえぎった。「あんな「ねえ、ばくにもいい考えが浮かんだよ。まだ希望があるよ」 ものはなんでもありやしない。あんな紙に字を書いたもの彼はアルカージイに、につこり笑ってみせた。その蒼白い 顔は、本当に希望の光で生き返ったように思われた。 なんか : : : 屁でもないさ ! それはもう決着した問題だ : 「それはこうなんだ、ばくあさって仕事を持って行くが、た ばくはね、アルカーシャ、今日あそこへ行って来たんだよ : ところが、内へ入らなかった。ばくは苦しいような、悲だし全部じゃないんだ。残りの分は焼けてしまったとか、水 しいような気持ちがしてね ! ただ戸口に立っていたばかりで濡らしたとか、なくしたとかいって、嘘をつくんだ : : : そ れとも、やはり書き上げられなかったというかな。ばくは嘘 なんだ。彼女がビアノを弾いていたので、ばくはそれを聞い きみ、 ていたよ。実はね、アルカージイ」と彼は声をひそめながらがつけないんだから。ばく、自分で釈明しよう、 つまり、何もかもいってしま , っ なんとい、つかわかるかい ? 、った。「ばくは中へ入る勇気がなかったんだよ : 「おい、ヴァーシャ、、 > ったいどうしたんだ ? そんな変なんだ。かようかようの次第で書けませんでした、とぶちまけ るのさ : : ばくの恋愛事件も話してしまうよ。あの方だっ 目つきでばくを見てさ ? 」 ばくは少し気分て、近頃結婚したばかり、だからばくの気持ちをわかってく 「なんだって ? なんでもありやしないー むろんそれは慇懃に、しとやかにやる が悪いんだよ。足ががくがくする。それは徹夜したせいなんださるに相違ない ! ものが緑色に見えるくらいだ。ばくはんだよ。あの方はばくの涙を見て感動される : : : 」 だ。そうなんだよー 「そりやもちろんいいことだ。行きたまえ。あの方のところ ここが、」こんところが : へ行って、ちゃんと話をつけたまえ : : : それに、何も涙なん 彼は心臓を指さして見せた。と、そのまま気絶してしまっ そんなものが何になる ? ヴァ かの必要はありやしない ! ーシャ、きみはまったくばくの度胆を抜いてしまったぜ」 彼が正気に返った時、アルカージイは無理に応急の処置を 取ろうとした。カずくでペッドの中へ寝かせようとしたので「ああ、ばくは行くよ、本当に行くよ。だが、今は書かして ある。けれども、ヴァーシャはいっかな承知しなかった。彼くれ。ばくに書かしてくれ、アルカーシャ。ばくはだれの邪 は両手を折れよとばかり揉みしだきながら、泣いて仕事をす魔もしないから、まあ、書かしてくれ ! 」 アルカージイはべッドの中へ飛び込んだ。彼はヴァーシャ るといい張った。予定の二ページを是が非でも書き上げるの だといって聞かなかった。あまり興奮させないために、アルの言葉を信じなかった、毛筋はども信じなかった。ヴァーシ ヤはどんなことでもしかねない人間だ。しかし、ゆるしを乞 カージイは彼を書類の前に坐らせた。 うにしても、どういう点をどんなふうに詫びるのだろう ? 「ねえ」自分の席に着きながら、ヴァーシャはこういった。
が起こるかもしれませんものね。いえ、これは余計なことでだ。 「たくさんですわ、誓いなんか立てないでください。だ すわ : : : ひと口にいいますと、あたしただあなたにお会いし たいんですの : : : あなたにひと言いいたいことがありまして、あたしにはちゃんとわかってるんですもの、あなたは火 て。でもね、こういったからって、あたしを悪くお思いにな薬みたいに爆発しやすいたちなんですもの。こんなことを申 し上げるからって、どうか悪くお思いにならないでね。もし っちゃいやですよ。