た。それは後からまたでたらめに開いて、自分の未来をうらをしめ、手紙を襟巻の下に隠して、自分の居間へ駆け戻る なうために、出たページを読んで見るためなのでした。とこと、戸に鍵をかけて、また初めから読み直しにかかりまし た。けれど、胸が早鐘をつくようなので、文字も言葉も目の ろが、開けて見ると、そこには一面に書きつめて、四つにたた んだ便箋がはさんでありました。もう何年も本の間にはさん前でちらちらとおどる始末、長いことわたしは何ひとつわか で、そのまま忘れられたもののように、ひどく古ばけて、すりませんでした。その手紙は一つの発見でした、秘密の端緒 つかりペちゃんこになっていました。極度の好奇心をそそらでした。これがだれに宛てて書かれたかわかったので、わた しはさながら電に打たれたような思いでした。この手紙を読 れたわたしは、その意外な発見を仔細に点検しはじめまし た。この手紙には宛名はなく、署名は・ O という二つの頭んだのは、ほとんど犯罪だということを、わたしは承知して いたのです。けれど、時の勢いはわたしより強かったので 文字でした。わたしはさらに注意を緊張さして、ほとんどく つつき合わんばかりになった便箋をひろげました。あまり長す ! 手紙は実にアレクサンドラ・ミ ( イロヴナに宛てられ たものでした。 く本の間にはさまれていたので、その大きさだけページに明 これがその手紙です。わたしはそれをここに写しましょ るい痕を残しているのでした。紙の折目がすれて、切れかか う。わたしはその中に書かれたことを、ばんやり察しはしま っているところを見ると、これは何度も何度も読み返して、 宝のように大事にされていたのでしよう。インキは色がさめしたが、その後も長いあいだいろいろな想像と、重苦しいも いったいいつの昔に書いたものの思いにつきまとわれていました。この時からわたしの生活 て薄青くなっています、 は急に変わったようです。わたしの心は長いあいだ、という やら ! いくつかの文字がふとわたしの目に映ると、、い臓は 期待のために動悸を打ち始めました。わたしはまるで、わざよりほとんど永久に震撼され、攪乱されてしまいました。こ と読み出す瞬間を延ばそうとでもするように、どぎまぎしなの手紙がいろんな結果を呼び起こしたからです。わたしは正 がら手紙をひねくりまわしていました。ふと手紙を明りのは確に未来をうらない当てたわけです。 それは最後の告別の手紙で、恐ろしいものでした。わたし うへ持って行ったところ、はたして ! 行の上に涙の乾いた あとが見えます。しみが紙の上に残っているのです。ところはこの手紙を読み終わった時、なんともいえぬほど病的に心 どころ涙のために字が消えているくらいです。いったいこれ臓をしめつけられるような感じがしました。それはまるで、 はだれの涙なのかしら ? とうとう、期待に胸をしびらせな自分が何もかも失ったような、いっさいのものが、空想や希 がら、第一ページの半分まで読んだ時、驚きの叫びが胸をほ望すらも永久に奪い去られたような、もはや無用な生命のほ とばしり出ました。わたしは本をもとの場所に戻して、戸棚かは何ひとっ残らない、といったような気持ちでした。いっ 4 ノ 8
んの足を洗って、その水を飲むから、勘弁しておくれ』ってくのが聞こえる。それはさながら、このはるかな自山の空気 を吸って、鎖につながれ圧し潰された魂を、休めようとでも いやがるじゃねえか。オヴドーチャって女だったよ」 するかのようであった。『ええ、くそっ ! 』とついに囚人は こういって、急に空想ともの思いをふるい落とそうとでもす 5 夏の季節 るように、じれったそうな気むずかしい様子で、シャベルを しかし、とかくするうちにもう月はじめとなって、復活つかむか、煉瓦に手をかけるかする。この煉瓦はひとつの場 祭週も近づいて来る。夏期の労役ばつばっ始まろうとして所から、別の場所へ運ばなければならないのであった。が、 いる。太陽は一日一日と暖かにな、明るくなっていく。