他の作家と ( 又当時のヨーロッパの殆んどの小説家と も ) 異なった、新しい体験と美学の発見がひそんでい るように思われる。 そこでこの二つの作品の関連を見出し、「都会の体 験と美学」が、中期の小説の中でどう生きてくるのか、 考察を続けたい。 何人かの明治の作家にとって、西欧との出逢は重要 な経験となった。それは、西欧の思想との出逢でもあ ったが、何よりも西欧の言葉、西欧の現実との出逢で あったといえよう。欧羅巴に着いた外も漱石も、ま 明治三十八年一月十日に発表された『倫敦塔』にも、す都会というものに関心を抱いたように思われる。二 同一月十五日附の雑誌に出た『カーライル博物館』に人の初期の作品に見える都会の描写、その中に現われ も、二十世紀初頭のロンドンが現われる。両方とも、 た近代日本文学の散文史の新しい可能性を考察して行 小品といえるのであろうが、単なる紀行文ではなく、 きたい。 最初に完成された、小説家・漱石の作品であって、小 説の不思議な形をなしているように感じる。漱石は、 「溟濛たる」大都会をどのように描いたのか、その描 写は小説全体においてどういう役割を持っているのか、 ということに注意してみたい。そこには、明治時弋の 「蜘蛛手」の街 ーー漱石初期の作品の一断面 ジャン・ジャック・オリガス 「東に還る」船の中で、太田豊太郎は、ベルリンに着 いた最初の印象を思い出そうとしている。暗い、寂し い船室の中で、当時の思出が一層鮮やかに眼の前に現
登世という名の嫂 と き て 焼 ら出郎 つ 和 しな が状 は わ 感私 て 氏 の漱 と歌 面 し い に し て い 力、 した来 に長た じ と し を い判ー は し か る連業 た も 明 た な お私と た よ な した 。ぜ細 と そ幸 と 絡週 く い と ど はそ と の し か面似こ はが刊す 、ろ 彼 れ と の い言己た の さ葉少と 新 甲、そ か女嫂 る ち はな て ろ に 明 ネし 圭 しれ潮家われ ざ は十こ の い の の 洗治美 に も で れは る名 る 父七 と た て た漱を い ノ、 は期 の あ と さ と の に い 髪 代 、待き で漱孝八 、た が石 が っ ん 姿女 に掲ナ 明気 、石 の登か関 、がな し に娘世 ら 東 か 今ひ か ら の て に の 乃く い 、板を度 じ好似 で かな お の っ の 辰な私ー 梅 花め ん 、代写 確 に り か た は る 災 か 彼に の 井て た の 真 。さ は を 力、 は 写お ま 通 め女慕登れ れ も と っ は 真 梅 だ し 、長 日 た じ た っ 世 て の の め ク ) ら 葉 。登 と に写 う の て く 実た と い て の 実似真 も孝世当な家 眼 した 女 いな か 際 を背許 く 水性 う て け の主 り い ら の し 、見 は 、現 を郎 の 出 に名 と と に の 田 大氏真孝 たす 登存 ひ し家 る ふ は し、し、 き な が う う と ら の世 し 方 がさ や か た 父が が はあ は う な る 子と 知て な く し し 東年 親 い縁た私 い関否た し れ ら いカ、 ろ に に 同 が も 定、 は肉 も て な に 力、 の る つ 府 士 いは最感か ど っ と の を で る て し、 い 庁 の 視た考た 、初的カ 。も抱 き がみ 八 た 、あ庁 そ 、きな 言舌 ん先直 、な と わ か る 勤 の矩登 を ら イ以 い う いそ と 九 に て い に す だ の の断 出 、や て う 。れ め よ し、 た芝金 を 胸 女片 に登 て と で入 る に 。将之夏感許 い名話 と ば性や石 し世 り る 塚 た主がす 、ナど 監助 に 。保 に 作が 目 じ 登 て は か制 る 孝が イ喬 の和さ 豊 女叟ロ ロロ後 も ま し治世 は ら度 う : 畜こ と 夫 の年同 せ満か の 亡 る は の 職が し人漱面な出系カ ま の炭母郎 ち と る な 務 に 夏た問千直女お 統冫 す の石影か獄 つ 柄止た知 び屋枝矩性 ら 閨がを 目 も の上 に し 警 高 り 小水 秀一コ見彼た さ の の と でむ り 視れ ナど 兵田橋 き のあ と 作理て女花立で 庁て う 衛孝長母縁 と の井ち聰 が し家 想し、 る に 以 直一左姉 よ 。あナ で明 のた い お と来 う う 克郎衛 っ撫大美た と梅あな で の き る 印 0 は氏門あ 仲 て肩塚人め を に に ど直明 る介 か書異こ象 な 、で 楠 お か で き克治 は鶴を むあ緒だ 常 た ら も り と を こ 0 183
