相」を暗い穴倉で読者に見せた時から、体に古い日本る。これは丁度三四郎が彼女に美禰子と野々宮の関係 の影を纏わりつかせている。時には野々宮は幽霊のよ について聞いている時である。そしてよし子が、美藩 うに現れたり消えたりする。第三章で三四郎が図書館子は「度々」野々宮兄妹の家、へ来るというと、「黒い の玄関に居るべき野々宮を探しても「影も形も見えな ものが勝手に四方へ浮き出して」鮮かな赤色を暗くし、 絵全体を「駄目」にする。 野々宮の住む家は「いか様古い建物と思はれて、柱 このように美禰子と野々宮を一緒にすると、明るい に寂がある。其代り唐紙の立附が悪い。天井は真黒雰囲気が忽ち崩れる。団子坂へ行く途中で、広田・野 だ」すぐ隣りに「封建時代の孟宗藪」がある。 ( 三 ) 野宮と美禰子・よし子の「一団の影を高い空気の下に 第三章で三四郎をこの家に残して出かける時、背の高 認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれ い野々宮は庭の特徴として描かれていた、「人の背よよりも、すっと意味の深いものになりつ、あると感じ り高」い、「暗い萩の間から」三四郎に呼びかけて、 た。曾て考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界 幽霊のように「消えてなくな」る。第四章で野々宮は は正に此一団の影で代表されてゐる。影の半分は薄里 広田の庭から出て「其影が折戸の外へ隠れるー 。半分は花野の如く明かである。さうして三四郎の 背の高い野々宮の萩と影は第五章の冒頭で一緒にな頭のなかでは此両方が渾然として調和されてゐる。の よこたて る。三四郎が「門を這入ると、此間の萩が、人の丈よみならず、自分も何時の間にか、自然と此経緯のなか り高く茂って、株の根に黒い影が出来てゐる。此黒い に織り込まれてゐる。たゞそのうちの何処かに落ち付 影が地の上を這って、奥の方へ行くと、見えなくな かない所がある」 る。」背の高い「よし子は此萩の影にゐた」 三四郎が考えると、落ち付かない原因は野々宮が自 この黒い影はよし子の手から水彩画の藁葺屋根に移分と美子の間に挾まっているかも知れないという心 さび イ 00
し気味になって、だんだん自信を失って行く。それ 一一初期の漱石文学と大塚楠緒子 でなるべく小さくなって、人に接しないようにと心 掛けて、部屋に閉じこもった切り自分を守って行く 漱石初期の作品は大体四つの型に類別できる。第一 のだそうです。それが病気の第一歩で、さてそれか は現実を脱出し、蚕が繭を紡ぐように卵形の幻想世界 ら自分が小さくなっておとなしくしているのに、 を作り、それに閉じ籠もってしまうもの ( 「幻影の盾」 「薤露行」など ) 。第二は現実を茶化し、からかい、諷向人がそれを察せす、いじめよういじめようとかか って来る。そうなると此方も意地ずくになって、こ 刺するの ( 「吾が輩は猫である」「坊っちゃん」 ) 。第 れ程おとなしくしているのにそんなにするんならと 三に人間生活の現実を絵とし、自然の一景として眺め、 いう気になって、無性にむかついて癇癪を爆発させ いわゆる非人情の立場をとるもの ( 「一夜」「草枕」 ) 。 ・ : 中略 : : : で後で考えてみると、其時にはっ 第四はの卵形世界を壊すものに対して猛然と反撃を 加えるもの ( 「二百十日」「野分 . 「虞美人草」 ) 。大雑まらないことが気になって、其間絶えす誰かが監視 しているような追跡しているような、悪口をいって 把に分けると以上の四つとなる。 この いるような気がするのだそうです。此時にも英国人 石は以上の方法で辛うじて狂気を防衛しているの だ。鏡子の「思い出」によると漱石から直接聞いた話全体が自分を莫迦にしている。そうして何かと自分 一人をいじめる。これ程自分はおとなしくしている として、神経衰弱の際の彼の精神構造を示す次のよう のに、これでもまだ足りないでいじめるのか。そん な文がある。 なら此方にも考えがある。もう此上はおとなしくな あたまの調子が少しずつ変になって来ると、これで んかしてないぞといった気持だったらしいのです。 こんなになっちゃいけないと、妙にあ はいけない、 せり気味になって、自分が怖くなるというか、警戒右の情神溝造は明らかに初期の作品と四の型に符 この その
