ほまれ ( 2 ) 庸衆の誉一般大衆から与えられる名誉。 小山内薫 ( 明治十四年ー昭和三年、 18 ( 3 ) 小山内 81 ー 1928 ) 。小説家・劇作家。このとき、東京帝国大学 英文科一一年在学中で漱石の教え子。 ( 4 ) 垣隣り五三八ペ 1 ジ当一 ( 8 ) 参照。 ( 5 ) パナマ製夏帽第二巻「吾輩は猫である」一六 四ページあたりの素材となっている。 英文学者。このとき、東京帝国大 四 0 四 ( 1 ) 中川芳太郎 学英文科一一年在学中で漱石の教え子。明治三十九年、大 学卒業後、名古屋八高教授となった。 ( 2 ) 友人菅虎雄。五二九ページ三六三 ( 1 ) 参照。 ( 3 ) 新小説春陽堂発行の文芸雑誌。明治二十二年 ( 1889 ) 創刊。昭和一一年 ( 1927 ) 終刊。このころ、「文芸 倶楽部」 ( 博文館発行 ) と並んで文壇の二大雑誌であっ こ 0 ( 4 ) 戦後の文壇に対する所感明治三十八年 ( 19 05 ) 八月号「新小説 . に談話「戦後文界の趨勢」 ( 全集 第四巻所収 ) が出た。 ( 5 ) 中学世界明治三十年 0897 ) 一月、博文館か ら創刊された中学生向きの月刊雑誌。 ( 6 ) 中央公論明治三十二年 ( 】 899 ) 一月、「反省雑 かきどな おさない 誌」を改題して創刊された総合雑誌。このころから特に 文芸作品の掲載につとめた。漱石は三十八年九月号に 「一夜」 ( 全集第三巻所収 ) を発表する。 ( 7 ) チョイン先生滝田哲太郎 ( 明治十五年ー大正 十四年、 1882 ー 1925 ) 。号、樗陰。東京帝国大学に在学 のまま「中央公論」記者となり、大学を中退、大正元年 ( 1912 ) から同誌主幹になった。 ( 8 ) 明治大学漱石は明治三十七年 ( 】 904 ) 四月か ら明治大学講師をも兼任していた。 東京大学の通用門。正門の南にある失塗 ( 9 ) 赤門 りの門で、もと加賀藩前田家の上屋敷の正門であった。 転じて、「東京大学」の異称。 四 0 五 ( 1 ) 山子規は、明治三十一年 0898 ) ごろ、写生文 を提唱し、文章には「山ーがなければだめだと主張、子 規庵で「山会」という名の文章批評会をひらいた。子規 没後もこの会はつづけられ、漱石も出席して感化を受け た。「吾輩は猫である」はこの会で朗読するために書か れたものであった。 明治三十八年 ( 1905 ) 八月一日、小沢平 ( 2 ) 神泉 吾によって創刊された文学雑誌。その八月号に、漱石ら による「本郷座金色夜叉」合評、漱石の談話「現時の小 539
ばせをく力い ( 5 ) 芭蕉句解『芭蕉翁句解参考』のことであろう。 ( 5 ) 小村小村寿太郎 ( 安政一一年ー明治四十四年、】 8 月院社何丸著。文政十年 ( 1827 ) 刊。前注の書とともに 55 ー 1911 ) 。明治二十八年 ( 1895 ) 、清国公使。翌年、外 漱石の蔵書目録にみえる。 務次官、三十四年 ( 1901 ) 、外務大臣。 そんしゆく ・ ( 6 ) 尊叔正岡子規の叔父、加藤恒忠。外務省につと三 ~ 五 ( 1 ) 熊本県飽託郡大江村四百一番地漱石は明治 三十年 ( 1897 ) 九月、落合東郭 ( 漢詩人 ) の家を借りて めていた。 ここへ転居した。現在、熊本市大江町大江。 ( 7 ) 高等商業学校五〇二ページ一 = 6 ( 2 ) 参照。 ( 8 ) 小山小山健三 ( 安政五年ー大正十一一年、 58 ー ( 2 ) 御妻帯虚子は明治三十年 0897 ) 六月、大畠い とと結婚した。 1923 ) 。のち、文部次官となった。 ( 3 ) 肥後小天熊本県玉名部小天村。現在、玉名市浜 ( 9 ) 校長中川元。 屋。小天温泉がある。漱石は、前年の十一一月三十一日か 一一一四四 ( 1 ) 帝国図書館明治三十年 ( 1897 ) 四月二十七日 の官倒公布により、従来の東京図書館を改称して上野公 ら新年にかけて山川信次郎とここへ行き、その後も山川 園内に開設された。国会議事堂の近くにある現在の国立 らと何回かでかけた。なお、のちの明治三十九年 ( 】 906 ) 国会図書館。 に発表された小説「草枕」 ( 全集第四巻所収 ) に書かれ た那古井温泉は、ここのことであるといわれる。 ( 2 ) 牧野牧野伸顕 ( 文久二年ー昭和二十四年、】 862 ー 1949 ) 。政治家。大久保利通の子。このとき文部次官。 ( 4 ) 御大喪中明治一二十年 ( 】 897 ) 一月十一日に皇太 のち文部大臣・内務大臣などになった。 后 ( 孝明天皇の皇后、名は夙子 ) 死去。臣民 ( 国民 ) の ( 3 ) 松方内閣明治二十九年 ( 1896 ) 九月成立した 喪期は三十日間であったが、宮中の喪期は一か年間であ っこ 0 第二次松方内閣をさす。首相、松方正義。 ( 5 ) 新俳句五〇〇。ヘージ一一五一行 ) 参照。 ( 4 ) 一葉集『俳諧一葉集』の略。古学庵仏兮・幻窓 めいせつ 湖中共編。文政十年 0827 ) 刊。芭蕉の発句・俳文・書三四六 ( 1 ) 鳴雪老人内藤鳴雪。五〇六。〈ージ一一六公 1 ) 参照。 ( 2 ) 歌壇にての大気炎子規は、明治三十一年 ( 一 8 簡などを編集した書。 し : おあま 525
~ 洛←ーー「名士の中学時代」 正岡子規 断片 ( 明治三十一一年ー三十四年 ) 日記 ( 明治三十三年ー三十四年 ) 書簡 ( 明治一一十一一年ー三十八年 ) 同時代人の批評 坊っちゃん評一 坊っちゃん評一一 幻影の盾評一 幻影の盾評ニ 解説 作品論「文学論」と「坊っちゃん」の間 注釈 四話 潮」当四 「帝国文学」四毛 「中央公論」四一一〈 「新聞日本」四 lll() 吉田精一 辻邦生四四 0 吉田精一 四一 一一六 0 毛 0 三 0 七
な模様または柄の洋服生地。 ( 5 ) 76 Gower street, London 漱石がロンドン着 後、二週間ほどすごした仮の下宿。大塚保治に教えられ たものであった。 四 ( 1 ) 勅任官旧官吏制度で、天阜の任命によって職に っした官吏。すなわち、一等高等官および二等高等官。 ( 2 ) 六円漱石の一か月の留学費は百五十円であっ こ 0 ( 3 ) 6 Flodden Road, Camberwell New Road, London 漱石のロンドンでの第二の下宿。ロンドン市 内南東部の地で、「倫敦消息」はここでの模様を伝えた もの。翌年四月二十四日まで約四か月すごした。 ( 4 ) S. E. south East ( 南東 ) の略。 いけべよしかた 五 ( 1 ) 池辺義象元治元年ー大正十一一年 ( 】 864 ー一 923 ) 。 国文学者・歌人。明治十九年 ( 】 886 ) 、東京帝国大学卒 業。小中村清矩の養子となり、三十年 ( 1897 ) 、池辺家 に復姓。三十一年 ( 1898 ) 、フランスに留学、三十四年 ( 190 こ帰国、京都帝国大学につとめた。 ( 2 ) 福本氏福本日南か。 ( 3 ) 地獄売春婦。私娼。 蕣六 ( 1 ) 地方局長夏目鏡子述『漱石の思ひ出』前編 ( 角 川文庫九三ページ ) に「末松謙澄さんが内務大臣になら れた時に、ぜひ地方局長をやれといふことになり、 ・ : 」とある。 ( 2 ) 湯浅湯浅孫三郎。第五高等学校での漱石の教え 子。このころ、東京帝国大学の学生であった。のち、鹿 児島高等学校などの教授となった。 ( 3 ) 土屋土屋忠治。第五高等学校での漱石の教え子。 このころ、東京帝国大学法科の学生で、留守中の漱石の 家に出入していた。のち、法科を卒業して裁判官になっ こ 0 ( 4 ) 俣野俣野義郎。同右。のち、法科を卒業して実 業界に入り、満州・中国方面に渡った。 ( 5 ) 桜井桜井房記。このころ、第五高等学校の校長 であった。 ( 6 ) ファーデル第五高等学校で英語を教えていた人。 明治三十六年 ( 1903 ) 解任されて帰国した。 ( 7 ) 鈴木鈴木禎一一。五二七ページ三五一 ( 4 ) 参照。 三五七 ( 1 ) 藤代禎輔五〇九一ページ元四 ( 2 ) 参照。 ( 2 ) コーチ coach ( 英 ) 。 クレーグ先生。五一 0 ページ ( 3 ) 僕の「コーチ」 元五 ( 1 ) 参照。 5 28
注 『資本論』がある。 ( 2 ) ミルトン五 8 ペ 1 ジ一一五一 ( Ⅱ ) 参照。 ぶふく ( 3 ) 一著述五三一ペ 1 ジ三天 ( 1 ) 参照。 ( 3 ) 撫腹腹がへって手を腹にあててなでたりするこ はやわよひつばり 三〈五 ( 1 ) 早寐宵張「朝寝宵張」のあやまりか。 とうび ちゅう ( 4 ) 千金の掉尾この上もないすばらしいしめくくり。 三〈六 ( 1 ) 浅井忠安政三年ー明治四十年 ( 1856 ー 187 ) 。 明治三十一年 ( 1898 ) 、東京美術学校教授となり、翌三十 三〈三 ( 1 ) 日英同盟明治三十五年 ( 一 902 ) 、日本とイギリ スの間に締結された同盟条約で、ロシアの極東進出を防 一一年 ( 1899 ) 、フランスに留学した。 ぎ、中国・インドの英国支配を維持しようとした攻守同 III<JP ( 1 ) インフルインフルエンザ。流行性感冒。 盟。 ( 2 ) 華族学校明治十年 ( 1877 ) 創設された学習院の ただす ( 2 ) 林公使林董 ( 嘉永三年ー大正一一年、 1850 ー 1913 ) 。 しゅうえん 外交官。明治二十四年 ( 1891 ) 、外務次官となり、二十八 ( 3 ) 終焉正岡子規は九月十九日に死んだ。 年 ( 1895 ) の日清戦争にさいし特命全権公使をつとめ、 ( 4 ) 倫通信本巻所収の「倫敦消息」 ( 一八九ペー ジ ) をさす。 三十三年 ( 180 ) 一一月、駐英大使となって、日英同盟締 ( 5 ) 白玉楼中国唐代 ( 望 8 ー 907 ) の文人李賀の故事 結に尽力、三十四年 ( 1901 ) および四十四年 ( 1911 ) に により、文学者・芸術家などが死後にゆく御殿をいう。 外務大臣となった。 っゝそで いんかん ( ) 筒袖洋服のことをおもしろく言ったもの。 三八 ( 1 ) 殷鑑遠からざる反省すべき滅亡の先例はすぐ三穴 1 かうきんとう 前の時代にあることをいい、他の失敗を見て、自分のい ( 2 ) 高襟党 ( イカラな人々。「高襟」は、 high collar を日本語に直訳したもの。 