には、少しも早くナターシャと結婚するために、二、三日の いているはどである。 うちに帰って来る、これは決定的のことで、いかなる力をも 「あなた、それじゃ、今に書く種が尽きてしまってよ、ヴァ ってしても、動かすわけにはいかないと、あわただしい書き ーニヤ」と彼女はわたしにいうのであった。「自分で自分に 暴力を加えることになって、今に種がきてしまいますわ。方をしていたけれども、手紙ぜんたいの調子から見ると、彼 それに、体だって毀しておしまいになってよ。現に * * * が絶望に陥っていることは見え透いていた。外部からの影響 なんか二年間に中編一つの割で書いているし、 * なんか十が、完全に彼を支配してしまって、もはや彼も自分を信じて いないのである。彼は何かの言葉のついでに、カーチャは自 年の間に長編を一つ書いただけじゃありませんか。そのかわ り、あの人たちのものの練りに練って、推敲してあることと分にとって神意も同様であり、彼女一人が自分を慰め、支持 してくれると述べていた。わたしは今度の三度目の手紙を、 いったら ! ただ一か所だって、やつつけなところはありま 貪るようにして開いて見た。 せんわ」 それは便箋二枚にわたっていて、跡切れ勝ちに乱雑な書き 「そう、しかしあの人たちは気楽なご身分で、期限を切った 仕事なんかしやしません。ところが、ばくは郵便馬車につけ方がしてあり、急いだものと見えて字はわかりにくく、イン られた、やくざ馬同然なんですもの ! まあ、しかしこんなキと涙のしみだらけであった。アリヨーシャは劈頭第一に、 ことはつまらん話ですよ ! よしましよう、ねえ ? どうで自分はナターシャを思い切ることにしたから、彼女も同様、 と切り出していた。自分たちに 自分のことを忘れてはしい、 す、何か変わったことはありませんか ? 」 「いろいろありますわ。第一にね、あの人から手紙が来まし敵意を有する外部の影響が、はなはだしく強力であるため に、自分たち二人の結合は不可能である、ということを証 たわ」 明しようと努め、最後に、それは当然そうあるべきなのだ、 「また ? 」 なぜなら、二人は釣り合わぬ一対だから、自分もナターシャ 「ええ、また」 彼女はわたしにアリヨーシャの手紙をわたした。これは別も共々、不幸になるに相違ない、と結論していた。けれど、 離以米、三度目のものであった。最初の手紙はモスクワから彼はその態度を持ち切れないで、自分の理屈や論証を棄てて 々出したもので、まるでなにかの発作におそわれて書いたようしまい、手紙の前の半分を引き裂きも破り捨てもせす、その 当であった。それは、さまざまな事情が重なって、どうしてもまますぐに、自分はナターシャに対して犯罪人である、滅び ら別れる時に計画したとおり、モスクワを離れてペテルプルグたる人間である、田舎へやって来た父の意志に敢然抗するカ へ来ることができない、という知らせである。二度目の手紙が、自分にはないのだ、と告白している。自分の苦悩をいい 357
はまぎれもなく、公爵に関したことなのである。彼女が公爵 りませんか ? それは侮辱ですよ、ナタリヤ・ニコラエヴナ」 「わたくしは、どなたとお話するにもせよ、できるだけ当てに対する意見を変えて、彼を自分の仇敵のごとく見なしてい こすりをいわないようにしておりますの」とナターシャは答るのは、一見明瞭であった。彼女は察するところ、アリヨー えた。「それどころか、いつもなるべく真っ直ぐにお話するシャとの間がうまくいかないのを、みんな公爵のせいにし ように、気をつけているくらいでございます。今日にもさって、それには何か根拠を持っているらしかった。わたしは、二 そく、それを信じていただけるかと思いますの。あなたを侮人の間に思いがけない場面が演じられはしないかと、びくび 辱するなんて、そんな気はわたくしさらにございませんし、 くしていた。公爵が二人の関係を真面目に見るはずがないと いう最後の言葉、お客をもてなすものの義務として詫びをい 第一、そんな理由がないじゃありませんか。