えていった。ヴァシーリエフスコ工の領主と支配人の交渉 いが、そういうこともなかったので、公爵はある時、唐突に 自分のほうから、親友として折り入って頼むといった形で切は、どちらの側からもいささかの不快事を伴わなかったが、 り出した。イフメーネフは初め辞退していたが、相当まとましかしそっけない事務的な書面の往復以外には一歩も出なか った俸給額が、アンナ・アンドレエヴナの食指を動かした上った。公爵はイフメーネフの処置にいっさい干渉しないで、 っさいの疑念を時おり自分の意見を述べてやったが、それがまた非凡な、実 に、前にも増して慇懃な依頼者の態度が、い 打ち消してしまった。公爵はついに目的を達したのである。際的な、事務的手腕を語るもので、イフメーネフさえ驚嘆す おもうに、彼は人を見る優れた眼識をそなえていたに相違なるくらいであった。彼が余計な浪費をするどころか、利殖の い。イフメーネフと相識になってから僅かな間に、彼は相手才さえも有していることは明らかであった。彼がヴァシーリ がどういう人間であるかを見抜き、イフメーネフのような人工フスコ工を訪れてから五年たったとき、公爵はイフメーネ 間は、へだてのない親友の交わりで魅了して、まずその心をフに委任状を送って、同じ県内にある農奴四百人っきの素晴 らしい領地を買わした。イフメーネフはうちょうてんであっ 惹きつけておかなければ、金の餌だけでは大した効果がない ということを、のみ込んだのである。彼にして見れば、盲目た。公爵の発展ぶりや、その成功昇進に関する噂など聞く 的に一生信頼できるような支配人がはしかったのである。そと、彼はまるで親身の兄弟のことみたいに、心のそこから喜 うすれば、もう二度とヴァシーリエフスコ工村へやって来なんだ。けれど、公爵がある機会に、まぎれもない特別の信頼 くともすむわけで、彼は事実それを当てにしていたのであを示したとき、彼の歓びは絶頂に達した。それはこういうわ る。彼がイフメーネフを魅惑したことは非常なもので、相手けである : : : しかし、ここでわたしは、ある意味からいって は心から彼の友情を信じ切っていた。イフメーネフはこの上この物語の最も主要な人物であるこのヴァルコーフスキイ公 もなく気立てのいし 、無邪気なほどロマンチッグな人々の部爵の生涯中、二、三の特別な細目にわたって、述べておく必 類に属していた。こうした種類の人々は、世間がなんといお要があるように思う。 うと、わがロシャにあっては好もしい存在で、彼らはいった 第 4 章 ん人を愛するとなったら ( 時としては、なんのために愛する 々のか、合点のいかぬこともあるが ) 、全心を打ち込んでその 人に信服してしまい、自分の愛情を滑稽なところまで押し拡彼が鰥夫であることは、もはや前に一言しておいた。彼は らげていくものである。 まだごく若い時分に結婚したが、その結婚は金すくなのであ それから、多くの歳月が流れた。公爵の領地はいよいよ栄った。両親はモスクワで綺麗に破産してしまったので、 2 と四 やもめ
って養育する、というほどの光栄を与えたのである。公爵がて、甘やかし放題に育て、もう今から未来のことをいろいろ ヴァシ ー丿エフスコ工村へ行って、イフメーネフと昵懇にな画策している、とも書いてやった。こういったふうの情報は、 ったのは、ちょうどこの時分のことであった。とどのつま若公爵と知り合いの学生仲間から手に入れたのである。ちょ り、伯爵の斡旋で、きわめて重要な在外公館の目ばしい位置うどその頃、イフメーネフはある時、思いもよらず、公爵か ら一通の手紙を受け取って、ひどく仰天してしまった : ・ に任命され、彼は外国へと旅立った。 公爵は前にも述べたとおり、イフメーネフとの関係では、 それからさき、彼の噂はいくらか怪しげなものになってき た。