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検索対象: 夏目漱石全集 別巻
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1. 夏目漱石全集 別巻

当 - ロ 年 長春・安東・平壌・京城・仁川・開城を歴訪。十月十四日下発表。同月五日ごろ、「門」脱稿。執筆中、胃カタールの発 関に帰港し、大阪、京都に寄って、同月十七日帰京した。同作に度々悩まされていたので、同月六日、九日、十三日、十 月二十一日から十二月一二十日まで「満韓ところる、、を『朝六日と内幸町の長与胃腸病院に通い、胃潰瘍の疑いが濃くな り十八日入院、加療につとめた ( 七月三十一日一旦退院 ) 。 日新聞』に連載。一一月、「『夢の如し』を読む」を『国民新 この間、七月十九日、「文芸とヒロイック」、二十日、「艇長 聞』に発表。同月一一十五日、懸案だった朝日新聞文芸欄を創 設し自ら主宰、編集を、森田草平・小宮豊隆に委任した。十の遺書と中佐の詩」、二十一日「鑑賞の統一と独立」、二十三 日「イズムの功過」、三十一日ー八月一日「好悪と優劣」を 二月十六日、「日英博覧会の美術品」を『朝日新聞文芸欄』 いすれも『朝日新聞文芸欄』に発表した ( 人院中のこれらの に発表。 連続執筆は、文芸欄編集を委任した森田草平の勝手な宰配に 四十四歳 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 怒った結果であった ) 。八月、石井柏亭著『新日本画譜』 ( 九 月刊 ) の序文を執筆。同月六日、転地療養に専心するため、 一月、『それから』を春陽堂から刊行。同月五日、「東洋美術 図譜」を『朝日新聞文芸』に発表。二月一日、「客観描写修善寺温泉菊屋旅館に赴いたが、同日夜から病状悪化、十七 日、十九日と吐血をくりかえし、二十四日には激しい発作の と印象描写ーを『朝日新聞文芸襴』に発表。二月二十二日、 「『門』予告」を『朝日新聞』に載せ、三月一日から「門」連末多量に吐血し、人事不省に陥って、一時は危篤を告げられ た ( いわゆる修善寺大患 ) 。東京から親戚・門下生・朝日社 載がはじまった ( 六月十二日完結 ) 。三月二日、五女ひな子 出生。同月十八日、「草平氏の論文に就て」を『朝日新聞文員・知人など見舞客がひきもきらず集まった。九月初旬潮く 芸欄』に発表。同月創刊された『白樺』に載った武者小路実筆を持てるまで回復、漢詩や俳句に、死に直面した心境を詠 篤の「『それから』に就て」を賞め、爾後、白樺同人との交みこむようになった。十月十一日帰京、ただちに長与胃腸病 院に入院した。同月二十日頃から、「思ひ出す事などーの執 渉がはじまった。五月、『漱石近作四篇』 ( 「文鳥」「夢十夜」 筆を始め、同月二十九日『朝日新聞』に連載 ( 四十四年二月幻 「永日小品」「満韓ところん \ 」を収録 ) を春陽堂から刊行。 二十日まで続く ) 。 六月九日、「長琢節氏の小説『土』」を『朝日新聞文芸欄』に

