三年 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 1
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1. 夏目漱石全集 1

注 『資本論』がある。 ( 2 ) ミルトン五 8 ペ 1 ジ一一五一 ( Ⅱ ) 参照。 ぶふく ( 3 ) 一著述五三一ペ 1 ジ三天 ( 1 ) 参照。 ( 3 ) 撫腹腹がへって手を腹にあててなでたりするこ はやわよひつばり 三〈五 ( 1 ) 早寐宵張「朝寝宵張」のあやまりか。 とうび ちゅう ( 4 ) 千金の掉尾この上もないすばらしいしめくくり。 三〈六 ( 1 ) 浅井忠安政三年ー明治四十年 ( 1856 ー 187 ) 。 明治三十一年 ( 1898 ) 、東京美術学校教授となり、翌三十 三〈三 ( 1 ) 日英同盟明治三十五年 ( 一 902 ) 、日本とイギリ スの間に締結された同盟条約で、ロシアの極東進出を防 一一年 ( 1899 ) 、フランスに留学した。 ぎ、中国・インドの英国支配を維持しようとした攻守同 III<JP ( 1 ) インフルインフルエンザ。流行性感冒。 盟。 ( 2 ) 華族学校明治十年 ( 1877 ) 創設された学習院の ただす ( 2 ) 林公使林董 ( 嘉永三年ー大正一一年、 1850 ー 1913 ) 。 しゅうえん 外交官。明治二十四年 ( 1891 ) 、外務次官となり、二十八 ( 3 ) 終焉正岡子規は九月十九日に死んだ。 年 ( 1895 ) の日清戦争にさいし特命全権公使をつとめ、 ( 4 ) 倫通信本巻所収の「倫敦消息」 ( 一八九ペー ジ ) をさす。 三十三年 ( 180 ) 一一月、駐英大使となって、日英同盟締 ( 5 ) 白玉楼中国唐代 ( 望 8 ー 907 ) の文人李賀の故事 結に尽力、三十四年 ( 1901 ) および四十四年 ( 1911 ) に により、文学者・芸術家などが死後にゆく御殿をいう。 外務大臣となった。 っゝそで いんかん ( ) 筒袖洋服のことをおもしろく言ったもの。 三八 ( 1 ) 殷鑑遠からざる反省すべき滅亡の先例はすぐ三穴 1 かうきんとう 前の時代にあることをいい、他の失敗を見て、自分のい ( 2 ) 高襟党 ( イカラな人々。「高襟」は、 high collar を日本語に直訳したもの。 さめとすること。 ( 3 ) 自転車明治十九年 ( 1886 ) に日本へ輸入された ( 2 ) カール・マークス Karl Marx 田 8 ー 1883 ) 。 が一般に使用されたのは大正になってからであった。な ドイツの哲学者・経済学者。一八四九年以後ロンドンに お、漱石はこのころ自転車に乗る練習をしていた。四八 居住、科学的社会主義 ( 弁証法的唯物論 ) の立場を創始 八ペ 1 ジ三一 ( 3 ) 参照。 して階級闘争の理論をうちたてた。著作として有名な こと。

2. 夏目漱石全集 1

注 名は晴信。信玄は号。山梨県地区を支配した戦国時代の 亭鯉丈・一筆庵主人・興鳳亭枝成の合作。文政三年ー嘉 武将。なお、夏目家の家系が武田氏に関係しているとは 永二年 ( 1820 ー 1849 ) 刊。 しちへんじん 考えられないので、「漱石の思ひ違ひか、筆記者の書き違 ( 5 ) 七変人滑稽本「妙竹林話七偏人」の略。五編。 ひかである」 ( 小宮豊隆『夏目漱石』参照 ) 。 梅亭金鵞作。安政四年ー文久三年 ( 1857 ー 1863 ) 刊。 あなはちまん ( 四君主君。領主。 ( 6 ) 穴八幡新宿区高田町にある高田八幡神社の俗称。 いげた 虫封じの護符で有名。巐癖もちの漱石もこの護符の厄介 ( Ⅱ ) 井桁「井」の字の形。 こよっこ 0 ) 喜久井町新宿区喜久井町。馬場下町の東南に げんべえ 隣接している。 ( 7 ) 源兵衛村当時の豊多摩郡戸塚村 ( いま新宿区戸 あざ 塚町周辺 ) 字源兵衛。 