それに、わたく しが何を申し上げようと、あなたがわたくしの言葉に腹などうというロ上、彼女が真っ直ぐに物をいうすべを心得ている をお立てになるはずがない、それだけの理由でも十分ですことを、今晩すぐにも証明して見せるという威嚇の性質をお これらすべてはあまりにも毒をおびて、しか わ。わたくし、それをふかく確信しておりますの。と申すのびた約東、 は、わたくし、自分とあなたとの関係を、十分理解しているも露骨だったので、公爵がそれをさとらないはずはないので からでございます。だって、あなたはわたくしとの関係を、 あった。彼は顔色を変えたが、巧みにおのれを制した。わた 真面目にごらんになるわけにいかないでしよう、そうじやごしはちゃんとそれを見て取った。彼はすぐさま、そういう一一一一口 ざいませんか ? でも、もしわたくしが本当にあなたを侮辱葉に気がっかず、その本当の意味をわからなかったようなふ したのでしたら、いつでもお詫びを申し上げて、自分の義務うをして、もちろん、冗談でごまかしてしまった。 を果たしたいとそんじております : : : お客をもてなすものと「謝罪を要求するなんて、とんでもない ! 」と彼は笑いなが しての義務を」 ら引き取った。「わたしは決してそんな気持ちなんかなかっ たのです。それに、婦人の人から謝罪を要求するというの ナターシャがこれだけの口上を述べた調子は淡々として、 ややふざけたようなところさえあり、唇には笑いをたたえては、わたしの掟にないことです。わたしは初めてお目にかか いたけれども、彼女がこれほどいらいらしているところを、 った時、自分の性質について、多少あなたにお話をしておき わたしはこれまでついぞ見たことがない。 この三日間に、彼ましたから、一つ自分の観察を述べたところで、おそらくお 女の心がどれだけ傷つき痛んでいたか、この時はじめて合点腹立ちにはなりますまい。ましてそれはすべて一般の婦人に がいった。彼女が何もかも知っており、何もかも察してしま関することなんですからね。あなたもおそらくこの観察に同 ったという謎めいた言葉は、わたしをぎよっとさせた。それ意してくださるだろうと思います」と彼は愛想よくわたしの ノ 88
わたしはあの老人が故意に許欺をしたといって、責めている然な人間的なものたということです。そこでくり返していし わけでもなければ、かって一度もそんな非難をしたことはあますが、正直なところ、わたしはほとんどイフメーネフの人 りません。ただ自分で勝手に侮辱されたといって、騒いでい物をまるつきり知らないで、アリヨーシャとあの娘に関する るだけなんですよ。あの男は自分の委任された仕事をおろそ例の噂を、すっかり鵜呑みに信用してしまった。そこで、彼 かにして、十分目が届かなかったというところに落ち度があが故意に金を盗んだということも、信じるようになったわけ るので、以前わたしたちのかわした契約によって、そういつで : : : しかし、それはさておいて、重要な問題は、これから たふうな事柄のあるものに対しては、当然責任を負わなくちわたしがどうしたらいいかということです。あの金を放棄し ゃならないのです。しかし、じつのところ、問題はそんなこたものでしようか ? しかし、わたしがその場で、今でも自 とでもないのです。つまり、問題はわれわれの争いにあるの分の訴訟を正当と見なしていると公言したら、それはつま です。あの当時お互い同士に与えた侮辱にあるのです。一口り、金をあの男にやることになるでしよう。そこへもって来 にいえば、相互に自尊心を傷つけられたという点にあるのでて、ナタリヤ・ニコラエヴナに関する徴妙な状態を考え合わ すな。わたしもあの時、そんなけちくさい一万ループリの金して見ると : : : あの男はきっとその金を、わたしに叩き返す なんかには、目もくれなかったはずなんですが、どういうわにちがいありません : : : 」 けで、どんなふうにしてこのごたごたが始まったかというこ 「そらごらんなさい、ご自分でも叩き返す、といっていられ とは、あなたもむろんご承知のこととおもいます。