ポーチヴァ って愛しているもの、愛し得るものは、はたしてなんである否定して、「有機的、土地的、独立不覊の生活」という、本 か ? いまロシャにおいてわれわれに貴いものはなんである誌の表現を嘲笑するのであろう ? しかし、高慢らしく嘲医 か ? われわれロシャ人は独立不覊である、独自である、自しながら、彼ら自身のべっ幕なしに誤謬を犯し、わが国現代 分自身の歴史を持っているという思想を、わが国では、はたの国民生活の諸現象の判断にまごっいて、それが有機的であ して恥辱と思っていないだろうか、退歩主義と考えていないるか付け焼刃であるか、いいのか悪いのか、健全なのか虫く だろうか ? 最高の繁栄の基礎という意味における国民性 いか、なんと決定していいか知らないのである。彼らは極端 は、なにか病気のようなものであって、それを治療してくれに決定の正確さを失ったため、はては決定を恐れて、しだい しだいに抽象へ逃避するようになった。わが国の病気してい るものは、すべてを拭い去る文明であるという思想が、わが 国でははたして科学の原則と見なされていないだろうか ? る社会においては、善と悪、有害と有益に関する観念が、ま われわれの信念によれば、どこからかわが国に輸入された すますみだれてきている。今日われわれのうちはたしてだれ 思想が、それ自体いかに有益なものであるにしても、それが が、正直なところ、何が悪であり、何が善であるかを知って わが国で是認され、確立し、真の益をもたらすのは、わが国 いるだろう ? 何もかもが係争点となって、だれもかれもが 。ししながらも、わ において、実地の上で万人がその思想の必要を意識した結自己流に解釈し、かっ、教えている。そうま、 果、国民生活そのものが外部からの示唆や推薦なしに、自分れわれは自分自身を誤りのないもの、すべてを知っているも 自身で自然に、実際的にその思想を体験した時に限るのであのと吹聴しているのでは、もちろんない。それどころか、わ る。この世のいかなる国民も、多少なりと鞏固な基礎に立つれわれはすべての人と同様、まったく正直に心の底から、馬 いかなる国家社会も、どこか外部からあらかじめ推薦されて鹿げたことを並べているのかもしれない。われわれがいまい 借用したプログラムによって成立したというためしは、これったのは、他人を非難するためでなく、悲嘆しながらいった まで一つもないのである。すべての生けるものは自然と形成のである。しかし、なんといっても、本誌の観点はより正確 され、また事実まぎれもなく生きてきたのである。西欧のすにより誤りなく、われわれの周囲に起こっていることを認識 部ぐれた思想や制度は、一つの例外もなく、有機的な、端的し、判別する可能性を与えているように思われる ( われわれ 第な、漸層的な必然の結果、長い世紀を重ねて、独自に生みだ はいま、本誌を讃めているのでなく、本誌の観点を自讃して 録されたのである。イギリスで国会を創設した人々は、それが いるのである ) 。このような観点に立った以上は、たとえば、 後日どういうものになるかは、もちろん知らなかったのであ最近のわが国民生活に現われたもろもろの事実に対して、 論る。何ゆえにわが国の摘発者たちは、ロシャの独自な生活をかなる態度をとっていいかわからずに、当惑して立ちどまっ
。くり返していうが、新思想を気あり、永久に独立不覊のカである特質を、醜い形で示すこと い攻撃をするものではない 取ったり、効果を狙ったりした刊行物はたくさんあって、そさえあえてしたのである。彼らは汚穢と醜悪を嫌悪するのあ まり、汚穢と醜悪にばかり気を取られて、多くのものを見の れが何年間も発行をつづけたにもかかわらず、いささかも、 理論家たちの注意を惹かなかったではないか。ところが、わがした。もちろん、心から善を望んでいる彼らは、あまり厳 れわれにたいしては、ありったけの憤怒をつくして襲いかか格にすぎた。彼らは自己批判と摘発を愛するがために、「闇 の王国」のみをもとめて、明るい新鮓な方面を見なかったの ってくる。 ポーチヴァ 土地と国民的根元との結合にたいする呼びかけが、投機者である。