論文・記録第二部 名誉心の夢にふけるのはいかに 危険であるか 散文まじりの詩で書かれた完全にほんとうらしく プルジーニン、ズボスカーロ ないファース、 フ、べロビャートキン合名会社作 五百年余も前の出来事なりし ジュコーフスキイ『ウンディーネ』 よろい 蒼白い月が、ゆるめに締めた鎧戸の 山からそっと覗いている : ートル・イヴァーノヴィチは 貞淑な妻のそばで、もの凄い賠立てている。 その雷のごとき鼾にたいして 妻の鼻は、いともやさしい口笛を吹く。 ふとまっ黒な黒ん坊の夢を見て 彼女は驚きのあまり、叫びを上げた。 しかし夫は、その声も耳に入らず 気持ちよさそう、その額は徴笑に輝く 彼は千人の農奴を持った地主となって 堂々とした押し出しで、一同の度胆を抜いて それからひと寝入りしようと田 5 い 鏡の前でかつらを取った ( 彼の頭は禿げていた ) と、 : たちまち死人のようにあおくなったー 月の鏡のように禿げていた頭は 生えかけの短い毛でびっしりおおわれ 目は人を悩殺するほど優しく生き生きとし 鼻は前よりずっと短くなった : 目路も届かぬ大きな村へ、乗り込んで行く。 百姓どもは、嵐のときの波濤のごとく 帽子を取って彼に近づく : 百姓どもはひとりずつ後から後へと お恵みぶかいご主人の手に接吻する。 彼は簡単な訓辞を垂れて 譱口には善で報いると約束し むち 悪い者は笞で打っぞと嚇かして 水品のような邸へ帰る。 帰ると彼は、海狸の皮の外套を さも無造作に脱ぎすてる : 「シャンパンで魚汁を炊いて すつばい スメターナ ( グリーム ) のうぐい料理だ ! それもすぐだぞ ! ふざけたまねは承知せんから ! 」 ( それからどんと、大きく足踏みをした ) 。
奉呈するの光栄に浴し、そのため一連の戦争場面の絵を制作 すべく陛下の委嘱を受け、現在その仕事に従事中である」イ Z ・・ウスペンスキイの短獨 工べンス氏は二つの場面、というより、二つのグループを描 いているが、それはきちんとした服装をした兵士たちで、必 要かくべからざる縁飾りも縫い取りも、完全に描かれてし る。この点では彼は専門家であるから、何もかも然るべく写 し取られ、形式も完全に守られていると考えてよい。 肖像画はかなりたくさん陳列されているが、写真的なもの ウスペンスキイ氏は自分の短編を全部、単行本として出版 も少なくない。 しかし、これについては別の機会に、つまりした。これはけっこうなことで、この新進作家の業績がいま ダーリ氏の著述に関連して、語ることにしよう。 われわれの前に、なんとなくはっきり浮き出したような感じ 建築の絵図面は非常に少なく、わずか十一にすぎない。そである。もっとも、ウスペンスキイ氏はかなり前から、もう れらはすべて豪華であり、並みはずれて大きなものばかりで二、三年も前から書きはじめていて、ほとんど常に、「現代 ある。概してわがアカデミーは単純な、実用的な建築を好ま人』に発表している。そういうわけで、ほんとうのところ、 ないで、巨大な設計ばかりつくりたがる。しかし、建築につ彼はもう新進作家ではないともいえる。しかし、ウスペンス いても後日るとしよ、つ。 キイ氏が将来発達していく素質をもっているか、またついに は何か新しい言葉を発するかどうか、ということはわれわれ も決しかねる。少なくとも、今までのところ、彼はその二十 四の短編の中で、まだ何一つ新しい言葉を発していない。に もかかわらず、彼は読者大衆の間で、ある程度の注目を受け ている。それはなかんずく、『現代人』の推薦に負うところ が多い。彼は民衆生活のさまざまな場面を正確に描いてみせ るが、わが国では民衆生活を正確に描く作家は、、 寥たるものであった。しかし、もしこの観点からウスペンス キイ氏を論じるとしたら ( もっとも、これは彼を論じ、フる唯 一の観点である ) 、まず第一に、彼がオストローフスキイ、
