まださきに延ばすかもしれませんよ : : : あなたのおっしやっ たとおりです : ・・ : 」 「いや、この告白の発表前に、それどころか、偉大な決心を 断行する一日前、一時間前に、あなたは窮境を脱する出口と して、新しい犯罪を決行します。それもこの刷り物の公表を 遁れたいがために、ただただそのためにのみ」 スタヴローギンは憤怒とほとんど驚愕のあまり、身慄いさ えはじめた。 「いまいましい心理学者め ! 」彼はとっぜん狂憤におそわれ たていで、ぶつりと断ち切るようにこういい棄てると、その まま後をも見ずに庵室を出て行った。 7
妻の声を聞きつけたレムプケーは、出しぬけにこう叫んだ。 とほうにくれさせ、もっとも多事多端な時に、何より悲しむ プリュームはびくりとしたが、それでも容易に屈しなかっ べき優柔不断な心持ちに陥れてしまったのである。 5 「さあ、許可を与えてください、許可を」いっそう強く両手 を胸に当てながら、彼はまたもや前へ攻め寄せた。 それはピヨートルにとって忙しい日であった。フォン・レ 「出て行かんか ! 」とレムプケーは歯咬みをした。「どうとムプケーのもとを辞すると、彼は大急ぎでボゴャーヴレンス プイコーヴァャ もしたいよ , フにするがいし : : あとで : : : ああ、なんというカヤ街さして駆け出した。しかし、牡牛街を歩いているうち 一とだー・」 に、ふと、カルマジーノフの住んでいる家の前へさしかかっ とばりがさっとあがって、ユリヤ夫人が姿を現わした。プた。彼はとっぜん足をとめて、にたりと笑うと、そのまま家 リュームの姿が目に入ると、彼女はものものしい様子で立ちの中へずかずか入って行った。「お待ちかねでございます』 あがりながら、まるでこの男がここにいるとい , つだけのこと という取次の言葉は、彼になみなみならぬ好奇の情をいだか が、彼女にとって侮辱ででもあるかのように、尊大な腹立た した。なぜなら、彼は自分の来訪を前もって知らせたことが しげな目つきで、じろりと彼を見やった。プリュームは無言なかったからである。 のまま、うやうやしく腰を深くかがめて、夫人に一揖する しかし、大文豪は本当に彼を待ちかねていた。しかも、昨 と、尊敬の意を表するために体を二つに折りながら、ちょっ 日、おとといあたりから待ち佗びていたのである。四日前 メルンイ と両手を左右に拡げ、爪立ちで戸口のほうへおもむいた。 彼はビヨートルに「感謝』の原稿を渡した ( それはユリヤ夫 最後にレムプケーの発したヒステリックな叫び声を、本当人の慰安会の文学の部で、朗読するつもりでいたものであ にお前の請求どおりにしろという許可の意味に解したのか、 る ) 。自分の傑作を発表前に見せてやるということが、聞く それとも結果の成功を信じ過ぎたために、てもなく恩人の利人の自尊心に快い作用をもたらすに相違ないと信じ切って、 益を図るつもりで、わざとこの言葉の意味を曲解したのか、 特別の親切心からしたことなのである。ビヨートルは前から とにかく後に説くとおり、この長官と部下の会話からして、 こういうことを見抜いていた。ほかではない、この虚栄の塊 多くの人に腹をかかえさせるような思いがけない出来事が始ともいうべきわがままな駄々っ子、 「選ばれざる』階級 しいくらい青回くとまってい 霊まったのである。この出来事は世間へばっと知れ渡って、ユの人に対しては、暴慢といっても、 リヤ夫人の猛烈な憤怒を呼び起こしたばかりでなく、そうしる「国家的名士』が、正直なところ、まったくビヨートルの 悪たさまざまな結果を伴なったために、すっかりレムプケーを鼻息をうかがっているのだ。しかも、一生懸命なのである。
