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検索対象: 夏目漱石全集 別巻
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1. 夏目漱石全集 別巻

いであろう。或いはまた「笑い」は原初、苦痛の表現る。またしようともしないのである。ここに漱石の であったという・キルケゴールの考えも、同じ根拠「笑い」が形成される。「吾輩」は一言の救援もよばな ( 注 6 ) い。そして死に瀕する。あの薄暗りの中からはじまっ によるのであろう。椎名麟三は「笑い」について、 それは「恐怖、のシノ = ムだと断じていられるのであた「猫」は、こうしてこの暗い甕の中に消えて行 0 て るが、漱石にあっては、一層「人間の恐慌」だと言っしまう。まさにそして、 Keine Brücke führt r der Schlund 、い。その恐慌を、かくばかり的確に把え得るメト であろう。その深淵は「人間恐慌ーの暗い予感であ ーデとしても『猫』の笑いは有効であったといってい る。重ねて言うと「笑い」はそして、「その時苦しい いであろう。「その時苦しいながら、かう考へた」は、 漱石文芸のきわだった発想である。この情況は『猫』ながら考へた」であり、漱石文芸の発想の肝心である。 においてはこうである。「吾輩、はビールを飲み干す。餅にくらいついて、死ぬ程の苦しみを味わう「吾輩」、 「我慢に我慢を重ねて」という。がまんの甲斐があっ彼やはり「苦しいながら考えた」なのである。漱石 は生涯「苦しいながら考え」「苦しいながら書」いて て「猫」は陶然となって散歩に出かける。海だろうが 山だろうが驚くものか。そう思ったとたんに甕の中に行くのである。ではその苦しさ、深さとは何であろう。 世落ちるのである。足をのばして届かず、飛び上って以下この「笑い」のただ中にのぞき見られる漱石の の もとどかない。もがけばもがくだけ身は深く水中に沈「恐慌」について、いくらかの考察を試みようと思う。 る 物む。人々はさざめき合い、そして笑い、憎み愛し、喜 描び悲しんでいる。その言葉の一つ一つを、「吾輩」は 『猫』の文体は、明晰ということばの持っ可視的な性 輩聞く。尽きぬ好奇の思いを持って理解する。しかし、 人々は「吾輩」の言葉を、一言だに理解しないのであ格をとり去って使用に供し得るならば、その文体は悽 291

2. 夏目漱石全集 別巻

故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さえ「遠い所」、つまり作者漱石が留学した英国という場所 で象徴されている。漱石が冒頭でまず、その「遠い所」 感じた。 彼の身体には新らしく後に見捨てた遠い国の臭がの「臭」を意識しているのは、それがたんなる観念の まだ付着していた。彼はそれを忌んだ。一日も早く世界に止らず、よりリアルに、感覚に襲いかかってく 其臭を振い落さなければならないと思った。そうしる「過去」であったことを暗示している。こう見てく て其臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足には却っると、「道草」は外見上、いかにも自然主義的雰囲気 と文体が目につくにせよ、それはあくまで外見にすぎ て気が付かなかった。 よい。漱石は「門」では種明かし的に、あざとく構想 主人公健三は、少なくとも二種類の過去を背負った 男としてまず登場し、以後「道草」全篇を通じてこのしたものを、より人生に密着させ、緊密な纏まりを与 いってみればこれもま えることに成功したのであり、 資格を帯びたまま、沈鬱な生の感情を獲得してゆく。 二種類の過去とは何か。言うまでもなく幼かった頃、た、「こころ」「行人」「明暗」などの系列が一様に苦 島田夫婦のもとに養子にゆかされて、大人たちの = ゴ悶を抑えつけた観念追求の作品であったのと、その根 の醜さが剥き出しのまま縺れあっているような世界でにおいては繋っている。そしてこのような漱石の秘め 暮さなければならなかったことが一つである。もう一られた内面の問題が、ほとんど文明史的事件のレベル 体つは、彼が成人して最高の学歴をたどり、知的職業にをこえて、メタフィジックにまで押しあげられてゆく とたずさわることとなって、完全にかっての養父母の世のが近年の漱石研究のとめどなき傾向であるとはいっ 言界とは異質の世界に入っていったとき、そこでふたたて、それはまた考えようによっては、彼の文体の徴 石び健三を取り巻いた暗い世界、はてしなく自己を意識妙な変化に裏付けられた文体的、一一一〕語的事件でもあっ乃 た。メタフィジックとしてそれを解けば百頁を必要と させずにはおかない世界であり、小説の中ではそれが