彼らは時として心にもなく、わが国民の中傷者や、 流によって効果のために考えだされた空虚な言葉、空虚な響国民を高みから見下ろしている白い手の連中と、ほとんど軌 きでないことは、彼らも知り過ぎるほどよく知っている。こを一にすることになった。彼らは自分でも気がっかないで、 れらの言葉は彼らにとって、彼ら自身が大地の上でなく、空わが国民の無力を非難し、その独立性を信じなかったのであ 中に立っていることを想起させ、それを非難することになるる。われわれはもちろん、いまいったような白い手の連中 のである。国民性の中にほとんどいっさいが含まれていること、彼らとを区別してきた。われわれは彼らと意見を異にす こる点が少なくないにもかかわらず、真摯なる国民の友である とを認めないばかりか、国民性そのものさえ認めない理論。 対して、われわれは熱烈に抗して立ったのである。彼らはた これらの人々の愛情と、寛大なる感情を、理解もすれば、尊 だ一般人類的根元のみを欲して、国民性などは将来の発展と重するにやぶさかでもなかった。われわれは彼らの真摯にし ともに、古い貨幤のように磨滅してしまい、すべてが一つのて潔白なる活動を、尊敬してもきたし、また将来も尊敬する 型、一つの共通のタイプに融け合うものと信じているが、そであろう。しかし、こうした感情も、われわれの信念を隠さ のくせ彼ら自身もそれがどういうものか、はっきり定義するせることはできない。沈黙は依怙のわざである。のみなら ことが、なんとしてもできないのである。これは、その発展ず、われわれは前にも沈黙などはしていなかった。理論家ど ー勿叡知に深入りして、国民を理解しなかった から見て最も極端な、いささかの譲歩もない西欧主義であもは自分の書 4 「 る。彼らは狂憤にかられるままに、すべての国民のけがらわのみならず、それを軽蔑してさえいた。もちろん、悪意はな しい、醜い側面を、 そうしなくとも、時とともに当然か く、いわば、ふっとしたことなのである。われわれは断固と ならず、正しい発達に場所を譲るにきまっている側面を攻撃して確信しているが、彼らのうち最も賢明な人たちは、なに かの拍子に十分ばかり国民と話さえすれば、国民は何もかも したばかりでなく、わが国民の特質、ほかならぬ将来におい て独立自主の発展の基礎となるべき特質、わが国民の希望で理解する、と考えているのである。ところが、国民はおそら
達を遂げて、人類生活の総和に、自分自身のとくに発達しこ オれの脳裏に次のような感想が浮かんだ。千年にわたる、たと 面を寄与した時、はじめて人類は完全な生活をすることになえ輝かしいものではないにしても、とまれ歴史的生活の間 るのである。その時はじめてわれわれは、完全な全人類的理 に、われわれは若干の体験を積んだ : : : 西欧はビヨートル 想を空想できるかもしれない。われわれの頭には時として、世という人物を借りて、われわれを救うためにやって来た。 次のような考えが浮かんで来る。各人は、自分の住んでいるそして、まるまる百五十年間、さまざまな方法で、ロシャの 国にのみ独特の条件で発達を遂げていったら、必ずや社会生生活改善に着手した。しかし、こうしたいっさいの試みか 活において自分自身の世界観、自分自身の考え方、自分自身ら、はたしてどういう成果が生じただろうか ? もし西欧が : そこで、 の習慣、自分自身の法則を形成するに違いない : ロシャのために何かよいことをしてくれたとしたら、それは こんなことも考えられる、 もしほかの国で形成された一ほかでもない、 ロシャには土地というものがあって、何かの 般人類的理想のために、ある国民を強制して、彼らが自然に場合には、それにきわめて、きわめて大なる注意を払わねば つくり上げ、生活から生み出したものを放棄さすことが、生ならぬということを、証明してくれた点である、ビヨートル 理的に不可能だとしたら、どうしても国民性というものに注の改革はわが国に、一種の statuminstatu ( 国家の中の国家 ) 意を払わなければならない、 もし国民のためになんらかの発をつくり出した。