い。彼は自分の対象を写真的に写したのであって、絵を描いそれだけによって、虚偽におち入ったということを、はたし たのではなく、裁判上の誤りを犯したのである。彼の人物はて自覚しておられるだろうか ? きみの絵は肯定的な正確さ ひとりのこらずやくざものである、なぜなら、彼の意見によを持っていない。あれはメロドラマであって、現実ではな ると、護送隊の鎖が彼らを等し並みにしたからだ、とでもい きみはあまりに効果を狙ったために、効果がこじつけに いたそうである。彼の絵では、だれもかれもが、目つかちのなったのだ。きみはあの百姓の着ている破れ外套さえ、容赦 護送隊将校をはじめとして、百姓が車からはずしているやくしなかった。いったいあんな破れ方をするものだろうか ( 背 ざ馬にいたるまで、みな同じように醜悪である。ただ一つ例中を上から下まで一直線に ) ? きみは是が非でも混沌、無 外がある。その例外というのは、この絵の主人公、すなわち秩序が必要だったのだ。なぜあの泥棒は、ちょうど将校がや 破れたむしろでおおわれた死人である。これは名残りのおも って来た時に、死人の指から指輪を盗むのだろう ? われ かげから見ると、美男子だったらし、 し力、それはアカデミー われは確言するが、男が死んだということを、将校に報告す の要求からして、当然なことである。彼にはこれ以上に平凡る前に、囚人たちはたちまちいっせいに、けんけんごうごう な輪郭も、これ以下にグラシックな容貌も与えられるわけに と、あの男は金指輪を嵌めているといい出し、たがいに相手 いかなかったのである。彼はこの陋劣な人々の間で ( 陋劣なをさえぎりながらあわてふためき、それをしゃべっている間 というのは、彼が現代全体をそんなふうに見ている、という に、けんかまでしたかもしれないのである。これまた確言す 意味である ) 、たしかに由緒ある家柄の出らしい るが、この囚人隊がモスグワを出発するより前に、指輪を嵌 ヤコビ氏が現実を正確に、寸分の相違もなく伝えんがためめた新しい囚人が未来の仲間の間に姿を現わすより前に、囚 に、すべての力を尺、くし、全努力を傾けたのは、この絵を見人たちは彼を見るよりさきに、その男が指輪を嵌めているこ ると明瞭である。これはアカデミーの学生としてきわめて有とを、承知していたのである。それからまた、荷車の下から 益な、また必要かくべからざる、じつに賞讃すべき努力であ指輪を盗むことは、どうしてもできないということを、きみ る。しかし、これはさしあたり、芸術の機械的な側面にすぎははたして知っておられるか ? その理由をごそんじだろう ない。芸術の <(-) であり、正字法である。もちろんその両か ? ほかでもない、 この指輪が囚人隊の間に、あまりにも 方とも、芸術的創造に取りかかる前に、完全にマスターしな知れ渡っているからである。その囚人が病気して死にかかっ ければならない。後日、芸術的写真の高みに達するために たとき、多くのもの、きわめて多くのものの頭に、「やつが は、現実的真実表現の困難を克服する必要がある。 死んだ時、どうかして盗んでやりたいものだ ! 」という考え ヤコピ君、きみは写真的真実を極端に追求したというただが浮かんだはずである。さて、ヴァーシカ・ミローノフとか