一一五 0 ( 1 ) 帯刀御免刀を腰につけることを許可されたも ( 8 ) 諏訪の森新宿区諏訪町にある諏訪神社の森。 くわきけんよく ( 2 ) 玄関名主は受付所・事務執行所として玄関を ( 9 ) 桑木厳翼さん明治七年ー昭和二十一一年 ( 1874 ー 用いたのである。 1947 ) 哲学者。帝国大学哲学科卒業。京都帝国大学・東 あにきら ( 3 ) 兄哥等漱石は五男で末っ子だった。すなわち、 京帝国大学教授。 長兄大一 ( 安政三年ー明治一一十年、】 856 ー】 887 ) 、次兄栄一 ( 1 ) 山口弘一学習院教授。文学博士。 之助 ( 安政五年ー明治一一十年、 1858 ー 1887 ) 、三兄和三郎 ( 2 ) 学習院学習院大学の前身。明治十年創設され、 直矩 ( 安政六年ー昭和六年、 1859 ー 1931 ) 、四兄久吉 ( 文 華族の子女を教育した。 久二年ー一兀治二年、 1862 ー ー 1865 ) があり、ほかに、三 ( 3 ) 中学後出の「予備門」「成立学舎」とともに「落 人の姉、長姉佐和 ( 弘化三年〈 1846 〉生れ ) 、次姉ふさ 第」の注参照。 やまだびみようさい ( 嘉永四年〈 1851 〉生れ ) 、三姉ちか ( 元治元年〈 1864 〉 ( 4 ) 山田美妙斎山田武太郎 ( 明治元年ー四十三年、 生れ ) があった。 1868 ー 1910 ) 。小説家。 はっしようじん まさおか ( 4 ) 八笑人滑稽本「花暦八笑人」の略。五編。滝 ( 5 ) 正岡正岡子規。五〇五ページ一一六五 ( 1 ) 参照。

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釈 注 ( 5 ) 菊謙菊池謙二郎。このとき、菅虎雄とともに 南京三江師範学堂の教授をしていた。五一五ページ三一九 ( 4 ) 参照。 三空 ( 1 ) また帰宅漱石の神経衰弱がひどくなったので、 七月以後約二か月妻子は実家へ帰り、別居していた。 ( 2 ) 大なる腹この年十月、三女栄子が生まれた。 ほ、つド ) ょ・つ ( 3 ) 法帖手本にしたり鑑賞したりするために、昔の いしすり 名家の筆跡を紙に写し、石や木に刻み、石刷にした折り 本 ( 綴じずに、横長の紙を折りたたむようにした本 ) 。 三九三 ( 1 ) 寺田寅彦このころ妻子が死んで下宿していた。 ( 2 ) 藤村操明治三十六年 ( 1903 ) 、日光の華厳の滝に 投身自殺した一高生で、漱石の教え子。 ゃぶうち ( 3 ) 藪中のちの明治一二十八年 ( 1905 ) ごろ、この本 郷六丁目一一十五番地藪中に野村伝四が下宿する。 ( 4 ) 野間真綱第五高等学校・東京帝国大学英文科 ( 明治三十六年へ 183 ) 卒業 ) での漱石の教え子。島津男 爵家に家庭教師として住みこみ、日比谷中学の英語教師 をしながら漱石に師事、奇瓢と号して「ホトトギス」同 人に加わり、新体詩・小説を発表している。 ( 5 ) 皆川第五高等学校・東京帝国大学英文科 ( 明治 三十六年〈 1903 〉卒業 ) での漱石の教え子。中学の英語 教師をしながら漱石に師事し、直柝と号して作品を発表 している。のち、鹿児七高、水戸高校教授。 ( 6 ) 若月若月保治。明治三十六年 ( 一 903 ) 東京帝国 大学英文科卒業。のち、石川県小松中学校につとめた。 ( 7 ) 倫敦塔翌年一月号「帝国文学」に発表した。本 ・ノ 0 ( 8 ) 一一代目小泉小泉八雲。本名 Lafcadi0 Hearn ( 嘉永三年ー明治三十七年、 1850 ー 1904 ) 。小説家・文芸 一評論家。明治二十三年 ( 1890 ) 来日。松江中学校・熊本 第五高等学校で英語を教え、二十九年 ( 1896 ) 東京帝国 大学の英文学講師となり、三十六年 ( 1903 ) 三月に退職 して早稲田大学に転任した。