態度 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 別巻
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1. 夏目漱石全集 別巻

う。 ( 吉川幸次郎氏、「中国詩人選集」杜甫跋、その他 ) 他の詩句が生み出される。もちろんそれは、現実に目 フィクションであり、抽象の世 睹する風景ではない。 社甫の詩と漱石の詩と比較することはできないが 漱石の律詩においても、対句は同じ原理の上に立って、界であり、最後に鬼気をはらむ白描の世界となる。 一つの詩の中で、詩的密度の高い部分と低い部分と その詩句の周囲に美的な雰囲気を凝縮しているのであ があるのは、止むをえないことである。短歌や俳句の る。むしろ、漱石において、そのことは過度であるよ ような、極度に凝縮された詩形が行われた日本では、 うだ。たとえば、九月二十七日付の七言律詩の第二、 一篇の詩のあらゆる部分が強度に詩でなければならぬ 三句目の一聯。 という考え方が、牢固としてある。 春は天辺に尽きて人は塔に上り 西洋でそのことに気づいたのは、たぶんポー以来の 望みは空際を窮めて水は帆を呑む が際立って私の眼に飛びこんで来るのであって、まさことで、詩の本質を煮つめてゆけば、それは必然的に 抒情詩たらざるをえず、抒情詩はおおむね短く、初め にこの詩の美はこの対句に凝縮しているようである。 から終りまで最高の調子を持続していなければならな 外の聯が人間くさく、散文の気に浸されるに従って、 かった。しかもそれは、無意識を排し、精密な制作原 詩中の対句の一つは、そこに人界を脱して自然の中に 理で、意識的に作り出されるものであった。それがフ 没しようとする欲求を秘めて輝き、詩中の詩となる。 こ至る運動である。それは ランスの象徴詩から純粋詩 ~ それは午前中に執筆した「明暗」の世界が、必然的に 分泌した形而上の世界で、小説の世界と詩の世界とは、詩から一切の不純な要素を払拭しようとする試みであ たがいに密着して相手に依存しながら、同時にそれはる。その精密で、意識的な制作態度を、日本では五、 、緊密 無限に遠いのだ。「現実界を遠くに見て、な心に」七、五、七、七、あるいは、五、七、五という 湧き出る心象風景として、「春は天辺に尽きて , そのに規制された形式が、詩人に代って意識してくれた。 1 イイ

2. 夏目漱石全集 別巻

生」がこの罪の意識を、思い切りよく不可抗のものとをする人だと云う感じがないでもない。 『心』の下篇「先生の遺書」に書かれた罪から、『心』 して仕舞っているらしい処に、大きな不満足を持って の上篇「先生と私ーに書かれた「先生」の態度へ、又 この態度からかの自殺へ、繋がり得るとも考え得られ 〇 れば繋がり得ないとも考え得られる。ああした事実を 罪の意識は最後にこの「先生」の生きんとする意志根拠とする罪の意識がなくとも、あの「先生」の様な を喰い殺して仕舞った。然し生きんとする意志は本能態度は出来上がり得られるし、同時に又ああした態度 を根抵とした力強い論理を持っている。それが喰い殺で生きている人から、ああ云う機会とああ云う論理と が、自殺する心を引き出すことは出来そうもないとも されて仕舞う迄には、其処にまた頭の中で随分劇烈な 戦いがなくてはならない。生きんとする意志の論理が考え得られる。そう云う意味で『心』の NecessitY に 夫は抗争に関す 一つ / 、粉砕されて行くとき、其処に死の問題が現わは或種のぐらっきがあると思う。 れ始めるであろう。死の問題が現われ始めても、生きる「先生」の内面が閑却されているせいである。 んとする意志はなお自己の権利に執着しようとするで で 〇 んあろう。この執着が幾度か突放され / して行く内に、 『心』の中の「先生ーは奥さんを非常に愛している。 人生に対するその人の態度に変化が生ずる。そうして この執着が全然截ち切られて仕舞うとき、初めて自ら然し奥さんから愛しられることを欲しない人のように 生自らの命を断って悔いない心持が生れるであろう。 見える。この「先生」の目から見るとき、男は何日で 先 石 『心』には此意味の執着が勘定に入れられていなも与える者 ( 強者 ) であり、女は何日でも受ける者 ( 弱 、。余りに訳もなく態度が変り、余りに訳もなく自殺者 ) でなければならないことになっているらしい。奥 435

