こうして、イフメーネフ一家はペテルプルグへ引き移っる。彼女はため息をついたり、取越し苦労をしたりして、以 た。わたしはあれほど長い別離の後に再びナターシャに会っ 前の暮らしを思っては泣き、イフメーネフカのことをおもっ た時のことを、くだくだしく書き立てるのをよそう。この四ては泣き、ナターシャが年頃になったのに、だれも彼女のこ 年の間というもの、わたしは彼女のことをかた時も忘れたことを心配してくれる相手がいない、 といっては泣いていた。 とがないのである。もちろん、わたしが彼女のことを追想すそして、ほかにだれも胸を割って信頼できるものがないまま る気持ちがどんなものかは、自分でもはっきりわかっていな に、わたしをつかまえて、不思議なはどうちとけて話を始め かった。けれども、わたしたちが再び互いの顔を見た時、わるのであった。 たしはすぐ、彼女が運命によって結びつけられた人であるこ ちょうどこの時分、彼らが移って来るちょっと前に、わた しは処女作の長編小説を書き上げたところであった。それに とを察した。はじめ、彼らがやって来た当座二、三日という もの、彼女はこの四年間にあまり発育を遂げなかったのでは よって、わたしは自分の文学活動をはじめたわけだが、駆け なしか、まるつきり変わったところがなく、あのとき別れる出しのこととて、初めどこへ持って行ったらいいかわからな 前とそっくりそのままではないのだろうか、といったような かった。イフメーネフ家の人たちには、そんな話は一口もし 気持ちがしてならなかった。けれど、それから後は毎日のよていなかった。彼らはわたしがぶらぶらしているといって、 うに、今までわたしのまったく知らなかった、わざとわたしつまり、勤めにも出なければ、ロをさがそうともしないとい の目から隠されていたような、何かしらある新しいものを発って、あやうく喧嘩をしないばかりだったのである。老人は 見するようになった。それはまるでこの少女が、ことさらわ手きびしくわたしを責めつけて、細癪さえ起こしたほどであ たしから姿をかくしていたようなあんばいであった。 そるが、それはわたしを思う父親のような、親身の情から出て いるのはいうまでもない。わたしはまたわたしで、自分がど してこの発見は実になんという楽しさであったろう。老人は ペテルプルグへ越してからしばらくの間は、いらいらして腹ういうことをしてるか話して聞かせるのが、ただもう恥ずか を立てやすかった。訴訟事件が思わしくいかなかったのであしかったのである。まったくのところ、勤めに出るのはいや る。彼は憤慨したり、われを忘れるほど腹を立てたり、一件です、小説が書きたいのです、などと真っ正面からの宣言も 々書類のとりあっかいにかかりきったりしていて、わたしたちならず、時機が来るまで二人をだますことにして、どうも口 しにかまっているどころでなかった。アンナ・アンドレエヴナがなくて困るけれど、とにかく一生懸命にさがしているとこ れ らは、とほうに暮れたようにうろうろして、初めのうちはまるろです、といっておいた。老人はわたしの言葉の真偽を確め 虐で頭がまとまらなかった。。 へテルプルグが怖かったのであている暇がなかったのである。忘れもせぬ、ある時ナターシ
「いや、ヴァーニヤ、けっこ , つだ、けっこ、フだー いい慰めいっても、立身の道には相違ない。えらい方々だって読んで釦 になったよ ! まったく思いがけないほど慰めになったよ。 くださるわけだからな。現にお前も話したことだが、ゴーゴ もちろん、高尚な、偉大なものじゃない、それは知れ切って リなどは毎年年金を頂戴して、外国へ遊学にまでやってもら いる。ほら、現にわしの部屋に「モスグワの救い』という本ったそうじゃよ、 オしか。