と言ってよいだろう。作者は藤尾を評して「詩趣はあはるかに困難な現実的諸条件の中でそれを果たさねば る。道義はない」 ( 十 (l) と言う。「草枕」で那美さんならない。しかし、それこそ漱石の野心だったとみる こともできる。繰り返して言えば、喜劇の時代に悲劇 にこの二つを画工が見いだすときがあるとすれば、も ちろんそれは駅頭において彼女の表情に憐れが浮かんを成立させること、『虞美人草』における漱石の睹け だ瞬間でなければなるまい。そしてそのとき、画工のはそれを措いては考えられない。 胸中の絵は完成し、その非人情の美学も揺るがぬもの となる。そうだとすれば、藤尾にもまたこの詩趣と道 義の一致しうる瞬間はあってよいので、事実、作者は『虞美人草』を藤尾、甲野さんの線で解釈して行くこ 彼女の死を叙して次のようにしるす。「凡てが美くしとは、もちろん重要ではあ 0 ても、それですべてが尽 野さんの固有の問題への留意を忘 きるのではない。小 。美くしいもの、なかに横はる人の顔も美くしい。 とこしな れるべきではないだろう。この作品の主要な舞台が、 驕る眼は長へに閉ちた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、 額は、黒髪は、天女の如く美くしい」 ( 十九 ) 。もちろ二十世紀の文明世界そのものであることは明らかだが、 小野さんは実は二つの世界を持っていた。彼は「暗い んこれは作者の判断であって、この美しいという語の 反復には、もはや道義の欠如という留保は必要でない。所に生れた」 ( 四 ) 。水底の藻であった。私生児かし そして作者のかような判断に代わって、甲野さんの認れぬという設定が何を意味するのか分明ではないが、 識が表明される。それが先ほどからこだわってきた彼他の主要な青年男女には、甲野さんのようにすでに父 が死亡している場合でも、すべて父が重要な役割を担 時の悲劇の哲学であることは言うまでもないだろう。だ っていることを考えれば、父の基軸の欠落は小野さん昭 劇から確かに重心は甲野さんの認識にかかってくると言 ってよいのだ。もっとも、彼は「草枕」の画工よりもの役割にとって必至のものかもしれぬ。作者は言う。
う定義している。「世に住むこと二十年にして、住 そして終りに近い所で、三四郎が広田先生からギリ シャの劇場について、同じように細いことを教えられむに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏 ると三四郎は「へえへえと感心」 ( 十 (l) するばかりの如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。三 十の今日は」 ( 一 ) である。 しかし三十はどうでもよい。なぜなら三四郎は二十 三四郎自身が第六章で考える通り、「自分は田舎か ら出て大学へ這入った許りである。学問といふ学問も五年の段階にも到っていないからである。「日のあた なければ、見識と云ふ見識もない」先生達の衒学をる所には屹度影がさす」、「明暗」の世の中が彼の目の 聞いて「大切に筆記帳に記し」たり「へえへえと感心前で動いているのに、その世の中に住んでいる人間は 彼の目には「白い着物を着た人と、黒い着物を着た し」たりするほど、見識がない。 主人公が殆ど変らないにして若者の小説なので劇人」 (ll) としか映らない。 しかし人間は完全に明で暗でもなく、「ある状況 的な事件を期待しても当然であろう。強烈な死に様を 目撃する場面は確にあるが、三四郎はすぐ忘れてしまの下に置かれた人間は、反対の方向に働き得る能力と う。「三四郎は切実に生死の問題を考へた事のない男権利とを有してゐる」 ( 九 ) 複雑な存在である。 である。考へるには青春の血があまりに暖か過ぎる」 三四郎はこの簡単な事実に目覚めていない二十三歳 の青年である。しかし広田先生が夢の中で「凡て宇宙 主人公が変らないのと劇的な事件が殆どないのとのの法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のも 郎二つの点で、『三四郎』は青春小説として非常に珍らのは必ず変る」 ( 十一 ) と考える通りに三四郎、、 しい作品と云えよう。 つかは変らなければならない。最後の第十三章で三四 漱石は『草枕』で三十歳までの人生の段階をザッと 郎がすでに数え年の二十三歳から二十四歳になってい ( 十 ) 385