なるほるじゃありませんか。してみると、あなたは相手を正直な人 ど、わたしが疑ぐり深くって、もしかしたら正当を欠いてさ間と思っておられるわけですから、あの人があなたの金を盗 えいたかもしれない ( いや、たしかにあの時は正当を欠いてんだのではないということを、完全に信じていいはずです。 いました ) 、それは自分でも認めていますが、わたしはそれもしそうだとすれば、あなたはあの人のところへ行って、自 に気がっかなかったのですね。それで、あの男の無礼な態度分の訴訟を不法なものと見なすと、正々堂々声明なすったら に腹を立てて、細癪まぎれに機会を逸してはならないぞとい しいじゃありませんか。そうすれば潔白なもので、イフメー う気で、訴訟を起こしてしまったんです。あなたの目から見ネフもその時こそ自分の金を取るのだから、おそらくなんの れば、そういうことはおそらくわたしとして、あまり高潔で故障もみとめないでしよう」 ないと思われるかもしれません。それはあえて弁護しません「ふむ ! : : : 自分の金ですって、そこが問題なんですよ。い ったいあなたはわたしをどうなさるおつもりです ? あの男 : 、ただあなたにいっておきたいのは、憤怒、とくに傷つけ られた自尊心は、まだ潔白心の欠乏を示すものではなく、自のところへ出かけて行って、自分の訴訟を不法なものと認め
がら彼女がこの世にいなかったもののように、 一ことも口にんで、わたしの目の前でナターシャを愛情あふるるばかりの すまいと、無言のうちに約東したかのようなあんばいだっ言葉で呼びかけたり、夫ニコライ・セルゲーイチのことを恨 た。アンナ・アンドレエヴナは、夫の前では娘のことを、明み訴えなどした。そして、夫のいる前では、一生懸命に大事 らさまにほのめかすことさえはばかっていた。もっとも、そを取りながらも、人間の傲慢さ、残酷さをほのめかし、われ れは彼女にとって、たまらなくつらいことであった。彼女はわれは侮辱をゆるすすべを知らないが、みずからゆるさない ものは、神のゆるしをも得られないなどと、当てこすり始め 心の中ではもう疾くにナターシャをゆるしていたのである。 わたしたちのあいだには、何か黙約のようなものができ上っるのであった。けれど、それ以上夫の前でロに出す勇気がな て、わたしは訪問のたびごとに、忘れることのできぬまな娘かった。そんな時、老人はたちまち依怙地になり、気難かし くなって、眉をひそめて黙ってしまうか、でなければいつも の消息を彼女にもたらすことになっていた。 ながいあいだ消息を聞かないと、老母は病人のようになっ木に竹をついだような調子で、とっぜん大声にほかの話を持 た、わたしがたよりをもって行くと、どんなこまかいことにち出すか、或いはわたしたち二人を残して自分の部屋へ引っ も興味をもって、やもたてもたまらぬはどの好奇心に駆られ込むかしてしまう。そうして、アンナ・アンドレエヴナに、 ながら、根掘り、葉掘りききただして、わたしの物語をせめわたしの前で泣いたり口説いたりして、自分の悲しみを思う てもの『心やり』にするのであった。一度、ナターシャが病存分はき出す自由を与えるのであった。それと同じような要 気した時などは、恐怖のあまり気が遠くなったはどで、すん領で、彼はいつもわたしが訪ねて行くたびに、挨拶をすます とそうそう、自分の部屋へ引っ込んで、ナターシャに関する でのことに、自分で娘のところへ出かけるところであった。 が、それはよくぜきの場合であった。初めのうち、彼女はわ最近の消息を、アンナ・アンドレエヴナに伝える余裕を与え たしの前でさえも、娘に会おうなどという望みを、ロにするるのであった。そのように今度も彼はふるまった。 勇気がなかった。わたしたちの話が終わって、何もかもたず「わしはぐしょ濡れになってしまったよ」と彼は部屋へ入る ね冬くしたあげく、彼女ははとんどいつもわたしの前でかちなり、彼女にそういった。