さめとすること。 ( 3 ) 自転車明治十九年 ( 1886 ) に日本へ輸入された ( 2 ) カール・マークス Karl Marx 田 8 ー 1883 ) 。 が一般に使用されたのは大正になってからであった。な ドイツの哲学者・経済学者。一八四九年以後ロンドンに お、漱石はこのころ自転車に乗る練習をしていた。四八 居住、科学的社会主義 ( 弁証法的唯物論 ) の立場を創始 八ペ 1 ジ三一 ( 3 ) 参照。 して階級闘争の理論をうちたてた。著作として有名な こと。
95 ) 九月創刊。四十三年 ( 191e 八月終刊。 からす 四一五 ( 1 ) 烏みず先生小島烏水 ( 明治六年ー昭和二十三 年、 1873 ー 1948 ) 。山岳随筆家。本名、久太。このころ 「文庫」に関係し、登山記などよく掲載していた。 「吾輩は猫である」 ( 2 ) ホトトギスの片隅で : の連載をさす。 四 = ( ( 1 ) 大浦君大浦兼武 ( 嘉永三年ー大正七年、 1850 ー 1918 ) 。政治家。このころ逓信 ( 郵便 ) 大臣。のち、 農商務大臣・内務大臣をもっとめた。 ( 2 ) 大町芳衛明治一一年ー大正十四年 ( 1869 ー 1925 ) 。 詩人・随筆家。明治三十八年 ( 1905 ) 十二月号「太陽」 の文芸時評「雑言録」において、漱石の「吾輩は猫であ る」を批評した。第二巻四〇七ページ「同時代人の批 評」参照。 巴七 ( 1 ) 帝国文学明治三十九年一月号「帝国文学」に 発表される「趣味の遺伝」 ( 全集第三巻所収 ) をさす。 赤ん坊のこと。後出の三十八年十 ( 2 ) ・ハカンポー 二月十八日虚子あて書簡にも「バカイホ」と書いている。 漱石の四女愛子をさす。 くしやみ ( 3 ) 苦沙弥「吾輩は猫である」の主人公で漱石自 身がモデル。 明治三十九年 ( 19g ) 一 四天 ( 1 ) 十四日にしめ切る 月号「ホトトギス」に発表された「吾輩は猫である」第 「七」「八」章。 ( 2 ) 桂月大町芳衛。四一六 ( 2 ) 参照。 四一一 0 ( 1 ) 伊藤左千夫元治元年ー大正一一年 ( 1864 ー 1913 ) 。 歌人・小説家。本名、幸次郎。明治法律学校中退。明治 二十六年 ( 1 3 ) 、本所区茅場町で牛乳搾取業をはじめ、 子規に師事して歌作にはげみ、のち、「アララギ」を主 宰した。 ( 2 ) 野菊の花「野菊の墓」のあやまりで、左千夫 が明治三十九年一月号「ホトトギス」に発表した処女小 説。 ( 3 ) 森田米松明治十四年ー昭昭一一十四年 ( 1881 ー 1949 ) 。小説家。号、白楊・草平。明治三十九年 ( 1906 ) 、 東京帝国大学英文科卒業。漱石の教え子。第二期「芸 苑」同人。 ( 4 ) 芸苑第二期「芸苑」で、上田敏・馬場孤蝶ら によって明治三十九年 ( 198 ) 一月創刊。佐久良書房発 ( 吉田精一 ) 5 イ 2
ったんしいっぴょういん 四月十七日 ( 三〇四ページ参照 ) のことであろう。 ( 2 ) 一簟の食一瓢の飲「電。は、竹であんだ飯器。 しゃべ 「瓢」は、ひょうたん。四八五べージ一九五 ( 3 ) 参照。 ( 6 ) 曉舌るふつう「喋舌る」「饒舌る」と書く。 ばあ ( 3 ) 道を去ること三千里道徳的な修行がまだまだ一一 0 一 ( 1 ) もう一人お婆さんがあるノット夫人をさす。 足りないことをいったもの。 五 O 七べージ一一七一 l(— ) 参照。 