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検索対象: 夏目漱石全集 別巻
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1. 夏目漱石全集 別巻

見て何を意味するかを、広田先生の過去の経験が説明る詩的な眼を失ったのは、女とは思えなかった母の 「女」を見せつけられて幻減した明治二十三年であっ してくれる。広田にも「森の女 . があったのである。 た。彼の「森の女」は取りもなおさす彼の最後の理想 二十年前に見たその女は先す夢に出てくる。 「僕が何でも大きな森の中を歩いて居る。 : : : 森の下的な女であった。 彼女を見て「頭の中へ焼ぎ付けられた様に、執い を通って行くと、突然其女に逢った。行き逢ったので ・ : 二象をー受けた時広田は何歳であったろうか。与次郎に はない。向は ( 絵のように ) 凝と立ってゐた。・ よると広田は「十二、三年ー ( 四 ) 学校で教えている。 十年前見た時と少し変らない十二三の女である。 もし明治二十八年に愛媛県尋常中学校英語教諭として : 女があなたは、其時よりも、っと美しい方へ / \ と御移りなさりたがるから ( 年を取ったの ) だと教へ赴任した時から、漱石が教師のまま続けていたら、 て呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女『三四郎』を書いた明治四十一年に丁度十三年教えて が僕に、あなたは詩だと云った」 ( 十一 ) いたということになる。四十二歳の漱石は広田を四十 広田が夢の女に森の中で会うのは、二十年前に実際二歳として描いたに違いない。そうであれば広田が森 に見た時、彼女は森有礼の葬式に居たからである。森有礼の葬式に参列した明治二十二年の時漱石と同じよ 有礼が死んだ明治二十二年の翌年に、広田は死に瀕しうに二十三歳であって、女に幻減した翌年に二十四歳 だれそれがし おとっさん であった。 ている母親から「実は誰某が御前の本当の御父だ」 と告白されて、「結婚に信仰を置かなくな」った。 漱石の作品に出てくる数多い無邪気な坊っちゃんは 郎明治二十二年には広田は理想的な女を見るのに十分ほとんど皆二十三歳である。三四郎をもわざわざその 三に「詩」的であったが、今は「僕は君よりも遙かに散年にしたのには些か無理な所がある。教育制度がまだ 文的に出来てゐる」間違いなく彼が理想的な女を見完全に整っていない時代だったにせよ、三四郎が遅れ

2. 夏目漱石全集 別巻

したものであろう。『三四郎』に現われた、このよう な、小説家の人間観と態度は、初期の作品に現われた 発見と美学の、直接の延長線として見えてくる。 『三四郎』以来、漱石は自分の長編の中で現代日本の、 というより、都会の中の人間を、一心に描ぎつづけた。 他の題材は、一切取り扱わない。 平凡なことのように見えるかも知れないが、明治か ら大正にかけて活動した作家の中には、こういう例は きわめて少ない。そこにもやはり、漱石の姿勢、漱石 の眼が現われているように感じられる。 幺夂己 この試論には、さらに精密に調査と分析を進め なければならないところがいくつか残っているが ここではそれを省かなければならなかった。読者の 街許しを乞いたい。 判引用は、鵰外全集 ( 岩波書店、昭和二十六年ー三十 一年 ) 、森鵰外全集 ( 筑摩書房、昭和三十四年 ) 、漱 石全集 ( 岩波書店、昭和三十一年ー三十二年、昭和 四十年ー四十二年 ) によった。 ハリに住んでいる私は、この都会が年々変って 行くのに驚く。この変貌の過程を、時間のたつにつ れて見て行くと、毎年毎年 ( 一刻一刻といいたい圧 もあるが ) 様々な面で。 ( リが漱石の描いた都会に近 づいてくるのに驚かされる。漱石がこの現実を今な お見つめているというより見守っているように思わ 一九七二年八月、十月 れてならない。 319