「じゃ、貴様はここで待ち伏せしていたんだな。おれはそんで」 なこと嫌、 した。いったいだれの言いつけなのだ ? 」 「なぜだい ? 」 「言いつけなんかとおっしゃいましても、そんなことはけっ 「ビヨートルの旦那はえらい天文学者で、空をめぐる星を一 してありやいたしません。わっしはただ、世間に知れ渡ったつ一つそらで知っておられますが、あの方でも難をいえばあ 旦那様のお情け深さを、承知でまいりましたんで。わっしらるんでございますよ。ところが、わっしは旦那の前へ出る と、まるで神様の前へ出たような気がいたしますんで。なせ の収入と申しちゃ、旦那もご承知のとおり、ほんの蚊の涙く らいなものでございますからねえ。ついこのあいだ金曜日に って、旦那、あなたのことはいろいろ伺っておりますもの や、饅頭にありつきましてね、まるでマルティンが石驗でもね。ビヨートルの旦那はああいう人、旦那は旦那でまた別な 食べるように、うんと腹一杯つめ込みましたよ。ところが、 人でござんすからね。あの方は人のことでも、あれは極道だ それ以来なんにも食べない始末なんで。次の日は辛抱しまし といったら、もう極道者よりほかなんにもわかりやしませ ん。また、あいつは馬鹿だといったら、もう馬鹿のほかにや た。その次の日もまた食べずじまいでございました。で、川 といったふ , つで、一ごいます。し の水をもうたらふく飲みましたから、まるで腹の中に魚でもその男の呼び方を知らない、 飼ってるようで、こういうわけでござんすから、一つ旦那様 かし、わっしも火曜水曜は、ただの馬鹿かもしれないが、本 のお情けでいかがでしよう。実はついちょうどそこのところ曜日にゃあの方より利口になるかもわかりませんからね。と ころで、いまあの方は、わっしが一生懸命に旅行免状をほし で、仲よしの小母さんが待っておりますが、そこへは金を持 たすに行くわけにやまいりませんでねえ」 がってることだけ知って ( まったく口シャではこの免状なし じゃ、どうにもしようがありませんからね ) 、まるでわっしの 「いったいピヨートルの旦那はおれに代わって、何を貴様に 約東したんだい ? 」 魂でも生け捕ったように思ってらっしやる。旦那、わっしは 「別に約束なすったというわけじゃありませんが、もしかし遠慮なく申しますがね、ピヨートルの旦那なんざあ、世渡り たら、その時の都合次第で、何か旦那のお役に立っことがあは楽なもんでございますよ。なぜってあの方は、人間を自分 るかもしれんと、これだけのお話があったので。どういう仕一人でこうと決めてしまって、そういうものとして暮らして 事か、そりや明らさまに聞かしてくださいませんでしたよ。 おられるんですからねえ。そのうえに、どうも恐ろしいしみ なぜって、ピョ ートルの旦那は、わっしにコサッグみたいな ったれでございますよ。あの方はよもや自分を出し抜いて、 つらい辛抱ができるかどうか、ためしてごらんなさるきりわっしが旦那とお話をしようとは、夢にも思っていらっしゃ 悪で、ちっともわっしという人間を信用してくださらないんらないが、わっしはねえ、旦那、旦那の前へ出たら神様の前 2
僅か五千ループリくらいしか彼の懐ろに入らなかった。その ( かわいい息子 ) を、涙とともに固く固くだき締めて、それで わけは、ときどきグラブで大きな負け勝負をすることがあっ いっさいの片をつけようというのであった。この場の光景 ても、その尻拭いをヴァルヴァーラ夫人に頼むのが恐ろしかを、彼は遠廻しに用心深い調子でヴァルヴァーラ夫人に展開 ったからで・こういうことをしまいにすっかり嗅ぎつけた して見せた。そして、こうした行為は二人の友情に、二人の 時、ヴァルヴァーラ夫人は歯がみをして憤慨した。 『理想』に、何かこう特別な、上品な色合いを添えるように ところが、今度とっぜん息子のほうから、自身この町へやなるだろう、ともほのめかした。それからまた、この行為は って来て、是が非でも領地を売り払うつもりだから、どうか現代の新しい軽薄な、社会主義かぶれのした若い連中に比べ 急いでその尽力を頼むという報らせがあった。スチェパン氏て、前代の父親、というより、全体に前代の人間に、高潔で は、潔白な欲のない性質として、 cecherenfant ( いとしいわ寛厚な姿を帯びさせるに相違ない、というようなことをまだ が子 ) に対して、内心忸怩たるものがあったのは、わかりきっ いろいろと話したが、ヴァルヴァーラ夫人はしじゅうおし黙 た話である ( 彼が最後に息子の顔を見たのは、もうまる九年っていた。