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検索対象: ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)
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1. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

スチェパン氏の巧妙な皮肉で有頂天になって、しきりに両手 「ああ、帰れとおっしやるんですね」キリーロフ氏は急に気を揉んでいたが、それにしてもスチェパン氏が、リプーチン がついて、帽子をつかんだ。「よくいってくださいました、 の声を聞きつけた時、あんなにあわてて、「わたしはもう駄 ばくは , つつかりやですから」 目になった』などと叫んだわけが、わたしにはどうも合点が こういって立ちあがると、彼はきさくな様子で手を差し出ゆかなかった。 しながら、スチェパン氏に近寄った。 5 「ご気分が勝れないのにお邪して、実に残念なことをしま した」 わたしたち一同は戸口の閾に立っていた。それはふつう主 「どうかこちらで成功なさるように祈ります」とスチェパン客のものが、最後にいそがしく愛想のいい言葉をとりかわし 氏は差し伸べられた手を愛想よげにゆっくりと握りしめながて、めでたく別れて行こうとする瞬間だった。 ら答えた。「なるほど、もしお言葉どおり、長く外国に滞在「この方が今日あんなにむずかしい顔をしていられるのは」 して、目的遂行の都合上、他人を避けていられたため、ロシもうほとんど部屋を出てしまってから、リプーチンが早口に ヤを忘れておしまいになったとすれば、わたしたちのような言葉を入れた。「さっきレビャードキンと、妹のことで口論 生え抜きのロシャっ子に対しては、自然と驚異の念を感じらされたからです。レビャードキン大尉は気のちがったかわい れるに相違ありません。もっとも、わたしたちもあなたに対い妹を、毎日のように鞭でもって、ーー・正真正銘のコサッグ して、それと同じ程度の感じをいだきますがね。 mais cela 鞭でもって、ーー・・折檻するのです。もう毎朝、毎晩のことで passera ( が、それもちょっとの間でしよう ) ただ一つ判断に苦すよ。それだもんだから、キリーロフ氏もそんなことにかか しむのは、あなたはここで橋を架けようとしていられるのり合いたくないといって、同じ家の中ではありますが、離れ 一切破壊の主義を奉じていらっしやることです。それじのほうへ越してしまわれましたよ。じゃ、さようなら」 や、あなたに橋を架けさせる者はいますまいよ ! 」 「妹を ? 病身の ? 鞭でもって ? 」まるで、自分がいきな 「え ? なんとおっしやったんですか : : : ちょっ、馬鹿馬鹿り鞭で引っぱたかれたように、スチェパン氏はこう叫んだ。 しい ! 」とキリーロフはぎよっとして叫んだが、急に思いき「妹ってだれだね ? レビャードキンて何者だね ? 」 って愉快そうな、晴ればれした声を立てて笑いだした。 以前の動乱した心持ちが、一瞬にしてよみがえったのであ 一瞬にして、彼の顔は恐ろしく子供らしい表情を浮かべる。 た。それが彼の顔に似つかわしく思われた。リプーチンは、 「レビャードキン ! 退職大尉です。以前は二等大尉と名乗

2. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

った。彼女はあまり厳格すぎるほどの要求をもって、自分自 8 実際、彼女は病身のほうだった。彼女に会ってまず第一に 気がつくのは、病的な神経質らしい、絶えず落ちつく暇のな身に対しているのかもしれぬ。けれど、その要求を満足させ いような表情であった。哀れにもこの薄命な処女は、非常なるだけの力は、どうしても発見できないらしい 彼女は長いすに坐って、部屋を見廻した。 苦しみを経験していたのだ。それは後ですっかりわかった。 しかし、今こうして過去を追懐するに当たって、わたしは彼「どうしてあたしはこういう時に、いつも妙にもの悲しくな 女が当時自分の目に映ったほど、素晴らしい美人だとはあえるんでしよう、あなた学者だから一つ解いてくださいな。あ たしね、今までずうっと考えてましたの、もしあなたに会っ ていうまい。ことによったら、まるで美人でなかったかもし れない。背が高くてほっそりしていながら、同時に強靱なて昔のことを話したら、まあどんなにか嬉しいだろうって。 体を持った彼女は、その顔面の不規則な輪郭によって、奇異ところが、今はなんだかまるで嬉しくないような気がするじ の感じをいだかせるほどであった。彼女の目はカルムイグ人やありませんか。それでいて、あたしあなたが大好きなんで はす ) のように、なんだか少し斜に吊 0 ていた。顔立すの : : : あらまあ、ここにあたしの肖像がかか 0 てるわー ( 土既】蒙都族 ちは痩せて、頬骨が出て、あお白い色つやをしていたが、そちょっと見せてくださいな、あたし覚えててよ、覚えてて の中には何か相手の心を征服しなければやまぬ、魅力に富んよ ! 」 だあるものが感じられた。何か非常に力強いあるものが、そ十二のリーザを描いたこの見事な小品の水彩画は、かって の暗い色をした、燃えるような眼ざしの中に感じられた。彼九年はど前にドロズドフ家の人が、ペテルプルグからスチェ ハン氏へ送ったものである。それ以来この肖像画は、いつも 女は「征服せんがために、征服者として』出現したのである。 実際、彼女は傲岸に見えるばかりでなく、どうかすると暴慢書斎の壁にかかっていた。 「まあ、本当にあたしこんなかわいい子だったのかしら ? に感じられることさえあった。彼女が善良な人間になりえた かどうかは知らぬが、しかし、強制的に自分を善良な人間に 本当にこれがあたしの顔でしようか ? 」と彼女は立ちあがっ したくてたまらないので、そのために煩悶しているのは、わて、肖像を片手に持ちながら、鏡を見つめた。 たしにも察しられた。もちろんこの人の内部には美しい翹望「早く取ってください ! 」肖像を手渡しながら、彼女はこう しかし、彼女の持ってい叫んだ。「今かけないでちょうだい、あとで。あたしもう見 も、正しい試みも十分にあったが、 るすべてのものは、常に正しい標準点をえようとして、しかるのもいや」彼女はふたたび長いすに腰を下ろした。「一つ も、永久にそれを見出しえないために、何もかも混沌と、擾の生活が終わって、新しい生活が始まり、それがすんでしまう こうして際限なしに 乱と、不安の渦中に投じられている、といったふうな様子だと、今度はまた別な生活が始まる、

3. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

を向けた。物置きの戸は締めてあったけれど、鍵をかけてな イチ、あなたが機嫌をよくして、くさくさしていらっしやら 2 かった。この戸にいつも鍵をかけたことがないのを、余はちないと、われわれまでがみんな陽気になって、気の利いたこ ゃんと承知していたが、それでも開けて見たくなかった。た とをいいますぜ」と言った。余はこれをすぐその場で記憶に だ爪立ちをして、隙見をはじめた。この瞬間、爪立ちをしな たたんだ。してみると、余は愉央で、機嫌がよくて、くさく がら、余はふと思い出した、さきほど窓ぎわに坐って、赤いさしていなかったわけである。が、それは表面だけのことで 殉蛛を見つめながら、いっしか忘我の境に陥ったとき、自分ある。忘れもしない、余はおのれの解放を喜んでいる自分 が爪先立ちをしながら、この隙穴まで片目を持って行く姿をが、 卑屈で陋劣な臆病者だ、しかも、一生、 この世で 心に描いたものである。このデテールをここへ挿入するのも、死んだ後でも、けっして潔白な人間にはなれないという は、余がどの程度まで自分の知性をはっきり掌中に把握してことを、自分でもちゃんと承知していた。それから、まだこ いて、すべてに責任を持ちうるかということを、是が非でも ういうこともある。余はその時、『自分の臭いものは匂わな 証明したいからである。余は長いこと隙穴を覗いていた。中 い』というユダヤの諺を、おのれの身に実現したのだ。とい が暗かったからである。しかし、まっ暗闇でもなかったの うのは、余が心の中で卑劣だと感じていながら、それを恥と で、ついに見分けることができた、余にとって必要なものをも思わず、全体にあまり良心の苛責を感じなかったからであ る。 最後にここを立ち去る決心をした。階段ではだれにも出会そのとき余は茶を飲みながら、取り巻き連としゃべってい わなかった。三時間の後、余は宿でいつもの連中といっしよるうちに、生まれてはじめて厳粛に自己定義をした、 、上着を脱ぎすてて茶を飲みながら、古いカルタを弄んでかでもない、自分は善悪の区別を知りもしなければ、感じも しない。い いた。レビャードキンは詩を朗読していた。いろんな話がた や、自分がその感覚を失ったばかりでなく、もと くさん出たが、まるでわざと誂えたように、みんな上手に面もと善悪などというものは存在しない ( それも余にとっては 白おかしく話してくれて、いつものように馬鹿馬鹿しくなか気持ちがよかった ) 、ただ偏見あるのみだ、自分はあらゆる った。そのときキリーロフも一座にいた。ラムのびんはそこ偏見から自由になることができるが、しかし、この自由を獲 とこ , つい , っふ , つのことだった。そ にあったけれど、だれも飲むものはなかった。ただ時々レビ得したら身は破滅だ、 ャードキンが一人で、ちょいちょい口をつけるくらいなものれは生まれてはじめて定義の形で意識したもの、しかも取り であった。 巻き連と茶を飲みながら、わけのわからないでたらめをしゃ プローホル・マーロフは、「ニコライ・フセーヴォロドヴべったり、笑ったりしているうちに、偶然うかんで来た意識

4. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

少しあおい顔をして、外套に白い毛皮の帽子という、かなりの起こらないさきから、まったく別な理由で軍務を退こうと 軽い服装をしていた。彼はだいぶ疲れているらしく、ときど思ったこともあるが、この時まできつばりと決しかねて き眉をひそめながら、自分の不愉快な気持ちを、少しも隠そた。奇妙な話だけれど、彼が軍務を退こうとした最初の原 うとしなかった。しかし、この瞬間ガガーノフは、だれより因、というよりむしろ動機は、一八六一年二月十九日の農奴 も一ばん目立っていた。したがって、彼のことだけ全然べっ解放だった。ガガーノフは、県内でも屈指の富裕な地主で、 に一言しないわけにいかないのである。 しかも、解放令の発布の後も、大した損害はこうむらなかっ たのだし、彼自身もこの処置の人道的意義を承認し、改革に 2 よって生ずる経済的利益をも、了解するだけの頭脳はあった わたしは今まで一度も、彼の外貌を述べる機会がなかつのだが、それでも解放令の発布後、急に自分自身が個人的侮 た。彼は色白で背の高い、平民仲間でいわゆる「脂ぶとりの辱を受けたように感じ出した。それは何かこう無意識的な感 した』いかにも満ち足りたらしい紳士で、年のころは三十情だったが、はっきりしないだけ、かえって痛烈に感じられ 三、四、うすい亜麻色の髪の毛をした、かなり美しい輪郭のた。もっとも、父親の死ぬるまでは、どうとも断固たる処置 顔だちだった。彼は大佐で軍務を退いたが、もし将官になるを取る決心がっかなかった。しかし、ペテルプルグでは、そ まで勤務を続けたら、将官という背景の下に、、 しっそう堂々の「高潔な』思想のために、諸名士の間にも名を知られるよ たる感じを与えたろうし、また立派な戦場の指揮官となるこ うになってきた。彼はこういう人たちと、なるべく、関係を とができたかもしれない 絶たないように努めていた。彼は自分というものの中に入り この人物の性格の描写上、逸することのできないのは、彼込んで、そこにじっと閉じこもっているような人だった。い ま一つの特質ともいうべきは、自分の家柄の古いのと血統の の軍務を退いた動機である。それはほかでもない、四年前ニ コライのために、父がグラブで恥辱を受けて以来、長い間し正しいのを、やたらに自慢することだった。彼はそんなこと ゅうねく彼を悩ました家門の名折れという一念だった。このに真面目な興味をいだいている奇妙なロシャ貴族の仲間に属 していた。こういう亠貝族は、今でもロシャに生き残って うえ勤務を続けるのは、良心に対しても恥すかしい破廉恥な ことに思われた。自分が職にとどまるのは、連隊はじめ同僚る。が、それと同時に、彼はロシャ歴史が大嫌いで、全体に の顔に泥を塗るに均しい、とこう信じて疑わなかった。そのロシャの習慣を醜悪なものと考えていた。主として、富裕な くせ同僚仲間ではだれ一人として、この出来事を知る者はな名門の子弟のみのために設けられた、特別な軍事学校に籍を かったのである。もっとも、彼はすっと以前、 この侮辱事件おいている少年時代に ( 彼はこの学校で教育を終始するの光

5. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

いに両手で余の頸を抱きしめると、いきなり自分のはうから喧嘩をした。けれど、翌朝目をさましたのは自分の下宿だっ 烈しい勢いで接吻を始めた。その顔は極度の歓喜を現わしてた。レビャードキンが運んで来てくれたのである。目をさま いるのであった。余は今にもそのまま立ちあがって、出て行してからまず頭に浮かんだのは、娘が告げたろうかどうだろ ってしまおうとしたほどである、 この幼いものの内部に う ? という想念であった。それは、程度こそまださほど強 くなかったが、真剣な恐怖の瞬間だった。余はその朝おそろ 潜んでいる情熱が、それはど不愉快に感じられたのである。 しかも、それは突然おそって来た憐愍のためなのであった。 しく陽気で、だれにでも優しくしてやったので、取り巻き連 いっさいが終わったとき、娘はきまり悪そうにもじもじし中はしごく大恐悦であった。余はかれら一同をすてて、ゴロ ていた。余は彼女を安心させようとも、愛撫を示そうともし ーホヴァャ街へおもむいた。余はまだ下の入口の所で、彼女 なかった。娘は臆病げにほほ笑みながら、じっと余の顔を見にばったり行き会った。近所の店へ菊ぢさを買いにやられ つめていた。余は急にその顔が愚かしく思われてきた。当惑た、その帰りなのである。余の姿を見ると、彼女はたとえよ の表情は一刻ごとに、見る見る彼女の顔にひろがっていっ うのない恐怖を現わして、矢のように階段を駆け昇った。余 た。っし。 / 、こ彼女は両手で顔をかくしたと思うと、片隅に引っ が入って行った時、母親は『気ちがい猫みたいに』家へ駆け 込んで、うしろ向きにじっと立ちすくんだ。またさっきのよ込んだといって、さっそく娘に拳固を一つ見舞ったところ うに、彼女がおびえはしないかと気づかわれたので、余は無で、娘の驚愕の真因はそれでおおわれた。こういうふうで、 言のまま家を出てしまった。 まずさし当たり万事平穏であった。娘はどこかへ引っ込んで 思うに、この出来事はかぎりなく醜い行為として、死ぬば しまって、余のそこにいる間じゅう、ちっとも出て来なかっ かりの恐怖を呼び起こしながら、彼女の心に取り返しのつか た。余は一時間ばかりいて、帰ってしまった。 ぬ烙印を捺してしまったに相違ない。まだおしめの中にいる 夕方になって、余はまたぞろ恐怖を感じたが、今度はもう 頃から聞きなれたろうと思われるロシャ式のロ汚い罵詈雑言比較にならぬほど烈しかった。むろん、余はどこまでも突っ や、その他あらゆる猥雑な会話にもかかわらず、彼女はまだ ばることができたけれど、真相を暴露される恐れもあった。 なんにも知らなかったに相違ない、と余は確信して疑わな余の頭には流刑などという考えも閃いた。余はかって恐怖と そして、とどのつまり、彼女は一一一口葉に尽くされぬほど大 いうものを知らなかった。この時を除いては、一生涯あとに きな、死に価すべき罪を犯して、『神様を殺してしまった』 もさきにも、何一つ恐ろしいと思ったことがない。だから、 というふうな感じをいだいたに違いない。 シベリヤなどを恐れるわけはなおさらなかった。もっとも、 その晩、余は前にもちょっと述べたとおり、酒場へ行ってそこへ流されてもいいようなことは、一度や二度でなく仕出

6. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

でひそひそ話したのである ) 。すると、母親が余の耳にささていた。立って、無言のままじっと見ていた。余は卑劣千万 やくには、『恐ろしい』『神様を殺してしまった』というの にも、うれしさに、い臓の躍るのを覚えた。つまり、余が意地 が、娘の譫言なのだそうである。余は自分で金を出すから、 を立て通して、彼女のほうから出て来るまで待ちおおせたか 医者を呼んで来るように提議したが、女房は承知しなかっ らである。この数日来、一度も間近く見なかったが、まった た。「まあ、神様のお助けで、このままでもよくなるでござ くその間に彼女は恐ろしく痩せた。顔はかさかさになって、 いましよう。のべっ臥通しというわけでもありません、昼間頭はきっと燃えるようだったに相違ない。大きくなった目 は外へも出るのでございますよ。たった今もそこの店までおはじっと据わって、ひたと余を見つめている。初めはそれが 使いに行ったくらいなので」余はマトリヨーシャ一人だけの鈍い好奇の表情のように思われた。余はじっと坐ったままそ 時に来ようとはらを決めた。幸い女房が、五時頃に川向こうれを見返して、身動きもしなかった。と、その時またふいに へ行って来なければならぬと口をすべらしたので、晩方にま憎悪の念を感じた。しかし、間もなく、彼女がまるで余を恐 た帰って・米ることにしこ。 れていない、それよりむしろ熱に浮かされているのだ、と見 て取っオ 余は小料理屋で食事をして、ちょうど五時十五分にゴロー 熱に浮かされているわけでもなかった。とっ ホヴァャ街へ引っ返した。余はいつも自分の鍵で中へ入るのぜん彼女は余のほうへ向けて、顎をしやくり始めた。それは であった。マ トリヨーシャのほかにはだれもいなかった。彼ゼスチュアを知らぬ単純な人間が、人を責める時にやるよう 女は小部屋の屏風の陰で、母親の寝台に臥ていた。余は彼女な、そうした顎のしやくり方であった。と、ふいに、彼女は がちらと覗いたのを見たが、気がっかないようなふりをして余に小さな握り拳をふり上げて、その場を動かずに威嚇をは いた。窓という窓はみんな開いていた。空気は暖いというよじめた。最初の瞬間、余はこの動作が滑檮に感じられたが、 むしろ暑いくらいであった。余は少し部屋の中を歩いた だんだんたまらなくなって来た。彼女の顔には、とうてい子 後、長いすに腰をかけた。余はいっさいのことを最後の瞬間供などに見られないような絶望が浮かんでいたのである。彼 まで覚えている。マトリヨーシャに話しかけないでじらすの女は絶えず余を嚇かすように、、 さな拳を振っては、例の譴 が、余はたまらなく嬉しかった。なぜかわからない。余はま責の顎をしやくるのであった。余は恐怖を覚えながら立ちあ る一時間待っていた。と、ふいに彼女は自分で屏風の陰から がって、彼女の傍へ寄り、そっと用心ぶかく、穏かに、優 飛び出した。彼女が寝台から飛びおりた時、両足が床にぶっしく話しかけたが、その言葉が彼女の耳に入らないのを見て レしきなりばっ かってどんといったのも、それに続いて、かなり早めな足音取った。やがて彼女は、あの時と同じようこ、、 がしたのも聞いた。と、彼女はもう余の部屋の閾の上に立っと両手で顔を隠して、余の傍を離れると、こちらへ背を向け

7. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

擁を免れようと努めながら、ベトルーシャは忙しそうにこう も、一見したところ、彼は四年前と同じようだった。同じよ うに優美で、同じように尊大で、同じように若々しく、そし 「わたしはいつもお前にすまんことばかりしていた ! 」 て、入って来た時の態度もあの時のままに尊大であった。軽 「もうたくさんだってば、その話は後にしましようよ。きつい徴笑は同じように礼儀ばった愛嬌を帯びて、また同じよう に自足の色を表わしているし、眼ざしは同じように厳めしく とふざけた真似をはじめなさるだろうと思っていたが、はこ せるかなだ。さあ、少し真面目になってくださいな、後生だ考え深そうで、しかも何となく放心したようであった。要す るに、われわれは昨日別れたばかりのような気がしたほどだ。 から」 「だといって、わたしはもう十年からお前を見なかったんだ が、ただ一つわたしを驚かしたことがある。ほかでもない、 以前は美男子の定評はあったけれども、社交界のロ悪な婦人 「それだから、なおさらそんな芝居めいたせりふを並べるわ仲間で噂したとおり、彼の顔は実際「仮面に似て』いた。と けはないじゃないか : ころが、今はどうだろう、ーー・・・今はなぜだか知らないけれ モナンファン 「倅 ! 」 ど、わたしは彼を一目見るなり、何一つ非の打ちどころもな 「いや、わかってるよ、お父さんがばくを愛してくれることい立派な美男子だと感じた・もはや彼の顔が仮面に似ている などとは、どうしてもいうことができなかった。それは以前 は、よくわかってるよ。さ、その手をどけてください。だっ て、ほかの人の邪魔になるじゃないか : : : おや、ニコライ君より心もちあおざめて、いくぶん痩せて見えるせいだろう が見えた。ね、冗談はよしにしよう、お願いだから ! 」 か ? それとも、何か新しい観念が、いま彼の目に輝いてい 実際、ニコライはもう部屋の中に入っていた。彼は静かにるためだろうか ? 入って来ると、戸口のところでちょっと立ちどまって、じい 「ニコライ ! 」ヴァルヴァーラ夫人は、肘掛けいすから下り っと一座を見廻した。 ようともせず、ぐっと身をそらして、高圧的な身振りでわが 四年前はじめて見た時と同じように、今度もわたしは一瞥子を押し止めながら叫んだ。「ちょっとそこに待っててちょ してすぐ彼の容貌に打たれた・けっして彼の顔を見忘れたわうだい ! 」 けではないが、よく世間にはいつでも会うたびに何か新しい しかし、この身振りと叫びに続いて発せられた恐ろしい質 あるもの、 よしんば今まで百ペんくらい会ったことがあ問、 ヴァルヴァーラ夫人のような性質の人からさえも、 るにせよ、以前少しも気のつかなかったようなあるもの、 とうてい予想することのできないような、あの質問を明らか を表わして見せる容貌の所有者があるものだ。もっと にするために、わたしは読者諸君に対して、ヴァルヴァーラ つ、 ) 0

8. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

ね。あの時分あなたは、わたしのような者のいうことでも聞解きになりましたよ ! 」なかば悪くふざけながら、なかばわ いてくださったし、また詩も読んで聞かしてくださいましたざとならぬ感激に打たれて ( 彼はこうした警句が大好物だっ たので ) 、大尉は叫んだ。 よ : : : あのころ、人がわたしのことをあなたのファルスタッ 「ニコライさま、あなたのおっしゃちたお言葉の中で、後に 沙翁の書いたファルスタッフだといっておりました が、それはいわれてもかまわんです。あなたはわたしの運命もさきにもたった一つ覚えておるのがあります。これはあな : わたしはいまたがまだペテルプルグにいらっしやる時分のことで、「常識 に甚大なる影響を与えた人ですからなあ ! にすら反抗して立っためには、真の偉人となるを要す』とこ 非常な恐怖をいだいております。そして、ただただあなた一 ートル・スチェ ういうのでございます ! 」 人から助言と光明を待っているのです。ピョ 「ふん、それと同じように「或いは馬鹿者たるを要す』とも バーノヴィチがわたしに恐ろしい仕向けをされるので ! 」 いえるね」 ニコライはもの珍しげに耳を傾けながら、じっと相手を見 つめるのであった。見たところ、レビャードキン大尉は、酒「さよう、また馬鹿者でもいいでしよう。とにかく、あなた しかし、なかなか均衡のは一生を警句で埋めていらっしやる。ところが、あの連中は に食らい酔うことだけはやめたが、 オカオこ , ついうふ , つな ~ 病ど , つでしょ , っ ? リプーチンにしろ、ビヨートル・スチェ。 とれた状態に戻っている様子はよ、つこ。 ーノヴィチにしろ、せめて何か似たようなことでもいえます い膏肓に入った酒飲みは、結局、どことなくがたびしした、 カ ? ああ、ピヨートル・スチェヾ / ーノヴィチは実に残酷な ばうっと煙のかかったようなところができて、何かしら損な われたような感じのする、気ちがいじみた傾向が、しだいに仕向けをなさいますよ : : : 」 明瞭になってゆくものである。もっとも、必要な場合には人「しかし、きみはどうだね。大尉、きみはなんという行為を 並みに嘘もっくし、狡知も弄するし、悪企みもするには相違したのだ ? 」 「酒の上でございます。それに、わたしは無限に敵をもって ないけれど。 「大尉、ばくの見たところでは、きみはこの四年間少しも変おりますのでね ! しかし、今はもうすっかり、何もかもす わらないね」前よりいくぶん優しい調子で、ニコライはこうんでしまいました。で、わたしも蛇のように更新していると ころでございます。ニコライさま、実はわたしは遺一一一口状を書 しし出した。「ふつう人間の後半生は、こ、、こ」・ オ前半生に蓄積し いております。いや、もう書いてしまったので」 た習慣のみで成り立っというが、どうやら本当のことらしい ね」 「それは珍聞だね。いったい何を遺そうというんだね、そし 「なんという高遠な言葉でしよう ! あなたは人生の謎をおてだれに ? 」

9. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

も」チーホンは目を上げて、につこり笑った。 「じゃ、あなたはそうした信仰のほうが、なんといっても完彼は急に目を伏せて、両の肘を膝の上につき、こらえ性の ない様子で謹聴の身がまえをした。チーホンは一こと一こと 全な無信仰より尊敬に価すると、思ってらっしやるんでしょ : 賭けでもしますよ」とスタヴローギンはからからと笑思い起こしながら暗誦した。 っこ。 『なんじ、ラオデキャの教会の使者に書おくるべし、アーメ ンたる者、忠信なる真の証者、神の造化の初めなるもの、か 「それどころか、完全な無神論のほうが、俗世間の無関心な くの如く言うと。日く、なんじ冷やかにもあらず、熱くもあ 態度より、ずっと尊敬に価しますよ」とチーホンは答えた。 らざることを、なんじのわざによりて知れり。われなんじが 「へえ、そんなことをお考えなのですか ! 」 「完全な無神論者は完全な信仰に達する、最後の一つ手前の冷やかなるか、或いは熱からんことを願う。汝すでにぬるく して、冷やかにもあらず熱くもあらす、このゆえに、われな 段に立っておる ( それを踏み越す越さないは別として ) 。と んじをわがロより吐き出ださんとす。なんじみずから、われ ころが、無関心な人間はなんの信仰も持っておらぬ。まあ、 悪い意味の恐怖くらいなものですて。しかし、それもほんのは富みかっ豊かになり、乏しきところなしと言いて、まこと は悩めるもの、憐むべきもの、また貧しく目しい、裸かなる 時たまで、感じの強い人にかぎりますよ」 を知らざれば : 「ふむ : : : あなたは黙示録をお読みになりましたか」 「たくさんです」とスタヴローギンはぶつりと断ちきった。 「読みました」 「覚えていらっしゃいますか、「なんじラオデキャの教会の「実はねえ、ばくあなたが大好きですよ」 「わたしもあなたが」とチーホンは小声で応じた。 使者に書おくるべし』ってのを : : : 」 スタヴローギンはロをつぐんだ。そして、ふいにまた、さ 「覚えております」 「あの本はどこにあります ? 」なんだか妙にせき込んで、目きほどと同じもの思いに沈んでしまった。それはまるで発作 でテープルの上の本をさがしながら、スタヴローギンはそわ的に起こるらしく、もうこれで三度めだった。それに、チー そわ落ちつかない身振りをした。「ばくはあなたに読んで聞ホンに向かって『大好きです』といったのも、ほとんど発作 的といっていいくらいだった。少なくも、われながら思いが かせて上げたいのです : : : ロシャ語訳がありますか ? 」 けなかったに違いない。一分以上たった。 「わたしはあの場所を知っておる、覚えております」とチー 「腹を立てなさんな」ほとんど指をニコライの肘にふれない 不ンはいっこ。 ばかりにしながら、なんとなく気おくれのする様子で、チー 「そらで覚えていらっしやる ? では、読んでください しよう

