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検索対象: 夏目漱石全集 別巻
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1. 夏目漱石全集 別巻

でなければ、なかなかできない事じゃありませんか。 大内それでは、あれは漱石先生が、そういう境地に 達したいという所の話ですね。自分はそれと全然自大内そこはよく分るけれども、自分としては相当煩 悶していたということの方が : 分とは違うという気持ですか。 小宮そういう人間になりたいという気持は非常にあ辰野則天去私なんて、いやな言葉たな。東洋的な生 ったのです。それはね、例えば漱石の死んだのは大悟り臭い 正五年 ( 一九一六 ) の十二月ですけれどもね。その安倍熕悶はしていた。 前年、大正四年の六月十何日かに武者君の所にやつ大内その方が漱石の本質だということを出す方が、 た手紙がある。この手紙なそ、漱石の則天去私を考重要なんじゃないかと僕はいいたいのです。 える上に重要な示唆を与える手紙です。 安倍それはそうかも知れないが、しかし漱石は無意 大内しかしあれを余り強く言うと、漱石という人は識にそういう境涯を得ていた所もある。だから自分 の前に来た人に非常に楽に話をさせるとか何とかい ああいう境地に達していた人だというような誤解を 生じゃしないかね。 う所、人間というものはやはり無意識に色々なもの を持っている。悪い所も良い所も持っている。その 小宮漱石の人生観なり芸術観なりを問題にする場合 無意識に持っている良い所は非常に尊い。そういう には、則天去私は最も重要な問題なんだから、勢い 所はあったと思う。 強く言わないわけには行かないじゃありませんか。 のみならず漱石という人は、人間として、一部分は 小宮夏目漱石のうちでは、毎週木曜が面会日になっ そうう境地に達していた所があったとも言えるの ていたが、いつの木曜だったか、行く時には天気が です。例えば人に自由に誠実に話させるとかいう点 良かったけれども、帰る時になったら雨が降り出し でも、自分がいくらかそういう 境地に達しているの た。僕は当時青山に住んでいて、一番遠いところに イ 94

2. 夏目漱石全集 別巻

んでもない」と言った。それじゃ夏目先生から内々でている東京朝日新聞をみると、夏目先生の「道草」と 来るんでしようと、私は更に訊き返した。すると今度言う小説が出ていた。主人公の健三と言うのは、夏目 ほんと はお婆さんは眼をむいて、「それこそ真個に飛んでも先生自身であることは無論認識されたが、その客分と ない」と言 0 た。夏目と私達と関係のあることを知っして出ている嶋田と言う老人が、どうも下のお爺さん てる人は、みんなそう言うことを言いますけれど、年の様に想われて仕方がない。第一外出するに帽子をか 始状もよこさない様な男が、なんで仕送なんぞをよ一」ぶらないのが、この人の永年の習慣だと書かれてある すもんですか。そうも言った。 のが似ているし、それから面長の眉毛の濃い、眼の危 「たち入った話ですが、それじやどうして食べていら険なーーー私はその眼を先生の書かれた様に危険な光を っしやるのです」 帯んでいるとは思わない と言う容貌なども何うも 私は覚えすそう訊いた。 それらしく思えてならなかった。私はその新聞をもっ 「なんの貴郎、鰹節を削すっているんですよ」 て行ってお爺さんに見せた。お爺さんは乃公のことに お婆さんは言った。鰹節を削ると言うことは道具の相違ありませんと言った。そうして何も書く材料がな 売食いか、そうでなければ有るだけのお金をすこしす くなって来たので乃公のことを思いだしたのでしよう っ食べ減して行くことの意味であることは私にも解さと言った。 れた。私はこの頼りない果敢ない老夫婦の生活をしみ「まあ、金ちゃんが私達のことを小説に書いたんです じみと哀れなことに想った。 お婆さんはそばからそれを毎日読むのが楽みだと言 っていた。処がそれがお婆さんには楽みではなくなっ ちょうど六月の三日の朝であった。いつも私のとって、却って不快な心持をよび起す程となってしまった。 あなた

