う文句が出てくるのかと思って、ダウデンの数多い著 いてはこれ以上立入って論じるだけの資料は揃ってい 書のうち一八七五年に出た「 hwden 】守ミミこ ないので、筆者はこれ以上の推測は避けたい。 話をダウデンとクレイグに戻すと、この二人は漱石こミミ導・、ほか七十年代に出た彼の著書を探って とうもその文句が見当らない。だいたい漱石 が狩野亨吉以下に報じたように、またリーが『タイムみたが、・ の「此の本が千八百七十 : : : 年の出版で」という記述 ズ』への通信に記したように、ダ。フリン大学以来の 「朋友」であり、 lifelong ( 「一。 n であった。年齢は同そのものがうろ覚えに違いないのだから、七十年代の じでありながら、早く母校に教授の職を得、次々と著書物にその文句が出ているという保証はない。また文 書を出していたダウデンは、明治の中葉、日本にまで句そのものも「特別に沙翁を研究するクレイグ氏」と いうままの文面であったという保証もない。それでほ その名を知られた英文学者たった。そしてそのような かの年代に出たダウデンの著書も探ってゆくと、文章 地位に上った人であるだけに、旧友で世間知らずのク の内容は違うが、ダウデンがクレイグを推称した言葉 レイグをなにかと引き立ててくれたのにちがいない。 としては次のようなのがあった。それは先刻から話題 アイルランド人はマイノリティー・グルー。フであるだ にのぼったアーデン・シェイクス。ヒア中のダウデン編 けに同郷の誼みもまた強い人たちなのだ。小宮教授の アデンダ 』 ( 初版、一八九九年 ) の附録の第 纂の『ハムレット 生註解には、 三補足の中にあるので、この言葉を読むと、ダウデン とクレイグの親しい仲が目に浮んでくる。いま最初に ダウデン : ここではその著書をさす。 生 先 その原文を引かせていただく。 M 「 . Craig, who in knowledge 0 ( the language 0 ( レとあるが、そのダウデンの著書とは具体的に何なのか、 Shakespeare is. 一 lxlieve. unsurpassed bY any living そのどこに「特別に沙翁を研究するクレイグ氏」とい
あるいは 和歌山での二人の行動に、「倫理上の大問題」「人の 、くら冷淡でも構はないから、 「自分の年なんかに、し 兄さんに丈はもう少し気を付けて親切にして上げて名誉ーに関するような事実はなかったといってよいと 思うが、和歌の浦へかえって、兄の前で話せないよう 下さい」 その他である。何度か依頼された用件を果たそうとな事実が多かったのも否定出来ないであろう。宿屋で するような言葉は出るのであるが、そのつど、それら停電のときの会話やししゅうしたクッションの話、直 は直によってはぐらかされたり、あらぬ方にそれて行の涙を見たときの二郎の気持、暗がりで女中の前で直 ってしまう、最初から二郎の無意識の意図がそこにあと冗談をいい合うたのしさなど、そういうことの詳細 「自分は、自分にもっと不親切は、兄には語れなかったであろう。直から翻弄される ったかのように。 にして構はないから、兄の方には最少し優しくして呉ときの不思議な愉快な気持も。和歌の浦の宿へ帰る俥 れろと、頼む積りで嫂の限を見た時、又急に自分の甘の中で、二郎自身が一郎への報告を重荷に感じている。 「云ふべき言葉は沢山あったけれど、夫を一 いのに気が付いた。嫂の前へ出て、斯う差し向ひに坐 ったが最後、到底真底から誠実に兄の為に計る事は出一兄の前に並べるのは到底自分の勇気では出来なかっ 来ないのだと迄思った。自分は言葉には少しも窮しな かった。何んな言語でも兄の為に使はうとすれば使は帰ってから兄の部屋へ呼ばれたときの二郎の気持は れた。けれども其を使ふ自分の心は、兄の為ではなくつぎのようにかかれている。 然し何うした機か立っときに嫂の顔を一寸見た。 って却って自分の為に使ふのと同じ結果になりやすか った。自分は決して期んな役割を引受けべき人格でな其時は何の気も付かなかったが、此平凡な所作が其 後自分の胸には絶えず驕慢の発現として響いた。嫂 かった。自分は今更のやうに後悔した。」 ( 「兄」三十 4 ノイ