え、どうだね、お前もそんなになった があるが、モスグワで作ったものでな、それこそもう初めのら ? お い ? それともまだ早いかな ? まだもっと何か作 一行を読んだだけで、いわば鷲のように大空を翔っているよらなけりゃならんかい ? そんなら作りなさい、お前、少し うな気持ちがするが : : しかし、なあ、ヴァーニヤ、お前のも早く作りなさい ! 成功したからって、汕断しちゃ駄目だ 書いたもののほうが、なんだか率直でわかりいし 、よ。つまよ。何をばやばやしてるんだ ! 」 り、このわかりいいところが、わしは気に入ったんだー な彼のそういう調子が、いかにも確信し切ったようなふう んだかずっと親しみがあって、まるでみんなわしの身に起で、しかも好人物なところをまる出しにしているので、わた こったような気がするよ。ところで、高尚ということになるしはそれを中絶して、熱した空想に水をかける気力がなかっ と、第一わし自身からしてわからんだろうな。しかし、文章た。 はわしが少し直してやりたかったな。なに、わしは賞めてる 「それとも、まあ、早い話が、煙草入れでもご下賜になるか んだよ。が、なんといっても、やつばり調子の高いところが な : ・ : ・何もおかしなことはないじゃよ、、 オしカ ? だって、下さ 少ない : いや、しかし、もう今となっては手遅れだ。もうり物には定った式というものはないんだから。奨励のために 本になってしまったんだからな。また、再版の時にでもするさ。ひょっとしたら、宮中にも出入りできるようになるかも かな ? だが、お前、再版にはなるだろうなあ ? そうするしれんぞ」と、意味ありげに左の目を細めて、彼は半ばささ と、また金になるわけだ : : : ふむ ! 」 やくようにつけ加えた。「それとも、駄目かな ? 宮中はま 「でも、お前さんそんなにお金をもらったのかえ、イヴァ だ早すぎるかな ? 」 ン・ベトローヴィチ ? 」とアンナ・アンドレエヴナが口を入「まあ、宮中だなんて ! 」とアンナ。アンドレエヴナは、む っ AJ ー」しよ、フに、つこ。 れた。「こうしてお前さんを見ていても、なんだか本当にな らないようですよ。ああ、まあ、なんてことだろう、近頃じ 「あなたはもう少しでわたしを将軍にしかねない勢いです や、こんなものにまでお金を出すようになったんだねえ ! 」ね」と腹をかかえて笑いながら、わたしは答えた。老人は同 「なあ、ヴァーニヤ」と老人はしだ、こ 冫調子にのりながら言 じく笑い出した。彼はひとかたならず満足そうな様子であっ 葉をつづけた。「こりや勤めじゃないけれど、しかしなんと かた
あれば、そのほかのことは、ひとりでにできていきます、そよ。ことによったら、まだそのうえだれかにいいつけるかも 、つじゃありませんか ? さしあたりのこととしては、明日か しれません、一口にいえば、父親としての権力を振り廻すこ が、しかし、それは本気じゃないのです。お 明・後日まで、ナターシャはばくのとこに県阯いときます。ばとでしよ、つ : ・ : ・ 特別の住居を借りておいたので、帰って来たら、二人そ父さんはばくがかわいくってたまらないんですもの。初め少 し腹を立てて、それから勘弁してくれますよ。その時みんな こで暮らすつもりです。ばくもう父の家には暮らしません。 それが本当でしよう ? あなたもばくたちのとこへ来てくだ仲直りするんです。その時こそ、みんなが幸福になるでしょ う。このひとのお父さんだってそうですよ」 さるでしようね ? ばくとても気持ちよく住居を整えました 「もしゆるしてもらえなかったら ? きみはその時のことを よ。学習院の友だちも遊びに来てくれるでしよう。ばくはと 考えてみましたか ? 」 きどき夜の集りを開きますよ : わたしは疑惑の念をいだきながら、侘しい気持ちで彼を見「きっとゆるしてくれますとも、ただ、もしかしたら、あま りカ畆にとい、フわナこよ、、よ、 レ冫。