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検索対象: ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々
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1. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

がら彼女がこの世にいなかったもののように、 一ことも口にんで、わたしの目の前でナターシャを愛情あふるるばかりの すまいと、無言のうちに約東したかのようなあんばいだっ言葉で呼びかけたり、夫ニコライ・セルゲーイチのことを恨 た。アンナ・アンドレエヴナは、夫の前では娘のことを、明み訴えなどした。そして、夫のいる前では、一生懸命に大事 らさまにほのめかすことさえはばかっていた。もっとも、そを取りながらも、人間の傲慢さ、残酷さをほのめかし、われ れは彼女にとって、たまらなくつらいことであった。彼女はわれは侮辱をゆるすすべを知らないが、みずからゆるさない ものは、神のゆるしをも得られないなどと、当てこすり始め 心の中ではもう疾くにナターシャをゆるしていたのである。 わたしたちのあいだには、何か黙約のようなものができ上っるのであった。けれど、それ以上夫の前でロに出す勇気がな て、わたしは訪問のたびごとに、忘れることのできぬまな娘かった。そんな時、老人はたちまち依怙地になり、気難かし くなって、眉をひそめて黙ってしまうか、でなければいつも の消息を彼女にもたらすことになっていた。 ながいあいだ消息を聞かないと、老母は病人のようになっ木に竹をついだような調子で、とっぜん大声にほかの話を持 た、わたしがたよりをもって行くと、どんなこまかいことにち出すか、或いはわたしたち二人を残して自分の部屋へ引っ も興味をもって、やもたてもたまらぬはどの好奇心に駆られ込むかしてしまう。そうして、アンナ・アンドレエヴナに、 ながら、根掘り、葉掘りききただして、わたしの物語をせめわたしの前で泣いたり口説いたりして、自分の悲しみを思う てもの『心やり』にするのであった。一度、ナターシャが病存分はき出す自由を与えるのであった。それと同じような要 気した時などは、恐怖のあまり気が遠くなったはどで、すん領で、彼はいつもわたしが訪ねて行くたびに、挨拶をすます とそうそう、自分の部屋へ引っ込んで、ナターシャに関する でのことに、自分で娘のところへ出かけるところであった。 が、それはよくぜきの場合であった。初めのうち、彼女はわ最近の消息を、アンナ・アンドレエヴナに伝える余裕を与え たしの前でさえも、娘に会おうなどという望みを、ロにするるのであった。そのように今度も彼はふるまった。 勇気がなかった。わたしたちの話が終わって、何もかもたず「わしはぐしょ濡れになってしまったよ」と彼は部屋へ入る ね冬くしたあげく、彼女ははとんどいつもわたしの前でかちなり、彼女にそういった。「わしは居間へ行くから、ヴァー かちになって、自分は娘の運命に関心を持ってはいるけれニヤ、お前はそこにいておくれ、ヴァーニヤのはうに一と事 々ど、それにしても、ナターシャはゆるすことのできない罪の件持ち上ったんだよ、住居のことでな。ひとつあれに話して 人 かやってくれ。わしはすぐに戻って来るから : : : 」 女だと断言するのを、自分の義務のように心得ていた。し そういって彼は、わたしたち二人をいっしょに結びつけて らし、それはすべてうわべだけのことであった。どうかする いる自分をみずから恥じるかのさまで、わたしたちの顔さえ 2 と、アンナ・アンドレエヴナは身も世もあらぬほど嘆き悲し

2. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

優しみと、何かしら臆病な、またしても隠れ潜もうとするよ「いまお前は、お母さんよりほか、だれもお前をかわいがっ うな感情がこもっていた。ついに彼女は顔をあからめて、にてくれた者はないといったね。だが、お祖父さんは本当にお っこり笑った。 前をかわいがらなかったの ? 」 「いくらか気分がいいかね ? 」とわたしは問いかけた。「お「かわいがらなかったわ : : : 」 前は感じ易い子だね、レーノチカ、お前は病身なんだよ ! 」 「だって、お前はここでお祖父さんのために泣いたじゃな、 「あたし、レーノチカじゃなくってよ、ちがうわ : : : 」やは か、ほら、階段の上でさ」 りまだわたしから顔を隠すようにしながら、彼女はこうささ彼女はちょっと考え込んだ。 ゃいた。 しいえ、かわいがってくれなかったわ。あの人、意地悪だ 「レーノチカじゃないって ? ど , っしてさ ? 」 ったんですもの」そういった彼女の顔には、何かしら病的な 「ネルリっていうの」 感情がにじみ出した。 「ネルリ ? どうして必ずネルリでなくちゃならないの ? 「だって、お祖父さんにそんなことをいうのは、無理じゃな でも、それはなかなかいい名だね。じゃ、これからそう呼ぶ いか、ネルリ。あの人はどうやらばけてしまっていたようだ ことにしょ , つ、お ( 削がそ , っしてはしいとい、フのなら」 からね。死ぬ時だって、まるで気ちがいみたいだったよ。 「お母さんもあたしをそう呼んでたのよ : : : お母さんのほかね、お祖父さんの死んだ時の様子を、お前に話して聞かせて には、だれもあたしをそう呼んだものはないわ : : : あたしもやつじたやないか」 お母さんよりほかの人に、そう呼ばれたくなかったの : 「ええ、でも、お祖父さんがすっかりばけてしまったのは、 でも、あなたはそう呼んでちょうだい、あたし、そうしても死ぬ一と月前だけなのよ。よくここんとこに一日中坐り込ん らいたいの : : : あたし、、 しつまでも、いつまでもあなたを愛でて、あたしが訪ねて来なければ、二日でも三日でも、飲ま してよ」 ず食わずで坐りどおしだったのよ。その前にはずっと好かっ たわ」 「なんという愛情の深い、気位の高い心だろう』とわたしは : ネルリとなるためには、 「その前っていつのこと ? 」 考えた。『お前がおれのために : 「まだお母さんが亡くならない時分」 どれだけ長いあいだおれが苦労しなければならなかったこと か』けれど、今こそ間違いなく、彼女の心が永久にわたしに 「それじゃ、お祖父さんに食べ物や、飲み物を持って来て上 げたのは、お前なのだね、ネルリ ? 」 結びつけられたのを知ったのである。 「ええ、あたしが持って来て上げたの」 「ネルリ」彼女が落ちつくのを待って、わたしはたずねた。

3. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

『消息子』はなかんすく、わたしの作品は概して汗の臭いがんでしよう ? とても洒落たやつです」 する、つまり、汗の流れるはど苦心惨憺して、推敲に推敲をわたしたちは車寄せへ降りて行った。馬車はなるほど気の 重ねるので、嫌味になるほどである、とこんなことをいってきいたものであった。アレグサンドル・ベトローヴィチは買 いたてなので、目下のところ大満悦のていであり、自分の知 わたしは出版者といっしょに腹をかかえて笑った。わたし人を乗せてそこまで送るという、ある程度の内的要求をすら はアレグサンドル・ベトローヴィチに向かって、この前の小感じているのであった。 説は二晩で書き上げたものだし、今度は二日二晩で五十六ペ 馬車の中で、アレグサンドル・ベトローヴィチは、またそ ージ分も書いたので、あまりこまかく手を入れ過ぎるとか、 ろ幾度も現代文学論をおっ始めた。わたしの前では、彼は気 仕事がやけにのろいとかいって、わたしを責めている「消息まり悪さを感じないので、二、三日前、自分の信頼している 子』が、もしこれを聞いたら、どんな顔をするだろう、と話文学者のだれかから聞いたさまざまな意見を、平然として受 した次第である。 売りしはじめた。彼がそういう人の説を尊敬するのはしし 「しかし、あなた自身も悪いんですよ、イヴァン・ベトロー が、どうかすると、とんでもないことを真に受けてしまうこ ヴィチ。なんだって夜中まで書かなければならないほど、仕ともあった。また時には、他人の意見をはき違えたり、変な 事を遅らすんですか ? 」 ところへ挾んだりするので、まるで支離滅裂になることがあ アレグサンドル・ベトローヴィチは、実に愛すべき好漢でった。わたしはじっと坐って、黙って聞いていたが、人間の はあったが、 それでも一つ特別な弱点を持っていた。ほかで本能が気紛れで、千変万化を極めているのに、 一驚を喫し もない、彼という人間を底の底まで知り抜いている人たちのた。「現にこの男なんか』とわたしは心に思うのである。『こ 前で、自前の文学上の批評眼を自慢することであった。し かっこっと金でも溜めてりやいいので、また実際しこたま溜め も、彼自身、相手に底を知られていることを、薄々感づいて込んでいるのだから、それでよさそうなはすだが、そうはい 、刀事 / . し いるのだ。しかし、わたしは彼を相手に文学を論じたくない この男にはまだ名声がいるのだ、立派な出版者兼批 ので、金を受け取ると帽子をつかんだ。アレクサンドル・ペ評家としての、文学的名声が必要なんだからな ! 』 トローヴィチは島の別荘へ出かけるところだった。わたしが 今や彼は、三日前にほかならぬわたしから聞いた、一つの ヴァシーリエフスキイへ行くと聞いて、自分の馬車に乗せて文学思想を詳述しようと、大童なのであった。三日前にはそ そこまで送ろうと、機嫌よく申し出た。 れに反対して、わたしと論争したくせに、今は同じ思想をわ 「わたしはね、新しい馬車をもとめたんですよ、まだ見ない がもの顔に主張しているのだ。しかし、アレグサンドル・ペ

4. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

虐げられし人々 んで、彼女の前に立ち、わなわなと顫える力のない手で、外彼は娘に両手をかけて、幼な児のように軽々と抱き上げ、 套を着ようとあせっているところであった。 自分の肘掛けいすまで運んで行って、その上に腰かけさせ、 「あなたも : : : あなたもわたしといっしょに ! 」彼女は祈る自分はその前に膝を突いた。彼は彼女の手や足を接吻した。 ように両手を合わせ、疑わしげに夫を見つめながら叫んだ、彼は娘を接吻しようとあせった、娘を心ゆくまで眺めようと こんな幸福を信ずることはできない、 レ」でい , つ、よ , つに。 あせった。さながら、彼女が再び自分といっしょにいるとい 「ナターシャ、わしのナターシャはどこにいる ? あれはどうことを、自分が彼女をーーーかわいい娘を、大事なナターシ こにいるのだ ? わしの娘はどこにいるのだ ? 」という叫びヤを見、その声を聞いているということを、いまだに信じか が、ついに老人の胸からほとばしり出た。「わしのナターシねるかのようであった。アンナ・アンドレエヴナは、よよと ヤを返してくれ ! あれはどこに、どこにいるのだ ? 」 ばかり泣きながら、彼女を抱きかかえて、その頭を自分の胸 いいながら、彼はわたしの差し出す杖を取って、戸口へ締めつけた。そして、一ことも言葉を発する力がなく、こ のほうへ駆け出した。 の抱擁のうちに恍惚としていた。 「ゆるしてくだすった ! ゆるしてくだすった ! 」とアン 「わしの友だち : : : わしの命 ! ・ : わしの喜び ! : 」と老 ナ・アンドレエヴナは歓喜の声を上げた。 人はナターシャの手を握って、あおざめてやつれてはいるが けれど、老人は閾際までも行き着く暇がなかった。屏が急美しいその顔や、涙の光っている目を、うっとりと眺めなが にさっと開いて、部屋の中へナターシャが駆け込んだ、真っら、とりとめもなく叫ぶのであった。「わしの喜び、わしの 青な顔をして、熱病にでもかかっているように、目をぎらぎ子供 ! 」と彼はくり返して、またロをつぐみ、敬皮の念を交 らと輝かしている。着物は揉みくたになり、雨でぐっしよりえた陶酔の気持ちで、彼女を眺めるのであった。「なんたっ 濡れていた。頭にかぶった布はうしろのはうへずれて、乱れて、本当になんだってこの娘のことを、やつれたなんてだれ かがいったんだろう ! 」相変わらず彼女の前に膝を突いたま た濃い髪の上には、大粒の雨の雫が下っていた。彼女は駆け 込むなり、父親を見ると、叫び声を上げながら両手を差し伸ま、妙に子供らしいせつかちな徴笑を浮かべて、わたしたち べ、その前にばったりひざますいた。 のほうへ振り向きながら、彼はこういい出した。「なるほど、 痩せて顔色は悪いが、まあ、あれを見てごらん、なんて美し いんだろう ! 前よりもっと美しいくらいだよ、そうとも、 美しいとも ! 」彼はいい足したが、胸の痛みのために自然と 言葉が切れた。それは心を真二つに引き裂くようなよろこび しかし、彼は早くも彼女を抱きしめていたー 第 9 章 349

5. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

よ放免になったのは三日目で、しかも老人は ( おそらく公爵 の指図があったのだろう ) 、公爵がみずから進んで、伯爵に 第 6 章 慈悲を願ったのであるといい聞かされた。 老人は半狂乱の態でわが家へ帰ると、いきなり寝床に身を アリヨーシャはナターシャに予告するため、会見の一時間 投げて、まる一時間、身動きもしないでじっと横たわってい ばかり前にやって来た。わたしはちょうど、カーチャの馬車 た。ようやく身を起こしたと思うと、もういよいよ、水久に娘 が門前にとまったところへ到着した。カーチャには、年とっ を呪って、親としての祝福を取り上げてしまうと厳かに声明たフランス女がっき添っていた。さんざんねだられて、長い し、アンナ・アンドレエヴナをそっとさせた。 こと思い迷ったあげく、やっと彼女につき添って来ることに アンナ・アンドレエヴナは、そっとするにはしたけれど同意したのである。そればかりか、必ずアリヨーシャといっ も、しかし老人の世話もしなければならなかった。彼女自身しよという条件つきで、ナターシャの住んでいる階上まで行 ほとんど気が遠くなりそうであったにもかかわらす、この日 ってよろしいという許可を与えた。彼女自身は、馬車の中で 一日、夜にかけてすっと夫の看病をし、頭に酢の湿布をした待っことに決めた。カーチャはわたしを傍へ呼んで、馬車の うわ 1 一と り、氷を当てがったりした。彼は熱を出して、譫言をいい出中から出ようともせず、アリヨーシャをここへ呼び出してく した。わたしはもう夜中の二時を過ぎる頃に、彼らのもとをれと頼んだ。わたしが行って見ると、ナターシャは涙にくれ 辞した。翌朝、イフメーネフは床を離れ、その日のうちにわていた。アリヨーシャも、彼女も、 二人とも泣いていた たしの所へやって来て、いよいよネルリを自分の家へ引き取のである。カーチャがもう来ていると聞くと、彼女は椅子か ることにしたけれども、彼とネルリの間に生じた場面は、すら立ちあがり、涙を押し拭って、わくわくしながら屏の前に でに述べたとおりである。この場面は、彼の心を底の底まで立った。その朝、彼女は白ずくめの身なりをしていた。栗色 揺り動かした。わが家へ帰ると、彼はどっと床についてしまの髪は綺麗に梳きつけられて、うしろのほうで大きな髷に結 った。これらはすべて復活祭前の金曜日、即ちカーチャとナんであった。わたしはこの髪の結び方が大好きだった。わた ターシャの会見が約東された日であり、アリヨーシャとカー しが後に残ったのを見ると、ナターシャはわたしにも、客を 々チャがペテルプルグを出発する前の日のことであった。この迎えに行ってくれるようにと頼んだ。 し会見にはわたしも立ち会った。それは早朝のことで、老人が 「あたし、今までナターシャをお訪ねすることができません らわたしのところへ来る前に当たり、ネルリの最初の家出よりでしたの」とカーチャは階段を上りながら、わたしに話しか 虐も以前のことであった。 けた。「あたしには始終まわしものがついていましてね、そ 3 ~ 5

6. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

のことはあとで話そう。 顔で迎えるのであった。老人のほうでも、わたしたちの家へ とはいうものの、どうかすると、急に彼女がはんのいっと は毎日往診に来て、ネルリがもうすっかり全央して、歩ける き、わたしに対してもとどおり優しくなることがあった。そようになってからでも、時によると、日に二回もやって来る ういう折、彼女の愛撫は旧に倍するように田 5 われた。ま、 カ彼ことがあった。この老人はまるでネルリが魔法でもかけたか 女が身も世もあらぬように泣き入るのも、やはりこのようなのように、ネルリの笑い声や冗談を聞かずには、一日も過ご 時であった。しかし、こういう時はたちまち過ぎてしまっせなくなってしまった。彼女はよく面白い冗談をいったもの て、彼女はまたしても前と同様、懊悩に沈んで、再び敵意をである。彼はネルリに絵入りの本を持って米るようになった 含んだ目つきでわたしを見るか、例の医者の前でやったよう 、概して教訓的な内容のものであった。その中の一冊など な気紛れを始めるか、それとも、わたしが彼女の新しい悪ふはわざわざ彼女のために買って来たくらいである。その次に ざけに不快そうな様子をしているのに気がつくと、からからは、砂糖菓子や綺麗な箱入りの菓子を持って来はじめた。そ 声高に笑って、とどのつまりは、ほとんど常に涙で終わるの ういう時、彼はまるで命名日の祝い主よろしく、ものものし であった。 い様子をして入って来るので、ネルリはたちまち、彼が土産を 彼女は一度アレグサンドラとさえ喧嘩をして、あんたなんもって来たことを察してしまうのであった。けれど、彼は土 かにはなんにもしていらないといい放った。わたしがアレク産を見せないで、するそうな笑いを浮かべながら、ネルリの サンドラを前に置いて、小言をいい出した時、彼女はかっと傍に腰を下ろし、もしある若い娘さんが品行をよくして、老 取りのばせて、何か積もり積もった調癪が爆発でもしたよう生のいない間にも人から感心されるようにしたら、その若い な具合に、ロ答えをした。けれど、急にふと口をつぐんで、娘さんよ、 : 一 。ししこ褒美がもらえるだろう、と謎をかけるのであ かっきり二日間というもの、わたしに一こともものをいわっこ。 オこういう時、彼はさも人の好さそうな、率直な目つき す、薬はいうも更なり、食べ物や飲み物さえロへ入れようとで彼女を眺めるので、ネルリは思い切って無遠慮に老人を笑 しなかった。ただあの老医師がうまく彼女にいって聞かせい草にしながらも、同時に心からの優しい愛情 冂が、この瞬間 て、ようやく納得させたような始末である。 はればれとした彼女の目の中に浸み出して来る。とどのつま 々すでに前にも述べたとおり、この医者と彼女の間には、」 伊り、老人はものものしく椅子から腰を持ち上げ、菓子の入っ しの薬騒ぎのあった日からこの方、一種不思議な友情が結ばれた箱を取り出して、ネルリにわたしながら、必ず「わたしの らたのである。ネルリは彼が大好きになって、前にどんなにふ未来の愛妻に』とつけ加えるのであった。その時、彼は確か 物さぎ込んでいても、彼の来診と聞くと、いつもにこやかな笑にネルリよりも幸福だったに違いない。 289

