ー氏、・ > ・ルーカス氏、・・ミンチン教授、 で共感でぎる性質であったから彼は最後まで心が若 ノーマン・ムーア博士、ジョン・ラック博士などの かった。他人の役に立っことを喜ぶ性分で、自分の 顔が見られた。 該博な知識を利用したい人には誰にで惜しみなく 提供した。他人の弱点にたいしては寛容で、健康だ これがクレイグ先生の訃を報じた『タイムズ』の記 ったころは非常に陽気なすばらしい仲間で、つぎあ って彼くらい楽しい人はいなかった。鋭いユ 1 モア事だった。このような情理を兼ね備えた読み出がある の感覚の持主で、自分が滑稽な立場へ追いこまれる文章に接すると、「西洋の新聞は実にでがある」とい と立ち所に生き生きと反応した。なにしろクレイグう漱石がロンドンへ着いて受けた第一印象が私たちに 氏には注意散漫の傾向があり、しかもその筆蹟が奇もまたよみがえってくる。私は東京大学図書館で『タ 妙に読みづらいときているためにしばしば彼自身がイムズ』のマイクロ・フィルムを読み進んでゆくうち に、漱石がロンドンで体験した文明の隔差の意味をこ コミカルな立場へ追いこまれてしまったのである。 彼の親しい友人は彼と同じような趣味をわかちあうのような死亡記事一つにも追体験する思いがした。い 人々だ 0 たが、しかし彼は誰とでもくつろいで交わま obituary を研究社の『新英和大辞典』に従 0 て「死 生 った。「野蛮倶楽部」には彼ほど人気のある会員は亡記事」と訳したが、しかし日本の新聞の数行でお座 先 ほかになかったと思う。彼は寛大で謙虚な魂の持主なりに片づけてしまう「死亡記事 , とタイムズのヒ = ーマンな記事とを同じ言葉でくくってしまうべきでは 生であったから、卑しさと思いあがり以外は他人を難 一学研の死に際して、 詰することはなかった。レイゲイト墓地で先週土曜ないだろう。考えてみるがいい イ レ ( センチメンタルな型にはまった、あの日本の大新聞 日に行なわれた葬式に参列した知友の中には・・ 特有のお安い義憤ではなく ) 、いま読んだような正確 ー氏、シドニ ア・フラハム博士、
てあり、しかロンドンで池田菊苗のような化学者と 十一月十三日水学資来ル文部、中央金庫へ受親しくつきあって学問論をたたかわしたとなれば、英 取ヲ出ス。 文学を文学として享受するたけでなく科学的研究の対 象にしなければならぬとする意欲は強まっていたこと というのであった。そして十一か月の間に四十二回も だろう。漱石にとって English Literature はいままで 記入された Craig という横文字の名前ももうそれきり はいってみれば英「文学」だったが、漱石はそれを英 ばったり消えてしまった。 文「学」と見做して一つの学術論文にまとめあげよう ここでクレイグ先生その人の話にはいる前に、漱石と決心をしたのだった。そしてそれによって自己の英 のイギリス留学の第一年目と第二年目の質の差を多少国留学の証しを立てようと思ったのだった。もっとも 考えてみよう。実はこれは漱石におけるイギリス嫌いそのように意は決したものの、一体どのようにしてこ の心理の発生とも無縁ではない事柄なのである。漱石の外国文学の研究に手を着けてよいかは皆目見当がっ 自身は留学第一年を「検東なき読書法」のうちに経過かなかった。それで明治三十四年九月にはーー・それは して、時日の逼れるのに茫然自失したという。留学第もうそろそろクレイグ先生の家へ通うのをやめようと 一年が経過した明治三十四年末は彼が満三十四歳の年思っていた時期だが、ーー寺田寅彦へ宛てて「学問をや である。国家から選ばれて英国へ派遣された官費留学るならコスモポリタンのものに限り候。 : : : 僕も何か 生である夏目金之助は、漠然とした読書といった受身科学がやり度なった」という普遍性のある自然科学研 の努力だけでなく、自分で能動的になにか研究をま究への憧れなどを洩らす破目におちいったのだろう。 とめなければならぬ、という義務感に責められていたそれで英文学研究についても「文学とは如何なるもの に相違ない。漱石はもと恚と自然科学的な頭脳の持主ぞーという問題を自分で自分に強引に課して、半ば自 せま