しカオしかもしれませんね。なに、ど つめていた。ナターシャは、どうか厳しい目で彼を批判しな いように、なるべく大目に見てくれるようにと、目つきでわうもするものですか ? ばくはね、ばくにだってはらがある たしに哀願するのであった。彼女はなんとなくうち沈んだ徴ことを、証明してやりますよ。お父さんはいつもばくのこ とを、性根のない人間だ、軽はすみなやつだといって、罵倒 笑を浮かべて、彼の物語を聞いていたが、同時にその様子に 見とれているような趣きでもあった。それは、よく幼い子供するけれど、今度こそばくがふらふらした人間かどうか、思 い知らせてやるから。だって、自分の家庭を持つってこと の、筋道は通らぬながらも天真爛漫なおしゃべりを聞きなが ら、その愛くるしい央活な顔に見とれるのと、同じような感は、冗談ごとじゃありませんからね。もうそうなれば、ばく じであった。わたしは非難するような目つきで彼女を眺めだって子供じゃないですよ : : : つまり、ばくは、自分だって : つまり、その、家庭を持っ ほかの人と同じような人間に : た。堪え難く重苦しい気持ちになって来たのである。 「しかし、きみのお父さんは ? 」とわたしはたずねた。「きた人間になるって、そういおうと思ったんです。ばくは自分 みは、お父さんがゆるしてくれるって、確信がありますか ? 」で働いて暮らします。ナターシャも、人の懐で暮らすよか、 しいっていいます。ばくたちはみんな人の 々「大丈夫です。だって、ほかにしようがないじゃありませんそのほうがずっと、 しか ? といって、はじめはお父さんもばくを呪うでしよう。 懐で暮らしてるんですからね。あなたはごそんじないでしょ 、ことをたくさんいってくれますよー うが、あれはとてもいし らそれは請け合っても、 しいくらいです。お父さんはもうそうい よ ) ~ う人なんですから。お父さんは、ばくにとても厳格なんですばくにはあんなこと、とても考え出せやしません、
「あたし、もう来てくださらないのかと思ったわ」と彼女はと来ないでしようか ? 」 「そりや来ますとも」と彼女は何かとくべっ真面目な目つき わたしに手を差し出しながらいった。「いっそマヴラをあな たのところへやって、様子を聞かせようかと思ったくらい で、わたしを見ながらそう答えた。 よ。また病気でもなすったんじゃないか、という気がしたも わたしがこう矢つぎばやに質問するのが、彼女の気に入ら なかったのである。わたしたちは部屋の中を歩きつづけなが のですから」 「いや、病気じゃありません、つい引き留められたものだから、しばらく黙っていた。 「あたし、ずっとあなたを待ちどおしていたのよ、ヴァーニ ら。今に話しますよ。だが、ナターシャ、あなたどうかした んですか ? 何かあったんですか ? 」 ヤ」と彼女は再びほほ笑みを浮かべながら、ロを切った。 「別に何もありはしませんでしたわ ! 」と彼女は何か驚いた「その間なにをしていたかおわかりになって ? あたし、こ よ , つにロえた。「ど、つして ? 」 こを行ったり来たりしながら、詩の諸誦をしていたのよ。覚 「でも、昨日の手紙では : : : ぜひばくに来るようにつて、ちえてらしって、鈴の音、冬の道っていうのを。「わがサモワ かしわ ゃんと時間まで指定した上、それより早くっても、遅くって ールは槲のつくえの上にたぎりて : : : 』昔、二人でいっしょ 、も、↓丿よ、、 っていうことだったでしよう。それはなんだ にんたでしよう。 か、いつもと違うじゃありませんか」 「ああ、そうそう ! それはね、あたし昨日あの人を待って 吹雪はおさまり、野道は照らし出されぬ たからよ」 夜は幾万のかそけき目にて地上を眺め 「どうしたんです、あの男は、相変わらず来ないんです いいえ、あたし、こう思ったの。もしあの人が来なけれ ば、あなたとお話しなくちゃならないって」しばらく黙って いた後、彼女はこうつけ加えた。 々 「今夜もあの男を待っていたんですか ? 」 人 「いいえ、待ってなんかいませんでしたわ。あの人晩はあち ららなんですもの」 「あなた、どう思います、ナターシャ ? あの男はもう二度 それから ふと聞こゅ、情熱にみてる歌ごえ 鈴の音に侘しく和して 『ああ、いつの日か、いつの日か、し わが胸の上に憩いたまわん ! わが生活のめでたさよ ! 夜明くれば 、としき人の訪れて