受けには来たけれど、五高で受けて一高にはいっ しよう、相当。 小宮僕はそんなにモデルにされちゃいませんよ。 た。だからここでは僕は全然生活していないんだか 安倍それはないけれども、色々な所を小宮から取っ ら感想も何もないと答えると、それじゃその試験を 受けにお出になった時のインプレッションと今日の ている。 イン。フレッションを聞かせてくれと言うので、それ 長与一般の人はあのモデルは誰だと無闇にきめるね。 ならこうこうだと言うと、翌日の新聞には、三四郎 そういうことは作家にとっては売れることになって が感慨深げにこういうことを語ったと出ていた。人 大変都合はいいけれども、実際は随分違うんでね。 を馬鹿にするにも程がある。 ( 笑声 ) 作家というものはそういうものではない。 小宮大内君だって、五高出身だから、やはり三四郎長与例えば野々宮さんが寺田寅彦というのは : ・ をもって任じていた事があるだろうと思う。五高の安倍あれはやはり、ちょっちょっと寺田さんの挙動 は取っている。それから与次郎というのが、やはり 卒業生には、俺が三四郎のモデルだと自認している 鈴木三重吉の一面を一寸捉えている。そういう所は 人が多い。僕は一昨年だったか、安倍がアメリカへ ある。 行っている留守に、学習院宣伝の旅行をして熊本ま で行ったことがあった。その時熊本の駅に下りるや長与それを全部モデルにしたと極めちゃうからね。 否や、新聞記者が来て、先生御感想を伺わせて下さ安倍そうそう。どうも辰野隆なんども、フランス文 る 語 学の泰斗だから、そういう事は分っている筈なんだ いと言うから、何だと言ったら、「三四郎」をかっ が、やつばり何でもモデルにしてしまう。 石ぎ出した。昔五高を卒業して東京にお出になって以 来、熊本にはおいでにならなかったんだろうから、長与あれには一寸驚くね。 ( 笑声 ) 一つその御感想をという。僕は五高には入学試験を安倍実に幼稚な所があって : 489
『草枕』のはじめに茶屋の婆さんの語る長良乙女の伝な 0 てつつがなく生きている楠緒子は、その「理想的」 説が出てくる。若く美しいその乙女の水死について参な美貌にもかかわらず、漱石の眼には、長良乙女の永 考にしたとみえ、漱石は日置長枝娘子歌、見菟負処女遠の美しさに及ばなか 0 たのではあるまいか。漱石が 墓歌一首拜短歌全体をノートに書きとめている。二人「あの世でしか契る事のできない愛」に心ひかれると の男に懸想され、どちらへもなびきかねてついに入水すれば、すこやかな生ま身の女のあの世の愛にではな したという、 哀切な古物語りに漱石はかなり心動かさくて、すでに冷たい遺骸である、花ざかりの女の愛に れたらしい。この長良乙女の運命に似て非なるは生きであ 0 たろうと思う。かくて、水と女と死とは、わか ) すわらひ ちがたい根源的イメージとして、漱石の内奥に沈んで ている那美さんであった。「人を馬鹿にする徴笑と、 勝たう勝たうと焦る八の字」のみがあらわれている那いた、と私には考えられる。 とこしな なお『草枕』が楠緒子の「湯の香」 ( 『女鑑』明三八・ 美さんの顔は、だから「女が長えに水に浮いてゐる 感じ」の画にはならない。漱石の理想は二人の男に愛一一 ) を念頭においた相聞のひとつであるというのも されて自ら死を選んだという、その心優しい長良乙女、少しおかしい。「湯の香」は湯あみしている女を描き いわば日本のオフ = リアにあ 0 た。流れに漂う長い髪たいという画家の念願を知り、女主人公がその場で 「するりと衣服よりぬけ出で」て、湯けむりのなかに と、蒼ざめた永遠の美しさを漱石は愛したのである。 そしてその愛はおそらく、永久に帰らぬ人となった登立っという、いかにも不自然で喜劇的な味さえある作 子世の、冷たく透き通ったなきがらを、心から惜しんだである。 楠若い日の漱石の切実な体験に裏づけられていたのでは『草枕』の那美さんにも、たしかに一糸まとわぬ浴室 と のシーンがあるが、これには周知のモデルがあって、 石なかったか。 今、社交界の名花、大塚令夫人となり、三児の母と『漱石の思ひ出』によれば事実である。 275