「わしは居間へ行くから、ヴァー かちになって、自分は娘の運命に関心を持ってはいるけれニヤ、お前はそこにいておくれ、ヴァーニヤのはうに一と事 々ど、それにしても、ナターシャはゆるすことのできない罪の件持ち上ったんだよ、住居のことでな。ひとつあれに話して 人 かやってくれ。わしはすぐに戻って来るから : : : 」 女だと断言するのを、自分の義務のように心得ていた。し そういって彼は、わたしたち二人をいっしょに結びつけて らし、それはすべてうわべだけのことであった。どうかする いる自分をみずから恥じるかのさまで、わたしたちの顔さえ 2 と、アンナ・アンドレエヴナは身も世もあらぬほど嘆き悲し
あこの人に聞いてごらん。わたしたちはこの戸口に立ちどまこでああいうことがあった直後、まる四日間も、自分にとっ 8 りながら、命と足が無事だったことを、神様に感謝したものて世界中の何ものよりも尊いはずの女を、ないがしろにする だよ。その時、すぐわたしの頭にどんな考えが浮かんできた なんて ! お前はカチェリーナ・フヨードロヴナとの議論ま か、知っているかい ? お前がそれほどナタリヤ・ニコラヴで引合いに出して、ナタリヤ・ニコラエヴナはたいへん寛大 エナを愛していながら、このひとをこんな家に住まわせて、 な人だから、お前の過失をゆるしてくれるだろう、といったっ よく平気でいられるものだと、わたしはあきれ返った次第だけね。だが、お前はどんな権利があって、そういうゆるしを よ。もし自分に資力がなければ、もし自分の義務を果たすだ当てにしたり、それで賭けまですることができたんだろう ? けの力がなければ、夫となる権利もなく、なんらの義務をもお前はこの四日間に、どれだけのくるしみと、どれだけのつ 身に負う権利がないということに、どうしてお前は気がっからい思いと、どれだけの疑惑を、ナタリヤ・ニコラエヴナに なかったのだ。ただ愛情だけでは十分でない。愛情は行為にもたらしたか、一度もそれを考えたことはなかったのかね ? よって現われるものだ。ところが、お前の考え方は、「たとまさかお前がえたいの知れぬ新思想に夢中になったために、 えおれと苦しんだってかまわない、おれといっしょに暮らす自分の第一の義務をないがしろにしていい権利ができたのじ 力しい』というのだが、それじや人道的でない。それは潔白ゃあるまい ? ナタリヤ・ニコラエヴナ、お約東にそむいた なやり方じゃないよ ! ロでは博愛を語り、一般人類的問題のをゆるしてください 。しかし、今の問題は、あの約東以上 にうつつを抜かしながら、同時に愛に悖る犯罪を行なって、 に重大なんですから。あなたもそれはわかってくださるでし しかもそれに気がっかないなんて。 ふつふつ合点がいか よう : : : アリヨーシャ、わたしがここへ来てみた時、ナタリ どうか話の腰を折らないでください。ナタリヤ・ニヤ・ニコラエヴナがどんな苦しい思いをしておられたか、お コラエヴナ、わたしにしまいまでいわしてください。わたし前は知っているのか。お前はこのひとの生涯で、最も楽しい はあまり苦々しいので、思うことをすっかりいわずにはいら日であるべきこの四日間を、あべこべに地獄のようなものに れません。アリヨーシャ、お前はこの三、四日というもの、 してしまったのは、わかりきった話じゃないか。 一方では、 すべて高潔な、美しい、潔白なものに、夢中になっていたとそんな行為をしておきながら、また一方では、口さきばかり いう話だね。そして、われわれの社会には、そうした高尚なの言葉、言葉、言葉だ : : いったいわたしのいうことが間違 熱中というものがなく、あるのはただひからびた分別ばかり っているかね ! お前自身が四方八方悪いことをしていなが だといって、わたしを責めたね。ところが、よく考えてごらら、しかもそれでわたしを責めることができるのか ? 」 ん、高尚な美しいものに夢中になって、しかも火曜日に、 公爵は自分のいい分を終わった。彼は自分の雄弁に釣り込