構造物と見なければ承知しないという風潮が起こった裸たという正直があった。従って彼れが自分の講義の ので、そこに甚だしい偏執的単調の現象を見ることに聴問者に対して「余は諸君が外国文学を研究する際に なった。この間に在って漱石の十八世紀英国社会の描成るべく自己に誠実ならんことを希望すると同時に余 写は、著述後四十年の今日も、依然として充分の文学も出来得る限りは真面目に出でたいと思ふ」といし 的社会学的価値を保っている。 西洋文学を評するに、自分の感じでもってこれをしな いのは「甚た臆病なのか又は不熱心である」といった ベルンのは ( 「文芸評論」等言 ) 当然である。 十九世紀の終りマルクス主義者エドアルト・ また、彼れは学習院生徒に向ってした講演 ( 「私の シュタインがマルクシズムに納得し難い節が出来たと いって、いわゆる修正主義を唱え、ドイツ社会民主党個人主義しの中でも、文学作品の鑑賞について西洋 内に一波瀾をまき起こしたことがある。当時ある経済の学者がどういおうとも、それは参考にならないこと 引底受売をすべ なオしか、自分にそう思えなければ、ー 学者はこれを評して、ベルンシュタインの行為は、智よよ、 きものではない。「世界に共通な正直という徳義を重 的に重要というよりは寧ろ道徳的に勇敢である、とい った。蓋しマルクス正教主義の権威の下で、敢て腑にんずる点から見ても」自分は自分の意見を曲げてはな しナここに漱石の面目がある。 落ちないと公言したそのことを称したのである。このらぬ、と、つこ。 評語の一半は移して漱石の文学論に適用することが出「モラル・バックポーン」という言葉は、漱石が文学 来る。彼れの文学論は、その分析的理論において特色博士の学位を辞退したとき、旧師マ 1 ドックがそれを 嗽の見るべきものがあること前述の通りである。しかしきいて慶賀の意を表した手紙の中に使われたものであ 彼れに在っては、その凡ての理論の前に、人真似はしる。この言葉は適切である。漱石はたしかに道徳的背 ないという潔癖があった。お伽話にある、裸の王様を骨を持つ人であった。作品の上にも、新聞社その他に
年 慶応三年 ( 一八六七 ) 一一月九日 ( 旧暦一月五日 ) 、江戸牛込馬場下横町 ( 現在、新 宿区喜久井町一番地 ) に生まれた。父は夏目小兵衛直克 ( 文 化十四年生で当時五十歳 ) 、母は千枝 ( 文政九年生で当時四 十一歳 ) 、その五男三女の末子であった。本名金之助 ( 「金」 は、庚申の呪いを避ける文字という ) 。父の小兵衛直克は江 戸町奉行所直属の名主で嘉永五年に跡目相続をして以来十余 町を支配していた。母千枝は、四谷大番町 ( 現在、新宿区大 京町 ) の質商鍵屋福田庄兵衛の三女で、長くさる大名の奥女 中をつとめた後、下谷の質屋に嫁いだが不縁となり、やがて 久 長姉鶴の婿高橋長左衛門の養女として直克の後妻に入った。 千枝コ 金之助の出生は祝福されず、生後すぐ四谷の古道具屋 ( 一説 福田庄兵衛 に源兵衛村の八百屋ともいう ) に里子に出されたが、毎晩大 通りの夜店に籠に入れられたまま放置されていたのを見かね中根重一 た姉ふさの手で生家に連れ戻されたという ( 「硝子戸の中」 ) 。 日 夏目家系図 夏目四兵衛直情ーーー四兵衛直晴ーー小兵衛直克ーーー直道ーー ( 養子 ) ーー小兵衛直基 ( 養子 ) 斎藤勘四郎 こと一公一五ー 高田庄吉夫人 ( 大助 ) ノノ ー栄之助 ( 一椣 -) ( 直則 ) ー和三郎 ( を一 ( 直 ) 一公四ー ーちか一〈会 ー金之助 ( 一〈套ー ) 愛子 ( 一¯) ー小兵衛直克 をー一リ 鏡子 一〈究ー松岡譲 夫人 509