3. 夏目漱石全集 別巻

小宮漱石の「猫」から最も影響を受け、いつまでも 安倍「白樺」の初めだったね。 それを抱きしめているのは内田百閒たろう。 武者第一号だった。漱石が悪口言われていたという にせ 長与賢猫を書いたね。 んで、こっちは憤慨していたんだ。 安倍無学なる夏目漱石みたいなところがあるね。 安倍大内君は何時頃から ? 大内は中学の四年か五年頃、「ホトトギス」に「吾辰野漱石の方が小説家たるには余計な学問がありす ぎたかも知れない。 輩は猫である」が出た時、それを初めから読んたな 小宮しかし百閒は不思議な才能を持っている。変な ことを書いているくせに、なかなか面白く読ませる。 小宮あれは明治三十八年の正月から出たした。一九 安倍文章は実にうまいね。 〇五年のことで、丁度今日から五十年前の話た。 辰野「菊の雨」なんて小品は実に見事だなあー 大内それでは中学の三年だな。 辰野僕は中学五年の時、国語の福井久治先生が「ロ長与あれは可愛がられた ? 余程。 安倍岡山の高等学校にいて、その時分から漱石を愛 ンドン塔」を読んでくれたのが始めてだった。 武者出たては知らなかったんだけれども、後で志賀読して崇拝していたんたけれども、来たのはやはり から借りて読んだか何かして、随分評判になった後先生が亡くなる二年か三年位前だろう。そうじゃな で読んだけれども。 小宮いや、先生が修善寺で病気をして、それが癒っ 語長与「猫」かい ? て帰って来て、まだ長与の兄さんの病院で静養して 石武者うん。 いた時にたしか会いに来た筈だ、初めてね。それが 目大内中学の作文に何か書いたら、先生にお前は漱石 面白いんだ。その時内田はメリャスの股引をはいて の真似をしていると言われた。 ( 笑声 )

4. 夏目漱石全集 別巻

クレイグ先生と藤野先生 熱心な英語英文学の研究者で、なみなみならぬ辛抱 石の作中にも出てきたダウデンはいまなお名前の伝わ 、トリニティーで るダ。フリン大学の教授だ 0 た人だが、クレイグの方は強さの歩行者でもあ 0 た。卒業後 歴史と文学の私的なチ = ーターをしていたが、一八 相当教養のあるアイルランドの人に聞いてももうすっ 七四年ロンドンへ移り、陸軍や公務員を志望する者 かり忘れられてしまった存在であるらしい。それでも の私的なコ 1 チを勤めた。一八七六年にウ = ールズ クレイグ William James C 「 aig ( 一八四三ー一九〇六 ) のアベリストウイスのユニヴァーシティ・カレッジ の名前は The D 、、 ~ ミ受 of N ミ ~ ・ミ ogr 。、 h の の英語英文学の教授に任命されたが、彼がそこで開 第二附録に載っていたので、それを手蔓にいくつかの 設したシェイクス。ヒアを読むクラスはこの劇作家を 事実を知ることができた。まずこの『大英伝記辞典』 知る上で非常に刺戟的で、彼は自分の文学的熱情の ( 一九二〇年版 ) から抄訳して紹介しよう。 幾分かを学生たちにわかち伝えた。その時の教え 子の中には後に代議士になったトマス・エドワー ド・エリスもいれば高等裁判所所長になったサミュ エル・エヴァンズ卿いた。彼は一八七九年教職を 辞してロンドンへ戻りまたコーチの生活をはじめた。 リ . 1 ー 一八八四年にはハットフィールドでソールズベ ・セシル卿のチューターとなった 侯爵の末子ヒュー が、その時期を除けばいつもロンドンで私的教授を して生計を立て一八九八年に及んだ。その年から死 ぬまでクレイグは彼の全精力を文献学的ならびに文 シェイクス。ヒアの編纂者であるクレイグは一八四 ョ Co. Derry の Camus juxta 三年十一月六日、デリー月 Bann 別名 Macosquin で当時その地で副牧師をして いたジョージ・クレイグ ( 一八〇〇ー一八八八 ) の 次男として生まれた。ポ 1 トラ・スクールへ通った 後、一八六一年七月一日ダ・フリン大学のトリニティ ・カレッジへ寄宿生として入学、一八六五年歴史 と英文学で銀牌を得、学士として卒業した。修士の 学位を得たのは一八七〇年であった。学部時代から