はんま 一究 ( 1 ) 半間中途半端。まぬけ。 ( 2 ) folk ( 英 ) 。人々。単教形は中古語で、現代標準 ( 2 ) 日本人が一人おった前出の田中某をさす。彼 語では復数形だけがある。中古語では国民・民族の意味。 は四月十三日に引越している。 方言では友だちの意味。 てんちてんのう 和歌のこと。天智天皇の「秋 ( 3 ) 天智天皇のほう ( 3 ) foot note ( 英 ) 。横文字の書物のページ下の部 とま の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつ 分に書き込む注釈。脚注。 つ」という歌は百人一首の第一番目の歌として有名であ ( 4 ) Daily TeIegraph イギリスの日刊新聞。 る。 一一 0 一一 ( 1 ) gay society, late dinner ( 英 ) 。愉しく社交 しゅびきない ( 4 ) 朱引内か朱引外か江戸時代の江戸の地図には、 的で、遅い食事もできる、の意味。 御府内 ( 江戸市内 ) と御府外 ( 郡部 ) との境界線が朱で一一 0 三 ( 1 ) 一週三十三円政府からの留学費は毎月百五十円 記入されており、品川・四谷・板橋・千住・本所・深川 であったから、これではその大部分を宿料にあてなけれ 以内が朱引内の地であった。 ばならなくなる。三十四年四月十九日の日記に「 Swiss Cottage lady カラ宿問イ合セノ返事ガ来ル、行カヌ事 一一 8 ( 1 ) 精ふつう「所」と書く。原因。 ニシテ返事ヲ出ス」とある。なお、現在の宿料は毎月五 ( 2 ) お転「お転婆」の略。 十円だった。 ( 3 ) 先だって三十四年一月三十日の日記 ( 二九八 1 ) H 第ノ 2 は、 べージ参照 ) に記されていることである。 ( 2 ) 招牌看板。 ( 4 ) 冥々しぜんと心に感知するさま。 ( 3 ) ミカウ・ハーと住んでおったデヴィッド・カッ パーフィーレド ( 5 ) このあいださる処へ呼ばれて イギリスの作家ディッケンズの長 てん そと 三十四年
のち ( 明治四十四年〈 19 スの思想家。信教の自由を擁護した。 ( 2 ) 博士になるとは : 11 〉二月 ) に、漱石は文学博士号を辞退している。 ( 2 ) インガーソル五〇七ページ一一七七 ( 1 ) 参照。 ( 3 ) 日本新聞明治一一十二年 ( 1889 ) 二月、日本新 ( 3 ) Humanitarian ( 英 ) 。人道主義者。博愛主義者。 聞社 ( 社長、陸羯南 ) から創刊された日刊時事新聞。正 ( 4 ) コムト Auguste Comte ( 1798 ー 1857 ) フラン 岡子規がこのころ文芸部記者をしていた。五二三ページ スの哲学者。実証主義哲学を確立した。晩年は神秘的傾 向におちいり、人道教を唱えた。 三四 0 ( 5 ) 参照。 ( 5 ) ハックスレー Thomas Henry Huxley ( 1825 一毛九 ( 1 ) 宝塚兵庫県宝塚市。温泉場。少女歌劇場・動物 園その他の娯楽設備の完備した遊覧都市。 ー 1895 ) イギリスの生物学者。ダーウインの進化論の 立場に立ち、「自然界における人類の位置」などを著わし 三〈 0 ( 1 ) 高知県土佐郡江ノロ町大川筋寺田寅彦の郷里。 こ 0 ( 2 ) Patty Patti のあやまり。 Aelina patti ( 1843 ー 1919 ) 。