あたしが軽々しく逢びきの約東をしたな んて、お思いにならないでね : : : あたしこんなお約東なんかあなたが事情をごそんじでしたら : : : あたしもやつばり話相 ・ : しかし、これはあたし手が、相談相手がだれもないんですの。もちろん、往来で相 したくなかったんですけど、ただ : ただこれから先、守っていた談相手をさがすなんてないんですけど、あなたは例外です の秘密にしておきましよう ! わ。あなたって人は、まるでもう二十年からお友だちだった だきたいことがありますの : : : 」 ってください みたいに、よくわかるんですものね : : : よござんすね、約束 ってください、し 「守ることですって ? い に背きはなさいませんね ? 」 、。まくはなんでも承知で 前にすっかりいっておいてくださし ~ : ただばくはせめてこの一昼夜だ 「まあ、見てらっしや、 す。どんなことでも心構えしておきますから」とわたしはう ちょうてんになって叫んだ。「ばくは自分に対して責任を持けでも、無事に生き延びて行けるかどうか、それが心配なん ちます。ーー・従順で、慇懃な態度を取ります : : : あなただつです」 さよなら、 でもね、あた 「ぐっすりとおやすみなさい、 て、ばくって人間がおわかりでしよう : 「わかっていればこそ、明日いらっしゃいと申し上げてるんしがもうあなたを信用したことは、覚えていてくださいね。 ですわ」と娘は笑いながらいった。「ようつくわかっていまさっきあなたが叫び声をお立てになった、あれがとても感じ がよかったんですもの。人間って一つ一つの感情を意識する すわ。でも、よくって、いらっしやるにつけては、一つ条件が ありますの、第一に ( ただね、お願いですから、あたしのおわけにいかないでしよう。たとえ同胞としての憐憫だって も ! まったくよ、あれをおっしやったその言い方が本当に ほら、あたし明け 願いすることを実行してくださいね、 よかったので、これは信頼できる方だって考えが、すぐ頭に すけにいってるでしよう ) 、あたしに恋しないでくださいよ ・ : それは駄目なんですから、はっきり申し上げておきます浮かんだんですわ : : : 」 いったいどういうことで 「後生です、聞かしてください、 けど。おともだちのお付合いはけっこうよ、さあ、握手しま ーノよ、つ : ・ : ただ恋だけは駄目、これがあたしのお願いなの ! 」す、なんの意味です ? 」 「それはばく、誓います」とわたしは彼女の手を取って叫ん「また明日。今のところそれは秘密としておきましよう。そ 3 0
彼はきっと い仕事を片づけたのに満足し、教室のべンチから解放されって来ましたか ? ときいてごらんなさい、 大喜びなどこを通ったかも、今どこに立っているかも、思い出すこと て、好きな遊戯ゃいたずらに急ぐ小学生みたいに、 まいましさに顔をあからめ、なんとか体裁 のです。まあ、ナスチェンカ、彼の様子を横から見てごらんができないで、い なさい。そのよろこばしい感じが彼の弱い神経や、病的に苛をつくろうために、何か出たらめをいうに相違ありません。 立っている空想に、早くも作用しているのが、一目でわかるこういった次第で、一人のとても上品な老婦人が、うやうや しく歩道の真ん中で彼を呼びとめて、道を迷ったから教えて から。彼は何やら考え込みました : : : あなたは晩めしのこと ほしいと頼んだ時、彼はどきっとして、すんでのことに叫び だと思います ? 今晩のことだと思います ? 彼はいったい 何を見ているのでしよう ? 逸物をつけた素晴らしい馬車に声を立てようとし、慴えたようにあたりを見廻したわけで 乗って傍を通りかかった貴婦人に向かって、絵にかきたいくす。いまいましさに顔をしかめて、彼は先へ歩いて行く。