5. 夏目漱石全集 別巻

千谷七郎博士は、クレチマーの性格学に対してはは 異常」 ( 昭肥 ) 千谷七郎博士は、これに反して、ポジティヴな説をなはだ懐疑的である。懐疑的である、というより、ア 提出する。それは漱石を「うつ病」とするものである。タ「からバカにしてかか 0 ている、とい 0 たほうがい いかもしれない。もちろん千谷博士のクレチマー評価 漱石には、はっきりそれとわかる「病気」の発作が三 および、その評価に原理を提供したクラーゲスの考え 回あるが、それは、 方には一理ある。しかし、他方から考えると、漱石の 第一回明治二十七年、八年 ような天才の仕事を科学的に解明していくのに、 第二回明治三十五年、六年、七年 一派の考え方だけで、どれだけうまくいくだろうか。 第三回明治四十五年、大正元年 と、だいたいにおいて七年か八年の周期をおいてくりわたしは長い間心理学をやってきた。理論を考えると かえされている。これはゲ 1 テの周期とたいへんよくきには学派それそれの方法論が重要だが、生きた人間 をつかまえたり、または現実の問題を処理するときに 似ている。ただし、ゲーテは八十歳まで長生きしてい るので、その発作も七回と漱石より多いが、周期は似は、手もちの材料を全部つかうことにしている。「心 理」のような複雑な現象では、それでもうまくいかぬ ている。 ことが多いくらいである。天才のように心理の中でも、 千谷博士の診断は、漱石の手紙・日記・小説 ( 主と して「行人」 ) をすっかり洗いつつ行なわれたもので、最徴妙で奥ふかく、つかみにくいしろものを解きあ 非常に説得力がある。で、わたしは、ここでは、漱石かしていくのに、この派の考え方はだめで、あれは浅 いと、方法のえりごのみをしていたのでは、たいせつ 文の精神異常を「うつ病」とみ、これが循環的にくりか なものを見のがしてしまうおそれがあるように思われ 石えされるところから、基本的生活を ( 循環性性格 ) と 考える仮説を採用したい。 151

6. 夏目漱石全集 別巻

月二十四日、同校尋常科第一一級後期を卒業した。のち、神田 明治八年 ( 一八七五 ) 九歳 一ッ橋の、東京府立第一中学校、正則コース ( 普通学、他に 五月、下等小学第八級、第七級を同時に卒業。さらに十一月、変則コースは英語に重点をおいていた ) に入学した。 同第六級・第五級を卒業した。 明治十四年 ( 一八八一 ) 十五歳 明治九年 ( 一八七六 ) 一月二十一日、実母千枝死去 ( 享年五十四 ) 、その衝撃は大 きかった。東京府立第一中学校を中退して、漢学塾の一一松学 二月、養父が戸長を免ぜられ、四月、やすとの離婚が決まり、 金之助は塩原家在籍のまま夏目家に引きとられた。五月、戸舎 ( 町 ) に入学、七月、同学舎第三級第一課卒業、十一月 田小学校の下等小学第四級を卒業した後、実家近くの市ヶ谷 には第二級第三課を卒業した。以後一年程二松学舎に在籍し 小学校下等小学第三級に編入、十月に卒業。養父は東京警視たが、次第に大学進学のための英語の学習の必要性を感ずる ようになった。 庁に勤務、かっ、れんとともに八月ごろ下谷西町に住んだ。 明治十六年 ( 一八八三 ) 十七歳 明治十年 ( 一八七七 ) 十一歳 九月、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学、大学予備門 ( 後、 五月、市ヶ谷小学校の下等小学第一一級を卒業。十二月下等小 学第一級を卒業した。実父直克は内務省警視局勤めに転じた。第一高等中学校、第一高等学校と漸次改称 ) を受験するため、 養父昌之助は八月十一日、かっとれんを塩原家に入籍。 英語の学習に専念した。成立学舎で、佐藤友熊・中川小十 郎・太田達人・橋本左五郎らと知り合った。 明治十一年 ( 一八七八 ) 十二歳 譜 明治十七年 ( 一八八四 ) 十八歳 一一月十七日、漢文「正成論」を書き上げ、友人島崎柳塢らと 年の回覧雑誌に発表。四月一一十九日、市ヶ谷小学校上等小学第この年、橋本左五郎と、小石川極楽水 ( 現在、文京区白山三 八級を卒業。その後、神田猿楽町の綿華小学校に転校し、十丁目 ) の新福寺に下宿をし、自炊生活をはじめた。九月、大 511