外国で彼の身の上に、何か面白からぬ出来事が生じたとそっけない事務的な手紙のやり取り以上に出なかったにもか かわらず、今度は詳細をきわめた隔てのない親しい態度で、 の話であったが、いったいどういうことなのか、だれもはっ きり説明ができなかった。ただ彼が四百人の農奴を新しく買自分の家庭の事情を書きとめているのであった。彼は息子の ったことだけは確かであるが、このことはもはや前に述べ愚痴を並べ立てて、息子の不身持ちに心痛しているが、それ かといって、まだあんな子供の悪戯であって見れば、あまり た。それから、もうだいぶ年が経ってから、彼は高い官等に 本気になって怒るわけにはいかない ( 彼は明らかにわが子を なって外国から帰ると、ペテルプルグで非常な要職につい た。イフメーネフカ村では、彼が二度目の結婚をして、由緒弁護しようとしているらしかった ) 、が、とにかく懲らしめ のために、罰を加えることに決心した。というのは、しばら のある富裕な権門と親戚関係になったという噂が拡まった。 くのあいだ田舎へ蟄居さして、イフメーネフの監督の下に置 「大貴族の仲間入りを狙ってるんだな ! 」とイフメーネフは 満足のあまり、両手を揉みながらそういった。わたしはそのこうと思う、とこんなふうに書いて来たのである。なお公爵 頃ペテルプルグの大学にいたが、イフメーネフがわざわざ手の手紙には、自分は「善良にして高潔無比なニコライ・セル 紙をよこして、結婚の噂は本当かどうか調べてくれ、と頼んゲーイチと、ことにアンナ・アンドレエヴナに」希望をつな いでいるので、どうかお二人の家庭にあの軽薄な若者を迎え だのを覚えている。彼は公爵にも手紙を出して、わたしの庇 入れて、しずかな環境でじっくりと分別をつけていただきた 護を依頼したのであるが、公爵はその手紙に返事もしない そしてできることなれば、かわいがってやってほしい、 で、うっちゃらかして置いた。わたしが知っていたのは、た 々だ、初め伯爵のところで養育され、後に学習院で勉強した公がとくにお願いしたいのは、あれの軽はずみな性質を叩き直 し爵の息子が、そのころ、十九になって課程を卒えたというこして、「人生に欠くべからざる有益かっ厳格な規律を仕込」 らとだけである。わたしはそのことをイフメーネフ夫婦に知らんでもらうことである、とも書いてあった。イフメーネフ老 せてやったが、なおそのほかに、公爵が自分の息子に目がなく人がうちょうてんになって、その仕事に取りかかったのはい 2
相手にも話をさせていた。老人は自分の「乙女のネルリ』を女に重々申しわけないと感じ、その罪を意識していたのであ 3 見ていると、嬉しくてたまらなくなり、満足の念を禁するこる。医者はそうした追憶談。 こよとくに不賛成であった。で、 とができないで、毎日毎日、いやが上にもうちょうてんになわたしたちは普通っとめて、話題を他へ転ずるようにしてい っていった。 た。そのような場合、ネルリはわたしたちの努力に気のつか 「あれは神様がわしたちに授けてくだすったのだ、わしたちないようなふうを装い、医者やニコライ・セルゲーイチを相 の苦しみの償いにな」と彼はある時、いつものようにネルリ 手に、冗談をいい出すのであった。 に就眠前の十字を切ってやって、病室を出て行きながら、わ にもかかわらす、彼女はだんだんわるくなるばかりであっ こしにこ , ついったことがある。 。彼女は度はすれに感じ易くなった。心臓は不規則な鼓動 まど 毎日、夕方になると、わたしたちはいっしょに集って団欒を打っていた。医者はわたしに向かって、彼女は案外早く死 した ( マスロポーエフもほとんど毎晩のようにやって来た ) 。んでしまうかもしれない、とさえいったほどである。 例の老医者も時おりこれに加わった、イフメーネア一家に心 わたしは無駄な心配をさせたくなかったので、イフメーネ から愛着を感じたのである。ネルリも肘掛けいすに坐らせフ夫婦にはその話をしなかった。