い、街燈のきらめく下の往来、赤いカーテンを垂らした向かです。老人は・ハイオリンを取って、弓を絃に触れました。音 いの邸の窓々、玄関に集まったたくさんの馬車、さも誇らし楽が始まったのです。わたしは急に、何ものかがぎゅっと胸 げな馬たちの蹄の音、叫び声、物音、窓に映る影、遠く徴かを締めるのを感じました。限りなき憂悶をいだきながら、息 を殺して、わたしはその響きに耳をすますのでした。何かし に聞こえる音楽 : : : さては、あの天国はここにあったのか , ら耳に馴染みのあるものが響くのです。まるでどこかで聞い という考えがわたしの頭に閃きました。 たことのあるような感じです。わたしの内部で解決されよう 「わたしがあのかわいそうなお父さんといっしょに行こうと : してみると、あれはただのとしているある恐ろしいものの予感、なにかそういったよう 思ったのは、ここだったのだ : 空想ではなかったのだ : : : そうだ、わたしは前にも空想や夢なものがありました。・ハイオリンはいよいよ強く鳴り出しま の中で、この通りのことをみんな見ていたのだっけ ! 』病気した。音はだんだん早く、しかも肺腑を刺すように聞こえて のために熱しきった妄想が、にわかにわたしの頭に燃え立っ来ます。やがて、だれかの絶望的な悲鳴か、もの悲しげな哀 て、何かしら名状しがたい歓喜の涙が、双眼にれるのでし泣か、だれかの空しい哀願にも似たものが、この群集の中に 響き渡るような感じでしたが、絶望の呻きを立てたと思う た。わたしは目で父をさがしました。 ここにいるのだ』とわと、またびったりゃんでしまう。わたしの胸にはいよいよは 「お父さんはここにいるに相違ない、 つきりと、何か覚えのあるものが響いて来ます。けれど、心は たしは考えました。心臓は期待の念に早鐘を打って : : : わた それを信じまいとするのです。わたしは苦痛のあまり呻き出 しは息がつまりそうでした。 けれど、音楽はやんで、深いどよもしが聞こえたと思うさないため、歯をきっと食いしばりました、倒れないために と、何かひそひそというささやきが広間を走りました。わたカーテンにひしとしがみつきました : : : 時おりわたしは目を しは目の前にちらっく人の顔を、貪るように見つめながら、だ閉じて、不意に見開きました。これは夢かもしれない、何か れかを見分けようとしました。とっぜん、なにか異常な動揺しらわたしに覚えのある恐ろしい瞬間に夢がさめるだろう が広間に起こりました。一段高いところに、背の高いやせぎと、そんなことを期待していたのです、まったくわたしはあ すの老人が立っているのが目に入りました。その青白い顔はの最後の夜を夢みていたのです。あれと同じ響きを聞いてい 徴笑を湛えています。老人はぎごちなく身を屈めて、四方へたのです。目を見ひらくと、わたしはそれを確かめようと思 って、貪るように人々の群を見まわすのでしたが、ああ、そ 会釈しました。その手には・ハイオリンを持っているのです。 さながら、すべての人が息を呑んだように、深い沈黙が襲いれは別の人でした、別の顔でした : : : わたしはなんだか、み ました。一同の視線は老人にそそがれ、期待に燃えているのんなもわたしと同じように何かを期待し、わたしと同じよう たた
る。完全に無関心なもの、つまり、自由の世界であろうと懲きでもすれば気が紛れるのだが、彼は黙りこくって提灯を張 っているか、さもなくば、何年に検閲があったとか、だれが 役場であろうと、どこで生活するのも同じことだというよう なのは、もちろん、わたしたちのあいだにだれもいなかった師団長だったとか、その名と、父称はなんといったとか、検 し、またいるべきはずもないが、アキーム・アキームイチは閲の結果に満足したかどうかだの、散兵に対する信号がどん どうやら例外だったらしい。彼はまるで一生涯、監獄の中でなふうに変更されたかだの、そんなことを話し出すのであっ た。しかも、しじゅうなだらかな、謹厳な調子で、水が一滴 暮らすつもりででもあるかのように、ひと世帯ととのえてい たほどである。