〇 『心』は過去の罪の重みに悩まされている「先生」な 然しこの興味の深い主題は、『心』に於いて一種特別 る人の、「私」と云っている主人公に与えた印象と、其な取扱い方を受けている。それは、例えて云えば主題 「先生」なる人が自殺するに先立って、如何なる罪を如の頭と尻尾とを書いて肝心の胴中を抜かしていると云 何に犯したかに就いて主人公に告白する遺書と、此二 う気を起させるような、罪を犯すに至る迄の経過と罪 つのものを骨子とする小説である。勿論其間には外のを犯して後の十幾年に出来上がった態度とのみが書か 色々な関係が出て来る。然し『心』の重心を形成くるれていて、罪の重みに悩みつつ一つの態度から段々他 のは、要するに「罪の意識」であると見て、決しての一つの態度へと移って行く「先生」の内面の経過が、 差支あるまいと思う。 殆んど示されていないと云うことである。 学識ある、誠実な、倫理的意識の鋭敏な、一人の紳 如何なる罪を如何に犯したかと云うこと、元より 士が、自分に背負された過去の囚果のために、人生に興味深い問題であるには違いない。その点から云えば セ対する態度を如何に把持すべく余儀なくされたか、そ『心』の作者は、委曲を悉し周到を極めて、寔に鮮明に ん うしてその背負された因果とは何う云うものであるか、 読 此問題を取扱っている。然し私にとって夫よりも更に を 夫を書こうとしたのが此『心』である。ーーー私は此主興味深い問題となるのは、如何なる罪を如何に犯した むマ 題に深甚なる興味を持っている。夫は、ドストイエフ かと云うよりも、その犯した罪によってその人が如何 の 生スキーが『罪と罰』とにおいて取扱った主題と、或意 に悩んだかと云うことである。「先生」は「愛し得る 石命において通う処のある主題である。 人、愛せすにはいられない人、夫でいて自分の懐に入 ろうとするものを手をひろけて抱き締めることの出来 433
た。此響き、此群集の中に一一年住んで居たら吾が神書いて、この感覚を二つの名詞で繰り返す。繰り返し 経の繊維も遂には鍋の中の麸海苔の如くべと / 、、にで、動きがさらに激しく聞こえてくる。色彩、線、面 といった視覚的な要素に代って、音と動きが表現され なるたらうと : : : 思ふ折さへあった」 漱石はなるべく早く、直接、自分の体験を思い出そるのである。二つの描写態度を比べると、そこには根 うとする。冒頭の短い言い方の中には全身の緊張が感本的な違いがあるように思われる。 鴟外は「余は : ・ : この欧羅巴の新大都の中央に立て じられる。次の段階では、「余」と作者は書き出す。 『舞姫』を書く鵰外より一層自分自身を指しているのり」と書いた。漱石は、渦の最中にいる。「丸で御殿 であるが、二人とも殆んど同じ姿勢で読者に語りかけ場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出された様な心持ち ているように思われる。そして、その時は漱石も、漢であった」と笑いにまぎらす。目はもはや何の働きも 文に学んで、深く身についた対句的な文の形を取らざなさない。神経が反応するだけである。対象に対する 距離がなくなり、描写のしようもない。そのとき、ロ るを得なかった。「表へ出れば : : : 家に帰れば : : : 」、 調が全く自由になってくる。「分らん」、「知らん」、 「・ : : ・と思ひ、 ・ : と疑ひーと規則正しく波を打ち、 漱石の文の動きと音量は鷦外のより自然で流暢である「衝突しはせぬか」、「乗らない」、「分らない」と、 くつもの否定の形を、そのときそのときによって使い が、どこか基調のリズムに相通ずるところがある。 しかし、都会の描写は丸で正反対である。そこには分ける。皮肉も随時に出てくる。飛躍も出来る。 漱石は、累進又は累積の形で文章を発展させていく。 何の色彩ない。はっきり輪廓のついた線と面もない。 めぼしい建物、景物は一切ない、人の波が動き、汽車次の段落では、もう一度都会の描写を試みていく。 「しかも余は他の日本人の如く紹介状を持って世話 が動くだけである。その二つの動きの印象を、二つの になりに行く宛もなく、又在留の旧知とては無論な 句で平行させている。「此響き、此群集」と次の文で 3 和