それはわが国に、いわゆる教養社会をつく ソッレメンニック 達を望むならば、である : : : 国民的本能は、外部の侵犯に対 り出した。この社会は『現代人』が力説するように、クワ してきわめて敏感である。なぜなら、一般人類的であるとしス ( 国民的清 涼飲料 ) を飲むのをやめたのでなく、クワスとい 0 しょ て推奨されるものが、時としてある国においては、なんの役に にロシャについて考えることをも、やめてしまったのであ も立たないことがあり、それを適用した国民の発達を遅らする。この社会はしばしば国民的利害を裏切りながら、国民大 にすぎないからである : : : われわれはこんなふうに考える、衆と完全に乖離したばかりでなく、大衆にたいして敵対関係 すべての植物は、その生活に必要な多くの条件の欠けてに立ったのである。とどのつまり、この土地から切り離され いる国では、衰滅してしまう恐れがある。いったんこうと決た社会のよりよき一部に、国民、国民的発達という想念が目 めた一つの理想によって、すべての国民を平均化しようとい ざめ、国民的利益を自分のものとし、国民と接近しなければ うこの渇望は、根底においてあまりにも専制的である、とさ ならぬという意識が目ざめるまでには、多くの努力と時日を えわれわれには時として感じられる。それはすべての国民に要した。 独自の発達と、知的自治の権利を、いっさい拒否することで 理論家たちは、すべての国民性を否定するまさにそのこと ある。本年挙行されたロシャ建国千年祭に関連して、われわによって、「国民と接近する」が何を意味するかをも、理解
のもののために、合流することをあえて辞さないのである。 るもの、社会や共同体のすでに形成された基礎のあるものに われわれはもちろん、筋道のとおったのと安価な連中とを問 は、多くの意義があり、未来にたいする多くの希望があるの わず、われわれの摘発者とともに、ある種の積もり積もったで、西欧の理想が無条件でわれわれに当て嵌まるというわけ 残滓物の腐敗をも、かいびやく以来の汚物をも、否定するも にいかないのである。 のである。われわれはいうまでもなく、彼らに負けず劣ら それが当て嵌まらないというもう一つの理山は、それがわ ず、更新にむかって努力している。しかし、われわれは汚物が民族とわが国の歴史によって体験されたものでなく、その といっしょに、黄金までも棄てることを欲しない。 しかも、形成には別の事情があったということ、国民性の権利は、す A 」 その黄金が、自己独特の天然の黄金が、わが国の大地のなかべての国民や社会に存在し得るいっさいの権利より強、、 にあるということは、生活と経験の教えるところである。そ いうことである。これはあまりにも周知の原理であるが、は れはロシャ人の性格と習慣の自然な、父祖代々の基礎の中に たしてこれをくり返さなければならないのだろうか ? わが ヴーチヴァ 理まっていて、救いは土地と国民の中にあるのである。この国民を無能者と考えている人々、彼らのけがれと醜さのみ指 国民がおのれの独立を守りおおせたのも、ゆえなきことでは 摘したがっている人々、彼らを独立の能力のないものと見な 。ところが、ある種の安価な批評家は彼らを嘲笑して、 している人々は、すでにそのこと自体によって、内心ひそか やつらは何ひとっしでかさなかった、何ものにも到達しなか に彼らを軽蔑していることをも、はたしてくり返さなければ った、といっている。事実を見ようとしないのは、ご勝手でならないのだろうか ? まったくのところ、ただ本誌のみが ある。国民が何をしたかということ、つまりそのことを、わわが国民の独立匪を、現在のままの形においてさえ、完全に れわれは指一小しようと思うのである。そのことはなおさまざ 認めているのである。本誌は、現在たといいかなるものであ まな結果も指示するであろうし、科学も発展させるであろろうとも、わが国民性を独立的拠点として、いきなりそこか 二百年間も陰気くさい孤独の中に う。われわれはそれを信ずる。