2. 夏目漱石全集 別巻

文芸」を『信濃教育』に、又「子規の画」 ( 四日 ) 「学者と名 四十五歳 明治四十四年 ( 一九一一 ) 誉」 ( 十四日 ) 「ケーベル先生」 ( 十六、七日 ) 「変な音」 ( 十 一月、『門』を春陽堂から刊行。同月と翌二月にかけて、談九、二十日 ) 「手紙」 ( 二十五ー三十一日 ) をそれそれ『朝日 話「語学養成法」を『学生』に発表。二月一一十日、文部省専新聞文芸欄』に発表。又、『吾輩は猫である』 ( 縮刷本 ) を大 門学務局から、文学博士号授与の通知を受け、直ちに、学務倉書店から刊行した。八月十一日、大阪朝日新聞社主催の講 局長宛辞退の旨書き送り、一方、談話「博士辞退問題」を同演会のため、東京を発ち、十三日、明石公会堂で「道楽と職 月二十四日の『朝日新聞』に発表した。以後、文部省との折業」、十五日和歌山県会議事堂で「現代日本の開化」、十七日 衝が四月まで続いたが埒が明かず、この間、三月六日ー八日、堺で「中味と形式」、十八日大阪中の島公会堂で「文芸と道 徳」を講演した。この直後胃腸潰瘍が再発して、大阪市今橋 「博士問題とマードック先生と余」、三月七日、談話「博士問 題の成行」、四月十五日、「博士問題の成行」をそれそれ『朝三丁目湯川胃腸病院に入院した。同月、『切抜帳より』を春 日新聞』に載せた。二月二十六日、長与胃腸病院に退院して陽堂から刊行。 ( 「思ひ出す事など」他、朝日文芸欄掲載の小 自宅に戻った。五月十八日ー一一十日、「文芸委員は何をする論文を収録 ) 九月十四日、湯川胃腸病院を退院して帰京。帰 か」、同月一一十三日「田中王堂氏の『書斎より街頭へ』」を京後、痔を病み、神田綿町佐藤病院で九月中旬に切開手術を 受け、翌年春まで通院をつづけた。十月初め、池辺三山が、 『朝日新聞文芸欄』に発表した。六月五日ー六日、「坪内博士 社内の紛争のため、『東京朝日新聞』主筆の職を辞し、同月 とハムレット」を『朝日新聞文芸欄』に発表。同月十八日、 末、文芸欄を廃止した。漱石は十一月一日付で辞表を提出し 長野県教育会の招聘に応じ、夫人同伴で長野に出かけ、十八 たが、池辺や、弓削田精一に慰留され辞意を撤回した ( 同月 日、長野県会議事堂で「教育と文芸」と題して講演。更に足 二十日 ) 。同月二十九日、五女ひな子が急死した。「精神にも をのばして十九日高田中学校、一一十一日諏訪中学校で講演し て帰京した。同月二十八日、東京帝国大学美学研究会で講演ひゞが入った様な」「回復しがたき哀愁」 ( 日記 ) は長く揺曳 し、その供養の心をこめて「彼岸過迄」を起稿するに至った をした。七月十日、安倍能成とともにケーベル先生を訪問、 ( 十二月末 ) 。なお、十一月、『朝日講演集』 ( この年八月に行 同月二十一日、中村是公と鎌倉に行き一泊。同月、「教育と 526

3. 夏目漱石全集 別巻

新聞』に発表。同月、『道草』を岩波書店から刊行。十一月 朝日新聞』に発表。四月、談話「漱石山房座談」を「反響』 に発表。四月二十日、「心」を『朝日新聞』に連載しはじめ九日から十七日まで、中村是公と湯河原に滞在した。同月、 小品集『金剛草』を至誠堂で刊行。十二月、芥川龍之介・久 た ( 八月十一日完結 ) 。八月十二日、「ケーベル先生の告別」、 同月十三日、「戦争から来た行き違ひ」を『朝日新聞』に発米正雄が、林原耕三の紹介で初めて来訪、木曜会のメン・ハー に加わった。 表。九月中旬、叫度目の胃腸瘍で病臥し十月中旬まで起き上 れなかった。十月、『心』を、自装の上、岩波書店の処女出 大正五年 ( 一九一六 ) 五十歳 版として刊行。十一月二十五日、学習院輔仁会に招かれ、 一月一日、「点頭録」の連載 ( 『朝日新聞』 ) をはじめたが、 「私の個人主義」と題して講演。 リューマチスの痛みのため、執筆が思うようにはかどらず、 四十九歳 大正四年 ( 一九一五 ) 二十一日中止した。同月二十八日治療のため、湯河原温泉の 中村是公の所に転地。二月十六日帰京した。二月十九日付芥 一月十一二日から二月二十一二日まで、「硝子戸の中」を『朝日 川龍之介宛書簡で、第四次『新思潮』創刊号所載の「鼻」を激 新聞』に連載。三月、談話「釣鐘の好きな人」を『俳味』に 発表。「私の個人主義」を『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代賞、以後、芥川の作家的才能に期待し、心のこもった手紙を 度々書き送った。四月、腕の痛みは、リューマチスではなく、 文集』巻頭に寄せた。前後して『輔仁会雑誌』にも載った。 同月十九日、東京を発って京都に旅行。津田青楓・西川一草糖尿病によるものと判明、以後七月上旬まで真鍋嘉一郎の治 亭の案内を受け、祇園の芸者で、茶屋大友の女将磯田多佳女療を受けた。同月、談話「沙翁当時の舞台」を『日本及日本 と交友した。同月二十五日五度目の胃潰瘍で倒れ、鏡子は急人』に発表。五月七日から十六日まで、胃の痛みのため病臥。 ぎ西下した。四月十六日帰京。同月、『硝子戸の中』を岩波同月一一十日「明暗」の執筆開始。五月二十六日から連載がは 書店から刊行。六月三日から九月十日まで、「道草」を「朝じまったが、一日一回分の「明暗」執筆を午前にすませ、午 日新聞』に連載した。十月、「津田青楓君の画」を『美術新後は漢詩を作るという日常が八月中旬以後続いた。九月、談 報』に、同月十一日、談話「文壇のこのごろ」を『大阪朝日話「文体の一長一短」を『日本及日本人』に発表。十一月九 528