3. 夏目漱石全集 別巻

自分自身の姿」を、漱石はいちはやく「坊っちゃん」 ( 明・ 4 「ホト、ギス」 ) のなかに人知れず吐露して いたのではなかったろうか。「道草」のごとき直接的 吐露に近い方法ではなく、また作者自身がそれを読者 に気どられぬ意識さえあったかと思わせるほどの形を とっているため、読者はやすやすと正義漢で江戸っ子 の明かるい坊っちゃんだけを見てしまうのである。 しかし、「坊っちゃん」で漱石がもっとも自己の直 接的な心情告白に近づくのは、実はこの小説の末尾に おいてであって、そのときには坊っちゃん自身は死ぬ ということになってしまう。死ぬのは清ではないかと 生後間もなく里子に出され、翌年には養子にやられ人は言うだろうが、作品においては、実は坊っちゃん た漱石を叙して、江藤淳氏は「道草」によりつつ「金は死んで清が生きるのだとも言えるのではないか。い 之助の一番古い記憶に登場するのはこの塩原夫婦の姿、ま、問題にするのは帰京した坊っちゃんなのだが、赤 論より正確にいえば父母もない空虚な世界に置き去りシャッと野だに卵をぶつつけ、ぽかぼかなぐって「不 」にされた自分自身の姿である」 ( 『漱石とその時代』第浄な地ーをはなれ、神戸から直行で新橋に着いた坊っ や一部 ) と言っているが、これだけの部分にも漱石の存ちゃんはその後どうなったか。山嵐とはすぐわかれた 在に対する深いシンパシイを感じることができる。しきり、今日まで会う機会がないとしたのち、次の末尾 がくるのである。 かし、「父も母もない空虚な世界に置き去りにされた 「坊っちゃんー試論 小日向の養源寺 平岡敏夫 339

4. 夏目漱石全集 別巻

うなありさまである。第八回での落雲館中学校生徒と くされている集団なのである」 ( 『夏目漱石』 ) をふく めて、従来の「坊っちゃん、論がさし示して来た評価の「戦争」のくだりを見れば、「冷淡」というよりも は、この小説の底部をかいま見たとは言えぬにしても、むしろ憎悪というべきものになっている。 今の世の働きのあると云ふ人を拝見すると、嘘を それ自体は否定さるべきものではむろんない。 ついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事 これら「坊っちゃん」論がこの小説のおもしろさを と、虚勢を張って人をおどかす事と鎌をかけて人を 的確に指摘していることは疑いないところで、その点 陥れる事より外に何も知らない様だ。中学抔の少年 に関する限り多くつけ加えるべきものをここには持た 輩迄が見様見真似に、かうしなくては幅が利力なし ないが、「胸のすくやうな行為に駆り立て」 ( 伊藤整 ) と心得違ひをして、本来なら赤面して然る可きのを ることができた理由としては、さらに考えてみる必要 得々と履行して未来の紳士だと思って居る。是は働 があるように思われる。それは何よりも主人公の坊っ き手と云ふのではない。ごろっき手と云ふのである。 ちゃんの孤絶感にかかわるところがあるのではないか。 吾輩も日本の猫たから多少の愛国心はある。こんな 知られているように、「坊っちゃん」が掲載された ・ 4 ) には「吾輩は猫であ働き手を見る度に撲ってやりたくなる。こんなもの 雑誌「ホト、ギス」 ( 明的 が一人でも殖えれば国家はそれ丈衰へる訳である。 るーの第十回が併載されているが、古井武右衛門とい こんな生徒の居る学校は、学校の恥辱であって、こ 論う中学生が訪問するこの第十回を見ても、中学教師苦 んな人民の居る国家は国家の恥辱である。 ( 第十回 ) 沙弥と中学生古井との関係ははなはだ稀薄であって、 ん これは猫のロにする批判であるが、そのまま坊っち や猫の観察するとおり、苦沙弥はまことに「冷淡」であ ( 注 1 ) ! る。古井武右衛門は苦沙弥の担当する文明中学二年乙ゃんの中学生批判と読んでもおかしくない。「ごろっ 組の生徒なのだが、苦沙弥はそれをいちいち尋ねるよき手」とその候補生たる中学生への批判は、「坊つら 345