空一分も経っともうこうした東の間の感触も忘れて、それそれ 気は春の香を漂わせて、肉体組織刺激する。輝かしい日々の性格に応じて、笑うなり、ののしるなりし始めるのだ。さ の訪れは、足枷をつけた人間の心をも波立たせ、なんとも知もなければ、まるで必要以上のなみはずれた熱心さで ( もし れぬ希望や、憧れや、憂愁の念を呼さますのである。どう請負仕事でも当てがわれていれば ) その仕事に取りかかって きわたる太陽の光のも働き出す、ーーまるで内部から込み上げて来て胸を締めつけ やら、わびしい冬や秋の日よりも、 ちょうぜん とにいる時のはうが、人はよけいに自由を思って悵然とするる何ものかを、労働の苦しさで征服しようとでもするかのよ ものらしい。それはすべての囚人たちの顔に認められた。彼うに、一生懸命に働くのである。これらの人々はおおむね男 : この季節には、足枷 らは明るい日々を喜んでいるらしくもあるが、同時に一種の盛り、働き盛りの連中ばかりだった : のなんと重く感じられることか ! わたしは今こういったか 焦燥と衝動的な気分が、彼らの内部につのっていくのであっ た。じじつ、春になると、監獄内の喧嘩が頻繁になっていくらとて、けっして詩的表現をもてあそんでいるのではない、 のに、わたしも気がついた。ざわざわした物音や、叫び声わたしは自分の観察の正しさを確信している。 暖気に包まれ、燦々たる太陽の光に照らされ、量り知れぬカ や、騒動が頻発し、事件があとからあとからと持ちがあっ た。が、それと同時に、どこかへ労役に出ていると、イルトをもってよみがえっていく周囲の自然を、おのれの全存在に おちかた ウィシ = 河の向こう岸の青ずんで見える遠方を、どこともなよって知覚し感知しているような時には、閉め切られた牢獄 っそうせつなくなって来るも くじっと眺め入っているだれかのもの思わしげな凝視を、ふや、看守や、他人の自由が、い、 と思いがけなく見かけることもあった。そこには、千五百露のであるが、そのうえにかてて加えて、この春の季節になる はつひばり 家里にわたる自由なキルギーズの礦野が、無限のシーツをひろと、初雲雀の声とともに、シベリヤばかりかロシャ全土にか 死げているのであった。だれやら胸いつばいに深い溜め息をつけて、放浪の生活が始まる。神の子である人間は、牢獄をの幻 さん
金を払って買収した警護兵と同行で、労役のかわりにどこか目に見えてなまけ者で、いつもだらしのない恰好をしてい 場末のほうへ内証で出かけて行く。町はずれの淋しい場所にた。たまにだれかが彼にいい着物をきせて、ときには赤いル 何か曖昧な家があって、そこで大盤ぶるまいの酒宴を始め、 パシカなどくれてやると、シロートキンはいかにもその新調 まったく莫大な金をまき散らすのだ。金さえ出せば囚人だつの着物がうれしそうな様子で、監房という監房を歩きまわっ て振られることはない。警護兵のほうは用意周到にあらかじて、見せびらかしたものである。彼は酒も飲まなければカル め目星をつけておくのである。普通こういった警護兵は、ごタ遊びもせず、ほとんどだれとも喧嘩をしたことがない。よ く両手をポケットへ突っ込んで、つつましやかな、もの思わ 自分からして行く行くは監獄住まいの候補者なのだ。とはい え、金の力をかりればなんでもできる道理で、こういった道しげな様子で、監房の裏を歩きまわっていたものである。彼 行きもほとんど秘密にすんでしまう。一言っけ加えておく にどんな考えごとがあるのか、それはちょっと想像が困難で が、こういう場合はごくまれにしかない、これはなにしろ非ある。ときおり、もの好き半分に声をかけて、何か彼に問し 常に金がかかることなので、好きもの連中はまったく安全なかけると、彼はさっそく返事をするばかりか、妙に囚人らし 別の方法を選ぶのである。 くもなく、丁寧な口のききかたをする。が、いつも簡単な話 まだわたしが監獄生活を始めたばかりのころから、なみはしぶりでロ数が少ない。