うして日本の現実に対する判断をも含む。今まで三節でいることはできない。だから、彼は絶えず現実世界 にわたって考えてきたとき、常に彼の批評がかかわりへ振りもどされると言ってもよい。しかも現実世界へ を持っていたのは当然なのである。そしてその言葉がの嗜欲をたぎらすことはできない。動けば反吐を吐く 批評として意味を持ちうるのは、もちろん彼が死を見と知った人間に ( 一 ) 可能なのは、「立ん坊」 ( 三 ) で 失うことがないからなのであろう。たとえば彼が保津ありつづけることだけなのだ。 川の流れをさして、「此流れは余り急過ぎる。少しも 甲野さんに何ができるのか、何をすればいいのか、 余裕がない。のべつに駛ってゐる」 ( 同 ) と言うのは、それはわからない。「隻手を挙ぐれば隻手を失ひ、一 うご おのずと状況への的確な評語となっているが、おそら目を揺かせば一目を眇す」 ( 十九 ) 、それだけは明らか 。しカほど。へシミスティ くそうした観点は、亡父の肖像が生きている刹那の表なのである。思索の世界でよ、、、 情を静止させたものであるように ( 十五 ) 、動揺する ックな言葉をしるそうとも、人生に対する断案は明晰 現実を静止させてみる原点を彼が忘れぬから保持できで論理的でもありうるだろう。ただ甲野さんは俗世界 るのに相違ない。死は絶対であり、絶対に照らし出さ ( 十八 ) を見、言葉の迷宮 ( 十 ) を耳にしなければな れた現実世界は相対性を明らかにせすにはいないのでらない。甲野さんは人生を変えたい。時間がないと言 ある。ただ、死をあえて選ばぬ甲野さんに、絶対の世 うほど ( 十八 ) 、その衝迫は深さを増して行く。おそ 界は冒頭の旅行のような場合を除いて容易に手が届くらく、宗近君、この「活躍の児」 ( 同 ) は甲野さんの はずがないたろう。叡山に登る途中で甲野さんの想念こうした夢を担う。甲野さんの設定は、漱石の構想で をかすめるのは確かに超絶の希求でもあるが、「草枕」最初から決定されていたものであろうが、宗近君は必 の画工に完全に捨象されていた係累の中に甲野さんはずしもそうは一一一口えない。現在残されているノートに、 生きねばならぬし、世の「荒海」 ( 十三 ) の潮と無縁『虞美人草』の人物関係図がしるされているが、甲野 3 7 イ
遠近の奥行きの感じが生まれる。西欧の大都会を思い を描き、長い文を築くのであるが、その後半の始めに 出そうとする作者は、まず画家のように、視覚的な要「車道の土歴青の上を」と受けて、全体の均衡を的確 素を集めている。 に保っている。西欧の都会を言葉の上で再現するのに、 その創作作業を語彙、文体から見ると、漢文の文脈どうして漢文の構築力をたよりにして行かなければ がこの都会の描写の基調をなしているように思われる。 ならなかったかのように見える。こうして言葉の新し ベルリンの全く新しい事物を指すためには、まず漢文い秩序が作り上けられたのである。 の造語の伝統から来た単語を新しく使おうとする。 始めは、またいくらか技巧的に聞こえるが、段落の 「楼閣」、「大道」、「新大都ーなどという言葉を並べて半ばごろになると、外独特の、見事な描写が展聞さ みると、それぞれ、語感、日本語の中に入った時期れる。文章が展開するにともなって、一種の遠近法の も使用社会層も異質でありながら、三つとも大正初期、効果が出来て行き、部分的なものが全体の中に位置づ 或いは明治四十年頃に、標準日本語から消えている。 けられて行く。まことに十九世紀の欧羅巴を代表する そういう意味で近代日本語の中の最初の層ののとい建築群を描くのにふさわしい文章の組み立て方である えるであろう。ウンテル、デン、リンデン通りの前でが、最終的な効果はむしろ絵画的といえる。始めのう は、外の頭の中に思い浮んで来るのは、大道髪の如ちは、自分に近く歩道を歩く人々の姿を目で追って、 きという、唐詩をふまえた形容である。描写のいたる二つとも連体形で終る句を平行させるが、その後すぐ ところに漢文の構造が脈を打っている。一つの文が二「彼此目を驚かさぬはなきに」といいついで、個 個の点描を一つの総体的な言い方の中に含んでまとめ 本の枝に分かれ、二つの短い文が完全に対応しあい あらゆる対句的な形がこの散文のリズムを決定づけて たのち、車道への目を移し、それから上方を見上げ、 いる。「人道 , と出しておいて、そこに現われる人物「雲聳ゆる楼閣」、「晴れたる空」、「遠く望めば」など 308