わが国民が長い世紀の間おのら出発したのである、 れを守りとおしたということ、もしほかの国民が彼らの立場暮らした、見る影もない、野蛮な国民性。しかし、その中に 部にあったら、彼らが主の神より送られたような幾千の試練のこそ彼らの発展のあらゆる手段が含まれていることを、われ 第あとで、なにかチ = グチ ( ヤの牧みたいなものにな 0 てしわれは信ずるものである。われわれは理想を求めるために、 録まったろ、フとい、つこと、 このこと一つだけでも十分であ古代のモスグワまで出かけはしなかった。まず最初すべてを ドイツふうに急激に改革しなければならぬ。その時はじめ る。彼らに多くのけがれがあったとて、かまわないではない 論か。彼らの人生にたいする見方、彼らの父祖伝来の習慣のあて、わが国民を未来永劫の建築に役立っ材料と見なす、など
く、彼らが何をしゃべったにせよ、耳も傾けなかったことで彼らが自分たちの学問や、教授の身分や、さまざまな美点 あろう。国民は今にいたるまで、われわれの同情の誠心誠意や、それどころか、ほとんど官等のことまでも、あれほどし を信じないどころか、なぜわれわれが自分のためでなく、彼よっちゅう云々しているのも、ゆえなきにあらずである。彼 らの利害を守ろうとするのか、それにはどういう必要があるらの中でもっともお慈悲ぶかい連中は、民衆にあらゆる学問 のかと、不思議がっているほどである。なにしろわれわれはを教えて、それによって教養をつけた上で、民衆を自分たち 彼らに向かって、小鳥の言葉でしゃべっているのだ。しかし、の水準まで高めること、まあ、それくらいなことに同意して 理論家たちはかたくなに、この事実を見ようとしない。いずいる。彼らは、「国民的根源」というわれわれの表現を理解 くんぞ知らん、ーー単にものの考え方のみならず、事実そのしないで、それがまるで何か神秘的な意味を隠した神秘的な ポーチヴァ ものさえ、彼らが空中に浮かんで、土地に対する拠点が少し公式ででもあるかのように、われわれを攻撃している。「そ れに、国民性なんて、どういう新しいものなんだ ? 」と彼ら もなく、完全な孤独の中にあって、そんなことは見当ちがい はいっている。「それは以前にも千回もいわれたことだ、今 だ、まるで見当ちがいだということを、彼らに納得させるこ とができなかったであろう。 では遠い過去となったつい最近の時代にさえ、くりかえしい ところで、わが空論家はどうかというと、もちろん彼らはわれたことだ。どこにいったい新しい思想があるというの だ、どんな特殊性があるというのだ ? 」 国民性を否定しはしないが、その代わり、高みから見おろし 、ゝこ見る くり返していう。問題はいっさい、「国民匪」という言葉 ている。問題はほかでもない。国民と国民性をし力し か、ということであるが、彼らはあまりにも旧式な見方をしの解釈に存する。国民との結合に関するわれわれの言葉の中 には、なんら神秘的な意味もない、それは文字どおりに、ま ている。彼らは種々さまざまな社会層や残滓を信じている。 空論家たちは国民を教えようとして、彼らのために民衆読物ったく文字どおりに理解すべきであって、われわれは今日に を書くことに同意している ( もっとも、今まで一冊の本も書いたるまで、明瞭に表現したと確信している。われわれは、 くことができなかったが ) 。そして、彼ら自身が、仮面舞踏民衆と完全に、できるだけ鞏固に、精神的に結合しなければ 部会の流儀でなく誠心誠意、民衆となった時、すなわち、国民ならない、完全に彼らと溶け合って、精神的に彼らと同一単 第の利益が完全にわれわれのものとなり、われわれの利益が彼位にならなければならぬと、端的にいったのであり、今でも 録らのものとなった時に、民衆はそうした本を読むようになる いっているのである。われわれはこのことをいったのであ り、今日まで引きつづきいっているのである。理論家や空論 という、根本的な原理を理解しないのである。しかし、そう ポーチヴァ 家たちは、もちろん、こうした完全な結合を理解することが 論した土地への復帰は、彼らにとって考えることもできない。