ニコライ・セルゲーイチ て、わたしたちの丸テープルのところへ担ぎ出した。・ハルコ は、出発までには全快するものと、信じ切っていたのであ る。 ンへの屏ロは開け放された。落日に照らされた緑の小庭も、 残りなく見渡された。そこからはすがすがしい新緑と、咲き 「あら、お父さんがお帰りになりましたわ」とナターシャが 初めたばかりのライラッグの匂いが流れて来た。ネルリは肘彼の声を聞きつけていった。「行きましようよ、ヴァーニヤ」 掛けいすに坐って、わたしたち一同を優しく眺めながら、わ たしたちの話に耳を傾けていた。どうかすると、活気づいて ニコライ・セルゲーイチは、閾を跨ぐか跨がないかに、い きて、自分もいつの間にやら、何やかや話し出すことがあっ つもの癖で大声にしゃべり出した。アンナ・アンドレエヴナ : しかし、そういう時には、わたしたちはみんな大ては、、きなり両手を振り立てて、それを制した。老人はすぐ 不安の念すらいだきながら、彼女の言葉を聞いていたもおとなしくなって、わたしとナターシャを見ると、さも忙し のである。なぜなら、彼女の追憶には、触れてはならないテそうな様子をしながら、自分の奔走の結果を小声に話し始め ーマが、いろいろあったからである。わたしもナターシャ た。彼の運動していたロは、いよいよ話が決まったので、大 も、イフメーネフ夫婦も、あの日なやみ疲れて慄えおののい喜びであった。 ているネルリに、自分の身の上話をさせたことに対して、彼「もう二週間したら立てるんだよ」と彼は揉み手をしながら
ると声明するんですって ? もし不法な訴訟を起こしたと承が満足するような、解決の仕方でなくちゃならないのです。 知しているくらいなら、なんだって法廷で争ったのだ ? とその時はじめてあなたは訴訟についても、本当に誠心誠意イ わたしはみんなから面とむかっていわれるじゃありませんフメーネフと話し合うことができるでしよう。しかし、 か。ところが、わたしはそんな目に遭うような、悪いことをは何一つ解決がついていないのですから、あなたとしてはた したおばえはないのです。だって正当に争ったのですから った一つの方法しかありません。つまり、ご自分の訴訟の不 ね。わたしはあの男が盗んだなどとは、一度も口にしたこと当であったことを認めるのです。率直に認めるのです。また もなければ、そんなことを書いた覚えもありません。ただあ必要に応じては、公式にそれを声明しなければなりません、 の男が不注意で、軽率で、事務の方面には無能だということ これがわたしの意見です。こんなことをずけすけ申し上 は、今でも確信しています。あの金はまさにわたしのものでげるのは、あなたご自身がわたしの意見をお求めになったの すから、自分みずから中傷するようなことは、わたしとしてだし、それにおそらくわたしが小細工を弄することを、お望 つらいわけです。それから、最後にくり返していいますが、 みにならないだろうと思うからです。それと同じ理由が、あ 老人は勝手に自分が侮辱されたものと思い込んでいるのですえてこういう質問をする勇気を与えてくれます。いったいど から、この侮辱の点であの男に謝罪しろとわたしに強請なさ ういうわけで、あなたはその金をイフメーネフにやろうなど るのは、そりや無理というものです」 と、気を揉んでいらっしやるのです ? もしあなたがこの訴 「わたしにいわせれば、もし二人の人間が和解しようと思え訟を正当だと考えていられるなら、なんのために金をやるの ば、その時は : : : 」 でしよう ? わたしの物好きはおゆるしを願うとして、これ 「その時は、造作のないこととお思いですか ? 」 はなにしろ、ほかの事情と密接な関係があるのですから」 「思いますね」 「ときに、あなたはどうお考えです ? 」まるでわたしの問い 「いや、どうかすると、なかなか容易ならんものですよ、まが聞こえなかったように、彼は出し抜けにこうたずねた。