3. 夏目漱石全集 別巻

すでに「自己本位ーを根本的な態度とする以上、他「文学評論」でのこの意味の趣味の普遍性は、風俗人 いいかえれば他人の「自情のことなる東西異人種の間について叙べたものであ 人の趣味、鑑賞の独立をも、 己本位」をもみとめねばならぬ。しかるに同一の対象るが、同国人で、かっ同時代人であって、自己と対立 に対して、自己の趣味判断が他と食いちがうことがあする評価や批評が公にされている事実が眠前にある。 しかもそれらの異説を退ける理論的根拠は、各人の鑑 る場合、とくに対手が未熟な経験のもち主の時には、 自分の方の評価がまさっており、彼は自家の見地をす賞の独立、各人の自己本位を動かすべからざる前提と て我に従うのが当然だという断定、もしくは希望があする限り、あり得ない。しかしそれでは散り散りばら ばらで心細く、どうかして各自の舌の底に一味の連絡 る。あるいはさらに進んで、一般的に作物の評価には という統一感を希求せざるを得ない。 統一があるはずだという気構えが自然に生じる。 をつけたい、 以上が「鑑賞の統一と独立ーで漱石の言おうとした 漱石は「文学評論」の序で、自他の鑑賞の一致する 場合があり得ると説き、その理由として「趣味の普遍要旨である。これを抽象的、思弁的な立場から考える 性、をあげている。趣味の全部にわたってはいざ知らならば、文学作品の本来の性格からいって、その価値 ず、人事自然において、強度はことなるにせよ、同一判断の尺度が個人によってことなるのは、受容の基礎 材料について共通の好悪判断を下す場合が第一 ( 鳥のとなる体験が永遠に未解決であり、本質上、対象が究 さえずる声を美しいときくなど ) 。それから材料の関尽し得ない以上、また対象に対する客観的態度が、理 文係按配の具合についての普遍性。構成・技法等の散漫想的に純粋化され得ない以上、むしろ当然と言わざる 石な点などを趣味の高い者が説明の労をとる時、相手がを得ない。にもかかわらず、各人それぞれに、普遍妥 ポストラート 目相当の修養ある人ならば、中心から屈服させ得るであ当的な価値観を予想し、統一的な美の標準を要請して加 いることも、また否定できない。嗽石のいわゆる評価 ろう。これが第二の場合である。

4. 夏目漱石全集 別巻

のである。 この家は美しくもみにくくもない。たたその機能に 応じて最も単純に作られたものである。平凡なもので 四 ある。実につまらないものである。何の装飾もない。 、、。伝来の美漱石の創作は、まぶしいほど多様多面である。初期 それよりも、何の形式もないといってし ( それは日本の伝統の美にも西洋の古代から伝わったの他の作品の中には、ロンドンの描写に現われた体験 美にもあてはまるのであるが ) とその形式は一切通用と美学は、全く見られないということはできないであ ない。かえ 0 て、この真四角な家の中では、銀牌なろうが、あまり重要な位置を占めていないようである。 どの、装節的な記念品が、むしろ滑稽に見える。彼の又手帳や断片を読んでもそれに関する記事は多く見当 「有名なるカ 1 ライル」は、此真四角な家の中で、「四らない。 しかし、漱石が『三四郎』を書きだしたときに、作 角四面に暮らしたのである」。丁度作家活動を始めた 漱石は、これを自分の創作の出発点にしたのではない者の記憶と感覚の中に積み重な 0 たものが一度に表に だろうか。四角な世界を前にして、一切の形式から離現われ、溢れだしたように思われる。 第二章の始めで、三四郎の前に東京が現われる。が、 れて。 美の崩壊をなげいてもそれは無意味である。この喪景色、景物、この「新大都」のめぼしい建物は一つも 失された美を求めて、あせ 0 て、何か「美しいもの」描かれていない。最初は、一つの音が耳に入る。「電 街をつくろうとしてもどうにもならない。それより、現車のちん / 、鳴る」音である。其「ちん / \ 鳴る」音 実の実体をつきとめなければならない。伝来の形式をにともな 0 て、「非常に多くの人間」がたえまなく動 いている。 一度否定してからその上、創作を始めなければならな 「丸の内 , という地名が出るが、描写らしい言葉は一 いという、二つの面で、これはまことに新しい態度な 3 ル