ゆる国民の利益のために行動する、真の国民性なのである。 ある。しかし理論家たちはまたしても、その民衆との接近は したいとういうことなのか、と質問するであろ、つ。この問 運命はわれわれの間に、それそれの任務を適当に配分した。 すなわち、一般人のおのおの異なる面を発達させることであ題について、あまり長々と弁じ立てないために、教養階級と 民衆のため、何が必要かということを、簡単に述べることに る : : : おのおのの国民が、その物質的状態の条件に応じて、 おのれの任務をはたした時、その時はじめて、人類はその発する。 達の回帰を完全に遂行したことになるのである。各国民の任 民衆の間に読み書きを普及すること。わが国の民衆が 務には、はなはだしい相違はない。なぜなら、おのおのの国貧しく、かっ飢えているのは、けっして日々のパンを獲る資 民性の根本には、一つの一般人類的な理想が存在していて、カが足りないからではない。わが国は土地に富んでいるし、 それはただその国々の色彩で、陰影づけられているにすぎな労力が不足しているために、労賃をかせぐことは困難でな 民衆が貧しく、かっ飢えているのは、特殊な事情のため いからである。右の次第で、もしすべての国民がおのれの真 実の利害を理解したならば、各国民の間の敵意などというも に精神的な水準が低く、手近にある大きな自然の富から、利 のは、けっしてありえないのである。ただ、そのような理解益を引き出すすべを知らないからである。したがって、何よ がきわめて稀であって、各国民は隣国にたいする空虚な優位りもまず、彼らの知的発達に心をつかわなければならない。 のみに、おのれの光栄を求めている、それが困ったことなの 階級的障壁を取りのぞくことによって、わが国の百姓 この障壁は、彼ら である。一般人類的な任務を進めつつあるさまざまな国民の社会的地位を軽減しなければならない。 は、科学の専門家に比較することができよう。彼らのひとりが多くの位置につくことを妨げているのである。このための ひとりは、自分の対象を専門的に研究しており、彼はその対方法は、階級的特権の問題と緊密につながれている。 象にたいして、他の何よりもまず特別な興味をいだいている C 民衆と接近するためには、われわれ自身もいくらか精 のである。しかし、彼らはすべて、一つの共通な科学という神的に改造されなければならない。われわれは階級的な偏見 ものを念頭においているのだ。科学というものは、その対象と、利己的な考え方を放棄しなければならない。かってあれ の専門化と、個々の人の私的研究によらすして、科学は何にほど濫川されたわれわれの拳は、民衆にとって苦しいもので よってその拡大と深化を進めることができようか ? あった。また彼らはわれわれのフランス的な慇懃さもがまん こうして、われら自身の利害と人類の利害。 ま、次のことをできない。それは彼らのために侮辱的なのである。民衆を愛 さなければならない。ただしその愛はけっして書斎的な、セ 要求している。すなわち、われわれが自分の仕事によって、 国民性の地盤に帰り、わが国の地方自治体と結合することでンチメンタルなものであってはならない。
衆が幾世紀の間も、いかに頑強にその社会制度を守ることに 判断したからである : : : 彼らがおのれのものを守るのは、自 努め、とにかく守り終せたという事実に、注意を払うことで分が見たり聞いたりしたもの以上に、すぐれているように思 ある : : : この現象は、わが民衆が政治的生活の能力を持ってわれるからである。一つ見てみたまえ、 イギリス人はい いる証拠でなくて、はたしてなんであろうか ? かに執拗に自国の大学を擁護することか。そのくせ、この制 第三に、この民衆は時として、物事の判断になんという要度が現代の観念とはなはだしく食いちがっているのを、自分 領のよさを示すことだろう、なんという成熟した実際的な知でも意識しているのである。彼らにとってイギリス的な教 性、的確な一言葉の使いかたを示すことか。