て、漱石は次のような手紙を書いている。 「先日は独乙着の御手紙正に拝受仕候愈御清適御勉 学御模様結構の事に存候国家の為め御奮励有之度切 希望仕候次に小生当四月より当地高等学校に転任矢 張英語の教授に其日 / \ をくらし居候不相変御無事 に御目出度のんきに御座候 : : : 独身に候へば疾に避 暑とか何とか名をつけて逐電可致筈の処当六月より 兼て御吹聴申上置候女房附と相成申候へば御荷物携 明治三十年一月の雑誌『文芸倶楽部』に次のような 帯で処々ぶらっくも何となく厄介なるのみならす随 大塚楠緒子の歌がある。 分入費倒れの物品に候へば釜中の苦を忍んでぐずぐ 君まさずなりにし頃とながむれば ず到居候御笑ひ被下度候小生は東京を出てより松山 落葉がくれに桜散るなり 松山より熊本と漸々西の方へ左遷致す様な事に被存 これを漱石が読んで、「お安くない歌だ。大方大塚候へば向後は硫球から台湾へでも参る事かと我なが が留守なんでこんな歌が出来たのだらうが、大塚も仕ら可笑しく : : : 」 ( 明治二九・七・二八 ) 合せな男た」と語ったというエ。ヒソード が、『漱石の この手紙には妙になにか捨てばちな気分が流れてい 思ひ出』にしるされてある。東京帝大に日本人としてる。国家有用の人物として着々業績をあけながら、才 始めて美学講座を担当した大塚保治は、当時新鋭の学色兼備の夫人をも得た友人の、その明るい境涯にひき 者として、結婚まもない楠縉子を残し、単身ドイツ留くらべ、西へ西へと流浪しながら「物品」のごとぎ妻 学中であった。大学以来の友人であるその保治に宛てを得た、おのれの境をかえりみて、三十歳の漱石は 漱石と楠緒子 中山和子 258
漱石が恋愛していることを暗示する証拠がはじめて あらわれるのは、明治二十三年 ( 一八九〇 ) 八月九日 た上で、娘をやるのよ、 : 、、 。ししカそんなに欲しいんな附の正岡子規にあてた手紙である。これは「井上眼利 あたま ら、頭を下げて貰ひに来るがいいといふふうに言はで見初めた」娘に出逢うよりおよそ一年前のことであ おれ せます。そこで夏目も、俺も男だ、さうのしかかつり、当時漱石は東大の英文科に、子規は国文科にそれ て来るのなら、こっちも意地づくで頭を下げてまでぞれ進学したばかりであった。彼は帰省して松山で病 呉れとは言はぬといったあんばいで、それで一ト思を養っている子規に告白している。 ひに東京がいやになって松山へ行く気になったのだ 〈此頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考 とも言はれてをります。・ : ・ : ともかく松山へ行って へ直してもいやで / \ 立ち切れす去りとて自殺する しふねん もまだその母親が執念深く廻し者をやって、あとを 程の勇気もなきは矢張り人間らしき所が幾分かある 追っかけさしたと自分では信じてゐたやうです〉 せいならんか : : : おのれの家に寐て暮す果報な身分 ( 『漱石の思ひ出』一「松山行」 ) でありながら定業五十年の旅路をまだ半分も通りこ これは従来漱石の初恋として知られている事件であ さす既に息竭き候段貴君の手前はづかしく吾ながら り、「恋人」だとされている「銀杏返しにたけながを情なき奴と思へどこれ misantl 】 ropic 病なれば是非 かけた」娘は多くの研究家によってその実在を信じら もなしいくら平等無差別と考へても無差別でないか れている。それにもかかわらずなせこの娘が英詩の女 らおかしい = 守 is a point between two infinities と ではあり得ず、登世こそがそうでなければならないか。 あきらめてもあきらめられないから仕方ない : 个 : ・ : 是も心といふ正体の知れぬ奴が五尺の身に蟄 居する故と思へば悪らしく皮肉の間に潜むや骨髄の 中に隠る、やと色々詮索すれども今に手掛りしれず 只熕悩の焔熾にして甘露の法雨待てど来らす慾海 198