7. 夏目漱石全集 別巻

の広田先生の運命的恋などから森有礼暗殺の年と推測け混同しているためにこんがらがり、「得体の知れな されるので、この恋は前年から続いていたものと思わい変な話」とか「妄想」という疑間が生ずるのである。幻 れる。ミザントロップを訴えた手紙の日程前、同じ宝蔵院下宿は明治幻年川月であり、たけながの娘との く子規宛に「昼寝して夢に美人に邂逅したる時の興味出会いより五年も後の事である。後述するが、これは 抔は言語につくされたものにあらす」「何の因果か女親友小屋と楠緒子の婚約近しと聞いて漱石が兄に食 0 しよせん たた の祟りか此頃は持病の眼かよろしくない方で読書もでてかか 0 たものと思う。所詮たけながの娘に対する恋 も青春時代にあり勝ちな虹の如くはかない恋であった きず」 ( 年 7 月日 ) と述べており、翌幻年 7 月 日、一年ぶりの再会に思わず「顔に紅葉を散ら」す。ろう。その証拠にたけなが女性との再会を報する子規 この井上眼科で再会した「たけながの娘」は鏡子の宛書簡 ( 幻年 7 月日 ) は、照れ隠しもあるが深刻と いえす、茶化し気味である。 「漱石の思い出」 ( 以下、「思い出」と略す ) によると この六日後、嫂の不慮の死が訪れる。嫂の死を切々 生涯彼が追い求めた瓜実顔ですらりとした色白の楠緒 子的女性である。この女性につき江藤氏は妄想説を立と訴えた幻年 8 月 3 日の子規宛書簡が間題になってい てているが、こうした子規宛の手紙があり、しかも漱るが、江藤氏のいうような禁忌的恋愛ならば、もっと 石が亡くなる四、五年前、虚子と九段で能を観た時、押えて書く筈である。ここには姉と慕う敬愛する嫂を 二十年ぶりに再会したと本人が述べ、兄も女の名前を突加失った悲しみと衝撃があまりにも手放しで述べら 知っている筈 ( 「思い出しという以上、実在したと考れ、道徳的後めたさや不義感は働いていない。少くと も嫂への恋は意識されていない。禁忌的恋愛があった える方が自然ではないか。 問題は、鏡子も江藤氏も宝蔵院下宿時代、漱石が兄としても無意識のものであろう。 かくて次に大学院生時代、漱石の心を捉えた女性と に食ってかかった縁談話と「たけながの娘」を結びつ

8. 夏目漱石全集 別巻

て、これは、これ単独で完結するものとして書かれたの事情から言っても、根拠のない見方ではないだろう。 ものである。三十八年一月号の『ホトトギス』に掲載そこでまず、『猫』 ( その一 ) は、どのようにして書 された結果、大変な評判になり、回りの人々の勧めに かれたのか。それをめぐる漱石における内部的外部的 従って漱石は、その第二篇を書くけれども、これも事情はそれぞれ著名であるから省くとして、差当たり 「続篇」と記されており、更にそのあと書きついで行押えておきたいのは、それが『ホトトギス』同人の文 く意図は明瞭ではなかった。四月号 ( これは『ホトト 章会である「山会」での朗読のために書かれたという ギス』通巻第百号の記念号であった ) に、その第三篇点である。『ホトトギス』と漱石の間には、創刊以来、 を載せる際も、「続々篇」と記されてほぼ同様な事情長年の歴史があり、それは勿論正岡子規在世当時から が考えられる。これを長篇小説となす企図が生じたのの関わりであるが、三十四年五月三日に、子規に宛て は、早くともその第五篇までの分を、上巻として上梓た私信として書かれた「倫敦消息」が載ったりした他、 する ( 三十八年十月 ) 以後のことであろう。この点の殊に三十六年一月帰朝以来の漱石の創作欲の一種のは 追求は、当面は別問題であるが、とにかく『猫』は当けロとして格好な舞台であった。三十六年六月号に 初から一篇の長篇小説としての構想は全然なしに書き「倫敦消息」の系に連なる「自転車日記」が発表され はじめられた。連作的性格が、長篇小説としての性格ているのは、写生文の展開と無縁ではないし、更に、 よりも強い所以である。 三十七年頃の『ホトトギス』誌上の写生文が、一般的 特にここでは、『猫』と『漾虚集』所収各短篇小説には行詰りであると自覚され、新奇な傾向が待望され との相互作用につき微視的に検討したいとする立場かて、写生文の小説化が試みられつつあったことは、 らは、各一回ずつの『猫』を、それぞれ一篇ずつの短『猫』 ( その一 ) の書かれる素地として留意される必要 章として一応独立させて見る必要があり、それは如上があるだろう。それに、三十七年八月号には、虚子の 324