しかも、この民衆育・薫陶の方法が貴いのは、この方面においてそれを最もす はなんら法律的な教養も持たず、ローマ法など少しも知らな ぐれていると思うからではなく、それが自国のものだからで いのである。二月十九日の法令鱸 ) は民衆を生活に呼びもある。あるいはドイツ人を見たまえ。彼らは時として、いか どし、彼らを新しい条件のもとにおいたのであるが、彼らは にあくどいセンチメンタリズムをもって、自国の警察や、各 その新しい状態を判断する能力がないどころか : : : 農民の事種の Rat( 会議 ) や、他国民にたいするドイツ国民の優越を論 情を注視するならば、さまざまな事実の中に、無知と愚昧の議することか。それからフランス人、ーー彼らはのべっ幕な ほか、まだなんらかのものが現われることを、認めないわけ しに、自国の光栄や、国民的制度や、戦功を語るが、その理 ーしかないであろう : もしそれよりほかの言い方をしたら、光 由はほかでもない さて最後に、これほど容赦のない恐ろしい力をもって、ロ 栄ある自国民にそむくことになるからである。ところが、偏 シャに発顕される自己批判の能力は、自己批判をなしうる人狭な国民性はロシャ精神の中にはない。わが国民は容赦のな 人が、生活能力を有していることを、証明するものではなか い力をもって、自己の欠点をさらけ出し、全世界を前にし ろうか ? イギリス人や、ドイツ人や、フランス人にしばして、おのれの病源を語り、容赦なくおのれを鞭うつことを辞 ば見られる、偏狭な国民的エゴイズムは、ロシャ人の性格にさないのである。時としては、おのれ自身にたいして公平を ないことなのである。たとえば、イギリス人が自国の制度に欠くことさえある、 それは真実と真理にたいする烈しい たいするように、はたしてわが国民がおのれの習慣や、迷信愛のためなのである : : : この自己批判、自己鞭撻の性質は、 や、生活形態に、執着を持っているだろうか : : ロシャの民どれだけの力をもって、文学に表現されていることであろ 衆がおのれのものを固く守るのは、それが自分のものであるう。たとえば、ゴーゴ リ、シチェドリン、その他すべての否 からでなく、それ以上によきものを聞いたことがないからで定文学がそれである。それはオチャコフの戦勝とクリミャ征 あり、外部からすすめられたすべてのものが、劣っていると服時代の最も肯定的な文学よりもはるかに生命力に富み、生
数世紀を要する問題である : : : そこで、ビヨートルの誤謬と ければならないものを見なかったことであり、学ばなければ R いうのも、彼が自分の生涯中に、一挙にして、ロシャ国民のならないものを学ばなかったことである : : : そういうわけ ートルの改革はわが国民性、わが国民精神への背 風俗、習慣、見解を、一変しようとしたところにある。そので、ビョ 改革の専制君主的な方法は、大衆の間にただ反動を呼び起こ反、という性質を帯びたのである。ある国民の生活には、新 したのみである。ドイツ人が彼らの国民性を犯そうとすれば鮮な空気の中へ出たいという特別な要求、現在に不満を感じ するはど、大衆はそれに対して、ますます自己を守ろうと努て、何か新しいものを欲するという、特別な要求の生ずる時 めた。しかし、その反面、ビヨートルの改革がわれわれの間期がある。ビョ ートルに最も接している時期には、民衆が生 、主として、一般人類的な、西欧的な要素をもたらしたも活の痩せを感じて、現実に抗議を提出し、新鮮な空気の中へ のと考えるならば、それは非常な誤りでなければならない。 出て行こうと試みたのは、疑いもないところである : : : 少な ます最初は、この上もなく恐ろしい風習の弛緩と、ドイツ式くともわれわれは、一つの歴史的事実であるわが国の分離派 の官僚主義、役人気質が、わが国に植えつけられたのであ教徒のことを、このように解釈している。ビヨートルのよう る。民衆は改革の利益を感じ取らず、新しい秩序のもとに、 な歴史的現象が、わが国の土地に生じたのは、もちろん、な なんら事実上の軽減を見ることができなかったので、彼らは にかの奇跡によるものではない。