「続々篇」 ( ) である。これは、「幻影の盾」稿了のあ実業家夫人が登場し、苦沙弥・迷亭の徹底的な揶揄の と、引きつづいて二月二十二日から三月五日までの中対象になることである。この鼻の偉大な夫人は、苦沙 に書き上げられたのであって、その執筆が、「幻影弥にとっては最も厭うべき、俗世間的なものの代表と の盾」稿了後の、漱石の如何なる心境の中に行なわれして登場してくるのであって、漱石が実生活の上で特 たかをうかがうべき資料はない。ただ、「続々篇」が、 に被害を受けることの多かった幾人かの人物を実際に 「曾呂崎天然居士」なる人物を悼む文章を案ずる苦沙思い浮かべて書かれた人物であったかも知れない。そ 弥の姿から書き起されているのに幾許かの感慨が残るう想像しうる程、この人物の俗物的性格の描写は徹底 のである。この人物は、漱石伝記で著名な如く、漱石しているのである。殊に、この夫人が、寒月の金田令 若年の友人で、彼に強い印象を残して早逝した米山保嬢への恋情を、苦沙弥家の塀の外で立聞きする車屋の 三郎 ( 同じく天然居士と号した ) を思い浮かべて作らお神さんや、二絃琴の師匠たちの探偵によって知った れた人物であることは明らかで、彼は実際に、米山をと聞いた時に、苦沙弥は怒り心頭に発するのであるが、 悼んた「空に消ゆる鐸のひゞきや春の塔」という句をこれは有名な、漱石の「探偵ぎらい」の心情を吐露し 残しているのである。各種の漱石伝によれば、「空間 たものである。天然居士の思い出や、寒月の「首縊り 論」を研究し、万事につけスケールの野放図に大きい の力学」の談論などの奇談が前置となってはいるが、 人物であったことが知られる人物であって、その思い 総じて「続々篇」の『猫』の性格は、世間に対する 出は、縹緲たる伝説的作品を書くのと気分的につなが「道義的癇癪」の激発に特色があり、最も世間的なも っていたのだとも考えられる。 のとしての俗物金田鼻子の描写は、全篇中でも白眉と しかし「続々篇」で、中心をなし、しか新しい要云うべく、精彩のあるものとなっている。 素として見られるのは、「金田鼻子」なる権柄ずくの 「幻影の盾」の「縹緲たるー伝説的雰囲気を背景とし
帆、眺めやり眺めつくし、そのタ、みたれつる我思が婚礼という日の夕暮に、幼馴染の少女に初めて恋を うちあけて、切なく別れるという内容のものである。 はさはれさすがに若く輝きたるものなりつるを、あ あそれ将た幻より果敢なく月日と共に、かなたへ葬最後に妻となる女の車の音が近づき、男が「さらばゅ かましはなしてよ / 悪魔の如くなやましゝ」などと急 り去られ、我春はとこしへに逝きしかな」 何枚かある昔の着物の、それぞれにまつわる思い出に冷淡な態度をとるのは興ざめで、抒情詩としての出 来ばえはよくない。 をつづった優しい随想であるが、「彼の松原」はどう やら興津をさしているかと思われる。「苦しく煩はし「恋都も打ち捨てて / 思はぬ妻とたびまくら」とい う一節から、「ひと夜」の主人公は松山落ちして鏡子を く」乱れた思いも、さすがに「若く輝ーいていたとい う青春の追憶が興津の夏の保治との恋愛であるとみて娶 0 た漱石であると小坂氏はいうけれども、詩全体の さしつかえなさそうである。楠緒子は十年前のその夏構想から見れば、むしろ漱石を置いて先に保治と結婚 を、「運命の手にもてあそばれ , という感慨においてした楠緒子のひそかな心残りを、かりに男に身を変え 受けとめている。かえりみて「幻より果敢なく」、わてーー藤村が女に身を変えたようにーーー歌 0 たと解釈 が青春の永久に去 0 たことを思う作者の背後には、あしたほうが自然ではないか。主人公が幼馴染の少女と 添われぬ理由があいまい不明であり、そこに葛藤のな きらかに悔恨をひめた寂寥が流れている。 「わが袖」は明治 = 一十七年、楠緒子三十歳の作であるいのがものたりぬけれども、これはのちの楠緒子の作 品にも一貫した弱点で、その意味はまたのちに述。へる。 子けれども、夫保治の留学中、一一三歳の作者が書いた「い この「ひと夜」の書かれた七年あと、帰朝後の漱石 楠つまで草」のなかに、すでに三十歳の楠緒子の不安が いちゃ が書いた「一夜」 ( 『中央公論』明三八・九 ) は、一見 石きざしていたのだ、といえないことないであろう。 ・三 ) は、今晩相似た表題をもっているけれども、まったく主題のこ 新体詩「ひと夜」 ( 『韻文学』明三一 271