とどのつまり、それでは息子さんの土地を最高価 も前のことで、場所はペテルプルグ、息子がまだ大学時代で格、つまり六千ループリか七千ループリで買ってもいいと、 あった ) 。初めはこの領地も全体で、一万三千ループリか、 そっけない調子でいいだした ( 実際は、四千ループリくらい あわよくば、一万四千ループリくらいの値打ちもあったろうで買えるのであった ) 。森といっしょに飛んでしまった残り おくび が、今では五千ループリも出し手があるか、それさえ覚東な八千ループリのことは、曖にも出さなかった。 いはどである。もちろんスチェパン氏は、正式の委任を受け それは縁談の持ちあがる一月前であった。スチェパン氏は ている点からいって、森を売り払う権利があったのだ。その仰天して、思案にくれ始めた。前にはまだもしかしたら、息 うえ、とうていできるはずのない千ループリの金を、長年き子はてんで帰って来ないだろう、というような望みもあっ はた ちきちと送ってやったのをいい立てにして、精算のとき自己た。もっとも、これは傍から見た望み、つまり、だれかしら 弁護をすることもできたのである。しかし、スチェパン氏は関係のない第三者の望みであって、スチェパン氏はむろん父 高遠な志望をいだいた廉潔の士だったから、彼の頭脳には驚親として、こんなことを当てにする心持ちを、憤然としてし くばかり美しい一つの想念が閃いた。ほかではない、ペ りそけたに相違ない。それはとにかくとして、ベトルーシャ については、いつも妙な噂ばかり耳に入るのであった。まず ルの愛松が帰って来たとき、いきなり最大の金額、 つまり一万五千ループリの金を、立派にテープルへ広げて、 六年ばかり前に大学を卒業すると、彼はこれという仕事もな 悪今まで送ってやった金のこともはのめかさずに、 ce cher fils く、ペテルプルグでぶらぶらしていたが、そのうちに、何か
に固く手を握り合って、親しく別れを告げた。毎年夏になるばかりずうっと床についたのである。ついでにいっておく あずまや が、四阿の逢いびきもそのために自然中止になった。 と、彼はスグヴァレーシニキイの大きな地主邸を出て、ほと しかし、幻覚にしてしまおうという考えもありながら、彼 んど庭の真ん中に立っているこの離れへ引っ越して来るので あった。彼は自分の居間へ入って、せわしないもの思いに耽は毎日、死ぬまでも、この事件の後日譚、いわばこの事件の りながらシガーを取ったが、まだそれを吸いつけないうち解決を、待ち佗びるような気持ちになっていた。このことが に、がっかりした心持ちで開け放した窓の前にじっとたたずあのままですんでしまったとは、どうしても信じられなかっ た。もしあのままですんでしまったとすれば、彼はときどき みながら、皎々たる月をかすめる和毛のような、ふわふわし た白雲に見入っていた。と、ふいに聞こえる軽い衣摺れの音自分の親友の顔を眺めて、妙な心持ちを抱かざるをえないで びくりとして振り返った。彼の目の前には、つい四分ほはよ、か。 ど前に別れたばかりのヴァルヴァーラ夫人が、再び突っ立っ 5 ている。その黄いろい顔はほとんど紫色になって、きっと食 いしばった唇は、両はじをわなわな慄わしていた。まる十秒夫人は彼のために、自分で着物まで工夫してやった。で、 、彼女は断固とした容赦のない目つきで、じっと無言に相彼も一生涯それを着通したが、その着物は優美で、一風かわ 手を見つめていたが、やがてだしぬけに、早口にこうささやっていた。裾の長い、ほとんど上までボタンのついた、すこ ぶるハイカラな落ちつきのよい黒のフロッグ、鍔の広い柔か い帽子 ( 夏は麦藁帽に変わった ) 、結び目の大きい両端の垂 「わたくしこのことはけっして忘れませんよ ! 」 パチスト スチェパン氏はもう十年もたった後で、わたしにこの佗しれた白い精麻のネグタイ、銀の金具のついたステッキ、そし い物語を伝えたが ( まず入口の戸を閉めておいて、声を潜めて、髪は肩まで垂れていなければならぬ。