5. 夏目漱石全集 別巻

石はヒュームのように非我も我も外的もしくは内的知 ところで前者 ( 客観的態度 ) は非我のある関係を明 覚の体験の印象の東、感覚の東と見なし得るとしてい らかにするを主として、真を発揮するを目的とするに る。そのさい焦点のとり具合とつづき具合で、創作家対し、主観の側は美・善・壮に対する情報を助長する の態度がきまる。この点で彼の態度はあくまで経験論のを主とする。この三者に対する我の受け方は快不 的であり、連想心理学と密接する。 快・好悪に帰する。しかし真を目的とする場合は、叙 さてあたえられた物を叙述する場合、主知 ( 客観 ) ・述にさいして好悪をすて、取捨を廃さなくてはならな 主感 ( 主観 ) にそれぞれ三つずつの対応する態度が存 い。公平の叙述でなければならない。逆に真以外の ・ハーセ・フショナル シミリイ コンセゾシ する。①は知覚的な ( 客観 ) に対する直喩、②は概念美・善・壮を助長する側では好悪が焦点を支配する。 的に対するメタファー ( 大胆なる直喩 ) 、③は主観客無取捨は不可能である。前者が事実を重んじる結果は 観ともに象徴である。たとえば客観では特定の数式が世の中は器械化し、自由意志は否定されて自然の法則 円を現わす類で、主観では象徴派詩人の気分 ( 情調 ) 化する。これによって生じる社会の欠陥を情操文学は 象徴のごとき、有限なるのを通じて無限を暗示する補う力をっている。 ような場合である。 さて現在の日本では何れが必要かといえば、旧来の 文芸上の流派でいうと、写実派・自然派は前者すな道徳・情操が価値を低下しつつある今日、客観的な揮 わち客観的態度に属し、浪漫派・理想派は後者 ( 主観 ) 真文学は旧来の評価を無理に維持しようとする情操文 にそくすると、大体においていえるであろう。ふつう 学より必要の度が多かろう。揮真文学は観察力を必要 の作家はこの両端の間をうろついている。しかしまた とし、それは科学の発達に伴うものだが、日本には科 浪漫派・自然派の相違は、享受者の態度によって決定学的精神が欠乏していたので、客観的態度による文学 されるともいえよう。 はさして発達していないとしても、それが必要である 月 0

6. 夏目漱石全集 別巻

クリ一アイ・ / ン・ア・フレウェーテイウ における統一感がそれである。そしてそこに自然科学析する非鑑賞的、または批評的、両者の中て クリテコーア・フレシェー 的に処理し得ない芸術・文芸鑑賞・批判の独自性が存品の印象に出発してそれを分析し説明する批評的鑑 ティヴ 在するのである。もちろんこの種の哲学的常識は漱石賞、とした。第一は批評というよりは玩味であり、他 の先刻承知していたところであろうが、あらためて間 人の趣味をみちびくという意味ではもっとも幼穉な態 題にせざるを得なくなったのは、研究者の域から脱し度である。第二は好悪を度外に置いた純然たる科学的 て、実作者としての経験を加えるに至ったのち、我が方法で価値意識をともなわない。第三は出立地は感情 作品の公正に理解されないうらみをも踏まえての、実だが、その後の手つづきは科学的である。文学は科学 感的な発言であったに相違ない。 でないが、文学の批評または歴史は、科学的である。 「好悪と優劣」とは見方によってはこの論の延長上にそして彼は第三の方法をもって十八世紀英文学を評価 来、さらにそれを深化したものである。作物に対するし、優劣を断じたのであった。 好悪の表白という限りでは主観の印象にとどまるが、 この漱石のとった態度は科学的な批評学の樹立を前 その優劣をいう時は作物そのものに付着した客観的判方ににらんだ漱石らしいものであるが、それが唯一正 定となる。後者はすなわち一個の好悪を拡大して、こ当な立脚地であるといい切れない。彼は文学の批評 れをできるだけ普遍的ならしめようとする努力である。を科学であると疑いもなく断定しているが、彼に いいかえれば自己の主観を一度客観に翻訳して、他人先立って、アナトール・フランスやジュール・ルメー トルによって唱道された印象批評は、芸術作品との出 に自己同様の好悪を把捉せしめる方使に外ならない。 先の「文学評論」では、漱石は作品に対する態度を会いによって生じた個人的な印象や効果をそのまま記 ア・フレシェーティヴ 三つに分けて、自己の好尚を直接に表現する鑑賞的、述したものであって、アカデミックな講壇批評家・フリ 好尚のあるないに拘わらず、構造、組織、形状等を分ュンチェールなどの裁断批評に対立し、科学的業績と ノ 20