3. 夏目漱石全集 別巻

の父は後を恐れて、すぐに金之助の籍を北海道の親戚売ってその金を払った。そこへ持って来て、間接に将 のうちに一時仮り入れした事実もあった。 ) 来の頼みをかけていたかっ子の娘のれん子が死に、間 未来の文壇の驍将夏目漱石先生と、塩原養父母とは、 もなく又その良人が死に、老人とかっ子が只だ二人こ これつきり親子の縁は断たれてしまった。その事情をの世に残って了った。すると大正二年の二月に、落合 ちゃんと知っていた先生のこの時の胸の中は、非常な博士の未亡人から、浅嘉町の家は茶室をあけておかし 煩悶にみたされていた。 申すから来られてはどうですと言って来た。老夫婦は 「ああ、いっそ頭を円めて坊主になってしまいたい」その深切をうけて引き移って行ったが、どう勝気な 先生はそう言って溜息をついたそうである。当座は飯かっ子には姪のすることが一々気にくわなかった。あ も食べすに、蒼く沈んだ顔をしてくよくよ考えていたる日未亡人は何の気なしに、叔母さん一人なら好いけ とう そうである。 れど、のらのらお爺さんも引ぎ受ける様では困ります がなどと話のついでにかっ子に言った。 九 それがぐっとかっ子の癪に障った。たとえよぼよぼ一 金之助を離縁したあとの塩原家には不幸が重った。 になっていても、私にしてみれば二世を契った良人で かっ子の友達である武藤なか ( 下谷御徒士町二丁目 ) ある。その良人を厄介者に扱われて、なんで私が気持 と言う女の亭主の事業を助くるために、老人は自分のがよかろう。お前がそう言う心でいることなら、もう 貸屋を抵当で高利を借りてやったが、それが後になっ 一切私達の世話は御めんを蒙ろーーかっ子はそう言っ ても一金も手元には戻って来す、借金の方は元利合せたまま、大正三年の十月に落合の家を出て、本郷駒込 て三千百九拾円と言う大金になっていた。破産した武神明町に一戸を構えたのであった。そうしてかっ子の あて 藤からはとる的もないので、老人は思いきって家作を所謂かつをぶしを削りながら、彼の世のお迎えを待っ

4. 夏目漱石全集 別巻

武者えらいところでやられるな。 ( 笑声 ) 角れていると一言うか、そういう所がやはり夏目さん 安倍今日来ないもんだから。 の文学の一つの優れた所、ほかの文学の及ばない所和 ・ころうと思う。 長与今日は一つ辰野先生の欠席裁判をやるか。 辰野僕をこの座談会の除け者にするのは非道いよ。大内それはそうた。 ( 笑声 ) 安倍それから、夏目さんという人は誠意のある人だ 小宮君は漱石、鸛外、露伴を書くと言ってたから、 から、人に接する時誠意をもってするだろう。人 座談会へ出たら書く種がなくなると思って : 間と人間との関係で、誠意をもって接せられるくら 安倍しかしどうしてああいうふうに無闇にモデルに い光栄なことはないから、みんな夏目さんから相手 してしまうんだろうか。 にされたものは、自分が一番可愛がられたとか、自 小宮無造作なんだよ、あの男は。 分は非常に大事にされたとかいう、 そういう印象を 辰野モデルの名誉を考えて言ったんだ、死後のため 受ける。それはやはり僕は夏目さんの人間としての 一番尊い所だと思う。 長与大家の断言だけに人は信用するからね。 長与誠意の事をいえば乃木さんだってそうだよ。 安倍夏目さんの作品の優れた所というのは、例えば安倍しかし乃木さんは人が分らない。人間がね。 「三四郎」なら「三四郎」を書いて、五高から来た長与乃木さんとしては誠心誠意であることは分って ものがみんな自分が三四郎だと思うように、やはり いるんだけれども、ちっとも尊敬出来なかった。 そういう個性を描いてある意味で普遍的なものを表安倍やはりそれは教養の力だね。 現して居る。文学というものは本来そういうもので長与教養が低ければ問題にならない。 あるべきだろう。そ ういう所に触れているんだね。 大内それは乃木さんは長与さんとは隔り過ぎたんじ