論文・記録第一部 ャ』が発行されたのはスベキ = レーションのためであって、 何か金銭関係の事情を回復するためである、というようなこ とも書かれた。もしそうだったら、破産した連中はだれもか れも、ただ雑誌をこしらえさえすれば、すぐ事態が回復し て、金が山ほどできることになる。諸君はなんと簡単に、そ ういうことをしておられることか。ご承知のとおり、無数の 雑誌や新聞が、われわれの見ている前で創刊され、うんと予 わが国に新しく出現した、もしくは面目を一新した定期刊 それがばたばた倒れていっ 約購読者をつかむ目算だったが、 たではないか。またあるものは今日まで、採算のとれるまで行物、主として新聞について、一言したいと思う。その一つ の購読者を集めることができないでいる。ところで、われわ一つを取り上げて、個々に詳説を試みるということは、今回 はあえてしない。われわれにただ新しい文学機関の新しい思 れにはどうしてそれができたのか ? 幸運なのだろうか ? とんでもない、第一年は幸運、第二年はその倍からの幸運、想、新しい言葉を捕えることに努めよう。その新しい思想の 徴候、新しい言葉、新しい主張の徴候は、まさに存在してい 第三年は前より以上の幸運、こうした不断の幸運のために るのである。昨年の秋以来、わが国の新聞の数がいちじるし は、「諸君がなんとおっしやろうと、頭も少々ばかり要る」 く増加したことは、われわればかりでなく、読者大衆ぜんた のである。 ポーチヴァ いを驚かした ( 少なくとも、そのように想像しなければなら 諸君はそのはかなお、土地、国民的根源、団結、和合と ~ / 三年一月一日の刊行を予 いったようなことに対しても、われわれを非難しておられぬ ) 。新しい新聞の発行者は、一八、 る。しかし、このことについては、諸君を相手に話なんかし告して、何ごとかを語る必要がある、むしろ必須であるとカ というのは、それは真剣なことだと思うからである。説したものである。だれもかれもが、いったい彼らは何をい おうとしているのだろう、と興味をいだいたものである。 そのことは、別の人を相手に話すことにする。さらば。 かなる新しい田 5 想、もしくはアネクドートをもって出現する のだろう、何を宣伝するのだろう ? 彼らのあるものは、何 かしらある言葉が発せられなかったのを感じて、是が非でも それを語らなければならぬと思っている。またあるもの ( 前 からこの方面で活動していた人々 ) は、事情のために中断さ刀 新しい文学機関と新しい理論について ーーー誌上短評ーーー
で、現在において文学は、ロシャの意識的生活の最もおもな を、そのまま踏襲していくつもりである。 まだ今日までに表明し得たことは僅少であるけれども、お発現の一つなのである。わが国においては、科学をはじめと のれの事業にたいしては良心的に奉仕した。われわれは自分して、きわめて日常的な生活形式にいたるまで、ほとんどす っ ! き の真理と考えるものを、愛し、尊重する。われわれは文学をべてが外部から接木されたものであり、すべてがただで手に 擁護してきた。文学を手段としてでなく、独立自存の力と見入ったものである。しかるに、文学はわれわれ自身の努力に よって得られたものであり、われわれ自身の生活によって生 なした。とはいうものの、最近におけるわが文学に現われた みだされたものである。それゆえにこそ、われわれは文学を 多くの逸脱にノーマルなもの、合法的なものを認めている。 われわれは権威の前に跪拝しなかった。他誌にみられた真尊重して、愛するのである。それゆえにこそ、われわれは文 理を犠牲とするまでにいたった空理空論、利己主義、独善主学に望みをつなぐのである。 将来における本誌の寄稿家の名を列記することはしまい 義、自尊心、こういうものをいささかも容赦せず、ある は、憎悪に陥るほど行き過ぎたかもしれない。われわれは多またわれわれの希望を自慢そうに吹聴することもしまい。そ それはあえて自認するれと同様に、これまで本誌に参加した文学者の名と、その作 くの点において行き過ぎをした、 品の名を並べ立てることもしまい。もし読者が満足してくれ けれども、さして後悔はしていない。なお、もう一つの謬り を認めよう。われわれは時として、ある種の意見に対して敢たとすれば、そういうふうに数え上げなくとも記憶している 然と立つのが心苦しかった。