スチ = パン氏は黒 ながら話したのだ ) 、彼の誓っていうところによると、その味がかった亜麻色の髪をしていて、それもこの頃やっといく とき彼は石のようにその場へ立ちすくんでしまったので、ヴらか白くなり始めたばかりである。鼻ひげも顎ひげも綺麗に アルヴァーラ夫人が姿をかき消したのは、目にも耳にも入ら剃り上げていた。噂によると、若い時は非常な好男子だった なかったほどである。その後、夫人はこの出来事をおくびにそうだが、わたしにいわせると、年をとってからも、なかな も出さす、まるでなんのこともなかったように、澄ましこんか押し出しが堂々としていた。それに、五十三やそこらでは でいたので、彼は死ぬまでもこのことを病気前の幻覚にすぎ年をとったというほどでもない。しかし、彼は一種の公民と ないと考えていた。実際、彼はその晩から発病して、二週間しての見得のために、けっして若がえろうとしなかったばか に - 一げ
、余はこの家屋の番号を忘れた。こんど調べて見た結とがめ立てしないのが癪にさわ「て、また拳固を振り上げた 果、この古い家は取り毀されて、以前二、三軒あった場所けれど、さすがに撲りはしなかった。そこへちょうど、ナイ に、恐ろしく大きな新しい家屋が一軒立っている。町人夫婦フ紛失という事件が持ちあがったのである。事実、余ら三人 の苗字もやはり忘れてしまった ( 或いは、その時から知らなのほかだれもいなかったし、余の部屋の屏風の陰へは、娘が かったのかもわからぬ。思い起こせば、女房の名はスチェパ 入ったばかりである。女房は初めの折檻が無実の罪だったの ニーダ、父称はミハイロヴナといったらしい。亭主のほうはで、今度こそすっかりかんかんになってしまった。いきなり 覚えがない ) 。余の考えでは、真剣にさがす気になって、ペ箒に飛びかかって、その中から小枝を一つかみ引き抜くと、 テルプルグの警察でできるだけの調査をしてもらったら、行娘はもう十二になっているのに、余の見ている前で、臀部に . トリ . ョ . ーンヤ 方を突き留めることができるだろう。その住まいは裏庭の角赤いみみず脹れが出来るほど打ちのめした。マ いっさいの事件は七月に持ちあがった。家は薄水は折檻では泣かなかった。おそらく余が傍にいたからだろ 色に塗ってあった。 う。けれど、一打ちごとに何か奇妙なしやくり声を立てた。 あるとき余のテープルからナイフが見えなくなった。まるそれから後でまる一時間も、烈しくしやくり泣きを続けた。 で用のない品で、ただごろごろしていたのである。余はまさ けれど、その前にこういうことがあったのだ。女房が箒の か娘が折檻されようなどとは、夢にも想像しなかったので、 ほうへ飛んで行って、小枝を一つかみ引き抜こうとしたと かみ このことを内儀さんに話した。ところが、内儀さんはついそき、余はナイフを寝台の上に発見した。何かの拍子に、テー きれ の前に、何かの布っ端がなくなった時、娘が盗んだのだといプルからそこへ落ちたのである。余はその時すぐさま、娘を って、髪をつかんで引っぱったばかりのところだった。この打たせるために、発表しないでおこうと思いついた。瞬間的 布っ端がテープルかけの下から出て来たとき、娘は不平がまに決心がついたのだ。こういうとき余はいつも息切れがす しいことを一口もいおうとせず、黙ってじっと目を据えて いる。しかし、一つとして秘密が残らないように、すべてをい こ。余はそれに気がついた。その時はじめてこの娘の顔を気っそうはっきりした形で叙述しようと思うのだ。 をつけて見たので、それまではただ目の前をちらちらしてい 余がこれまでの生涯に経験したところによれば、なみなみ る、というだけの印象しかなかった。彼女は眉や睫の白っぱ ならぬ恥辱にみちた、卑屈な、陋劣な、しかも何より滑稽な いたちで、そばかすのあるありふれた顔をしていたが、非常立場に置かれると、無限の憤怒とならんで、たとえようもな にあどけない、もの静かな感じにみちていた。度はすれに静い快感が湧き起こるのが常であった。犯罪の瞬間も、生命に かなくらいだった。母親は、娘が無実で打たれたのに一口も危険を感じた時も、やはり同様である。もし何か盗むような まっげ