それは疑いもなく、時代に ただ恐ろしい圧迫のみを感じ、心に痛みを覚えながら、遠いよって更新されたものである : : : ロシャの空中には、早くも 昔から聖物と見なして来たものが冒漬されるのを、じっと耐改革の嵐の胚子が漂っていたが、ただピヨートルという人物 え忍んだのである。それがために民衆は全体として、改革前の中に、わが国の歴史的生活に新しい方向を与えようとい と同じ状態にとどまったのである。もし改革が民衆に何かのう、熱烈な全国民の希望が集中されたのである : : : しかし、 影響を与えたとしても、それはけっして民衆の利益となるよすべて過渡期の性格というものは、過去の秩序から脱したい うなものではなかった。こういったからとて、われわれはビ 、、、にして脱する という熱烈な希望は感じられながらも ートルの一般人間的意義を、頭から否定するつもりはない 、はっきりと意識されず、理解さ どこへ向かって行くかが : それは、プーシキンの見事な表現によると、ヨーロッパ れない とい , っと」ろにある : : : ビョ ートルの誤りは、更新 への窓をうち開いたものである。われわれが何かと学ぶことを欲するロシャの希望を、自己流に解釈して、しかも自己流 のできる西方を、指し示してくれた。しかし問題は、それがに実行したことである。彼は、ロシャの必要とするものと違 単なる窓にすぎないということである。選ばれたる人々は、 ったものを、専制君主的に生活に植えつけようとした。した その窓を通して西方をながめたが、かんじんなことは、見ながって、ピヨートルを国民的現象と名づけうるのは、更新を
しないのである。彼らは、地方自治体がわがロシャ生活におという作家たちが、百姓を愚かなものとして描いているから いて、もっとも必要な要素である、ということも理解しなけである : ・ : ・彼らはある種の先入観をもって国民をみているわ れば、われわれと国民との接近がいかなる形で現われなけれけではなく、愚かな百姓を愚かだといったにすぎない、 ばならないか、をも理解しないのである。「われわれが国民われている。しかし、ウスペンスキイ氏の短編「荷車』のよ うな作品は、われわれの確信するところによると、国民に対 に接近すべきか、または彼らがわれわれに近寄るべきか ? 」 と『現代人』はいっている。「国民のほうがわれわれに近寄する中傷である。これでも先入見でないだろうか ? なに るべきである、というより、むしろわれわれのほうが彼らをぶんにもこれらの作品には、なんらかの底意があって、時に 自分のはうへ引き寄せるべきである。なぜなら、われわれのよるとあまりにもぐあいの悪いことがある。これについて は、『現代人』の提示する説さえも、われわれにとっては慰 ほうに一般人類的理想が高翔しており、われわれはプログレ めにならない。同誌のいわく、大衆というものは、フランス スと文明のロシャにおける代表者だからである。しかるに、 国民は愚眛であって、今日まで何一つ形成することができなでも、イギリスでも、ドイツでも、いたるところ愚昧で、あ まりにも家畜的である。旧慣が深く根を生やして、彼らは大 かった。国民の環境は無意味である、鈍感である」しかし、 われわれの頭には時として、こんな考えが浮かんで来る、部分、万事につけて、機械的に行動している、というのだ が、もし彼らが、愚昧で、機械的に行動している、等々であ われわれがオリンポスの神々のような高みから下りて行 って、言葉の上ばかりでなく実際に、彼らに手をさし伸べなるならば、なんのために大衆のことで気を揉む必要があるの だろう。ただ残念なのは、理論家がこの場合、自分の結論を い限り、国民はわれわれのほうへ近寄って来はしない。なに しろ国民はわれわれに必要を感じていない、彼らはわれわれとことんまで持っていかないことである : そこで読者に申し上げるが、こうした理論家の陣営の見解 などなくても堅固でいるだろう : : : われわれは足もとに支点 を感ぜす、背後に国民大衆を持たないがために、しだいに痩には、恐ろしい貴族主義があるように、思われてならない。 