4. 夏目漱石全集 別巻

全 15 巻 別巻 1 夏目漱石全集 第 1 巻坊っちゃん他 第 2 巻吾輩は猫である他 第 3 巻草枕他 第 4 巻虞美人草他 第 5 巻坑夫他 四郎他 第 7 巻それから他 彼岸過迄他 第 10 巻行人他 ゝろ他 第 12 巻道草他 明暗他 : 史学間 第 15 巻文学評論他 漱石文学案内 別巻 第 14 巻 第 13 巻 第 11 巻 第 9 巻 第 8 巻門他 第 6 巻 く作品論 > 辻 なた 古山 河野 大庭 高井 日イ」・ 小川 山田 邦生 いなだ 高麗雄 多恵子 みな子 有一 淳之介 国夫 智彦 阿部昭 三浦哲郎 安岡章太郎 加賀乙彦 田久保英夫

5. 夏目漱石全集 別巻

猫である ( 十 ) 」及び「坊っちゃん」を『ホトトギス』に、 トトギス』に、八月、談話「戦後文界の趨勢 , を『新小説』 に、同じく「現時の小説及び文章に付て」「本郷座金色夜叉」発表。同月、緑蔭叢書第一編として刊行された島崎藤村の を『神泉』に発表。九月、帝大で、「十八世紀英文学」 ( 現『破戒』に深い感動を受けた。又、瀬戸内海能美島で休養中 の鈴木三重吉から贈られた「千鳥」を激賞し、『ホトトギスト 『文学評論』に該当 ) を開講。同月「吾輩は猫である ( 六 ) 」 五月号に掲載方を計らった。五月、『洋虚集』 ( 「倫教塔」か を『ホトトギス』に、「一夜」を『中央公論』に発表。十月、 ら「趣味の遺伝」までの七短篇を集めたもの ) を大倉書店か 『吾輩は猫である』上編を、服部書店 ( 後大倉書店に変更 ) ら刊行。同月は「胃カタール」で苦しんだ。又同じ頃、『文 から出版、初版は二十日間で売切れる盛況であった。十一月、 「薤露行」を『中央公論』に発表。十二月十五日、四女愛子学論』出版を企て、中川芳太郎にノート整理を依頼した。六 出生。この年までに、所謂門下生が殆ど出揃った。寺田寅月、談話「落第」を『中学文芸』に発表。六月、「神経衰弱・ 論」 ( 六月十九日付鈴木三重吉宛書簡 ) を企て、「吾輩は猫で 彦・野間真・野村伝四・橋ロ貢・橋ロ五葉・松根東洋城・ 鈴木一二重吉・野上豊一郎・中川芳太郎・小宮豊隆・森田草平ある ( 十一 ) 」 ( 八月『ホトトギス』 ) に盛りこんだ。七月、 狩野亭吉より、京都帝国大学教授として就任を打診されたが、・ らである。後に、安倍能成・阿部次郎・内田百聞らが加わっ た。 ( 殊に、翌年にかけて、鈴木と森田との繁い交渉が目立東京を去ることが世間に対する敗北であるという理由で断わ った。七月二十六日、「草枕ーを起稿、八月四日脱稿した。 八月、「吾輩は猫である ( 十一 ) 」を『ホトトギス』に、談話 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 「夏目漱石氏文学談」を『早稲田文学』に、同じく「文章の 混乱時代」を『文章世界』に発表。同月、電車賃値上反対の 一月、「吾輩は猫である ( 七 ) ( 八 ) 」を『ホトトギス』に、 「趣味の遺伝」を『帝国文学』に、同じく「予の愛読書」を行列に、社会主義者たちに加わったという記事が『都新聞』 、司こ羂り、大学病 に載った。同月一二十一日は、三女栄子が赤当冫 1 『中央公論』に発表。一一月、英語学試験嘱託を辞退。三月、 年「吾輩は猫である ( 九 ) 」を『ホトトギス』に、談話「予が文院に入院。九月、「草枕 , を『新小説』に、談話「文学談」 を『文芸界』に発表。九月九日「二百十日 , 脱稿、翌十月 章に稗益せし書結」を『文章世界』に発表。四月、「吾輩は 四十歳 5 幻