7. 夏目漱石全集 別巻

〇 『心』は過去の罪の重みに悩まされている「先生」な 然しこの興味の深い主題は、『心』に於いて一種特別 る人の、「私」と云っている主人公に与えた印象と、其な取扱い方を受けている。それは、例えて云えば主題 「先生」なる人が自殺するに先立って、如何なる罪を如の頭と尻尾とを書いて肝心の胴中を抜かしていると云 何に犯したかに就いて主人公に告白する遺書と、此二 う気を起させるような、罪を犯すに至る迄の経過と罪 つのものを骨子とする小説である。勿論其間には外のを犯して後の十幾年に出来上がった態度とのみが書か 色々な関係が出て来る。然し『心』の重心を形成くるれていて、罪の重みに悩みつつ一つの態度から段々他 のは、要するに「罪の意識」であると見て、決しての一つの態度へと移って行く「先生」の内面の経過が、 差支あるまいと思う。 殆んど示されていないと云うことである。 学識ある、誠実な、倫理的意識の鋭敏な、一人の紳 如何なる罪を如何に犯したかと云うこと、元より 士が、自分に背負された過去の囚果のために、人生に興味深い問題であるには違いない。その点から云えば セ対する態度を如何に把持すべく余儀なくされたか、そ『心』の作者は、委曲を悉し周到を極めて、寔に鮮明に ん うしてその背負された因果とは何う云うものであるか、 読 此問題を取扱っている。然し私にとって夫よりも更に を 夫を書こうとしたのが此『心』である。ーーー私は此主興味深い問題となるのは、如何なる罪を如何に犯した むマ 題に深甚なる興味を持っている。夫は、ドストイエフ かと云うよりも、その犯した罪によってその人が如何 の 生スキーが『罪と罰』とにおいて取扱った主題と、或意 に悩んだかと云うことである。「先生」は「愛し得る 石命において通う処のある主題である。 人、愛せすにはいられない人、夫でいて自分の懐に入 ろうとするものを手をひろけて抱き締めることの出来 433

8. 夏目漱石全集 別巻

以上、この態度によって研究すべきものに次の諸項が に近かろう。日清・日露戦争のように不規則な情操の ある。①性格の描写とくに個人性格の全面的描出。在膨張を促すことなく、日本の歴史が平静に進行する際 来成功した性格はある顕著な特性を任意に抽出して、 は、情操は科学的精神の圧迫を蒙るから、情操文学は 都合のよい性格を創造したものが多く、全性格の発展近い未来必す起るであろう。しかし未来の情操文学は でないものがある。また在来の限からは、敗漫減裂に発展した客観描写を利用するに相違ない。 見えるが、因果の律からは当然な性格も描写すべきだ。 以上が「創作家の態度」の概要である。この論に至 ②心理の解剖、とくに複雑徴妙な、現代人の心理。恋ると「文芸の哲学的基礎」ではなお明確にうち出して 愛にしても、幾種類もの変化がある。③人生の局部を いなかった自然主義文学論に対立する自己の立場を示 描写し、一句にまとめ得るような意味を付与する作品して、自然主義の存在意義はみとめつつも、その限界 もあって然るべし。④極めて稀な経験というべき、突を「哲学的基礎」以上にきびしく指摘するととに、 発的な価値の転換や、尋常では理解し得ない、しかし自己が揮真文学に行かない理論的根拠を説いている。 現実的な心理・感情。 彼は個性的な芸術家として、自己があるイズムの中に ところで、以後の文学の傾向としては、科学的精神はめこまれるのを嫌う念が強く、また西洋の自然主義 にもとづく客観的傾向と、情操文学との二つの勢力がやその他の新傾向を意識的に追おうとする日本文壇の 消長して発展して行くだろう。西洋の文学傾向が必ず態度にあきたらなかった。それに明治四十一年は自然 文しも日本の模範となる理由はない。今日の日本文学は主義文学運動がもっとも強く盛り上った時期であった 石客観に重きを置く方を至当とするが、鈍客観的態度のから、それらの文壇の情勢に対する批判に加えて、彼 文学を必要とするほど情操の勢力が社会を威圧してい の自然主義論を展開するのが、この講演の一目的であ ないから、徒らに客観のみに重きを置く文学は不必要ったに相韋ない。 1 Ⅱ