説である。この間中はや 0 た言葉を拝借すると、あ以上が全文である。私どもの覚えている、漱石の在 いわゆる る人の所謂触れるとか触れぬとかいうう ちで、触れ世当時の全貌評価の有様を伝えることができるかと思 ない小説である〉と。で、彼のこの主張を最もよく ってわざと全文を引用した。そして漱石・鸛外が特別 具現したものは『吾輩は猫である』『坊っちゃん』 の存在であったことは、次に鴟外の項をついでに引用 等で、殊に『坊っちゃん』は、青年時代の彼自身をすれば、もっと明らかになる。 モデルにしたと云わるるもので、無邪気な快活な中 「漱石の征徊趣味と略同じ意味をもった『あそび』 かいぎやく ひょうぼう 学教師の一青年と、その周囲とを軽い明るい諧謔に という言葉を標榜した作家に森外がある。外は 富んた筆で描いたものである。『虞美人草』や『草明治前期の文壇に於て、評論冫番訳冫 こ羽こ、盛んに活動 枕』はその豊富な才藻を以て世を驚かしたもので、 した人であるが、今に至るまでなお不断の努力を文 あらわ 空想の露な作品であるが、『それから』以後最近に 壇に捧けている。短編集『涓滴』その他の外、長篇 至るまでの作には現実的客観的の傾向が著しく、殊『青年』及び戯曲集『わが一幕物』等の作がある。 に、深い心理の底に穿ち入る鋭い筆には、及ぶもの彼の作品には種々のものがあって写生文らしいもの なしと称せられた。その最後の作『明暗』に於て、 もあれば、問題小説のようなものもある。批評を小 更に一転化を示さんとする時にあたり、不幸、病に 説に托したのもある。しかし、彼の作品は、、。 たお 斃れたのは、誠に文壇の不幸事と云わなければなられも透明なる智の産物であって、彼の態度には熱が ない。彼は技巧即ち文章に於て殊に傑れてい、その 一種『あそび』の気分が底の方を流れている。 ウィット 機才に富んでいるところ、言葉の豊富なところ、和彼もやはり心血を濺いで芸術を作る人ではない。近 漢洋の文脈を一に混和してその句法の自在なところ来、歴史小説に力を尽し『天保物語』その他の作が など誠に及び難い」 ( 九〇ー九三頁、新カナにて ) ある。観察の鋭敏と描写の精到と、而してその整然 そそ けんてき
玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装を われて来る。 なしたる、妍き少女の巴里まねびの粧したる、彼も 「余は模糊たる功名の念と、検東に慣れたる勉強力と 此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音 を持ちて、忽ちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり」 もせで走るいろ / 、の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少し と、『舞姫』の作者は、いささか自嘲の調子をまじえ とぎれたる処には、晴れたる空にタ立の音を聞かせ て、語りかける。未知の世界に対する好奇心、期待の 気持が溢れでている。当初から、外は自分の注意の て漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデン・フル ク門を隔て、緑樹枝をさし交はしたる中より、半天 対象をうかばせている。「独逸」あるいは「普魯西」 に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物 といわないで、「この欧羅巴の新大都」と書く。新大 都という聞きなれない言葉が体験の新しさそのものを 目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに来しもの 伝えている。太田は都会の「中央ーに立って、一目の 応接に遑なき宜なり 下にその全貌をおさめようとしている。この文は段落最初に限をうつものは、色彩である。数えきれない の始めに現われ、端的に短い終止形で結んである。作程、多くの色彩が咲きみだれる。鸛外は、同じ文型の 家の注意の集中、全身の緊張が感じられるようである。繰り返しによって、色の無数に輝くのを表わそうとし 「何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ている。