彼らは自分たちを何かしら、文化の貴族階級に仕立て上げ、 せ細っていくけれど、国民はけっして枯死することがない ロシャの地方自治体が守らなければならない中心になろうと 部彼らは独力で毅然としている : : : 強い力を持たず生気がない 第のは、教養社会と名乗る光栄を有するわれわれ自身なのであしている、かのように思われる : : : これら理論家の教義は、 録る。国民が、すなわちわが地方自治体が、愚昧であるという昔のロシャにしばしば起こ 0 た貴族と地方自治体翁 ) の争 いの徴候ではあるまいか ( ただし、別の形をとった徴候であ ことに同意させようとして、みんながわれわれを説得にかか 論っている。その理由は、ウスペンスキイとかビーセムスキイる ) 。このような事実は、わが国の官吏階級の民衆にたいす
望などについて、あらゆる側面から論議するようになった。 べを知らないという非難を、見事に清算してしまった。三 こうした関、いは、前掲の通信にふくまれたもろもろの事実 十年戦争を皮切りとして、ドイツはただやられてばかりい からも察しられる。諸大学の教授たちも主要なテーマ、本質 た、みんなにやられた、トルコにさえやられた。そのドイツ がとっぜん、世界でもっとも好戦的な国民を破ったのであ的な問題について、絶えず混迷しがちである。トライチ = ケ ・フィッシャーはフ る。彼らは統一して、新しい帝国をつくった。この新国家は宗教改革を賞讃しているし、グーノー は、けっして自分の国民を以前のように、みじめな政治的状アウストやグレート〈ンの国民的意義を論じているし、ノー ルは『未来の音楽』について講義している、等々である。そ 態にはおちいらせない、以前のような屈辱はけっして味わわ の際、彼らが国民的な誇りの感情に敢然として身をゆだねて せないと、自負するだけの力を有している。そこには喜ぶべ トイツ人が何を しるからといって、驚くわけにま、、よ、。・ き理由が存するのである。ドイツは以前イギリスやフランス を、下男がご大家のだんなを見るような、羨望の目でながめ誇るべきかを知 0 ているばかりでなく、彼らが誇るべきもの ていたものであるが、今ではもう羨しがるような理由がなくを有していることも、否定するわけにいかないのである。幸 福な国民 ! 偉大な現象にみちた彼らの過失は、もはやそれ なった。彼らは最高の政治的位置を獲得したのである。 この新しい帝国が堅固なものであるか ? ということは別自身として、彼らのためのカの源泉であり、長く涸れること ーベンハウェ 問題である。そこにははたして将来有望な牢固たる生活の胚のない信仰と愛を湧き立たせるであろう。シ ' ルの理念の普及や、深い問題にみちたワグナーの音楽など 種があるのだろうか ? この問題に答えるためには、国民の は、少なくともドイツ的な深遠な思想や、芸術的創造力が、 精神生活を見なければならない。なぜなら、国民は軍隊にさ いまだに生きていて、もっとも高潔な志向によって鼓舞され / ンや工場製品で生きてい さえられているのでもなければ、。、 ていることを、証明するものである。 るのでもなくて、その心情と魂を養う理念によって生きてい 今日のドイツの文化が孕んでいるもの、ドイツで展開され るからである。これはわれわれにとって最も興味のある問題 ている運動の意味を研究することは、われわれにとってもっ で、むしろ本質的な重要性を有しているくらいである。とい とも重大な仕事である。有名な批評家ュリアン・シュミット 部うのは、われわれロシャ人もこれらの理念の影響を避けるこ 第とができないからである。もちろんドイツ人も、問題はすべがいったことは当を得ている。つまり、わが国のニヒリスト 録て内面的生活にあるので、単にフランスにたいする戦勝にのやレアリストは、ドイツに生まれ、成熟したものの反映にす み存するのではないということを、よく知りぬいている。そぎないというのである。こういうわけで、ドイツ人はその他 論のために最近では、自国の文化、その現代的意義、将来の希の多くの事がらについて、ず「と前からわれわれの先生であ 165