しかも、その目つきは十ぐらいな子 ずれた美少年の若い囚人が、とくにわたしの好奇心を呼びさ供のようなのだ。金ができると、彼は何か必要な物を買うで ました。名をシロートキンといった。彼は多くの点でかなり もなければ、上着を修繕にやるでもなく、新しい靴をこさえ しょ - つが 謎めいた存在であった。何よりも第一、わたしはその美貌にもしないで、丸パンや生姜餅を買ってむしやむしや食べてし 感心した。年は二十三を越してはいなかったらしい。彼は特まう、 まるで七つかそこいらの子供みたいである。「お しシロートキン ! 」と囚人たちがよくそういったものであ 別監房、つまり無期徒刑囚の監房にいたので、したがって最 も重大な軍籍犯というわけであった。もの静かなおとなしい る。「おまえはカザンの孤児だな ! 」労役のない時間には、 男で、あまり口数をきかず、めったに笑うこともなかった。 たいていよその監房をぶらついている。ほとんどみなが自分 目は空色をして、輪郭も整っており、顔は浄らかで優しく、 のかせぎ仕事をしているのに、彼だけはなんにもすることが 髪は薄い亜麻色をしていた。半分剃り落とされた頭さえ、あないのだ。他人が何か話しかけると ( はとんどいつもからか まりその顔を醜く見せなかった。それほど彼は美少年だったい半分なのだ、みんなこの少年とその仲間をよくからかった のである。何ひとつ手に職を持っていなかったけれども、金ものである ) 、彼はひと言も口をきかないで、くるりと背中 はばっちりずつながら、しよっちゅう手に入れていた。彼はを向け、ほかの監房へ行ってしまう。でもどうかしてあまり シロタ
かった。わたしの見るところでは、もし彼が一杯のウォート 8 , 影響していたことであろう。まったく、わたしたちの監獄か ら逃げ出すのは、いささか厄介であった。にもかかわらず、力を飲みたくてたまらなくなり、しかもそのウォートカがだ わたしの在監当時たった一度、この種の事件が起こった。二れかを殺さなければ手に入らないとしたら、彼はかならず人 人の囚人、しかも最も重い犯人がその冒険をあえてしたので殺しをやったに相違ない。ただし、それを内証にそっと仕遂 ある : げることができて、だれにも知られずにすむ場合に限るの だ。監獄で彼は打算ということを覚えたのである。そこで、 少佐の更迭後、 <—フ ( 例の獄内で少佐の間諜を勤めてい た男 ) は、うしろ楯を失って、まったくのひとりばっちにな特別監にいる囚人のクリコフが、こうした男に目をつけたの ってしまった。彼はまだきわめて若い男であったが、年ととである。 もに性根が据わって、しつかりして来た。概して、彼は大胆わたしはすでにグリコフのことを話しておいた。彼はもう 不敵な男であり、なかなか分別にもたけていた。もし彼を自若い年でもなかったが、情熱の烈しい、ねばりづよい生活力 由にしてやったら、またぞろスパイをやって、相変わらず、を持った強者で、種々さまざまなことにかけて、人なみはず いろいろな潜り的方法で、金儲けをしたに相違ないだろうれた才能を有していた。彼の内部には力がれていたので、 が、しかしもう今度は、前のように無分別な、ばかげたことしたがって生活がしたかった。この種の人間はずっと晩年に をやって網にかかり、自分のばかの報いに徒刑場へ送られるなるまでも、依然として生きることを欲するものである。 ようなへまはしなかったろう。彼は監獄の中でも、旅券の贋で、わたしが、なぜこの監獄では逃亡するものがないのだろ 造さえすこしは習得したものである。もっとも、たしかにそうと不思議がるとすれば、もちろん、第一番にクリコフが逃 うとは断言しない。わたしは仲間の囚人たちから、そういうげないのを不思議がるに相違ない。しかし、グリコフは決行 言一聞いたのである。うわさによると、彼はまだ要塞参謀のしたのである。彼ら二人のうち、はたしてどちらがより多く 台所へ出入りしているころから、その種の仕事をして、むろ相手に働きかけたのか、ーフがグリコフを動かしたのか、 ん、相当のみいりがあったとのことである。