イタリアの声楽家。十九世紀に最高のコロラト Marquis lto 伊藤博文 ( 6 ) マーキス・アイトー ゥーラ ( 歌劇などで行われる唱法の一つ ) 歌手と賞讃さ ( 天保十二年ー明治四十二年、 1841 ー 1909 ) 。政治家。明 れた。一八九五年引退し、最後の演奏会は一九〇〇年ロ 治三十三年 ( 1g0 ) 九月から三十四年 ( 1901 ) 五月にか ンドンのアル・ハ ート・ホールでおこなわれた。 けて四回目の首相に就任していた。 ロンドンの中心街にあり、 ( 3 ) アル・ハー ( 7 ) セント・ジェームス・ホール St. James HaII 一八五一年の大博覧会のさい、アル・ハ ート ( ドイツの貴 ロンドンの都心部にあるセント・ジェームス公園近くの 族で、イギリス女王ビクトリアと結婚した人物。音楽や 興行場。 すまうとり 絵画を深く愛好した ) によって建設された音楽堂。 ( 8 ) 西洋の相撲取レスラー ( 4 ) 倫敦有暦日「唐詩選」にある太上隠者の「答人三、 1 江戸末期の水戸藩士藤田 / 一一 ( ) 五乞閑地不得閑 : ・ 詩」に「山中無一一暦日ことあるのをもじったもの。 東湖の詩「述懐ーのなかの詩句だが、原詩は「五乞間地 三〈一 ( 1 ) ヴォルテール Voltaire ( 1694 ー 1778 ) 。フラン 不得間。三十九年七処徒」。 532
新聞に入社。この年 ( 三十七年 ) 一月十五、十六日の 「読売」紙上に「歌舞伎座劇評」を発表している。 かぶきざ ( 6 ) 歌舞伎座新春興行 ( 一月七日初日 ) で、「都大 路勇春駒」「望月」「花川戸侠組」などを上演している。 一元七 ( 1 ) 土井林吉明治四年ー昭和一一十七年 ( 一 8 コー 19 52 ) 。詩人。号、晩翠。一一高を経て、明治三十年 ( 1897 ) 東京帝国大学英文科卒業。三十三年 ( 1900 ) から昭和九 年 ( 1934 ) まで一一高教授。 ( 2 ) Dynamic Law on Mr. K Natsume ( 英 ) 。 夏目金之助氏に関する力学的法則。 はいたいし 三九〈 ( 1 ) 俳体詩「ホトトギス」派の作家がこのころ作 っていた俳諧性のある詩。 ( 2 ) まぼろしの楯「幻影の盾ーの題で、明治三十 八年 ( 1905 ) 四月号「ホトトギス」付録に発表した。本 文一〇九ページ。 ( 3 ) 二階の男この年一一月一日発行の雑誌「七人」 第四号に発表された野村伝四の短編小説。 さしゑ この年二月号「ホトトギ ( 4 ) ホトトギスの插画 ス」に掲載された「吾輩は猫であるー二」の插画。 ' ハルザック第二巻二八ページの部分に插入さ れた絵で、ロダンのバルザック像をまねて描かれている。 ( 6 ) トチメンポー第二巻三七ページの部分に插入 された絵で、迷亭・東風・ポーイの三人がテープルをと りかこんでいるところが描かれている。 くじゃー、 三究 ( 1 ) 孔雀の線第二巻四八ページの部分に插入され た絵で、尾の非常に長い孔雀が描かれている。 ほくさい かっしか ( 2 ) 北斎蔦飾北斎 ( 宝暦十年ー嘉永一一年、 1760 ー 1849 ) 。浮世絵師。 ( 3 ) 浅井のロ絵浅井忠 ( 黙語 ) がこの二月号「ホ トトギス」の第一頁に発表した「紅梅」。 ( 4 ) 君の裏画橋ロ清 ( 五葉 ) が同じく裏表紙に発 表した「騎兵」。