間借してたんだね ? つまり、あのププノヴァのとこで、そ「まあ、まあ、なんてことだろう ! 」とアンナ・アンドレエ 卩しにいくらか無関心な響きをヴナは叫んだ。ネルリの物語に極度の興味をそそられて、お うかね ? 」と老人は、自分の引、 もに自分のほうに話しかけてくれるネルリから、目を離そう こめようとしながら、わたしに問いかけた。その問い方は、 ともしなかった。 黙って坐っているのが、ばつが悪いからだ、とでもいうよう 「その時お母さんは外へ出て」とネルリはつづけた。「あた であった。 「いいえ、あそこじゃありません : : : 初めメシチャンスカヤしも連れてってくだすったの。それは昼間のことだったわ。 街にいましたの」とネルリは答えた。「そこはとても暗くつあたしたちは晩まですっと、街から街へと歩きとおしたんで て、湿っぱかったわ」しばらく黙っていた後に、彼女は語りすけど、お母さんはひっきりなしに泣きつづけて、泣き泣き つづけた。「それで、お母さんの病気が大へんわるくなったあたしの手を取って、歩いてらっしやるんですの。あたしと んですけど、でもその時分はまだ歩いてらっしゃいましたても疲れましたわ。その日、あたしたちはなんにも食べなか ったんですもの。お母さんはのべつひとり言をいって、あた わ。あたしがお洗濯なんかして上げると、泣いてらしたっ け。そこにはまだ、大尉の未亡人とかいうお婆さんが一人しにもこんなことをおっしやるんですの。『貧乏でいなさい、 と、お勤めをやめた役人がいて、いつも酔っぱらって帰ってネルリ。わたしが死んだら、だれのいうこともいっさいきく んじゃないよ。だれのところへも行っちゃいけません。貧之 来ては、毎晩のようにわめいたり、騒いだりするんですの。 あたし、その役人が怖くってたまらなかったわ。お母さんは しても一人でいてお働き、もし仕事がなければ、乞食をして あたしを自分の寝床の中に入れて、じっと抱きしめてくだすもかまわないから、あの人たちのとこへ行くんじゃありませ ったけど、自分でも体じゅう慄えていらしったわ。役人はわん』って。もう暗くなりかかった時分、あたしたちがある大 めいたり、悪態をついたりしどおしなんですの。一度ね、大きな通りを渡ろうとすると、不意にお母さんが、「アゾル カ ! アゾルカ ! 』と大きな声でお呼びになるんですの。そ 尉の未亡人をぶとうとしたことがありましたわ。ところが、 そのひとはよばよばのお婆さんでね、杖にすがってやっと歩の途端、毛の抜けた大きな大が、お母さんのほうへはしって けるくらいですから、お母さんはかわいそうに田 5 って、か来て、きゃんきゃん啼きながら、お母さんに飛びつくじゃあ マ ばって上げたところ、役人がお母さんをぶつじゃありませんりませんか。お母さんはぎよっとした様子で、真っ青な顔を して、あっといったかと思うと、背の高いお爺さんの前に膝 しか。で、あたしはその役人を : ・・ : 」 らネルリは言葉をやすめた。思い出が彼女を興奮させたのでをお突きになったんですの。お爺さんは杖を突いて、地べた を見ながら歩いていましたつけ。その背の高い年寄りの人 ある。その目はぎらぎら輝き出した。