5. 夏目漱石全集 別巻

指の文章家たったということである。この名文家は、 学的根差しは、近年吉川幸次郎氏の「漱石詩注」 ( 岩 凝っては、「草枕」、また時には「虞美人草」ふうの美波新書、昭和四十二年 ) によって有力な裏付けを得、 文家にさえもなり得た。この点について異議を唱えるさらに最近では、山本健吉氏「漱石啄木露伴」 ( 文 人は少ない。それはまた彼の発想の豊かさ、語彙の華藝春秋、昭和四十七年 ) という労作を通じ生ぎた問題 麗さとも言えて、同じ「江戸っ子」でありながら漱石として復活しつつある。 しかし、漱石が名文家、文章家であったこと、その にはほとんど関心が無さそうな小林秀雄氏も、かって どの文章であったか、漱石の語彙の豊饒を認めていた文体は漢文脈に属していたことは、すでに常識である。 問題はその先からはじまる。谷崎潤一郎は漱石とは文 のが思い浮ぶ。しかし第二には、一般に信じられてい るように、漱石の文体は和文脈であるよりは漢文脈で学的嗜好を異にするにもかかわらず漱石に言及したし、 ある、と言う点がある。そして漠然と感得されていたその文章の特性を認めるには吝かでなかった。谷崎に この感じをはっきり述べた最初のものは、あるいは谷はまた、最も初期の批評文に「『門』を評す」 ( 「新思 崎潤一郎の「文章読本ーであったか知れない。谷崎潮」明治四十三年九月 ) というのもあって、そこでの は、和文脈の代表例として鏡花、上田敏、三重吉、里ぎびしい作品評価にもかかわらす、結果的には漱石の 見弴、久保田万太郎、宇野浩二らの名前を挙げ、漢文よき読者の一人であったことだけは明らかである。と 体脈系として漱石のほかに志賀直哉、菊池寛、直木三十ころが、谷崎の「文章読本」にならった川端康成「新 文 五を挙げた。そういう谷崎自身は前者であり、それを文章読本」と三島由紀夫「文章読本」は、漱石の完全 言換言して前者と後者の対比は、流麗派と質実派、女性な無視において、一つの特色を見せているのはなぜだ 石派と男性派、情緒派と理性派、源氏物語派と非源氏物ろうか。これは、明治の自然主義から大正の心境的私 語派というふうにも言い表わされた。漱石における漢小説へ、そして昭和の「純文学」へという流れを正統

6. 夏目漱石全集 別巻

受けには来たけれど、五高で受けて一高にはいっ しよう、相当。 小宮僕はそんなにモデルにされちゃいませんよ。 た。だからここでは僕は全然生活していないんだか 安倍それはないけれども、色々な所を小宮から取っ ら感想も何もないと答えると、それじゃその試験を 受けにお出になった時のインプレッションと今日の ている。 イン。フレッションを聞かせてくれと言うので、それ 長与一般の人はあのモデルは誰だと無闇にきめるね。 ならこうこうだと言うと、翌日の新聞には、三四郎 そういうことは作家にとっては売れることになって が感慨深げにこういうことを語ったと出ていた。人 大変都合はいいけれども、実際は随分違うんでね。 を馬鹿にするにも程がある。 ( 笑声 ) 作家というものはそういうものではない。 小宮大内君だって、五高出身だから、やはり三四郎長与例えば野々宮さんが寺田寅彦というのは : ・ をもって任じていた事があるだろうと思う。五高の安倍あれはやはり、ちょっちょっと寺田さんの挙動 は取っている。それから与次郎というのが、やはり 卒業生には、俺が三四郎のモデルだと自認している 鈴木三重吉の一面を一寸捉えている。そういう所は 人が多い。僕は一昨年だったか、安倍がアメリカへ ある。 行っている留守に、学習院宣伝の旅行をして熊本ま で行ったことがあった。その時熊本の駅に下りるや長与それを全部モデルにしたと極めちゃうからね。 否や、新聞記者が来て、先生御感想を伺わせて下さ安倍そうそう。どうも辰野隆なんども、フランス文 る 語 学の泰斗だから、そういう事は分っている筈なんだ いと言うから、何だと言ったら、「三四郎」をかっ が、やつばり何でもモデルにしてしまう。 石ぎ出した。昔五高を卒業して東京にお出になって以 来、熊本にはおいでにならなかったんだろうから、長与あれには一寸驚くね。 ( 笑声 ) 一つその御感想をという。僕は五高には入学試験を安倍実に幼稚な所があって : 489

