『行人』にづいて ことの出来ないところであろう。直の帰った後、雨の 足がないにかかわらず、二郎は考えがまとまらない。 「いっそ一思ひにあの女の方から惚れ込んで呉れたな音をききながらそのまぼろしを追う二郎の描写も大変 。この一章の題名となっている「塵労」は誰のも らと思っても見」たりするが、「もう少し考えて見よ う」ということになる。二郎と直の関係を「悪い」このだったのだろうか。一郎のか、二郎のか。だが小稿 とと考える三沢は、その解決として縁談をすすめるのの趣旨は別なので先を急ぐ。 このあと書かれていることの主なものは二郎や三沢 だが、二郎の態度に怒るのも、同じ理由であろう。 の努力によって一郎がとともに旅に出ることになる 『行人』の中に二郎と直の関係を追って、「塵労」の こと、二郎の縁談のつづき、一郎の不在の長野家の様 一回から五回にかかれている、直が二郎の下宿を春の 夜訪ねてくる場面までくると、この二人の物語のクラ子、家族のものの心痛などであるが、小稿においてと くに重視すべきものはないようである。ただ二郎が イマックスに至ったかの感がある。和歌山以来二人は 立話か、人のいないところで二言三言ことばをかわす一郎を旅に連れ出してくれたに、一郎が二郎をどう いうふうに考えているか知らせてくれということを執 機会しかなかったが、ここではじめて対座して語り合 うことになるのだから。何事も口数少く、ありのまま拗に頼むこととか、二郎が見合をした話を知って母が を語ることのない直が、はじめて本心を二郎に語って強い関心をつのに対し、直がまったく無関心の様子 いる。「不貞の美しさーというようなものがあわれにを故意に装う場面などが印象に残る。 美しくたたよっている。漱石の過去の作品のどれにも いままで二郎と直の関係を見ながら、一郎その人に はあまり触れなかった。「塵労」後半を成す、旅先か 見られなかったもので、かれの愛の考えや美の考え、 あるいは人間とか倫理の考え方に深くつらなる場面らの送ってくる手紙は、その一郎の孤独や苦悩を、 いままでの二郎の視点から眺められたかき方と変って、 であろう。『行人』の芸術的な意味を考えるにも欠く 引 9
であり、三沢の異常な恋の物語はまた、異「た意味でろいろあるが、一番中心となり重要なのは、一郎二郎 の兄弟と一郎の妻直との三人の関係で、めろう。和歌の 異常な一郎夫婦の生活に対照している。こういうふう に「友達」は、これから描かれる一郎の悲劇の序章の浦で二人きりのとき、一郎が二郎に向 0 て、 役目をもっているが、「友達」の持つ意味はそれだけ「直は御前に惚れてるんぢゃないか」 ( 「兄」十八 ) 教養ある家庭の兄弟が、まじめ では尽きないように思われる。岡田の家庭や佐野の縁という。 な会話の中でロにすることばとして、これはどうでも 談に積極的には何も二郎が関係しないことを述べたが、 よいというような種類のことばではないであろう。読 「頭を枕に着けながら、 次のような言葉はある。 者はこのことばの意味するところに関心を持ち、以後 自分の結婚する場合にも事が期う簡単に連ぶのだらう かと考へると、少し恐ろしい気がした。」 ( 「友達。七 ) の小説の展開に興味を抱く。作者はそれに応えねばな 同じような感懐は何回かくり返しかかれている。このらぬはずである。 感懐を契機として二郎もやがて『行人』の世界に引き多くの『行人』論はあまりこの点にかかずらわない。 込まれてゆく。また三沢の語「た恋の物語が、わが身その理由は、おそらく次のような考えによってであろ 。すなわち、二郎と直の間に、ある種の親しみはある にひきくらべて二郎にある驚きを与えるのは「帰って から」の中ほどのところである。「友達」は一郎の悲が、それは、たとえば『それから』の代助と婢の関係 劇の序章であるとともに、二郎の物語の序章の役目をのような、理の姉弟の間にある普通の淡い親しみに て 一郎は神経病患者であり、このことばは誇 過ぎない。 ももっているらしい。 っ 「友達」では傍観者であった二郎は、「兄」に入るに張された、その妄想のようなものであるから、あまり 行およんで、小説の中の登場人物となる。「兄、からは深刻にとる必要はないのではないか、と。しかし二郎ⅱ と直のことは、病気の一郎が間題にしただけではない。 じまる中央の二章半のところに書かれていることはい
