石はヒュームのように非我も我も外的もしくは内的知 ところで前者 ( 客観的態度 ) は非我のある関係を明 覚の体験の印象の東、感覚の東と見なし得るとしてい らかにするを主として、真を発揮するを目的とするに る。そのさい焦点のとり具合とつづき具合で、創作家対し、主観の側は美・善・壮に対する情報を助長する の態度がきまる。この点で彼の態度はあくまで経験論のを主とする。この三者に対する我の受け方は快不 的であり、連想心理学と密接する。 快・好悪に帰する。しかし真を目的とする場合は、叙 さてあたえられた物を叙述する場合、主知 ( 客観 ) ・述にさいして好悪をすて、取捨を廃さなくてはならな 主感 ( 主観 ) にそれぞれ三つずつの対応する態度が存 い。公平の叙述でなければならない。逆に真以外の ・ハーセ・フショナル シミリイ コンセゾシ する。①は知覚的な ( 客観 ) に対する直喩、②は概念美・善・壮を助長する側では好悪が焦点を支配する。 的に対するメタファー ( 大胆なる直喩 ) 、③は主観客無取捨は不可能である。前者が事実を重んじる結果は 観ともに象徴である。たとえば客観では特定の数式が世の中は器械化し、自由意志は否定されて自然の法則 円を現わす類で、主観では象徴派詩人の気分 ( 情調 ) 化する。これによって生じる社会の欠陥を情操文学は 象徴のごとき、有限なるのを通じて無限を暗示する補う力をっている。 ような場合である。 さて現在の日本では何れが必要かといえば、旧来の 文芸上の流派でいうと、写実派・自然派は前者すな道徳・情操が価値を低下しつつある今日、客観的な揮 わち客観的態度に属し、浪漫派・理想派は後者 ( 主観 ) 真文学は旧来の評価を無理に維持しようとする情操文 にそくすると、大体においていえるであろう。ふつう 学より必要の度が多かろう。揮真文学は観察力を必要 の作家はこの両端の間をうろついている。しかしまた とし、それは科学の発達に伴うものだが、日本には科 浪漫派・自然派の相違は、享受者の態度によって決定学的精神が欠乏していたので、客観的態度による文学 されるともいえよう。 はさして発達していないとしても、それが必要である 月 0
すでに「自己本位ーを根本的な態度とする以上、他「文学評論」でのこの意味の趣味の普遍性は、風俗人 いいかえれば他人の「自情のことなる東西異人種の間について叙べたものであ 人の趣味、鑑賞の独立をも、 己本位」をもみとめねばならぬ。しかるに同一の対象るが、同国人で、かっ同時代人であって、自己と対立 に対して、自己の趣味判断が他と食いちがうことがあする評価や批評が公にされている事実が眠前にある。 しかもそれらの異説を退ける理論的根拠は、各人の鑑 る場合、とくに対手が未熟な経験のもち主の時には、 自分の方の評価がまさっており、彼は自家の見地をす賞の独立、各人の自己本位を動かすべからざる前提と て我に従うのが当然だという断定、もしくは希望があする限り、あり得ない。しかしそれでは散り散りばら ばらで心細く、どうかして各自の舌の底に一味の連絡 る。あるいはさらに進んで、一般的に作物の評価には という統一感を希求せざるを得ない。 統一があるはずだという気構えが自然に生じる。 をつけたい、 以上が「鑑賞の統一と独立ーで漱石の言おうとした 漱石は「文学評論」の序で、自他の鑑賞の一致する 場合があり得ると説き、その理由として「趣味の普遍要旨である。これを抽象的、思弁的な立場から考える 性、をあげている。趣味の全部にわたってはいざ知らならば、文学作品の本来の性格からいって、その価値 ず、人事自然において、強度はことなるにせよ、同一判断の尺度が個人によってことなるのは、受容の基礎 材料について共通の好悪判断を下す場合が第一 ( 鳥のとなる体験が永遠に未解決であり、本質上、対象が究 さえずる声を美しいときくなど ) 。それから材料の関尽し得ない以上、また対象に対する客観的態度が、理 文係按配の具合についての普遍性。構成・技法等の散漫想的に純粋化され得ない以上、むしろ当然と言わざる 石な点などを趣味の高い者が説明の労をとる時、相手がを得ない。にもかかわらず、各人それぞれに、普遍妥 ポストラート 目相当の修養ある人ならば、中心から屈服させ得るであ当的な価値観を予想し、統一的な美の標準を要請して加 いることも、また否定できない。嗽石のいわゆる評価 ろう。これが第二の場合である。