「も して : : : 」 し、その金をなんの弁明もなく : : : それに : いっさい事情 「まして、それにほかの事情が結びつけられていたら、とおを緩和するような口上も添えないで、イフメーネフに手渡し 々っしやるんでしよう。その点は、ばくも同感ですよ、公爵。するとしたら、老人はその一万ループリを拒絶するに相違な しナタリヤ・ニコラエヴナとご子息の事件は、あなた次第でど と確信しておいでですか ? 」 らうともなる点において、何から何まで、ちゃんとした解決を「もちろん、拒絶しますとも ! 」 つけなければなりません。しかも、イフメーネフ一家のもの わたしは思わずかっとして、憤慨のあまり胴震いをしたく
をとり、その上さらに不快なことが湧いて起こったので、イ家へ出入りを差し止めた。それはわたしの訪問の二週間まえ フメーネフは病気になりそうなほど、気を腐らしてしまったの出来事であった。老人はすっかりふさぎ込んでしまった。 なんということだろう ! のである。 かわいいナターシャに、無邪気で この訴訟騒ぎのもととなった若い公爵が、五か月ほど前潔白なナターシャに、またそろこんな穢らわしい濡れ衣を着 に、ふとしたきっかけでイフメーネフの家を訪れた。老人はせて、こんな卑しいごたごたに巻き込むとは ! 彼女の名は 彼をいとしいアリヨーシャといって、生みの子同様にかわい かってこの前にも、父親を侮辱した人間の口から、無礼な調 がっており、はとんど毎日のように噂をしていたので、よろ子で発せられた : : しかも、それをこのまま泣き寝入りにし 工て、打っちゃって置かねばならぬとはー こんで彼を迎えた。アンナ・アンドレエヴナはヴァシーリ 初め二、三日の フスコ工のことを追懐して、手放しで泣き出したはどであ司、 ド彼は絶望のあまり病気になって、寝込んでしまった。わ る。それから、アリヨーシャは父に隠して、しだいに足繁くたしはそれをすっかり残らず知っているのだ。わたしは病気 イフメーネフの家へかようようになった。イフメーネフは正の上に、叩きのめされたような気持ちになって、最近、三週 直で明けつばなしの、一本気な人間であったから、気をつけ 間ばかりというもの、家に寝込んだきり、彼らのとこへ顔出 なければという妻の言葉を、憤然としてしりそけた。潔白な しをしなかったけれども、この一部始終は詳しくわたしの耳 に入ったのである。そればかりでなく、わたしは、まだその 誇りのつよい気性から、息子がまだイフメーネフの家に出入 はかに知っていた : いや ! わたしはその頃まだ予感して りしていることを、公爵が知ったらなんというだろう、などと いったようなことは考えるのもいさぎよしとしなかった。そ いたばかりである、知ってはいても信じかねていたのだ、 この一件のほか、今やこの一家には、世の中の何にもま して、心の中では、公爵の愚にもっかぬ疑いを、軽蔑しきっ ていたのである。けれど、このうえ新しい侮辱を忍ぶだけのして心配の種になるようなことがもちあがったのである。わ たしは懊々と胸をいためながらじっと観察していた。まった 力が自分にあるかどうかを、老人はよく知らなかった。若い くわたしは苦しんだ。わたしは察知するのが怖かった。信す 公爵ははとんど毎日のようにやって来た。老夫婦も、彼と話 をしていると楽しかった。彼は毎晩、しかも夜中をすっと過るのが恐ろしかった。で、カの限り、宿命的な瞬間を遠ざけ ぎる頃まで坐り込んでいくのであった。もちろん、何もかもようとした。にもかかわらす、わたしは彼女のために出かけ 父親の耳に入った。そこで、世にもいまわしい噂がながれたのである。まるでこの晩、何かの力に牽かれて、かれらの もとへやって来たかのようであった ! た。公爵は前と同じような内容の猛烈な手紙を送って、イフ メーネフを侮辱したのである。息子には断然ィアメーネフの 「ときにヴァーニヤ」と老人はふとわれに返ったようにたず