彼の周囲にあるものは、蒲団や枕や道具類を一滴したたり落ちるような話しかたなのである。彼はコーカ はじめとして、何から何までがっちりと、堅固に、永久的にサスで何かの戦闘に参加して、帯剣用の「聖アンナ」勲章を 配置されていた。一時の仮り住居といったようなものは、影授与される光栄に浴した次第を物語った時ですら、ほとんど いささかの感動の色をも見せなかったほどである。ただ声が すらも見当たらなかった。彼はまだ長い年月を監獄で過ごさ なければならなかったには違いないが、出獄などということその瞬間なにかなみはずれて重々しく、もったいらしくなっ ただけである。彼は「聖アンナ」という言葉を発する時、一 を、かって一度でも考えたことがあるかどうか。しかし、た とえ彼が現実と妥協したにしても、もちろん、それは心から種神秘めかしい感じがするくらい声を低めたが、そのあとで 三分間ほど、とくにむつつりともったいらしい様子になった ではなく、ただ規律に対する服従から来ているに過ぎない : この最初の一年間というもの、わたしはなぜとも知ら が、彼にとってはどちらでも同じことだった。彼は善良な人 間で、わたしの入獄当初などは、いろいろ助言したり、めんず、アキーム・アキームイチにはとんど憎悪の念を感じ、寝 どうを見たりして、カになってくれたはどである。ところが、板の上で彼と頭と頭を突き合わせて寝るようなまわり合わせ 申しわけないことながら、彼はときとして自分では無意識になった運命を、無言のうちに呪うような、愚かな瞬間がよ くあった ( それはいつも妙に突如としてやって来た ) 。たい に、譬えようもない憂愁の念を吹き送って、それでなくてさ え悩ましいわたしの心を、やるせもないところまで追いつめてい一時間も経っと、わたしはそうした自分を自分で叱責し たものである。しかし、それは最初の一年間だけであった。 てしま、フ。はじめの、っちはそれがとくにはよはだしかっこ。 しかも、わたしは気分がくさくさするので、彼に話しかけたその後、わたしは心中ひそかにアキーム・アキームイチと妥 かんしやく のである。よしんば剃癪まぎれの、無愛想な、意地の悪い言協して、以前の愚かな気持ちをわれながら恥すかしく思っ た。ただし、表面的には、わたしは彼と一度も、争いなどし 葉であろうとも、とにかく、何か生きた一一一一口葉が聞きたくてた まらないのだから、わたしたちは二人いっしょに運命を毒づなかったように記憶している。
かったくらいです。ばくの心は眠っていたのです。ばくは自ったら、とっくに何もかもきみに自白したでしよう。しか幻 分のために決して別の太陽は昇りはしない、ということを知し、ばくは黙っていた、が今はいっさいをいってしまおう。 なぜなら、、 しまきみが見棄てようとしているのは何者か、ど っていた、そう決め込んでいた、それを信じていた。それが あたり前だと承知していたので、何事も不平をいわなかったんな男と別れようとしているのか、それをきみに知ってもら のです。きみがばくのかたわらを通りかかった時でも、きみいたいからです ! 初めてばくがきみの意味を悟った時どん のほうへ目を上げるなどという大それた真似ができようと なふうだったか、きみにわかりますか ? 火のような情熱が は、考えることもできなかったのです。ばくはきみの前に出ばくを捕え、毒のごとくばくの血の中に流れ込んだのです。 ると、奴隷のようでした。ばくの心臓はきみのそばにいてもそれはばくのありとあらゆる思想と感情を掻き乱して、ばく ふるえもせす、うずきもせず、何ひとっきみのことを告げ知は酔ったようでした。何かの瘴気に包まれたような気持ち で、ばくはきみの純粋な同情的な愛情に対して、同等なもの らせなかった。それは落ちついたものでした。ばくの魂は、 としてでなく、きみの純粋な愛に価するものとしてでなく、 自分の美しい妺のかたわらにいると明るくはなったけれど も、きみの魂を見分けなかったのです。