6. 夏目漱石全集 別巻

月二十四日、同校尋常科第一一級後期を卒業した。のち、神田 明治八年 ( 一八七五 ) 九歳 一ッ橋の、東京府立第一中学校、正則コース ( 普通学、他に 五月、下等小学第八級、第七級を同時に卒業。さらに十一月、変則コースは英語に重点をおいていた ) に入学した。 同第六級・第五級を卒業した。 明治十四年 ( 一八八一 ) 十五歳 明治九年 ( 一八七六 ) 一月二十一日、実母千枝死去 ( 享年五十四 ) 、その衝撃は大 きかった。東京府立第一中学校を中退して、漢学塾の一一松学 二月、養父が戸長を免ぜられ、四月、やすとの離婚が決まり、 金之助は塩原家在籍のまま夏目家に引きとられた。五月、戸舎 ( 町 ) に入学、七月、同学舎第三級第一課卒業、十一月 田小学校の下等小学第四級を卒業した後、実家近くの市ヶ谷 には第二級第三課を卒業した。以後一年程二松学舎に在籍し 小学校下等小学第三級に編入、十月に卒業。養父は東京警視たが、次第に大学進学のための英語の学習の必要性を感ずる ようになった。 庁に勤務、かっ、れんとともに八月ごろ下谷西町に住んだ。 明治十六年 ( 一八八三 ) 十七歳 明治十年 ( 一八七七 ) 十一歳 九月、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学、大学予備門 ( 後、 五月、市ヶ谷小学校の下等小学第一一級を卒業。十二月下等小 学第一級を卒業した。実父直克は内務省警視局勤めに転じた。第一高等中学校、第一高等学校と漸次改称 ) を受験するため、 養父昌之助は八月十一日、かっとれんを塩原家に入籍。 英語の学習に専念した。成立学舎で、佐藤友熊・中川小十 郎・太田達人・橋本左五郎らと知り合った。 明治十一年 ( 一八七八 ) 十二歳 譜 明治十七年 ( 一八八四 ) 十八歳 一一月十七日、漢文「正成論」を書き上げ、友人島崎柳塢らと 年の回覧雑誌に発表。四月一一十九日、市ヶ谷小学校上等小学第この年、橋本左五郎と、小石川極楽水 ( 現在、文京区白山三 八級を卒業。その後、神田猿楽町の綿華小学校に転校し、十丁目 ) の新福寺に下宿をし、自炊生活をはじめた。九月、大 511