のである。二人が互いに抱き合って、泣いているのを見るら、あなたもお二人をお見送りに、モスクワへお帰りになっ と、全身がくたくたとカ抜けがしたように、苦しそうな表情たらいいじゃありませんか」 「ああ、そうですわ、そうですわ : : : でも、あなた方は、四 で、ナターシャとカーチャの前にひざまずいた。 日の間だけ余分にごいっしょにいらっしゃれますものね」と 「なにを泣いていらっしやるの ? 」とナターシャは彼にいっ た。「あたしと別れるから ? だって、長いことではないじカーチャは意味ありげな目つきをナターシャとかわしなが ら、さも嬉しそうに叫ぶのであった。 ゃありませんか ? 六月初めには帰ってらっしやるでしょ この新しい計画を聞いたアリヨーシャの喜びは、言葉に尽 「その時にはあなた方の結婚式があるんですわね」とカーチくせないくらいであった。彼は急にすっかり安心してしまっ ャもやはり、アリヨーシャの気休めのために、涙の隙から急た。その顔は喜びに輝き渡った。彼はナターシャを抱擁し、 カーチャの手に接吻し、わたしまで抱きしめるのであった。 いでこ , ついった。 「でも、ばくにはできない、たとえ一日でもきみを見棄ててナターシャは侘しげな徴笑を浮かべて、その様子を眺めてい たが、カーチャはもう我慢ができなかった。燃えるようにぎ 行くことはできないよ、ナターシャ。きみがいなければ、ば : いまきみがばくにとってどんなに大切らぎらと光る眼ざしを向けて、わたしに合図をすると、ナタ くは死んでしまう : ーシャを抱きしめて、椅子から立ちあがり、帰り支度を始め な人かってことは、きみにはわからないだろう ! まったく た。ちょうど申し入口わせたように、フランス女が使をよこし いま特別 ! 「じゃ、こうしたらいいわ」とナターシャは急に元気づきなて、もう約東の三十分が過ぎたから、少しも早く会見を切り がらいった。「伯爵夫人はモスグワに、たとえ幾日かでも逗上げるように、といって来た。 ナターシャは立ちあがった。二人は手に手を取ったまま、 留なさるでしよ、つ ? 」 「ええ、かれこれ一週間くらい」とカーチャが引き取った。向かい合って立っていたが、それは、胸の中につもっている じゃ、こんなけっこうなことはない 思いを、目で伝えようとするもののようであった。 「まあ、一週間も ! 「じゃ、あたしたちはこれきりお目にかかれませんのね」と わ。あなたは明日、お二人をモスクワまで送っていらっしゃ それはほんの一日ですむことですから。それから、すぐカーチャはいった。 「ええ、これつきり」とナターシャは答えた。 しこちらへ引き返していらっしゃいな。お二人がいよいよモス 「では、おリ 男れをしましよう」二人は抱擁した。 らクワをお立ちになる時には、その時こそあたしたちもすっか 替り、いえ、向こう一と月の間お別れになるんだわ。そした 「どうかあたしを悪くお思いにならないで」とカーチャは早 3 ~ 9
なほど癪にさわるのは、みんながわしを馬鹿か、低級無比な る彼女のしょんばりした姿は、イフメーネフの心を動かし た。彼はおのれの怒りを恥じるもののように、ちょっと一と卑劣漢扱いにして、あんな卑しい、あんな女々しい気持ちを き自分で自分を抑制した。わたしたちはみんな黙り込んでい持っているように考えていることだ : : : つまり、わしが悲し た。わたしは努めて彼を見ないようにした。しかし、この平みのあまり気が狂いかかっている、などと考えているが 馬鹿なことだ ! わしは昔の感情なんか棄ててしまった、忘 和な時も長くはつづかなかった。たとえ叫喚の声にもせよ、 、ってしれてしまった ! わしにとっては、思い出なんかありやしな 呪詛にもせよ、とにかく、是が非でも、洗いざらいし : そうなんだ ! そうなんだ ! そうなんだ ! そうな まわなければいられなかった。 