そ して通行人が一人ならず、彼を見ながらにやっと笑い、うし らい優美な恰好で会釈をした、堂々たる風采の紳士だと思い ますか ? いや、ナスチ , ンカ、彼はそんな瑣事には用がなろから何かどなったり、どこかの小さな女の子が、彼の顔一 今や彼は、自分自身の生活を豊富にもっているので面に広がっている瞑想的な微笑と妙な手振りを見て、おずお ずと道を譲り、大きな声で笑い出したのにも、ほとんど気が す。彼はどうしたのか、ふっと金持ちになったのです。しだ 、に消えてゆく大陽の名ごりの光線が、楽しげに彼の前に閃つかないのです。しかし、やはり例の空想が、老婦人も、も めいたのも、うべなるかなです。それは彼の暖められた心かの好きな通行人も、笑い出した女の子も、フォンタンカ ( ま ら、無数の印象を呼びさましたのです。さっきまでは、どんあ、仮りにわが主人公が、その時ここを通りかかったとしま な細かい瑣事ですら印象を与えた道も、今の彼はまるで気にしよう ) をいつばいにふさいでいる艀で、晩めしを食ってい とめない。今は『空想の女神』が ( ナスチ = ンカ、あなたはる百姓どもも、万物ことごとく自分の魔法の翼に打ち乗せて、 ジ = コーフスキイの詩を読んだことがありますか ) 、早くもさながら蜘蛛が蠅を次々と自分の巣へ引っかけるように、自 その気まぐれな手で金色の地を織りはじめ、彼の眼前に古今分のカンヴァスへ面白おかしく織り込んで行くのです。こう あや いう新しい獲物をもって、変人は自分の楽しい穴へ帰って来 未曾有の奇しい生命の模様をくり広げて行く。もしかした ら、この女神はその気まぐれな手で、いま家路を辿っているて、早くも食卓に坐る、やがてもうとっくに食事も終わっ みかげ 夜見事な花崗石の歩道から、水品づくりの第七天へ彼を運んでて、年じゅう悲しそうな顔をしている女中のマトリヨーナ が、もうテープルの上を片づけて、パイプを差し出したと 行った、かもしれないのです。今ためしに彼を不意に呼びと 白めて、あなたは今どこに立っていますか、どういう街筋を通き、彼はふとわれに返り、もう食事はすっかりすましたんだ
だが、もうこれ以上 問題はそんなことではない。ヴァーシャは自分の義務を履行片づけるよ。ばくは筆を早めたんだ ! しなかったので、自分自身に対して悪いことをしたと感じて起きていられない。八時に起こしてくれたまえな」 いる、そこが問題なのである。ヴァーシャは自分を運命に対彼はしまいまでいいおわらないうちに、死人のように眠っ てしまった。 して恩知らずだと感じている。幸福に圧倒され震撼されて、 自分はその幸福に値しないものだと思い込み、それを証明す「マヴラ ! 」茶を運んで来たマヴラに向かって、アルカージ る口実をさがし出したにすぎない。つまり、きのう以来おも イ・イヴァーノヴィチはひそひそ声でいった。「一時間経っ いがけない幸福のために、正気に返ることができない、 たら起こしてくれと頼んだのだけれど、こんりんざい起こす これが真相なのだ ! アルカージイ・イヴァーノヴィチはんじゃないよ ! 九時間でも十時間でも寝さしておいてく こう考えた。あの男を救わなければならない。自分で自身をれ、 貴めさいなむ心を和らげなければならない。あの男は自分で「よろしゅうございます、旦那様」 自分を葬っているのだ、ーーー彼は考えに考え抜いたあげく、 「食事のこしらえなんかするんじゃないよ、薪を運ぶのに騒 きっそくあすにもユリアン・マスタコーヴィチのところへ行騒しく音を立てたりしたら、承知しないぞ ! もしばくのこ とを聞いたら、勤めに出たといってくれ、わかったか ? 」 ~ って、何もかも残らず話してしまおうと決心した。 ヴァーシャは机に向かったまま、こっこっ書いていた。へ 「わかりましてございます、旦那様。勝手に存分おやすみな とへとに疲れ切ったアルカージイ・イヴァーノヴィチは、もさるがよろしゅうございます。