かんが為めに、不必要なる犠牲を敢てする」というの於て、吾人の脳裏に反射し来る」。もちろん、生命の確 は、画工が例にとっている演劇からすれば、悲劇的行証も認識も別の問題ではない。そして『虞美人草』の 為にほかならぬし、「悲酸のうちに籠る快感」を与え甲野さんによれば、「自己の出立点」を意識することと、 る芝居とは、悲劇以外のイメージではあるまい。その道義の観念とは密接な関係があるのだから、「草枕」 悲劇は、画工によれば、人情世界において正、義、直にしても「文学論」にしても、悲劇のイメージは『虞 を高しとする一念、つまりは道義と一致しうるし、観美人草』のそれと基本的には変動がないと言ってよい 照者の視点からすれば明白な美と映るとされていた。 だろう。このようにたどって来ると、漱石に悲劇への 「文学論」 ( 明四〇・五 ) にもまた悲劇論があるが、そ関心がなみなみのものでなかったことは、もはや疑う の一節に「ションの囚人」を引いて言う。 余地がない。同時に、悲劇が『虞美人草』において甲 吾等は先づ吾等が生死を知らんと欲して、何より 野さんの認識の問題であったことの必然も、こうした 先に自己の意識の内容に何物か潜むを点検し来るべ悲劇観から納得が行く。 し。 : 中略 : ・・ : 日もなく夜もなく、時もなく空間 ところで、「草枕」の画工は那美さんに嫌厭の情を もなく、只石の如き一塊たらんよりは寧ろ苦痛を自隠してはいなかった。「現実世界に在って、余とあの 覚して判然たる生命の確証を得んと欲するは人情な女の間に纏綿した一種の関係が成り立ったとするなら ば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだらうーと、彼の おそらく、生命のあかしを求める者に悲劇は切実た言うとおりなのである。ただ、画工はあくまでも画工 と、これを言い換えることも可能であろう。漱石はまであろうとするかぎりにおいて、すなわち非人情の視 たこうもしるす。「悲劇の関する所は死生の大問題な点を確保するかぎり、那美さんに美を見いだすことが 。死生の大問題は吾人の実在を尤も強烈なる程度にできた。『虞美人草』においても事情は相似している 362
となる作品である。「一夜」がもし小坂氏のいうとおる」という、「一夜、の孤独と寂寥とは、「今宵ばかり り「非人情で三角関係を克服する禅的小説」であるとのあひびきに人目をしのぶ木の葉蔭」という「ひと夜」 すれば、相聞歌というにはあまりに間遠すぎる欠点はの甘い感傷にこたえたものではないだろう。また、 「一夜」と前後して書かれた『漾虚集』の諸作が、す あるにしろ、ひそかに悔恨を訴える楠緒子に、あるい べて楠緒子の作品と関連があるなどとも考えられない。 はこたえた作品なのかしれない。 けれど、私の見るところでは、「一夜」は実在したとえば『幻影の盾』も『薤露行』も騎士の恋を扱っ ーの「アーサー王の死」や、 ているけれども、マローリ ない女を夢の中で生かす可能性をテーマとしている。 テニスンの「国王牧歌」に取材されたことは漱石自身 漱石の関心は現実のかなたの非在の女にあるのであっ が語っている。漱石は「小説ェイルヰンの批評」 ( 『ホ て、いわば異次元の現実に生きうる可能性を問題とし トトギス』明三二・八 ) のなかで、「物質主義、進化主 ていて、現実の三角関係や、その克服を問題としてい ないのである。非在の女とは、おそらく漱石の意識の義の横行する今日に、古今の迷信たる呪詛を種にして ひと 奥底に沈んでいた、亡き女の面影にちがいない。帰朝小説を書」いた作者に共鳴し、「首尾よく天吹から蛇 後「心を腐蝕するやうな不愉快な塊」をいだいて周囲を出した」ことを褒めている。主人公が盾の霊力によ って冥界の恋を成就する『幻影の盾』には、いわば の現実に脅威と嫌悪をつのらせていた漱石にとって、 「灰吹から蛇」の構想がその根底にある。「情の切なる それははるかな救済のイメージであったはずである。 丸顔の男、眠の涼しい女も、非在の女をよみがえら時は理を忘る」の真実を二十世紀文明に抗して作品 す、その夢の話の切実な意味を理解しえない。「夢の化したのだともいえよう。「エイルヰン」のなかの無 学文盲のジプシー娘、シンファイの「信力」の美しさ 話は中途で流れた。三人は思ひ思ひに臥床に入る。 ・ : 彼等の一夜を描いたのは彼等の生涯を描いたのであを漱石は愛していて、「幻影の盾」のなかで岩上に胡 272