広田が夢の中の女に「あなたは何うして、さう変ら全たったに違いない。 ずに居るのかと聞くと、此顔の年、此服装の月、此髪三四郎は一人合点に絵のような女に囚われて、一人 おのぼれ の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ。それは合点にその女から愛を期待していた。彼の「己惚を罰 ・ : あなたに御目にかった時だといふ」 ( 十一 ) こする」 ( 八 ) 愚弄で美禰子は三四郎から本当の女を愛 の一目惚れされた女は、そういう風に愛された自分のしてもらおうとしたが到頭駄目であった。原口のアト 姿を時間のなかで固定させたが美子自分のために リエで会うと、彼をそう愚弄していたことも、人と結 原口に絵を書いてもらうことにした。 婚することで傷つけなければならなくなったことも後 十二月中頃に美禰子は「本当に取り掛ったのは、つ悔して美子は気分が悪くなって逃げる。三四郎への づっ い此間ですけれども、其前から少し宛描いて頂いてゐせめての慰めに、「森の女」は彼なくしては出来なか ったのであるということをはっきり知らせて別れる。 たんです。 ( 其前とは ) あの服装で分るでせう」 ( 十 ) と言う。あの夏の日のすぐ後に、自分に見惚れていたそして自分を迎えに来る「立派な」男にあたかも三四 郎の将来を決めたかのように美子は彼を「大学の小 男に又会うかどうかわからすに、原口に頼んでずっと 川さん」として紹介する。 ( 十 ) 描いてもらっていた。三四郎と知り合ったのは十一月 これであの暑い日に始めて見た「森の女」はとうと 三日のことで、「三四郎にとって自分は興味のないも のと諦めた」のはその数日後であった。「森の女」は う生きた女として三四郎の人生の中に入って来ないま どちらかと言うと、三四郎と知り合ったにもかかわらまで終る。最初見た瞬間から彼女は彼の夢の中の絵で、 ず描いてもらった絵である。自分を一生懸命に見て自「必ず変る」宇宙の中のものではなかった。変らない 分の美を強く意識させてくれた男と知り合って失望しので見た瞬間から過去のものになってしまった。この なければ、その日のロマンチィックな思い出はなお完過去にしか存在しない「森の女」は彼の人生全体から なり イ 06
はロンドンにおいて喜劇しかみることができぬのか。 後年の「それからー ( 明四二・六 ~ 一〇 ) でも漱石は、 甲野さんの哲学の延長とみることのできる、道義慾と 生活慾の角逐を問題とすることになるが、生活慾の膨 脹は西欧の刺衝によるものと代助をして考えさせてい る。つまり、甲野さんの言葉を借りて言えば、「万人 は日に日に生に向って進む」 ( 十九 ) のが近代なので、 それは所詮喜劇の時代なのであった。そうだとすると、 喜劇ばかりの流行するのはひとり英国にとどまりはし ない。事実、作中の十六においては、宗近君とその老 父は、文明の圧迫の結果、日本も西洋と変わらぬ状況 漱石は『虞美人草』 ( 明四〇・六 ~ 一〇 ) の自註としを呈していることに気づいている。「此所では喜劇ば かり流行るーという結びの意味は、けっして単純なも て「一つのセオリー」 ( 明四〇・七・一八書簡 ) を説く のではないのだ。 ための作だとしるしたことがある。言うまでもなく、 甲野さんの考えるように、「墓の此方側なる凡ての それは末尾の甲野さんの日記をさすのであろうが、そ と いさくさは、肉一重の垣に隔てられた因果に、枯れ果 の説くところは一個の悲劇の哲学にほかならない。 しかばね てたる骸骨に入らぬ情けの油を注して、要なき屍に長 時ころが、周知のごとく『虞美人草』は宗近君の次の一 はや 劇文をもって閉じる。「此所では喜劇ばかり流行る」。文夜の踴をおどらしむる滑稽であるー ( 一 ) としたら、 喜 中のここはロンドンをさしているのだが、なぜ宗近君現実世界に見るものは、元来常に喜劇にほかならない。 喜劇の時代 『虞美人草』 越智治雄