7. 夏目漱石全集 別巻

一月、「野分」を『ホトトギス』に、「作物の批評」及び「写 『中央公論』に発表。九月十六日、岳父中根重一死去。十月、 談話「女子と文学者」を『女子時事新聞』に、同しく「作中生文」を『読売新聞』に発表。同月『鶉籠』 ( 「坊っちゃん」 の人物」を『読売新聞』に発表。この月から木曜午後三時以「草枕 , 「二百十日」の三編所収 ) を春陽堂から刊行。二月、 談話「僕の昔」を『趣味』に、同じく「漱石一タ話」を『新 後を面会日と定めた。後の「木曜会」の嚆矢であった。同月 二十一日、森田草平から受けとった手紙に深くうたれると一」潮』に発表。同月二十四日、坂元 ( 当時白仁 ) 雪鳥 ( 三郎 ) が朝日新聞社の使者として漱石を訪間し、入社招聘の折衝を ろがあり、「野分」制作のモチーフが次第に固まった。同じ 始めた。これはすでに前年九月頃、『大阪朝日新聞』主筆だ 時期「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」 と鈴木一二重吉に宛てても書いている ( 十月二十六日付 ) 。十った鳥居素川の発案で社内では根まわしが行なわれていた一 件で、教職生活の多忙に困惑し、小説家と教師の二本立にや 一月、「文学論序 ( 近刊 ) 」を『読売新聞』 ( 日曜付録 ) に、 や疲労しつつあった漱石の心を強く動かすところとなった。 談話「文章一口話」を『ホトトギス』に、同じく「文学者た 朝日新聞社に宛てた数か条 三月十一日、白仁三郎を通して、 る可き青年」を『中学雑誌』に、同じく「自然を写す文章」 を『新声』に、同じく「余が『草枕』」を『文章世界』に発の条件 ( 月俸二百円・賞与付、以下細部に互る ) が容れられ たので、同月十五日、『東京朝日新聞』主筆池辺三山の来訪・ 表。同月、『吾輩は猫である』中編を、大倉書店から刊行。 又このころから、『文学論』の校閲・加筆に着手。同月、『読を受け、入社を決意して、一切の教職を辞することとした。 売新聞』文壇担任として入社を勧誘されたが、考慮の末断わ同月、「十八世紀英文学」終講。一一十八日から京都大阪に旅 行。四月四日大阪で朝日新聞社長村山市平と会い、十二日帰 った。十二月九日、「野分」を起稿、二十二日脱稿。同月一一 京。四月から朝日新聞社員となった。同月三日、談話「無 十七日、家主の斎藤阿具が、一一高から、一高教授に転任帰京 したため、家を明け渡し、本郷区駒込西片町十番地ろの七号題」を『朝日新聞』に、同月九日ー十一日、「京に着けるタ」 を大阪『朝日新聞』に発表。同月一一十日、美術学校文学会で 1 に転居した。 「文芸の哲学的基礎」と題して講演。五月三日、「入社の辞」 四十一歳 明治四十年 ( 一九〇七 ) を『朝日新聞』に、同月四日ー六月四日、「文芸の哲学的基