かっとう 『明暗』のように人間心理のいりくんだ藤を描く小 説ではとくにそうだが、細部にはりめぐらされたさま ざまな伏線が小説の収東部で、それそれに重要な意味 をもってよみがえってくることが多い。漱石の得意の 手法で、たとえば『こころ』を想起してほしい。〈先 生と私〉の章で、まず青年の眼にうつる先生の不可解 なぞ な行為や思想が語られる。読者にはまた謎でしかない のだが、やがて〈先生と遺書〉の章で、先生の経てき 『明暗』は作者の死によって中絶した長篇小説である。た人生の曲折をあかしながらそれらの伏線が解明され、 このことが鑑賞にしろ批評にしろ、『明暗』を論じよう 首尾の照応がととのうのである。 とする試みに多くの困難をもたらすことになる。とく『明暗』の場合でも、登場人物のなにげない行為やさ に鑑賞は、ある作品を全体として眺望しながら、そのさやかな心理の動きにさえ、読者はしばしば、それら ぎようじゅ 全景と細部を過不足なく享受しようとする作業なのだ がのちに重要な意味をもって働きはじめるのではない から、語の厳密な意味では、未完成な作品の鑑賞など かとの予感をつ。いわくありげな場面が無数にある ありえないともいえる。むろん、『明暗』は未完成ではのだが、そうした細部と全体との関係を正確に抑える あるが、現に書きあげられた形だけで充分に鑑賞に試みは、この小説が未完であるためにほとんど不可能 耐える奥行きをもっている。複雑に織りなされた人間 なのである。だから、『明暗』について多少ともたちい 模様が読者をふかい魅力にさそってやまないのだが、 って考えるためには、書かれなかった結末を漱石の意 それだけにいっそう中絶が惜しまれるのである。 図にできるだけ忠実に復元すること、すくなくとも、 『明暗』解説 三好行雄
に属する。この部門のみを独立させた近代最初の名著を解析した手口とほぼひとしい。されば「世人或は表 たる島村抱月の「新美辞学」 ( 明治三五・五刊 ) の重現を以て形式に属すとなすものあるは誤れり」として、 点が「修辞論」であり、さらにその発展上にある五十その場合もまた ( F + この公式の外に出ず、「吾人 嵐力の「文章講話」 ( 明治三八・六刊 ) の中心が、「文の所謂表現法は六章の内容に即してのみ用ゐる可き一一一一〕 章修飾論」であるのは、それを証する。これらは何れ語なるは疑ふべからず」としている。何れにせよ、こ の角度から漱石は「幻惑」の具体的手段として、投出 もイギリスの修辞論に根拠を得て、日本の詩歌文章に 実例をもとめたものであ 0 た。漱石の場合は例文はす語法、投入語法、自己と隔離せる連想、滑稽的連想、 べてイギリス文であり、イギリスの修辞学書は多少参調和法、対置法の六方法をひき出し、対置法にはさら 看したと思われるが、漱石はその種の修辞学をも 0 てに緩勢、強勢、不対の三法を区別した。そしてこれら 「徒らに専断的の分類に力を用ゐ、其根本の主意を等の六法に対するものとして写実法を置いたが、写実法 もまた、あたえられた材料を如何に表現すれば写実法 閑視する傾向あれば其効著しからず」と棄ててかえり みない。おそらく抱月や五十嵐の著書も、漱石の目にで、その効果はどこにあるかを主眼として処理されて いる。この点、ふつうの文章修飾の形式を論じる修辞 入ったとすればこの種の貶評をまぬがれなかったであ 学が、写実論を除外する場合と、おもなきをことにす ろう。もっとも抱月の場合はマーシャルの美学によっ て美論を最後に添付しているが、それと修辞論とは有るが、しかしさすがの漱石としても写実法を「観念の 連想」に基礎をもとめて他の諸法たる擬人法 ( 投入語 文機的に連絡していない。 の 石 これらに対して漱石は心理学的立場に徹底して、表法の一 ) や直喩 ( 自己と隔離せる連想 ) と同一範疇に 目 現手段を一種の「観念の連想」を利用したものと見て、おさめるには苦しんだ気配がある。写実法の効果を 夏 その面からメスをあてている。それは彼が文学の内容「わが親しく見聞せる日常生活の局部が其儘眼前に揺
