て ? 」「あの天璋院様の御祐の妹の御嫁にいった ・ : 」「成程。少し待って下さい。天璋院様の妹の 御祐筆の : : : 」「あらさうぢゃないの、天璋院様の 御祐筆の妹の : : : 」 そしてかかる情況のなかで「吾輩」は言う。われわ れは時とすると理詰めのうそをつかねばならぬ事があ る。「理詰めのうそ」っまりそれが『猫』の「笑い」を ささえている。漱石のユーモアの底に澱んでいるのだ。 たしかに、作品『猫』は、そしてまた『猫』の登場 人物たちは、駄洒落の中にとぐろを巻いている。オタ 『吾輩は猫である』には「笑い」があると言う。元来ンチン、。 ( レオロガス、どんぐりのスタビリチ 1 と天 「笑い」の少ない近代文芸のなかにあって、この『猫』体の運行、サ三ヂ・チーその他、所をきらわずただ笑 における「笑い」の右に出るものはないと言われる。 いのめし、洒落のめした荒唐無稽な、一種すさまじい この「笑い」を疑うものはない。それに「吾輩」と一一一光景が次々と展開されて行く。快適な歯切れのよさと、 毛子の会話に伺えるような、江戸落語愛好家漱石の風太平の逸民の屈託の無さ、かかる一面はたとえば「坊 貌があって、人はしばしばその種の「笑い」をこの っちゃん」の「ユーモア」と会話を保ちうる性質のも ( 注 1 ) 『猫』に指摘する。 のであるが、しばしば漱石の「ユーモア」としてこの / / / 「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った『猫』にあらわれ、その発表の当初よりすでに評価の 先の御つかさんの甥の娘なんだって」「何ですつ高い「漱石の笑い」の、これがすべてであるとは言い 『吾輩は猫である』の世界 水谷昭夫
ないなら、早く死ぬ丈が賢こいかも知れない。諸先 者の視野に入るほどのものはすべてこれを非難し嘲 生の説に従へば人間の運命は自殺に帰するさうだ。 笑しようとしているのであるかの趣さえ著しかった。 ということなのである。氏の指摘の通りに『猫』の油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはな らなくなる。恐るべき事だ。 記述には前後に矛盾や撞着が多い。そのことはとかく の論証をまつまでもないであろう。そして「作者の視『三四郎』の中でも垣間見せる世の終末への関心、そ 野に入るほどのものはすべてこれを非難し嘲笑しようして、全作品を通じて繰返してあらわれて来る人間の としているのである」という外見は正しい。まさしく、最後への関心、その中で眺められる光景がここにはあ 「触れるものすべてを斬らずにはおかぬ態度」、そこにる。理想と言いイズムと一一〔えど、死にくらべたら吹け は何の脈絡もないのである。片言をあげて、『猫』に ば飛ぶようなものだと漱石は言った。死を忘れるから、 おける文明批評などという漱石論の月並が、いかほど人は軽薄になるのだとも、贅にうき身をやっすのだと 狼狽の極みであるかは言うを待たないところである。 も言う。そしてかくいうこの俺も、いまわしい事には 『猫』の痛罵に喝采を送っているのに、ふりむきざ軽薄なのだという。そして漱石文芸の主題は常に、 まに作品は嘲笑をあびせて来る。『猫』は面白いが、 の軽薄の悽じい悲惨さにいろどられて形成されている 世幾多不愉快な面があるという、素直だがこれも月並なのである。一切の文化の死減、『猫』はその一点を指 している。片言をあげて、文明批評などとは到底いえ 批評が成り立っ理由がここにある。すべてを痛罵し、 る あ一切を嘲笑し、斬りまくって、何が残るのだろう。 たものではない。元来「猫』はその混乱と矛盾の世界 主人は早晩胃病で死ぬ。金田のぢいさんは慾でもであること以上の通りなのである。何故か。それは嗽 う死んで居る。秋の木の葉は大概落ち尽した。死ぬ石の『猫』が、非所有の主体への関心であるからなの ぢゃうごう のが万物の定業で、生きてゐてもあんまり役に立たである。そのことへのはけしくもひきさかれた希求に 301