ばくはそれを知って意識もなければ心情の働きもなく応えてしまったのです。ば います、おばろげながらそれを感じていました。それを感じ くはきみの見分けがっかなくなったのです。きみの愛に対す るばくの応えようは、ばくの目の前でばくのために前後を忘 得たのはほかでもありません。それはちょうど、つまらない 草の葉の上にも神の光があふれて、すぐそばに咲いている見れた女に応えたやり方で、ばくを自分と同等の高さまで引き ーくがきみを 事な花と同じように、そのつつましくいじけた草の葉をも暖上げようとした女に対するものではなかった。 め、いたわってくれるのと同じわけです。ところで、ばくが なんと思っていたか、このばくのために前後を忘れたという いっさいを知った時、ね、覚えていますか、あの晩、きみの言葉が、そもそも何を意味するか、きみにわかりますか ? 言葉に魂の底までゆすぶられた時、ばくは烈しいショッグの いや、しかし、ばくはこの告白できみを侮辱などしない。た だ一ついっておくが、きみはばくという人間に手ひどい眼竟 ために目がくらんで、何もかもばうっとしてしまった。わか りますか、ばくはあまりのことにわれとわが耳を信じかねちがいをしたのです ! 決して、決して、ばくはきみの高さ て、きみのいうこともわからなかったはどです ! このこと まで昇ることはできません。きみを理解した時、ばくはただ は今まで一度もいったことがないから、きみは少しも知らな限りなき愛情をいだきながら、遙かおよばぬものとしてきみ かったのです。以前のばくは、きみに会った時みたいではなを眺めることができただけです。しかし、そのことによって かったのだから、もしばくにそれがいえたら、その勇気があばくは自分の罪を償うわけにはいかなかった。きみによって
「おれには才能がないんだ ! 」と父は死人のように青ざめ 8 ただ以前の習慣と、友情と、破滅した人間に対する憐愍の 情だけがを引きとどめて、こんな醜悪な生活はけりにしなて、こう言葉を結びました。 くちゃならない、 この友と永久に別れてしまおうという意図は深く感動して、 「おい、エゴール・ベトローヴィチ」といいました、「きみ を、実行させなかったばかりです。けれど、最後に二人は別 は自分で自分になんということをしてるんだ ? だって、き れてしまいました。には幸運が微笑を見せはじめました。 彼はだれかの有力な保護を受けるようになり、立派な演奏会みはその自暴自棄でただ自分を破滅さすだけじゃないか。 を開くことができました。その時、はもう優れた芸術家にみには忍耐もなけりや、男らしさもないんだ。いまきみは発 なりすましていました。彼の名声はぐんぐん昇っていって、作的に意気銷沈して、才能がないなんていうけれど、そりや うそだ ! きみには才能がある、そりやばくが誓うよ。きみ まもなくオペラ劇場のオーケストラに席を占めるようにな り、いくばくもなく、まったくその伎倆に相当した成功を獲は才能を持っている。きみが芸術を感じ理解する、ただそれ だけから見ても、ばくにはそれがはっきりわかってるんだ。 得したのです。別れる時、はエフィーモフに金を与えて、 どうかまともの道に帰ってくれと、涙を浮かべて切願しましそれは、きみのこれまでの生涯でも証明できるよ。あの時だ って、これと同じ絶望が無意識にきみを襲ったじゃないか。 た。は今でも特殊な感慨なしには、それを思い起こすこと まできないのです。エフィーモフとの交遊は、彼の青春時代あのとききみの最初の先生、ほら、きみがいろいろ話して聞 で最も深い印象の一つだったのです。二人はともに人生行路かせたあの変人が、初めてきみの中に芸術愛を呼びさまし を始め、互に熱烈な愛情で結びついたのです。エフィーモフて、きみの才能を見ぬいたろう。きみはその時も今と同じよ の奇妙な性癖や、思いきって粗暴な、目にあまるはどの欠点うに、それを苦しいはど強く感じたじゃないか、しかし、き でさえ、かえって強くをひきつけたのです。は継父を理みは自分がどうなっているか、自分でもわからなかったんだ。 