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検索対象: ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)
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1. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

思想も感情もすべて変化します。あなたどう思います。その 「さっき ? さっきはおかしかったのです」と彼は徴笑を浮 時は人間が肉体的に変化しますか ? 」 かべながら答えた。「ばくは口論するのが嫌いなんです。そ 「もし生きても生きなくても同じになったら、みんな自殺しして、どんなことがあっても、冷やかしなどしません」と彼 てしまいますよ。まあ、それくらいの変化でしようかねえ」 は沈んだ調子でいい添えた。 「そんなことはどうだっていい。欺瞞が殺されるのです。だ 「けれど、あなたが茶を飲みながら送られる夜な夜なは、あ れにもせよ最高の自由を欲するものは、必ず自殺する勇気をまり愉快なものじゃありませんね」 持ってなくちゃならない。自殺する勇気のある者は、欺瞞の わたしは立ちあがって、帽子を取った。 秘密を見破ったのです。もうそれ以上の自由はない。その中「そうお思いですか ? 」いくらか驚きの色を見せて、彼は微 : ばくわからんです」と彼は にすべてがあるのです。それより先には何もありません。自笑した。「なぜ、いや、ばく : 殺する勇気のある者は、もう神になったのです。神もなけれ急にまごっいて、「はかの人はどうか知らんが、ばくはそう感 ば何物もないという状態には、現在だれでもすることができ じられるのです、 ばくはほかの人のようにはできない。 る。しかし、まだだれも今までやったものがない」 ほかの人は何か考えると、すぐにまたほかのことを考える。 「自殺したものは、何百万あったかわかりませんよ」 ばくほかのことは駄目だ。ばくは一生ひとっことばかり考え 「しかし、みんな目的が違います。みんな恐怖をいだきながてきたです。ばくは一生、神に苦しめられました」と彼は急 らやってるので、まるで目的が違います。けっして恐怖を殺に驚くばかり多弁になって、こう言葉を結んだ。 すためじゃない。ただただ恐怖を殺さんがために自殺するも「失礼ですが、ちょっと伺います。あなたはどうしてそんな のだけが、初めて神になるのです」 不正確なロシャ語をお話しなさるんです ? 外国に五年もい 「たぶん間に合わんでしよう」とわたしがいった。 る間に、お忘れになったのですか ? 」 「それはどうだっていいです」彼は侮蔑といっていいくらい 「へえ、ばく、不正確ですか ? わかりません。いや、外国 平静な誇りの色を浮かべて、小さな声でこう答えた。「あなのせいじゃない。ばくはずっとこんなふうに話してきたので たは冷やかしていられるようですね、ばくはそれが残念ですす : : : ばくどうでもいいです」 よ」としばらくたって彼はい、足した。 「もう一つ伺います、しかも、より以上デリケートな質問で 「ばくはまた、さっきあんなにいらいらしておられたあなたすよ。あなたは人に会うのがあまりお好きでないでしよう。 が、そんなに落ちついて話をなさるのが不思議なんです。もそして、あまり人とお話しにならんでしよう。ばくは固くそ 悪っとも、だいぶ熱心な様子ではありますがね」 う信じます。ところで、今はどうしてばくに向かってそう多 ノノ 3

2. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

きな過ちを、じ 0 と考えておりましたが、案の定、それが本三度目である ) さきほどと同じような驚愕が、彼女の顔をへ 当だとわかりました」 し曲げた。彼女はふたたび手を目の前に突き出しながら、一 「いったいどうわかったんです ? 」 あしあとへよろめいた。 「ただあの人のほうになにかありはしまいかと、それが気づ 「いったいどうしたのです ? 」ほとんど憤怒の発作を感じな かいなのでございます」相手の リ、には答えようともせずがら、ニコライはこう叫んだ。 ( まるで聞かなかったのかもしれぬ ) 、彼女は語りつづけた。 けれど、この驚愕はほんの一瞬だった。彼女の顔は何かし 「それにしても、あの人があんな連中の仲間になるはすはあら疑り深そうな、気持ちの悪い、奇妙な微笑に歪められた。 りません。伯爵夫人は、わたしを馬車に乗せてくれましたけ 「公爵、お願いですから、ちょっと立って、入ってみてくだ れど、わたしを取って食いたいくらいに思っています。だれさいませんか」と彼女は突然きっとした、思い込んだような もかれもみんな、ぐるになっているのです。けれど、いった声でいった。 いあの人までがそうなのでしようか ? あの人まで心変わり 「入ってみるってどうするんです ? どこへ入るんです ? 」 したのでしようか ? ( 彼女の下顎と唇はぶるぶる慄え出し 「わたしはこの五年間、あの人がどうして入ってらっしやる た ) ねえ、あなた、あなたは七つの寺で呪われた、グリーシだろうと、そればかり心に描いておりましたの。さあ、すぐ カ・オトウレーピエフ ( 僧侶上りの青年、歴史上の入しの話をお読に立 0 てあちらの部屋へ行 0 て、戸の陰へ隠れていてくださ みなさいましたか ? 」 いまし。わたしはまるでなんにも当てにしてないようなふう ニコライは押し黙っていた。 をして、本を手に持って、坐っております。そこへあなたが 「だけど、わたしもうあなたのほうへ向いて、あなたの顔を五年の旅をすまして、思いがけなく入ってらっしやる : : : そ 見ますよ」とふいに決心したらしくいった。「あなたもわたれがどんなふうか見とうございますの」 しのほうを向いて、わたしの顔を見てくださいな。じっと一 ニコライはひとり心の中で歯咬みしながら、何かわけのわ 生懸命にね。わたしもう一ペんたしかめて見たいんですか からないことをぶつぶつつぶやいた。 「たくさんだ」と、彼は掌でテープルを叩きながらいった。 「ばくはもうずっと前から、あなたのほうを見ていますよ」 「マリヤさん、お願いだから、ばくのいうことを聞いてくだ 「ふむ ! 」マリヤは一心に見入りながらいった。「あなたはさい。後生だから、ありったけの注意を集中してください。 ずいぶんお肥りになりましたねえ : : : 」 もしできることなら : : : なんといっても、あなたはずぶの気 彼女はまだ何かいおうとしたが、ふいにまた ( もうこれでちがいじゃないんだから ! 」彼はこらえかねてこうロ走っ

3. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

「じゃ、スチェパン・トロフィーモヴィチが、あなたにそう潔なるニュアンスを帯びた恐ろしい騒ぎを持ち上げる気に、 しかも、ただその高潔 いう手紙をおよこしになったんですね。スイスで行なわれふいとなったに相違ありません、 なる陰影のためのみにおっ始めたのです。ご承知でもありま た他人の罪業』と結婚するって、そして一刻も早く『救い』 しようが、ばくらはちょっと金銭問題でゆき悩んでることが に来てくれって、そのとおりの言い廻しなんですね ? 」と、 あるのです、 これはどうしても白状しなけりゃなりませ ふいにヴァルヴァーラ夫人が近寄った。顔は黄いろく歪み、 ん。先生はご承知のとおり、カルタにはごく慎みの悪いほ 唇はびりびりと慄えていた。 「つまり、その、なんですよ、もしこの事件について、何かうで : : : しかし、これは余計なことですね・ぜんぜん余計な ばくに合点のゆかないことがあるとすれば」ピヨートルはすことですね、悪いことをいいました、ばくはどうもおしゃべ つかり面くらった様子で、いっそうあわて始めた。「それはり過ぎてね。けれど、実際のところ、奥さん、ばくはすっか もちろん、親爺がこんな書き方をしたから悪いんですよ。こり親父に嚇しつけられましてね、ほんとうに親父を「救う』 れがその手紙です。ごぞんじでもありましようが、奥さん、気になったんですが、これじやばく自身のほうできまりが悪 くなりますよ 。いったい、ばくが親父の喉もとへ、短刀でも こんな手紙が際限なしに、後から後からやって来るんですか らね。ことに最近二、三か月というものは、ほとんどのべっ突きつけようとしてるんでしようか ? そんなにばくが没義 どう 幕なしなんですよ。で、実のところ、ばくもどうかすると、道な債権者に見えるでしようか ? 親父は持参金がどうとか しまいまで読み切れないことがあるくらいです。お父さん勘書いてるんですが : : : それはそうと、お父さん、いったい本 忍してください つい馬鹿なことを白状してしまって、しか当に結婚するの ? どうなの ? もういい加減にして聞かせ し、考えてみれば、ばくの宛名にはなっているけれど、またらどうだね。まったくそんなふうになるかもしれないんだ もの。いったいばくらはいつもしゃべって、しゃべって、し あ、どちらかといえば、子々孫々へ伝えるために書いたんだ ろうから、ばくが読んだって読まなくたって同じこってさあやべりまくるけれど、まったくただ言葉のためにすぎないん ね : : : ま、ま、そう怒っちゃいけない、なんといっても、二だよ : : : ああ、奥さん、今こそばくは覚悟しています。大方 あなたはばくを悪く思ってらっしやるでしよう、つまり、そ 人は内輪同士だからね ? しかし、この手紙はね、奥さん、 の言葉のために : この手紙はしまいまで読みましたよ。この『罪業』ですな、 「それどころですか、あなたのほうで勘忍袋の緒をお切らし この『他人の罪業』というやつは、大方なにか詰まらな い先生自身の罪業なんでしようよ。ばく、賭けでもしますなすったのは、わたしにもちゃんとわかります。そして、そ 悪が、ごく無邪気な罪業なんですよ。そいつを枷に使って、高れもまったくごもっともだと思いますよ」とヴァルヴァーラ かせ

4. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

うなされてたのですけれど、どうしてあなたがあんな恰好をわたしは日曜の日にあの家で、朝のうちからいろんなことを して、わたしの夢に出ていらしったのでしよう ? 」 見抜いてまいりました。あの綺麗なお嬢さんは、しじゅうわ 「ええ、もう夢の話なんかやめましよう」と彼は、女が止めたしのほうばかりじろじろ見ていられました。とりわけ、あ たのもかまわず、くるりとそのほうへ振り向きながら、もどなたが入っていらしった時なぞ、なおさらでしたわ。だって、 かしそうにこういった。またしてもさきほどと同じ表情が、 あのとき入っていらしったのはあなたでございましよう、ね その目をかすめたように思われた。彼の目に映ったところでえ ? またあのひとのお母さんなどは、ただもう滑稽な上流 は、彼女はいく度も男の顔を見ようと思ったけれど、一生懸の老婦人ですよ。うちのレビャードキンも、なかなかやりま 命、強情を張って、じっと下を向いているらしかった。 したね。わたし噴き出すまいと思って、いつも天井ばかり見 いいあんば 「ねえ、公爵」彼女はとっぜん声を高めた。「ねえ、公爵 : : : 」ておりました。あすこの天井は模様入りだから、 「なぜあなたはそっちを向いてしまったのです。なぜばくを いでしたわ。あの人のお母さんは、修道院の院長さまにでも 見ないのです。こんな喜劇めいた真似をして、どうするつもなるよりほかしようのないひとです。わたしあのかたが怖う りなんです ? 」とたまりかねて彼は叫んだ。 ございますの。黒いショールなどくれましたけれどね。きっ しかし、彼女はまるで耳に入らぬ様子で、 とあの時、あのひとたちはみんながかりで、思いもよらぬほ 「ねえ、公爵」としつかりした声で三度目にまたこうくり返うからわたしを試験したのです。わたしべつに怒りはしませ した、不愉快な心配らしい渋面を作りながら。「あなたがあんけれど、あの時じっと坐ったまま、とてもこのひとたちの のとき車の上で、結婚を披露するとおっしやったとき、わた親類にはなれないと考えました。そりや伯爵夫人に必要なの しもうこれで秘密がおしまいになるのかと思って、本当にびは、ただ精神的な資格だけでございます、ーーーなぜって家事 つくりしてしまいました。今はもうまるでわかりませんけれむきのほうには、召使がたくさんおりますからねえ。それか ど、わたししじゅうそう考えもしましたし、また自分の目でら、また外国の旅人をもてなすために、なにか社交的な愛嬌 もはっきり見えます、 わたしはてんで不向きな女でござもいりましよう。けれど、それにしても日曜の日に、あのひ つくり います。お化粧をするくらいはできましよう。お客をお招きとたちはみんな愛想をつかしたように、わたしの顔を見てい することもやつばりできるでしよう。なんの、お茶に人を呼ました。ただ一人ダーシャだけは、天使のような人です。わ ぶくらい、大してむずかしいことじゃありませんからねえ。 たしね、もしひょっとあのひとたちが、わたしのことを何か ことに召使の者もいることですもの。けれども、やつばりわうつかり悪くいって、あの人を悲しませはしないかと、それ きのほうから、妙な目つきでじろじろ見ることでしようよ。 を心配しているのでございます」

5. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

「あの人はいつもあんな帰り方をなさるんですの ? 」とわたあの出版の話には頭から信をおかなかった。それから、例の 手紙、ーー・・、ずいぶんばかげてはいるが、あの中には明らかに、 しのほうを振り向いた。 わたしは肩をすくめた。と、ふいにシャートフが帰って来何やら「証拠書類』を持って出るところへ出る、というよう た。そして、いきなりテープルへ近寄って、いったん受け取なことが書いてあるにもかかわらず、皆この点を不問に付し て、よそごとをいっている。それから、またあの活版所の った新聞の東をその上へ置いた。 「ばくあなたの協力者になるのはやめにしましよう、暇がな話、そして、最後に活版所の話を持ち出したがために、シャ ートフがとっぜん帰ってしまったこと、 かれこれ綜合し しから : : : 」 「なぜですの、なぜですの ? あなた腹をお立てになったよてみると、どうもわたしの来る前に何かあって、それをわた うですね ? 」とリーザは絶望したような哀願の調子でたずねしが少しも知らずにいるのではないか、というふうに考えら れる。そうだとすれば、自分は余計な人間で、こんなことは いっさいわたしの知ったことでない。それに、もうそろそろ その声の響きは彼の心を打ったようであった。幾分かの 間、まるで相手の心を見抜こうとするかのように、じっと穴出かけてもいい時分である。初めての訪問にしてはこれでた くさんだ。そう思って、わたしは挨拶のためにリザヴェータ のあくほどリーザの顔を見つめていたが、 「そんなことはどうだっていいです」と彼は小さな声でつぶの傍へ近づいた。 彼女は、わたしが同じ部屋の中にいたことも忘れたらし ゃいた。「ばくはいやなんです : : : 」 ザく、首を垂れて絨毯の上の一点をじっと見つめながら、何や こういって、彼はいよいよ本当に帰ってしまった。リー はもうあきれ返って、開いたロがふさがらなかった。少なくら思いに沈んだ体で、依然として元のテープルの傍に立って とも、わたしにはそう思われた。 「ああ、あなたも、じゃ、さようなら」と彼女は習慣になっ 「あきれ返った変人だ ! 」とマヴリーキイは大きな声でいっ た優しい宀尸でいった。「どうかスチェパンさまによろしく、 そして、なるべく早く遊びに来てくださるように、あなたか ら勧めてくださいましね。マヴリーキイさん、 C さんがお帰 もちろん「変人』である。しかし、この出来事ぜんたいのりになりますよ。失礼ですが、母はご挨拶に出られませんで 中には、まだまだわからないところがたくさんある。この出すから : : : 」 わたしが外へ出て、もう階段を下りてしまったとき、ふい 来事の裏には、何か隠れた意味があるに相違ない。わたしは

6. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

り過ぎると、彼女は両手をわなわなと顫わせながら差し上げとがあるもんですか。いったいあなたはばくに気がっかなか た。と、まるでものに驚いた子供のように、ふいにわっと泣ったのですか ? 」とニコライはなだめにかかったが、今度は き出した。もうちょっと棄てておいたら、彼女は大声にわめ長いあいだ気を落ちつかせることができなかった。 き出したかもしれぬ。しかし、客はわれに返った。一瞬にし彼女はその哀れな頭の中に、依然として悩ましい疑惑と、 て、彼の顔つきは一変した。彼はいかにも愛想のいい、優し重苦しい想念をいだいたまま、なにものかに想到しようと努 めつつ、無言に相手を見つめていた。じっと目を伏せている い笑みを浮かべつつテープルへ近寄った。 「失礼しました。出しぬけにやって来て、お目ざめを驚かせかと思うと、急にすべてを捕えるような視線をちらりと男に ましたね、マリヤさん」と彼女のほうへ手を差し出しなが投げかけるのだった。が、とうとう気を落ちつけたというよ ら、彼はこ , ついい出した。 りも、むしろ、何か決心したらしい様子で、 優しい声の響きは、相当の効果をもたらした。彼女は何や「どうそお願いですから、わたしの傍にお坐りください。後 ら思い出そうと努力するようなふうで、やはりおずおずと男でよくお顔が見せていただきたいのですから」明らかに、何 を眺めていたが、それでも、驚愕の色は消えてしまった。おか新しい目的を思いついたらしく、彼女はかなりしつかりし ずおずと手も差し伸べた。ついに臆病げなほほえみがその唇た調子でこういった。「ですけれど、今はもうかまわないで くださいまし。わたしあなたのお顔を見はいたしません。下 に動き始めた。 「いらっしゃいまし、公爵」なんとなく奇妙な目つきで相手のほうを向いております。ですから、あなたも、わたしが自 分でお願いするまでは、わたしを見ないでくださいまし。さ を見つめながら、彼女はささやいた。 「たぶんわるい夢でも見たんでしよう ? 」と彼は愛想よく、 あ、お坐りくださいませんか」と彼女はむしろじれったそう につけ足した。 いよいよ優しくほほえみかけながら、言葉を続けた。 「わたしがあのことを夢に見たのを、どうしてごぞんじなの見たところ、新しい感覚がしだいに烈しく、彼女の心を領 してゆくらしかった。 で′」ざいます ? ・ こういって、彼女はふいにまた身慄いしながら、一あしう ニコライは腰を下ろして、待ち受けていた。かなり長い沈 しろへよろめいた。そして、わが身を守ろうとでもするよう黙がおそうた。 に、片手を前へ突き出しつつ、またもや泣き出しそうな顔つ「ふむ ! わたしはどうもこういうことが、何もかも不思議 書 きになった。 に思われてなりません」と腹立たしげにさえ聞こえる調子 、もうたくさんですよ。何を恐れるこで、彼女は出しぬけにつぶやいた。「わたし本当に悪い夢に 悪「気をとり直しなさい

7. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

しかし、発射の音は響き渡った。そして、今度は白い帽子た時、彼はじれったそうにキリーロフに声をかけた。 が、ニコライの頭からけし飛んだ。狙いはかなり正確で、帽「何用です ? 」と、こちらはあやうく馬からすべり落ちそう 子の山のだいぶ低いところが打ち抜かれていた。もしいま二 になって答えた。馬がふいに後足で突っ立ったのである。 分はど低かったら、もう万事了しているところだった。キリ スタヴローギンはじっと心を押し静めた。 1 ロフは帽子を拾って、ニコライに渡した。 「ばくはあの : : : 馬鹿を侮辱したくないと思ったんだが、や 「お射ちなさい、敵を引き留めちゃいけません ! 」マヴリー つばり侮辱するようになってしまった」と、彼は低い声でい キイは極度の興奮にこう叫んだ。スタヴローギンは発射のこ とを忘れたように、キリーロフといっしょに帽子を調べてい 「ええ、あなたはまた侮辱しました」キリーロフはずばりと たのである。 しい切った。「それに、あの男は馬鹿じゃありませんよ」 スタヴローギンはぎくりとして、ちらとガガーノフを見や「しかし、ばくはできるだけのことをした」 った。そして、いきなりそっぱを向くと、今度はいささかの 「そうじゃありません」 遠慮もなく、わきのほうの森へ向けて射ち放した。決闘は終「じゃ、どうすればよかったのです ? 」 わった。ガガーノフはうちひしがれたように棒立ちになって「決闘を申し込まなければよかったのです」 いた。マヴリーキイが傍へ寄って、何か話しかけたが、こち「もう一ペん頬っぺたを打たせるんですか ? 」 らはまるで何もわからないようだった。キリーロフは帰りし 「ええ、打たせるんです」 なに帽子を取って、マヴリーキイにちょっと会釈した。しか 「まるでわけがわからなくなってきた ! 」とスタヴローギン し、スタヴローギンはさきほどの礼節を忘れてしまった。森は毒々しげにいった。「なんだってみんなばくに対して、ほ へ向けて一発放すと、仕切りのほうを向いて見ようともせかの者からはとうてい望めないようなことを期待しているん ずキリーロフの手へビストルを押し込んで、さっさと馬のだろう ? なんのためにばくはほかの者が忍びえないような ほうへ歩き出した。その顔は憤怒の色を現わしていた。彼は ことを忍び、ほかの者が負い切れないような重荷を、好んで おし黙っていた。キ リーロフも無言であった。二人は馬に乗引き受けなくちゃならないんだろう ? 」 って、駆足で走り出した。 「ばくはあなたが自分で重荷を求めているものと思っていま した」 3 「ばくが重荷を求めているって ? 」 「なんだってきみは黙ってるんです ? 」もう家の近くまで来「そうです」

8. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

ト ) ールを一 から、まあ一般の公衆の得心がゆくように、カ・ イチにそういいまして、自分でも一生懸命に頼みましよう」 っ二つ挾むことにしました。これはある二、三の文学上の流ヴァルヴァーラ夫人はすっかり魅了されて、家へ帰った。 かた 派を象どった特色のある面や衣裳を着けて踊るのでございま彼女はもう押しも押されもせぬ、ユリヤ夫人の味方だった。 す。この軽い味のある趣向は、カルマジーノフさんが貸してそして、どういうわけか、おそろしくスチェパン氏に腹を立 くだすったのです。わたしはいろいろとあの人に助けてもらてていた。こちらはじっと家に引っ込んだまま、かわいそう っておりますの。ところでねえ、あの人はまだだれも知らな に、なに一つ知らなかったのである。 「わたし、あのひとに惚れ込んでしまいました。本当にどう い最近の作を、今度の会で朗読することになっているのでご ざいます。向後あの人は筆を折って、もう何も書かないとい して今まで、あのひとのことを思い違いしていたのか、自分 っておられます。で、この最後の創作は公衆に対する告別のながら合点がいかないくらいですよ」タ方せわしそうに立ち 辞になるのでございます。このすぐれた作物は「メルシイ』寄ったビヨートルと、息子のニコライに向かって、夫人はこ という題ですの。ええ、フランス語の題ですの。けれど、あんなことをいい出した。 の人はそのほうが愛嬌がある、優美だとおっしゃいましてね「それにしても、あなたはうちの親爺と仲直りしなくちゃい : わたしもやつばりそう思いますの、かえって、わたしのけませんよ」とピヨートルはすすめた。「親爺はすっかり落 ほうからすすめたくらいでございます。いかがでしよう、ス胆していますよ。だって、あなたはあの爺さんを、まるで台 チェパンさまも何か朗読してくださいましようね : : : もっと所へ追っ払うようなことをしていらっしやるんですもの。昨 も、あまり長くないものがよろしゅうございます。そして日なそも、あなたの馬車に出会ったとき、丁寧にお辞儀をし : あまりむずかしい議論めいたものでも困りますの。そのたのに、あなたはぶいとそっぱを向いておしまいになったで ほ、かビヨー・トル・スチ . 工。、 ノーノヴィチと、もう一人だれやらしよう。実はね、ばくらは親爺をひとっ担ぎ出そうと思って 何か朗読をしてくださるはずでございます。いずれピョるのです。ちょっと、当てにしてることがありましてね。親 ートレ・スチェ。、 / ーノヴィチがお宅へお寄りして、プログラ爺だって、また何か役に立っこともあるでしようよ」 ムを申し上げるでしよう。いえ、それよりも、いっそわたし 「ええ、あの人に何か朗読をさせなくちゃならないのです」 「ばくはそのことばかりいってるわけじゃありません。とこ 自分でそれを持って、お宅へ伺うわけにはまいりませんでし よ , つかーごら」 ろで、きようばくは親爺のところへ寄って行こうと思ってた 「ねえ、あなた、わたしにもその名簿に、寄付の申し込みをのですが、じゃ、そのことを話しておきましようね ? 」 書かしてくださいまし。わたしスチェ。ハン・トロフィーモヴ 「それはお心まかせに。けれど、どんなふうにしようと田 5 っ

9. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

す。どうか自分の謝罪を聞いたうえで、思案をしてくれと頼 「それじゃ、譲歩し過ぎる。あの男が承知しないでしよう」 んでやりました。けれど、あの男は返事もよこさないで立っ とキリーロフがしオ てしまったのです。ところが、今ここであの男の噂を聞いて「ばくがここへ来たのは、何よりも第一に、きみがこういう みると、まるで気ちがいのようになってるそうです。あの男条件を先方へ伝えてくれるかどうか、それを聞きたいがため が衆人稠座の前で発したばくに対する評言を三つ四つ耳にし なんですよ」 たが、もう純然たる悪罵で、おまけにびつくりするような言 「ばくは伝えます、人のことですもの。しかし、あの男が承 しがかりなんですからね。ところが、とうとう今日の手紙が知しません」 来ました。こんな手紙をもらった者は、今までかって一人も 「承知しない、それはばくも知っています」 ないだろう、罵詈雑言をつくしたうえに、『貴様の撲られた 「あの男は決闘したいのです。で、どうして闘うんです ? 」 しやっ面』といったような文句まで使ってあるんだからね。 「つまり、そこなんですよ。ばくはぜひあすじゅうに、すっ ばくは、きみが介添人たるの労をいとわれないだろうと思っ かり片をつけてしまいたい。朝の九時ごろ、きみあすこへ行 て、やって来たんですよ」 ってくれたまえ。あの男はきみのいうことを聞いて、不同意 「きみは、こんな手紙をもらったものは一人もないといいまを唱える。そして、自分のほうの介添人にきみを引き合わせ したが」とキリーロフがいった。「だれでも夢中になったらる、 それがまあ、十一時になるでしよう。きみはその男 やりかねませんよ。こんなことを書いたのは、二人や三人じと万端の手筈を決めてください。それから、一時か二時に ゃない。プーシキンも〈ッケルン ( 刀シキンを決闘で倒し ) にあは、双方指定の場所へ出合わなくちゃならない。きみお願い てて書きました。よろしい、行きましよう。で、・ とうするんだから、そういうふうにしてくれたまえ。武器はむろんビス です ? 」 トル。そして、とくにお願いがあるんです。二つの発射線の ニコライの説明によると、彼は明日にもさっそく決行した間は十歩として、われわれ二人をその線からおのおの十歩の いと望んでいるが、その前にぜひもう一どあらためて謝罪を距離に立たしてください。われわれは一定の合図で近づくこ 申し込もうと思う。いや、もう一ど謝罪の手紙を約東しても とにしましよう。もちろん、どちらも発射線に行き着かなく かまわない。ただし、・ カガーノフのほうからも、今後二度とちゃならないけれど、発射はその前に、歩きながらやっても 手紙をよこさない、という約東をしなければならぬ。今までかまわない。まあ、これくらいなもんですね、ばくの考えて 受け取った手紙は全然なかったものと見なしておこう、とこるのは」 ういうのであった。 っ 「発射線間十歩の距離は近すぎます」とキリーロフがい らゆうざ

10. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

しえなかった。つまり、夫人は自分の限りなく愛しているニ イ・ニコラエヴィチ、この方はあたしに会ったのが嬉しいっ コラスの貴族にありがちな罪業を、名誉ある人との結婚によて、夢中になっていらっしやるのよ ! どうしてあなたまる って少しも早く塗り潰そうと、夢中になっているのだ ! わ二週間というもの、訪ねて来てくださいませんでしたの ? たしは彼がこの卑劣な疑いに対して、ぜひとも罰を受けるよヴァルヴァーラ小母さんたらね、あなたはご病気だから、う , フにと、いに願った。 っちゃっておくほうがいいっておっしやるけど、あたしだっ 「 0 一 Dieu, qui est si grand et si bon! ( おお、偉大にして、小母さんが嘘ついていらっしやるくらい知ってますわ。 て善良なる神よ ! ) おお、だれがわたしを慰めてくれるのだあたしね、いつもじだんだふんで、あなたの悪口ついていた ろう ? 」また百歩ばかり歩くと、ふいにびたりと足を止めんですけど、でも、ぜひあなたのほうから先に来ていただき て、彼はこう叫んだ。 たかったので、わざとお迎えをあげませんでしたの。あら、 「すぐ家へ帰りましよう、わたしがすっかり説明してあげままあ、ちっともお変わりにならないのねえ ! 」と彼女は鞍の す ! 」とわたしは無理に家のほうへ引き戻しながらいった。上からかがみ込むようにして、彼の顔をと見こう見するので 「おや、まあ ! スチェパンさま、あなたでございましたあった。「本当におかしいほど変わってらっしやらないー か ? まあ ? 」とっぜん音楽かなんぞのように新鮮な、若々あっ、そうじゃない、小皺がある、目のまわりや頬の辺にた しい、蓮葉な声が、二人の傍で響いた。 くさん小皺がある、それに、白髪も交ってるわ。だけど、目 わたしたちは少しも気がっかないでいたが、ふいにかの騎はもとのままよ ! ですが、あたし変わったでしよう ? 馬令嬢リザヴ、ータ・ニコラエヴナが、いつものつれといつね、変わったでしよう ? まあ、なんだってあなた黙り込ん しょに二人の傍へ現われたのである。彼女は馬を止めた。 でらっしやるんですの ? 」 「いらっしゃい、阜・くいらっしゃ い ! 」と彼女は高い声で愉わたしはこの瞬間、彼女の昔話を思い出した。十一の年に 决げに叫んだ。「あたしもう十一一年もお目にかからなかったペテルプルグへ連れて行かれた時は、ほとんど病人といって けれど、すぐわかりましたわ、スチェ。ハンさま : ・・ : あなた、 いいくらい体が弱かったが、病気などした時には、泣いてス あたしがおわかりになりません ? 」 チェ。ハン氏に会いたがったということである。 スチェパン氏は、差し伸べられた女の手をとって、うやう 「あなた : ・・ : わたしは : ・ : 」今はよろこびのあまり途切れが 豊やしく接吻した。彼はまるで祈りでもするように、女の顔をちな声で、彼は舌を縺らせながらこういった。「わたしはた 見つめたまま、とみに言葉さえ出なかった。 った今『だれがわたしを慰めてくれるのだろう ! 』と叫んだ 「まあ、気がついてよろこんでらっしやる ! マヴ リーキばかりなんですよ。ところへ、あなたの声が聞こえたじゃあ 2