同年四月、漱石はその後任 講師として母校に迎えられた。 swift 明治三十三年 ( 198 ) 、来日し、 ( 9 ) スイフト 大正五年 ( 1916 ) まで東京帝国大学で英文学を講義した。 ) シニック synic ( 英 ) 。皮肉家。 「吾輩は猫である」 ( 全集第 一元四 ( 1 ) 昨夜の牛乳は : 二巻所収 ) 二六ページの部分にとりいれられている。 りゅうどけん ( 2 ) 竜土軒主人野間真綱 ( 奇瓢 ) のこと。この年三 月号「ホトトギス」に「うま酒は棚に」という詩を発表。 「歌」とあるのはこれをさす。 535

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仰する男子に対する称号。 漱石の漢文か。わずか二十五 ( 四魂帰一一冥漠二 年の生をなしたのみで魂はあの世へ帰ってしまった、と いう意味の哀惜の漢詩。 三一一三 ( 1 ) 母を失ひ四五三ページ六 ( 4 ) 参照。 はくちゅう ( 2 ) 伯仲二兄を失ひ長兄大一 ( 明治二十年、富 87 ) 三月死去。次兄栄之助、同年六月死去。「伯仲」は、長 兄とその次の兄、の意味。 ( 3 ) 元服女が、結婚後、眉を剃り落とし、歯を染め、 まるまげゅ 髪を丸髷に結うこと。 ( 4 ) 先日お話の句この書簡の前に書かれた七月一一 十四日子規あての書簡に「 : : : 故人五百題というものを 見て急に俳諧が作りたくなり十二三首を得たり。お笑ひ はがきゅゑ 草に供したけれど端書故いづれ後便にて : : : 」とある。 = 三四 ( 1 ) 鵐外の作森鵰外の作品。すぐあとに「二短編」 とあるが、外はこのときまでに「舞姫」 ( 明治一一十三年 〈 1890 〉一月 ) 、「うたかたの記」 ( 同年八月 ) 、「文つかい」 ( 翌二十四年〈一 891 〉一月 ) を発表している。 三一一五 ( 1 ) 貫目身にそなわっている貫禄。 ( 2 ) 三身仏教語で、法身・報身・応身の三つの仏身 の総称。 ( 3 ) 司馬江漢元文三年ー文政元年 ( 1738 ー一 8 一 8 ) 。 画家。本姓は安藤、名は峻。号は蘭亭・春波楼など。鈴 木春信に師事、のち、銅版画に独自の画風を示した。 しゅんばろうひっき ( 4 ) 春波楼筆記司馬江漢の科学的思想がうかがえる 随筆。文化九年 ( 1812 ) 刊。 ( 5 ) 道体旅行中のからだ。 のぼる ( 6 ) の・ほる升。正岡子規の幼名。のち、筆名として も用いた。 ( 7 ) 下谷区上根岸町八十八番地子規は、明治一一 十五年 ( 1892 ) 二月、本郷区駒込追分町から、「日本」社 長陸羯南の世話でここに転居、十一月には母・妹を上京 させ、二十七年 ( 1894 ) 二月まで約二年間一家三人で居・ 住した。 ( 8 ) 通学漱石はこのとき東京帝国大学英文科三年で あった。なお、子規は、この年七月落第して同大学国文 科二年であったが、この前後、大学を中退して「日本」 新聞社に入社した。 ( 9 ) 動一件漱石は大学へ進学のかたわらアをハイ トとして、明治二十五年 ( 1892 ) 五月から二十八年 ( 18 95 ) 三月まで、早稲田大学の前身東京専門学校で英語の 講師をしていたが、このころ、漱石に対する辞職要求 しはこうかん 5

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注 学教授。大正二年 ( 】 913 ) 東京帝国大学教授。 ( 2 ) 米山米山保三郎。第一高等中学時代からの漱石 の親友。明治一一十六年 ( 1893 ) 、東京帝国大学哲学科卒 業。大学院に進学して「空間論」を研究したが、明治三 十年 ( 1897 ) 六月病死。 正岡子規 = 六五 ( 1 ) 正岡正岡子規 ( 慶応三年ー明治三十五年、 18 つねのり ところのすけ 67 ー 1902 ) 。俳人・歌人。本名、常規。