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検索対象: ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)
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1. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

「ばくは会議のほうに投票したんです」と中学生はヴィルギ て、何がわかるものですか」 「なあに、われわれ自身でさえ、なんのことだかわからない ンスカヤ夫人に向かっていった。 「じゃ、なぜ手を挙げなかったのです ? 」 んじゃないか」とだれかの声がつぶやいた。 「ばくはしじゅうあなたを見てたんです。ところが、あなた 「いいえね、わたしがいうのは、要心はいつでも大切だとい うことです。万一、密偵なんかのあった場合を思いましてが挙げなかったから、それでばくも挙げなかったのです」 ね」と、彼女はヴェルホーヴェンスキイにむかって、説明し 「なんて馬鹿な。わたしは自分で提議したから、それで挙げ た。「往来から聞いても、なるほど命名日だから音楽をしてなかったのです。皆さん、もう一ど提議をし直します。会議 と る、と思わしたほ , つがいいですよ」 に賛成する人は、坐ったまま手を挙げないでください。 ころで、賛成しない人は、右の手を挙げていただきましょ 「ちえつ、馬鹿馬鹿しい ! 」と罵りながら、リャームシンは ピアノに向かうと、まるで拳固で撲りつけないばかりの勢う」 いで、出たらめに、鍵板を叩きながら、ワルツを弾き始め「賛成しない人は ? 」中学生が問い返した。 「あんたはいったいわざとそんなことをいうんですか ? 」ヴ 、とお思いの方は、右の手を挙げていただ イルギンスカヤ夫人は怒気心頭に発して、こう叫んだ。 「会議のほうがいし 「いいえ、そうじゃありません。賛成するものかしない者か きましよう」とヴィルギンスカヤ夫人が提議した。 ある者は挙げたが、ある者は挙げなかった。中には一度あときくのです。だって、これは正確に決める必要があります げて、また引っ込めるものもあった。引っ込めて、また出すよ」こういう二、三の声が聞こえた。 ものもあった。 「賛成しないものは賛成しないさ」 「そりやそ , つだよ。しかし、 ったいどうすればいいんだ・ 「ふう、畜生 ! ばくはなんにもわからなかった」と一人の もし賛成しなかったら、挙げるのか挙げないのか ? 」と将校 将校が叫んだ。 がどなった。 「ばくもわからない ! 」とまた一人叫んだ。 「ばくはわかった ! 」いま一人はこう叫んだ。「もしイエス 「いやはや、われわれはまだ立憲政治には馴れていないで な ! 」と少佐が口を挾んだ。 だったら手を挙げるんだよ」 「リャームシンさん、お願いだからやめてください、あなた 「いったいイエスとは何がイエスなんだ ? 」 ががちゃがちややるものだから、まるで聞き取れないじゃあ 「つまり、会議賛成のことなのさ」 りませんか」とびつこの教師が注意した。 悪「いや、会議を開かないほうだよ」

2. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

腹立ちまぎれや何かではない。それどころか、彼女は常に彼女は一生懸命にマヴリーキイを起こそうとして、両手でその幻 を尊敬し、愛慕しているくらいで、それは彼自身も承知して肘を引き立てるのであった。 いた。つまり、何か一種特別の無意識的な憎悪で、彼女自身「お起きなさい、お起きなさい ! 」と彼女は夢中になって叫 もどうかした拍子には、抑制することができないらしかった。んだ。「起きてください、さあ、今すぐ ! まあ、よく膝なん 彼は自分の持っていたコップを、うしろに立っているどこか突けたもんだわ ! 」 かの老婆に無言のまま手渡しして、格子の扉を開けると、許マヴリーキイは膝を起こした。彼女は両手で肘の少し上を しも受けないで、セミョーン聖者の居場所となっている仕切じっとっかんで、穴の明くはど相手の顔を見つめていた。恐 りの中へ入って行った。そして、一同の眼前に姿を曝しなが 怖の色がありありとその目に読まれた。 ら、部屋のまん中にいきなり膝を突いた。察するところ、満「色目をこととするやからじゃ、色目をこととするやからじ 座の中でリーザから無作法な、人を馬鹿にした態度を示されや ! 」もう一度セミョーン聖者はくり返した。 たために、その純な優しい心は極度にまで震撼されたのだろ彼女はとうとうマヴリーキイを格子の向こうへ引き戻し う。或いは自分から強っていい張ってはみたものの、実際こた。一行中に烈しい動揺が生じた。例の婦人は、こうした不 うした見すばらしい男の姿を見たら、リー ザも自分で恥すか穏の気分を揉み消そうとでも思ったらしく、依然わざとらし しくなるだろう、とこんなふうに考えたかもしれない。もち い微笑を浮かべながら、黄いろい甲走った声でセミョーン聖 ろん、こんな正直な危い方法で女を匡正しようなどと決心し者に向かい、三たびくり返してこういった。 うるのは、彼を措いておそらくほかに二人となかろう。彼は 「どうしたのでございます、セミョーン上人さま、わたしに 持ち前の泰然自若としたしかつめらしい表情を顔に浮かべな何か、コ」託宣』を聞かしてくださいませんの ? わたしす がら、細長い無恰好なおかしい体つきで、じっとをついてつかり当てにしておりましたのに」 いた。が、われわれ一行もさすがに笑わなかった。こうした 「ええ、この阿魔め、云々 : : 」ふいにセミョーン聖者はこ とっぴな行為が、ほとんど病的な効果を与えたのである。一の婦人に向かって、思い切り猥雑な罵詈を投げつけた。しか 同はリーザを見守っていた。 し、その言葉は恐ろしいほど明瞭に、獰猛な勢いで発しられ あぶら あぶら 「膏を、膏を ! 」とセミョーン聖者はつぶやいた。 たのである。一行の婦人たちは黄いろい声を上げながら、一 ) ーザは急にさっと顔をあおくして、あっという叫びを発目散に外へ飛び出した。男たちはきやっきやっと笑い興じ しながら、格子の向こうに飛んで行った。このときとっさのた。それで、わたしたちのセミョーン聖者訪問も終わりを告 間に、奇怪なヒステリイじみた一場の光景が演出された。彼げたのである。

3. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

それはわたしの知ったことでないけれど、いま一ど言明して「ダーリヤ」と夫人はだしぬけにさえぎった。「お前なにか、 こう、特別に話したいと思うようなことはないかえ ? 」 おこ、つ、 翌朝、夫人の胸にはダーシャに対する疑いな しえ、なんにも」ダーシャは心もち考えてこう答えなが ど、これからさきも残っていなかった。いや、それどころ「、、 か、実際そんな疑いなそかって前したこともなかった、それら、その明るい目でちらとヴァルヴァーラ夫人を見上げた。 「お前の魂にも、こころにも、良心にも ? 」 くらい夫人は彼女を信用していたのである。それに、ニコラ へつに」とダーシャは低い声でくり返したが、その声 スが自分の家の『ダーリヤ』に迷い込むなどとは、考えるこ にはなんとなく気むずかしげな、堅苦しい調子があった。 ともできないくらいだった。 いかえ、ダーリヤ、 「わたしもそうだろうと思ってた ! その朝、ダーリヤがテープルに向かって茶をついでいる 時、ヴァルヴァーラ夫人は長い間じっとその様子を見つめてわたしは今まで一度もお前を疑ったことはないんだからね。 まあ、じっと坐って聞いておいで、いや、それよか、こっち いたが、確信をえたように心の中で、 「あんなことはみんなでたらめだ ! 』と断言した。おそらくの椅子へかわって、わたしの向かいに腰をお掛けな。わたし 夫人は昨日から、この言葉を二十度くらいくり返したのであはお前をすっかり見たいんだから。ああ、そうそう。ところ でね、 お前お嫁入りしたくない ? 」 ろう。 大して ダーシャは不審げな長い凝視でこれに答えた。が、 ただ夫人の気がついたのは、ダーシャがなんとなく疲れた ような様子をしているのと、前よりも余計もの静かに、余計驚いたふうはなかった。 「まあ、お待ち、黙っておいでよ。まず第一、年の違いだが だるそうに見えることだった。茶がすんだ後、ずっと前から きまって動かなくなった習慣で、二人は刺繍の仕事に向かつね、これがたいへん大きいのさ。けれど、そんなことくらいな た。ヴァルヴァーラ夫人はダーシャに命じて、外国で受けたんでもないってことは、だれよりもお前が一番よく承知して 印象を語らせた。つまり、自然、住民、都会、習慣、芸術、おいでのはずだね。お前は分別のある女だから、お前の生涯 冫ド違しのあろう道理がないよ。もっとも、その人はまだな 工業などを主として、すべて自分の目に入ったものを残らずこ司、 かなかの好男子です。手短かにいえば、お前のつねづね尊敬 話して聞かすのであった。ドロズドヴァ一家や、その家族と の生活については、一言の質問もなかった。ダーシャは仕事しているスチェパン・トロフィーモヴィチなの。どうだえ ? 」 ダーシャはまたひとしお不審げに夫人を見つめた。そし づくえに向かって、夫人の傍に座を占めたまま、その刺繍の 手伝いをしながら、持ち前のなだらかで一本調子な、少し弱て、今度はただびつくりしただけでなく、目立って顔をあか ・した。 弱しい声で、三十分ばかり話しつづけた。

4. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

あれが自家独得の主義系統をのべるはずです。ところが、どげますよ。なんだかシャートフらしいとこもあるな : うでしよう、あの連中はばくがみんなに冷淡で、かえって水馬鹿馬鹿しい、もうこんなことはよそう ! しかし、これで なかなか大切なこったからなあ : : : ときに、ばくはいつも待 をさすようなことをするといって、憤慨しているんですよ、 ちかまえてたんですよ、 ほかじゃありませんが、いきな へへ ! しかし、ぜひ出かけなきゃなりません」 りお母さんがばくに面と向かって、一ばん肝腎な質問を切り 「きみはあの連中に、ばくを首領かなんぞのように吹聴した んでしよう ? 」できるだけ無造作な調子で、ニコライはこう出されはしないかと思いましてね : : : ああ、そうそう、お母 ぶつつけた。 さんは初めのうち毎日毎日、恐ろしく気むずかしそうな様子 ビ をしておられましたが、きよう来てみると、まるでにこにこ ヨートルは素早く相手を見やった。 ものでいらっしやる。これはいったいどうしたわけなんでし 「ときに」まるで聞こえないふうをして、急いでもみ消そう とするよ , つに、彼はこ , っ引き取った。「ばくはヴァルヴァ 「それはね、もう四、五日たったらリザヴェータ・ニコラエ ラ夫人のところへも二、三度顔を出したが、やはりいろんな ヴナに結婚の申し込みをすると、きようばくが母に約東した ことをいわなくちゃならない始末になりましてね」 からです」突然おもいがけない剥き出しな調子で、ニコライ 「察しています」 、。まくはただあなたがあはこういい切った。 「いや、あまり察しないでくださを の男を殺す気づかいはない、といったような甘いことを、少「ああ、なるほど : : : そりやもちろん : : : 」とビヨートルは しばかりいったきりでさあ。ところが、どうでしよう、お母へどもどした様子でロごもった。「いま町でマヴリーキイ氏 さんはばくがマリヤ嬢を河向こうへ越さしたことを、翌日さとあのひとと婚約の噂があるのを、あなた知っていますか ? っそく知ってしまわれましたよ。いったいあなたが話したのまったく確かな話なんです。いや、しかし、あなたのいうと おりです。あのひとは式の間際にでも、あなたが一口声をか ですか ? 」 けさえすれば、さっそく逃げ出して来ますからね。ときに、 「思いも寄らないね」 「そうでしよう、あなたじゃないと思ってました。あなたであなたはばくに腹を立てちゃいませんね、ばくがこんな口の きき方をするので ? 」 なけりや、 したいだれでしよう ? おかしいなあ」 「いや、腹なんか立てちゃいません」 「むろん、リプーチンですよ」 「ばくもさっきから気がついているんですが、今日はあなた 「ど、どうして、リプーチンじゃありません」とピヨートル は顔をしかめながらロごもった。「それは今にばくが洗い上を怒らすのが、恐ろしくむずかしいようですね。ばくはなん 2 ~ 6

5. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

てらっしゃいますの」と夫人は決しかねたようにい なお一つ奇妙なのは、ほとんど毎日ヴァルヴァーラ夫人の 「わたし自分であの人と相談するつもりで、日と場所を決めところへ寄っていたビヨートルが、その五日間、一度もスタ ようと思ってたんですがねえ」 ヴローギンに会わなかったことである。 夫人は烈しく眉をひそめた。 ニコライは「まるでなんのことだかわからない』といった 「なんの、日を決める必要なんかありやしませんさ。 ~ くがような気のない目つきで、じっと一一一一口葉もなく相手を見つめて 手つ取り早くいっておきましよう」 いたが、そのまま立ちどまろうともせず、歩みを運んだ。彼 「じゃあ、そういっていただきましようか。まあ、それでも はグラブの大広間を横切って、酒場のほうへ行こうとしてい やつばり、わたしが会見の日を決めるつもりでいると、一口たのである。 いい添えてくださいな。忘れないでね」 「あなたはシャートフのところへも行きましたね : : : そし ピヨートルは薄笑いを浮かべながら、駆け出した。いまわて、マリヤさんのことも発表しようと思ってるんですね」と たしの思い出す限りでは、このごろ彼はだれに向かっても概彼はその後を追って走りながら、妙に落ちつきのない手つき してつつけんどんで、いらいらした無遠慮な口のきき方をしで相手の肩を抑えた。 ニコライよ、、 ていた。が、妙なことに、みんなそれを大目に見ていたので 。しきなり肩からその手を振り落として、もの ある。それに、全体として、この男に対しては特別な見方を凄く顔をしかめながら、くるりと後を振り向いた。ピヨート しなければならない、といったような意見が公認されて ルは奇妙な引き伸ばすような徴笑を浮かべながら、じっとそ た。ここでちょいと断わっておくが、彼はニコライの決闘事の顔を見守った。それはほんの一瞬間だった。ニコライはさ 件について、なみなみならぬ憤懣を示したのである。彼にし っさと向こうへ行ってしまった。 てみると、このことは寝耳に水だった。この話を聞いたと 2 き、彼は真っ青になってしまった。或いはいくぶん、自尊心 を傷つけられたように思ったのかもしれない。なぜなら、彼彼はさっそくヴァルヴァーラ夫人の家から、「親爺』のと がこのことを初めて耳にしたのは、やっと翌日になってからころへ駆け出した。彼がこんなに急いだのは、ただ以前うけ で、もうその時は町じゅうに噂が広まっていたからである。 たある侮辱の腹いせをするためであった。わたしはついその 「あなたは決闘する権利など、少しもなかったんですよ」 日まで、この侮辱一件を少しも知らなかったが、実はこの前 とうとう五日もたって、偶然クラブでスタヴローギンに出ビヨートルが訪ねて来た時 ( それは先週の木曜日だった ) 、 悪会った時、彼はささやくようにいった。 スチェパン氏は、自分のほうから喧嘩の火蓋を切ったくせ っ・ ) 0 プフェー

6. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

余が目の前に見たものは ! ( おお、それは、うつつでは しさを、余の心に呼び起こすものがほかにないのだろう ? もしそれが本当の映像であったら ! ) 余が目前に見実際、人間の裁きの標準からいえば、それよりはるかにひど たのは、痩せて熱病やみのような目つきをしたマトリヨーシ ・カしくらでもあるはずではないか。それらの追憶に いっか余の部屋の閾の上に立って、顎をしやくりなよって感じるものは、ようやくわずかに憎悪の念くらいにす がら、余に向かって、小つばけな拳を振り上げたのと、そっくぎない。それも現在こんな状態だから現われるので、以前は りそのままなマトリヨーシャである。余はこれまでかって、 そんなものなど冷ややかに忘れるか、わきのほうへ押しのけ これほど脳ましい体験を覚えたことがない ! 余を威嚇しなるかしたものである。 がらも ( しかし、なんで威嚇しようとしたのだろう ? し それ以来、余はその年いつばい放浪を続けて、気を紛ら トリヨーシャさえ たい余に対して何をすることができたのだろう ? ああ ! ) 、そうと努めた。今でもその気になれば、マ 結局、わが身ひとりを責めた、理性の固まっていない、頼り脇へ押しのけることができる、と信じている。余は前と変わ ない少女のみじめな絶望 ! こういうものは後にもさきにもらず、おのれの意志を完全に支配することができる。ところ 覚えがない。余は夜になるまで、じっと身動きもせずに坐っ が、困ったことには、けっしてそうしようという気持ちを起 たまま、時の移るのも忘れていた。これが良心の苛責とか、 こさないのである。自分でそうしたくないのだ。これから後 悔恨とか呼ばれているものだろうか、余にはわからない。今も、そういう気にはなるまい。こういう状態が余の発狂する でさえなんともいえないに相違ない。しかし、余はただこのまで続くことだろう。 姿のみがたまらないのである。つまり、閾の上に立って、余スイスへ行って二月ほど経ったとき、余は烈しい情欲の発 を威嚇するように、 小さな拳を振り上げている姿、ただこの作を感じた。それはかって初期の頃に経験したのと同じよう 姿、ただこの瞬間、ただこの顎をしやくる身振り、これがどな、狂暴きわまる性質のものであった。余は新しい犯罪への うしてもたまらないのだ。その証拠には、今でもほとんど毎恐ろしい誘惑を感じた。ほかでもない、二重結婚を決行する 日のように、これが余の心を訪れる。いや、映像のほうからところだったのである ( なぜなら、余はすでに妻帯者だか 訪れるのではなくて、余が自分で呼び出すのである。そうい ら ) 。けれども、ある娘の忠言にしたがって、そこから逃げ出 うふうでは生きて行くことができないくせに、呼び出さずに した。この娘に余は何もかもうち明けてしまった。自分のあ いられないのである。たとい幻覚でもよ、 し、いっかうつつにれほど望んだ女さえまるで愛していないし、全体に、かって それを見るのだったら、まだしも忍びやすいに相違ないー 一度もだれひとり愛したことがない、ということまで告白し っこ、つマト なぜ生涯を通じての追憶中、どれ一つとしてこういう悩またのである。 けれど、この新しい犯罪も、い 466

7. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

た。それに、きみももう寝る時刻だろう、 voyez vous ( 見じろ見廻すのであった。 たまえ ) 、十二時だよ : シャートフは入口のところで、不恰好に立ちどまった。リ ーザは彼に来訪の礼を述べたうえ、母夫人の傍へ連れて行っ た。 第 4 章跛の女 「この方がいっかお話したシャートフさん、この方は ()5 さん といって、あたしにとっても、スチェパンさまにとっても、 ごくごく親しいお友だちなんですの。マヴリーキイさんも昨 日お近づきになられましたわ」 シャートフは別に強情も張らず、わたしの手紙に応じて、 「どちらが先生なの ? 」 正午にリザヴェータのところへやって来た。わたしたちはほ とんどいっしょに入った。わたしもやつばり最初の訪問に出「先生なんか、てんでいらっしやりやしないわ」 といっても、リー かけたのである。一同、 ザと、母夫人「いいえ、いらっしやるよ。お前自分で、先生がお見えにな と、マヴリーキイは、大広間に坐って言いあいをしていた。 るといったじゃないか。きっとこの人だろう」と彼女は気む 母夫人はリーザに向かって、何かワルツをピアノで弾くようずかしい顔つきで、シャートフをさした。 にといいだしたが、こちらがいわれるままの曲を弾き出す「あたしお母さんに先生がいらっしやるなんて、一度もいっ と、それは別なワルツだといい張った。マヴリーキイが持ちたことはありやしなくってよ。 C さんはお勤めですし、シャ ートフさんは以前、大学の学生でいらしったんですもの」 前の正直な性質から、リー ザの肩を持って、ワルツは注文ど おりのものだと主張したので、老婦人は面当てがましく、手「学生だって先生だって、やつばり大学の人じゃないか。お 放しで泣きだしてしまった。彼女は病気して、歩くのもやつ前さんはただもうロ返答さえすればいいんだからねえ。あの とだった。両方の足をすっかり腫らしているので、この三、 スイスの先生はロひげもあったし、顎ひげも生やしていたね」 四日気まぐればかり起こしては、だれにでもかれにでも食っ 「母はスチェ・ハンさまのご子息のことを、先生先生って仕方 ザにはいつも てかかるのを仕事にしていた。もっとも、リー がないんですの」リーザはこう、 しいながら、シャートフを連 一目おいていたけれど。一同はわたしたちの訪問を心からよれて、広間の向こう側に据えてある、長いすのほうへ行って ろこんだ。リ しまった。「お母さんは足が腫れると、いつもあんなふうな ーザは、嬉しさのあまり顔をあかくしながら、 メルンイ わたしにありがとうといって ( むろんシャートフを連れてきんですの。おわかりでしようけれど、病身なものですからね たお礼なので ) 、彼のはうへ近寄り、もの珍しそうに、じろえ」と彼女はシャートフにささやいたが、相変わらず恐ろし ~ 22

8. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

: と申しても、ただあなたが善いことをなさる時だけの いで、その傍を通り抜け、真っすぐにキリーロフの住まって 話でございますよ」 いる離れのほうへ通って行った。 「なんだって ? 」もう横町へ一歩ふみ出しながら、ニコライ 5 はこういって、足を止めた。 アレクセイはきつばりと今の言葉をくり返した。彼は今ま離れのほうは、どこもかしこも鍵がかかっていないばかり でけっして自分の主人に向かって、こんな言葉づかいをするか、ろくろく閉めてもなかった。玄関もその次のふた間も真 男ではなかったのである。 っ暗だったが、キリーロフの借りている一ばん奥の部屋には ニコライは戸を閉めて、鍵をポケットへ入れ、一歩ごとに ( そこで彼はいつも茶を飲んでいた ) 、あかりがさしていた・ 三、四寸すつもぬかるみへ踏み込みながら、横町を向こうのそして、なんだか奇妙な叫びや笑い声が洩れて来る。 ほうへ歩き出した。やがて石をたたんだ、長いがらんとした ニコライはあかりのするほうへ歩いて行ったが、中へ入ら 通りへ出た。町の案内はたなごころをさすように明らかだっ ないで、閾の上に立ちどまった。茶の道具がテープルの上に た。けれども、ボゴャーヴレンスカヤ街はまだまだ遠かっ置いてあった。部屋の真ん中には家主の親類にあたる老婆が た。やっとのことで、彼が黒く古びたフィリッポフの持ち家立っていた。頭には帽子も頭巾もかぶらないで、着物もただ の、閉め切った門の外へ立ち止った時は、すでに十時を過ぎちょっとしたスカートの上に、兎のジャケツを着込んでいる ていた。階下の部屋は、レビャードキン兄妹の引っ越しとと ばかり、靴も素足にひっかけていた。老婆の手には、シャッ もに空家になって、窓はすっかり釘づけになっていたが、シ一枚きりで、小さな足を剥き出しにした生後一年半ばかりの ャートフの住んでいる中二階には、灯影がさしていた。門に赤ん坊がだかれていた。たったいま揺り籠から下ろしたばか ベルがなかったので、彼は手で門の戸をたたき始めた。と、 りらしく、頬がかっかと赤く火照って、白っぱい髪がくしゃ 窓が開いて、シャートフが往来へ首を出した。しかし、恐ろくしやに乱れている。つい今しがた大泣きに泣いたと見え しい闇なので、あやめもわかぬほどだった。シャートフは長て、まだ涙が目の下に溜まっていたが、ちょうどこの瞬間 しあいだ、 一分間ぐらいじっと見透かしていた。 小さな両手を伸ばして、ばちりと鳴らしながら、幼い子供が 「ああ、あなたですか ? 」とふいに彼はたずねた。 だれでもするように、しやくり上げて笑っていた。その前で 「ばくです」と待ち設けぬ客が答えた。 キリーロフが大きな赤いゴム毬を、床へほうりなげているの シャートフはばたりと窓を閉じて、下へおり、門の鍵をは だった。毬が天井まで跳ねあがって、また下へ落ちて来る リーロフは『まい』 ずした。ニコライは高い閾を跨ぐと、ひと言もものをいわな と、子供は「まい、まい』と叫んだ。キ した

9. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

やめてちょうだい ! 」 「ところが、あんたは寄宿舎時分、宗教初歩の講義をしてい 「まあ、ヴァルヴァーラさん、あんたはわたしをまるで小さた牧師さんに恋したじゃありませんか。あんたが意地悪くい な娘っ子扱いになさるのね。わたしコーヒーなんかいやでつまでも、あんなことを覚えてらっしやるなら、これがわた す、はい」 しのご返報よ ! はははー と、彼女はコーヒーを持って来た従僕にむかって、いどむ彼女は剩性らしく笑ったが、そのままはげしく咳き入っ ような身ぶりで手を振った ( もっとも、コーヒーはわたしと マヴリーキイを除けて、ほかの者はみんな辞退した。スチェ 「へえ、あんたはまだあの牧師さんのことを忘れないでいた ハン氏はいったん茶碗を手に取りかけたが、またテープルのの : : : 」ヴァルヴァーラ夫人は憎々しげに相手を見つめた。 上に置いてしまった。マリヤはもう一杯ほしくてたまらない 彼女の顔は真っ青になった。プラスコーヴィャ夫人は急に 様子で、ほとんど手を差し伸べようとしたが、考え直して、威猛高になった。 行儀よく辞退した。そして、それがいかにも得意そうな様子「わたしはいま笑ってるどころのだんじゃありません。なぜ だった ) 。 あんたはわたしの娘を、町じゅうの人が見ている前で、あん ヴァルヴァーラ夫人は渋い薄笑いを浮かべた。 たの穢らわしい騒ぎの中へ捲き込んでくだすったんです。わ 「ねえ、プラスコーヴィャさん、あなたはきっと何かまたと たしはそのご返答を聞きに来たんですの」 んでもない妄想を起こして、それでここへやって来たんでし 「わたしの穢らわしい騒ぎですって ? 」突然、ヴァルヴァー よう。あんたは一生涯、妄想ひとつで生きてたんですからラ夫人は、恐ろしい顔つきでそり身になった。 ね。現にあんたはいま、寄宿舎のことで向かっ腹を立てなす「お母さん、あたしもやはりお願いしますから、も少し控え ったが、はら、覚えていますか、いっかあんたが学校へやつ目にしてくださいな」とふいにリザヴェータが口を出した。 て来て、シャプルイキンという軽騎兵があんたに結婚を申し 「お前なにをおいいだえ ? 」母夫人はまた甲走った声を立て 込んだって、クラスじゅうへ吹聴したところが、マダム・ルようとしたが、。 きらぎらと光る娘の視線に射すくめられてし フビュールにさっそく化の皮を剥がされたじゃありませんまった。 か。だけど、本当は、あなたが嘘をついたんじゃなくって、 「どうしてお母さんは、穢らわしい騒ぎなどとおっしやるん 霊ただ慰み半分の妄想がつのったばかりなんですよ。さあ、 いでしよう ? 」とリーザはかっとなっていった。「あたしはマリ ってごらんなさい、今日は何用で来たんですの ? どんな妄ャ様のお許しをもらって、自分でこちらへお邪魔にあがった 悪想を起こしたの ? 何がいったい不平なんですの ? 」 んですわ。だって、あたし、この不仕合わせな方の身の上を

10. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

「もっと、もっと ! 」とセミョーン聖者はまだ施し物を指図の役を引き受けながら、低いけれど、得意そうな声でいった。 R 「まあ、方丈さま、何をおっしやるのでござります」とやも するのであった。 砂糖の塊りがもう一つ運ばれた。「もっと、もっと』聖者めはふいに腹を立て出した。「だって、あいつらはヴェルヒ ーシンの家が焼けた時、わたくしの頸に繩をかけて、火の中 はまだやめなかった。三つ目の塊りに続いて、また四つ目が 運んで来られた。やもめは四方から砂糖に取り囲まれてしまへ引きずり込もうとしたではありませんか。あいつらはわた くしの箱の中に、死んだ猫を押し込んだではございません った。聖母寺院から派遣された僧侶は、ほっとため息を吐い か。そういうふうで、どんな乱暴でもしかねまじいのでござ た。これだけの砂糖は、これまでの例にしたがえば、今日に ります : : : 」 も僧院へ入って来るべきものであった。 「まあ、こんなにいただいて、どうしたらよろしゅうございま 「追い出せ、追い出してしまえ ! 」突然セミョーン聖者は両 しよう ! 」やもめはつつましやかに吐息をついた。「わたし一手を振った。 人でこんなに頂戴して : : : おなかを悪くしてしまいますよ ! 番僧と小僧は格子の向こうへ飛び出した。番僧がやもめの 手を取ると、こちらは急におとなしくなって、もらった砂糖 これは何かのお告げでもございましようか、長老さま ! 」 「そうに違いない、きっとお告げなのだ」と群衆のなかでだの塊りを振り返り、振り返り、戸口のほうへ進んだ。砂糖は 小僧が後からかかえて行った。 「一つ取り戻せ、取り上げて来い ! 」傍に残っている職人体 「あれにもう一斤やれ、もう一斤 ! 」セミョーン聖者はなか なか承知しなかった。 の男に向かって、セミョーン聖者はこういいつけた。 テープルの上には、もう一つ大きな塊りが残っていたが、 彼は一散に駆け出して、立って行った人々の後を追った。 聖者は一斤だけやれといいつけた。で、やもめはまた一斤もやがてしばらくたってから、三人の給仕は、一度やっておき らった。 ながら、またやもめの手から取り戻した砂糖の塊りを一つ持 「神様、神様 ! 」と群衆はため息をついたり、十字を切った って引っ返した。それでもやもめは大きなのを三つ持って行 ったのである。 りした。「たしかにお告げに違いない 「それはます自分の心を愛と恵みで甘くして、それから現在「セミョーン長老さま」うしろの一尸のすぐ傍で、だれかの声 自分の血を分けた生みの子を訴えに来るがいい というようが響き渡った。「わたくしは夢に鳥を見ました。鴉が水の中 たと な喩えでもあろうかな」先刻、茶のもてなしを受け損ねた肥 から飛び出して、火の中へ入ったのでございます。いったい えた僧侶は、意地悪い自尊心の発作にかられて、われと説明この夢はどういうことでございましよう ? 」