きみは地主の邸に住んでいる気がしなかったが、それでもい 解していました。底の底まで見透かして、どういう結果に終 ったいなにが望みなのか、われながら合点がいかなかったの わるかを予想していたのです。別れる時、二人はひしと抱き だ。きみの先生はあまり早く死んでしまった。先生は、ただ 合って、二人ながら泣き出したほどでした。その時エフィー モフはしやくり上げて泣きながら、涙のすきから、おれは破漠然とした憧憬だけいだいたきみを残していった。何よりか 滅した人間だ、このうえもなく不幸な男だ、それはもうとうんじんなのは、きみにきみ自身を説明しなかったのだ。きみ からわかっていたが、今こそ初めて自分の破滅をまざまざとには別なもっと広い道が必要だ、自分にはもっと違った目的 見定めた、といったものです。 が運命づけられていると感じながら、どうしたら、それが実
にも、取り締まりのために一人ずつ置かれているのだが、自ざわざそのためにこしらえた大きな下水溜めがあった。この 分から進んで、囚人たちの買物に、毎日市場へ行く役目を引溜めのふちに官費で設けてある槽の中で、囚人たちが肌着類 き受け、ほとんど何ひとっ駄賃を取ろうとしなかった。もしを洗うのであった。そのほかスシーロフは、わたしの御意に 取ってもほんの目腐れ金である。彼らがそんなことをするの叶うために、数限りない仕事を自分で考え出した。わたしの は、身の安全のためだった。さもないと、彼らは獄内にいっ急須を用意したり、さまざまな用事で飛びまわったり、わた くわけにはいかなかったろう。こんなふうにして、彼らはたしのために何やかやさがし歩いたりした。わたしの上着を修 たんちゃ ばこ、磚茶、牛肉、丸パン、等々を買って来た。ただ酒だけ繕に持って行ったり、毎月四回、長靴を磨きなどしたが、そ はこの限りでない。囚人たちは、ときおり酒をふるまってはれらのことを、何か大変な義務ででもあるかのように、一生 やったけれども、酒買いだけは頼もうとしなかった。オシッ懸命にせっせとやってくれた。ひと口にいえば、彼は自分の しつも同じ焼肉をわたしに作運命を、わたしの運命にすっかり結びつけてしまって、わた プは何年かの間ぶっとおしこ、、 できば しの一身に関することを、すべてわが身に引き受けてしまっ ってくれた。その出来栄えがどんなかということは別問題だ が、それは今の問題ではない。ただ変わっているのは、何年たのである。たとえば「あんたは、シャツが幾枚幾枚ある』 もの間、わたしはオシップと、ふた言も物をいったことがなとか、「あんたの上着は破けている』などとはけっしていわ いのである。わたしは幾度も彼に話をしかけてみたが、彼はないで、いつも「わたしたちはシャツが幾枚幾枚ある』とか、 「わたしたちの上着は破けている』というのだった。彼はじ どういうものか、話の受け答えをする能がなかった。ただ っとわたしの目の色をうかがって、それを生涯の最大使命と にたりと笑って、はいとか、いいえとか答える、それきり であった。この生まれて七つぐらいにしかならないへラグ心得ているらしかった。彼は腕に職というもの、囚人の言葉 レスみたいな男を見ると、奇妙な感じがするくらいであつをかりていえば、手職というものをなんにも持っていなかっ たので、ただわたしからわずかのはした金をもらっているば かりらしかった。わたしは彼にできるだけのことをしてやっ しかし、オシップのほか、わたしの用を足してくれた人た た。といっても、ようやく一コペイカ二コペイカの金を払う ちの中には、スシーロフもいた。わたしはべつだん彼を招い たのでもなければ、さがし求めたわけでもない。自分のほうに過ぎなかったが、彼はいつも文句なしにそれに満足してい からわたしを見つけ出して、わたしの御用掛りになったのた。彼はだれかに使われなければいられない人間であった。 で、いっそんなふうになったのか、覚えがないくらいであわたしという人間を選び出したのも、わたしがほかの者にく る。彼はまずわたしの洗濯物をはじめた。監房の裏には、わらべて人あたりがよく、払いがきれいだったためらしい。彼