として明快なる文章とは故漱石と相並んで文壇得易漱石の小説は「三四郎」以後みな男女の三角関係 からざるものである」 ( 九六ー九七頁 ) ( 「道草」と未完の「明暗」を除く ) であるとも言える。 よほど三角関係に興味を持っていたのであろう ( もっ そういう自分の文学史的位置を、漱石・外は知っ ていたであろうか。もっともこの人達の持っていた工とも世界中の小説を解剖してその筋を種類わけにする リート意識も考えなければならない。自然主義文学のと、小説というものは、みな、三角関係を扱うという 時代は大正まで続き、そのころの文壇では早稲田その定義が生れるかも知れない ) 。とにかくこの後期の三 他私学出身の人々が主流をなしておった。大体をいえ部作で三角関係の心理と分析は、「三四郎」「それか ば、大正になってから東大や学習院の人達が主流に加 ら」「門の手ぬるさに比して段ちがいにできている。 わったのである。 さてその「それからーに漱石はかかる。ここで漱石 漱石の文学も大正に入って、「それから」が書かれ、はもう一つ脱ぎ棄てなければならなかったものに気が これは「三四郎ーのつづきであると言われる。それはつく。それは小説というものは、説明するものでなく やがて「門」につながるものとされて、この三つが漱て描写するものだと言ったら良いのか、とにかく作者 石最初の三部作で、後の「彼岸過迄」「行人」「こころ」が人物の記述をしていてはいけないということである。 み という後期の三部作と相対する。この三作は短編をい漱石は、代助という高等遊民を主人公に出して来て、 の くつかつなげて、短篇各々としても小説として独立し彼が高等遊民であるということを読者に読みとらせる っ のうるが、それをまとめても、一つの長篇小説をなす手を当初は知らないかのごとくである。何度で、代 説 ( 合わせて三つの長篇小説となる ) という構成を試み助はこういう人だと、その心持や性格を記述している 石ている。形式に於ても三部作だし、三角関係の追求とに過ぎない。代助の家に住み込んでいる書生の門野を う内容に於てもそうであると説明していい。 もっと記述していう。
男ですね』と主人が云ふと、迷亭が、『馬鹿だよ』と連作と、『漾虚集』各篇との間にかわされる作用は、 簡単に送籍君を打ち留めた。」このような楽屋話的叙要するに、一方が他方の性格を強め合うということで 述は、この個所に限らす、全篇各所に鏤められてあるある。これが連続的に行われてゆく結果、そこには振 が、一般に『猫』は『漾虚集』の楽屋話であるともい子の往復運動に似た軌跡が描かれている。これはこの えるし、それが冗舌に語られれば語られるだけ、『漾期の ( 又多分に彼の全生涯にも通ずる ) 漱石の精神運 虚集』の各篇が、禁欲的筆致で彫り込まれてゆくこと動の型を正に如実に反映したものであって、この型は、 アレビ。ハレンツ・ボラリティ ( 両価性又は両極性又は ・、可能になるという関係があったと思う。 対極性反応 ) と把握することが出来るだろう。即ち、 このような往復的な相互的な関係は、迷亭の、気色漱石の精神内部には、互いに対立し、しかもそれらが の悪くなるような蛇飯のからんだ薬罐頭の女への失恋互いに働きかけ強め合う性質をもった二つの精神の極 談や、落語の長屋的な夫婦論を主内容とする『猫』困性が並存していたわけであって、それをこの二系統の と、批い難く運命的な恋に美しくも身をほろぼしてゆ作品が示現しているのである。 く女たちを抗いた「薤露行」 ( 『中央公論』・Ⅱ ) との間 漱石内面の対立物については、すでに吉田六郎氏唐 に , も見られるし、白菊のイメージを中心に展開される、木順三氏や猪野謙二氏に言及があり、唐木氏によれば、 恋の感応の物語「趣味の遺伝」 ( 『帝国文学』・ 1 ) それは、倫理的なものと俳諧的なものという風に総括 と、銭湯での、芋を洗うような混雑ぶりを腑瞰した描されている。そしてその対立の相は若年の漱石の、漢 写や、落雲館中学生と、苦沙弥先生との争いを主内容文学の摂取の仕方の中に見られるもので、「左国史漢」 とする、『猫』旧バ ( 的年 1 月号 ) との間にもある。 への関心は前者を、「唐宋八家文」への舜着は後者を これらについては贅言は省くけれども、この、『猫』代表している。前者は英文学の勉強に彼を導き、後者 336