本当に悪くはないんだよ ! 」とアリヨーシャは元気づきながそうむきになって叫んだ。「お父さんは「早まった』などと ら叫んだ。「いったいお父さんは、あんなつもりでここへ来いったけれど、あれはいらいらしていたからなんだよ。いま たのだろうか ! あんなことを予期していただろうか ! 」 に見ててごらん、明日にも、少なくとも二、三日のうちに、 けれど、ナターシャが脳ましげな、非難するような目つきお父さんは思い返すに相違ないから。もし本当にばくたちの で、自分を見ているのに気がつくと、すぐに法じ気づいてし結婚に反対するほど、腹を立ててしまったのなら、ばくは誓 まった。 っていうが、お父さんの言葉に従いはしないよ。ばくにだっ 「いや、もういわない、 もういわない、堪忍しておくれ」とて、多分それくらいの力はあるだろう : : : ああ、そうだ、ば 彼はいった。「みんなばくがもとなんだよ ! 」 くたちに力をかしてくれる人がある ! 」と彼は自分の思いっ 「そうね、アリヨーシャ」と彼女は重苦しい気持ちをいだききにうちょうてんになって、出し抜けに大きな声をだした。 ながら、言葉をつづけた。「今度、あの人があたしたちの間「カーチャが力をかしてくれるよ ! いまに見てごらん、あ を通り抜けて、永久にあたしたちの平和を破壊してしまったれがどんなに立派な娘か、わかるから ! あれがきみの競争 んだわ。あなたはいつもだれより一番、あたしを信じていて者になって、ばくたちの間を裂こうとしているかどうか、い くだすったけれど、今度あの人があなたの心に、あたしこ寸 冫文まにきみにもわかるから ! きみはさっき、ばくが結婚の翌 する疑いと、不信を注ぎ込んでしまったのよ。あなたは現に日にさっそく愛が冷めるような人間の一人だといったけれど あたしを咎めていらっしやる。あの人はあたしからあなたのも、あれはすいぶんひどいよ ! ばくはあれを聞いて、どん 心を、半分取ってしまったのよ。あたしたちの間を、黒い猫 なにつらかったかしれやしない ! いや、ばくはそんな人間 駆け抜けたんだわ」 じゃない。ばくが始終カーチャのところへ行くにしても : 「そんなことをいわないでおくれよ、ナターシャ。なんだっ 「もういいわ、アリヨーシャ、行きたい時に行ったらいいの て「黒い猫』だなんていうのさ ? 」彼はこの言葉にしょげきよ。あたしがさっきいったのは、そんなことじゃないの。あ ってしまった。 なたはすっかり呑み込めなかったんだわ。だれとでも好きな 「あの人は見せかけの親切と、 いかさまの寛大であなたをひ人と幸福になってちょうだい。だって、あなたの心が与えて きつけてしまったのよ」とナターシャはつづけた。「これか くれる以上のものを、要求するわけにはいきませんもの : : : 」 らは、だんだん余計にあなたの心を、あたしに逆らうように マヴラが入って来た。 仕向けてくるでしようよ」 「どうします、お茶を出しますかね ? 冗談じゃない、もう 「そんなことはない、誓っていうよ」とアリヨーシャはいっ二時間もサモワールが煮えどおしでさ。もう十一時じゃない 2 ノ 0
に、涙がわたしの目からほとばしり出た。 こへ行かなければならなかった。彼女自身、もう朝のうちか そうだ、それは哀れなネルリを思う涙なのであった。もっ ら、わたしに来てくれといってよこしたのである。しかし、 わたしは今日まるで食事をしていなかった。ネルリのことをとも、わたしは同時に、押え切れない憤懣の念をも感じたの だった。彼女は必要に迫られて、物乞いをしたわけではな 考えると、胸を掻き立てられるような気がしたのである。 「いったいどうしたというのだろう ? 』とわたしは考えた。 い。だれか人に棄てられたのでもなければ、運命の気紛れの 「病気のせいでこんな変なことになったのだろうか ? それとままにまかされたのでもなく、残忍な迫害者のもとから走っ たのでもない。