い。が、ふたたび顔を上げて、膝を起こすと、とっぜ すらも彼女のうしろから送られた。実際、どこからともなくのらし 突然、往来の人混みに立ったこの婦人の出現には、すべてのん急に気を持ち直して、あたりのものに興味を持ち始めた。 人にとって思いがけない、異常なあるものが感じられたのでそして、さもさも面白そうな様子で、楽しげに人々の顔や会 ある。彼女は病的に痩せこけて、足はびつこを引いている上堂の壁に視線をすべらすのであった。中でも二、三の婦人の に、思い切って白粉や頬紅をつけている。そして、晴れてこ顔には非常な興味を感じたらしく、一生懸命に見入ったばか そいるけれど風のある寒いこの九月の日に、古いじみな着物りでなく、わざわざ爪立ちまでするのであった。また二度ば プルスース プラトーク かりひひひと、奇妙な声さえ立てて笑いだした。 一枚つきりで、頭巾も巻かなければ羽織も引っ掛けず、長い そのうち説教もすんで、十字架が持ち出された。県知事夫 頸をまるでむき出しにしている。そして、帽子も何もかぶら 人は第一番に十字架のほうへ進んで行ったが、ヴァルヴァー ない頭には、小さな髷を後のほうにくつつけて、柳祭 ( の前 日曜日、キリストがエルサレムに入った時、柳 ) のとき天使の飾りに使ラ夫人に道を譲る考えらしく、いま二足というところで急に の枝を撒いて迎えられたのを記念する祭である うような、造花の薔薇が挿してあった。ゅうべマリヤを訪問足をとめた。ヴァルヴァーラ夫人は、まるで自分の前に人が した時、この柳祭の天使、ーー紙の薔薇の冠を被った天使いるのに気づかないように、ぐんぐんと真っ直ぐに、同じく が、片隅の聖像の下にあったのをわたしは覚えている。おま十字架のほうへ近寄った。こうした知事夫人のなみなみなら けに、この婦人はつつましげに目を伏せてはいたが、それとぬへりくだった態度が、一種皮肉な、見え透いたあてこすり 同時に楽しげな、狡猾らしい薄笑いを浮かべながら、歩いてを蔵しているのは、疑う余地もないくらいであった。ともあ 行った。もし彼女がいまちょっとぐずぐずしていたら、とてれ、一同はこういうふうに解釈したし、またヴァルヴァーラ も中へ入れてもらえなかったろう : : : しかし、彼女は運よく夫人も同様にとった筈である。けれど、依然として何者にも 会堂の中へすり抜けて、気づかぬように前へ進み出たのであ目をくれず、すこしも動ずることのない威厳を示しながら、 る。 彼女は十字架に接吻して、そのまま入口のほうへ足を向け 説教はまだ半分くらいのところで、会堂いつばいにぎっちた。しきせを着た従僕が夫人の行く手を清めたが、そうしな くとも群衆は自分のほうから道を開いた。ちょうど入口の傍 り詰まった群衆は、張り切った注意を傾けながら、ひっそり と静まり返って聞いていた。しかしそれでも、いくつかの目らなる玄関には、ぎっちりと一塊りになった群衆が、ちょっ は好奇と怪訝の色を浮かべながら、入り来る女のほうへ向けとのま道をさえぎったので、ヴァルヴァーラ夫人は足をとめ ーー・ー紙の薔薇 られた。彼女は会堂の床に倒れ伏して、白く塗った顔を低くた。と、ふいに奇怪な、異常な一人の人間が、 悪垂れたまま、長い間じっとしていた。どうやら泣いていたもを頭につけた一人の女が、群衆の間をすり抜けて、夫人の前イ
馬鹿にしたような落ち着きと嘲りを見せていたが、つ、こ、 し冫してやしませんよ。それに、ばくが自分自身にあんな定義を下 くぶん好奇の色を浮かべてきた。 したのは、けっしてあなたから、「いや、きみは凡くらじゃ 「まあ、聞いてください」とビヨートルは前よりいっそう烈ない、それどころか大いに賢いよ』といったふうな、お返し しく活動しながらいった。「ここへ来る途中、ここといってを頂戴したいからじゃありません : : : おや、あなたはまたに も、全体にこの町をさすんですよ、ーー十日前にここへ来るたっと笑いましたね ! : またしくじったぞ。いや、あなた 途中、ばくはもちろん、一役演じる決心でした。しかし、 は「きみは利ロだ』なんかいわないでしよう、まあ、そうし 何よりいいのはいっさい役なしに、素のままの自分でいくにておきましよう、ばくは何にでも同意しますよ。