す」と書き、松山ことばの修正を頼んだりしているのんを置いたかは明らかではないが、ここで注意してお で「坊っちゃん」であることはたしかである。「もうきたいのは、こういう 街鉄だからこそ、そこで無事平 山を二つ三つ書けば千秋楽になります」とか「もしう穏に暮らしているらしい坊っちゃんという存在は、ま まく自然に大尾に至れば名作ーといった表現からするすます死んでいるとロえるということである。死ぬこ と、この末尾の部分はすでに着想されていたようであとによって何が可能か。 る 0 それまでの坊っちゃんが死ぬことによって「東京で ところで、この年三月二日、街鉄 ( 東京市街鉄道株清とうちを持つ」ことは実現する。「清の事を話すの 式会社 ) をふくむ東京市の三電鉄が三社共通五銭均一を忘れて居た」と末尾で切り出しているが、忘れてい の運賃値上げの中請を東京府知事・警視総監に出した たどころかこれこそ作者は結びに置きたかったのであ ことから、三月十五日、値上げ反対の東京市民大会がる。「涙をぼた / 、と落した」清、「おれも余り嬉しか 開催され、近衛歩兵一個小隊、騎馬巡査百五十余名、 ったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを 巡査四五百名も出る騒ぎとなった。群衆の襲撃目標と持つんだ」と言う坊っちゃん、さきに引いた末尾の前 なったのは主として街鉄であり、会社はむろんのこと半部分は喜びであるが、後半部分で一挙に清を死にひ 街鉄電車は投石を受け、包囲され、ついに夜間運転休き落とすことで、この末尾全体に ( ひいては作品全体 論止に至った ( 三月十六日「東京朝日新聞」 ) 。この新聞に ) 深い哀切感をにじみ出させている。 報道の翌十七日に前掲滝田樗蔭宛書簡を漱石は書いて それにして、なぜ作者は清を死なせたのだろうか。 ん ゃいるのであり、末尾にかかる直前の二十三日には、上坊っちゃんの正直・善をふりかざしての活躍、清との 坊京後の坊っちゃんを街鉄の技手にする構想はきまって深い愛情を中心とするこの明かるいユーモア小説 ( と いたと言える。こうした騒然たる街鉄になぜ坊っちや見られている ) にあっては、清と坊っちゃんが東京で
けち というのではいかにも自分が吝嗇に見えてみつともな抔と催促される事がある。 いという虚栄心が働いたからか、作中では報酬を一回 七シリングに値上げしてしまった。この先生と生徒の 「多過ぎればもっと負けても好い」などというビジネ 金のやり取りは日本風でなくって面白、 し。いま会話をスの台詞は日本の教師の口からはそう気軽に出てこな 括弧に入れて再現してみよう。 い言葉だろう。漱石の日記を見ると三月十九日火曜日 にはもう順序が狂って謝礼を月半ばに払わせられてい 始めて逢った時、「報酬は」と街しナ 、こら「左うさる。四月十六日火曜日の日記は作品中に出てくるクレ ンルリング な」と一寸窓の外を見て、「一回七志ぢやどうだ イグ先生の面影をすでに髣髴させるものがある。 らう。多過ぎればもっと負けても好い」と云はれた。 シルリング それで自分は一回七志の割で月末に全額を払ふ事 Craig 氏ニ至ル、一磅ヲ払フ。同氏曰ク、「英国人 にしてゐたが、時によると不意に先生から催促を受 ハ金バカリ欲シガッテ居テ困ル、己レモ少シ ( u 「つ ける事があった。「君、少し金が入るから払って行 デモシテ金ヲトラネパナラヌ。」 など って呉れんか」抔と云はれる。自分は洋袴の隠しか ら金貨を出して、むき出しに「へえ」と云って渡す漱石も裕福などといえた身分ではなかったから一人 と、先生は「やあ済まん」と受取りながら、例の消でやきもきと金の計算をしていた。五月二十一日火曜 てのひら 極的な手を拡けて、一寸掌の上で眺めた儘、やが 日の日記にはこう出ている。 て是れを洋袴の隠しへ収められる。困る事には先生 朝洋服屋ノ見本来ル。 Craig 氏ニ行ク、壱磅フ払 決して釣を渡さない。余分を来月へ繰り越さうとす フ、次回迄ノ分ナリ ると、次の週に又、「ちょっと書物を買ひたいから」 かっこ ズボン なと