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を隠したものだろう』 も、そこに人を馬鹿にしたような暗示や、侮辱を見いだすの 8 であった。 第〃章 わたしは横目にそれとなく彼を観察した。彼の顔は病人染 みていた、最近ひどくやつれてしまって、髭なども一週間か けれど、わたしが大通りのべとべとにぬかるんだ歩道に足ら剃刀をあてないらしい。すっかり胡麻塩になった髪の毛 を踏み込んだ時、突然、一人の通行人にぶつかった。どうやは、型の崩れた帽子の下からだらしなくはみ出して、古い ら深いもの思いに沈んでいるらしく、こうべを垂れて、どこたびれた外套の襟に長くもしやもしやとかぶさっていた。こ かへ急ぐふうで、すたすたと歩いているのであった。驚き入れはもう前から気のついていたことだが、彼は時とすると、 ったことには、それがイフメーネフ老人だったのである。そまるで放心したようになることがあった。たとえば、部屋の れは、わたしにとって思いがけない遭遇の夜であった。わた中にいるのは自分だけではないことを忘れて、ひとり言をい しは、老人が三日前に、ひどく健康をそこねたことを知ってったり、両手を振り廻して、何かの身振りをしたりする。そ いた、それにもかかわらずこんなじめじめした晩に、往来でういう彼を見るのはつらかった。 彼に出会おうとは。のみならず、彼は前にも夜外へ出ること 「おや、どうした、ヴァーニヤ、どうしたのだ ? 」と彼は声 はほとんどなかったのだし、ことにナターシャが家出してかをかけた。「どこへ行くところなんだ ? わしも、そら、こ らこの方、ほとんどもう半年ばかりというもの、まったく家のとおり出かけたよ、用事があってな。達者かね ? 」 にこもり切りにしていたのである。彼はわたしに会ったの 「あなたこそお達者ですか ? 」とわたしは答えた。「つい を、なんだか無性に喜んだ。まるでやっとの思いで自分の考の間までお加減が悪かったのに、もう外出なんかなすって」 えを分ち合うことのできる友だちを発見したように、わたし老人はわたしの言葉をろくろく聞き分けなかったように、 の手をひつつかんで固く握りしめ、どこへ行くのかききもし返事もしなかった。 ないで、ぐんぐんとわたしを引っ張って行った。彼は何か心 「アンナ・アンドレエヴナもお変わりありませんか ? 」 配事があるらしく、あたふたとして、動作も荒々しかった。 「変わりないよ、変わりないよ : : だが、あれもちょっと具 「いったいどこへ行って来たのだろう ? 』とわたしは、いに思 合が悪いんだ。なんだかくよくよするようになってな : : : お った。しかし、彼にたずねて見るのは余計なことであった。前のことを思い出しては、なぜ来ないのかしら、といってい 老人はむやみに疑ぐり深くなっていて、どうかすると、ごくるよ。時に、お前は今うちへ来るとこなんだろう、ヴァーニ つまらないことを問いかけられたり、話しかけられたりしてヤ、ちがうかね ? もしかしたら、わしはお前の邪魔をした

8. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

わいそうに思ってるくらいだ。お前はもうそろそろ、軽はず前の提議は、なかなか気がきいてるよ。あるいは本当に、そ田 みな少年でなくならなくちゃならない、そういう人生の時期ういうところから始めなくちゃならなかったのかもしれない に入ろうとしているのだ。これがわたしの考えなので、いまね」と彼はナターシャをじろっと見てつけ加えた。 「ばくがすっかりうち明けたからって、腹を立てないでくだ 笑ったのも、なんという気持ちもなく、お前を侮辱しような んて気は、さらさらなかったんだよ」 さい」とアリヨーシャはロを切った。「だって、お父さん自 「じゃ、どうしてばく、そんな気がしたんでしよう ? 」とア身がそれを望んで、自分でそうしろとおっしやるんですから リヨーシャは苦い気持ちを響かせながら、言葉をつづけた。 ね。一つ聞いてください。あなたはばくとナターシャの結婚 「ばくはもうずっと前から、あなたが敵意のある、冷たい嘲を承諾してくださいました。あなたはばくたちにその幸福を 笑の目つきでばくを見ていらっしやるので、父親が息子を見与えて、それがために、自分で自分を克服なすったわけで る目つきとちがうような気がしていたんですが、それはどうす。あなたは寛大でした。で、ばくたちもその潔白な好意を いうわけでしよう ? もしばくがあなたの立場に立ったら、感謝した次第です。それなのに、どうしてあなたは今となっ 今あなたがなすったように、自分の息子をあんな侮辱的な調て、ばくがまだ滑稽な子供で、人の夫となるのは全然不適当 子で、笑い倒すようなことはしなかっただろう、とこんな気だってことを、何だかさも嬉しそうに、のべっ匂わしていら っしやるのでしよう。そればかりではありません。あなたは がするのはなぜでしよう。ねえ、お父さん、今後もういっさ い疑惑が残らないように、いますぐきつばりと腹蔵なく、話どうやら、ナターシャの目の前でばくを笑いものにし、卑下 し合おうじゃありませんか。そして : : : ばくも本当のことさして、ばくの沽券を下げようとしてらっしやるようです。 を、すっかりいってしまいたいのです。ばくはここへ入ってあなたは何かの機会に、ばくの滑稽な面を見せることに成功 すると、いつも嬉しくてたまらないようなふうです。ばくが 来た時、ここでも何か誤解が起こってるのじゃないか、とい う気がしました。つまり、ばくはここでみなさんがたとごい それに気がついたのは、今が初めてじゃなくって、もうずつ っしょになろうとはなんだか期待していなかったのです。そと前からなんですよ。なんだかあなたは、ばくたちの結婚が うじゃないでしようか ? そうだとすれば、めいめいが自分滑稽な馬鹿馬鹿しいもので、ばくたち二人が不釣り合いだっ の気持ちをはっきりいったらよかあないでしようか ? うちてことを、なんのためかばくらに証明しようと骨折っていら 明けた態度というものは、ずいぶん悪い結果を除いてくれるれるようです。もっとも、あなたがばくたちのために仕向け ておいでになることを、自分でも信じていらっしやらないの ものですからね ! 」 「お話し、お話し、アリヨーシャ ! 」と公爵はいった。「おは本当です。まるで冗談か、洒落た気紛れか、滑稽なヴォー