の男自分をからかっているのではないかしらんと、こっそりろう、自分の持ちものもちゃんと守ることができねえなん 8 横目に相手を眺めたものである。が、そんなことは露ほどもて ! 』しかし、つまりそれがために、彼はわたしを愛してい たらしい。彼自身もある時ふと何かの拍子に、「あんたって なく、彼はたいていまじめに注意ぶかく聞いているのであっ た。もっとも」・ - ? 冫、 、ドこ注意して聞くというほどでもないの人はあんまり心が好すぎる」。それで「あんまりさつばりし ていなさるもんだから、なんだかお気の毒になるくらいでが で、この点がどうかすると、わたしにいまいましい感じをい だかせた。彼の質問ぶりは正確で、はっきりしていたが、答すよ。でもね、アレグサンドル・ベトローヴィチ、わっしが えを聞いても、新しい知識にさして感心したふうもなく、むあんたをばかにしているなんて思っちゃいけませんぜ」と彼 はややあって付け加えた。「わっしや、なんの底意もなく、 しろばんやりした態度さえ示した : : : それからなお、わたし はこんなふうの感じがした、ーーー彼はわたしという人間のこしんからいったんだからね」 こういった人間は、その生涯のうちに、時として、たとえ とを、ほかの者と同じように話すこともできない人間で、本 の話以外にはなんにもわけがわからないばかりか、理解するば、何か急激な民衆ぜんたいの運動とか、社会的事変とかが 能力さえ持っていない、だからかまわずにそっとしておけば起こった場合、突如として大きくはっきり姿を現わし、人々 いいのだと、かくべっ頭をひねりもしないで、簡単に決め込の注目をひき、こうして一時にその活動力を名残りなく発揮 することがある。彼らは文字や言葉の人ではないから、その んでいるらしい わたしは、彼がわたしを愛してさえもいるに相違ないと確事件の発頭人やおもな指導者にはなれない、がその重要な実 信したので、それにひどく面食らった。彼はわたしをまだじ行者となって、まず第一にことに着手する人々である。べっ ゅうぶんに成長しきらない、一人前になっていない人間あつに仰々しい叫びなどを立てないで、単純にことを始めるが、 、いにして、そのために特殊な同情をいだくようになったのそのかわり、真っ先におもな障害物を飛び越えて、躊躇もし か ( すべて強者は弱者に対して、この種の同情を本能的に感なければ恐怖もなく、まっしぐらに危険に立ち向かうのだ、 すると、すべての者はそのあとに従って、肓目的に突進 じるものだから、彼もわたしを弱者と見なしたのか ) 、そこ はわたしにもわからない。そういった気持ちも、彼がわたし し、最後の城壁にまで押し寄せて、そこで通常一命を落とす のものを盗む邪魔にはならなかったが、彼は盗みをしながらのである。わたしは、ベトロフが無事に一生を終わろうとは 信じない。彼はある時期が来たら、一挙にすべてを片づけて も、わたしを憐んだにちがいないと確信する。 「やれやれ』と彼はわたしの持ちものに手をかけながら、こしまう人間である。彼がまだ今日まで無事にいるとすれば、 んなことを考えたかもしれなし 、。「いったいなんていう男だそれは要するに、時期が来なかっただけのことであろう。と ひと
羨望、・わたしたち貴族出のものに対する絶え間のないいいがで数えて、それでも寝つかれなかったことがある。ああ、だ かり、毒々しい威嚇するような顔。ところが、この病院では、れやら寝がえりを打っている。ウスチャンツェフは、例の肺 すべてのものが比較的平等な立場にあって、ずっと友だちら病やみらしいカのない咳をし始め、やがて弱々しい唸り声を しくつき合っていた。長い一日のうちでも最もわびしい時刻立てる。そして、そのたびに「やれやれ、いってえなんの業 さたん は、晩になってから夜が来るまで、蝋燭の光で過ごす間であだろう ! 」と嗟嘆する。あたりがしんと静まり返った中に、 った。みんな早くから床についた。