自分を愛し、いたわってくれる親友のもとを も、あれは気がちがったのか、でなければ、気がちがいかか ってるのじゃあるまいか ? ああ、弱ったなあ、いまどこにのがれ去ったのである。その苦行によってだれかを驚かし、 いるのだろう、どこをさがしたらいいのかなあ ! 』 仰天させようと思ったものらしい。まるで、だれかに自慢し ・ : けれど、何か秘 こうロ走った拍子に、わたしはふと幾足も離れていないて見せようとしているように思われる ! 橋の上に、ネルリの姿をみとめた。彼女は街燈の傍に立って密なものが彼女の心に熱しているのだ : : : そうだ、老人のい いたので、わたしには気がっかなかった。わたしはいきなりったとおりだ。彼女は苦しめ虐げられて、その傷は癒そうに 駆け寄ろうとしたが、ちょっと足をとめた。『いったいこんなも癒されなかったので、こうした秘密めかしい行為や、わた ところで何をしているのだろう ? 』と不審をいだいたのであしたち一同に対する不信の態度で、わざと自分の傷口を掻き る。今こそ見失うことはないという確信があったので、わた立てようとしているのだ。まさしく彼女は自分で自分の苦痛 しは少し待って、彼女を観察することに決めた。十分ばかりを、この苦痛のエゴイズムを、もしこういういい方が許され 経った。彼女は通行の人々に目をやりながら、いつまでもたるならば、享楽しているのである。こうして、苦痛をいやが たずんでいる。そのうちに、立派な身なりをした一人の老人上にも掻き立て、その苦痛を享楽する気持ち、それはわたし が通りかかると、ネルリはっとその傍へ寄った。相手は歩みにも理解することができる。それは運命にさいなまれて、そ をとめず、ポケットから何か取り出して、彼女に与えた。ネの不当を意識している多くの虐げられ、侮辱されたる人々の ルリはお辞儀をした。その瞬間、わたしが胸に感じたこと享楽なのである。けれど、ネルリはわたしたちのどういう不 は、しよせん言葉に尺、くされるものではない。わたしの心臓当を訴えることができたか ? 彼女は、わたしの前で得意そ はぎゅっと苦しいほど締めつけられた。何かしら自分のめでうに自慢したとおり、自分の気紛れや突っ拍子もない行為 いつくしんでいた貴重なものが、そのとき目の前で辱しめらで、わたしたちをびつくり仰天させようとしたものらしく思 しかしそうではない ! 彼女はいま一人っき れ、唾で穢されたような気持ちであった。が、それと同時われる : : : が、 8
ペイカも見つからなかった。埋葬のために着がえのシャツをら、五年もこの家に勤めているから、ことによったら、何か さがしても、それさえなかった。仕方なしに、だれかが自分はっきりした返事がすこしでもできたかもしれないのだが、 のシャツを寄進した始末である。こんな有様で、まったく一二週間ばかり前にちょっと故郷へ帰って、その留守に自分の 人ばっちの暮らしをするわけにはいかよいから、ほんの時折甥に当たる若い者を置いて行ったので、これなどは借家人の でも、だれかが訪ねて来たのは明瞭である。テープルの抽斗顔をまだ半分も見覚えていないわけである。こうしたふうな に、彼の身元証明書が見つかった。故人は外国人ではあった訊問や調査の結果が、どういうことになったのか、確かなと とにかく、 けれども、ロシャに帰化したエレミャ・スミットという機械ころは知らな、。 老人はついに埋葬された。この 技師で、享年七十八である。卓上には書物が二冊あった、簡数日中に、なにかと忙しい間の暇を盗んで、わたしはヴァシ 単な地理書とロシャ語訳の新約聖書で、このほうは余白にい ーリエフスキイ島の六丁目へ行って見た。 : 、 カそこへ行って つばい鉛筆でごたごた書き込んであったり、爪でしるしがつ見て初めて、わたしは自分で自分を笑わずにいられなかっ けてあったりした。この二冊の本はわたしがもらっておい た。ただありふれた家並のほかに、わたしはこの六丁目でい ったいなにを見ることができるというのだ ? しかし、とわ た。