『漾虚集』の諸短篇の間にはある種の対立関係があ張を更に敷衍して、「『漾虚集』の世界を見ている漱石 り、『鶉籠』は『猫』と、『漾虚集』の一部の作品のと、『猫』の諷刺を書いている彼とは背中合わせにな っている。」とか「『吾輩は猫である』の諷刺の世界は、 それぞれのヴァリエイションであると思われるが、 『猫』を『ホトトギス』に連載していた当時の漱石「深淵」の上に浮いている」とかいう措辞は、それな りに美しく、この二系統の作品の意味を言い当てて妙 が、それと併行して『漾虚集』の諸作を書いていた という事実には、著しくぼくらの好寄心をそそるもであって、影響力のある意見であったけれど、せつ のがある。 かく「相互作用」の存在を把えながら、その実態につ いて追求が十分でないために、あいまいな印象を残し と前置し、 たのである。 彼の実生活とその低音部との相互作用がここには そこで私は、『漾虚集』各篇の成立について、『猫』 明瞭にうかがわれる。 と、二系統の作品の間にある「相互作用」をさすがに連作との関連において、少しく微視的に考察すること によって、この二系統の作品の間に働らく「相互作 見抜いている。ただし、その相互作用の剔抉はそれ以 上には進まず、この文脈は、例の有名な「深淵」説、用ーが、具体的にどのようなものであったかを幾分な 即ち、 りとも明らかにし、如上の設問の解答を明確にうち出 『猫』の冷酷な諷刺の背後から浮かび上って来る孤す端緒としたいのである。 題 独な作者が、『漾虚集』のある作品の中ではその内 の 面をたち割って、自らの内部に暗く澱んでいる深淵よく知られているように、三十七年十二月初めの 集 「山会」で虚子によって朗読された『吾輩は猫である』幻 漾をさらけ出しているのである。 という主張に吸収されてしまう。江藤氏が、この主は、現在残された十一の短章の中の第一の部分であっ
筆で、漱石が、連句を変化させた新詩体として「俳体れは、ます、猫が人間よりも高い位置に立って口をき 詩」なるものを創めようとした旨報知され、漱石のき、人間を諷刺するという、スイフト的着想の自由奔 放さに比して、著るしく平淡で、所謂写生文的なその 「離別ーという試作が載せられて以来、十月号でも、 「寺三題」 ( 俳体詩 ) の他、連句、及び、「なげし浮世文体に影を落としている。猫を主人公とする着想は、 に恋あらば / 睡中などて詩なからん」にはじまる俳体スイフトから得たものだと考えられるが、そうたとし 詩 ( これは雰囲気として『漾虚集』の作品に通じるとて、その着想の展開しうる大きな可能性 ( 『ガリ。 ( 1 ころがあるのが注目される ) が、十一月号と十二月号旅行記』第四篇「フーインムス」に見られる如き徹底 では、虚子との合作「尼」の半生をうたいあけた俳体的な文明批判 ) は、『猫』 C の限りでは、さしたるも 詩的連句が、それぞれ掲載されていることも一応留意のとして作者に自覚されてはおらなかった。自覚はさ される要があろう。俳体詩は、俳句が「一時ノ鬱散ー れていても、この期の漱石と『ホトトギス』の力関係 として十分満足できる形式ではなくなってきて、新しにおいて、それは、十二分に発揮され得ないものであ い表現形式を索める漱石の、一つの小説への中間項的ったことが、ここでは推測されるのである。漱石の当 しすれにせよ、『猫』時の意識の面に力点を置いて考えれば、せいぜい自分 な形式であったとも見られる。 : は、これら『ホトトギス』誌上における実績を背景との日常を戯画的に写生して、『ホトトギス』同人たち に報知する程の意識で企てられた文章に、子規や或い して書かれており、殊に『猫』 C の初稿は、虚子によ 題 は八雲などのエ。ヒゴーネンとして見られることを忌み って改稿が望まれ、その添削を経て定稿となったとい の 」う事情 ( 「処女作追懐談」及び虚子の『漱石と私』 ) をきらったような気持から、『ホトトギス』写生文と軌 謨考え合わすならば、『猫』への、『ホトトギス』的制を別にする意味で用いられたのが、「吾輩は猫なり」 肘は無視し難い程大きいと云わねばならぬだろう。そとの虚構であったかも知れない。少くとも『猫』は C 325