親爺の言葉 オしか、 passons ( やめにしよう ) です。しかし、ちょい 限ります。そうじゃありませんか。素のままの自分より以 上、ずるいものはありませんよ。だれも本当にするものがな とお断わりしておきますが、ばくのロ数の多いのに腹を立て いですからね。ばくは実際のところ、のろまの役廻りが引き ないでください。ところで、これがまたちょうど都合のいし 受けてみたかったんですよ。なぜって、のろまのはうが、素例になるんですよ。ばくはいつも余分なことをいうでしょ の自分より楽ですからね。しかし、なんといっても、のろまう。つまり言葉数が多いでしよう。ばくはあまりせき込むも は少し極端でしよう。ところが、極端という奴は、とかく好んだから、いつもまとまったことがいえないんです。いった 奇心をひきやすいものだから、とうとうばくは素のままの いどうしてばくは言葉数が多くて、そのくせまとまったこと 自分に決めちゃったんです。さあ、ところが、ばくの「素のがいえないんでしよう ? ほかではない、話が下手だからで 自分』はなんでしよう ? いわゆる黄金のごとき中庸です。す。話上手な人は、なんでも簡単にいってのける。してみる そうじゃありませ 馬鹿でもなければ利ロでもなく、かなり凡くらでもあるし、 と、実際、ばくは凡くらに相違ない、 おまけにここの賢い人たちのいうところによると、まるで天んか ? しかし、この凡くらが、ばくにとっては自然の賜物 から降ったような人間だそうですからね、じゃありませんなんですから、それを人工的に利用してならないって法はな いじゃありませんか。だから、ばくもそいつを利用するんで 「そうさねえ、或いはそうかもしれない」とニコライは心も さあ。実のところ、ここへ来る前に、ばくはいっそ沈黙を守 ち微笑した。 ろうかと思ったのですが、沈黙というやつは非常な才能だか 「あっ、あなたもご同意なんですねーー大いに愉快です。ばら、ばくとしては僣越でしよう。それに、第二として、黙っ くもこれはあなた自身の考えだと、初めから承知してたんでてばかりいるのは、なんといっても危険ですからなあ。で、 すよ : : : ああ、ご心配はいりません、ご心配は。ばく、怒っ とうとうばくはしゃべるのが一番いいときめました。ただ、 2 」 2
せる動機となったのである。 前日この手紙を出した後、ガガーノフは熱病やみのような いらいらした心持ちで、決闘の申し込みを待ち設けながら、 時には望みをいだき、時には絶望したりして、希望実現の可 能の程度を考量してみるのだった。彼は万一の場合に備える 翌日午後二時、予想されていた決闘は成立した。ことがこため、前の晩から介添人を用意して待っていた。それはほか うまで速かに決せられたのは、是が非でも闘わねばならぬとでもない、学校時分から無二の親友として、つねづね敬愛し いう、ガガーノフの一徹な要求に基づくものであった。彼はてやまぬマヴリーキイ・ドロズドフだった。こういうわけ 敵の行為が納得できなかったので、今は前後を忘れるほど狂で、翌朝九時頃にキリーロフが、依頼を受けて訪れた時に 憤してしまった。もう一月ばかり敵を侮辱しつづけてきたのは、もうすべての準備は整っていた。ニコライのあらゆる謝 に、さらになんの手ごたえもない どうしても相手の勘忍袋罪の言葉も、かって類のないような譲歩も、すぐさま一言の リーキイ の緒を切らすことができなかった。しかし、決闘の申し込み下に恐ろしい憤激をもってしりぞけられた。マヴ はどうしても、ニコライのほうからさせなければならなかっ は、前の晩はじめてことのいきさつを聞いたばかりなので、 た。彼自身のほうで決闘を申し込もうにも直接の口実をもた こうした前代未聞の条件を耳にすると、驚きのあまり口を開 なかったからである。心の奥底に潜めている実際の動機、すいて、さっそく和睦を主張しようとした。けれど、彼の心を なわち四年前、父に加えられた侮辱のために、スタヴローギ悟ったガガーノフが、椅子に腰かけたまま、ぶるぶる身を慄 ンに対していだいている病的な憎悪は、どういうわけか自分わせ始めたのを見て、急に口をつぐみ、何もいわないことに でも肯定するのがはばかられた。