ひと口にいえグリコフが << ーフに影響を投げかけたのか ? それはわたし ば、彼は自分の運命を変えるためなら、どんなことでもやつも知らないけれど、二人とも負けず劣らずのいい相棒で、こ てのける人間らしかった。わたしはある程度まで、彼の心をういう仕事をやるには、たがいに恰好な人間だったのであ うかがい知る機会があったのだ。彼のシニズムは、憤慨せずる。彼らは親しい間がらになった。わたしの想像するところ にいられないほどのずうずうしさに達し、冷酷無比の嘲笑にでは、グリコフは < ーフが旅券を贋造するのを当てこんでい たらしい。ーフは貴族出で、もとは相当な社会に属してい までなりきって、抑えきれない嫌悪を呼び起こさずにはいな
やって来ると、もはや残りは千日でなく、九百九十九日だとんなことを書き出したのは、だれでもこれを理解してくれる だろうという気がしたからである。なぜなら、だれにもせ 考えて喜んだものである。幾百人という仲間があるにもかか わらず、わたしは恐ろしい孤独の中に置かれていたが、つい よ、カの張りきった働き盛りの年に、ある期間、監獄へ入る にはこの孤独を愛するようになったことも覚えている。精神ようなことになったら、きっとこれと同じ気持ちを体験する 的にひとりばっちのわたしは、自分の過去をぜんぶ点検しに相違ないからである。 て、何から何まで、いかなる徴細なことをものがさず吟味しかし、こんなことを書いたからとてなんになろう ! : ・ : , し、自分の過去に思いを潜め、一人でおのれ自身を厳しく容それよりも、あまり唐突に尻切れとんばにしてしまわないた めに、もうひとっ何か物語ることにしよう。 赦なしに批判した。ときとしては、この孤独がなかったら、 ここでふと頭に浮かんだことだが、いったい懲役から逃げ こうした自己批判も、過去の生活に対する厳しい検討も、成 り立たなかったのだと思って、かかる孤独をわたしに送って出すということはだれにもできないのか、この数年間にわた くれた運命を祝福したくらいである。そのようなとき、わた したちの仲間でだれも逃亡したものはないのか、とこんな質 しの心臓はどんなに輝かしい希望にみちて、おどり始めたこ 問を提出する人が、あるいはあるかもしれない。前にも書い とか ! わたしは考えた、わたしは決意した、以前あったよておいたとおり、監獄で二、三年も過ごした囚人は、早くも うな過失や堕落は、もはやわたしの未来の生活にはくり返この年月を大事に考えるようになり、これならいっそめんど されないのだと、わたしはみずから誓ったものである。わた うな危ない真似をしないで、残りの年数を勤め上げ、結局、 とこん、 しは、将来ぜんたいにわたる行動計画をたてて、だんぜんそ天下晴れて出獄して、居住流刑になったほうがいい、 れを踏みはずすまいと心に決めた。しかも、それをことごとなふうな打算を知らずしらずするようになるものである。し く実行して見せる、実行することができるという盲目的な信かし、こうした打算が生まれるのは、短い刑期で送られて来 仰が、わたしの内部に生まれ出たのだ : : : わたしは自由を待た囚人の頭の中だけである。長期囚になると冒険をやりかね : けれど、わたしたちの監獄では、どうしたもの ちこがれた。一刻も早く来るようにと呼び招いた。もう一度ないのだ : 新しい闘争でおのれ自身をためしてみたかったのである。どか、そういうことがなかった。すっかりいじけ込んでしまっ うかすると、じりじりするようなもどかしさに捉えられるこたからか、監視が軍隊式でとくべっ厳重であったためか、こ 記とがあった : ・ : しかし、いまさらあの当時の気持ちを思い起この町の位置が多くの点で不便だったせいか ( なにしろ礦野 そこはなんともいえない。 家こすのは、わたしにとって苦痛である。もちろん、それはわの中で見通しなのである ) 、 死たし一人だけに関したことである : : : けれども、わたしがこわたしの考えでは、こういったいっさいの原因が、それぞれ第