幼名、処之助、 のにる 升。松山市の生れ。松山中学時代から文芸的関心を強め、 明治十六年 ( 一 883 ) 、松山中学を中退して上京、予備校を 経て、十七年 ( 一 884 ) 、大学予備門に入学、二十三年 ( 1 890 ) 、第一高等中学 ( 予備門改称 ) を卒業、東京帝国大 学国文科に入学した。 ( 2 ) 松山にいた時分五〇二べージ云 l(n ) 参照。 ( 3 ) 支那から帰って子規は、明治二十八年 ( 1895 ) 二月三日東京を出発、日清戦争の従軍記者として戦地に おもむいたが、まもなく講和が成立、帰国の途五月 十七日船内で再び大喀血、五月二十三日から七月二十三 日まで神戸県立病院に入院、のち、須磨保養院で療養、 八月二十五日松山市に帰郷して、漱石の下宿に寄寓した。 まさおか ( 4 ) 上野の裏座敷漱石は、松山市内二番町の「上野 老夫婦」の家に下宿していた。 じゅう や ( 5 ) 松山中の俳句を遣る門下生そのサークルを 「松風会」と称していた。 ときわかい 一一六六 ( 1 ) 常盤会寄宿舎子規は、旧松山藩主久松家の育英 事業である常盤会の給費生となり、明治二十一年九月か ら二十四年十二月まで、本郷区真砂町にあった同会学生 寮に居住した。 おおみや ( 2 ) 大宮の公園の万松庵埼玉県大宮市にある大官 公園内にあった料亭万松楼高島方。子規は、明治一一十四 年 ( 1891 ) 九月、大学の学年試験の追試験受験勉強のた めここに滞在した。 ( 3 ) 熊本にいる時分五〇一べージ一箕 l(* ) 参照。 かんだがわ ( 4 ) 神田川神田区台所町にあった鰻料理屋。 ひょうてい おぎ ( 5 ) 飄亭五百木良三。明治三年ー昭和十二年 ( 1870 ー 1937 ) 。俳人。松山市の生れ。明治二十年 ( 1887 ) ご ろ上京、常盤寮で子規らと句作にはげみ、のち、子規と ともに新聞「日本」の編集に従事した。 ( 6 ) 足の立っていた時分子規は、明治三十年 ( 18 97 ) 以後、結核性瘍椎骨カリエスを併発し、ほとんど病 床にあった。

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95 ) 九月創刊。四十三年 ( 191e 八月終刊。 からす 四一五 ( 1 ) 烏みず先生小島烏水 ( 明治六年ー昭和二十三 年、 1873 ー 1948 ) 。山岳随筆家。本名、久太。このころ 「文庫」に関係し、登山記などよく掲載していた。 「吾輩は猫である」 ( 2 ) ホトトギスの片隅で : の連載をさす。 四 = ( ( 1 ) 大浦君大浦兼武 ( 嘉永三年ー大正七年、 1850 ー 1918 ) 。政治家。このころ逓信 ( 郵便 ) 大臣。のち、 農商務大臣・内務大臣をもっとめた。 ( 2 ) 大町芳衛明治一一年ー大正十四年 ( 1869 ー 1925 ) 。 詩人・随筆家。明治三十八年 ( 1905 ) 十二月号「太陽」 の文芸時評「雑言録」において、漱石の「吾輩は猫であ る」を批評した。第二巻四〇七ページ「同時代人の批 評」参照。 巴七 ( 1 ) 帝国文学明治三十九年一月号「帝国文学」に 発表される「趣味の遺伝」 ( 全集第三巻所収 ) をさす。 赤ん坊のこと。後出の三十八年十 ( 2 ) ・ハカンポー 二月十八日虚子あて書簡にも「バカイホ」と書いている。 漱石の四女愛子をさす。 くしやみ ( 3 ) 苦沙弥「吾輩は猫である」の主人公で漱石自 身がモデル。 明治三十九年 ( 19g ) 一 四天 ( 1 ) 十四日にしめ切る 月号「ホトトギス」に発表された「吾輩は猫である」第 「七」「八」章。 ( 2 ) 桂月大町芳衛。四一六 ( 2 ) 参照。 四一一 0 ( 1 ) 伊藤左千夫元治元年ー大正一一年 ( 1864 ー 1913 ) 。 歌人・小説家。本名、幸次郎。明治法律学校中退。