ような表情を浮かべながら、わたしたちを見廻し、眉をひそなので、今もわたしたちのほうを見ないようにはしていた が、その顔つきから推して、アンナ・アンドレエヴナがわた めてテープルに近づいた。 しに目くばせしたことが、それを彼が、ちゃんと承知してい 「サモワールはどうしたのだ」と彼はたずねた。「今までか ることも、はっきりと見てとられたのである。 かってもまだできないのか ? 」 「いま持って来ていますよ、あなた持って来ていますよ、ほ「用事で出かけたんだよ、ヴァーニヤ」と彼は出し抜けにロ ら、さあ来ました」とアンナ・アンドレエヴナは、あくせくを切った。「どうもいやなことが持ちあがってな。もうお前 冫話したかしらん ? わしはいよいよ有罪になろうとしてい と世話をやき始めた。 マトリヨーナはイフメーネフの姿を見るが早いか、彼の出るのだよ。なにぶん、証拠がないし、必要な書類がないもの だから。おまけに、調査の結果が不正確だし : : : ふむ ! 現を待ってお茶を出そうと心がまえしていたかのように、さ っそくサモワールを持って来た。それはもの馴れた忠実な老彼は公爵相手の訴訟事件を話し出した。この事件はいまだ 女中であったが、おそらく世界中の女中のうちで類のないわにつづいていたが、イフメーネフにとって、はなはだ思わし からぬ経路を辿っているのであった。わたしはなんと答えて がままな、ロうるさい女で、頑固一徹なたちであった。しか しいかわからぬので、黙り込んでいた。彼はうさん臭そうに し、彼女もイフメーネフには一目おいて、その前へ出ると、 いつも口を控えていた。その代わり、アンナ・アンドレエヴわたしを眺めた。 「まあ、かまわんさ ! 」と一座の沈黙にいらいらしたかのよ ナの前では、十分にその穴埋めをして、ことごとに無遠慮な 口をきき、明らかに自分の女主人を抑えつけようという野望うに、彼は突然そういった。「何にしても、早いだけがいい よ。こちらで金を払わなければならんように判決が下ったと を示したが、同時に心の中では、彼女とナターシャをしんじ トリヨーナを、まころで、わしを卑劣漢にするわけにはゆくまい。わしにはち っ愛しているのであった。わたしはこのマ ゃんと良心があるから、まあ、なんとでも判決するがいし だイフメーネフカ時代から知っていた。 「ふむ ! : なにしろぐしょ濡れになって、帰って来たのだ少なくとも、それで片はつくんだ。それで体は自由になる から、気持ちが悪かろうじゃないか、それだのにだれもお茶が、身代はめちやめちゃだ : : : わしは何もかもおっ放り出し の用意をしようともせん」と老人は小さな声でぶつくさいって、シベリヤへでも行ってしまう」 「まあ、どこへ行くんですって ! なんだってそんな遠いと アンナ・アンドレエヴナはさっそく、目顔でわたしに彼をころへ ! 」とアンナ・アンドレエヴナは、つい我慢しきれな しでこ、ついっこ。 さして見せた。彼はこういった秘密めいた目くばせが大嫌い
てくてく昇って行ったんだね。そら、覚えているだろう、わかった、といったような話をして聞かせた。そこでわたした しと出会ったじゃないカ ええと、あれはいつだったっちは、明日にもそのことを率直に、いっさい前置きや謎を抜 け ? たしか一昨日のことらしいな」と彼は唐突にかなりざきにして、老母の口から彼に頼むことに相談を決めた。とこ つくばらんな調子で問いかけたが、それでもわたしの顔を見ろが、その翌日になると、わたしたちは二人とも恐ろしい驚 ないで、妙に目を脇へそらすようにしていた。 愕と不安に突き落とされたのである。 「友だちが一人生んでいるので」とわたしも同じく視線を横それはこういうわけであった。イフメーネフはその朝、訴 にそらしながら答えた。 訟事件の奔走をしているある役人に会った。