の限りでは、諧謔化はされていて、漱石が自身の生 活を基にして設定した一人のインテリの生活の写生で 『猫』 t を書き上げた直後に、「倫敦塔」と「カーラ あり、その手法は多くリアリスティックなものであるイル博物館」が書かれた背後には、以上のような漱石 ことは、我々の見る通りである。しかもその動機が、 自身の、『猫』評価と、心情の屈曲があった、つま 親密な『ホトトギス』同人の文章会を意識してはじまり『猫』 C の成立事情や、出来上りに不満な漱石が、 った限りにおいて、甚だ随筆的乃至私小説的性質を濃より自己の本領たるものとしてこれを書こうとした、 く帯びた作品であったとせざるを得ない。彼が、三十と私は見たい。二短篇はいずれも倫敦における宿学生 八年一月一日付書簡で、門下の野間真綱に宛てて、 活中に見聞した事実に材をとっている。『猫』 C が、 猫伝をほめてくれて難有いほめられると増長して ( 私小説的 ) 身辺雑記を出ないのに対して、すでに数 続篇続々篇抔をかくきになる実は作者自身は少々鼻年を経た過去の、外国における体験に溯上して材料を について厭気になって居る所た読んでもちっとも面求めたことに、ます漱石の心情を理解したい。又二作 白くない陳腐な恋人の顔を見る如く毫も感じが乗らは、 : しすれもリアリズムには頼らず、むしろ伝奇的夢 幻的手法によって書かれているのも、一つの反動であ と言って、『猫』につき低い自己評価を下しているろう。留学中に取材したものには、以前に「倫敦消息」 のは、決して謙辞であるとか、一般的な自己嫌悪 ( 創や「自転車日記」があり、それらが、『猫』に通ずる 作後に作者をおそうところの ) であるとのみは受け取手法で書かれているのとでは、際立った対照がここに れず、スイフトをはじめ多くの西洋の文学作品を知っはある。 ている漱石の偽らざる自己評価であったと考えられる もちろん以上のことだけでこれら二篇の性格を鮮明 のである。 にすることはできない。「倫敦塔」については、一月
いや、それ故の苦悩や、さらに生活人金之助としての 作品『道草』である。『猫』の文体の「明晰」はこ 深刻な悩みが、きわめて「まっとうな」形をもち、複こにはない。暗い現実のかすかな光茫である。『猫』 雑な様相をもってあらわれている。再びここでも「まに登場する「細君」はつつましい。先生や迷亭や寒月 っとうな」には問題があるが、作家としての漱石の生の話を聞いて、襖ごしに笑声をしのばせる幸福な人妻 涯の開始が、ただ単純に『倫敦塔』『カーライル博物である。オタンチン・パレオロガスに柳眉を立てて 館』の単純な延長の上にはじめられて行くのではなく「笑い」をさそうが、その彼女が、西洋髪剃をしつか 『猫』の持っている様々な、いわば偶発的な要素の上 りにぎりしめて、大きな眼を開いて天井を見詰めてい に形成せられて行ったということの中にこそ、実は漱たあの『道草』の細君の悽じい後姿をそなえていたの 石論の一そう重要な問題がたしかめられるのである。 である。『猫』の光茫の中で彼女はつつましく徴笑み、 それは江藤氏のいわれるような、〈『道草』の深淵》で『道草』ではぞっとするような瞳をひらいている。『猫』 ある。再びここに至っても、無意識の人格者などと いの「笑い」が深淵に浮いているという江藤氏の比喩が、 う思いっきはさけねばならぬが、『猫』と『道草』は、漱石論の一つの公式の回答として示され得るところで 一つの深淵に照射された、二つの光茫である。 あろう。しかし重ねてそれは一つの深淵でしかあり得 世或晩彼は不図眼を覚まして、大きな限を開いて天ない。つまり、人間の、深淵である。 の 井を見詰めてゐる細君を見た。彼女の手には彼が西 る っ洋から持って帰った髪剃があった。彼女が黒檀の鞘 罅に折り込まれた其刃を真直に立てずに、たゞ黒い柄『猫』はあまりにも人間にあふれている。その「自 輩 丈を握ってゐたので、寒い光は彼の視覚を襲はすに然」ですら例外ではない。島崎藤村や国木田独歩が、 済んだ。 ' / / 様々な賞讚や栄光の中で「風景画家」であることに満 297