9. 夏目漱石全集 別巻

の一節に、譬えば辻に立って道行く人の顔を見るよう も今後も様々であろうが、兎も角も、客観的に妥当す に、哲学や文学の書を読み、度々帽子を脱いで敬意をる根拠に立った上で、吾は吾が舌を以て味わうという 表したと書いてある。例えば、食物の議論にしばらく 主義を漱石が実践によって示したことは、後進学者の 当時の権威者たるフォイトの塁に拠って敵に当り、芸為めによき前例を与えたものである。国民的悲運のた 術の批判にハルトマンの美学を根拠にして論じたのはめに全国民何事についても自信を失いがちである今日、 それだ、といっている。しかし同時に、度々脱帽はし「文学論」や「文学評論」、また漱石自ら己れの心事を たが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行こうとは思 告白した講演筆記録「私の個人主義」は、殊に吾々を わなかった、「多くの師には逢ったが一人の主には逢励ます力を持っている。 はなかった」といっている。 漱石の学問に対する態度は、これに比すると遙に一 漱石の主義はこの通りとして、果たして漱石の頭脳 徹、非妥協的で、既成の学問が納得できなければ、ど はその実行に堪え得るほどの「別誂」のものであった こまで進んで自ら納得できるものを打ち立てるとい かどうか。私は然りといい得ると思う。漱石は理論的 う叛骨を示している。外は「月草」序の中に、今日思考を好み、又理論構成力に富んでいた。彼れは是非、 新しい自家の哲学体系を立てるという如き仕事は「脳 もしくは美醜の判断を下す場合、その判断をその儘に 髄の器械が別幇冫 こ出来て居て、生涯をそれに委ねる人止めないで、必すその判断を客観的理論によって基礎 物に任せて置いて好い事」だと諦らめている。漱石はづけようと試みる。その特徴は、前記のような大冊の 漱それに甘んずることが出来す、文学について、その著作のみならず、ほんの短い評論文等にも窺えるとこ 「別誂」の頭脳を要するといわれた事業を敢て企てた。ろであって、その批判には必すその根拠の説明があり、 「文学論」や「文学評論」の出来栄に対する批評。 ま今長短篇ともにそれ ( てれ首尾結構ある、一の郵まった議

10. 夏目漱石全集 別巻

はない。ある人の特徴とか行動とかの一片を取った 力と言うか、それが強いと思ったことは、「坊っち ものなんだ。僕がよく知っているのは、僕は松山の ゃん」の中に土佐の花の舞というのがある。 中学校を出て、直ぐそこの先生になった。松山の中 小宮師範学校の生徒と中学校の生徒と喧嘩する所だ 学校を三月に卒業すると、四月に先生になった。 安倍花の舞というのは、天井から大きな牡丹の造花大内これは大したもんだね。 を吊して、そうして四人位がそれを囲んで、剣でそ安倍助教諭心得、兼書記心得、後には舎監心得まで の牡丹を切るような形をする。それを一人太鼓を打やった。 ( 笑声 ) それで教授会議というのかな、先 生の会議たね、そんな事をよく知っているんだよ。 って居て、その拍手に連れてやる。くるくると廻っ 僕も先生の一人だから出たんだ。「坊っちゃん」の ては刀で切るというような、そういうことをやる。 中の山嵐という先生は、渡辺政和という数学の先生 それが僕は面白くて、毎日毎日三日くらい見た。 がモデルだと言うけれど、そうではない。しかし 小宮君はあれを見たのかい。 その言葉とか態度とかは、実にその人を活躍させて 安倍見た。それがちゃんと書いてある。その当時の いる所がある。その教授会議の時のロ吻なんか、実 印象を実によく再現している。あれだけはっきり覚 によく出ている。ああいう所はなかなか敏感で強く えているというのは、印象が非常に強かったんだろ 印象したもんだと思ったな。 うけれども、とにかく十年経ってるだろう。三十九 年なら十年以上たっている訳だろう。それでいて実大内それではね、話を進めて、「三四郎」というの は当時の学生と大学の先生などをうまく捉えて、非 に見るが如くに書いている。それから「坊っちゃん」 常に面白いと思うが、あれのモデルになるものが色 の人物というのは総て、これは度々言った事だけれ 色あるにちがいない。小宮さんも登場しているんで ど、ある一人の人間をずっとモデルにしたもので 488