8. 夏目漱石全集 別巻

瑞厳寺で参禅を企てたが断念、一旦帰京したのち再び逗子海に句作をはじめた。十月十九日、子規は上京、孤独を深めて 岸に遊んだ。以後、九月に寄宿舎を出てから、十月十六日小 松山を去ることを真剣に考える。十一月、「愚見数則」を松 石川の法蔵院に下宿をきめるまで「所々流浪」 ( 狩野亨吉宛山中学校校友会誌『保恵会雑誌』に発表。十二月一一十七日に 書簡 ) しており、一時、小石川指ヶ谷町の菅虎雄宅に身を寄出京、翌二十八日、かねて話のあった中根重一 ( 当時貴族院 せたことがわかる他は不明な点が多い。十二月末に菅虎雄の書記官長 ) 長女鏡子と見合。 紹介により鎌倉円覚寺の塔頭帰源院に宗活を訪れ、釈宗演の 三十歳 明治ニ十九年 ( 一八九六 ) もとで参禅、翌一月七日に及んだが、「遂に本来の面目を撥 出し来らす」 ( 斎藤阿具宛書簡 ) というていたらくだった。 一月三日、中根家の新年歌留多会に赴き、七日、東京を発っ て十日ごろ松山に帰任したが、松山を去りたい思いは募って 明治ニ十八年 ( 一八九五 ) 二十九歳 いた。四月、第五高等学校 ( 熊本 ) 講師に任官 ( 月給百円 ) 、 二、三月ごろ、横浜の英字新聞『ジャ。 ( ン・メール』の記者松山中学を辞任して、同月十日高浜虚子を同道して松山を発 ち、宮島で一泊したのち虚子と分れ、十三日熊本に着任した。 を志し、菅虎雄を通じて禅を論じた英文の論文を提出したが、 採用されなかった。三月、愛媛県尋常中学校 ( 松山中学 ) 教当初五高に先任していた親友菅虎雄の許に止宿、五月に人っ 論赴任を決め、東京高等師範学校、東京専門学校での職を辞て、市内光琳寺に面した下通町一〇三番地の借家 ( 家賃八円 ) に移った。六月八日、鏡子を伴なって中根重一が熊本に到着、 し、四月七日東京を発って九日に松山市に着いた。松山中学 では月給八十円で、生徒の中には松根豊次郎、真鍋嘉一郎が翌九日自宅でささやかな結婚式をあげた。 ( 鏡子は明治十年 いた。赴任当初は、市内三番丁の城戸屋旅館に宿りやがて一 七月二十一日生で、当時二十歳 ) 十一日付子規宛書簡で「衣 番町の下宿屋愛松亭に下宿した。七月、松山市二番町上野義更へて京より嫁を貰ひけり」とその心境を一句に認めている。 譜方の離れに転居、八月下旬、『日本』の従軍記者として日清七月九日、教授に昇任、高等官六等に叙し、九月十日、正七 戦争に従軍していた正岡子規が療養のため帰郷し同宿するこ位を授けられた。九月はじめ鏡子同伴で鏡子叔父 ( 在福岡 ) 年 ととなった。上野家で子規が度々開いた運座に加わり本格的を訪問旁々博多・香椎・太宰府・二百市・久留米・船後屋温 515

9. 夏目漱石全集 別巻

譜 礎」を『東京朝日新聞』に、五月二十八日、「『虞美人草』予心中未遂事件 ( 所謂煤煙事件 ) が各新聞に報道され、同日の 『朝日新聞』に談話「夏目漱石氏談」が載った。帰京した森 告」を『朝日新聞』に発表。同月、『文学論』を大倉書店か 田を引きとり、四月十日まで同居させ、その心中行の経緯を ら刊行した。六月四日、入社第一作「虞美人草」の筆を起し くわしく聞き、種々批判を加えた。四月、「創作家の態度」 た ( 九月一日脱稿 ) 。六月五日、長男純一出生。同月二十三 日から、『朝日新聞』に「虞美人草 , の連載がはじまり、十を『ホトトギス』に、談話「『坑夫』の作意と自然派伝奇派 月二十九日まで ( 『大阪朝日新聞』は二十八日まで ) で完結の交渉」を『文章世界』に発表。六月十三日ー二十一日「文 鳥」を、『大阪朝日新聞』に連載 ( 「ホトトギスー十月号に一 した。六月、「吾輩は猫である』下編を、大倉書店から刊行。 九月二十九日、牛込区早稲田南町七番地の借家〈転居 ( 家賃括転載 ) 。同月、談話「近作小説一一三に就て」を『新小説』 に発表。七月一日、「夢十夜」の第一夜を脱稿。同月二十颪 三十五円 ) 。転居後十月ごろから、宝生新の来宅教授により 謡曲の稽古をはじめた。十一月、高浜虚子著『鶏頭』 ( 翌四日から八月五日まで ( 中、七月二十六日と八月一日を除く ) 『朝日新聞』に一夜分ずつ掲載。同月、談話「露国に赴かれ 十一年一月春陽堂刊 ) の序文を執筆、行徊趣味について述べ た。同月末、青年荒井某が来訪、「坑夫」の素材となる足尾たる長谷川二葉亭氏」を『趣味』に、同じく「独歩氏の作に 行徊趣味あり」を『新潮』に発表。八月初旬、「三四郎」起 銅山での体験談を売りこみ、しばらく夏目家に住みこんだ。 稿 ( 十月六日脱稿 ) 。同月十九日、「『三四郎』予告」を『朝 十二月十日、「坑夫」を起稿した ( 翌年一月二十九日脱稿 ) 。 日新聞』に掲載。同月、談話「文章之変遷」を『江湖』に発 四十二歳 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 表。九月一日から、藤村の「春」の後をうけて、「三四郎」 一月一日、「坑夫」の「朝日新聞」連載がはじま 0 た ( 四月を『朝日新聞』に連載しはじめ、十二月二十九日完結。九月、 六日完載 ) 。同月、談話「愛読せる外国の小説戯曲」を『趣談話「正岡子規」を『ホトトギス』に、同じく「処女作追懐 味』に発表。同月、『虞美人草』を春陽堂から刊行。一一月十談」を『文章世界』に発表。又、『草合』を春陽堂から刊行 五日、東京青年会館にて「創作家の態度」と題して講演 ( 東 ( 「野分」「坑夫」の二編を収める ) 。同月十三日、『猫』のモ デルの猫が死に、友人たちに死亡通知を出す。十月、談話 京朝日新聞社主催 ) 。三月一一十五日、森田草平と平塚雷鳥の

