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検索対象: ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々
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1. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

したのが、すこぶる不愉快だったらしい様子である。最初の と、昨日からの病気のために、気が立っていたのである。と にかく、わたしはナターシャのところへ飛んで行った。わた瞬間、彼はわたしに気がっかなかったが、突然その顔つきが しが向こうへついたのは、もう大分遅くて、八時を廻った頃がらりと変わってしまった。初めわたしに投げつけた毒々し であった。 、、、ここやかな表 い憎悪にみちた眼ざしが、突如、愛想のしし ~ まだ通りを歩いている時から、わたしはナターシャの住ん情に変わった。彼は何かしら度はずれに嬉しそうな様子で、 わたしに双の手を差し伸べた。 でいた家の門際に一台の馬車がとまっているのに気がっ 「ああ、あなたでしたか ! わたしはたったいま膝をつい た。なんだか、それが公爵の馬車のように思われた。ナター シャの住居へ入るロは、内庭のほうについていた。わたしがて、どうか命を助けてくださるようにと、神様にお祈りする ところでしたよ。わたしが悪態を吐いたのをお聞きになった 階段を昇りはじめるやいなや、階段一つ分くらい上のほう を、手探りで用心深く昇って行く足音を耳にした。明らかにでしよう ? 」 そして彼はいかにも単純そうな声を立てて、からからと笑 これはきっと公爵にちがいない、と 勝手不案内な人らしい いう気がしたけれど、間もなくわたしは、それが考え違いでった。と、不意にその顔は真面目くさった、心配そうな表情 あったと思うようになった。見知らぬ人は、こっこっ昇ってをおびて来た。 「ど、つもアリヨーシャとい、つやつは、よくもナタリヤ・ニコ 行きながら、ぶつぶついったり、階段を呪ったりして、さき へ行けば行くほど、その語調が猛烈に手厳しくなったのであラエヴナをこんな所へ住まわしておけるものだ ! 」と彼は小 る。もちろん、階段は狭く汚らしく、おまけに急で、かって首を振りながらいった。「こういったいわゆる瑣細なことで ためし 灯のついた例のないのは、事実ではあるけれど、もう三階目人間がわかるもんですな。わたしはあれのことが心配でなり あたりからはじまったロ汚い罵詈の言葉が、公爵の口から出ませんよ。根は善良で、高尚な心を持ってはいるんですが、 たものだとはいかにしても考えられなかった。さぐりさぐり早い話が、まあ、これです。夢中になるほど愛していなが 階段を昇って行く紳士は、まるで車夫馬丁のような、悪口雑ら、その愛する女を、こんな犬小屋同然のところへ住まわし 言を吐き散らしていたのである。しかし、三階からようやくておくのですからね。それどころか、時にはパンのないこと 々灯がっき始めた。ナターシャの住居の戸口には、小さな灯がさえあったという話ですよ」と彼は・ヘルの引き手をさがしな し点っていた。戸口のすぐ傍で、わたしは見知らぬ男に追いつがら小声でつけ足した。「わたしはあれの将来や、ことに主 れ いたが、それが公爵だと気づいたとき、わたしの驚きはどんとしてアンナ・ニコラエヴナの将来、あの人が息子の妻にな ・ : などを考える時、頭が割れそうですよ」 なだったろう。彼のほうでも、こうして思いがけなく出くわった時のこと : ノ 83

2. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

「シュルツさん頼みます、あの人をたくさん見るいけません。あの人、宮中にまで知られています」 しかし、哀れな老人はそれでも合点がいかなかった。彼は ん」と、えたいの知れぬ客にじっと見入りながら、彼は根か 前よりもっとあたふたして、自分のハンカチを拾い上げよう ぎり大きな声でいった。 ハンカチが、帽子 老人は機械的にミルレルを見上げたが、今まで不動を保っと身をかがめた。古い、穴だらけの、青い のなかから落ちたのである。それから、身じろぎもせず床の ていた彼の顔に、突如、何かしら気がかりな想念というか、 不安な動揺というか、そうしたものの影が現われた。彼は急上にねそべっている大を呼びはじめた。犬は鼻面を前脚の上 にあたふたし始め、うんうんいいながら、身をかがめて帽子にのせて、見たところ、ぐっすり眠っているらしかった。 「アゾルカ、アゾルカ ! 」彼は老人らしい慄え声でもぐもぐ のほうに手を伸ばし、杖といっしょに、そそくさと帽子もっ といった。「アゾルカ ! 」 かんで、椅子から腰を持ち上げ、妙に憐れつばい徴笑、 間違って坐った席から追い立てられる貧乏人によくある、卑アゾルカはびくともしなかった。 「アゾルカ、アゾルカ ! 」と老人はもう一度やるせなげにく 下した徴笑を浮かべながら、部屋を出て行く身がまえをし が、かくもつつましく従順り返して、そっと杖で大を突っついて見た、が犬は相変わら た。この貧しいよばよばした老人 に、あわてふためくその様子には、限りない憐愍を呼びさまずもとの位置を変えなかった。 して、胸を掻きむしらずにはいられないような何ものかがあ杖は彼の手から落ちた。彼は腰をかがめて膝をつき、両手 ったので、アダム・イヴァ ] ノヴィチを初めとして、そこにでアゾルカの鼻面を持ち上げた。かわいそうなアゾルカー 居合わせた一同のものは、即座にこの事件に対する見方を一彼はもう死んでいたのである。いっとも知れず、主人の足も 変してしまった。老人はだれにもあれ、他人を侮辱することとで死んだのだ。老衰のためか、それとも餓えのためかもし ができないばかりでなく、どこへ行っても、乞食のように追れない。老人は、アゾルカの死んだことが合点のいかない様 い出される心配があることを、自分でも始終はっきりとわき子で、一時はっとした面持ちで犬を見つめていた。やがてし ずかに、以前の忠僕であり親友であったもののほうへ身をか まえている、それは見るからに明瞭であった。 ミルレルは心立ての優しい、思いやりの深い人間であつがめ、生気のかよっていない鼻面に、自分のあおざめた顔を ひしと押し当てた。一分間ばかり沈黙に過ぎた。わたしたち 「いや、いや」と彼は励ますように、老人の肩をたたきなが一同はある感動に打たれていた : : : ようやくにして、不幸な らら、ロを切った。「坐っておいで ! Aber ( でもね ) ヘル・シ老人は身を起こした。見るからに色あおざめて、熱のために 胤ルツたいへん頼みます、あの人をたくさん見るいけませ寒けにでもかかったようにわなわなと慄えていた。 いっとき

3. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

わい ! 」 をさっと紅に染めながら、わたしに「ええ」といった、これ があのナターシャだろうか ? 戸があいて、ナターシャが入って来た。 タベの祈蒋をしらせる厚みのある鐘の声が響いた。彼女は 第 7 章 びくりと身を顫わした。老母は十字を切った。 「ナターシャ、お前、晩のお祈蒋に行くといってたじゃない 彼女は手に帽子を持っていたが、部屋へ入ると、それをビ かえ、もうおしらせの鐘が鳴っていますよ」と彼女はいっ アノの上にのせた。それから、わたしの傍へ寄って、無言のた。「行っておいで、ナターシェンカ、行っておいで、少しお まま手を差し伸べた。その唇はかすかに動いた。何かわたし祈りでもするがいい、幸いと、すぐ近くだから ! そのつい に挨拶の言葉でもいおうとしたらしかったが、結局、何も いでに散一にもなるよ。家に閉じこもってばかりいることはあ わなかった。 りませんよ ! ごらん、お前なんてあおい顔をしておいでな まじな わたしたちは三週間、顔を合わせなかった。わたしはためんだろう。まるで悪い目に咒いでもかけられたみたいだよ」 らいと恐怖の念をいだきながら、彼女を眺めた。この三週間 「あたし・ : ・ : 今日は行かない : : かもしれませんわ」ナター のあいだに、なんと彼女はおも変わりしたことだろう ! わシャは小さな、ほとんどささやくような声でのろのろといっ たしはそれを見てとって、胸を締めつけられるような思いが した。あのげつそり痩せてあおざめた頬、熱病にでも罹って「あたし : : : 気分がよくないの」とつけ加えたかと思うと、 いるようにかさかさになった唇、長い黒い睫の下から火のよ麻布のようにさっとあおざめた。 うに燃えて何やら熱情的な決意に輝いている目。 「行ったほうがいいのにね、ナターシャ。だって、お前、さ しかし、おお、なんという美しさー この宿命的な日のよ つきまで行くっていってたじゃないの、それに、ほら、帽 うに、彼女を美しいと思ったことは、後にもさきにも一度も子まで持って来たくせに、ちょっとお祈りしてらっしや、 なかった。これがあのナターシャなのだろうか。まだつい一ナターシェンカ、神様にどうそ丈夫にしてくださいますよう 年前に、わたしの顔から目も放さず、わたしのあとからつい にと、お祈りをして来るがいいよ」とアンナ・アンドレエヴ て唇を動かしながら、わたしの小説を聴いていたあの少女なナは、まるで娘を恐れてでもいるように、臆病らしく見やり のだろうか。あの晩夜食のときあのように朗かに、なんの苦ながら、しきりにすすめるのであった。 労もなげにからからとよく笑って、父親やわたしと冗談をい 「うん、そうだ、行って来るがいし それに散歩にもなるか こうべ ったあの少女だろうか ? またあの一室で、首をたれて、顔ら」と老人も同様不安げに娘の顔を見つめながら、つけ加え めの

4. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

でしょ , っー・」 ら声をかけた。 わたしがマヴラのところへ出て行くやいなや、まるで待ち わたしたちは部屋へ帰った。しばらくして、わたしは彼に かねていたように、アリヨーシャがわたしの傍へ飛んで来いった。 「ああ、ばくは今あなたのお父さんに会いましたよ」 「イヴァン・ベトローヴィチ、ばくはど、フしたらいいでしょ 「どこで ? 」と彼はびつくりして叫んだ。 、。まくはも , っ昨・日からカー 「往来で、偶然にね。お父さんはちょっと足をとめて、また しい知恵をかしてくださしー チャに、今日、ちょうどいま時分、遊びに行くと約東したんばくに近づきになってほしいと頼まれましたよ。きみのこと ですよ。いまさら反古にするわけにもいきませんしね ! ばも話が出て、いまどこにいるか知らないか、ときかれまし と ) い , フ くはナターシャを、なんといったらいいかわからないくらい た。ぜひ、きみに会って何か話さなくちゃならない、 ことでしたよ」 愛していて、火の中へ飛び込むのもいとわないくらいなんだ けど、それでも、あなたもわかってくださるでしようが、あ「ああ、アリヨーシャ、行ってらっしゃいよ、顔を見せてい っちのほうだって、すっかりうっちゃってしまうなんて、そらっしゃい」わたしの意向を察して、ナターシャはこう引き んなことはできないでしよう・ : : こ 取った。 「でも : : : 今どこへ行ったら会えるんでしよう、家かしら ? 」 なにいいじゃありませんか、お行きなさい : : : 」 「でも、ナターシャをどうします ? あれをがっかりさせる 「いや、たしか伯爵夫人のところにいる、といわれたようで じゃありませんか。イヴァン・ベトローヴィチ、なんとか助す」 けてください : 「それじゃ、どうしたものだろう : : : 」とアリヨーシャは悲 「ばくにいわせれば、行ったほうがいいですよ。あのひとが しげにナターシャの顔を見ながら、無邪気な調子でいった。 きみをどんなに愛しているか、きみも知ってるでしよう。あ「ああ、アリヨーシャ、どうもこうもないじゃありません か ! 」と彼女はいっこ。「いったいあなたはあたしを安心さす のひとは、きみが自分といっしょにいると退屈なのじゃない ために、本気であの人たちとの交際をやめるつもりなんです か、無理に自分のところにいてくれるのじゃないか、そんな 々気がしよっちゅうしているのです。不自然でないのが、一等の。だって、それはあんまり子供じみてるじゃありません しいいんですよ。だが、あっちへ行きましよう、ばくが助け舟か。第一、それはできない相談だし、第二に、そんなことを らを出して上げますから」 したら、カーチャに対して潔白を欠くじゃないの。あなた方 「イヴァン・ベトローヴィチ ! なんてあなたはいい人なんは親友同士なのに、そう不躾に関係が断てるとお思いになっ 学 ) 0

5. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

くたちはさっそく結婚することに決めたんだが、出発までに しげな顔つきに一驚を喫した。彼はわたしの頸に飛びつ それをすますことはできないんだよ。というのは、いま大斎 て、ぎゅっと抱きしめた。 「とうとう話がついたよ ! 」と彼は叫んだ。「誤解はすっか期で、教会が結婚を受け付けてくれないから、いっそ、ばく が田舎から帰って来てから、ということにしたのだ。それは り解けてしまった。ばくはきみんとこから、真っ直ぐにナタ 六月のついたち頃になるだろうよ。父が許してくれるのは、 ーシャのところへ行ったんだ。頭の中がめちやめちゃになっ てしまって、あれの顔を見ないじゃいられなくなったのでそりや決まりきったことだ。ところで、カーチャのことなん ね。入るといきなり、ばくはあれの前に膝を突いて、足に接だけど、どうも仕方がないじゃないかね ! なにぶん、ばく 吻をしたよ。ばくにはそうすることが必要だったのだ。それはナターシャなしには生きていられないんだもの : : : 結婚式 っしょにカーチャのいるところへ出掛ける がしたかったのだ。それをしなかったら、ばくは悶え死ににをすましたら、い 死んでしまうところだった。あれは黙ってばくを抱き締めんだ : : : 」 この赤ん坊のような男を慰め、その て、さめざめと泣き出したつけ。そのときばくはぶつつけ不幸なナターシャー に、カーチャのほうをよけい愛しているといってしまったん傍につき添って、うち明け話を聞いてやったあげく、この 邪気なエゴイストを安心させるために、間もなく結婚するな どというお伽噺を考え出してやる、その心の中はまあどんな 「で、あのひとはどうしたの ? 」 だったであろう。アリヨーシャは事実、二、三日のあいだ落 「あれはなんとも返事しないで、ただばくをいたわったり、 そんなことをいったばくをちついていた。彼はしきりにナターシャのところへ行ってい 慰めたりしただけなのさ、 ね ! あれは人を慰めるすべを心得てるよ、ヴァーニヤ。あたが、要するに、彼の弱い心が一人で悲しみに堪えてゆくこ とができなかったからである。が、それでも別離の時がしだ あ、ばくはあれの前で自分の悲しみをすっかり泣きつくし しに近づいて来ると、彼はまたもやそわそわと落ちつかなく て、何もかもあれにいってしまったんだ。ばくは真っ直ぐに そういったのさ、自分はカーチャのほうを余計に愛しているなり、涙つばくなって、またわたしのところへ駆けつけては、 が、どんなにカーチャを愛しているにもせよ、まただれを愛自分の不幸を歎くのであった。最近、彼はひどくナターシャ 々するようになるにもせよ、しかし、ナターシャというものなに愛着を感じて、一か月半はおろか、一日も彼女に会わずに はいられないくらいであった。とはいえ、彼は心の底から、 ししには生きていけない、死んでしまう、とね。そうなんだ 自分がナターシャを見棄てて行くのは、ほんの一か月半の間 らよ、ヴァーニヤ、ばくはあれがいなかったら一日も生きてい だけで、帰って来たら二人は結婚するものと、最後の瞬間ま けない、ばくはそれを感じるよ、そうなんだ ! そこで、ば

6. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

るかもしれませんて。それにしても、わたしはあの娘さんが いところに、温室が一軒あるんだが、なかなか大した温室 わが子のようにかわいそうでな : : かわいい、かわいい娘さで、そこの園丁が花を売ってるんだよ。その安いことといっ あんちよく ん ! それに、なんとも面白い気性をしておられる ! 」 たら、呆れるほど安直なのさ ! : お前このことを、アン ニコライ・セルゲーイチはかくべっ興奮していた。 ナ・アレドレエヴナの腑に落ちるように、よく話しといてお 「実はな、ヴァーニヤ、わしはこういうことを考えついた くれ。そうせんと、あれはすぐ無駄なかかりだといって怒り よ」と彼はいった。「あれは花が大好きだから、なあ、どう出すから : : : さて、そこでと : : : そうだ , もう一つお前に だろう ? 明日の朝あれが目をさました時、花を飾ってあれ いうことがある。これからお ( 劇、どこへ行くとこがある ? を迎えてやろうじゃないか、ヘンリッヒ小父さんといっしょ もう仕事も片づけて、肩の荷をおろしたんだから、何も家へ に、母親のためにやったような具合にさ。ほら、今日あれが急いで帰ることはないだろう。うちへ泊って行かんか、二階 話したじゃないか : : : あれはひどく興奮しながら、あの話をの小部屋にさ、覚えてるだろう、前によく泊ったことがある したつけな : じゃないか。蒲団もお前のがあるし、寝台もあるし、ーー何 「その興奮ですよ」とわたしはいった。「あれにはいま興奮もかも昔のままにそっくりしておって、触りもしやせんよ。 が毒なんですからね : : : 」 まるでフランスの王様みたいに、威張って寝られようという 「そりやそうだが、気持ちのいい興奮だと話が違うよ ! まものだ。え ? 泊って行かんか。明日は早めに目をさまし あ、お前、わしを信用してくれ、わしの経験を信用してくて、花が届いたら、みんなで八時までに部屋じゅうを飾り立 れ。気持ちのいい興奮はなんでもありやせんよ。気持ちのい てるんだ。ナターシャにも手伝わせよう。あれのほうが、わ 、興奮は、病気を癒すことさえあるくらいだよ、健康にきき しやお前なんかより、好みがいいだろうからな : : : さあ、賛 めがある : : : 」 成か ? 泊って行くか ? 」 一口にいえば、この思いっきはすっかり老人の気に入って みんなでわたしが泊ることに決めてしまった。老人は万事 しまって、自分のほうからさきにうちょうてんになったほど手配をすませて来た。医者とマスロポーエフは、別れを告げ である。もうそれに反対することなどは、思いも及ばなかって立ち去った。イフメーネフ家ではみんな早く、十一時には た。彼は医者に助言を求めたが、医者が考えをまとめる暇も寝ることになっていた。マスロポーエフは帰る時、もの思わ なく、老人はいち早く帽子をつかんで、仕事の始末をつけに しげな様子で、何かわたしにいおうとしたが、またこの次ま 駆け出した。 で延ばすことにした。わたしが老夫婦に別れを告げて、小部 「実はな」と彼は出しなにわたしにいった。「すぐそこの近屋へあがった時、驚いたことには、またもや彼の姿が目に入 368

7. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

そうわたしは思った。彼女の身辺には今きっと何か面倒 わたしは急いで、彼女に勇気をつけてやった。彼女はロを なことが起こって、わたしに頼みたいこともあるのかもしれ つぐみ、その熱い指でわたしの手を取ろうとしたが、すぐは っと気がついたらしく放してしまった。『この子がおれにこないのに、ちょうど生憎、わたしが顔を見せないでいるのだ。 んな嫌悪を感するなんて、そんなはずはない』とわたしは考アンナ・アンドレエヴナのほうにいたっては、あす彼女の えた。「あれはこの子の癖なんだろうか、それとも : : : それ前へ出て、なんといいわけしたらいいか、わからないほどで とも、あんまり悲しい目を見たものだから、世の中の人間をあった。わたしは考えて考え抜いたあげく、急に両方へひと っ走り行って来ようとはらを決めた。留守の間は、せいぜい だれも信じなくなったのだろうか』 いわれた時間に薬を取りに行って、ついでにいつも食事を二時間くらいのものだし、エレーナはぐっすり眠っているか する馴みの食堂へ寄った。そこでは信用貸にしてくれたのら、わたしが出かけるのに、よもや気のつくことはあるま いれもの 。わたしは飛びあがって、外套を羽織り、帽子をつかん である。この時は家を出るおり容器を用意して、エレーナの だ。と、わたしが出かけようとする途端に、思いがけなくエ ために鶏のスープを一人前もらって帰った。けれど、彼女が いやだといって食べないので、スープはしばらく煖炉の上にレーナが声をかけた。いったいこれはそら寝入りをしていた のかと、わたしはびつくりしてしまった。 のせたままになっていた。 ついでに断わっておくが、エレーナはわたしと口をききた 彼女に薬を飲ませてから、わたしは仕事のテープルに向か くないような振りこそしていたけれども、こうしてかなり頻 った。わたしは彼女が睡っているものとばかり思っていた が、ふと何気なしに振り返 0 て見ると、彼女は頭を持ち上げ繁に呼びかけたり、何か納得のいかないことがあるたびに、 て、わたしの書く様子をじっと眺めているのであった。わたわたしにそれを持ちかけすにいられないところなど、明らか に正反対な気持ちを証明しているわけで、わたしは実のとこ しはそれに気のつかないような振りをしていた。 ついに彼女は間違いなく眠りに落ちた。そして、実にありろ、それが嬉しかったのである。 かたいことには、譫言もいわす、唸り声も立てず、静かに寝「あなたはあたしをどこへやってしまおうとなさるの ? 」わ たしが傍へ寄ったとき、彼女はこうたずねた。概して彼女は 入ったのである。わたしは思わずもの思いに沈んだ。ナター いつも唐突に、まるでわたしの思いもかけぬような時に、、 々シャは様子を知らないので、今日もわたしが訪ねて行かなか しったのに、腹を立てているかもしれない。のみならす、わたろんな質問を発するのであった。この時など、わたしは彼女 らしの助力を最も必要とするかもしれぬ今この時に、わたしがの問いがよくわからないくらいであった。 「さっきあのお客さんと、あたしをどこかの家へやるって、 冷淡な態度をとっているのにがっかりしているかもしれな

8. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

「さっさと行ってちょうだい。あたし、行くわ、きっと行く 「死んだってかまわないわ」 彼女はいかにも返事をするのがいやならしく、わたしのさわ ! 」と彼女はどうか跡をつけてくれるなと哀願するよう に、恐ろしく不安げな調子でくり返した。「早く行ってちょ まざまな問いに腹を立てている様子であった。 うだい、早く ! 」 「そら、ここでお祖父さんは死んだんだよ」老人の息を引き わたしは馬車を進めた。けれど、河岸通りを少し行ってか 取った家のあたりを指さしながら、わたしはそういった。 彼女はじっと見つめていたが、とっぜん哀願の色をうかべら馬車を返し、六丁目へ引っ返して、素早く通りの向こう側 て、わたしのほうを振り向きながら答えた。 へ渡って行った。すると、彼女の姿が目に入った。足早やに 「後生だから、あたしの跡をつけて来ないでちょうだい。あ歩きながら、絶えずあたりを見廻し見廻し歩いていたが、そ たし、また行きますから、きっと行くわ ! 行かれるようにれでもまだあまり遠くは離れていなかった。わたしが跡をつ けているかいないか、よく見定めようとして、ちょっと立ち なったら、すぐに行くわ ! 」 どまることさえあった。しかし、わたしは手近の門の中に身 「大丈夫、お前のところへ行かないって、もういったじゃな いか。でも、お前はいったい何をびくびくしているの ? きを潜めたので、彼女はとうとう気がっかなかった。彼女はす っと何か不仕合わせな身の上なんだね。お前を見ていると胸んすん歩いて行った。わたしはしじゅう通りの反対側に沿い 、】痛くなるよ : ながらついて行った。 、 , 彼女の跡から入って わたしの好奇心は絶頂に達してした。 , 「わたし、だれも怖かないわ」と彼女は一種いらいらしたよ 何かの場合のために、彼 行くまいとはらを決めていたが、 うな気持ちを声に響かせて、そう答えた。 「だって、さっきそういったじゃよ オいか、「あのひとがぶつ女の入って行く家だけは、必ず見覚えておきたかったのであ る。わたしは重苦しい奇妙な印象に支配されていたが、それ 「ぶったってかまわないの ! 」と答えた彼女の目はぎらぎらはアゾルカが死んだ時、あの喫茶店で彼女の祖父から受けた 光り出した。「勝手にぶつがいしー ・ぶつがいし ! 」と彼女は印象に似かよっていた。 悲痛な声でくり返した。その上、唇は何か蔑むように持ちあ 第 4 章 々がって、わなわなと慄え出した。 人 とうとうわたしたちはヴァシーリエフスキイ島へ着いた。 れ わたしたちは長いこと歩いてマールイ通りまで辿りつい 彼女は六丁目のとつつきで馭者に声をかけ、不安げにあたり た。彼女はほとんど駆け出さないばかりであった。とうとう貶 物を見廻しながら、馬車から飛びおりた。

9. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

ながらいった。「この娘はとくと考えたすえ、今度は自分のしに気どられたと見て取ると、手を頭へ持って行って、ぶつ ほうから行きたいといい出したのです。どうか引き取ってやきら棒にいった。 「頭が痛くてな、ヴァーニヤ」 ってください、そしてかわいがって : : : 」 わたしたちはいつまでも、じっと坐ったまま、押し黙って 老人はうさん臭そうにわたしたちをちらと見たが、もうそ いた。わたしは、なんと切り出したものかと、思いめぐらし の目つきだけで、何もかも知っている、ということが察しら ていた。部屋の中は薄暗かった。黒い雨雲が押し被さって来・ れた。つまり、今ナターシャが取り残され、見棄てられて、 一人ばっちでいるばかりか、早くも辱しめられたかもしれなて、再び遠雷のはためきが聞こえた。 ということを承知しているのだ。彼は、わたしたちのや「この春は雷が馬鹿に早いな」と老人はいった。「もっとも 三十七年には、今でも覚えているが、わしらの地方ではもっ って来た秘密の理由を、見抜きたくてたまらなかったので、 もの問いたげにわたしとネルリを見つめていた。ネルリはわと早かったつけ」 アンナ・アンドレエヴナは、ほっと溜め息をついた。 たしの手をひしと握って、わなわなと慄えながら差し俯向い 「サモワールでも出させましようか ? 」と彼女は臆病げにき ていた。ただ時おり、人に捕えられた小さな野獣のように、 いたが、だれもそれに返事をしないので、彼女はまたネルリ おどおどした視線をあたりに投げるのみであった。しかし、 ほどなくアンナ・アンドレエヴナはわれに返って、それと気に話しかけた。「ねえ、お前の名はなんていうの ? 」と彼女 づいた。彼女はいきなりネルリのほうへ飛んで行って、接吻はたずねた。 ネルリは弱々しい声で自分の名をいい、更に低く差し俯向 したり、撫でいたわったりしたばかりか、泣き出したはどで ある。そして、少女の手を握ったまま、放そうともせず、優いてしまった。老人はじっとその様子を眺めていた。 しく自分の傍に坐らせた。ネルリは好奇の色を浮かべ、何や「それはエレーナのことかえ ? 」と老母は元気づいて言葉を ら驚いたような表情さえ示しながら、老婦人を横目にじろじつづけた。 「ええ」とネルリは答えた。再びつかの間の沈黙がおそっ ろ見廻していた。 、老母はネルリをいたわって、自分の傍へ坐らせると、 々もうどうしたらいいかわからないで、無邪気な期待の色を浮「妹のプラスコーヴィヤ・アンドレエヴナにも、エレーナと い , っ姪がいたが」とニコライ・セルゲーイチはつづけた。 しかべながら、わたしを見つめ始めた。老人は、なんのために らわたしがネルリを連れて来たかを薄々察して、顔をしかめ「やつばりネルリと呼んでいたよ、覚えている」 「それで、何かえ、お前冫。 リこよ身寄りの人はだれもいないの、 た。不満らしい面持ちをし、額に皺を寄せているのを、わた 33 ノ

10. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

は永年の間たったひとりでのらくらして、昼も夜も見境いな なにしろキーエフか銘 ときたら、それこそ申すに及ばすさー しという有様だが、これでも昔のことは忘れないよ。忘れらら歩いてやって来たというしろ物だからな ! おれは何度も れないんだ ! ところで、きみは、きみは ? 」 飲んで知ってるよ。あの家だったら、おれにまずいものなん 「よに、ばくだって変わりはないよ、ばくもひとりでのらく か出せる義理じゃないんだ。フィリップ・フィリップイチと らしているのさ : いったら通ったものさ。おれの名はフィリップ・フィリップ 彼はヘべれけになった男にあり勝ちの、強い感情をこめイチだったのをおばえているだろう ? どうしたのだ ? 何 て、長いことわたしをみつめていた。もっとも、そうでなくをしかめつ面をしてるんだい ? 駄目だよ、まあ、すっかり ても、ごく人のいい男であった。 しゃべらせてくれ、いま十一時十五分、ついさっき見たばか 「いや、ヴァーニヤ、きみはおれなんかとはわけが違うよ ! 」 りだ。そこで、かっきり十一時三十五分になったら放免して オしか。旧友に二十 と彼は最後に悲劇じみた調子でいった。「だって、ばくは読やるから。その間にパイ一と行こうじゃよ、 んだんだもの。読んだよ、ヴァーニヤ、読んだよ ! : とき分だけ割くんだよ、 しいたろ , っ ? ・」 にどうだい、胸襟を開いて語ろうじゃよ、 オしカ ! 急ぐのか「本当に二十分だけなら、い、 しとしよ、つ。圭〈は、まったくの ところ、用があってね : : : 」 「急ぐんだ。それに、正直なところ、ある事件でひどく気分「、、 ししならもうそれでいいさ。ただし、その前に一こといわ をめちやめちゃにされてるんだよ。それより、きみはどこに してくれ。きみの顔色はどうも良くないよ、ついたった今い 住んでいるんだい ? 」 ゃな目にあわされたみたいにさ。図星だろう ? 」 「それは今にいうが、そんなことは『それより』じゃな 「図星だ」 よ。おれがもっと、 しいことをいお、つか ? 」 「どうもそうだろうと思ったよ。おれはこのごろ人相見に凝 「うん、なんだい ? 」 り出したんだが、これだって暇つぶしにはなるよ ! それで 「ほかでもない、あれが見えるかい ? 」と彼は、わたしたちはと、出かけようじゃよ、 オしか、少し話をしよう。二十分あれ の立っている場所から十歩ばかり離れたところにある看板をば、ばくはその間に、まず第一「アドミラル・チャインスキ ・ヘリョ / フウ 頂さした。 イ』 ( お茶 ) をきこしめしてさ、『白樺酒』をあおり、それから ポメランツェワャ ・ハルフェータムール 「見えるだろう、喫茶と食事、つまり、手つ取り早くいえ「ゾルナャ』、それから「金柑酒』、それから rParfait ・ amour 』 ば、小料理屋さ。だ力いいところだよ。断わっておくが、 をひっかける暇があるし、その後でまた何か考えつくこと 決してお人柄にかかわるようなところじゃなし、ウォートカ にしよう。おれは大いにやってるよ、きみ ! ただ祭日の昼