があり、坊っちゃんの旗本と土百姓という意識と同じエネルギ 1 が、「駆け上るような」文体を生み出し、な である。坊っちゃんらと「ごろっき手」およびその志まじっかのリアリズムの到底及ばぬ日本文学における 身分意識によって断絶し全く独自の教師像をつくり出したのではないか。 望者の中学生らは、こういう ていることがわかってくる。たしかにこれは封建的身しかし、以上のような理由づけは、やはり相当概念 分意識にほかならぬが、坊っちゃんの場合、佐幕派と的なものであって、「冷淡」ひいては憎悪とも言うべ いうことで立身出世コースにある俗物たちを批判し得き坊っちゃんと生徒および他者との関係は、さらに生 るし、また、その身分意識によって、町人・百姓を批理的・肉体的な次元にまで及んでいるような感じがあ 判し得るわけである。 る。坊っちゃんの孤絶感には、山嵐さえもうかがい得 よ、まどのものがあるのではないだろうか。 教師と生徒との関係で言えば、本来連帯としてあるオし ( べき生徒までもひとしなみに否定するほどのエネルギ ーをこの意識はつくり得ているということである。ほ さきに引用した猫の批判のなかに、「嘘をついて人 とんどの教師小説が持っている教師と生徒との連帯意 識を、あえて断ち切ることによって、中学生批判は痛を釣る事」「先へ廻って馬の眼玉を抜く事」「鎌をかけ 烈な力を獲得する。同じく教師間における連帯の不在て人を陥れる事」というのがあったが、「ごろっき手」 は、赤シャツ・野だ的なものへの批判の方に倍加してを批判する理由には、このような卑劣なやり方自体が いるのた。「善」「正直」ということと生徒への「冷淡」大きな位置を占めており、このことは、坊っちゃんが ということが裏腹になっている苦沙弥の場合を、より「嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意気な悪い いたづらをして」と中学生を批判するのと一致してい 激化させたのが坊っちゃんの場合であり、生徒を無 視・否定する教師という矛盾的存在が持つ「正直」のる。このことは、言いかえれば、坊っちゃんがつねに
違う、という意味の「ウラコト・ ハ」である。しかし、 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい くつろげ 所をどれほどか、寛容て、東の間の命を、東の間で次の「人でなし」は、たたなるウラコトパではなく、 も住みよくせねばならぬ。こ & に詩人という天職が積極的な「第二」という意味の単語である。英語で表 わしてみると、 出来て、こ、に画家という使命が降る。 human 人の世 有名な箇所だが、ここには、しりとりのくりかえし non ・ h uman 人でなし (—) inhuman 人でなし ( Ⅱ ) 唯の人である。唯の人が作った : ・ ・ : 猶住みにくかろう。越す事となるだろう。 越す国はあるまい。 東の間の命を、東の間でも住みよくせねばならぬ。 のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所を : 前の場合の「東の間」は、人間の一生を表わし、あ 以上のしりとりは、同じ意味の句のくりかえしだが、 くりかえしのために句調がよくなるばかりでなく、意との「東の間」は、一生のうちのまたしばらくの期間 ( または時間 ) をさす。同じ「東の間」という字句で、 味が通りよくなっている。これが本来の意味のリダン 違った内容が示されている。こういうやり方は、論理 ダンシーである。 的にいうと、セマンティックコンフュージョン ( 意 たが、この文章には、もう一つのリダンダンシーが ある。それは同じ「字句」で、少し違った意味のこと味学的混乱 ) といって避けなければならぬものだが、 漱石がやると、特殊の文学的情感を生み出す。 を表わしている場合である。 以上の三点で漱石の文体が、循環性気質の性格を基 越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許り 本的にもっていることが明らかになった。しかし、漱 だ。人でなしの国は人の世より猶住みにくかろう。 この句の場合、前の「人でなしーは「人の世ーとは石の文体特長は以上にとどまらない。彼にはまだまだ 、 0 158