9. ドストエーフスキイ全集3 虐げられし人々

ど、お母さんはあの人たちといっしょに行かないで、ここに さんの話をなさるんですのよ。昨日あたしが、「だって、お 残っておいで、っておっしやるんですもの。お母さんは、ま祖父さんは亡くなっておしまいになったんじゃないの』って たこんなことをおっしやったわ。お前はとてもたくさんわる いったら、お母さんはとても落胆なすって、泣き出しておし いことをして、お祖父さんを一人おいてきばりにしたじゃなまいになりましたわ。そして、おっしやるのには、それはわ いか、って。そういう間にも、のべっ泣きつづけていらっしざとお前がそんなふうにいい聞かされているのだ、お祖父さ やるんですの。あたしここに残って、お祖父さんのお世話をんは今でも街を歩き廻って、袖乞いをしていらっしやる。 「はら、わたしがお前と二人で袖乞いをしたろう、あんなふ するわ、ヴァーニヤ」 うにしていらっしやるんだよ。いっかはじめてお祖父さんに 「だって、お前のお祖父さんはもう亡くなったじゃないか、 いお会いしたろう、あの辺を始終あるき廻っていらっしやるん ネルリ」あきれて彼女の言葉を聞きながら、わたしはそう だよ。あの時わたしは、お祖父さんの前に膝を突いて、倒れ たでしよう、するとアゾルカがわたしに気がついて : : : 』と 彼女はちょっと考えて、じっとわたしを見つめた。 こんなふうにお母さんはおっしやるんですの : : : 」 「ヴァーニヤ、もう一ど聞かしてちょうだいな」と彼女はい った。「お祖父さんが亡くなったときの様子を。すっかり話「それは夢だよ、ネルリ、病気から来た夢だよ。だって、お 前は病気なんだものね」とわたしは彼女にいった。 してちょうだい、何一つ抜かさないで」 「あたし自分でもね、これはただの夢だと思ったものですか わたしは彼女の要求に一驚を喫したが、それでも詳しい様 子を残らず話し始めた。わたしは、彼女が譫言をいっているら」とネルリはいった。「だあれにもいわなかったんだけど、 のか、少なくとも発作の後で、頭がまだ本当にはっきりしてただあなた一人だけにはお話したかったのよ。ところが、今 日ね、まだあなたがいらっしやらない前に、ちょっと一寝入 いないのではないか、と思った。 りしたところ、お祖父さんの夢を見ましたの。お祖父さんは 彼女はわたしの物語を注意ぶかく聴いた。忘れもしない が、熱病やみらしい光り輝いている彼女の黒い目は、わたし自分の部屋に坐って、あたしを待ってらっしやるんだけど、 の話している間じゅう、じっと絶え間なくわたしを凝視しっそれはそれは痩せこけてあおい顔をして、わしは、二日の間 なんにも食べなかったのだ、アゾルカもそのとおりなんだよ づけていたのである。部屋の中はもう暗かった。 「いいえ、ヴァーニヤ、お祖父さんは死んだのじゃなくってといって、ぶりぶり腹を立てながら、あたしをお責めになる よ ! 」最後まで聴き終わって、もう一ど考えてから、彼女はの。それから、お祖父さんは、もう嗅ぎ煙草がすっかりなく きつばりとこういった。「お母さんはよくあたしに、お祖父なってしまったよ。わしはあれがなかったら生きていかれな