「実はな、ヴァーニヤ」と彼は不意にい、出した、「わしはんだともー し彼は椅子から跳りあがって、拳固でテープルを撲りつけ 不本意のいたりで、こんなことをいいたくはないのだが、 ~ 余碗ががちゃがちゃと鳴っこ。 かしその時期が来たのだから、まっすぐな心を持った人間とた。 「ニコライ・セルゲーイチ ! いったいあなたは、アンナ・ して、歯にきぬ着せずあけすけにいってしまわなけりゃなら ごらんなさ ん : : : わかるかな、ヴァーニヤ ? お前が来てくれて、わしアンドレエヴナが気の毒じゃないんですかー 、あなたはあのひとをどうするつもりなんです」とわたし 。第しい、だから、わしはほかのものにも聞こえるように、 はこらえ切れなくなって、ほとんど憤慨の眼ざしで彼を眺め 大きな声でいっておくが、実にこんなくだらんごたごたや、 涙や、ため息や、不幸などは、わしもはとほといやになってながらいった。けれども、わたしはただ火に油をそそいだに しまったよ。 いったんわしが血と苦しみといっしょに、自分すぎなかった。 「気の毒なものか ! 」と彼はぶるぶる身を慄わせながら、真 の心からもぎ取ってしまったものは、二度とわしの心に返っ て来はしない。そうだとも ! わしはいった以上、実行してつ青になって叫んだ。「気の毒なものか。だって、わしのこ みせる。わしは半年前のことをいっているのだ、わかるだろともだれひとり気の毒がってくれる者はないじゃないかー , つ、ヴァーニャー しかも、それをあけすけに真っ直ぐにい何が気の毒なものか、現在わしの家で、いくら呪っても罰し ってしまうというのは、お前にわしの言葉をはきちがえてもても飽き足らんいたずら娘をかばうために、そうでなくてさ 々らいたくないからだ」と彼は血走った目でわたしを見つめなえ恥をかかされているわしの意志に逆らって、陰謀を企んで しがら、妻のおどおどした目つきを明らかに避ける様子で、こおるじゃないかー ニコライ・セルゲーイチ、呪うだけは堪 「まあ、あなた ! らうつけ加えた。「くり返していうが、これは馬鹿げたことだ。 : どんなことでもご勝手ですけれど、た : わしが気の狂いそう忍してくださいー 物そんなことはもう真っ平ごめんだー
めをいったかな ? どうもしようのないお転婆娘だ、腹をかナターシャが項を垂れて、唇を半ば開きながら、ほとんどさ かえてわしのことを笑いおる ! わしはな、お前たち、学者さやくように、「ええ」といったのを、自分の耳で聞いたの じゃないけれども、感じることは人並みにできるよ。まあ、 である。しかし、老夫婦もやがてそれを知った。いろいろと 顔なんかどうでもいいとしとこう。そんなことは大した問題さきのことを考えて、思案したものである。アンナ・アンド じゃないよ。顔なんてものは、わしの目から見れば、お前のレエヴナは、長いこと首を縦に振らなかった。彼女は不思議 顔だってけっこうなもんで、わしは大いに気に入ってるくらなような、恐ろしいような気持ちがしたのである。わたしに ・ : なに、わしはそんな意味でいってるんじゃない 信頼がおけなかったのだ。 「なるほど、そりゃうまく当たったからいいようなものの、 ただな、ヴァーニヤ、正直にやりなさい、正直でなけりやい かんよ、これが肝腎な点だ。正直なくらしをして、とんでも イヴァン・ベトローヴィチ」と彼女はいった。「もし急には ない野望をいだくんじゃないそ ! お前には洋々たる前途がすれるとか、まあ、何かそんなふうのことがあったとすれ あるのだから、自分の仕事に正直につとめるがいし わしはば、その時どうします ? せめてお前さんがどこか勤めにで このこ これだけのことがいいたかったのだ、ほかでもない、 も出てりやいいんだけどね ! 」 とがいって置きたかったんだよ ! 」 「じゃ、こ , ついうことにしょ , つ、ヴァーニヤ」と亠七人はさん それはなんという愉しい時代であったか ! わたしはひまざん考えたあげく、はらを決めていい出した。