( 0 pursue pleasure with 一】 oce 一】 8. Nor is he even 先生はこう仰一一一一口った 0 for a moment conscience stricken being ( 8 「 efined 「意識が総てではない。意識が減亡しても、俺という and civilized for that. He is a doomed child, never ものは存在する。俺の魂は永久の生命を持っている。 だから、死は只意識の減亡で、魂がいよ / 絶対境に realising the ho ロ or and misery his doom. An ltalian 一 ( is that has written the book. 「 as 入る目出度い状態である」 he canscious, when ノ 0 ( e 一 ( 》 0 【 the effect wrought 私は先生のこのお詞を思出しながら、「南無阿弥陀 upon him, by the climate, the art, the society, and the so-called civilizntion Of his own ountry 7 仏ーと小さく書いた沢山な紙片に蔽われた、先生の御 それから、先生は、ふと、こんなことを仰言った。骸に最後のお別れをした。あの時の先生の御顔は、実 「シェクス。ヒーアでも、近松でも、黙阿弥でも、そのに、気高かった。奥さんが「さあ、よく御覧なさい。 、顔しているわね」と、御自身は涙で赤く脹れた 時代の気に入るように書いた。言わば、何の目的もな く、只々。 ( ンを得るために書いた。だから、その作に顔をそむけながら、私等に先生の御顔を傾けて下すっ は何んとなく嫌味がない。そして、どこかに味がある。た、あの時ほど死ということが怖ろしく思えたことは 時代を超越して、吾が作は今後何年立ったら再版されなかった。平常の先生を思い、あのような美しい死顔 を見るにつけ、私は死というものを懐しくも思った。 ることを欲すと遺言して死んだ人も西洋にはあるそう なが、そ ういうものは、どこかに、嫌な所があるね」 こう言っては悪いか知れぬが、先生は、私等が死に 、お手本をお示しになったよう 出会う時のために、いし 十一月ニ十六日 な気がした。そして、偉大なる、ずばぬけたる作品を 今夜、又、この前の夜にあったような話題が出た。 沢山残し、平和な霊魂の世界に対して、非常に強い信
明治八年になった。浅草永久町に白井かっ子 ( お婆まって、狂気のようになって老人に食ってかかった。 さんの本名で小説にはお藤と出ている ) と言う後家さそれでなくてさえ吝嗇で嫉妬屋である女房には、内々 んがあった。かっ子は或る神官の娘で一度某と言う旗愛相のつきかかっていた老人はこの時はひどく怒った。 本へ嫁入ったが、死別して娘のれん子と二人で暮してその結果別れ話があった。慾にいているやす子は手 いる金持後家であった。この人が浅草に地面を買いた切金を二百円老人からとるが否や、金之助のことなど い志望で知合に周旋を頼んだ。頼まれた人がまたそう は何とも思わないで、さっさと実家へ帰ってしまった。 言うことに案内な塩原老人に頼んだ。その用件である それは明治九年であった。老人は浅草の戸長をやめ わざわざ 日老人は態々永久町へかっ子を訪ねて行った。老人はて、下谷西町の貸家へ婆やを一人たのんで住み込んだ。 地面よりは金で繰り廻す方が利益であることを説いた何しろ手不足ではあるし、また自分の手につけて置く 末に、かっ子から五百円と言う金を預った。浅草の戸と、金之助の我儘がいよいよ増長するので、一時金之 長で人間がたしかだと言うのでかっ子はそれに信頼し助を夏目へ預けることにした。食料費や菓子代やその たのであった。 他一切の費用を老人が出したのは勿論であった。 明治十一年の暮に、上野広小路の戸長をつとめてい 老人はその金の出所を、嫉妬ぶかい女房のやす子に 一三ロ る いい加減ごまかして知らして置いた。老人は金の一件た池田円幸と言う人が、老人に対って例の白井かっ子 」一でちょい / \ かっ子を訪ねて行った。しかし両人の間を後妻に迎えることを頻りにすすめた。老人はそれで には恋愛などの成立つほど親しみが加はっていなかっ はと言ってかっ子を貰った。かっ子は三十一の未だ水 モ のた。するといっともなくそのことが世間のロに立った。 水しい中年増で、一寸評判の立ったほど意気な女であ っこ 0 道浅草の戸長さんと白井の後家さんと怪しいと、そんな ことを言いはじめた。やす子はもうそうだに極めてし 老人が西町の四番地に立派な自分の邸宅を新築した イ 49