煉瓦を運ばされたことがあった。その間は七十サージェン場所は、みんな要塞の構内かその付近にあったのだ。わたし 約百五叶 ) ばかりあって、しかも要塞の土塁を越えて行かなけは入獄の最初の日からこの要塞を憎み、わけてもその中の ればならなかった。この仕事がふた月ばかりぶっとおしに続二、三の建物を憎むようになった。わが要塞参謀の官舎など いたのである。わたしは、煉瓦を運ぶ繩でのべっ肩を擦りむは、なにかしら呪わしいまでいまわしい場所に思われ、いっ きながらも、どちらかといえば、この仕事が気に入ったくらもそのそばを通りかかるたびに、贈悪の目をもって眺めたも いである。もっとも、気に入ったというのは、この仕事のおのである。ところが、河岸では忘我の境に入ることができ かげで、体力が目に見えて増していったからである。はじめた。よく囚人が牢獄の窓から自由の世界を眺めるように、わ たしはこの果てしもない空漠とした野に見入ったものであ わたしは、煉瓦をわずか八つずっしか担いで行くことができ る。底いもない青空に輝く焼けつくような太陽も、対岸から なかった。ところで、一つの煉瓦の重みは十二斤までであっ た。それが後には十二から、十五くらいの煉瓦を運ぶことが流れて来るキルギーズ人のはるかな歌声も、そこにあるいっ できるようになったので、わたしはそれがうれしくてたまらさいのものが、わたしにとってはいい知れず尊く懐かしかっ た。じっと長いこと見つめていると、やがてついに貧しいく なかった。監獄の中では、肉体の力が精神力に劣らぬくら 、この呪わしい生活のあらゆる物質的不便を忍ぶために必すぶった乞食小屋らしいものが見分けられる。小屋のほとり 要なのであった。 に立ち昇る煙、そのあたりで二頭の羊を相手に、なにか忙し しかも、わたしは出獄後にも、まだまだ生きていきたかっそうにやっているキルギーズ女などが見えて来る。それらは たのだ・ : すべてみすばらしく、野蛮めいてはいるけれども、そのかわ とはいえ、わたしが煉瓦はこびを好んだのは、この労働のり自由である。ふと青々した大気の中になにかの鳥を見つ ためにからだが鍛えられるというだけでなく、なおそのうえけ、いつまでもあかずその飛び行く跡を見送っている。鳥は 、仕事の場所がイルトウィシュの河辺だったからである。 さっと水面を掠めたかと思うと、たちまち空の紕青のなかに わたしがこの河辺のことをかくもしばしば口にするのは、た消えてしまう。と、またもやわずかにそれと見分けられる小 だこの河の岸からのみ神の世界が見渡せるからであった。 さな点となって姿を現わし、ちらりと見え隠れする・ : ・ : 早春 おちかた 清らかに澄みわたった遠方、その荒涼たる眺めによってわたのころ、岸の岩の裂け目に、ふと見つけ出した貧しいみじめ 記しに異様な印象を与えた住む人もない自由の礦野。この河な一輪の花でさえ、なにか病的にわたしの注意をひくのであ 家岸では、要塞に背を向けて立っていれば、それを目にしない った。この徒刑生活の第一年めに、わたしを取り囲んだ憂愁 死ですむのであった。わたしたちが労役に従っていたその他のはとうていたえがたいもので、いらだたしくも傷ましい作用
どこまでも人間なみの感情、復讐と生活の渇望、情欲、ならる。 わたしたちの監獄の軍事犯のほうに、兵隊あがりの囚人が びにそれを満足させようという要求を失いはしない、という ことを感ずるのだ。しかし、それにもかかわらす、囚人とい 一人いた。市民権を剥奪されないで、裁判の結果、二年の刑 うものは結局、恐れるべきものではないと、わたしは堅く信期で送られて来たのだが、恐ろしいほら吹きで、世にも珍し じている。人間はそうたやすく簡単に、刃物を持って他人に い臆病者であった。概して、ほら吹きと臆病とは、ロシャの とびかかるものではない。要するに、たとえ危険の可能性が兵隊にあってはきわめてまれな現象である。