の問題が看過されている傾向があることからいえば、 「野分」をもって作家漱石の出発点と見ることの確認 周知のように、漱石は明治四十年二月二十四日に東 は、やはり改めてしておく意味があると思われる。 京朝日新聞社から入社の交渉を受け、三月十五日に池 なるほど、「野分」が含みもっ問題のかなりの部分辺三山に許諾を与え、同月二十五日付けで文科大学に は、「虞美人草」で再構成され、完成されている。人辞表を提出して、作家となった。しかし、ことがこの 生を悲劇と喜劇という角度から捉える問題、第一義的ように急速に決したについては、それ以前にすでに作 な生き方をする人間の問題などがそれであろう。しか家として立つ意志と自信とが漱石のなかに熟して来て し、白井道也と高柳周作という師弟関係の設定は「虞 いたことが当然考えられなければならない。そして、 美人草」を越えて、「三四郎」や「こゝろ」における〈作家漱石〉を考える上では、その内面的な時期の門 かなり本質に関わる小説作法の源泉になっているし、 題を考えることの方が、現実に朝日新聞社へ入社した 白井道也とお政との夫婦関係はそのまま「道草」の健ということより遙かに重要である。漱石は、明治三十 三とお住、「明暗」の津田とお延の夫婦関係にまで持八年七月ごろに日本新聞から特別寄稿家としての誘い ち越されて追求されている。作家漱石が一貫して問題を受け、翌三十九年十月には報知新聞・国民新聞・読 にし続けた、一人の女性をめぐる二人の男性という三 売新聞から同様の誘いを受けている。「草枕」を発表 角関係の設定も、その原型は高柳周作・中野輝一と、 した段階で、漱石に対する世評はほぼ確定して来た。 中野の新妻との関係に見出される。つまり、「野分」そのことは、逆に文筆で立てるという自信を漱石に抱 に提示された問題はかならずしも「虞美人草」で終わかせる大きな原因になったであろう。小宮豊隆は、お ってはおらず、むしろ作家時代の全体を蔽う問題の出そらく明治三十九年十月二十七、八日ごろ執筆された 発点がこの「野分」にあると見ることの方が妥当であであろう「文学論」の序「向後比『文学論』の如き学 218
だからである。 ・、こい。或いはさらに漱石文芸の方向を決定づけた このすばらしい書き出しではじまる作品『心』の登 『猫』の「笑い」の本質が、そこにとどまっていると は言いがたいのである。すくなくともその「笑い」を場人物たちは、すべて「名前」を持っていない。「共 要請したもの、その「笑い」によってでなくては、手方が私に取って自然だからである」と「私」は言う。 に入れることの出来なかった現実というものがあった。それが「先生」と『心』における「私」の関係を端的 ( 注 3 ) それがかかる形をとり、次のようにしてはじめられてに開示しているのである。漱石文芸において、かかる いるのである。 発想は必すしも偶然ではない。人と人、或いは人とこ 吾輩は猫である。名前はまだ無い。 の世の現実との、決定的な関係の文芸、その深さを、 人をくった書き出しである。この飄然とした文章にものがたっている。後にのべる『行人』の Kei ne Brücke führt von Mensch zu Mensch 意味ありげな解釈は蛇足であるが、たとえば「名前は とあるようなそのような根源的な人間関係の物語が まだ無い」は、この作品の発想をはしなくも語ってい る。漱石の作品に登場する主人公たちの多くが、実は ここには存在する。それは又こう言ってもいし ( 注 2 ) Keine Brücke führt 6 r der SchIund 「名前」を持たないのである。『坊っちゃん』は言わず 世もがな、三四郎や代助や一郎にしてもが、「名前」と その深淵に渡す橋はない。『名前』はたしかにかり の しては如何にもぎこちなく不自然であろう。そしてそそめではあるが、そのかりそめの垣間の中に、人間の る の極北に『心』がのぞめる。 根源的なあり方がのぞいている。漱石文芸における人 私は其人を常に先生と呼んでいた。だから此所で 間の、特異なあり方、関係の仕方、その最も重要な姿 もたゞ先生と書く丈で本名は打ち明けない。是は世がここに示されていると言うも過言ではない。 間を愾かる遠慮といふよりも共方が私に取って自然 だけ 289