ほかの借家人や家主が訊問されたけれども、だれ一人と してこの老人のことはほとんどなんにも知らなかった。借家たしは考えた、なぜ老人は息を引き取る間際に、六丁目だ 人はこの家のなかにうようよいて、大ていは職工でなけれの、ヴァシーリエフスキイ島だのといったのだろう ? うわ ば、賄いと女中つきで部屋を又貸ししているドイツ女であ言ではなかったのだろうか ? る。家の管理人は相当な身分の人間らしかったが、これもや わたしは、スミットのがらんとした住居を検分してみて気 はりなくなった自分の借家人のことについては大した申立てに入ったので、自分でそれを借りることにした。何よりあり ができず、ただあの住居が月六ループリで、故人はそこに四がたいのは、部屋が大きいということだった。もっとも、お か月暮らしたが、あとの二か月は家賃を一コ。ヘイカも入れなそろしく天井が低くて、初めのうちは、頭を天井にぶつつけ いので、出てもらわなければならぬ事情になっていた、とい そうな気がして仕方がなかったが、やがて間もなく馴れてし うくらいなことであった。だれかちょいちょい訪ねて来るもまった。月六ループリの家賃では、これ以上のものを手に入 のはなかったか、という問いに対しても、だれひとり満足なれることはできなかった。それに、他からぜんぜん独立して 答えのできるものがなかった。なにしろ大きな建物であるか しるということに、心を惹かれたのである。残るところは、 はこぶわ ら、こんなノアの方舟みたいな家へ出入する人間は、おびた ただ女中の心配だけであった。なにぶんにも、まったく女中 だしい数である。いちいち覚えきれるものではない。門番な なしで暮らすというわけにはいかなかったのだ。初めのうち
を確信していた、というふうにも考えていただきたくないのとのない、あまり長たらしくて妙な感じのする話の間々に、 です。それも間違いです ! わたしは自分からさきに立ってユーモアと、無造作な調子と、冗談とで、ほとばしり出る感 はっきり声明しますが、あれはあなたの愛に値するものでは情を隠そうと努めている変人といったような様子を、技巧的 ありません。そして : : : ( 彼は善良で純な男ですから ) 自分に装ってみせるのであった。しかし、わたしがこれらのこと でもそれを裏書きするでしよう。しかし、それだけでもまだを思い合わせたのは後のことで、その時はまた事情が別であ 理由が不十分です。わたしがこんな時刻にここへひかれて来った。ことに、最後の言葉などは、いかにも生き生きとして たのは、ただそれだけのことではありません : : : わたしが来真情が溢れ、ナターシャに対する心底からの尊敬がこもって いたので、わたしたちはすっかりそれに征服されてしまっ たのは : : : ( と彼はうやうやしげに、しかもややものものし 何か涙のようなものさえ、彼の睫毛にきらめいたほどで い態度で席を立った ) 、わたしがここへ来たのは、あなたのた。 親友になるためです。わたしはそういう権利を少しも持ってある。ナターシャの潔白な心は、完全にとりこにされてしま った。彼女も公爵につづいて席を立ち、深い感動に打たれな いないばかりか、むしろその反対なのを承知しています。 がら、黙って手を差しのべた。彼はその手をとって、優しく どうかその権利に値するような仕事をさしてく 情をこめて接吻した。アリヨーシャはわれを忘れるほどうち ださい ! そういう希望をいだくことをゆるしてくださいー ようてんになってしまった。 彼はうやうやしくナターシャに一礼して、相手の言葉を「どうだ、ばくのいったとおりだろう、ナターシャ」と彼は 待っていた。彼がしゃべっている間、わたしはじっとその様叫んだ。「それだのに、きみはばくのいうことを本当にしな この人が世界中で一等潔白な人だってことを、本 子を観察していた。彼はそれにちゃんと気がついたのであかった ! 当にしなかったー る。 