5. 夏目漱石全集 別巻

からも「母」からも言われたということに気が付かず、 なくともみんな普通の人間なんです」 ( 上二十八 ) し 却って「母は本当に親切なものであると、つくみ、感かし人を単純に信じて生きると「時々飛んでもない人 心」するのである。 から騙される事があるーと漱石は『硝子戸の中』 ( 三 しかし同じ第七章で、広田の偽善家・露悪家説のき十三 ) で言う。親切な母親こそ、そんな「飛んでもな つかけになるのは、三四郎に望まない結婚を勧めてい い人ーの最たる者である。漱石の二十三歳の青年が理 る母であって、先生によると偽善家である為の不可欠解出来ないのは、とりもなおさずこの事である。三四 な条件は「親切」に外ならない。終りまで「女」とい 郎は汽車の女と別れてすぐ、この事実をあまりにもよ うものと「母」というものは、三四郎の頭の中では一 く理解している人物に出合う。 緒にならない。「元来あの女は何だろう」と汽車の女それは言うまでもなく、「憲法発布の翌年に死んた」 の事を色々考えて見たりするが、あの女は母親でもあ ( 十一 ) 母から、父と思っていた男は本当の父ではな り、母親は元来女であるということがまだ分らない。 いと告白されて、「結婚の出来ない不具」 ( 十一 ) とな 「長い手紙を巻き収めてゐると、与次郎が傍へ来て、 、赤く燃える現実世界を逃れて、教育の森で仙人め 『ゃあ女の手紙たな』と云った。・ ・ : 三四郎は、『なに いた生活を送っている広田先生である。 母からだ』と、少し詰らなそうに答へ」 ( 十一 ) るの この「男は白地の絣の下に、丁重に白い襦袢を重ね もその一例である。 て、紺足袋を穿いてゐた」「四十だらう」と思われる 母が女であって、現実世界 ( Ⅱ人の世 ) に住む、普人にしては一寸若々しいなりである。三四郎が紺の兵 通の人間であるという事実を認めるのは、大人になる児帯をしめて、蚊帳に入って、白い長い仕切をこしら 幻減的な過程の不可欠な一部である。『ころ』の先えた時の格好をチラと思い出させる。ただ広田の「濃 生によれば、人間は「平生はみんな善人なんです、少く生してゐる」髭が暗い。第三章に現れる広田は白っ 3 夘

6. 夏目漱石全集 別巻

なきを得ない。朝日新聞に出した「文芸とヒロイック」と其部下の死と、艇長の遺書を見る必要がある。「そ うして重荷を負うて遠きを行く獣類と選ぶ所なき現代 は、これに対する抗議の一である。瀬戸内海で演習中、 一潜航艇が誤って沈没した。佐久間艇長以下乗組員は的の人間にも、亦この種不可思議の行為があると云う 死に至るまで配置を守り、艇長は有毒ガスの充満する事を知る必要がある」といった。 ( 明治四十三年七月 暗黒の中で遺書を認ため、意識の消えるその瞬間まで十九日 ) の状況を記述し、部下の後事の為めに訴えた。漱石は漱石は翌日更に寄稿して「艇長の遣書と中佐の詩」 その遺書の濡れたのをそのまま写真版にしたのを人を論じた。「中佐の詩」とは旅順ロ閉塞に戦死した広 に貰って、病院の床の上で読み、この一文を書かずに瀬海軍中佐の詩である。漱石は佐久間艇長の遺書をも いられなくなった。 って極度の誠実を書かれた名文とする反対に、中佐の ヒロイックの行為は現にここにある。自然主義者が詩を俗悪陳腐、無用なる文字となし「誰れでも中佐が 若し、ヒロイックの行為は現実に見出し難いから書かあんな詩を作らずに黙って閉塞船で死んで呉れたなら ないというなら、遠慮には及ばない。現にここにあると思うだろう」とまでいった。 批評の当否は今問わないが、広瀬中佐は当時軍神と から書いたら好かろう。往年某国の潜航艇に同様の不 幸の事のあった時、艇員は争って死を免れんとする一して世の崇敬を受けていた勇士である。その勇士の詩 念から、一所にかたまって水明りの洩れる窓の下に折に対し、兎も角これ程の批評を下して憚らぬという り重なって死んでいたという。本能のいかに義務心よ ことは、佐久間艇長の遣書に対する感動を表明するこ 漱り強いかを示すものとして、自然派の作家はここに好とと共に、道徳的背骨があって始めてよくするところ 個の材料を見出すであろう。けれども現実はこれだけであると思う。私はなおこの以外、この当時漱石が頻 夏 である、その他はであるというのは、佐久間艇長りに朝日新聞に掲載した一聯の評論文を、今日もしば