それは、われわれと根本的に一であろう。 致しない意見で、あまり過激なのと、度を越した思いあがり来たる一八六二年も、本誌は前と同じプログラム、前と同 で、識者を顰蹙せしめた底のものであるが、高潔な主義主張じ構成で発行されるであろう。本誌に予約せず、かって本誌 を読んだことのない人々のために、プログラムを添付しょ から出て、恐るるところなく堂々と発表されたものである。 われわれは公平無私な論戦を約東したのであるから、その点う。 はお詫びしなければならないけれども、しかしあまり偏頗で あったとは思わない。われわれは向後も公平無私ということ については、責任を持つつもりである。思想の論戦は現代に おいて必須のものと考える。懐疑主義、懐疑的見解はいっさ いのもの、むしろ見解そのものをさえ圧死させるものであっ て、完全な無興味、死のごとき眠りと相隣りする。ところ 〔プログラム省略〕 4 雑誌『ヴレーミ 八六三年度の 予約募集広告文 ・ドストエーフスキイ発行の文学・政治雑誌「ヴレーミ
たしにいわせれば、それは一種こつけいな偏見であって、そ田 れ以外の何ものでもない。 これはナンセンスであるから、こ のようなナンセンスは絶滅しなければならない。しかも、そ の根本にあるのはなんだろう ? 問題は要するに、クラエー フスキイ氏があれだけ長い文学活動をしながら、仕事にまぎ れて、文学者になれなかった、ということである ! われわ れはけっしてそれを、彼を非難する種にはしない。それに、す 政治・文学の新聞である『ゴーロス ( 声 ) 』の発行者であべて文学者でないものは、文学において注目すべき人物でな り、編集者である・・グラエーフスキイ氏に関して、古 い、などと断言するのは、こつけいな話である。それどころ くからロシャ文学に根を張った偏見があるが、わたしはそれか、クラエーフスキイ氏は、文学においてきわめて注目すべ に断固として反対するものである。わが国の諷刺新聞、批評き人物である。のみならず、すばらしい人物でありながら、 家、年代記者、雑録家、ユーモリスト、だれもかれもみんな、同時にロシャ文学について恐ろしく理解が少ない、 とい、つ ) 今でも、前でも、その前でも、そのまた前でも、事がいった ともありうるのである。話がこういうことになったら、われ んグラエーフスキイ氏の文学的業績にふれるや否や、あるい われはこういう事情を、グラエーフスキイ氏のせいではな はふれんとするや否や、どの新聞雑誌にしても、 いかなる文 く、むしろロシャ文学の罪であるとする。われわれの側とし ゴーロス 筆業者にしても、それまでとはがらりと調子を変えて、じっては、ロシャ文学における彼の声を、堂々と認めるもので に妙なぐあいに冗談をいい出すのである。それに何よりも忌ある。もちろん、彼は目下、雑誌の予約購読者はできるだけ まわしいのは、彼らのすべてが、まるでそれは決まりきった少なくなり ( それがぜんぜんなくなるようにはできないにし ことだ、自分らはそういう態度をとる一種まちがいのない、 ても ) 、新聞の購読者が多くなってほしいと希望している 文学的権利を持っているのだといわぬばかりに、まったく無 ( 最近、彼自身がこの希望を表明したのである。ただし、新 意識に、無邪気にそうするのである。これはなぜだろう、ほ聞といってももちろん『ゴーロス』のことであって、グラエ んと、フにど、フい , フわけだろう ? こ、フい , っふ、つにして、彼の ーフスキイ氏は「ペテルプルグ報知』のために読者を招いて 「ポリス・ゴドウノフ』を始めとして、最近の『カステルフィ いるのではない ) 。しかしこの希望は、わたしにいわせると、 ダルドの英雄』という戯文に至るまで、グラエーフスキイ氏彼としてはきわめて自然なものである。どんな出版者にして の文学活動の全時期を通じて、続けられて来たのである。わも、なるべくたくさんの予約購読者がほしいに決まってい 実生活と文学における地ロ