「わしもちゃ さえあると、毎晩のように彼らのところへ遊びに行った。老んとこの目で睨んでいた、気がついていたんだよ。そして、 人には文壇や、文学者の消息を持って行ってやった。どうし正直なところ喜んでいたさ、つまり、お前とナターシャが たものか、彼は突然そういうものに興味をいだきはじめて、 いや、何も今更こんなことをとやかくいうことはありや わたしからいろいろ話を聞いていた、の批評文さえ読み出しよ、 オし ! そこでだ、ヴァーニヤ、お前たちは二人ともまだ したのである。彼は読んでも、ほとんどなんのことかわからまだ若い身空だから、うちのアンナ・アンドレエヴナがいう なかったけれども、うちょうてんになって賞めちぎり、『北 とおり、もちっと ( 付っことにしょ , つじゃよ、 オし力。かりにお前 は才能を持っているかもしれん、それどころか、大した才能 ~ 刀の雄蜂』 ( た新聞『北方の蜜蜂』をもい 0 たもの、編集者にプルガーリン、 こよっている彼の論敵たちにひどく憤慨したものであを持ってるとしよう : ・ : ・ だが、それでも、初めみんなが騒ぎ 、とおりいっぺんの才能はあるだ る。老母は目を皿のようにして、わたしとナターシャを監視立てたような天才じゃない していたが、結局、監視しきれなかった ! わたしたちの間ろうが。 ( つい今日も「北方の雄蜂』でお前のことを書い には、もうある一言が発せられたのである。ついにわたしは批評を読んだが、どうもひどい悪口をついているじゃな、
からね。このごろじゃ、ロにまで出していやだっていってるながら、いろいろとネルリのことをたすね、この娘につ んですよ。わたしも初めは気紛れだと思っていたけれど、そて、何かもっと変わったことを聞き込まなかったか、とたず うじゃない、本気なんですよ。だから、縁談がまとまったねた。わたしは手つ取り早くひととおりの話をした。わたし ら、かわいそうに、あの子はまあどうなるんでしよう。そうの話は彼に強い印象を与えた。 「それについてはまた相談をすることにして」と彼はきつば なったら、うちの人はすっかりあの子を呪うにちがいない。 : たがいずれ、わし それに、またあの人は、アリヨーシャはどうだろう ? 」 りいった。「さしあたり今のところは : が自分でお前のところへ出向くよ、ちょっと体の調子さえよ それから長い間、彼女は根掘り葉掘りしたあげく、例によ って、わたしの答んの一こと一ことに溜め息をついたり、泣くなったらな。そのとき決めるとしよう」 きっかり十二時に、わたしはマスロポーエフのとこへ着い き言をいったりした。概して、彼女は近頃すっかりとほうに くれてしまっているらしいのに、わたしも気がついた。すべた。驚き入ったことには、わたしがはいると早々出会った人 ての知らせが、彼女を動頑させるのであった。ナターシャをは、公爵であった。彼は控え室で外套を着ているところで、 マスロポーエフは小まめにそれを手伝って、彼にステッキを 思う悲しみは、彼女の心と健康を傷つけていたのである。 老人が部屋着をまとい、上靴を突っかけて出て来た。彼はわたしなどしていた。彼が公爵と知り合いであることは、も う自分でわたしに話したけれど、なんといっても、この出会 しかし優しい目つきで妻を眺めた。 熱けがあると訴えたが、 いは、ひとかたならずわたしを驚かした。 そして、わたしがいる間じゅう、まるで保姆のように彼女の 公爵はわたしを見ると、ちょっとまごっいた様子であっ 、何かおずおずし 世話を焼いて、始終その目いろをうかがし 彼の眼ざしには無限の優しさが浴れた。 ている様子さえ見えた。 / ていた。彼は妻の病に驚かされ、もし彼女を失ったら、人生「ああ、あなたでしたか ! 」と彼はなんだかあまりにも度を こしすぎるほど熱のこもった声で叫んだ。