7. 夏目漱石全集 別巻

字はない、しかしあるいはそれゆえに、思うべきは禅討である。この言葉は、十月四日に成った詩の五、六 を中心とした一種の文明の、竹藪の小道のごとき独自行目の対句、 室中に毒を仰いで真人死し さ。そうした解釈が可能なように思われる」「他郷と 門外に仇を追いて賊子飢う は西洋であり、そこには日本にはない芳醇な酒、それ という不可解な詩句に触れて言っていることである。 に比擬すべき文学があった、とは上の仮説のつづきで 私にはこれは、かって漱石が「現今の吾等が苦しい実 ある。 ・ : なお仮説をつづければ、スイフト、シェー クス。ヒア、メレディス、等等は、先生の上った旗亭で生活に取り巻かれる如く、現今の吾等が苦しい文学に 取り付かれるの、已を得ざる悲しき事実」 ( 思ひ出 あった」と書く。 そのような推測、あるいは瞳測を可能にする要素が、す事など ) と言った、その苦痛のうめきと思われる。 これら最晩年の詩にことに大きいのも事実である。吉あるいは「われは常住日夜共に生存竸争裏に立っ悪戦 / 説の進行との人である。仏語で形容すれば絶えず火宅の苦を受け 川氏は「ことに『明暗』執筆中の詩は、 対応させての細密な研究が、小説の批判を専門とするて、夢の中でさへ焦々してゐる」 ( 同 ) といった、そ 人人によって、可能なように思われるーと言っている。の焦だちが読み取れるようでもある。 それは私の任ではないが、誰かが試みることを、私も漱石を狂気と神経衰弱とに追いやりかねない苦しさ や焦だたしさは、もっと客観的な風景句である次のよ 期待しないわけではない。 うな詩句、 だが、私にそれよりも大事なことに思われるのは、 さかしま 岸樹枝を倒にして皆な水に入り 吉川氏が「『世味』すなわち人間の葛藤への興味は、 野花萼を傾けて尽く風を迎う 「閑適』の世界としてはいった漢詩の中へも、しだ、 霜は爛葉を燃やす寒暉の外 に浸潤して来る」と言った、その「世味」の滲透の検 かんき 134

8. 夏目漱石全集 別巻

父は長い説法の中でそんな事も云ったが、代助に リートの自覚に支えられた堂々たる論陣と一 = ロえるのに して見れば、自分は職業の為めに汚されない、内容 比して、陋巻にあって文章の味に舌なめずりしている ような感じが、自ずと別種の風格さえ生んでいるが、 の多い時間を持ってゐる上等人種だと考へてゐるの で、父の小言を聞いて例に依って発奮しようなぞ その中で宇野浩二は「猫」の冒頭の一節を引用したあ と、次のように語っている。 といふ気は少しも起らなかった。 さて、右の文章だけで云ふと、文章が、一つ一つ、 コンマで切らずに、。ヒリオドで切ってあるので、短 つまり、右の文章では、「内容の多い時間」、「上 くて、きびきびしてゐるから実に読みよい。しかし、等人種」などである。 きびきびしてゐるのは、短く切ってあるだけでなく 明夬な説明で、この上何も言うことはないようなも 作者の頭が明晰であるためである。それから、右ののだが、「覚えている」でなく「記憶している」と書 文章の中で、「ニヤアニヤア泣いてゐたことたけは かれたときに発生するのは、たんにユーモア、諧謔と 記憶してゐる。」とあるところでも、最後の「記憶 いったものだけではない。自己道化の苦さもそこには してゐる。」を「覚えてゐる。」と書けば、ただ「記含まれていて、両者が混りあって、漱石初期のあの饒 憶し」と「覚え」だけの違ひで、文章の味が全く違舌体があらわれる。といっても創作に手を染めて調子 づいてきたころの漱石の気持としては、そんな苦さと 体つてしまふのである。さうして、かういふ独特な言 文 葉の使ひ方は、漱石の発明で、漱石の小説の中には かシニシズムとかは、爽央に滑るように筆にのってく 到る処に出てくる。例へば、『それから』の中の、 る饒舌の快感のかげに潜み、特に意識されなかったと の 石かういふところである。 思われる。 ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、 171