しかしこの推論にはいくつかの無理な点がある。作 か女の祟りか」とやって、子規から逆に「笑わしやが ら了と皮肉られた病気である。七月十七日、彼はこ者と作中人物の混同についてはいうまでもないが、そ れ以外にも第一に明治二十二年二月十一日現在、森有 の井上医院の待合室でその娘に出逢った。 礼はたしかに西野文太郎に刺されて瀕死の重傷を負っ 个 : ・ : ゑゝともう何か書く事はないかしら、あゝそ う / \ 昨日眼医者へいった所が、いっか君に話してはいたがまた生きていた。彼が絶命したのは翌十二 た可愛らしい女の子を見たね、ーー銀杏返しにたけ日であり、葬儀がおこなわれたのは二月十六日である。 ながをかけてーー天気予報なしの突然の邂逅だからさらに高官の葬列に馬車か俥で従っている令嬢のイメ ージと、夏目鏡子の『漱石の思ひ出』によればその母 ひやっと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね丸でタ しゃうわるみえばう 日に映する嵐山の大火の如し共代り君が羨ましがっ親が「芸者あがりの性悪の見栄坊」だったという「銀 た海気屋 ( 引用者註・甲斐絹屋 ) で買った蝙蝠傘を杏返しにたけながをかけ」た甲斐々々しい下町娘のイ メージとのあいだには懸隔がありすぎる。最後にこの とられた、夫故今日は炎天を冒してこれから行く》 「いっか君に話した」という以上、漱石は以前に少く「いっか」が二年前のことをさすとするのは、前掲の とも一度はこの娘にっているはずである。小宮豊隆手紙の語調にそぐわず、論者の語感を疑わざるを得な 氏の『夏目漱石』 ( 一九「初恋しはこの「いっか」が 奇妙な矛盾はこれだけにとどまらない。前掲子規あ 明治二十二年 ( 一八八九 ) 二月十一日の紀元節であり、 『三四郎』の広田先生が高等学校の生徒として竹橋内ての手紙によれば、漱石が娘に出逢ったのは明治二十 に整列して文部大臣森有礼の葬列を見送ったとき、馬四年七月十七日であるが、鏡子の『漱石の思ひ出』は 車か俥かで通るのを見た「小さな娘」と同一人物だとそれを彼が小石川の法蔵院に下宿していたころ、すな わ、つ彼が大学を出たのちの明治二十七年十月以降のこ している。 、 0 幻 8
『吾輩は猫である』の世界 autant que mo 一 . écrit Beethoven••・ J'aime un arbre plus q'un homme . 注漱石の作品の筋の設定や、その構成は正宗白 鳥などによっても指摘された所であるが、漱石と 白鳥というテーマは別に考察の機会をまちたい。 注幻中村真一郎『夏目漱石』解説。 注江藤淳氏の『夏目漱石』前出書。 注片岡良一著『夏目漱石の作品』四二頁厚文 社昭和三〇年八月。 注幻日露戦争と文芸というテーマは、近代文芸史 において重要な位置を占めている。「『火の柱』の 意義」 ( 拙著「近代日本文芸史の構成」桜楓社 ) において少しく触れたが、日本人という意識を、 世界的視野にまでひろげた出来事であった。 305
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にほ力ならない。 彼女を踊らせよ一人で白い衣裳を着けて、 彼女を歌わせよ紅い薔薇を持って 一人で白い衣裳を着けて、一人で草の上で 一人で紅と白の薔薇を持って。 彼女の手から薔薇を散らせ 紅と白との花びらにして、 花びらを彼女のまわりに散らせ 彼女が輪を描いて踊る間に。 彼女の白い衣裳をゆらゆらとさせよ ここに、そこに、あらゆるところに ヴェルヴェットのような草の上に旋わせ 彼女が輪を描いて踊る間に 月と私が彼女を見つめるだろう 彼女が輪を描いて踊るとき、 けれどほかには誰ものぞくことができない 彼女が輪を描いて踊るとき 私はこれらの英詩にあらわれる女に、登世の影が投 じられているといった。