7. 夏目漱石全集 別巻

て来たな。 まま、赤シャッと野だとが芸者屋から出て来る所を 長与西洋なんかどうかな。西洋の文学でもやはり時待ち伏せする所がある。二人が出て来たのをやりす ごして、あとを追っかけるが、袂がぶらぶらするん 代で、そういう変化はあるかね。 で卵を入れて置いたのに気がっき、その卵をつかみ 安倍今日は英文学者がいないけれども、メレディス 出して赤シャツにぶつつけると、それがぐしやっと というのは一体どうなんかね。 小宮僕は先生からメレディスを読んで見ろと言われ潰れ、赤シャツは血がたらたら流れ出したように思 って、ひやあッと悲鳴をあげる。あすこがとても面 たが、英語がむずかしいもので、碌に読まなかった。 白いと言ったら、先生が実はあれは僕のオリジナル 然しメレディスという人はやはり文章に凝っていた 人らしいね。 な工夫じゃない。メレディスの小説に馬鈴薯を籠に 安倍メレディスの影響が多いという事を、やはり漱入れてあるいていた男が喧嘩をして、相手にその籠 石のオリジナリティがないという証拠に、誰れかが の馬鈴薯をぶつけるところが書いてあるのを、ああ いうふうに利用したまでである。おもしろいはその 言っていたそうだ。 男があとでその馬鈴薯を一つ一つ拾っては籠の中に 小宮それはしかし、メレディスの真似をしたという 入れる所だと言った。オリジナルではないに違いな わけではない筈だ。「虞美人草ーの中に、甲野さん いが、然しこういう換骨奪胎はオリジナルと言って の日記が出ている。日記を小説の中にはさむのはメ る 、、まど、うまいと思う。 語 レディスもやっていることで、別に不自然なことで 石はないと言っている手紙もあるが、一つ僕が先生か長与それはそうだ。換骨奪胎したことのない文豪と いうのはないだろう。 ら聞いて覚えている事は、「坊っちゃんーのお仕舞 いで、坊っちゃんが生卵を買って両方の袂に入れた安倍僕は夏目さんが記憶力、記憶力と言うより印象 487

8. 夏目漱石全集 別巻

心不乱になってやるという事が、ゲ 1 テにとっては大内僕らはやはりそこを聞きたいな。つまりあれが 学問的方法としてどの位なものか。晩年に先生が文 生活の上で非常に重大な事だった。漱石の生活はや 学論を書くとして、あの方法を適用するか。僕はあ はりゲーテ流の生活だった。 あいうふうにやったら、文学論は出来ないと思うた。 長与つまり漱石という人の精神の働きの一部分が、 文学の方にも行ったんだと思うんだな。だから決し方法論がまちがっていると思う。あまり大スケール て文学だけが全部的な目的でありうるにしては頭の 安倍僕も同感だ。 内容が豊富すぎたんだ。日本人には珍しい。 大内あの「文学論」あれを漱石が晩年においてどの大内そこにゆくと、「文学評論」の方がはるかによく 出来ている。 位に考えていたかということは、僕は面白い問題じ 安倍それはまだ問題が楽だから。 ゃないかと思う。 小宮これは大正四年 ( 一九一五 ) の話なんだけれど大内メソドロジーに変化がある。もしそのメソドロ ジーが完成した時にどうなるかという事が知りたい も、狩野亨吉さんが、京都大学の文学部長をしてい よ 0 て、漱石の所に講義をしに来ないかと言って来てい た。それで漱石はひまがあったら新しい立場から文武者少し死ぬのが早過ぎたね。 学論の講義をしたいと言っていた。漱石はあの「文安倍我々が気分が向かないと文章が書けないという ふうな事を言っていたら、漱石が僕は原稿紙に臨ん 学論」は、非常にスケールの大きい。フランを立てて やった仕事だけれども、中途で壊れてしまった廃墟で筆を取ると、大抵すぐ書けるねと言っていたよ。 にすぎない、是非一度やり直すべきだと考えていた漱石と正宗白鳥とが、原稿の約東が非常に正確だと いうことをきいたことがある。 のです。 504