じがするか、について、右と同じ流儀で、精緻厳密なが、時にその自分の理論に煩わされた嫌のあることは、 議論を展開している。ついでにいうと、漱石のデフォある場合については認めなければならぬと思う。右に ー論は、或意味で変ったものである。変ったというの引かれたスコットにしても、その他の作家にしても、 は、漱石が詰まらぬものを詰らぬと納得させることに漱石がその「文学論」「文学評論」等で効果ありと認 詳細綿密な議論をしているからである。大概のものは、めた技巧を用いて成功したものは、多くはその創作の 価値ありと認めるものについてその価値を評論するこ体験工夫の間に、謂わば自然にそれを体得したのであ とは敢て辞せぬ。しかし、価値なしと思うのに対しるが、創作家として出発する以前にすでに精緻なる文 ては、これを議論に取り上げるだけの興味を起こし得学理論を持っていた漱石の場合には、技巧が自然に理 ないのが常である。然るに漱石はデフォーの小説がっ 論に適うのでなく、意識的に理論に導かれたという嫌 まらぬもので、ある意味において「無理想現実主義のはなかったであろうか。門外漢がいってはおこがまし いが、彼れの幾つかの作品にはその形迹が見えると思 十八世紀を最下等の側面より代表する」といい乍ら、 つぶさにその多くの作品を引いて、いかにそれをつまう。 彼れが小説の布置結構を重んじ、またそれを重ん らぬとしなければならぬかを詳論している。ここにもするについて相当の理由を示し得たのは周知の通りで 漱石の理論好きと同時に、何事にも立言を苟もせぬ律あるが、それが充分成功しなかった場合には、蝣え物 気の性格が現われている。 の批評を辞することは出来ない。漱石が田山花袋に答 えた文の中に、「拵へものを苦にせらるよりも、活き 漱右の如く漱石は、自家一個の方法をもって深く文学て居るとしか思へぬ人間や、自然としか思へぬ脚色を 理論を究めた人であり、「文学論」「文学評論」は傑作拵へる方を苦心したら、どうだらう」といったのは、 夏 のトルソと許すべきのであるが、作家としての漱石漱石としては理由のあったことであろうが、彼れの作 0 )
な感じが乏しくなる、物足りない憾みが生する。 さえあれば、異常生活の心理描写を成し遂ける上に、 漱石先生は一体異常生活と云うものが嫌いのように もっと大きな役目を務め得ると云うことを信じて疑わ も見える。従ってそう云う生活には成るべく触れずにない。従って私は切に漱石先生が、この方面に興味 通り抜けようとしていられるようにも見える。然しを持たれんことを希望する。 シテュエーション 場合が既にそうなって来ている以上は、何処まで も突き込んで書いて貰いたいと思うのは、恐らく私一 人の願いのみではあるまい。例えば、今にも死にそう 漱石先生には漱石先生に特有な Realism の要求があ なま な父を跡にして東京へ「先生」の処へ駈けつけようとる。漱石先生は一切の思想を、生のままで文芸上の作 かたち する主人公の心理も、若しくは自分が活らき掛けた為品の中に盛ることを許さない。一切が具像の貌におい に竟に一人の親友に自殺させたと云う「先生」のそのて描き出されなければならないと考えていられる作家 死骸を見た前後の心理も、若しくは「先生」が愈自殺である。 するときの心理も、漱石先生は場合が場合であるに拘それに私は何の異論はない。 然し漱石先生の此 Realism の要求は、普通あるべき でわらず、成るべく避けて通り抜けようとしていられる ん としか考えられない。 こう云う折の心理描写を読むと筈の要求よりも、今少し極端に進んで行っていはせぬ を き、私は汗をかいた眼鏡越しに物を見るように、今迄かとも、私には思われる。特にそれが『心』において、 鮮やかだった一切の輸廓が急にぼんやりして仕舞うよ可成極端に進んで行っていはせぬかと考えられる。 の 当うな気がする。 私は『心』を読んでいて、自分の志す処へ早く連れ 私は漱石先生の想像力と感情移入の力と最後に日常て行って貰えぬ辿しさがあった。従って書かれんとし 生活におけるあの鋭敏な細緻な観察とが、先生に意志た根本問題の直接性がその為め ( 読者の感受から云っ
『おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰しやる事はれは今まで私が、漱石の振り捨てなければならないも のとして列挙して来、それを卒業することによって小 何だかちっとも分りやしないわね』 細君はこう云い云い、幾度か赤い頬に接吻した」説家として大成した漱石が、反対にますます身につけ これは漱石のわれわれに与えてくれた人生の知恵でて来て、漱石を漱石たらしめた、最大のとは言わず、 ある。それはまた「門」の最後の会話を思い出させる。むしろ最も目につく要素であった。漱石の書くような 「お米は障子の硝子に映る麗らかな日影をすかして知的な女性は今まで日本の文学で登場しなかったので はなかったろうか。荒正人氏は、漱石の女性を次のよ 見て、 ( 夫の宗助に ) うに分類している。 ( 『夏目漱石』二九八頁 ) 『本当に有難いわね。漸くの事春になって』と云う 「現実感を与えられている女性は、『虞美人草』の て、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く 藤尾、『三四郎』の美禰子、『行人』のお直など 延びた爪を剪りながら、 つまり謎めいた性格を与えられる場合と、『虞美人 『うん、然し又じき冬になるよ』と答えて、下を向 草』の小夜子、『門』の御米、『こころ』の奥さんな いたまま、鋏を動かしていた」 」とノ . い ) 勹 -. 万物流転の思想は漱石の東洋的な悟道の精どのように静かな消極的性格として描かれる場合と、 『虞美人草』の糸子、『それから』の三千代、『彼岸 試神を語っているののように思えるが、そ つの相手が、お住とかお米とかいう、性格は全く反する過迄』の「須永の話」の千代子、『明暗』のお延、 のけれども、要するに旧式な日本の女性であるのは一顧お秀などのように幾らか積極的な性格として設定さ 説の価値がある。漱石はああいう昔から日本にいる女性れる場合と、およそ三通りほどに分けることができ る」 石たちのほかにもっと活な知的な、論理的な、男をや というのだが、そのまん中を除いて、謎めいた性格 つつける積極的な女性をその小説中に登場させた。こ はさみ
墓ーとあり、側面と花立に「夏目氏」と刻まれているい若い女を見出しておどろく。この小野田の令嬢と浩 きりで、日付・戒名など一切ない。幕政時代では身分さんとは、本郷郵便局で二、三分顔をあわせたにすぎ ない間柄なのだが、「父母未生以前に受けた記憶と情 上、墓も武士階級のそれとは区別されなければならな 緒が、長い時間を隔てて脳中に再現する」という〃趣 かったのかも知れない。 駒込の寂光院というのを書くとき、漱石がわが家の味の遺伝〃により、現実には結ばれ得ない愛において 菩提寺本法寺を思い浮かべたろうことはほぼ明らかで、深くつながれ、こうした墓参ということになっている 墓地の模様をくわしく「趣味の遺伝」で叙述しているのである。この場合、浩さんと令嬢とを逆にして、浩 漱石は、「坊っちゃん」では、たんに「小日向の養源さんが墓参するというようにしても″趣味の遣伝〃の 寺ーとのみ記すにとどめたと言えようが、ここにも理論の上では何ら不都合ではない。「坊っちゃん」の 「小日向の本法寺ーは重ねられていたはずである。こ場合は、「小日向の養源寺」に眠るのは女の方である。 しかし、その場合漱石は、その女を「父母未生以前」 ういう小さな一基の墓のイメージの中で、清が眠り、 ・ : 。なお、「養源から結ばれていた女とはせずに下女の婆やとしたので 坊っちゃんの来るのを待っという : ・ 寺」という寺は東京には二つ実在していて、一つは本ある。「趣味の遣伝 , では男が死んでいる。この二作 郷区駒込千駄木林町にあり、漱石の当時住んでいた駒を「坊っちゃんー寄りに重ねあわせれば、寺と墓の叙 論込千駄木町のすぐ近くであった。もう一つは荏原郡池述をふくめて、現実には結ばれ得ずして死んだ女を悼 上町にあったのだが、これはイメージの上からは無関む男の姿が浮かびあがってくるが、漱石はひたすら虚 ん や係だったろう。ここでは「小日向」という点が重要で構のなかにそれをぬりこめていたのだと一一一一〕える。 「趣味の遣伝」は軽妙なタッチで叙述されているが、 坊ある。 「趣味の遺伝」では、「余」は浩さんの墓の前に美し末尾には「清き涼しき涙を流す」ともあるごとく、深 357