かわりあいを持つ事とはならない。このことはおそら ても差し支へないが他の出入を禁ずる理由はあるま く、彼の文芸的世界の一面を物語るものとなっている。 この茫々たる大地を、小賢しくも垣を囲らし棒 何ものかとの、根源的かかわりあいの中で、それは真杭を立てゝ某々所有地抔と画し限るのは恰もかの蒼 の意味と光を開示するのである。つまり作品にあって 天に繩張して、この部分は我の天、あの部分は彼の は、あの奇妙な語り手「吾輩」である。そして作品に 天と届け出る様な者だ。 そって、「吾輩」は「猫」なのである。 これはたとえば、当時ようやく影響をあたえはじめ たトルストイの『復活』の中などに示されている、土 七 地解放問題に一脈通じる気配でもある。それは又、作 「猫」は何ものをも所有しない。地位・名誉・財産そ品『猫』の随所に認められる憤懣である。しかしそれ して教養、つまり名前すらこの一匹の「猫」は持ってはしばしば指摘されているように、当時急速に近代化 いないのである。何ものをも所有せぬ目、何ものをもを遂行しつつあった日本と日本人を、アイロニイを持 まとわぬ自我、現実にはたしかに夢幻にしかすぎぬも って痛切に批評したのだというような、その程度の出 のに、漱石はおのが血肉をわけあたえるのである。何来事にとどまってはいない。かかる見方の中では、片 ( 注幻 ) もまとわず何も所有せぬ、「猫」はだからこんな気餡岡良一のように、 自由に吐く。 / 『猫』に示されている反撥や諷刺には、はけし / 偖此大空大地を製造する為に彼等人類はどの位 く奇警なものはあっても、じっくりと抑えて行くも せぎ十ん の労力を費やして居るかと云ふと尺寸の手伝もして のの強さや底力の感じはなかった。一般民衆や女性 居らぬではないか。自分が製造して居らぬものを自 、つい。 - っ・しこッつ、か を罵殺しようとした作者の筆は、そ 分の所有と極める法はなからう。自分の所有と極め ら更に一歩進めて、知識人同志の間にさえ新旧の乖
て書かれた「一心不乱」の恋の姿から、同じ号に載っる、他極へ激しく引き戻ろうとするモメントの如きも たこの「続々篇」における「癇癪」の激発、俗物へののが生れるのである。そうなのだ、漱石の精神の中に 徹底的揶揄への落差は、甚だ大きいと言わねばならなは絶えざる振子的運動が行なわれていたのである。幻 。このような落差の大きい運動が、句日の漱石の精影の世界の完成が、一層強い現実罵倒をさし招く所以 神の中で行われていることに留意する必要がある。そである。 してこれは決して単に偶然的に行なわれた運動ではな 『猫』続々篇の次の作品は、「琴のそら音」 ( 四月二十 くて、甚だ漱石的な、漱石の精神に独特な型を示して 九日までに完成、『七人』五月号 ) である。『猫』四 いるのである。 「幻影の盾」は「倫敦塔」とともに、漱石の本然的な ( 六月号 ) 『猫』国 ( 七月号 ) がつづき、「一夜」は、七 自己表白であるけれども、日常的現実から完全に遠ざ月二十六日に書き上けられて、『中央公論』九月号に かって、幻想や伝説の世界に揺れ漂よう形式を通じて、載る。『猫』困は九月末に書かれて、十月号に掲げら れるのである。 それはなされている。それは作者の意識においては、 一つのお伽話であり、美的な説話である。それを書く「琴のそら音」は、『漾虚集』の中では比較的性格の 弓ししわば間奏曲的作品であり、『猫』四も、「続々 ことは漱石内心の危機を暫くは鎮めるように作用した。 しかし漱石は、そのようなところに立止まってはいら篇、ではじまった、実業家金田糾弾、金カ批判が展聞 れないのである。そこに立ち至ったこと、そのこと自されるが、苦沙弥の旧友で、今は金田家の走狗となっ 体が、彼自身を激しく引き戻して、日常的現実に直面た鈴木藤十郎なる人物の登場に新味があるだけで、 させようとする。そこには、一本の振子が、一方の極「続々篇」に比すれば、特別に作者の感情の起伏も見 にゆれ動いてやがて静止した時の、その振子内に生ずられない。『猫』又、深夜の泥棒ちん入事件を中 333