9. 夏目漱石全集 別巻

で文学の講義をしてから、三十七、八歳になって、初 めて創作の筆を執るようになったことは、大抵の人の 知る所である。しか、特にその点に着眼した者はや私も随分漱石先生について書いたものだが、これま はり小泉氏を初めとしなければなるまい。なお氏はそではただ先生の想い出ばかり書いていた。批評がまし い筆は殆ど執ったことがない。私も今年六十八歳、先 の点から推して、「漱石は既に文学の理論を知り、そ の構成を熟知した上創作に従事したのだから、その作生よりも十八年生き延びている。五十歳といえば、私 にはどこか作為の感を読者に与えることを免れ得なから見れば小僧ッ子のようなものだが、先生のことを い」ともいわれている。これも私至極同感である。 想うたびに、今でも私の方がずっと小僧のような気の 先生は始終「拵え物でも、拵え物でないもの以上にしていることは、毎々いう通りだ。一生頭が上がらな 自然に出来ていればいいじゃないか」といっていられ 、。先生の想い出に生きて想い出に死んで行く。私な た。まったくその通りであ先生の作には又その通ぞはまあ「永遠の弟子」のいい標本である。 りに出来た物もある。しかし、どこか自然の模写とは ところが、この頃になって、ほんの少し許り先生を 違っていた。 離れて見ることができるような気がして来た。「漱石 要するに、小泉さんのいわれたことは何でもないこ先生と私」に想い出の総浚いをしてしまって以来のこ 生 とだ。誰でそう思っていたことだともいわばいわれとである。離れて見るといって、先生を批判するこ とよう。しかし、その誰でもそう思っていたことを、小とが出来るという意味ではない。ほんの少し許りこれ フ泉さんが初めてそういわれた。私は弟子としてそれをまでとは違った角度から先生を見るといったくらいの イ 感謝せずにはいられない。 もので、ここに述べさせて頂くのも、その一例であ ス

10. 夏目漱石全集 別巻

る路であるはずであって、漱石が幌車に乗った楠緒子た、漠たる女性不信の念が『草枕』『虞美人草』『三四 と出合った、本郷辺の小路ではないであろう。『永日郎』の女性達に流れていたが、『それから』の三千代 小品』の女と『硝子戸の中』の楠緒子との違いをなお象はあきらかにこれと別な『文鳥』『夢十夜』『永日小品』 徴的にあらわしているのは二つの出合いの差異である。の女の延長上にある。けれども、漱石が三千代を友人 の妻として『それから』の恋愛を構想した時、楠緒子 「はっと思って向うを見ると五六間先の小路の入口に は一人の女が立ってゐた」、その『永日小品』の女はの存在が全く念頭になかったかどうか。おそらく『そ 「百年前の昔から此処に立って『待ってゐた』女であれから』は漱石に対する楠緒子のあらわな敬愛という るが、楠緒子は遠くから次第に近づいてきて、「鄭寧事実を土台にして着想されていると思われる。漱石の な会釈を私にして通り過ぎた」女であった。明るく機内奥に住む父母未生以前の女のイメージと、現実のな 智にとんでいたと聞く大塚楠緒子は、『永日小品』のまなましい可能性としてある三角関係の、いわば想像 女のような、存在の闇への底知れぬ吸引力をどうやら上の二重焼きによって、『それから』の恋愛はなりた ったものと思われる。その独創的緊張が、『それから』 持たなかったようである。 漱石は小説家としての楠緒子に対して、野上八重子を『三四郎』から飛躍させ、そこに近代小説としての を指導した時のような、遠慮のない懇切な指導をあた実質を保証したものではなかったか。 やがて明治四十一二年十一月、楠緒子の思いかけぬ えなかった。八重子にあたえられた忠告をみれば、作 家としての漱石が楠緒子の作に言うべきことは、充分早世にあって驚いた漱石は、愛惜をこめて手向けの句 あったと思われるけれども、漱石は最後までそれをしを作った。胃潰瘍の大吐血で九死に一生を得た自分と、 なかった。その甘さが逆に、興津のシコリをついに消すれちがうように不帰の人となった楠緒子への哀傷は、 しえなかったことの証拠であろう。記憶の底に沈澱し病床の数日、楠緒子のことが念頭をはなれていないら 284