その官吏は彼に 「ははあ ! ところで、わしは代書をさがしていたんだ、ア向かって、公爵に会って話をしたところ、公爵はイフメーネ ファナーシェアという男でな。あの家がそうだと教えてくれフカだけは自分のほうへ取っておくけれども、『ある家庭の たんだが : : : 間違いだったよ : : : さて、わしはいま訴訟の話事情で』老人に慰藉金として、一万ループリやることにはら をしていたんだな。とうとう大審院で判決になってしまったを決めている、と報告したのである。老人はその官吏のとこ よ : : : 云々、云々」 ろから、真っ直ぐにわたしのところへ駆けつけたが、すっか この事件のことをいい出した時、彼はさすがに顔をあかく りとり乱してしまって、目などは気ちがいめいた光を放って いた。彼はなんのためか、わたしを部屋の中から階段に呼び その日わたしはアンナ・アンドレエヴナを喜ばせるため出して、これから即刻公爵のところへ行って、決闘の申込み に、その話を残らすして聞かせた。ただし今度はいつもと違をしてくれと、どこまでもいい張って聞かなかった。わたし った様子をして、夫の顔を覗き込んだり、溜め息をついたは度胆を抜かれてしまって、しばらくは何一つ考えをまとめ り、謎めいたことをいわないように、一口にいえば、今度のることができなかった。ややあって、老人をおもいとどまら 老人の突っ飛な行動を知っているらしい素振りは、こんりんせようと説いてみたが、彼はめちやめちゃに腹を立てて、気 ざい見せないようにと、くれぐれも老母に頼んでおいた。彼分まで悪くなったほどである。わたしは水を取りに部屋の中 女はあまりの驚きと喜びに、初めしばらくはわたしの言葉をへ飛び込んだが、引き返してみると、イフメーネフは階段の 本当にしないくらいであった。 / 彼女はまた彼女で、例の孤児ところにいなかった。 しの一件を、さっそくニコライ・セルゲーイチにほのめかした その翌日、わたしはイフメーネフの家へ出かけたが、彼は らところ、以前老人は自分のほうからあの娘を引き取るよう もう留守だった。まる三日というもの、姿を消してしまった 虐 に、やかましくいっていたくせに、今度は黙って返事をしなのである。 引 3
こうして、イフメーネフ一家はペテルプルグへ引き移っる。彼女はため息をついたり、取越し苦労をしたりして、以 た。わたしはあれほど長い別離の後に再びナターシャに会っ 前の暮らしを思っては泣き、イフメーネフカのことをおもっ た時のことを、くだくだしく書き立てるのをよそう。この四ては泣き、ナターシャが年頃になったのに、だれも彼女のこ 年の間というもの、わたしは彼女のことをかた時も忘れたことを心配してくれる相手がいない、 といっては泣いていた。 とがないのである。もちろん、わたしが彼女のことを追想すそして、ほかにだれも胸を割って信頼できるものがないまま る気持ちがどんなものかは、自分でもはっきりわかっていな に、わたしをつかまえて、不思議なはどうちとけて話を始め かった。けれども、わたしたちが再び互いの顔を見た時、わるのであった。 たしはすぐ、彼女が運命によって結びつけられた人であるこ ちょうどこの時分、彼らが移って来るちょっと前に、わた しは処女作の長編小説を書き上げたところであった。それに とを察した。はじめ、彼らがやって来た当座二、三日という もの、彼女はこの四年間にあまり発育を遂げなかったのでは よって、わたしは自分の文学活動をはじめたわけだが、駆け なしか、まるつきり変わったところがなく、あのとき別れる出しのこととて、初めどこへ持って行ったらいいかわからな 前とそっくりそのままではないのだろうか、といったような かった。イフメーネフ家の人たちには、そんな話は一口もし 気持ちがしてならなかった。けれど、それから後は毎日のよていなかった。