ロシャの兵隊は あり、ときにそれがじじっ起こったとしても、そういった不幸いつも、おれは忙しいんだぞ、というような顔つきをしてい な場合はまれにしかないから、それはいうに足らぬものであて、よしんばほらを吹きたいと思っても、そんな暇がない、 ると、ひと口に結論してさしつかえないのだ。もちろん、わといった具合である。ところが、ほら吹きとなると、それは たしが今いっているのは、ただ既決囚だけのことである。彼ほとんどっねに、のらくら者の意気地なしに決まっている。 みようじ ドウトフ ( これがその囚人の苗字である ) は、ようやく短い らの多くは、やっとのことで監獄にたどりついたのを、むし ろ喜んでいるはどである ( 新しい生活というものは、時とし刑期をおえて、もとの常備大隊に帰った。しかし、すべて懲 てそれほどまでに魅力があるのだ ! ) 。したがって、彼らは 治のために監獄へ送られる兵隊は、獄内ですっかりだらしな ここに落ちついて、平和に暮らそうというつもりなのであくなってしまうので、たいていは娑婆で二、三週間すごすか る。のみならず、ほんとうに落ちつきのない連中がいても、すごさないかに、また裁判に引っかかるようなことをして、 仲間のものがあまり威張らせておかない。徒刑囚はどんなにまたぞろもとの監獄へ舞い戻る。しかも今度は二年や三年で 大胆不敵な人間でも、監獄へ入ると、すべてのものを恐れるはなく、『常連』の仲間に入れられて、十五年か二十年くら ものである。が、未決囚となると、問題が別である。彼らはい食らい込むのである。この男もそのとおりであった。監獄 まったくなんという理由もないのに、漫然と他人にとびかかを出て三週間ばかり経っと、ドウトフは錠前をこわして盗み っていきかねない。たとえば、あすは笞刑を受けなければなを働いたうえ、悪口をはいて暴れたのである。彼は軍法会議 らない、というだけのことでも原因になるのだ。もし新しい に付せられ、厳罰に処せられた。世にも哀れな臆病者の常と 事件が持ちあがれば、ー 罰も当然延期になるからである。そして、目前に迫った刑罰を居ても立ってもいられぬほど無性 こに襲撃の原因もあり目的もある。つまり、是が非でも一 に恐れて、いよいよあすは笞を持った兵士たちの列の間を通 刻も早く「自分の運命を変えよう』というのだ。そういっ らなければならぬという前の晩、彼は監房へ入って来た衛兵 うまでもなく、こんな た種類の奇妙な心理的な場合を、わたしはひとっ知ってい将校に刃物を持ってとびかかった。い
な衛兵たちは監房に錠をかけた。房内には三十人ばかりの囚ている。彼らは年じゅう不安の念をいだきながら、囚人が刃 人が収容されてい、かなり窮屈そうに寝板の上で目白押しし物をもって彼らのだれかに飛びかかりはしないかと考えてい ているのである。寝るのにはまだ早か 0 た。めいめい何かせるのだ。しかし、何より注意すべき点は、囚人たち自身も、 みんなが自分を恐れていることを意識しているので、その意 ずにいられないのは明瞭である。 監房内に残 0 ている役人というのは、前にもはや述べたこ識が目に見えて彼らに一種のから元気をつけていることであ とのある廃兵一人っきりである。そのほか、各監房には囚人る。ところが囚人にと 0 て一番いい役人は、ほかならぬ彼ら 頭がいた。これは要塞参謀の少佐からじきじき任命されるのを恐れない人間なのである。概して、うわべばかりのから域 で、当然、品行方正のものに限るのである。ところが、囚人張りはあるにもせよ、囚人たち自身も、信頼の念を示してもら 頭も相当たちの悪い悪戯を見つかることがある。すると、笞 0 たほうがはるかに気持ちがいいのである。この態度によ 0 刑を食ら「たあげく、たちまち平囚人に落とされて、ほかのて、彼らの心を引きつけてしまうことさえできるのだ。わた ものが新しく任命されるのだ。わたしたちの監房で囚人頭をしの在監時代に、ごくたまにではあ 0 たけれども、上官のだれ 勤めているのは、アキーム・アキームイチであ 0 たが、これかが護衛も連れずに獄内にや 0 て来ることがあ 0 た。