始めに光彩という言葉を使って、次に、色沢 ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するとという珍しい単語を選んで、言葉の対応と、色、光、 街きは、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪つややかさの意味の対照でまぶしい雰囲気を作りだす。 の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石それに続いて、色彩に代り、輪廓のはっきりした線 手 だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩聳と面が現われて来る。「余」の前に、一本の広い大通 えたる士官の、まだ維廉一世の街に臨める愆に倚り り、「両辺なる石だゝみ」が広がる。その瞬間から、 307
があるからではないかという懸念をおこさせる、と言 っておいた方がよい。文学者として、鸛外と共に代表 的な明治の精神の座に就けられてしまったのが漱石で あり、したがって今日漱石を語ることは明治という時 代を語ることであり、西洋と対決して何らかの位置と 思想を劃定してゆかねばならなかった近代的人間を語 ることになってしまった。こういう広義の時務論的要 請が無言の圧力となって、漱石の文体論、言語論は容 汗牛充棟という形容は漱石に関する研究書、文献に易に成り立たないのだと思われる。「猫」を読んで、 もあてはまるが、それでいて漱石の「言葉と文体」の全く漱石そのものである文章の風味、匂いを感じない 研究は寥々たるものでしかない。 これは、漱石研究の人はまずいない。「猫」とはまるで異質のような「道 諸領域のうちでも、一番閑却されてきた領域なのかも草」や「明暗」にしても、即物的には何よりもまず漱 しれない。たまたま目を通すことを得たその種の幾つ石が形づくった彼ならではの言語として存在している かの論文も、事の本質には少しも触れていなかった。 ことを、疑う理由は全くない。漱石には言語的間題が しかしこれは、漱石には言語的問題の注目すべきもの欠けているのではなくて、言語という視座からは漱石 がないことを意味するとは、考えられない。むしろ、的問題がとらえられないとするような方向づけが、無 言語論的アプロ 1 チが欠落したような形態で、厖大な意識裡に行われているにすぎない。 エネルギーが漱石研究に費されつつある事態は、今日、 ごく普通の見方では、漱石の言語と文体についての 漱石に寄せられている関心、再評価に、ある種の偏倚通念は、第一に、彼が明治文士のなかでも有数の、屈 漱石の言葉と文体 高橋英夫 168
いであろう。或いはまた「笑い」は原初、苦痛の表現る。またしようともしないのである。ここに漱石の であったという・キルケゴールの考えも、同じ根拠「笑い」が形成される。「吾輩」は一言の救援もよばな ( 注 6 ) い。そして死に瀕する。あの薄暗りの中からはじまっ によるのであろう。椎名麟三は「笑い」について、 それは「恐怖、のシノ = ムだと断じていられるのであた「猫」は、こうしてこの暗い甕の中に消えて行 0 て るが、漱石にあっては、一層「人間の恐慌」だと言っしまう。まさにそして、 Keine Brücke führt r der Schlund 、い。その恐慌を、かくばかり的確に把え得るメト であろう。その深淵は「人間恐慌ーの暗い予感であ ーデとしても『猫』の笑いは有効であったといってい る。重ねて言うと「笑い」はそして、「その時苦しい いであろう。「その時苦しいながら、かう考へた」は、 漱石文芸のきわだった発想である。この情況は『猫』ながら考へた」であり、漱石文芸の発想の肝心である。 においてはこうである。「吾輩、はビールを飲み干す。餅にくらいついて、死ぬ程の苦しみを味わう「吾輩」、 「我慢に我慢を重ねて」という。がまんの甲斐があっ彼やはり「苦しいながら考えた」なのである。漱石 は生涯「苦しいながら考え」「苦しいながら書」いて て「猫」は陶然となって散歩に出かける。海だろうが 山だろうが驚くものか。そう思ったとたんに甕の中に行くのである。ではその苦しさ、深さとは何であろう。 世落ちるのである。足をのばして届かず、飛び上って以下この「笑い」のただ中にのぞき見られる漱石の の もとどかない。もがけばもがくだけ身は深く水中に沈「恐慌」について、いくらかの考察を試みようと思う。 る 物む。人々はさざめき合い、そして笑い、憎み愛し、喜 描び悲しんでいる。その言葉の一つ一つを、「吾輩」は 『猫』の文体は、明晰ということばの持っ可視的な性 輩聞く。尽きぬ好奇の思いを持って理解する。しかし、 人々は「吾輩」の言葉を、一言だに理解しないのであ格をとり去って使用に供し得るならば、その文体は悽 291