ことにニコライが二度までした。実際、親友としてあんなことを約東しなかったら、彼 も率直な謝罪の手紙をよこしている以上、こういうことはし は即座に身をひいてしまったはずなのである。しかし、事件 よせん口実とするわけにいかないのを自認していた。彼は心の終わりに当たって、何か方法が立つかもしれぬという望み の中で、ニコライを恥知らず、臆病者と決めてしまった。事に繋がれて、彼はとにかくその場に居残った。 実、シャートフからあれほどの無礼を加えられながら、どう キリーロフは決闘の申し込みを伝えた。スタヴローギンの イ。しささかの異議もなくそのまま して平然と忍んでいられるかと、不思議でたまらなかったの提出したいっさいの条牛よ、、 である。とうとう彼は、暴慢比類なき例の手紙を送ることに 即座に受納された。もっとも、ただ一つ補足が加えられた。 決心し、これがついに相手のニコライをして決闘を申し込ま しかも、非常に残忍なものだった。ほかでもない、もし第一 第 3 章決
す。どうか自分の謝罪を聞いたうえで、思案をしてくれと頼 「それじゃ、譲歩し過ぎる。あの男が承知しないでしよう」 んでやりました。けれど、あの男は返事もよこさないで立っ とキリーロフがしオ てしまったのです。ところが、今ここであの男の噂を聞いて「ばくがここへ来たのは、何よりも第一に、きみがこういう みると、まるで気ちがいのようになってるそうです。あの男条件を先方へ伝えてくれるかどうか、それを聞きたいがため が衆人稠座の前で発したばくに対する評言を三つ四つ耳にし なんですよ」 たが、もう純然たる悪罵で、おまけにびつくりするような言 「ばくは伝えます、人のことですもの。しかし、あの男が承 しがかりなんですからね。ところが、とうとう今日の手紙が知しません」 来ました。こんな手紙をもらった者は、今までかって一人も 「承知しない、それはばくも知っています」 ないだろう、罵詈雑言をつくしたうえに、『貴様の撲られた 「あの男は決闘したいのです。で、どうして闘うんです ? 」 しやっ面』といったような文句まで使ってあるんだからね。 「つまり、そこなんですよ。ばくはぜひあすじゅうに、すっ ばくは、きみが介添人たるの労をいとわれないだろうと思っ かり片をつけてしまいたい。朝の九時ごろ、きみあすこへ行 て、やって来たんですよ」 ってくれたまえ。あの男はきみのいうことを聞いて、不同意 「きみは、こんな手紙をもらったものは一人もないといいまを唱える。そして、自分のほうの介添人にきみを引き合わせ したが」とキリーロフがいった。「だれでも夢中になったらる、 それがまあ、十一時になるでしよう。きみはその男 やりかねませんよ。こんなことを書いたのは、二人や三人じと万端の手筈を決めてください。それから、一時か二時に ゃない。プーシキンも〈ッケルン ( 刀シキンを決闘で倒し ) にあは、双方指定の場所へ出合わなくちゃならない。きみお願い てて書きました。よろしい、行きましよう。で、・ とうするんだから、そういうふうにしてくれたまえ。武器はむろんビス です ? 」 トル。そして、とくにお願いがあるんです。二つの発射線の ニコライの説明によると、彼は明日にもさっそく決行した間は十歩として、われわれ二人をその線からおのおの十歩の いと望んでいるが、その前にぜひもう一どあらためて謝罪を距離に立たしてください。われわれは一定の合図で近づくこ 申し込もうと思う。いや、もう一ど謝罪の手紙を約東しても とにしましよう。もちろん、どちらも発射線に行き着かなく かまわない。ただし、・ カガーノフのほうからも、今後二度とちゃならないけれど、発射はその前に、歩きながらやっても 手紙をよこさない、という約東をしなければならぬ。今までかまわない。まあ、これくらいなもんですね、ばくの考えて 受け取った手紙は全然なかったものと見なしておこう、とこるのは」 ういうのであった。 っ 「発射線間十歩の距離は近すぎます」とキリーロフがい らゆうざ