彼らはわたしがぶらぶらしているといって、 うに、今までわたしのまったく知らなかった、わざとわたしつまり、勤めにも出なければ、ロをさがそうともしないとい の目から隠されていたような、何かしらある新しいものを発って、あやうく喧嘩をしないばかりだったのである。老人は 見するようになった。それはまるでこの少女が、ことさらわ手きびしくわたしを責めつけて、細癪さえ起こしたほどであ たしから姿をかくしていたようなあんばいであった。 そるが、それはわたしを思う父親のような、親身の情から出て いるのはいうまでもない。わたしはまたわたしで、自分がど してこの発見は実になんという楽しさであったろう。老人は ペテルプルグへ越してからしばらくの間は、いらいらして腹ういうことをしてるか話して聞かせるのが、ただもう恥ずか を立てやすかった。訴訟事件が思わしくいかなかったのであしかったのである。まったくのところ、勤めに出るのはいや る。彼は憤慨したり、われを忘れるほど腹を立てたり、一件です、小説が書きたいのです、などと真っ正面からの宣言も 々書類のとりあっかいにかかりきったりしていて、わたしたちならず、時機が来るまで二人をだますことにして、どうも口 しにかまっているどころでなかった。アンナ・アンドレエヴナがなくて困るけれど、とにかく一生懸命にさがしているとこ れ らは、とほうに暮れたようにうろうろして、初めのうちはまるろです、といっておいた。老人はわたしの言葉の真偽を確め 虐で頭がまとまらなかった。。 へテルプルグが怖かったのであている暇がなかったのである。忘れもせぬ、ある時ナターシ
送られた無名の密訴状を受け取ったのをしおに、ただそれだ分の一存で取り計らった上、後であれはどうしても売らなけ けの理由で、わざわざ、ヴァシーリエフスコ工へ出かけたのればならなかったのだと公爵に納得させて、代金も実際に受 である。もちろん、少しでもイフメーネフを知っている人なけ取ったのよりずっと小さな額を提出した、というのであ らば、彼に塗りつけられた数々の寃罪を、一つだって信じるる。それはもちろん、みんなただの捏造であって、このこと はずはあるまいと思われた。にもかかわらず、このような場は後で明瞭になったのであるが、公爵は何もかも真に受けて 合の常として、みんなが騒ぎ立て、しゃべり散らし、理屈をしって、衆人環視の前でイフメーネフを泥棒よばわりし つけ、首を捻ったりして : : : とうとうこの一家を悪者にしてた。イフメーネフもこらえ切れず、負けず劣らず激しい言葉 しまったのである。イフメーネフは、こういった金棒引きにで罵り返した。恐ろしい場面が演じられた。いや応なしに訴 対して娘を弁護するには、あまりに気位が高過ぎたので、ア訟問題となった。イフメーネフは、必要な書類に欠くところ ンナ・アンドレエヴナにも、近所のものにいっさい弁解めし があったのに、何より第一、カになってくれる人がなく、こ たロをきいてはならぬと、固く差し止めてしまった。当のナうした事件について奔走した経験もないので、たちまち訴訟 ターシャはこんなに悪名を着せられながら、一年経った時分は旗色が悪くなって来た。彼の領地は差し押えられることと にも、こうした中傷や流言をまるつきり知らないでいた。両なった。いらいらして来た老人は何もかもおつばり出して、 親はことの頑末を娘には固く秘めていたので、彼女はさなが自分でじきじき奔走するために、。 へテルプルグへ出ようと決 ら十二、三の子供のように、决活で無邪気であった。 心した。田舎のほうには経験のある代理人を置くことにし とかくするうちに、争いはますます大きくなっていった。 た。公爵は間もなく、イフメーネフを侮辱したのは間違って おせつかいな連中は、じっと手をこまねいてはいなかった。 いたと悟ったらし、 し。が、互いの加え合った侮辱は容易なら 告げロ屋や証人が後から後からと現われて、とどのつまり、 ぬものだったので、和睦などということは問題にならなかっ イフメーネフの長年にわたるヴァシーリエフスコ工村の管理た。