ている。しかもその上に、方図のない虚栄心がひそんでいる のである。それは、虚栄心が最後の段階まで行きついたとい うタイプである。本誌はこの事件を正々堂々と、公平無私に 取り扱って、銀板写真か、生理学的図表のような正確さで伝 えている。 概して西欧の詩人や小説家の多くは、わが国の批評家の裁 きの前に出ると、なにか両様の意義にとれるような立場に置 、・、ルザッグ、ヴィグ かれる。シルレルのことはさておいて トル・ユーゴ フレデリグ・スリエ、シュー、その他多く の人々を想起してみよう。これらの作家についてわが国の批 評家は、四十年代からはじまって、ひどくお高くとまった態 度をとった。それについては、ある程度ペリンスキイが悪い のである。彼らは、その当時のあまりにも現実的なわが国の 批評家たちの、寸法に合わなかったのである。当の・ハイロン が手きびしい宣告をのがれたのは、第一にプーシキンのおか げであるし、第二には、彼の詩の一句一句からほとばしり出 るプロテストのためである。さもなかったら、彼は必ず栄冠 を奪われていたに相違ない。彼こそまったく寸法に合わなか ったのである。 これはきわめて興味ふかいことで、しかも現代的である。 われわれは近いうちに、『わが国の批評家の裁きの前に出た 西欧の詩人と小説家』という題で、大きな論文を掲載しよう と思っている。 ストラーホフの「シルレルについて』 への付記 ( 0 2
最後に、いったい諸君は、公衆をばかな連中だとでも思っ人』編集部の御意に召すためであった ) 。カリカチアは許 ておられるのか ? 公衆には何でも好きなことを信じさせるさるべきものであって、本誌のカリカチ = アが苛烈にすぎた たとのは、くり返していうが、その前に発表されたわが論敵の非 ことができる、とでも諸君は思っておられるのか、 常識な言辞に前もって挑発されたからである。それは本誌の えば、「きみの医者はばかの禿げ頭だ」というのは、ただ一 般的に「医者」というのとまったく同じだと、読者に信じカリカチ = アより、二倍も粗暴なものであった。 させることができると思っておられるのか ? たとえば、去同様に、読者もわかってくださることと思うが、本誌に掲 年、本誌がつい不用意に載せた文章の「茶碗をこわして壁を載した風説 ( それには十分ことわり書きをつけておいた ) を こ中傷と呼ぶことは、断じて不可能である。風説というのは、 拳固でたたいた、うんぬん」を ( ただし、あれはその前冫 シチェドリン氏が自分自身の雑誌を創刊するために、ある局 「現代人』に載ったもっともっとひどい文章に挑発されたも のである。諸君はそれについて一言するのを忘れておられ外の諷刺家といっしょに、モスグワへ去るという潁末であ る ) 、「ならずもの、ろくでなし、くたばりそこない」などとる。この風説は、当時本誌に掲載したその他の風説とおなじ いう言葉を面と向かって叩きつけるのと同じような、人身攻ように、われわれが創作したものではなくて、まさしく実在 撃と呼ぶことができるだろうか ? ついでに断わっておくしたものであり、シチ , ドリン氏と『現代人』の見解の相違 によって、その真実性を認められていたのである。しかし重 が、あの「こわれた茶碗」に関する文章は ( もっとも、すで に一年半も前のものであるが ) 、乱暴でぶしつけではあるけ要なのは、その当時、われわれはこの風説を、やや嘲笑気味 れど ( これは異議なく自認する ) 、これを直接他人にむけたで掲載したとはいうものの、けっしてシチ , ドリン氏の名誉 ほんとうの人身攻撃と呼ぶことはできない。それは、全世界を傷つけるようなことはなかった。