何もわたしのかまったことで やす う一度問題をよく考えて見るつもりで、ちょっと横になった はございません ! わたしは、旦那方がよくお眠みになれれ と思うと、目が覚めたのはもう夜明け前だった。 ば嬉しいので、ご主人様の品物に間違いのないように、よく 「やっ、畜生 ! また ! 」彼はヴァーシャを見てこう叫ん番をいたしております。先だって茶碗を割ったといって、お だ。ヴァーシャは机に向かって書き物をしていた。 小言を頂戴いたしましたが、あれはわたしじやございませ アルカージイは飛んで行って、彼を両手に抱きかかえ、無ん、猫が毀したのでございます。つい油断しております間に 理やりにべッドに寝かした。ヴァーシャはにやにや笑っていね。わたしは、しいつ、畜生 ! といってやりました」 た。その目はカなげに、ともすれば閉じ勝ちであった。彼は「声が高い、黙っていろ、黙っていろ ! 」 アルカージイ・イヴァーノヴィチは、マヴラを台所へ追い 心口をきくのもやっとであった。 「ばくは自分でも寝ようと思っていたんだよ」と彼はいつやって、鍵を出させ、勝手のほうへ閉めこんでしまった。そ 弱た。「ねえ、アルカージイ、ばくいい考えが浮かんだ。もうれから役所へ出かけた。道々、どんなふうにユリアン・マスお
やし、ギターなんか持ってセレナーデくらい歌ういんちきな ジンチコフ夫人ということになるから、ばくは自分の名を穢 野郎が現われて、あの女を唆かして結婚するかもしれないんすような真似は、断じてさせません ! これ一つだけだっ ですからね。そうしたら、あの女は綺麗に丸裸にされたあげて、どれだけの値打ちがあるか知れやしませんよ。むろん、 く、どこか道端に捨てられちまうにきまってまさあ。現にこあの女と同棲はしません。あれはモスクワに住むし、ばくは こだって、れつきとした立派な家には相違ないけれど、ここ ペテルプルグあたりで暮らします。それは、ちゃんと白状し にあの女を置いとくのは、あの女の持っている金を目あてのておきますよ。なにしろ、あなたにはすっかり、洗いざらい 驅引きにすぎないんですからね。こういう危険からあの女をぶちまけてるんですからね。しかし、われわれが別居するか 遠ざけ、救わなくちゃならない。そこで、おわかりでしょ らって、それがいったいどうしたというんでしよう ? ま う、あの女がばくと結婚すると同時に、こうした危険も消滅あ、考えてもごらんなさい。まあ、あの女の性格をよく観察 するわけなんです。もうそうなったら、ばくはあの女の身してみてください。あの女が人の妻となって、夫と同棲する っさい危険がちかづかないように、固く責任を負うこ ことができると思いますか ? あの女を相手に、永久かわら とにします。まず第一に、あの女をモスグワへ落ちつけまぬ夫婦生活などができるものですか ! なにしろ、あれは世 す。ある上品な、しかし貧しい家庭に預けます、 それにも類のない軽はずみな女ですからね ! あれには始終たえ は、前にいったのとは違った、別の家庭です。そして、ばく 間なしに変化が必要なんです。あの女は結婚した翌日に、自 の妹を始終そばに付き添わせ、一生懸命に監視させることに分が人妻になったことを忘れてしまえる女です。それに、ば しますよ。金は、あの女の手もとに紙幤で二十五万か、三十万 くが年じゅういっしょに暮らして、あれに厳格な義務の履行 残るわけだから、それだけあったら、贅沢に一生すごせますを要求したら、それこそ、あの女を不幸にしてしまうわけで よ ! 舞踏会だろうと、仮装会だろうと、音楽会だろうと、 すよ。そこで、自然の道理として、ばくは年に一度か、せい なんでもありとあらゆる楽しみを享楽するばかりか、恋愛遊ぜい二、三度、会いに行くことにきめました。しかし、それ 戯さえも空想してかまわないんです。