月の中に、『猫』に引続いて書かれたことは確実でて行ったのであるか。 これらの疑問は私の胸中に ある。いすれも明治三十八年一月号の、『帝国文学』あって一向に解きほぐされずに残っているのである。 及び『学鐙』に掲載されて、『猫』 C と並んで、漱石 の作家生活の出発点をなした作品である。何故彼は、 これらの設問をめぐって従来からの漱石論の多くが、 『猫』の完成のあとで、それが高浜虚子の計らいにそれぞれに解答をうち出そうとし又その幾つかは見事 よって一月号の『ホトトギス』掲載が決まったあとで、な解答を我々に示しもした 9 しかし上にあげた設問の 「倫敦塔」や「カーライル博物館」を怱卒に ( と敢え うち、『漾虚集』に拘わる、あとの二つについては、 て言えるだろう。「倫敦塔」は恐らく、十二月十日す いすれにせよ何がしか妥当ではないと思われる、或い ぎに書き起され、二十二日には出来上っているし、 は割り切りがたい印象を私に残すのである。それは仮 「カーライル博物館」はその後書き起されて、一月十 りに纏めて一一朝えば、出来上った二つの系統の作品、即 印刷に間に合う時までに書き上ち『猫』と『漾虚集』それぞれについての解釈を列挙 五日発行の『学鐙』の けられている。 ) 書いたのであろうか。 し、それらが漱石の精神内部の何に発したかをそれそ そして又、『猫』 ( 以下同様に略称する ) の連作が書れを別々に説明してやんでいるという印象である。っ きつがれてゆく三十九年八月までの中に『漾虚集』の、まり二系統の作品の解釈をもって、二つの系統の作品 が並行して創作されている意味に代替しているという 以上二作の他の五篇も、『猫』の各部分と相前後しな 印象である。たとえば小宮豊隆氏は、 がら書き上げられてゆく。しかもそれらは旧来からよ の く言われているように、『苗』という作品の性質とは、 生れながらに美しい世界を多分に賦与されて来た 大変違「たところの多い作品である。何故このような漱石は、現実の中に住んで、ともすると自分の中の その美しい世界が打ち砕かれさうになる事を嘆き、 二つの異系統の作品が、長期に亘って並行して書かれ 321
いであろう。或いはまた「笑い」は原初、苦痛の表現る。またしようともしないのである。ここに漱石の であったという・キルケゴールの考えも、同じ根拠「笑い」が形成される。「吾輩」は一言の救援もよばな ( 注 6 ) い。そして死に瀕する。あの薄暗りの中からはじまっ によるのであろう。椎名麟三は「笑い」について、 それは「恐怖、のシノ = ムだと断じていられるのであた「猫」は、こうしてこの暗い甕の中に消えて行 0 て るが、漱石にあっては、一層「人間の恐慌」だと言っしまう。まさにそして、 Keine Brücke führt r der Schlund 、い。その恐慌を、かくばかり的確に把え得るメト であろう。その深淵は「人間恐慌ーの暗い予感であ ーデとしても『猫』の笑いは有効であったといってい る。重ねて言うと「笑い」はそして、「その時苦しい いであろう。「その時苦しいながら、かう考へた」は、 漱石文芸のきわだった発想である。この情況は『猫』ながら考へた」であり、漱石文芸の発想の肝心である。 においてはこうである。「吾輩、はビールを飲み干す。餅にくらいついて、死ぬ程の苦しみを味わう「吾輩」、 「我慢に我慢を重ねて」という。がまんの甲斐があっ彼やはり「苦しいながら考えた」なのである。漱石 は生涯「苦しいながら考え」「苦しいながら書」いて て「猫」は陶然となって散歩に出かける。海だろうが 山だろうが驚くものか。そう思ったとたんに甕の中に行くのである。ではその苦しさ、深さとは何であろう。 世落ちるのである。足をのばして届かず、飛び上って以下この「笑い」のただ中にのぞき見られる漱石の の もとどかない。もがけばもがくだけ身は深く水中に沈「恐慌」について、いくらかの考察を試みようと思う。 る 物む。人々はさざめき合い、そして笑い、憎み愛し、喜 描び悲しんでいる。その言葉の一つ一つを、「吾輩」は 『猫』の文体は、明晰ということばの持っ可視的な性 輩聞く。尽きぬ好奇の思いを持って理解する。しかし、 人々は「吾輩」の言葉を、一言だに理解しないのであ格をとり去って使用に供し得るならば、その文体は悽 291