10. 夏目漱石全集 別巻

ギス」同人たちの文章会「山会」の十二月の会で朗読されて 月初めまで妻子を実家に返して別居。六月、「自転車日記」 を『ホトトギス』に発表。八月、英詩 Silence "Dawn 好評を得、『ホトトギス』新年号に掲載が決まった。十二月 二十二日「倫敦塔」脱稿、続いて「カーライル博物館」を書 Creation" を作る。九月から大学ではじめたシェクスビア の作品講読は「大入満員札止めの景気」 ( 金子健一一『人間漱 石』 ) が続いたという。十一月三日、三女栄子出生。このこ 三十九歳 明治三十八年 ( 一九〇五 ) ろから水彩画や書をはじめた。 一月、「吾輩は猫である」 ( 後に「一」が付せられる部分 ) が 三十八歳 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 『ホトトギス』に、「倫敦塔」が、『帝国文学』に、「カーライ ル博物館」が『学鐙』に発表され、いずれも好評を得た。す 一月、「マクベスの幽霊に就て」を『帝国文学』に発表。二 でに、一月一日は野間真綱宛書簡で、「猫」続篇続々篇執筆 月八日付寺田寅彦宛書簡に、藤村操をしのぶ新体詩「水底の の意欲を示しており、十五日までには続篇が稿了、二月の 感」を書きつけた。同月、翻訳「セルマの歌」「カリッスク ウラの詩」を『英文宀取誌』に発表。同月一九日、東大山上『ホトトギス』に発表された。同月、『学鐙』に「カーライル 博物館所蔵カーライル蔵書目録」を掲載。二月十八日「幻影 御殿で開かれた英文会で、「ロンドン滞在中の演劇見物談」 の盾」脱稿。三月十一日、明治大学で、「倫敦のアミューズ を講演した。四月、明治大学講師を兼任 ( 週三時間で月給三 十円 ) 。五月、日露戦争勃発 ( 二月十七日 ) に因んだ新体詩メント」と題して講演。四月、『ホトトギス』に、「猫 (lll) 」 と「幻影の盾」を発表、文名頓に上がり、『ホトトギス』五 「従軍行」を「帝国文学』に発表。七月から虚子と『ホトト ギス』誌上で俳体詩や連句を試みた。七、八月、二月の英文月号では「本誌前号の評」と題して、新聞雑誌の右一一作につ いての評判を特集した。同月号の『新潮』に談話「批評家の 会講演のをもとにした談話筆記「英国現今の劇況」が『歌舞 伎』に載った。創作欲が次第に高まり、「断片」の記載も多立場」が『新潮』に載る。六月、「吾輩は猫である ( 四 ) 」を 『ホトトギス』に、小説「琴のそら音」を『七人』に発表。 くなる。虚子のすすめにより、後の「吾輩は猫である ( 一 ) 」 同月、『文学論』講了。七月、「吾輩は猫である ( 五 ) 」を『ホ の部分を書き、虚子の添削を経て、子規の創設した「ホトト 5 幻