て二十三歳の時に入学する理由は小説のどこにも見られた人間は、反対の方向に働き得る能力と権利とを有 れない。漱石自身が二十四歳で入学した頃の教育制度してゐる。」 の方が三四郎の時代よりずっと不規則たったのに、 嶽石が『三四郎』の主題や構造を考え出した時に、 病気と落第がなかったら二十一歳で入学できたであろます自分が無邪気な青年から「詩」の限で人聞を見る う。どう見ても、漱石はまだ幻減していない青年達をことの出来ない大人になった明治二十二年と二十三年 二十三歳にする理由があるらしい。 の時に起った公の出来事を思い出して、ムⅢ先ドの経 江藤淳氏の『嶽石とその時代』 ( 新潮選書、昭和四験をその時点に置いたと思われる。森有礼つ殺はそ 十五年 ) がその理由を説明してくれるようである。漱の出来事であって、小説の構造を統一する「森」のイ 石が二十四歳の時に、敬愛した嫂登世と肉体関係を伴メージでもある。 ったかも知れない深刻な恋愛があったかも知れないと 広田が明治二十二年に、理想的な「森の女」を見る いう、氏の説は三四郎の近い将来に待っている幻減と「詩」の限を持っていたように、現在の三四郎にも女 深い関係を持っているのである。 を絵として見る「詩」の眠が有り余るほどある。彼と 兄の妻なので、漱石は登世を「女」と見てはいけな美子の関係が、広田と夢の女と同じような詩と絵の かった。彼女を別種類の、人間でない人聞と信じなけ関係であるという示唆は、早くも第四章にあらわれて ればならなかった。もしこの「嫂」で、「女」でない いる。「三四郎は詩の本をひねくり出した。美子は 女と深刻な恋愛の経験を味わったとすれば、それは大大きな画帖を膝の上に開いた」又広田が夢の女の話の きな喜びでもあったろうが、また幻減の経験でも , あっ後に「それから君が来たのさ」という言葉に、三四郎 たに違いない。 は広田の幻減の経験を繰り返さなければならないとい 人間には「種類」等はない。「ある状況の下に置か う意味が含まれている。三四郎の「森の女」も彼の理 イ 08
「それ程君は共娘さんが気に入ってたのか」と自分を思いあわせれば、あるいは漱石は、ここでふじと登 は又三沢に聞いた。 世といずれ夫に顧られなかった妻たちの記憶をつき 「気に入るやうになったのさ。病気が悪くなればなまぜて、いわば「嫂的なもの」の哀れさを暗示しよう る程ー としているとも考えられる。 「それから。ーー共娘さんは」 さらに三沢のいわゆる「あの女」とは、彼が偶然宴 「死んた。病院へ入って」 席で逢って関心を持つようになった芸者のことである。 自分は黙然とした》 その芸者が「娘さん」に似ているから三沢が異常な関 かんじん 《 : : : 「あ、肝心の事を忘れた」と其時三沢が叫ん心を示すようになったという作者の説明は、おそらく た。自分は思はす「何た」と聞き返した。 作者自身の特殊な心的傾向を物語っている。漱石には 「あの女の顔がね、実は其娘さんに好く似て居るんその内心に焼きつけられている「ある女」の面影があ だよ」》 り、それは似ている女に出逢うたびによみがえって彼 もとよりこの插話が漱石のどんな体験を反映してい の内密な体験を想起させた。前述の彼の好んた女性の るかを確実に立証する方法はない。しかし彼の身辺でタイプからしてそれは当然「背のすらっとした細面」 嫁いで間もなく不縁になった女といえばふじしかなく、の登世であったと思われる。三沢の女性像の原点に この插話の内密な語り口からして彼がその奥底に自ら「娘さん」がいるように、漱石の女性像の原点には多 「襯察体験」した事件を置いていると想像することは分登世がいたのである。 登世が夏目家に縁づいて来た明治二十一年には、漱 可能である。狂女が「娘さん」と呼ばれているのも、 満十七歳になって間もなく夏目家を去ったふじの面影石は第一高等中学校予科を卒業し、英文学専攻を決意 をとどめているのかな知れない。前掲『道草』の一節して同校本科に進んだところであった。姻戚関係にな はひ 186