今こそわかったろう、自分で納得がいっ たろう ! ・ : 彼はいくらか能弁をてらうような、ところどころ無造作な 調子をまぜながら、冷ややかにその長広舌を終わった。彼の彼は父の傍へ飛んで行って、激しく彼を抱きしめた。父も 話の全体の調子がどうかすると、初めての訪問にはふさわし同じ仕草で答えたが、自分の態情を露出するのを恥ずるかの 冫しそいでこの感傷的な場面を切り上げてしまった。 々くないこんな時刻に、しかも特別な関係であるにもかかわらようこ、、 人 「もうたくさん」といって彼は帽子をとった。「わたしはも ず、ここへ訪ねて来たやむにやまれぬ一念と称するものに、 れ う出かけよう。わたしはあなたに、ほんの十分だけ割いてい 何となくびったりしないところさえあった。あるいい廻しな どは、目に見えてこしらえものらしく、綿々として尺、くるこただくように申しながら、まる一時間も坐り込んでしまいま〃
たけでも、なかなかえらいよ。見上げたもんだ、ナタリヤ・ いかしらん、たとえば、なぜばくが公爵をおそれなくちゃな ニコラエヴナ ! 彼女の健康のために飲もう ! ( 彼はぐっと らないか、っていうわけくらい」 「よろしい、御意のとおりにしよう。おれはね、きみ、時々一杯飲み乾した ) 。そういう場合、うかうかだまされないよ 他人から事件を頼まれて、ご用を務めるんだよ。しかし、考うにするには、頭ばかりじゃなくって、心も必要だよ。あの えてみてもわかるだろうカ ; 、ばくが人から信用されるのは、娘の心は裏切らなかったわけだ。もちろん、勝負は彼女の負 ぼくがおしゃべりでないからさ。してみれば、どうしてきみけさ。公爵は自分の思うとおりにやりとおすだろうし、アリ にそんな話ができると思う ? だから、おれの話し方が大ざ ヨーシャも彼女を棄ててしまうに相違ない。ただ気の毒なの つばだからといって、文句をいわないでくれたまえ。ただあはイフメーネフさ。あの悪党に一万ループリ払わされるんだ の公爵がどんな悪党だかってことを、証明するだけに止めからなー だが、いったいだれがあの人の事件で奔走したん て、ごく大ざっぱに話すことにするよ。だが、まずきみのは だ、だれが面倒を見てやったんだね ! きっと自分でやった ぐらいのことだろう ! うの話からやってもらおう」 いやはや ! ああいう一本気で正直 わたしは自分の問題については、何一つマスロポーエフに な連中は、みんなそうなんだー なんの役にも立たない連中 隠す必要はないと思案した。ナターシャの事件は別に秘密でだよ ! 公爵相手にそんなやり方じゃ駄目の皮さ。おれだっ もないし、それに彼女にとっていくらか利益になることを、 たら、イフメーネフに素晴らしい弁護士を世話してやったん マスロポーエフから期待できたのである。もちろん、わたし だがな、いやはや ! 」と、彼は残念そうにテープルをどんと の話のなかでも、二、三の点はできるだけ触れないようにし ロ . し学 / た。マスロポーエフは公爵に関することは何に限らず、こと 「ふむ、それで今度は公爵だ、どうなんだね ? 」 さら注意深く聞いていた。彼は幾度も話の間にわたしを押し 「きみは公爵のことばかりいってるじゃないか。いったいあ 止めて、何かといろいろ聞き返したので、わたしはかなり詳いつのことで何を話したらいいんだ。どうも自分のほうから しく話したことになった。わたしの物語は三十分もつづ しい出したんだから弱っちまうな。おれはな、ヴァーニヤ、 ただなんていうか、きみがあの悪党の網にかからないように、 々 前もって警告しておこうとおもったばかりなんだ。だれでも 「うむ ! その娘さんはなかなか頭がいいな」とマスロポー しエフは断定を下した。「よしんば公爵のことを本当にすっかあいっと関係をつけたら、もう安全というわけにやいかんか らり見抜いていないにもしろ、だれを相手にしているかという らな。だから、きみも十分目を光らしていなけりや駄目だよ。 蕊ことを第一歩から悟って、いっさいの関係を断ってしまったおれのいうことはこれだけさ。ところで、きみは気が早いも