10. ドストエーフスキイ全集9 悪霊(上)

「では、あなたは非常に記憶力がおよろしいのですね、そう 「あなたもどうやら、あまり健康ではなさそうですな」 いうつまらないことを覚えていられるところを見ると。頬打「ええ、そうかもしれません」 ち事件をお聞きになりましたか ? 」 彼は出しぬけに話し出した。それが思い切り簡単な、引っ 「何やら聞いたようですな」 ちぎったような言葉なので、どうかすると、よく聞き取れな 「つまり、何から何まででしよう。あなたはずいぶんそんな いくらいだった。その話によると、彼は一種の幻覚症にかか 話を聞く暇がおありなんですね。じゃ、決闘のことも ? 」 って、ことに夜になると、よく自分のそばに何かしら意地の 「さよ , つ、決闘のことも」 悪い、皮肉な、しかも「理性のしつかりした』生き物を感じ 「へえ、ここは新聞のいらない所ですね。シャートフが先をるばかりか、時によると目に見ることさえある、というので あった。 越して、ばくのことをしゃべったんでしよう ? 」 「いや。もっとも、わたしはシャートフ氏を承知しておりま 「いろんな変わった顔をして、いろいろさまざまな性格に化 すが、もうだいぶ前からあの人に会いませんよ」 けて来るけれど、その正体はいつも同じものなんです。で、 「ふむ : : : あすこにあるのよ、 。いったいなんの地図です ? ばくはいつもじりじりして来るんですー おや、最近の戦争地図だ ! なぜこんなものが ? 」 この告白は奇怪千万で、ちぐはぐで、まったく狂人の口か 「この地図を本文と対照して調べたので。なかなか面白い記ら出たもののように思われた。けれど、この時のニコライの 録ですて」 語調は、今までかって見たことのないくらい、不思議なほど 「見せてください。そう、この戦史は悪い出来じゃない。し開けっ放しで、彼にはまるで不似合な率直さを示していたの かし「あなたとしては奇妙な読物ですね」 で、彼の内部に潜んでいた以前の人間が、いつの間にか忽然 彼は本を引きよせて、ちらと目を走らせた。それは最近のと消えてしまったような気がするほどだった。彼は自分の幻 戦役に関する事情を巧みに叙述した浩瀚な書物で、軍事的と覚を語る時に、恐怖の色をあけすけに曝け出して、それを少 いうよりも、むしろ文学的に優れた労作だった。彼はちょっ しも恥じるふうがなかった。しかし、それもみなほんの東の と本を引っくり返して見ると、急にじれったそうにばんとほ間のことで、現われた時と同様に、たちまちすっと消えてし うり出した。 まった。 笠「ばくはなんのためにここへ来たのか、てんでわけがわから 「だが、みんなくだらないことです」彼はふとわれに返っ ない」相手の答えを期待するように、ひたとチーホンの目をて、ばつの悪そうないらだたしさを声に響かせながら、早ロ 悪見つめながら、彼は気難かしそうな調子でこういった。 にこういっこ。「ばく、医者のところへ行ってみますよ」 7