明治 二十六年 ( 1 3 ) 、本所区茅場町で牛乳搾取業をはじめ、 子規に師事して歌作にはげみ、のち、「アララギ」を主 宰した。 ( 2 ) 野菊の花「野菊の墓」のあやまりで、左千夫 が明治三十九年一月号「ホトトギス」に発表した処女小 説。 ( 3 ) 森田米松明治十四年ー昭昭一一十四年 ( 1881 ー 1949 ) 。小説家。号、白楊・草平。明治三十九年 ( 1906 ) 、 東京帝国大学英文科卒業。漱石の教え子。第二期「芸 苑」同人。 ( 4 ) 芸苑第二期「芸苑」で、上田敏・馬場孤蝶ら によって明治三十九年 ( 198 ) 一月創刊。佐久良書房発 ( 吉田精一 ) 5 イ 2

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注 上。遠州。なお、船は九日神戸に寄航、十日長崎れ シンガポール、コロンボ、アデンなどに寄港して、ここ 十一日長崎を出航した。 に着いた ( 3 ) 芳賀芳賀矢一。五〇四ページ一一六一 I@- ) 参照。 ( 6 ) Genoa Genova の英語書き。北イタリアの都市。 前日の午後入港した。 ( 4 ) 几董集江戸時代の俳人で、与謝蕪村の門人であ った高井儿董の句集。 ( 7 ) Cook Thomas Cook Company の略。世界 セウハシフ 主要都市に支店のある Travel Agent ( 旅行代理店 ) 。 ( 5 ) 召波集同じく ~ 無村の門人であった黒柳召波の句 集。前注の書とともに漱石が携帯したのは、明治三十一「 ( 8 ) Turin To 「 ino の英語書き。北イタリアの都市。 フランスへ通じる鉄道に乗換える。 三年 ( 1899. 1900 ) ごろ発売されたホトトギス発行所版。 シキソガンエイ ( 6 ) 詩韻含英中国清代 ( 1616 ー 1912 ) の韻書。劉文元四 ( 1 ) Modane 伊仏国境に近いイタリアの町。 ひょうそく 蔚編。十八巻。詩韻を集成し、意味・平仄などを解説し ( 2 ) 藤代氏藤代禎輔 ( 明治元年ー昭和一一年、】 868 ー 1927 ) 。ドイツ文学者。明治二十四年 ( 1891 ) 、東京帝国 たもので、漢詩を作る者が参考書として愛用し携帯した。 マイサウ 大学独文科卒業。高師教授を経て、このとき一高教授。 元一 ( 1 ) 味爽あけぼの。よあけがた。 ゥースン ドイツ留学後、四十年 ( 一 906 ) 、京都帝国大学教授。 ( 2 ) 呉松 wusung 揚子江河口にある港町。上海の 外港。 ( 3 ) 正木氏正木直彦。五〇四べージ一一六一一 ( 6 ) 参照。 ( 4 ) 渡辺氏渡辺董之助。このとき文部書記官。 ( 3 ) 立花政樹氏漱石より二年前 ( 明治一一十四年、 1891 ) に同じ東京帝国大学英文科を卒業、このころ上海 ( 5 ) Nodier 夫人ノ家書簡三五二ページ下六行目 に「アル素人屋 ( 中略 ) ノ三階ヲ借リ、一週間滞在 : : : 」 でイギリスの税関に勤務していた。 と書かれている。 ( 4 ) 東和洋行上海にあった日本系の貿易会社。「洋 行」は中国語で外国の商会のこと。 ( 6 ) 安達氏安達峰一郎。明治二年ー昭和九年 ( 】 869 = 一一口 0 ー 1934 ) 外交官。このとき、フランス公使館三等書己 9 ・ハベルマンデブ。アデン湾 ( ア ( 5 ) Babelmandeb 官。三十八年、ポーツマス講和会議で活躍、大正二年、 ラビャ半島の西南隅 ) と紅海とを結ぶ海峡。船は上海、 キトウシフ