前項の「紅梅」とともに俳味があふれ ていて、俳画に近い。 あさかちょう ( 5 ) 浅嘉町本郷区 ( いまの文京区内 ) 駒込浅嘉町。 ( 6 ) 寒月君「猫」にでてくる人物で、寺田寅彦がそ のモデルであった。 ( 7 ) 壱百号明治三十八年 ( 】 905 ) 四月一日第百号 記念「ホトトギス」が発行された。掲載作品は、河東碧 梧桐「げん / 、花」、高浜虚子「ほねほり」、坂本四方太 「蒲鉾の賛」、寺田寅彦「団栗」、野村伝四「月給日」、子 夜 ( 投稿 ) 「お伽のかるた」。漱石は、「吾輩は猫である ー三」を発表。なお、付録として、漱石の「幻影の盾「
釈 注 ( 5 ) 狩野狩野亨吉 ( 慶応元年ー昭和十七年、 1865 ー 教養学部。 1942 ) 教育家。明治一一十一年 ( 1888 ) 、東京帝国大学哲 ( 四三島中洲先生天保元年ー大正八年 ( 1830 ー 191 9 ) 。漢学者。宮中顧問官。明治五年 ( 1872 ) 、一一松学舎 学科卒業。三十一年 ( 1898 ) 、一高校長。三十九年 ( 19 06 ) 、京都帝国大学文科大学学長。超俗的な人格者で、 を創設。 にしようかくしゃ 一生独身で通した。 ( Ⅱ ) 二松学舎現在は一一松学舎大学。漢学専門の私立 ( 6 ) 岡田良平元治元年ー昭和九年 ( 1864 ー 1934 ) 学校で、麹町区 ( 現在、千代田区 ) にあり、漱石は明治 教育家。明治一一十年 ( 1887 ) 、東京帝国大学哲学科卒業。 十三、四年 ( 1880.1 ) ごろ通学した。 第一高等中学校教授、文部省視学官などをへて四十年 ) 田島錦治慶応三年ー昭和九年 ( 1867 ー 1934 ) 。 ( 1907 ) 、京都帝国大学総長。のち、文部大臣もっとめた。 経済学者。明治一一十七年 ( 1894 ) 、東京帝国大学法科卒 慶応三年 ( 1867 ) 生れ。明治二十 ( 7 ) 柳谷卯三郎 業。三十三年 ( 1900 ) 、京都帝国大学教授。昭和一一年 ( 1 三年 ( 1890 ) 東京帝国大学法科卒業後、日本銀行、日本 927 ) 、立命館大学学長。 勧業銀行などにつとめた。 ) 井上密慶応三年ー大正五年 ( 1867 ー一 9 一 6 ) 。法 学者。明治一一十五年 ( 1892 ) 、東京帝国大学法科卒業。 慶応一一年ー昭和十九年 ( 1866 ー 19 ( 8 ) 中川小十郎 三十一一年 ( 1899 ) 、京都帝国大学教授。三十九年 ( 1906 ) 、 44 ) 。明治一一十六年 ( 1893 ) 、東京帝国大学法科を卒業、 同大学学長。大正一一年 ( 1913 ) 、京都市長。 文部省に入り、三十三年 ( 1900 ) 、京都法政学校 ( 立命館 大学の前身 ) を創立。のち立命館学長・貴族院議員をつ ( Ⅱ ) 小城小城斉。漱石は、明治四十二年 ( 一 909 ) 九 とめた。 月、満韓を旅行したさい、平壤でこの人の官舎に世話に よっこ 0 ( 9 ) 大学予備門東京帝国大学へはいるための官立の 漢字を平・上・去・入の四声、 予備校で、明治十年 ( 1877 ) 、英語学校が改称。のち、明一一六一 ( 1 ) 一東、二冬 : ( 韻の四種別 ) 一百六韶に類別したなかの上平声十五韻 治十九年 ( 1886 ) 四月、第一高等中学校、さらに明治一一 ( 東・冬・江・支・徴・魚・虞・斉・佳・灰・真・文・ 十七年 ( 1894 ) 、第一高等学校と改称。現在は東京大学 503