9. 夏目漱石全集 別巻

たしか 持って来て、ふんと嗅いで見せた。代助は思はず足分も確に是れは死ぬなと思った。そこで、さうかね、 もう死ぬのかね、と上から覗き込む様にして聞いて幻 を真直に踏ん張って、身を後の方へ反らした。 見た。死にますとも、と云ひながら、女はばっちり 「さう傍で嗅いぢや可ない」 まっげ うるほひ と眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包ま 「あら何故」 ひとみ れた中は、只一面に真黒であった。其の真黒な眸の 「何故って理由もないんだが、不可ない」 あざやか 代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位奥に、自分の姿が鮮に浮かんでゐる。 〈自分は透き徹る程深く見える此の黒眼の色沢を眺 地に戻した。 おきらひ めて、是で死ぬのかと思った。それで、ねんごろ 「貴方、此花、御嫌なの ? 」》 ( 第十章 ) に枕の傍ヘロを付けて、死ぬんぢゃなからうね、大 いずれの場合にも百合が喚起する濃密な情緒は、こ の花が男女を結びつける性を象徴することを暗示して丈夫だらうね、と又聞き返した。すると女は黒い眼 を眠さうにた儘、矢張り静かな声で、でも、死ぬ んですもの、仕方がないわと云った。 『夢十夜』の場合には、百合は百年目に姿を変えて逢 いっしん わたし 〈ちゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見え いに来た女そのものの象徴でもある。 あふむき るかいって、そら、そこに、写ってるぢゃありませ 《腕組をして枕元に坐って居ると、仰向に寝た女が、 んかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔 静かな声でう死にますと云ふ。女は長い髪を枕に りんくわくやは を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬ 敷いて、輪廓の柔らかな瓜実顔を其の中に横たへて のかなと思った。 ゐる。真白な頬の底に温かい血の色が程よく差して、 《 : : : 女は静かな調子を一段張り上けて、 脣の色は無論赤い。到底死にさうには見えない。然 「百年待ってゐて下さい」と思ひ切た声で云った。 し女は静かな声で、もう死にますと判体云った。自 、 0 うしろ つ すとは みはっ やつば

10. 夏目漱石全集 別巻

又これからも働く積りた。君は僕の失敗したのを見知れない。でも僕は君に笑われている。そうして僕 や笑いたいんだが、世 は君を笑う事が出来ない。い て笑っている。ーー笑わないたって、要するに笑っ 間から見ると、笑っちや不可ないんだろう』 てると同じ事に帰着するんだから構わない。、、、、 『何笑っても構わない。君が僕を笑う前に、僕は既 君は笑っている。笑っているが、その君は何も為な に自分を笑っているんだから』」 いじゃないか。君は世の中を、有りのままで受け取 る男だ。言葉を換えて云うと、意志を発表させる事以上、「それから」の前半で、どうやら人物の性格 を会話で書き現わす技術まで漱石は進んでゆく。そし の出来ない男だろう。意志がないと云うのは嘘た。 きゅうたん 人間だもの。その証拠には、始終物足りないに違いて後半では急湍の如く小説が奔騰する。そして、代助 ない。僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、そのは気が狂う。 それから「門」、それから「彼岸過迄」「行人」「こ 現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思い 通りになったと云う確証を握らなくっちゃ、生きてころ」となって漱石の小説の術は完成する。「こころ」 いられないね。そこに僕と云うものの存在の価値をは良い小説である。この解説と称する文章の最初に書 認めるんだ。君はただ考えている。考えてるだけだ いた分析と心理、エゴイズム、そのエゴイズムは全く こんりゅう 試から、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立別の世俗的な形になって「道草」で追及されまた「明 の して生きている。この大不調和を忍んでいるところ暗」でも出てくるが、この最後の作で、何らかの解釈 っ の が、既に無形の大失敗じゃないか。何故と云って見が与えられるのであったかも知れない。 説給え。僕のはその不調和を外へ出したまでで、君の 私はこれらの小説のうちで「こころ」と「道草」が 石 は内に押し込んで置くたけの話だから、外面に押し一番良いと思う。かって私はどこかで「道草ーが最も 掛けただけ、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも良いと書いたことがあるが、ちかごろは「こころ」が