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元・寒・刪 ) に順番をつけたもの。中国では現在でも、 電報文の日付に用いられている。 ( 2 ) 兄五〇一一ページ一一五五 ( 1 ) 参照。 ( 3 ) ナショナルの一一 National Reade 「 ( 明治時代 に広く用い、つれた英語教科書 ) の巻二。 せいりつ ( 4 ) 成立学舎明治十年 0877 ) ごろ中原貞七が創設 した私立学校。神田区鈴木町にあった。 きようりつ ( 5 ) 共立学舎明治三年 ( 一 870 ) 、尺振八が創設した 私立の学校。本所区相生町にあった。 しんふん ( 6 ) 進文学舎明治五年 ( 】 872 ) 、橋機郎が創設した 私立の学校。本郷区元町にあった。前項の二校とともに、 予備門への予備校として有名であった。 っぽうち ( 7 ) 坪内さん坪内逍遙 ( 安政六年ー昭和十年、 1859 ー 1935 ) 。作家、英文学者・教育家。明治十四年 ( 1881 ) から一一十年 ( 一 887 ) まで進文学舎で英語を教えた。 そがのりすけ 一一六一一 ( 1 ) 曾我祐準天保十四年ー昭和十年 ( 1843 ー 1935 ) 。 陸軍中将。宮中顧問官・貴族院議員などをつとめた。 William Swinton ( 1833 ー 18 ( 2 ) スウイントン 92 ) 。イギリスの歴史家。カリフォルニヤ大学教授。 ( 3 ) 万国史一八七四年に出た "Outlines the Worlds History 当のこと。 ( 4 ) 水野錬太郎明治元年ー昭和二十四年 ( 一 868 ー 19 49 ) 。政治家。明治一一十五年 ( 1892 ) 、帝国大学英法科卒 業、すぐ内務省にはいり、内務次官を経て、大正七年 ( 19 18 ) 以後しばしば内務大臣・文部大臣をつとめた。 ( 5 ) 美術学校現在は東京芸術大学美術部。 ( 6 ) 正木直彦文久一一年ー昭和十五年 ( 1862 ー一 94e 。 教育家。東京帝国大学法科卒業。明治三十四年 ( 1901 ) から昭和七年 ( 1932 ) まで東京美術学校校長。文展など の美術振興事業にも努力した。 ( 7 ) 芳賀矢一応三年ー昭和一一年 ( 1867 ー 1927 ) 。 国文学者。明治一一十五年 ( 1892 ) 、東京帝国大学国文科 卒業。大学院に進学。一高・高師の教授を経て、三十五 年 ( 1902 ) から大正十一年 ( 1922 ) まで東京帝国大学教授 9 こうぶ 一一六三 ( 1 ) 工部大学東京大学工学部の前身。明治四年 ( 】 8 71 ) に創設され十九年 ( 1886 ) に合併された。 ( 2 ) 外国語学校開成学校 ( 東京大学の前身 ) の予備 校として明治七年 ( 1874 ) に創設され、明治十九年 ( 18 86 ) 、予備門に合併された。 一一六四 ( 1 ) 松本亦太郎慶応元年ー昭和十八年 ( 】 865 ー 19 43 ) 。心理学者。明治一一十六年 ( 1893 ) 、東京帝国大学哲 学科卒業。大学院に進学。三十九年 ( 1906 ) 、京都帝国大 5

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か、それともこっそり見たのか、まアそんなことをし本科二年という順序でした。 すま て試験はやっと済したが、可笑しいのはこの時のこと それで、予科三年修了者と、そのころの中学卒業生 で、私は無事に入学を許されたにもかゝわらず、そのとを比べてみると、実際は予科のほうが同じ普通学で かわいそう 見せてくれたほうの男は、可哀想にも不首尾に終ってもはるかに進んでいたように思われた。すなわち予科 しまった。 のほうでは動物、植物、その他のものでもたいてい原 書でやっていたくらいであるが、その時の予科修了者 は、中学卒業生と同程度ということに見做されること 成立学舎では、およそ一年ほども通ったが、その翌になった。たから中学卒業生は、英語専修科というに 一年入ると、すぐ予備門本科に入学することができた 年大学予備門の入学試験を受けてみると、まえいうた ようにうまく及第した。ちょうどそれが十七歳ごろでのである。規則改正の結果、つまりこういうことにな ったので、予科を経てゆく者より、中学を卒業して入 あったと思う。 