それが ・、驚いたことには、しよっちゅう囚人たちをどなりつけるの囚人たちを一驚させた。しかも、いい意味で一驚させたこと であった。囚人たちは、たいてい冷笑でこれに答えたものでは注目に値いする。こうした大胆な訪問者はいつも尊敬をよ ある。廃兵はもち 0 と利ロだ 0 たので、何ごとにも干渉しなび起こしたもので、じ 0 さい何か不祥事が持ちあがる恐れが か 0 た。ときに舌を動かすようなことがあ 0 ても、それはほあるにしても、こういう人に限 0 て、そんな心配はないのであ んのお体裁だけであって、ただの気休めに過ぎなか 0 た。彼る。囚人が他人によびさます恐怖は、いやしくも囚人という ものがいるところなら、どこでも付きものである。しかも、 は黙って自分の寝台にすわり込んだまま、長靴を縫ってい まったくのところ、なぜそんな気持ちが生まれて来るのか、 た。囚人たちは彼にほとんどなんの注意も払わなかった。 もちろん、折紙つきの強盗とさ この監獄生活の第一日に、わたしはひとつの観察をしたわたしには見当がっかない。 力、後日それがほんとうだという確信を得た。ほかでもなれている囚人の不敵な面だましいとか、そのほか多少の根拠 、すべて囚人以外の者は、警護兵とか衛兵などのように直はあるに違いない。その他、だれにもせよ徒刑場に近づいて 来る人は、この一団の人間が、自分の意志でここに集まった 接囚人と交渉をもっている連中を始めとして、徒刑生活には ものではないということ、いかなる懲罰の方法を試みても、 家んのすこしでも関係のあるその他すべての人々に至るまで、 死だれかれの区別なく変に誇張した目で囚人というものを眺め生きた人間を死骸にすることはできないということ、彼らは
たをのしかけ、足の親指で引金を下ろしたんです。ところともない顔をして、だらしのない身なりをしているのであっ が、不発ときやがった ! あっしはよく鉄砲を改めて、火門た。なかには白髪頭のものさえいた。もし事情が許すなら けいせき を掃除し、新しい火薬を坎めて、硅石を削り直し、また胸にば、わたしはいっかこの仲間のことをさらに詳しく物語ろ , つ。シロートキンはしよっちゅ、つガージンとねん′」ろにして 当てがったものです。ところが、どうでしよう、火薬はばっ と光ったけど、弾はやつばり出ないじゃありませんか。これ いた。このガージンというのは本章の発端になった男で、ヘ ちんにゆう はいったいどうしたことだろう ! と考えました。あっしはべれけに酔っぱらって炊事場へ闖入したために、わたしが最 諦めて長靴をはき、もともとどおり銃剣を付けて、黙ってこ 初いだいていた監獄生活の概念を混乱させた例の囚人であ っこっ歩きまわっていました。その時あっしは例のことをやる。 このガージンは恐るべきしろものであった。彼は一同の者 つつけようと腹を決めたんです。たとえどんな所でもかまう に悩ましいほど不気味な印象を与えた。わたしはいつも彼を もんか、ただこの兵隊生活さえ脱け出されれば、という気だ ったんです。三十分ばかりすると、中隊長がやって来ました。見ると、これ以上獰猛な妖怪じみた存在は、またとはかにない これが巡察長を勤めていたんです。来るといきなり、『いっ だろうという気がした。かってトボリスクで、さまざまな悪 たいぜんたいそんな歩哨の立ちかたというものがあるか ! 』業で天下に名を知られたカーメネフという強盗を見たし、そ とどなりつけたもんです。あっしはやにわに鉄砲を取り直しの後、兵営を脱走した未決囚で、恐ろしい殺人犯をおかした て、銃ロの辺まですぶりと銃剣をやつのからだに突き通してソコロフをも見たことがある。が、それらのうち、だれ一人 やりました。そこで四千露里の道中をして、この特別監房へとして、ガージンほどいとわしい印象を与えたものはないの 入ったわけなんで : : : 」 である。わたしはどうかすると、人間くらいの大きさをした 彼の話はうそではなかった。