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検索対象: ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)
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1. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

ペテルプルグ、一八七四年三月十九日、下に署名したわ ・ミノイロヴィ れわれ両人、すなわち退職少尉フヨードル チ・ドストエーアスキイ、および官吏未亡人アンナ・ニコラ エヴナ・スニートキナは、左の契約を結んだ。一、両人のう ち余ドストエーフスキイはスニートキナに、次に挙げた余の 暑作の出版権を、二千ループリの代金で完全に譲渡した。 ー『貧しき人々』「死の家の記録』『白夜』『虐げられし人々』 罪と罰』『白痴』『悪霊』『地下生活者の手記』『ルレッテン ・プルグ龕博 ) 』「ネートチカ・ネズヴ , ーノヴ , 」「分身』「伯 父様の夢』および短編『鰐』『いやな話』「夏象冬記』『プロ ( ルチン氏』「正直な泥棒』「初恋な ) 』『クリスマスと結 婚式』。二、上記著作の権利を譲渡した後、余ドストエーフス キイは、スニートキナがこれを出版し、または転売し、ある いは没収せられたるがために他人の所有とすることは、スニ ートキナの判断にまかせる。ただし、出版の際、余ドストエ ーフスキイの同意なくしては、変更、増補などいっさいしな いことを条件とする。三、本契約署名の際、余ドストエーフ ズキイはスニートキナより、二千ループリの金を全額受領し 契約書 た。したがって、余も余の相続者も、上記の著作に関してな んらの権利も有せず、スニートキナになんらの要求をもする ことはできない。四、本契約は絶対正確に実行することを誓 退職少尉フヨードル・ ミハイロヴィチ・ドストエーフスキイ 官吏寡婦アンナ・ニコラエヴナ・スニートキナ

2. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

分のことと解ったのである。われわれの想像するところによ中が、鶏のような叫び声でほかの人たちを誘惑して、バンの ると、パン的な連中がすべての人々、 ハン的でない人々ためのロ笛という本誌の一一一口葉を、自分のことと解らせたので さえも誘惑して、本誌が共同の事業を阻害していると信じ込ある。ところでわれわれはひとりの例外もなく、シーザーの ませ、われわれに立ち向かわせたのである。ついでに、一般妻のように、ヒステリーじみるほどおこりつばく、神経質で 的なこととして一言しておくが、われわれ仲間の非パン的なあって、その名声には毛筋ほどの疑いもあってはならないと 連中も、時とするときわめて善良な人々であるにもかかわらしているので、事はすらすらといったわけである。周知のご ず、それでも大部分はひどく軽率で、せつかちで、人を信じ とく、わが国にはきわめて高潔な人々は、じつに数えきれな やすいのである。。ハンのためにロ笛を吹く連中のなかでも最 いほどいるけれど、悲しいかな、彼らの多くはあまりに浅い も札付きなのが、彼らをごまかす。すると、彼らはそれを信 ところを泳いでいるということを、認めなければならない。 用して、そいつを仲間に入れる、といったようなぐあいなの つまりそのために、われわれが「パン的ロ笛屋」と呼ばうな である。それどころか、こんな場合さえある。たとえ仲間が どと考えもしなかったような人々、この浅いところを泳いで だれであろうとも、有名なパン的ロ笛屋であってもかまわな いる人々が、後から後からと、われわれに向かって立ち上が い、ただ自分たちと同じ調子でロ笛を吹けばいいのである。 った。彼らはわれわれのために「虐げられ辱しめられた」 よしんばそれが理論であろうと、原則であろうと、本質におと思ったわけである。それどころか、最も無邪気な人々さえ いては大きな誤りである。よい仕事のためには、それをするも立ち上がった。美辞麗句をはんものと受け取る連中であ 人がよい人間でなければならない。でないと、すぐとんでもる。安つばい摘発者、へば詩人、何かの方向を持った現代的 ないことをどなり出して、よい仕事を傷つけた上、その男がなプリメ ( あ 韻に従。て書詩 ) を書く連中、こんなのがわれわれ 参加したばかりに、公衆の中でスキャンダルが巻き起こるの に向かって立ち上がった。なんでも解決できるつもりの思想 である。ところが、状況が変わって、パンの相場が高くなる家、想像と科学の研究者が立ち上がった。ちつばけなビョ ル大帝どもが立ち上がった。 , と、こうしたパン的連中はだれもかれもまず第一番に、自分 彼らは、心の底では官吏であ の「才能」をばろ市場へ持ち出して、少しでも高く買ってくり行政官であって、冷たい書物的な感激をいだき ( 中には感 れるところ、つまりほかの雑誌に売り飛ばすのである。それ激をいだいていないのもある ) 、自分はプログレスの代表者 は、彼らの一一 = 〔葉によると、堂々と自分の信念を変えることなであると、いとも単純に思い込み、自分が完全に無益な存在で のである。こういう連中は、どこの社にとっても不利なのであることは、夢にも考えてみないのである。しかしわれわれ あるが、われわれの想像するところでは、つまりこういう連は、彼らのもの凄い勢いに、驚きなどしなかった。これらの

3. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

ある。これが第一であるが、第二には ( これはきわめて新し 8 い現象である ) 、社会生活の約東となっている礼儀作法に酷 似した文学作法である。社会生活では、食卓に出る何かの料 理を客の前で自慢することを、主人に禁止しているが、『グ ラジダニン』の編集者も自分の雑誌に、『底まで飲めばよい ことは見られない』という喜劇を掲載して、その作品の美占 をあげて自分の意見を述べた ( 0 の ~ 蹶 ) 。ただし、そ しかしそれはすべてのの中にある若干の欠点についても、故意に沈黙するようなこ 生活の流れはとどめるべくもない。 流れと同様に、しばしば営々辛苦して生み出したよきものとはしなかった。ところが、ある雑録家がこれを無作法なも を、岸から洗い流して、はるか遠くへ運び去る。しかも、そのと見なして、文学的「珍聞」と評した。なるほどこれはま さしく珍聞である。同じ『グラジダニン』の編集者が、かっ の代わりに塵埃を運んで来て、澄んだ水を濁すことがある。 「おお、時代よ ! おお、習俗よ ! 」古代の人は叫んだものて自分の作品を『祖国雑誌』に載せたところ、その『祖国雑 であるが、これはけっして老人の愚痴ではない。われわれ若誌』が、これらの作品に関するべリンスキイの絶讃とも、 うべき批評を掲載した。その時はだれひとりとして、それを い人間だって、習俗の堕落を身をもって経験するような時に この文学的珍聞とは感じなかった。ある人が誠心誠意、感激をこ は、古代人と同じような叫びをあげすにいられない。 ような感慨を何よりも強く催させるのは、わが国現在の文壇めてものをいっているのであるから、潔白な批評家のこうし た誠意、感激を尊重しないということは不可能であって、そ の習俗である。人々は真理を追求し、真実を欲している。し かし、文学における真実をいかに定義すべきなのだろう。それを無作法であるなどと、ひと言匂わしただけでも、当時の れは種々雑多の方向に交錯し、あるいは衝突する意見や、見人々は極度に無作法な、潔白な文学者にあるまじき振舞いと ところが、今はそうでない。今ではあ 解の中につり合いを保っているのだ。文学上の真実の定義は見なしたに相違ない。 ただ一つしかない。それは意見や見解の誠実さであり、真摯る作品を掲載した雑誌は、絶対の沈黙で自分を縛らなくては ならない。賞めるのは無作法であり、くさすのは不自然であ さであり、またその意見や見解が作者自身の信念と完全に一 致していることである、 る。なぜなら、それは自家撞着を意味するからである。真 と以前はこんなふうに考えてい た。ところが今は、何よりも第一に一つの方向が選び出さ実、誠意、心からの感激、 こ、つい、フものはすべてどこか れ、意見も見解もそれに服従し、真実さえもそれに従うのでヘ隠れてしまって、人目にふれてはならないのである。 生活の流れから

4. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

れた事業を継続しようと、熱烈に望んでいる。さらにまたあ何かをいおうとしているのだ、ということはわれわれも予感 るものは、廃墟の上の蔦のように、古い荒れはてた火事あと した次第である。よしんばこの新聞マニヤが、ーーー何かいお に芽生えた新しい生命のように、あるいはカルタゴの廃墟に うとしてカみ返っている連中の全部が、後になって、わが国 おけるマリヤのように、花々しく出現せんと努力したものでの文学の何か腫れものみたいなもの、炎症みたいなものだと ある。自分たちの言葉も、ついに賑が至って一・ abom 一 nat 一・わかったとしても、われわれはそれもけっこうだと判定した on de la désolation ( 不信冒漬 ) は終わった。ロシャの世界だろう。なぜなら、腫れものや炎症でも、侵されたオルガニ いってみれば、事の深い意味を理解している。冷静堅実ズムにとっては、まんざら無益でもないからである。腫れも な、積極的な人士の言葉を聞くことができるだろう。自分たのや炎症を通して、毒物が排除されていくからである : : : し ちは当然の権利としてとっくの昔に、ロシャ文学の指導権をかし、要は、くり返していうが、何かしら新しいもの、殻を 握るべきであったのだが、どうしたものか、それが今まで握破って出ようとする言葉が、予感されたということである れないでいた、 といったようなわけである。クラエーフ : しかも、予感はわれわれを欺かなかった。まさしくある 言葉があった。 スキイ、スカリャーチン、カトコフなどという人々は、じっ に堂々たる予告文で、自己と自己の使命を宣言したものであ 諸君、諸君は見られただろうか、もし見られたとすれば、 る。ローゼンゲイム氏すらその『サノーサ』によって、これ牝鶏の群れを思い起こし、想像することはできないだろう らの洞察力の・こ 釣い、というより主として実践的な人々の列 いや、まさに牝鶏の群れなのである。まあ、牝鶏が に、みずからを加えたはどである。この新しい、というより一羽くらいいるとしてもかまわない。彼らはとっぜん、通行 自己史新したわが文学の巨頭の意義ふかき群れの中に、イリ人か、婆さんか、子供か、それとも、冠毛鶏をおもしろ半分 ャー・アルセーニエフ氏まで、ある程度予感された。それどに追いかけた駄大に脅かされたのである。一群の牝鵁はいき ころか、どこからかドウドウィシュキン氏の臭いさえ伝わっ なり叫び声を上けて、ばっと散り散りになり、恐怖のあま て来た : : : しかし、この最後の件については、われわれの文り、あわてふためいて、やみくもに駆け出す。まったく牝 学的嗅覚が誤っているかもしれない。 このことは前もって白というものは、スープにされるまで、一生涯、たえず恐怖の 状しておく。要するに、定期刊行物の数がとっぜん増加した中で暮らしているのだ。しかし、危険が過ぎると ( それもた こと、自己更新をしたことは、もちろんスベキュレーション いていは、はんとうにはなかったものだが ) 、彼らはまたひ でもあるには違いないが、しかしなんといってもスベキュレ とかたまりになる。彼らの一生懸命な叫び、不安げで神経質 ションばかりではない。 これはだれかが、なんのためか、 なせわしないこ、 こは、いつまでも続いて、彼らの

5. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

に、『グラジダニン』の論文から三つの点を引き出して、女女子専門学校の運命について、ご報告くださるようにお願い 生徒が何よりもまず勉強すること、ぜひとももっとも厳格なする。われわれはその成功に深い関心をいだくものである。 意味において勉学することを希望し、要求したのである。こ 2 の際、われわれは学術に多くの期待をつなぐものである。 真のきびしい学術はあらゆる虚偽、あらゆる無用ないつわり ついでながら、本紙もいま今年度のちょうど半ばになる。 の思想を駆逐する。そういった思想は、外部の、たいていの 場合、男性の影響によって、思想というものに馴れない女子この機会を利用して、われわれの活動について、われわれ編 の頭に宿りがちなものである。してみると、われわれが希望集者の努力について、何やかや語ってもよいのではなかろう か。われわれのしたこと、しなかったこと、われわれの発言 するのは、婦人の独立でなくてなんであろう ? 何よりもま ず第一に、婦人の知性と心情の独立である。われわれは人々したこと、発言し得なかったことについて、空想したり、打 明け話をしたり、自問自答したり、等々を試みてもよいので の誹謗するような、はたして女子教育の敵なのだろうか ? はなかろうか。それは、来年度の雑誌刊行の広告を書くと 貴女の手紙の中に、「グラジダニン』は「人気を矢うこと つもみながやることなのである。しかし、われわれは も恐れずに」、思いきってああいう思想を表明した、というき、い 個所があります。ああ、われわれはその人気を失ったことそういうことをすべて後まわしにして、いつも外部からたび を、つくづくと痛感している ! われわれは、ただ若干の理たび提出される質問に、答えるだけにとどめておこう。ほ 解ある人々の同情をかち得ているということ、そのことを高かでもない、絶えず本紙に浴びせかけられる批評や、攻撃 く評価している。これらの人々は、一般に思想的下男根性にや、罵倒にたいして、なぜ本紙はあまり答弁しないのか、そ れどころか、まったく答弁しないのか、ということである。 おち入っている現代において、あえて こういう攻撃はとくに本年の始めに浴びせられたものである が、年末、すなわち来年度の予約募集がはじまる前に、きっ おのれの意見をいだくこと とまた浴びせかけられることであろう。今では本紙はすべて の雑録家にとって、一つの救いとなるまでに立ち至った。何 第を敢然と決意したのである。 録われわれの希望は、こういった人々の数が目に見えて、疑いも書くことがなくなると、「いや、『グラジダニン』があるか ら、あれをやつつけるんだ。おまけに、それなら自由主義的 もなく増していくという、ただそのことにのみ存している。 論お手紙にたいしてもう一度お礼を・甲し述べ、将来もモスクワなテーマだからな ! 」というわけで罵倒するのだ。 155

6. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

「作家の日記補遺 まり、この事件と同じような他のすべての悲しむべき事件 わが国の革命的宣伝がくだらないという筆者の考えは、そ の主人公たちは、一回ごとに貧弱になっていき、熱しやすの表現が明白ではないにしても、疑いもなく正しい。そこで い人々にとってさえ興味をひかないものとなってきてい 問題の正しき理解のために、多くのことをより正確に規定し る、ということである。かって、五十年前には、ロシャのなければならないのである。しかし、わたしはベトラシ 政治犯罪の主体は、上流知識社会のなかからでた人々 ( 十フスキイ党のことだけ指摘するにとどめる。政治犯の零細化 二月党 ) であった。四十年代には、ロシャの政治犯の型はの例としてベトラシ = ーフスキイ党を十一一月党と比較してし いちじるしく小さくなった ( ベトラシェーフスキイ党 ) 。 めしたのは、おそらく正しくはあるまい。つけ加えていえ 六十年代の始めには、それはすでに、いわゆる考えるプロば、「零細化」という考えは、もう大分前から耳にしている レタリアートまでに小型になってしまった ( チェルヌイシし、新聞にも一再ならずくり返された。それだからわたし エーフスキイ党 ) 。七十年代の初めには、未発達な、小学は、、 しまちょうど都合よくそれにぶつかったので、筆をとっ 生なみの半可通、品位劣等なニヒリストにまで、なりさがた次第である。わたしの考えでは、わが国の政治犯のタイプ った ( ネチャーエフ党 ) 。ドルグーシン党事件で宣伝家の に根本的な変化がおこったのは、ほんの最近二十年間のこと 活動舞台に登場するのは、なかば無学のならず者である。 である。しかし、ベトラシェーフスキイ党はまだ、十一一月党 最後に「カザン広場事件」では、たんになかば無学のならとまったく同一のタイプであった。少なくとも、論説の筆者 ず者しか残らなかったというだけではなく、それもユダヤ自身が指摘しているそのタイプの本質的特徴によれば、そ 人と飲んだくれの工場労働者といったニ = アンスが濃厚でうである。筆者は、十二月党は、「上流知識社会のなかから ある。こうしてしだいに零細化していくことは、犯罪的なでた」人々であった、といっている。しかし、ベトラシ = 政治宣伝が現皇帝陛下の自由主義的諸政策のあとでは、社フスキイ党は何によってそれと異なるというのか ? 十二月 会のいくらかでも精神的に発達した分子をこの運動に打ち党員のなかには、実際に、最高の、きわめて富裕な社会と関 こませることを期待できないという、最良の証拠であり、係のある人々が、より多くいたであろうが、それは、ベトラ まして人民大衆にはそれ以下の影響しか与えることはでき シェーフスキイ党にくらべて十二月党員の数が比較にならな ない。なぜならば、人民大衆がどんなやり方で招かざる予いほど多数であったからであって、ベトラシ = ーフスキイ党 言者を迎えているかは、もう彼ら自身が示しているからで員の間にも、やはり、上流かっ富裕な社会と関係があり、ま ある : たその出身であったものが、少なからずいたのである。しか も、上流社会は十二月党の企図にはなんらの同情をもよせ

7. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

カヴ . エーリ たいいつ国家が草創の際、おれは中間的存在のた めに創られるのだ、などといったことがあるか ? 歴史がそんなふうにしたのだ、と諸君はいうであ ろう。否、つねに選ばれたる人々が指導したの なるほど、これらの人々のあとから、さっ そく中間的存在が、優れた人々の理念の上に、自 分の中間的法典を形成したのに相違ない。 し、ふたたび偉人もしくは非凡な人がやってき て、常にその法典を震撼さすのである。それに、 諸君は国家を何か絶対的なもののように考えてい られる。誓っていうが、われわれは絶対的な国家 どころか、多少なりとも完成した国家をまだ見た ことがないのである。すべては胚子である。 社会は共存の要求の結果として、生まれたので ある、と。これは間違いであって、常に偉大なる 理念から生じるのである。 教会は全民衆なりということは、つい近頃、四 十八年に、東方の総主教たちによって、法王ビウ ス九世に対する回答の中で認められたのである。 敵に頬をさし向け、おのれ以上に愛するのは、 有益であるがためではなく、燃ゆるがごとき感 情、熱情に達するほどそうしたいからである。キ リストは間違っていた、それは証明すみだ ! と いう。ところが、この燃ゆるがごとき感情はい おれは諸君とともにあるよりも、その誤 謬とともに、キリストとともにとどまるだろ、フ、 セ山→右はい、フ、 ヨーロッパは法王制やプロテ スタント主義のほかに、キリスト教的なものを多 くなし遂げたではないか、と。それはもちろんの ことで、向こうでもキリスト教がすぐ死滅したわ けではない。長い期間に徐々に亡びていったの で、痕跡は残した。なるほど、あちらには今でも キリスト教徒がいる。が、その代わり、歪曲され たキリスト教解釈のいかに多いことか。 道徳的な行為、しかし理念ではない。 道徳的なもの、それはただ、美の感情と、その 美を具象する理想と合致するもののみである。 日常の振舞い ( それも単に一般的なもの ) は、 かりに清廉であるとしても、行動は道徳的なもの といわれない。そういうわけで、道徳的なもの は、単に自己の信念と矛盾しないという考え方だ けでは尽くされない。時としては、自己の信念に 従わず、自分では確固たる信念をいだきながら、 ある感情のために歩みをとどめ、行動に移らない ほうがより道徳的な場合もある。おのれを罵り、 頭脳ではわれとわが身を軽蔑しながらも、感情で は、つまり良心では、その行為を遂行することが できないで、歩みをとどめるのである ( また最後

8. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

米川正夫全訳 愛蔵決定版 ドストエーフスキイ全集 全 20 巻・別巻 1 巻 定価 980 円 〇印は既刊 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑩ ⑩ ⑩ 貧しき人々 / 分身 / プロハルチン氏 / 主婦 / ポルズンコフ / 他短編 1 編 スチェパンチコヴォ村とその住人 / 弱い心 / 正直な泥棒 / 白夜 / 他短編 2 編 白痴 ( 上 ) 罪と罰 / 罪と罰創作ノート 地下生活者の手記 / 初恋 / 伯父様の夢 / いやな話 / 夏象冬記 / 死の家の記録 / ネートチカ・ネズヴァーノヴァ 虐げられし人々 悪霊 ( 下 ) / 悪霊創作ノート / 永遠の夫 悪霊 ( 上 ) 白痴 ( 下 ) / 白痴創作ノート / 賭博者 未成年 / 未成年創作ノート カラマーゾフの兄弟 ( 上 ) カラマーゾフの兄弟 ( 下 ) / カラマーゾフの兄弟創作ノ ート ⑩⑩作家の日記 ( 上 ) ( 下 ) ⑩⑩⑩書簡 ( 上 ) ( 中 ) ( 下 ) ⑩論文・記録 ( 上 ) ( 下 ) 別巻米川正夫著ドストエーフスキイ研究

9. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

婦人問題 クヴャトコ国家としては、 特赦を与えることができな ーアスキイ 公爵とプレ、 カった ( 元首の意志を別として ) 。刑罰とはなん スニヤコフ の絞首刑とであるか ? 国家においては、 思想のため その他の人 人の特赦の犠牲。しかし、もし教会があったら、 ーーー刑罰 はない。教会と国家を混同することはできない。 これが混同されるのは、よき徴候である。なぜな ら、教会のほうへ重心が傾いている証拠だからで ある。イギリスやフランスでは絞首刑を行なうの に躊躇しないであろう。 一八八〇年九月二十三日、火曜日、『ノーヴォ エ・ヴレーミャ』第一六四二号。デュマ・フィス のやくざで月並みな論文。『婦人問題』の誤謬は あげてことごとく、分かつべからざるものを分か っている点に存する。人々は男と女を別々に取り 扱っているが、その実、これは渾然として一体を なせる有機体なのである。「夫と妻の二人をつく りたもう」人間はまた子供、子孫、祖先、全人類 とも、一つに融合した渾一体をなしている。しか るに、法律はいっさいのものを分かち、すべてを 構成分子に解剖しながらっくられる。教会は分か っことをしない。 自然においては、すべてがノーマルであるよう に考慮されている。すべてが神聖な罪なきもので 世論わが国の世論はなっていない。めいめい思い思 しのことをいっている。しかし、場ムロによっては 世論も恐れられることがある。してみると、これ は一種のカであるから、したがって役に立ち得る わけである。 人あるいはいうかもしれない、わが国の世論の と。それはその 存在は十分に保証されていない、 とおりであるが、しかし存在しているというだけ でもけっこうなのである。やくざなものであって も、存在している。何より大切なのは、その存在 が、世人の言葉をかりると、保証されていないに もかかわらす、今それを沈黙させることが不可能 なばかりでなく、そんなことは考えることさえで きない、そういった存在のしかたをしていること である。 世論を撲滅するということは、これ以上なにも なくなるということではなくて、現にあるものも あるように考慮されている ( 男三十歳、女三十 歳 ) 。はじめ女には、男を惹きつけるために美が 与えられる。なんとなれば、精神的な結びつきが まだ薄弱だからである。しかし、後には、美など もはや必要がなくなる。女はただ愛される。なぜ なら、魂と魂とが融合するからである ( 有機的結 合 ) 。

10. ドストエーフスキイ全集20 論文・記録(下)

論文・記録第三部 しかし、ここでわたしの物語を中断する、長い話なのだか エヴィ ら。が、誓っていうけれど、レオンチイ・ヴァシーリ チは、じつに気持ちのいい人である : 一八六〇年五月二十四日 ・ドストエーフスキイ * 角括弧内はドストエーフスキイが抹殺した部分である。以下同じ。 この見事なアル・ハムに目を通して、わたしは羨ましく思い ました。そして、三十年まえに、このようなアル・ハムをつく らなかったことを、残念に思います。あなたの親友や知人 ・ : 〉を書き が、なんと大勢、この華麗な記念帖に自分の〈 : 込んだことでしよう。あるいは、これらのページはどれだけ すばらし、 しいや、より正確にいえば、過去の生活の生きた 瞬間を、想起させてくれることでしよう。わたしの手もとに は自分の生涯でもっとも愛していた人々の写真が、幾葉か保 存されています。が、その人たちはもうこの世にいないので す。わたしはその人々の面影を持っているということが、じ つに快いのですけれど、ほとんど一度もそれをながめること をしません。思い出が懐しく、美しければ美しいほど、その ために苦痛が増してくるのです。それと同時に、わたしは多 くのものを失ったにもかかわらず、生活を熱愛します。生活 のための生活を愛し、常に自分の生涯を始めようと心がけて います。わたしはもう間もなく五十になりますが、それでも わたしは自分の生涯を終わろうとしているのか、それともや 3 っと始めかけているのか、自分でもわかりません。これがわ O ・コズローヴァのアルバムに ( 下書 )