Craig 氏ニ至ル 漱石が物足らなく思ったのは当然のことで、大学へ通 うのをやめたことに漱石の自閉症的な傾向を見て取る という言葉である。それはあるいは漱石が謝礼を払う 解釈は、おそらく過剰解釈というべきだろう。クレイ グ先生の私宅でならば、クレイグ氏たけでなく日本人関係で毎回きちんと記入した心覚えのようなものだっ 夏目金之助にも英語で自己表現をする機会が与えられたのかもしれないが、とにかく火曜日ごとに市中のク レイグ氏の許へ通ったことが、漱石の留学生活の第一 ているのだから、この方が授業としても余程効率が高 いわけである。それにこのように私的に教師につくこ年に規則性のあるリズムをつけたことは間違いない。 とは英国の名門校の tuto 「倒度の伝統にも即しているそのお蔭だろうか、漱石の精神状態もロンドン滞在第 のだ。夏目漱石は明治三十一一一年十一月二十二日クレイ一年は比較的良好だったようである。漱石は僅かにク レイグ先生を通してではあったが外界とも接触を保つ グと面会してから、火曜日ごとにきちんきちんと実に 真面目にべイカー街へ通っている。「私宅教師の方へていたし、英文学の世界とも人間を介してーー留学第 は約一年程通ひたりと記憶す」と『文学論』の序にあ二年のようにもつばら書籍を介してというのではなく ーー交際していたからである。それが明治三十四年十 るが、漱石が最後に借りていた本を返しにクレイグ氏 の家へ行 0 たのが明治三十四年十月十五日火曜たから、月、クレイグ氏の許〈行かなくなるとこの孤独な中年 藤実質的には十一か月足らずのお付合いだ 0 た。その間の留学生はにわかに自閉的傾向を深めた。漱石のもと 齪漱石は復活祭の休みや夏休みの間も毎週欠かさずクレもと疎らであった日記帳の記入はさらに稀となり、・フ グイグ氏の許へ通っているので、漱石の滞英中の日記でランクがふえた。そしてクレイグ先生の家へ本を返し イ に行った一月後には日記をつけることも止めてしまっ レいちばん良く出てくる表現は、 た。その最後の記入は、
とは、先生の時々洩らされた諧謔であったとか」 が鎌倉に参禅したのはその直前であり、松山行きはそ ( 「顔・写真・画像ーの項 ) の直後であり、漱石の謎の行動はすべてこの期間に重 漱石が大学院学生だった時期は明治二十六年七月以 なる。そこで、この事件に絡んでなにか決定的な心理 降同二十八年三月までであろうが、その間に漱石が興劇が漱石を襲っていたのではないかと考えられるので 津に遊んだという客観的証拠はない。しかし、明治二ある。 十六年七月二十七日付斎藤阿具宛書簡には「小屋君は 柳田泉氏は「物故文人独談議」 ( 昭和九・一一「伝 ( 原 ) 記」 ) のなかで、「僕が一寸聞いた或る老博士の談話」 其後何等の報知も無之同氏の宿所は静岡県駿洲興津清 見寺と中す寺院に御座候」とあって、小屋 ( 大塚 ) 保として次のように伝えている。 「女史は元来、虚栄心のつよい人で、将来の夫と白 治がこの時興津にいたことは確かであり、書簡の文面 羽の矢を立てた男性が、後の保治博士の外に今一人 〈其後何等の報知も無之〉というところからすれば、 あった、その一人が夏目漱石だといふのだ。而かも、 この直前に漱石との間になんらかの交渉があったこと は確かで、それは漱石が興津に同行していて先きに帰女史は此の二人の何れに向っても、その人一人にの 京したということも十分に考え得る。翌明治二十七年み意があるやうに見せて、うまくあやっ & てゐた。 それで保治は勿論、漱石も女史と結婚出来るものと 夏には伊香保で漱石と保治とが一緒に過ごしたと考え ・ ( 略 ) : : : それでいよいよ卒業と こ従えば、 思ってゐた。・ られるカ目一一 = ロ : 、行己の夏目鏡子・松岡譲の興津説 ! なると、女史は漱石を斥けて保治をとったといふの ことは明治二十六年夏に漱石と保治が興津に遊び、そ の だ」 ( 『随筆明治文学』所収 ) こで大塚楠緒子を知ったということになる。そして、 魵伝記上の事実に従えば、明治二十八年一月に小屋保治塩田良平氏が『明治女流作家』 ( 昭和一七 ) のなか % が大塚家の養子となって楠緒子と結婚している。漱石で「噂によれば、この当時彼女は夏目漱石にも暗々裏