「いやはや、実に のすべてを失うことになると、感じたのである。 男れしな奇遇ですね ! もっとも、わたしはたった今マスロポーエフ わたしは一時間ばかりこの夫婦のところにいた。リ に、彼はわたしの後から控え室まで来て、ネルリのことをい氏から、あなた方がお知り合いだという話を聞きましたが い出した。娘の代わりに彼女を自分の家へ引き取ろうと、真ね、が、あなたとお目にかかって愉快です。お会いできて実 に、実に愉快です。わたしはちょうどあなたにお会いしたく 面目に考えていたのである。これについて、アンナ・アンド レエヴナの心を動かすにはどうしたらいいか、その相談をわって、なるべく早いうちにお宅へ寄りたいと思っていたとこ たしに持ちかけたのである。彼はかくべっ好奇の色を浮かべろですよ。お差支えありませんか ? わたしはあなたにお願
死ぬ三日前のこと、ある美しい夏の夕暮れ、彼女は病室の しかし、わたしたちの花祭は、その翌日おじゃんになって日よけを上げて、窓を開けてほしいと頼んだ。窓は庭に面し しまった。ネルリの容体が悪くなって、彼女は病室を出るこていた。彼女は長いこと濃い緑の草木や、沈みゆく日を眺め とができなかったのである。 ていたが、だしぬけに、わたしたち二人きりにしてくれとい そして、最早それきり、彼女はその部屋を出ずに終わっ 「ヴァーニヤ」と彼女はやっと聞き取れるくらいの声でいっ 彼女は二週間たって死んだ。この苦しい二週間のあいだ、 た。もうすっかり衰えきっていたのである。「あたし、間も 彼女は一度もはっきり正気づくことができず、したがって、 なく死にますわ。もう本当にすぐよ。だから、あなたにあた しのことをおばえていていただきたいの。これを片見に差し その奇怪な幻想からのがれることができなかったのである。 彼女の理性は、混濁したかのようであった。祖父はいくら呼上げますわ ( そういって、自分の胸に十字架といっしょに掛 んでも、彼女が行かないので腹を立て、杖をとんとん突き鳴 けていた大きな守り袋を指さした ) 。これはね、お母さんが らして、早く出かけて行って、慈悲深い人々にパンと嗅ぎ煙死ぬ間際にあたしにくだすったものなの。でね、あたしが死 草の代をもらって来いといいつけている、と彼女は死ぬ間際んだら、この守り袋をはすして、ご自分のものに取って置い まで固く信じ切っていた。よく寝ながら泣き出して、目がさてちょうだい。そして、なかにあるものを読んでね。あたし めると、お祖父さんに会ったというのであった。 今日みなさんにそういいますわ、この守り袋はただあなたに 好とすると、理性が完全に回復するように思われることも だけ渡してちょうだいって、中に書いてあることをお読みに なったら、あの人のとこへ行って、あたしが死んだことを、 あった。ある時、わたしたちは二人きり差し向かいにな た。すると、彼女はわたしのはうへ体を差し伸べて、燃えるあたしがあの人をゆるさなかったってことをいってください な。それから、こうもいってちょうだい。あたしこのあいだ ように熱い痩せた掌で、わたしの手を握った。 「ヴァーニヤ」と彼女はいった。「あたしが死んだら、ナタ聖書を読んだところ、その中にすべての敵をゆるせと書いて あったけど、でもあたしそれを読んでもやつばりあの人をゆ シャをお嫁さんにしてちょうだい ! 」 々 それは、彼女が久しい前から絶えずいだいている想念らしるさなかった、とそういってちょうだい。だって、お母さん がお亡くなりになる前、まだものがいえる時分、最後におっ しかった。わたしの徴笑を見ると、彼女もにつこり笑って、悪 戯っ子らしい様子をしながら、痩せた指を立てて、おどかすしやったことが、『あの人を呪ってやる』ってことなんです もの。だから、あたしもあの人を呪うんですの、自分のため 真似をしたが、すぐさまわたしを接吻し始めた。