仄かな有明けの灯は、は この病人らしい、ひびの入ったような、みじめな声を聞く るかな戸口で明るい一点をなしているが、わたしたちのいると、異様な感じがする。ふとどこかの片隅でも、やはり寝ら 片隅は薄暗かった。空気は悪臭にみちて、息苦しくなって来れないと見えて、自分の寝床の中から話し合っている声が聞 る。なかには寝つかれないで起きあがり、何やら考えごとでこえる。一人がなにかしら自分の身の上話をはじめた様子 ナイトキャップ もしているように夜帽子をかぶった頭を垂れたまま、一時で、遠い昔のことや、放浪時代のことや、子供のこと、女房 間半くらい寝床の上にすわっている。すると、こちらもなんのこと、以前の世の中の有様などを話している。その遠く離 とかして時間を消すために、まる一時間もその様子を眺めなれたひそひそ声を聞いただけで、当人の話していることはも がら、 いったい何を考えているのかと、想像をめぐらしてみういっさい、二度とその身に帰って来ないということと、そし るのである。それかと思うと、空想に耽りはじめて、過ぎ越て話し手は、世間から見放されたあぶれ者であることが感じ し方など追憶する。すると、想像裡に広大な光景がまざまざられる。もう一人のほうは聞き役である。ただ静かな、単調 と描き出され、こういう時でなければしよせん思い出されも なささやきが、さながらどこかはるかな水のせせらぎのよう せず、またこうまでは感じられまいと思われるような、細か に聞こえるばかり : : : 今でも覚えているが、ある長い冬の一 いことどもが浮かんで来る。また、ときには、さきざきのこ夜、わたしは一つの物語を始めから終わりまで聞いたことが とを推測して見る、 監獄を出て行く時はどんなふうだろある。最初はその話が、何か熱にでもうなされた時の夢のよ お - り う ? どこへ行くだろう ? それはいつのことか ? そのう うに思われた、まるでわたしが瘧にでもかかって、熱と悪夢 ちいっかは懐かしい生まれ故郷へ帰るだろうか ? こんなこ にうなされながら見た幻覚かと疑われるばかり : とを考えて考えて、考え抜いていると、一縷の希望がこころ 4 アクーリカの亭主 のうちに動き始める : : : またときとすると、ただ無心に一、 一つの物語 家二、三と数え出す、こうして数を読んでいる間に、なんとか 死して寝っこうという算段である。わたしはときおり、三千ま夜はすでに更けて、十一時をまわっていた。わたしはとろ 1 一う 2
一度示された規則は、さながら神聖なもののよ 祝うことによって、自分も全世界に接触するようなものであたらしいが、 うにきちょうめんに実行した。もしあすになって、今とまっ るから、したがってまったく社会の除け者になりきったわけ たく反対のことをするように命令されたら、彼は前の晩に正 ではない、減び尺、くした人間でもなければ、幹から切り離さ しやば れた枝でもない、監獄の中も娑婆の人たちと同じようだ、と反対のことをしたのと同じ従順、かっ細心な態度で、それを こんなふうに感じていたのである。まったく彼らはそのとおも実行したに相違ない。一度、生涯にたった一度だけ、彼は りに感じたので、それは見るからに明瞭でもあり、またもつ自分の知恵で生活しようと試みたが、そのために懲役を食ら ったのである。この教訓は彼のために無駄にはならなかっ とも至極な話でもあった。 こ。彼よ、つこなっても、はたしていかなる過失を犯したか アキーム・アキームイチも同様に、せっせと祭日を迎えるオ , し冫 を会得するような運命は、持ち合わせていなかったけれど 支度をしていた。彼は家庭的な思い出というものを持ってい なかった。他人の家に孤児として成長し、十五になるかならも、そのかわりこのきわどい経験から霊験あらたかな掟を引 それはけっしてどんな事情があろうとも、と ずで苦しい勤務に出たからである。また彼の生涯には、格別き出した、 かくの判断をしないということである。なぜなら、判断など これという喜びもなかった。