『現代人』から離れて、モ の賢明な読者ならだれひとりとして、これが実際の出来事のスクワへのがれるということは、不名誉でないばかりか、む しろ分別のある行為だった。諸君、中傷と名づけられるのは 描写であって、それを隙見するためには、諸君の言葉をかり ると、女中を買収しなければならぬなどということは、思い ほかでもない、他人の名誉を傷つけようとか、もしくは社会 部も浮かべないからである。あれは単なるカリカチ = アであっ的にその人の価値を落とそうという目的をもって、意識して 第て、その目的とするところは、もっとも合法的な論争を個人うそをつく場合である。相手がなんらかの理由によって、お 録的なものとした去年の論敵の、あまりにも度を過ぎた、個人のれを護ることも答弁することもできないのを、はっきりと 承知していて、手ひどい非難を他人に浴びせるような場合 的に流れたいら立ちやすさを、嘲笑することであ 0 た ( ただ 論し、彼の個人としてのツルゲーネフ嘲笑は、ただただ『現代は、それこそ名誉毀損的な中傷になってくる。ことに、真実 225
の前にひとりの男が立っている。その生活からいえば、ほとう。彼は気ちがいやばかでなか「たばかりか、非常に賢い人 んど義人といっていいほどで、深く神聖に真理を確信してい間であったかもしれぬほどである。彼はただ誤ったばかり、 る。きみは彼を尊敬し、ついには彼を愛するようになる。とそれだけのことである。賢い人間ははたして誤らないものだ ころがとっぜん、このりつばな人物が、ただただ自分の高潔ろうか ? 天才的な人間でも、自分の思想を実現する際、し 無比な目的を達せんがために、きみの見ている前で、壁に頭ばしば誤るものである。しかも、天才的であればあるほど、 をぶつつけはじめるのだ。そのとききみはなんというだろその誤りも大きくなる。ところが、月並みな連中となると、 。イオし力もしれない う ? そのとききみは、彼の高邁な精神も、彼が神聖な正し誤る場合が少ないのである。きみよ言じよ、、 が、一つ歴史の本をひろげてみたまえ、あたりを見まわして い思想に貫かれていることも、すべて否定してしまうだろう みたまえ。高潔無比な目的のために、頭を壁にぶつつけてい か ? 明らかに、そんなことはなかろう。彼は自分自身を、 自分の頭を犠牲にしているのであるから、深い信念も、神聖る賢明な人間を、のべっ幕なしに見るだろう。ただ目さえあ れば、見ることができるのである。歴史上の人物を取り上げ な正しい思想も、すべてそのまま彼に残りうるわけである。 てな 大帝でもしし 彼が真理のための偉大な闘士であることを、きみははたしててみたまえ。まあ、たとえばビヨートル 否定するだろうか ? 明らかに、そんなことはなかろう。つければ、も 0 と小さいところ、スペランスキイでも取り上げ : はたして彼らは誤らなかっただろうか、またそ まり、彼はその目的のためにきみの前で、壁に頭をぶつつけてみよう : ているのだ。しかも、そのやり方といったら、血が出るほどれと同時に、祖国の幸福という高潔無比な目的を持っていな にやるのだ ! それもすべて、真理のためなのだ。きみはそかっただろうか ? また別にヨーロッパの人物を取ってみて スペイン、イエ もいい。たとえば、イグナチウス・ロヨラ ズス会の創立者 ういう闘士を見たことがないだろうか ? けつきよくのとこ いったいなんのために彼はあれだけ高潔無比なエ ろ、きみはどこにこの人物の誤り、その裏面、その不合理を見たまえ。 発見されるか ? それは彼が目的到達のために用いた手段にネルギーと、精神力と、強情がまんと、巨大な知性を浪費し しかも、その目的は高邁なもので、人類の 存することは、明瞭である。彼は手段の点で、ただ手段の点たのであろう ! 彼ま何によってその目的を達しようとしたの 部でのみ誤ったのである、対象の見方をまちがえたのである。幸福であった。 , 。 つまり壁に頭をぶつ か ? カトリック教の強化である、 第この意味において、きみはもちろん、彼の行動の中に、「、 つけたのではないか。 録くらでも混乱と無関連」を発見することができるであろう。 お前のいうりつばな人「そう、しかしドプロリ = ーポフは、彼らのように誤るはず しかし、きみはいうであろう、 力なカた ! 」ときみはいうだろう。それはまた、ドプロリ 論間は気ちがいだったのだ、ばかだったのだ、と。それは違