クリ一アイ・ / ン・ア・フレウェーテイウ における統一感がそれである。そしてそこに自然科学析する非鑑賞的、または批評的、両者の中て クリテコーア・フレシェー 的に処理し得ない芸術・文芸鑑賞・批判の独自性が存品の印象に出発してそれを分析し説明する批評的鑑 ティヴ 在するのである。もちろんこの種の哲学的常識は漱石賞、とした。第一は批評というよりは玩味であり、他 の先刻承知していたところであろうが、あらためて間 人の趣味をみちびくという意味ではもっとも幼穉な態 題にせざるを得なくなったのは、研究者の域から脱し度である。第二は好悪を度外に置いた純然たる科学的 て、実作者としての経験を加えるに至ったのち、我が方法で価値意識をともなわない。第三は出立地は感情 作品の公正に理解されないうらみをも踏まえての、実だが、その後の手つづきは科学的である。文学は科学 感的な発言であったに相違ない。 でないが、文学の批評または歴史は、科学的である。 「好悪と優劣」とは見方によってはこの論の延長上にそして彼は第三の方法をもって十八世紀英文学を評価 来、さらにそれを深化したものである。作物に対するし、優劣を断じたのであった。 好悪の表白という限りでは主観の印象にとどまるが、 この漱石のとった態度は科学的な批評学の樹立を前 その優劣をいう時は作物そのものに付着した客観的判方ににらんだ漱石らしいものであるが、それが唯一正 定となる。後者はすなわち一個の好悪を拡大して、こ当な立脚地であるといい切れない。彼は文学の批評 れをできるだけ普遍的ならしめようとする努力である。を科学であると疑いもなく断定しているが、彼に いいかえれば自己の主観を一度客観に翻訳して、他人先立って、アナトール・フランスやジュール・ルメー トルによって唱道された印象批評は、芸術作品との出 に自己同様の好悪を把捉せしめる方使に外ならない。 先の「文学評論」では、漱石は作品に対する態度を会いによって生じた個人的な印象や効果をそのまま記 ア・フレシェーティヴ 三つに分けて、自己の好尚を直接に表現する鑑賞的、述したものであって、アカデミックな講壇批評家・フリ 好尚のあるないに拘わらず、構造、組織、形状等を分ュンチェールなどの裁断批評に対立し、科学的業績と ノ 20
るに経験的認識論であって、実用主義的であり、先験や種々の仮定は、みんな背に腹は代へられぬ切なさ 的論理体系にもとづくドイツ美学とは対蹠的である。 の余りから割り出した嘘であります。さうして嘘か ( 注 ) ジェームズのいわゆる「硬い心」に対する「軟い心」 ら出た真実であります。如何に此嘘が便宜であるか の対立である。漱石は「西洋人の唱へ出した美とか美は、何年となく嘘をつき習った、末世澆季の今日で 学とか云ふものの為めに我々は大に迷惑します」とい は、私も此嘘を真実と思ひ、あなた方も此嘘を真実 って、先験的価値としての美の形而上的実在性や美の と思って、誰も怪しむものもなく疑ふものもなく、 理念を演繹して美および芸術の諸範疇におよぶ哲学的 公々然憚る所なく、仮定を実在と認識して嬉しがっ な美学を否定している。そしてあくまで具体的意識の て居るのでも分ります。貧して鈍すとも、窮すれば 事実に出発し、内省的方法によって、意識の分化作用濫すとも申して、生活難に追はれるとみんなから堕 から、多元的な理想が産み出される過程を説く。彼に 落して参ります。要するに生活上の利害から割り出 よれば、理想とはどう生きるのがもっともよいかとの した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じ位な まこと 問題にあたえた答案に外ならない。時間・空間という 実は含んで居ります。 認識上の大問題にしても、カントのいうように直観の このように言う根本には、真理は「うまく生きて行 先験的形式などではなく、実用上の便宜から産み出し かうーとの一念にうながされたものだという認識があ た仮定にすぎない。 る。これに対して、真理は人生に有用なる故に真なの 空間があるとしないと生活上不便だと思ふと、すではなく、真なるが故に人生に有用なのだという立場 ぐ空間を捏造して仕舞ふ。時間がないと不都合だと から、あまりに簡単明瞭な「非常に安直な実際主義的 ( 生Ⅱ ) 勘づくと、よろしい夫ちや時間を製造してやらうと、な価値哲学観」との批評は当然おこり得よう。しかし すぐ時間を製造して仕舞ひます。だから色々な抽象プラグマティズムに即していえば、このような非難は まこと