せられて、一定の間隔を支持することを忘れ、進ん 活動し、内圜を描くものはにして城下の接 で之に近づき、近づいて之に進み、遂に著者と同平戦は其中に活動す。吾人は幻惑を受けて戦況を眼前 2 面、同位置に立って著者の眼を以て見、著者の耳を に髣髴するの結果、内圜を描くものと同時、同所に 以て聴くに至るが故に著者と読者との間に一尺の距 立って覚らず。顧みれば即ち身は既に外圜のうちに 離をも余す事なし。而して此際に於ける著者は Re ・ 擒にせられて篇中の人物と共に旋転するを見る。翻 8 にあらずや。此際に於る幻惑は白熱度ならず って。 ( ( を索むれば遙かに圜外に在って、吾人と ゃ。吾人は進んで IRebecu に近づかざるを得ず、遂利益を共にせざるが如く長嘯するに似たり」 にと同平面同位地に立たざるべからず。最 これは多くの類例から抽いた一つの見本である。右 後に R. の眼を以て見、 R. の耳を以て聴かざるべ の分析その者についてはもとより異論の余地もあろう。 からず。 R. と吾人との間に一尺の距離を余すなきしかし文芸の美に対し漱石がいかにその理法を探究す に至って已まざる可からず。然るには篇中るに熱心であり、またこれを厳密なる概念と法則の形 の一人物なり、戦況を叙述するの点に於て著者の用に纏めることに特殊の興味と特殊の能力を有っていた を弁ずると共に、篇中に出頭し没頭し、逶迦としてかは、これによっても窺うことが出来る。「文学論」や 事局の発展に沿ふて最後の大団円に流下するの点に「文学評論」の読者は、同様なる幾多の例に逢着する。 於て記事中の一人たるを免かれず。此故に吾人は著例えば「文学評論」に於て、漱石はスイフトを尊重し、 者としての Rebecca に同化する傍ら、既に記事中の デフォーを軽蔑しているが、其場合にもスイフトの作 一人たると同化し了るものなり。是に於て品は何故に人間の自尊心を傷ける、不愉快なものであ か lvanhoe の記事は重圜を描いて循環するを見る。 って、而かも多くの人に読まれるか 即ちある愉快 外圜を描くものは。にして Rebecca は此園内にを与えるか、またデフォーの作品は何故読んで長い感
るに経験的認識論であって、実用主義的であり、先験や種々の仮定は、みんな背に腹は代へられぬ切なさ 的論理体系にもとづくドイツ美学とは対蹠的である。 の余りから割り出した嘘であります。さうして嘘か ( 注 ) ジェームズのいわゆる「硬い心」に対する「軟い心」 ら出た真実であります。如何に此嘘が便宜であるか の対立である。漱石は「西洋人の唱へ出した美とか美は、何年となく嘘をつき習った、末世澆季の今日で 学とか云ふものの為めに我々は大に迷惑します」とい は、私も此嘘を真実と思ひ、あなた方も此嘘を真実 って、先験的価値としての美の形而上的実在性や美の と思って、誰も怪しむものもなく疑ふものもなく、 理念を演繹して美および芸術の諸範疇におよぶ哲学的 公々然憚る所なく、仮定を実在と認識して嬉しがっ な美学を否定している。そしてあくまで具体的意識の て居るのでも分ります。貧して鈍すとも、窮すれば 事実に出発し、内省的方法によって、意識の分化作用濫すとも申して、生活難に追はれるとみんなから堕 から、多元的な理想が産み出される過程を説く。彼に 落して参ります。要するに生活上の利害から割り出 よれば、理想とはどう生きるのがもっともよいかとの した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じ位な まこと 問題にあたえた答案に外ならない。時間・空間という 実は含んで居ります。 認識上の大問題にしても、カントのいうように直観の このように言う根本には、真理は「うまく生きて行 先験的形式などではなく、実用上の便宜から産み出し かうーとの一念にうながされたものだという認識があ た仮定にすぎない。 る。これに対して、真理は人生に有用なる故に真なの 空間があるとしないと生活上不便だと思ふと、すではなく、真なるが故に人生に有用なのだという立場 ぐ空間を捏造して仕舞ふ。時間がないと不都合だと から、あまりに簡単明瞭な「非常に安直な実際主義的 ( 生Ⅱ ) 勘づくと、よろしい夫ちや時間を製造してやらうと、な価値哲学観」との批評は当然おこり得よう。しかし すぐ時間を製造して仕舞ひます。だから色々な抽象プラグマティズムに即していえば、このような非難は まこと