いの疑問を、完全に尽くしたとはいえないことを、人々はもう 。重要なのは、諸君が社会の見ている目の前で、もっとも 正しい理念や行為を、卑俗化し、浅薄化してしまったというずっと前から見抜いてしまい、理解しているのである。まっ たくまじめな話が、諸君にはそれ以上なにものもないのだ。 ことである。諸君は不手際千万に、偉大なる思想を街頭で引 きずりまわしたのである。しかも、感激をひき起こす代わり諸君は、ほかならぬレフ・カムペークにいっさいの本質があ に、公衆をあきあきさせてしまった。このような場合、公衆ると、無邪気に信じ込んでいるのだ。わたしは率直にうち明 レフ・カムペーグが文壇を見棄てるという報 をあきあきさせるということは、大きな罪悪なのである。わけていうが、 れわれは諸君の不手際をにがにがしく思ったものであるけれが、とつじよとして伝わったとき、恐怖の念に打たれたもの ど、諸君がしばしば事を仕損じるのを見るのが、痛ましくてである。わが国の詩製造家諸君、雑録家諸君、それから一般 に、われこそわが国のプログレスの指導者であると自任して たまらなかった。一年前に言がニキータ・べズルイロフ いるすべての連中が、いったいどうするだろうかと、憂慮と の雑録のことで、ビーセムスキイ氏の件を仕損じた時など は、われわれは心底から痛ましく思ったものである。あのと恐怖の念に襲われたものである。なにしろ『ヴ , ーグ』名 ) 「悪 霊』第一編第 ) とレフ・カムペークは、じつに長い長い年月のあ き理は完全に諸君のほうにあったのだから、ああいう問題を一章六を参照 仕損じるなどということは、あるまじきことなのである。諸いだ、わが国のプログレス派とその幼い子供たちの有象無象 : 一年半ま しかも自分で自分のしたことがを、教育する上において貢献したものであるー 君は味方をなぐったのだが、 えに ( なんという昔の話だろう ! ) 、第一の脚黻である『ヴ わからなかった。現に今でもそれを悟っていないのだ。社会 エーク』が、ジャーナリストの墓掘り人に葬られて、姿を消 はもう以前から、諸君を疑いの目をもってながめていたとは した時、プログレスも社会も愕然としたものである。ところ いうものの、俗化すべからざるものを、常に俗化するという 。椅子は取 ことは、なんといっても、世に害毒をもたらす行為であるが、こんど第二の脚韻のカムペーグが消えていく こんなことに : 、諸君はまさしくそれをしているのだ。のべつやっているり払われた、おお、なんということだろう ! のだ。社会が諸君をうっちゃらかしにしているのは ( 事実、なったら、プログレスの運動とわが社会の成功のために、そ ちょうぜん とわたしは悵然として 部社会は諸君をうっちゃらかしにしている ) 、諸君が奉仕してもそも何が残るというのだろう ? ただ永遠に若くして永遠に可能性を 第いる ( ? ) 理念を放棄したからではなくて、諸君自身があま叫んだものである、 録りにもなっていないからである。どうか信じていただきた有するアスコーチェンスキイと、それにグケリヴァン ( ホップ ) レフ・カムペーク くらいしか残りやしない。それ以外には何もない、まったく ) とネーフスキイ通りの椅子だ . 何一つ残りやしな、 論けでは、現代のすべての問題や、最近わが国に生じたいっさ ラロ 6