9. 夏目漱石全集 別巻

てあり、しかロンドンで池田菊苗のような化学者と 十一月十三日水学資来ル文部、中央金庫へ受親しくつきあって学問論をたたかわしたとなれば、英 取ヲ出ス。 文学を文学として享受するたけでなく科学的研究の対 象にしなければならぬとする意欲は強まっていたこと というのであった。そして十一か月の間に四十二回も だろう。漱石にとって English Literature はいままで 記入された Craig という横文字の名前ももうそれきり はいってみれば英「文学」だったが、漱石はそれを英 ばったり消えてしまった。 文「学」と見做して一つの学術論文にまとめあげよう ここでクレイグ先生その人の話にはいる前に、漱石と決心をしたのだった。そしてそれによって自己の英 のイギリス留学の第一年目と第二年目の質の差を多少国留学の証しを立てようと思ったのだった。もっとも 考えてみよう。実はこれは漱石におけるイギリス嫌いそのように意は決したものの、一体どのようにしてこ の心理の発生とも無縁ではない事柄なのである。漱石の外国文学の研究に手を着けてよいかは皆目見当がっ 自身は留学第一年を「検東なき読書法」のうちに経過かなかった。それで明治三十四年九月にはーー・それは して、時日の逼れるのに茫然自失したという。留学第もうそろそろクレイグ先生の家へ通うのをやめようと 一年が経過した明治三十四年末は彼が満三十四歳の年思っていた時期だが、ーー寺田寅彦へ宛てて「学問をや である。国家から選ばれて英国へ派遣された官費留学るならコスモポリタンのものに限り候。 : : : 僕も何か 生である夏目金之助は、漠然とした読書といった受身科学がやり度なった」という普遍性のある自然科学研 の努力だけでなく、自分で能動的になにか研究をま究への憧れなどを洩らす破目におちいったのだろう。 とめなければならぬ、という義務感に責められていたそれで英文学研究についても「文学とは如何なるもの に相違ない。漱石はもと恚と自然科学的な頭脳の持主ぞーという問題を自分で自分に強引に課して、半ば自 せま

10. 夏目漱石全集 別巻

二歳 明治五年 ( 一八七一 l) 慶応四年・明治元年 ( 一八六八 ) 十一月、塩原昌之介 ( 天保十年生、当時一一十九歳 ) 。やす夫二月、壬申戸籍 ( 我国最初の戸籍 ) 編成に伴い、養父は金之 婦の養子となり、内藤新宿北町十六番地 ( 現在、新宿二丁助を実子として登録、塩原家戸主とした。七月、養父は第三 目 ) の同家に引きとられた。 大区第十四小区 ( 事務扱所は赤坂田町 ) 一一等戸長に任命され 内藤新宿から通勤した。 三歳 明治ニ年 ( 一八六九 ) 七歳 明治六年 ( 一八七三 ) 四月、名主制度廃止に伴い養父塩原昌之助が四十一番組添年 寄 ( 事務扱所は浅草寿町 ) となったので、浅草三間町に転居三月、養父が第五大区第五小区の戸長に転じ、事務扱所 ( 浅 した。この際実父直克は一一十六番組中年寄及び世話掛に任命草諏訪町四番地 ) の様続きの家に移り住んだ。 された。 明治七年 ( 一八七四 ) 四歳 明治三年 ( 一八七〇 ) この年初めごろ、養父が日根里 ( 日根野だともいう ) かっと いう未亡人 ( 当時二十八歳 ) と懇ろになり、養母との間が不 四月、種痘の全国実施が太政官令として布告、おそらくこの 際の種痘が因となって金之助は疱蒼を病んだため、生涯顔に和となった。四月ごろ養母やすと金之助はいったん夏目家に 引きとられたが、後夏目家を出て二人だけの生活をした。史 あばたを残すこととなる。 に後、やすは金之助を昌之助に返し、金之助は養父が日根里 明治四年 ( 一八七一 ) 五歳 かっとその連れ子れんとともに住んでいた浅草寿町十番地の 五月、番組制廃止により養父が失職、浅間三間町から内藤新家に移った。十二月一日開校された浅草寿町の戸田小学校の 宿に引揚げた。しばらく、休業中の遊女屋伊豆橋に移り住ん下等小学第八級に入学。 でいた。 510