なぜなら、彼は自分に示された 義務から毛筋ほどでも外れるのを恐れながら、規則正しい単をするということは、囚人たちが仲間同士でうわさしていた 調な生活を送って来たからである。彼はとくに宗教心が強い言葉をかりると、『やつの頭の及ぶ業ではない』からである。 かゆ ほうでもなかった。というのは、品行方正なるものが彼の人盲目的に儀礼を信奉しきっていた彼は、中に粥をつめて焼い た ( 彼が手ずから焼いたのである、というのは、肉を焼く手 間的な資性や、特質や、いっさいの情熱や、良きにつけ悪し きにつけてすべての希望を呑みつくしていたらしいからであぎわも堂に入っていたから ) 祭日用の仔豚までも、あたかも いつでも買って焼くことのできる普通の仔豚ではなく、なに る。こういった次第で、彼はせかせかあわてもせず、興奮も せず、てんでなんの役にも立たない悩ましい追憶に心を乱さかしら特別な祭日用のものででもあるかのように、あらかじ れもせず、落ちついた、きちょうめんな、品行方正の態度をめ尊敬の目をもって眺めたものである。おそらく彼はまだ子 持しながら、厳粛な祭日を迎える準備をしていた。彼は自分供の時分から、この日の食卓に仔豚を見慣れて来たので、仔 の義務と、 いったん教えこまれた儀式を履行するのに必要な豚はこの日に無くてはならぬものと結論したものに相違な 記オ ~ 。もしただの一度でもこの日に仔豚を食わなかったら、彼 どナ、この品行方正さをかっきり持ち合わせているのであっ 家た。また概して、彼はあまり深く考え込むのが好きでなかつの胸には義務を果たさなかったという一種の良心の呵責が残 って、生涯消えなかったであろうとは、わたしの信じて疑わ 死た。事実の意味などというのは、かって彼の頭に触れなかっ
おる。おれは後悔しとるんだ。おまえはこれがわかるかね ? 結婚しないで終わった。結婚のかわりに彼は裁判に付せら れ、退官願いを出すように命ぜられたのである。そうなる おれが、おれが、おれが、後悔しとるんだよ ! 」 と、過去の罪まで引っぱり出された。以前、彼はこの町でた ーキイはよくわかりますと答えた。 : こんな打撃が不意 「おれが、おまえの長官であるおれがおまえに謝罪するためしか市長をしていたように記憶するが : に彼の頭上に落ちかかったのである。監獄ではこの知らせを にわざわざ呼んだんだが、それがおまえにはわかるかね ? それを感じるかね ? おまえなんかおれにくらべたらそもそ聞いて、こおどりしてよろこんだ。それはまさに祝祭であ いや、虫けらにも劣り、凱旋式であった ! 少佐は年とった裏長屋の女房のよう もなんだろう ? 虫けらじゃないか ? においおい泣いて、涙にかきくれたとのことである。しか る囚人なんだ ! おれは神莱わたしの入獄当時には文字どおりにこの し、 いかんともしようがなかった。彼は退官して、灰色馬の いた下。端の長官に多か。た。ー心 ) のお慈悲によ「て少佐にな 0 二頭揃いも売り払い、その後、所有品をぜんぶ手離して、す ク佐に ! それがおまえにわかるか ? 」 ているんだぞ、ト つかり微禄してしまった。わたしたちはあとで、くたびれた ーキイは、それもわかりますと答えた。 「さあ、それじゃこれでおまえと仲直りをしよう。だが、こ文官服を着、徽章つきの帽子をかぶった彼の姿をおりおり見 かけた。彼は意地悪そうな目つきで囚人たちを睨めつけた。 れをほんとうに感じるかね、じゅうぶん、完全に感じるか しかし、その魔力は彼が軍服を脱ぎ捨てると同時に、跡かた ね ? おまえはそれを理解し、痛感する能力があるかね ? まあ、よく考えてみてくれ、おれは、おれはなにしろ少佐なもなく消え失せた。軍服を着けていると、彼は電であり、神 であった。フロッグ姿になるが早いか、彼は忽然として完全 んだからな : : : 」云々、云々。 ーキイは自分でこのひと幕を残らずわたしに話して聞かな無となってしまい、下男くさい感じがして来た。こうした ぜた。