で、いらだった公爵は全力を尺、くして、事件を自分のほ は、決して模範的に潔白なものではなかったということを、 うへ有利に展開させようとした。つまり、正体を割っていえ 公爵に信じ込ませてしまったのである。のみならず、三年前ば、自分のかっての支配人から、最後のパンの一片を奪おう に森を売った時、イフメーネフは銀貨で一万二千ループリのという算段であった。 金をちょろまかしたので、それについては、明々白々な法律 的証拠を法廷へ持ち出すことさえできる。ことに彼はこの森 第 5 章 林売却に対して、公爵から正式の委任状をもらっていず、自
彼の到着は界隈一体にかなり強い印象を与えた。公爵は青り、自分のほうへ二人を呼んだりして、洒落を飛ばし、笑話 年というほどではないが、まだ若々しい人で、官等もなかなをして聞かせ、イフメーネフ家の狂ったビアノを弾いて、歌 か低くなかったし、ひきも大したものだし、美男子で、財産をうたいなどした。イフメーネフ夫婦は、どうして近隣の人 もあり、その上、おまけに鰥夫であった。この点が郡内の夫たちが、こんな上品な世にも愛すべき人のことを、傲慢で、 人令嬢たちに、とりわけ興味を感じさせたのである。何かの鼻つばしの強い、 味もそっけもない利己主義者だなどと、異 親戚関係に当たるとかいう県知事が、県庁所在地の町で彼のロ同音にいい 立てるのかと、ひたすらあきれるばかりであっ ために催した豪奢な歓迎会の話や、全県下の夫人たちが「彼た。公爵は実際のところ、単純で正直で、無欲恬淡な、清廉 の人をそらさぬ応待振りにのばせあがった」云々、云々とい の士であるイフメーネフが気に入ったのだろう、とそう考え ったような話が伝えられた。一口にいえば、彼は地方にはあざるを得なかった。 まり姿を現わさないけれど、一ど顔を見せると、並み並みな とはいえ、間もなくいっさいの事情が明らかになった。公 らぬ効果を惹き起こすような、そういったペテルプルグ上流爵がヴァシーリエフスコ工へ来たのは、自分のところのふ 社会の華々しい代表者の一人なのである。けれど、公爵は大しだらなドイツ人の支配人を追い出すためであった。それ して愛想のいい部類に入るはうではなかった。ことに、自分は、品のよい白髪を頭にいただき、鉤鼻に眼鏡をかけた、覇 が必要を感じない相手や、自分よりちょっとでも目下のよう気に富んだ農業技師であったが、そうしたもろもろの長所が に見なしている連中に対しては、なおさらであった。領地境あるにもかかわらず、監督がないのを幸い、恥も外聞もなく の隣人たちとはっき合わないほうが利ロだという方針をとっ主人の金を懐へ捻じ込み、なおその上に、幾人かの百姓をい たので、たちまち大勢の敵をつくってしまった。といったわじめ倒したのである。とどのつまり、このイヴァン・カルロ けで、彼がなんと思ったか、突然ニコライ・セルゲーイチ・ ヴィチは尻っ尾を押えられた。その時、彼は大いに憤慨し イフメーネフを訪問した時、だれもがすっかり面くらってして、ドイツ人の潔白ということをとうとうと弁じたけれど、 まった。もっとも、イフメーネフは彼にとって、最も近い隣そのかいもなく追い出されて、おまけに多少外聞の悪いこと まで明るみへ出されたのであった。公爵には支配人が必要に 人の一人であった。イフメーネフ一家のものが公爵から受け た印象は強烈なものであった。彼はたちどころに夫婦を魅了なり、その白羽の矢がイフメーネフに立った。彼が優れた農 。しささ したが、わけてもアンナ・アンドレエヴナはうちょうてんに村経営家であり、正直この上ない人物であることよ、、 なってしまった。しばらくするうちに、彼はもうこの家で少かも疑いをいれなかった。公爵は、イフメーネフのほうが自 しも遠慮のない間柄になり、毎日のように押しかけて来た分から、支配人にしてほしいと申し出るのを待っていたらし やもめ