むろん、ばくはその占 は金を絞りに行くんじゃありません、 それはあなたに誓 で、夫としての名誉を保証するために、十分の注意を払うこ ってもよろしし 、。ばくはあの女から紙幤で十万ループリ以上 とにします。つまり、空想するだけなら、いくらでもご随意は断じて取らないといい ましたが、ロル兀ばかりじゃよ、、ほ だけれど、実行はけっして、けっして ! 現在の状態だと、どんとに取りませんとも ! 金銭のことでは、ばくはあの女 んな男だって、あの女を凌辱することができるわけですが、 に対して、理想的に潔白な態度をとるつもりです。二、三日 その状態が一変してしまえば、あの女はもうばくの妻で、ミどまりで訪ねて行ったら、あの女を退屈させるどころか、う
からです。その妄想をかかえて横町という横町を走り廻って階間違ったんです。全体なんだってばくをこの家へ通したの 8 きっとここの奥さんも、だれ か、わけがわかりやしないー るからです ! わかりましたか、あなたは自分が今どんな穢 らわしい状態にいるかわかりましたか ? それを感じていまかを待っていたに違いない ( もちろん、あなたじゃありませ んがね ) 。ばくはね、あなたの間の抜けた足音を聞きつけ、 しかし、きみにそんな奥さんのびつくりした様子を見て、寝台の下へ隠れたんです きみ、わかりましたー 「よろしい、 よ。おまけに、暗さは暗し。だが、なんだってばくはあなた ことをいう権利はありませんぞ : : : 」 なんかに、言いわけめいたことをいってるんだろう ? あな 「黙って ! 今さら権利も何もあるもんですか。これはひょ たはね、滑稽なやきもちやきの老人ですよ。ぜんたいばくは っとすると、悲劇的な結果を引き起こすかもしれないってこ とが、わかってますか ? 老人はあの奥さんがかわいくってなぜここを出て行かないんだと思います ? あなたはもしか たまらないんだから、あなたが寝台の下から這い出すところしたら、ばくが出るのを怖がってる、とでも思っていられる しいえ、ばくはとくの昔に出て行ったは かしれませんね ? を見たら、気が狂ってしまうかもしれない、それがあなたに わかってますか ? しかし、そんなことはない、あなたは悲ずなんだけれど、ただあなたに対する同情のためにこうして いるんですよ。ねえ、ばくがいなくなったら、あなたはだれ 劇なんか惹き起こす力はありやしない ! あなたがここから 這い出す姿を見たら、だれだって腹をかかえて笑うに違いなを頼りにここに残っています ? きっとあなたは木偶の坊み いと思う。ばくも蝋燭の灯りであなたの姿を拝見したいものたいに、主人夫婦の前に突っ立ってることでしよう、なんと いったらいいか言葉も出ないでしようよ : : : 」 だ。さぞかし滑稽なことでしようよ」 「じゃ、きみは ? きみだってこの有様じゃ、ご同様に滑稽「いや、どうして木偶の坊みたいなんです ? どうしてそん なもんですぞ。わたしだってきみを見たら、やつばり笑いまなしろものを引き合いに出すんです ? お若いの、いったい きみは何かほかのものと比較することはできなかったんで すよ」 すか ? どうして言葉が出ないんです ? いや、出ますと 「どうして、あなたなんかにー 、も」 「お若いの、きみの額にはきっと背徳の烙印が捺してあるに 「ああ、たまらない、なんてよく吠える狆だろう ! 」 相違ない」 「しつ ! やっ、本当に : : : それはきみがのべっしゃべって 「へえ ! あなたは道徳を云々なさるんですね ! あなたはごぞんじなんですか、ばくが何しにここにいるかっ ばかりいるからですよ。見てごらんなさい、犬っころの目を さまさせてしまったから。さあ、困ったことになるそ」 てことを ? ばくは間違ってここにいるんですよ、ばくは一