だからである。少なくともが宗近君だとすれば、 糸子の存在がまだ予定されていなかったことにな る。宗近の一家の設定だけがこのノートではなお 確定していないのである。 注片岡良一氏の『夏目漱石の作品』 ( 昭和三〇・ 八 ) に、漱石は「人間一般の営む日常生活を、彼 自身の言葉でいう喜劇ーー言葉の正しい意味では むしろ茶番視したり、世の中全体をそういう意味 での『喜劇ばかり流行る』ところと、侮蔑的否定 的に規定した」、という指摘がある。しかし、今 までの各節で触れてきたごとく、漱石にも甲野さ んにも現実はそのようにのみ理解されていたと考 えられない。滝沢克己氏の、漱石が「『几ては喜劇 である』と断言する時、彼が日常の生活そのもの を喜劇として蔑視しようとしたのではない」 ( 『夏 目漱石』昭一八・一一 ) という見解に賛成したい。 時注前節で触れた構想ノ 1 トは、書き込まれてい の 劇 るかぎりのプロット の最初と最後に死の指定があ り、後者の「十三 E Death 」が藤尾の死が当初か ら動かせぬものだったことを、示してもいる。 注浦たとえば、甲野さんが糸子を傷つけながらっ いにその点に気づかぬ十三章に、そのエゴイズム を読みとることができる。ここでもし彼が糸子の 内面に目を向ければ、彼はその理念を語ることが 不可能になるのだ。だから、甲野さんが糸子との 結婚を考えるときがあれば、そのとき彼は十三章 の際の自身を否定することになろう。 注補足して言えば、主人公の死で終わるという 点で真正の悲劇の成立を、漱石はその生涯に今一 度試みる。『こゝろ』がそれに当たることは言う までもないが、そこで彼は明治の精神という過ぎ た時代の価値の体系を悲劇の支えとする。これは 漱石における悲劇の発想の重要な観点であろう。 悲劇の背後には常に現実へのアイロニ 1 があるの か。しかしその問題はむしろ『こゝろ』論 ( 二四 八べ 1 ジ参照 ) の領域である。 383
ジは、聴覚と無関係に形作られることはない。耳の鍛ながら作られている。だが、漢詩にだけは、それがあ るグルー。フであれ、あるいは不特定の多数者であれ、 錬を無視して、詩人が生れるはずもないのだ。 見せるべき相手がないのだ。まれに、手紙の中に書か れたり、ある一人のために作られたりする例がないで 詩の音声に対して、現実的には耳をふたぎながら、 はなしが、まず自分一個のために作るのが原則である。 心で聴いているーーーそのような訓練が作者を何時か特自分の心に納得し、満足すればよいわけで、他の人に 異な世界へ導いて行ったのが、漱石の漢詩であろう。 思想を伝達することは第一義ではなかった。 それは読者にとって詩であるよりも、まず作者にとっ そのことは漱石の漢詩の独自の性格の基づくところ て、作者ひとりにとって詩だったのである。それが読として、とくに銘記しておいてもよかろう。明治の漢 者にとっても詩であるためには、それは読者が日常使詩人たちは、それぞれ同好の結社に属して、発表し合 、耳にもしている世の常の言葉から、あまりに遠く うことが多かっただろう。さもなくば、軍人や政治家 隔たっていてはならない。日本人が漢詩を作るという などの、ただむやみに漢字を羅列した作品は、見栄以 ことは、詩にとってのこの第一の鉄則において、まず外の何物でもなかろう。 蹉跌する。だから漱石は、読者を求めて漢詩を作るよ だが漱石の漢詩は、「俗了」を脱却しようとする一 りも、自分一個に読ませるために、自分一個の楽しみ種の風雅意識を突き抜けてからは、もつばら自分の内 のために、それを作る。 面世界と向き合っての対話である。それは彼の内面で、 世彼の小説は、朝日新聞の大勢の読者のために、書か明と暗が、雅と俗が、実と虚が、過去と現在が、生と 詩れるものである。彼の俳句は、「ホトトギス」の虚子死が、対立蔦藤する劇的な対話をなしているようであ その他、俳句仲間がいて、その中で仲間たちを意識しる。ただしそれは、内面の隠徴の言葉でささやぎ交さ 139