してみると、この飲んだくれでわからずやのでたらめ人間にとって、制服がいかに多くの意義を有するかは、驚嘆 に値いするはどである。 な男にも、人間らしい感情はあったものと見える。彼の持っ ている観念や発達の程度を考慮にいれると、これなどはほと 9 逃亡 んど寛大な行為とさえいうことができるほどである。もっと も、酒の勢いということも、おおいにあずかって力あったの わが要塞参謀の更迭後まもなく、わたしたちの監獄には根 かもしれない。 彼の空想はついに実現されなかった。住居の造作がすんだ本的な改革が行なわれた。懲役が廃止されて、そのかわり に、ロシャ本国の懲治隊を基とした陸軍直属の懲治隊が設 時、彼はもうすっかりその気になっていたにもかかわらず、
ド隹して、自己流のやりかたをうに取り扱いが厳重で、軍人を長官に戴き、総督をすぐ目の が多く、上長官の処置を内心ョ さきに控え、しかも局外者ではあるが半官的な地位にある 邪魔されないで通していければ、それでおおいに満足してい るというふうであった。しかし、そう何もかも自分勝手には人たちの口から、個人的憎悪や勤務上の嫉妬心のために、し やらしてもらえない。わたしがこう考えるには確かな根拠がかじかの不心得な長官が、しかじかの種類の囚徒に手ごころ あるのだ。はかでもない、わたしの所属していた第二類の懲をしている、などと密告されるおそれのあるところで ( そう いう伊もちょいちょいあったのだ ) 、ーーーそういうところで 役、すなわち軍長官の監督を受け、要塞に監禁されている囚 さえ、貴族出の囚人に対しては、一般囚人に対するよりも、 つまり、第三類 ( 工場 ) 人の部類は、他の二つの種類、 および第一類 ( 鉱山 ) よりも、比較にならぬほど苦しかった幾分ちがった目で見られているとすれば、わたしはあえてい のである。それは単に貴族にとってのみならず、すべての囚うが、第一類や第三類の貴族出は、はるかに寛大な取り扱い 。したがって、わたしは自分のいた 人にとって苦しかったのである。というのは、この類にあつを受けていたに相違ない ところを基として、シベリヤぜんたいのことを判断できると ては、監督官と組織全体が軍隊式なので、ロシャ内地におけ る懲治隊と酷似していたからである。軍長官は普通のよりも思う。この点に関し、第一類や第三類の流刑囚たちの口から さらに厳格で、規律は窮屈だし、いつも鎖に繋がれて、いつわたしの耳に入ったうわさや物語は、すべてわたしの結論を も護衛つきで、いつも錠を下ろされている。ところが、他の裏書きしているのだ。じじつ、ここの監獄にいたわたしたち 貴族出の囚人に対して、当局はより注意ぶかい細心な態度 二類ではそれがさまではなはだしくないのである。すくなく とも、わたしたちの仲間の囚人はみんなそういっていた。しをとっていた。しかし、労役や待遇などの点では、わたした かも、彼らの中には、この道にかけて相当のものしりがいたちもいっさい手加減などはしてもらっていなかった。みなと ひと口にいえば、何も のだ。法律では第一類が最重刑となっているけれども、彼ら同じ労役、同じ足枷、同じ錠前 かもが普通の囚人なみだったのである。また、手ごころを加 はすべて、もし許されるなら、喜んでこのほうへ変わったに えるなどということは不可能であった。わたしはよく知って 相違ない。彼らはしばしばそれを空想していたほどである。 いるが、この町ではまださして遠くないがすでに大昔の感あ ところが、ロシャ本国の懲治隊のことについては、そこにい たことのある仲間の連中は、みんなさも恐ろしそうに話し合るこの当時、密告者や陰謀家がうようよいて、たがいに陥し 記って、各要塞に配置された懲治隊ほどっらい所は、ロシャじ穴を掘り合っていたので、当局も自然、密告を恐れたわけで 家ゅうにまたとない、そこの生活にくらべれば、シベリヤは天ある。まったくその時分には、ある種の囚人に対して手加減 死国だ、と断言するのであった。したがって、ここの監獄のよが加えられている、といったような密告以上に恐ろしいもの 207