い身の上であるから、恐々ながら一枚の地図を案内る。「此広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車 として毎日見物の為め若くは用達の為め出あるかね電気鉄道も鋼条鉄道も、と言葉が奔流のように流れ ばならなかった。無論汽車へは乗らない、馬車へも出す。都会は、もはや記念的建造物によって形作られ た、整然とした空間ではない。交通網の中心、情報網 乗れない、減多な交通機関を利用仕様とすると、ど こへ連れて行かれるか分らない。此広い倫敦を蜘蛛の中心として現われる。 「四ッ角へ出る度に地図を披いて通行人に押し返さ 手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道 れながら足の向く方角を定める。地図で知れぬ時は も余には何等の便宜をも与へる事が出来なかった」 先ず、長い、正確に組み立てられた文の中で、自分人に聞く、人に聞いて知れぬ時は巡査を探す、巡査 でゆかぬ時は又外の人に尋ねる、何人でも合点の行 の置かれている条件を述べる、毎日の用事、毎日の日 く人に出逢ふ迄は捕へては聞き呼び掛けては聞く」 程はあるが、都会は一枚の地図にすぎない。無数の道 路の交叉する、抽象的な空間である。その道路の無数都会は、「迷宮」よりはるかに平凡なものである。 行く道を知るためには何度も同じことを繰り返さなけ の交通機関が往来する。「汽車へは乗らない、馬車へ も乗れない」といって、二つの終止形で終る文に只点ればならない。ここでも、漱石は終止形で終る文を、 を打 0 て、その二つの文を平行させているが、この文只点で続けさまに並べて、動作の繰り返しを表現する。 章の形は、外が使 0 ていた、連体形で終る二つの句又、「捕へては聞き呼び掛けては聞く」という書き方 文型は、漱石 街を点でつなぐ形と根本的に違う。すぐその後に「此広は、同様の効果をつくりだす。こういう 利い倫敦 , と書き出して、その無限に広がる空間を表わの初期の文体に、独特の、そして基本的な形の一つと そうとする。そしてとりつかれたように、名詞を積み思われる。自分も動けば、外界も動く、平静な、或い〃 重ねて、この絶えることのない活動を表現するのであは抒情的な気持で描写を始める余裕はない。笑い、直
う激した一節がある。須永の「畏怖」として表現されは寄宿舎を出てしばらく菅虎雄のもとに寄寓する。ま ているものは明治二十七年のこの頃、現実の事態としもなく漢文の置手紙をのこして転々とするが、十月宝 て漱石を苦獄におとしめていたようであって、以後こ蔵院尼寺へ下宿。幻聴、被害盲想があらわれる。その 年の暮、鎌倉帰源院へこって参禅し、翌年四月には の精神状態は急速に悪化の方向をたどるのである。 松山中学赴任となるわけである。 同じ手紙のなかで漱石は次のようにのべている。 「・ : : ・小生の漂泊は此三四年来沸騰せる脳漿を冷却「此三四年来沸騰せる脳漿」とあることによって、漱 して尺寸の勉強心を振興せん為のみに御座候去すれ石の異状が、明治二十七年夏に突発したのでないこと ば風流韻事抔は愚か只落付かぬ尻に帆を挙げて歩けがあきらかである。それを証すように明治二十三年八 る丈歩く外他の能事無之 : ・ : ・去月松島に遊んで瑞巌月九日付子規あてに「此頃は何となく浮世がいやにな 寺に詣でし時南天棒の一棒を喫して年来の累を一掃りどう考へても考へ直してもいやでいやで立ち切れず : ・」というような一節があって二十三年の頃からす せんと存候へども生来の凡骨到底見性の器にあらず と共丈は断念致し候故踵を回らして故郷に帰るや否でに憂鬱の重い雲はただよい始めていたようである。 や再び半肩の行李を理して南相の海角に到り日夜鹹「沸騰せる脳漿」とは何か明らかでないけれども、と 水に浸り妄りに手足を動かして落付かぬ心を制せんもかく平静な勉強心を阻害する「落付かぬ」何ものか とて企て居候折柄八朔二百十日の荒日と相成一面のであるらしい。ここには『行人』の一郎の述懐を思い 子青海原凄まじき光景を呈出致候是屈究と心の平かなおこさせるものがある。 「実際僕の心は宿なしの乞食見たやうに朝から晩ま 楠らぬ時は随分乱暴を致す者にて直ちに狂瀾の中に没 でうろ / \ としてゐる。一一六時中不安に追い懸けら 石して瞬時快哉を呼ぶ折 : : : 」 れてゐる。情ない程落付かない。仕舞には世の中で この異様な動揺を告白する手紙を書いてのち、漱石