もしそうでなかったら、どう巨大な蜘蛛を眼前に見る思いがした。彼はダッタン人で、も して特別監房などへ送りつけるわけがあろう ? ありふれたのすごい腕力をそなえ、獄内でも一番のカ持ちであった。丈 犯罪なら、ずっと罰が軽いはずである。もっとも、特別監房は中背よりちょっと高く、ヘラグレスそこのけの体格をし の仲間では、シロートキンだけが水ぎわだって美男子だって、釣合いの取れないほど大きなみつともない頭をしてい た。この監獄に十五人もいたほかの仲間はどうかといえば、 た。歩く時はすこし猫背になって、上目づかいにあたりを見 揃いも揃って、見ても変な気がするくらいのものであった。 まわすのだ。獄内では、彼のことで奇怪なうわさが行なわれ 二、三人はそれでもどうやら我慢のできるご面相をしていたていた。彼が兵隊あがりであることはだれでも知っていた。 が、そのはかの連中と来たらどれもこれも間の抜けた、みつ うそかほんとか知らないが、囚人たちの間では彼のことを、
れればいいという気持ちになるのだ。ところが、金は獄内で 3 最初の印象 ( つづき ) 非常な貴重品であるにもかかわらず、運よくそれを手に入れ た男の懐にいつまでも納まっているようなことはけっして , ーーツキイ ( わたしと話していたポーランド人 ) が出てない。第一、盗まれたり没収されたりしないように、うまく 行くやいなや、ヘべれけに酔っぱらったガージンが炊事場にしまっておくということがむずかしかった。不時の点検の 乱入した。 時、もし少佐が金を見つけたら、即座に取り上げてしまう。 ただ 白昼、しかもみんなが仕事に出なければならない平常の日あるいは、少佐もこの金を囚人の食物の改善に使ったのかも に、いっ監獄へやって来るかわからない厳格な要塞司令官、 しれないが、とにかく金はぜんぶ彼の手に届けられた。しか 一歩も獄舎から離れず囚人たちを監督している下士官、衛し、それよりも盗まれる場合のほうが多かった。まったくだ 兵、廃兵、ひと口にいえば、ありとあらゆるこうした厳重なれ一人信用のできるものはいないのだ。のちになって、わた 監視を無視して、囚人が酒に呑んだくれているということ したちの監房では絶対安全に保管する方法を発見した。ほか は、わたしの脳裡にできあがっていた囚人生活の概念を完全でもない、かってヴェトコーフツイと呼ばれていたスタロド に混乱させてしまったのである。徒刑場へ入った当座、まるウポフ村からわたしたちの監房へ入って来た旧信派の老人 で謎のように思われたこれらの事実をすっかり明瞭に会得すに、金を預かってもらうのであった : : : 話が本題からはすれ るまでには、わたしもかなり長い監獄生活をしなければならることにはなるけれども、わたしはこの老人についてひと た ( 、かつに。 ロ、話をしないではいられない 囚人はいつも自分の仕事を持っていて、この仕事が徒刑生それは年ごろ六十ばかりの、小さな胡麻塩頭の爺さんであ 活の自然な要求であるということ、またそうした要求以外った。ひと目見た時から、彼はわたしに強い印象を与えた。 に、囚人が熱情的な愛で金銭を愛し、それを何よりも尊いも ほかの囚人とはまるで似かよったところがないのだ。その眼 の、ほとんど自由に匹敵するほど尊いものとしていること、 ざしには何かしら落ちつき澄ました静かなものがあって、今 したがってポケットの中で金がじゃらついてさえいれば、囚でも覚えているが、わたしは一種特別な満足の情をいだきな 人はもうそれで慰藉を感すること、これらはすでに述べたと がら、こまかい放射状の皺に包まれた晴れやかなあかるい目 おりである。その反対に金がなくなると、彼らはたちまちしを、じっと眺めていたものである。わたしはしばしば彼と話 の 家 よげて、沈みがちで不安になり、元気をなくしてしまう。そをしたが、こんな善良で心の優しい人間に出会ったことは、 死うなると、泥棒でもなんでもやってのけ、ただ金さえ手に入わたしの生涯でも珍しいくらいであった。彼は非常に重大な 3 ふところ