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るので、ばくなんかその前に出ると、まるで子供なのさ。向からしばらく遠ざかって、自分ですっかり片をつけてしまお こうはやっと十七にしかならないけれど、ばくのほうがむし う、とね。きみたちの傍にいたら、ばくはのべっふらふらし ろ弟だね。それから、もう一つ気がついたんだが、あの娘はていて、きみたちのいうことばかり聴いて、どうしたって決 何かまるで一種の秘密といったような、無量の悲しみを心に 心がっかなかったに相違ないよ。ところが、一人きりになっ いだいているのだ。ロ数が少なくってね、家にいても大ていて、一分一秒ごとに、おれは片をつけなくちゃならない、ど いつも黙っているんだ、まるでいじけてるみたいに : : : 何だ うしても解決する必要がある、とくり返さずにいられないよ かじっと考えをめぐらしてでもいるようなのさ。ばくのお父うな立ち場に身を置くと、ばくは勇気をふるって、ーーー本当 さんを怖がっているようなふうで、自分の継母は好きでない に解決してしまったんだ ! ばくはちゃんとした解決を持っ のだ、 ばくはそれと察したよ。伯爵夫人のほうでは、なて、きみのところへ帰ろうとはらをきめたので、そのちゃん んの魂胆があるのか知らないけれど、継娘が夫人をひどく好とした解決を持って、帰って来たわけさ ! 」 いったいどん いてるようにいい触らしているけれども、それはみんな大嘘「それはなんですの、どういうことですの ? なんだ。カーチャはただなんでも、は、はいと、母親のいう な具合だったのか、早く聞かせてちょうだい ! 」 ことを諾いているだけで、なんだかそんなふうの申し合わせ「とても簡単なんだよ ! ばくはいきなり正直に、大胆に彼 でもしているような具合なのさ。四日前に、ばくはいろいろ女に近づいて行ったんだ : : だが、その前にまず一番に、ひ と観察したあげく、 いよいよ自分の意志を実行しようと決心どくばくを驚かせたある一つのことを話さなくちゃならな して、今晩それを実行したんだ。というのは、何もかもカー これから出かけようという時に、お父さんは何かの手紙 チャに話していっさいをうち明け、彼女をこっちの側に引きを受け取ったのだ。ばくはちょうどそのとき、お父さんの書 込んで、その上で一ペんにこの事件を片づけてしまおう、と斎へ入ろうとして、戸口のところに立ちどまったとこだ い , つわけさ : た。お父さんはばくの姿が目に入らなかったらしい。その手 「え ! 何を話すんですって、何をうち明けるんですの ? 」 紙にすっかり度胆を抜かれたふうで、何かひとりごとをいっ とナターシャは不安そうにたずねた。 大きな声で叫んだりして、前後を忘れたように、部屋の 「何もかもをさ、それこそ何もかも」とアリヨーシャは答えなかをあちこち歩き廻っていたが、とうとうだしぬけにから 人 た。「ばくは、この思案を授けてくだすった神様に、お礼をからと笑い出したじゃよ、 オしか。手にはやつばり手紙を持った れ いってるくらいだよ。でも、まあ、聞いておくれ、聞いておままさ。ばくは入るのが怖くなったくらいで、ちょっといっ くれ ! 四日前に、ばくはこうはらをきめたんだ、きみの傍とき待っていた後、やっと入って行ったよ。お父さんは、何