しかしなぜそれは登世であっ て、それ以外の女ではあり得ないか。たとえば夏目鏡 子の『漱石の思ひ出』には、むしろそこに登世以外の 女性が存在していたかのような記述がある。それは明 治三十六年十一月以後、「またぞろ前にも増して」漱 石の神経症が悪化した時期の回想である。 个 : : ・ある日学校からかへって来ると、女中を呼ん で、 「これを奥さんのとこへ持っていって、これで沢山 こがたなざいく 小刀細工をなさいってさう言ひなさい」 と申しまして、錆ついた小刀を渡しました。女中 は何のことかわからないながら、ただならぬ気色に おびえたのと見えまして、 「奥様、気味が悪うございますね」 とおどおどしてゐます。私はだまって小刀を取っ さび 196
などと悪態をついたりなどするのです。 : : ↓ ( 『漱石の思ひ出』二〇「小刀細工し あの有名な "primrose path" の女のイメージがあら われるのは、まさにこういう状態のさなかである。無 題のこの詩には明治三十六年十一月二十七日 (Novem- ber 27. 1903 ) の日附がある。 私が彼女を見つめると彼女も私を見つめた 私たちはおたがいに見つめつつひととき立ちつくし ていた 生と夢とのあいだで それ以来私たちは二度とわなかった だが私はしばしば 花野の道に立っ 名生が夢と出逢う道に。 と 世ああ生よお前は 融けて夢となるがいい それなのに夢が いつも生に追いかけられている ! 同じ日附の次の無題の詩は、幻影の女が二人の男に よって争われる無慈悲な美女 ()a 「ま dame sans merci) に変貌させられることもあることを示している。 彼らは言葉をかわし、 刀の刃先をあわせた。 刃はたがいに敵の血を深々と吸い込んだ。 これはすべて二人が激しく愛した女のためであった。 女は愛されていた。その返礼に女は男を二人とも殺 したのであった。 殺害にあたって女は一滴たりとも自分の血を流さな っこ 0 、刀ュ / しかし女の胎内で今やその血がうみはじめている。 女はそこに坐っている、彼女を嘆かしめよ 女はそこで嘆いている、彼女を横たわらしめよ。 女はそこに横たわっている、彼女をおもむろに死な 193
あれやを ( 先生の左手には桔梗その他二三種の秋草、 に尋ねかけた。 「そうだろうよ。九州あたりから業々、見にくる人も右手には朝顔の花が盛ってあった ) 一緒に描かされて あるんだから。すると、又、馬関あたりの芸者が、そ了った。」 の人の跡を追って、東京へやってきて、一緒に相撲を「そして持って帰ったんですか ? ー 見ているんだから。世の中にはいろんな酔興があるも「伝、持って行って了った。全体、ああいつもいつも んだね。僕は相撲を見ていて、時々、果して人生はこ来る度びに書かして、どうするつもりかね」 「もう、随分溜っているんですね。何んで、屏風と れでいいのかと思うね。あはは : : : 」 か、軸とか大きなものが四つも五つもあって、短冊や みんなもくすくす笑った。 こまこましたものが二十も三十も、先生のがあるんで すって」 九月七日 今夜列座の顔触は、先生の左から、久米君、松岡君、「そうどうするつりでしよう ? 先生が「熱中するんだね。あの人が大学をよしたの 芥川君、岡君、岡田君、そして間もなく内田君が加っ こ 0 は義太夫に熱中したんだからね」 再び先生が「そうだね、僕が死んで、もし値で出 私が来た時には、時節柄、虎列刺の話が出ていて、 た時には手離してもいい位に考えているかも知れん 先生が賑やかにみんなを笑わしていた。 出 ね」 ふと、滝田氏のことが話題に上った。先生が、 「滝田が今日も来て、先生、その花をお描きになる気丁度この前の木曜であった。私は病気して半年ぶり 曜はありませんかと、訊くから、そりや、描いて見る気に先生をお訪ねしようと、午後三時頃南町を訪れた。 になることもあろうさと、返事したが、到頭、これやその時小官さんも来ていたが、滝田氏が盛んに大きな 469