え子の中に親愛の感情を呼びおこしたが、その感情は 後年しばしば堅固な友情へと発展していった」と書い 日本人の英語教師には、いまでも多分にそうなのだ た。漱石のクレイグ先生にたいする追憶は、友情にまろうが喋らせると下手な割には文章の結構上手な人が ではいっていないが、親愛の情が底に流れていること いる。漱石はけっして話下手ではなかったが英文は は誰しも否定するまい。 A feeling 。 ( 蟲円 ( 一。 n は漱石 ( もともと漢文で鍛えられていた関係もあって ) なか とも の心中にも火を点されたのたった。そのような感情は なか達意だった。それを読んでクレイグも急に漱石を おそらく二人が詩を論じていた間に生まれたのだろう。 同輩扱いにして議論を吹き掛けたのだろう。『クレイ 漱石は二月の最後の火曜日にクレイグ先生からシェリ グ先生』の中に面白おかしく書いてあるワトソン Wil ・ シェリーにつ liam Watson ( 一八五八 ー協会の刊行物を二冊借りて帰ったが、 ー一九三五 ) とシェリーの比 いて英語で一文を草すると、三月五日火曜日にはそれ較論なぞもしかするとこの前後に話題にのぼったこと をもってクレイグ氏の宅へ出かけた。日記にはこう出かしれない。 ている。 いっか自分の前でワトソンの詩を読んで、是はシ Craig ニ至リ謝礼ス。先生余ノ文章ヲ観テ大変賞 エレーに似た所があると云ふ人と、全く違ってゐる 讃シタリ。然シ議論其物ニハ平カナラザルガ如ク、 と云ふ人とあるが、君はどう思ふと聞かれた。どう 少々余ニ議論ヲ吹キカケタリ。 Shelley Sæiety ノ 思ふたって、自分には西洋の詩が、先づ眠に訴へて、 まる のち Publi(Y1tion ノ内 VV. Rossetti ノ Study ミ Pro ・ しかる後耳を通過しなければ丸で分らないのである。 ミミ e U ミヲ借テ帰ル。帰途 Knight ノ沙 そこで好い加減な挨拶をした。シェレーに似てゐる 翁集其他合シテ 50 円許ノ書籍ヲ買フ。 方だったか、似てゐない方だったか、今では忘れて
いる。彼が単純に見た「あの色彩と ( 女が彼を見た時「椎の木蔭の下の、黒い髪の中で際立って光ってゐ」 の ) あの眼付が矛盾」であるように、「大学の空気とる薔薇は、名古屋の暗い旅館で光った梅と非常に似て あの女が」確かに矛盾であるが、あの眼付の「女を見いるが、三四郎はその両方から逃げる。 美禰子は今一度彼の目の前に白い香しいものを顕わ て、汽車の女を思ひ出したの」は矛盾ではない。が、 「この田舎出の青年には、几て解らなかった。たヾ何にする。それは彼の世界から出て人妻になることに決 だか矛盾であった」 った後のことである。その時彼は、ヘリオトロープの 女は匂いを嗅いでいた白い花を三四郎の前に落してするどい香りが溢れるハンケチから、「思はず顔を後 行くが、彼が拾って嗅いで見ると匂いは別にない。強へ引い」てすぐ「結婚なさるさうですね」と言う。あ い匂いを放っと思われる花を、女は体に付けたまま持たかも不貞をたしなめられたかのように「美子は白 って行ってしまう。頭に「真白な薔薇を一つ插してゐ い手帛を袂へ落し」て「われは我が愆を知る。我が罪 る。其薔薇が椎の木蔭の下の、黒い髪の中で際立っては常に我が前にあり」と呟く。 光ってゐた」 この告白めいたセリフの意味は勿論この一瞬の動作 に限られていない。美子は一貫して三四郎に自分を 女の二つの白い花ーーー匂いを放たない、種別が明記 されていない花と、薔薇と明記されているので匂いを絵としてでなく、女として見て貰おうとする。そのこ とを夫になる人に対して「罪」と感じるのである。 放っと思われる花とが何を意味するのか。美子は、 第三章で会う美子は、又鮮かな色と大学の森の色 「剣呑でない」「森の女ーに見惚れている三四郎の前に、 その美と魅力を象徴するきれいな花を落して行くが、 とを調和した絵のようである。そして「透明な空気の カンヴス 三本当のエロチックな女はただ見惚れている人の為のも画布の中に暗く描かれた女の影」が「まともに男を のではない。彼は男らしく追求しなければならない。 見」ると眼は急に「活きてゐる」同時に女の白い歯が 397