ちょっとこゝで、このごろの予備門について話してった者のほうが二年たけ利益をすることになる。 私などは中学を途中で廃して、二松学舎、成立学舎 おくが 、はじめ予備門のほうの年数が四か年、大学の ほうが四か年、都合大学を出るまでには八年間を要すなどに通い、それから予科に入ったのであるから、非 まわりみち ることになっていたが、私の入学する前後はその規定常に迂路をしたことになる。そんな事ではむしろその は変じて、大学三年、予備門五年ということになった。ま、中学を卒えて予備門へ入ったほうが、年数のうえ つまり総体の年数からいえばまえといささか変りはな からいっても利益であったが、私ばかりではない。私 いが、予備門だけでいうと、一年年数が殖えたことに と同じような径路をもって進んだ人がたくさんあった。 なり、その予備門五年をもまた二つに分ち、予科三年、その人達はまず損したほうの組である。 わか たち 25 6

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フラソス大使。 ( 2 ) Corelli Marie corelii ( 】 864 ー一 924 ) 。イギリ ( 7 ) 浅井忠氏安政三年ー明治四十年 ( 1856 ー一 907 ) 。 スの女流作家。処女作「二つの世界のロマンス」 ( 1886 ) 五三三ページ三八六 ( 1 ) 参照。 で好評を博し、多くの大衆小説を書いた。 ( 8 ) 博覧会一九〇〇年を祝してパリで開催された万 ( 3 ) 門野氏門野幾之進 ( 安政三年ー昭和十三年、 18 国博覧会。日本からも絵画などが出品された。 56 ー 1938 ) 。教育家・実業家。明治五年 ( 1872 ) 、慶応義 ハリにある Effel ( ェッフェル ) 塾卒業。三十一一年 ( 1899 ) 、欧米に遊び、のち、衆議院 ( 9 ) 「エヘル」塔 塔。一八八九年万国博覧会のとき建設された。 議員・千代田生命社長。 一一九五 ( 1 ) Craig ケア教授の紹介で漱石がこれ以後個人的 ( 4 ) 返書三十四年一月二十四日鏡子夫人宛書簡 ( 三 に教えを受けた英文学者。書簡三六七ページおよび、 六二ページ ) をさす。 「永日小品」 ( 第六巻所収 ) のなかの「クレイグ先生」参元〈 ( 1 ) Queen ノ葬儀ヴィクトリア女王と exandrina 照。 Victoria ( 1819 ー 1901 ) は一月二十三日死去。翌日エド John Keats ( 1795 ー 1821 ) 。イギリスの ワード七世が即位した。 一一突 ( 1 ) Keats 詩人。 このときの下宿の主人。 ( 2 ) Mr. Brett ( 2 ) Landor Walter Savage Landor ( 1775 ー 1864 ) 。 ( 3 ) Twopence Tube 四八五。へ 1 ジ一九四 ( 川 ) 参照。 イギリスの詩人。散文詩「仮想の会話」五巻で有名。 ( 4 ) Hyde Park 四七九ページ天 0 ( 1 ) 参照。 エドワード七世をさす。 ( 3 ) Robinson Crusoe イギリスの作家ディフォ ( 5 ) King (Daniel Defoe, 1660 ー 1731 ) が一七一九年に発表した ドイツ皇帝。ウイルヘルム ( 6 ) German Emperor 小説の題名。および、その主人公の名。 二世をさす。 一一九七 ( 1 ) Ouida 本名 Maria Louise de la Ramée ( 18 三十四 ( 7 ノ山川、狩野、菅、大塚ノ四人ニ : 39 ー 1908 ) 。イギリスの女流作家。児童文学の傑作「フ 年二月九日の書簡 ( 三六四ページ ) をさす。 ランダースの犬」 ( 1872 ) で有名。 一一究 ( 1 ) Brixton 当時の下宿のすぐ南の地区。 510