、んじゃく ( 7 ) カーライル四八〇ページ一八 0 ( 4 ) 参照。 ( を鵲名医。 ( 8 ) アルノルド Matthew A 「 nold 0822 ー一 888 ) 。 ) 焼野のきゞす夜の鶴親が子を思う情の切なる イギリスの詩人・批評家。 ことのたとえ。 ( 9 ) リテレチュア・エンド・ドクマ Litte 「 atu 「 e ( 蠶 ) 匇々手紙の末尾につけて、とりいそいで簡略に and Dogma" ( 1873 ) アーノルドが文学観・宗教観を 走り書きした意をあらわす語。 のべた評論『文学と教義』。 ( 絽 ) 菊井の里喜久井町のこと。四九九。ヘージ一一四九 くわうそんあえば ( 貶 ) 参照。 ( 四篁村饗庭篁村 ( 安政一一年ー大正十一年、】 855 ー 1922 ) 。小説家・劇評家。軽妙で諷刺的な文章を書いた。 翁 ) 丈鬼正岡子規の別号。本名常規の音読による。 うち ( Ⅱ ) 案を拍て机をたたいて。 ( ) 恐レ、ビデゲス「恐れいります」の江戸通人語。 漱石がこの雅号を自分三一 0 ( 1 ) 北海道の土人アイヌ人。 三究 ( 1 ) 当座の間に合せに : あなかしこ につけて文字に記したのは、ここでわかるように、「木三一一 ( 1 ) 穴賢手紙の文末にそえて、おそれいりますの意 をあらわす語。 屑集評」の最後に記したのが最初であった。 「ありがたい」の略。「まいどありい ! 」。 ( 2 ) ありい ( 2 ) 米山大愚先生米山保三郎のこと。 をがはてい 3 月川亭神田区小川町一番地にあった寄席。 ( 3 ) チョンチョンチョン芝居の返し幕のさいの拍 つるてふ 子木を打っ音。 ( 4 ) 鶴蝶鶴沢鶴蝶。当時人気のあった女義太夫がた ( 4 ) 松山市湊町四丁目十六番戸正岡子規の生家 の所在地。 ( 5 ) 愚兄漱石の三番目の兄、夏目直矩。 ( 5 ) 筆まかせ正岡子規が明治十七年 884 ) から五 ( 6 ) 山川山川信次郎。このとき、第一高等中学本科 年にかけて書き留めた雑記集。明治二十二、三年 ( 1889. 一一年で漱石と同級。のち、東京帝国大学を卒業、明治三 90 ) ごろの漱石の書簡がこれに書き写されている。 十年ロ 897 ) 四月、漱石に招かれて熊本の第五高等学校 にぎきんたま 無為に時を過すこと。 で教授をつとめ、漱石の家に同居したり、一緒によく旅 ( 6 ) 握り睾丸をして : 513
注 学教授。大正二年 ( 】 913 ) 東京帝国大学教授。 ( 2 ) 米山米山保三郎。第一高等中学時代からの漱石 の親友。明治一一十六年 ( 1893 ) 、東京帝国大学哲学科卒 業。大学院に進学して「空間論」を研究したが、明治三 十年 ( 1897 ) 六月病死。 正岡子規 = 六五 ( 1 ) 正岡正岡子規 ( 慶応三年ー明治三十五年、 18 つねのり ところのすけ 67 ー 1902 ) 。俳人・歌人。本名、常規。幼名、処之助、 のにる 升。松山市の生れ。松山中学時代から文芸的関心を強め、 明治十六年 ( 一 883 ) 、松山中学を中退して上京、予備校を 経て、十七年 ( 一 884 ) 、大学予備門に入学、二十三年 ( 1 890 ) 、第一高等中学 ( 予備門改称 ) を卒業、東京帝国大 学国文科に入学した。 ( 2 ) 松山にいた時分五〇二べージ云 l(n ) 参照。 ( 3 ) 支那から帰って子規は、明治二十八年 ( 1895 ) 二月三日東京を出発、日清戦争の従軍記者として戦地に おもむいたが、まもなく講和が成立、帰国の途五月 十七日船内で再び大喀血、五月二十三日から七月二十三 日まで神戸県立病院に入院、のち、須磨保養院で療養、 八月二十五日松山市に帰郷して、漱石の下宿に寄寓した。 まさおか ( 4 ) 上野の裏座敷漱石は、松山市内二番町の「上野 老夫婦」の家に下宿していた。 じゅう や ( 5 ) 松山中の俳句を遣る門下生そのサークルを 「松風会」と称していた。 ときわかい 一一六六 ( 1 ) 常盤会寄宿舎子規は、旧松山藩主久松家の育英 事業である常盤会の給費生となり、明治二十一年九月か ら二十四年十二月まで、本郷区真砂町にあった同会学生 寮に居住した。 おおみや ( 2 ) 大宮の公園の万松庵埼玉県大宮市にある大官 公園内にあった料亭万松楼高島方。子規は、明治一一十四 年 ( 1891 ) 九月、大学の学年試験の追試験受験勉強のた めここに滞在した。 ( 3 ) 熊本にいる時分五〇一べージ一箕 l(* ) 参照。 かんだがわ ( 4 ) 神田川神田区台所町にあった鰻料理屋。 ひょうてい おぎ ( 5 ) 飄亭五百木良三。明治三年ー昭和十二年 ( 1870 ー 1937 ) 。俳人。松山市の生れ。明治二十年 ( 1887 ) ご ろ上京、常盤寮で子規らと句作にはげみ、のち、子規と ともに新聞「日本」の編集に従事した。 ( 6 ) 足の立っていた時分子規は、明治三十年 ( 18 97 ) 以後、結核性瘍椎骨カリエスを併発し、ほとんど病 床にあった。
正岡子規 しなお ほどそうだと思われるので、また決心を為直して、僕 は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文な ら別に研究する必要もないような気がしたから、そこ で英文学を専攻することにした。その後は変化もなく おもしろ 今日までやってぎているが、やってみればあまり面白 しよら′ばいがえ ( 1 ) まさおかくいい そうだなあ。 くもないので、このごろはまた、商売替をしたいと思 正岡の食意地の張った話か。ハ しぎ ( 3 ) しな ( 2 ) うけれど、今じゃもう仕方がない。初めはすいぶんと なんでも僕が松山にいた時分、子規は支那から帰って っぴなことを考えていたもので、英文学を研究して英来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのか 文で大文学を書こうなどと考えていたんだったが・ : と思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行 ( 明治三九・六・一一〇「中学文芸」 ) かす、ここにいるのだという。僕が承知もしないうち ひとりき に、当人一人で極めている。御承知のとおり僕は上野 あわ の裏座敷を借りていたので、二階と下、合せて四間あ った。上野の人がしきりに止める。正岡さんは肺病た そうだから伝染するといけないおよしなさいとしきり にいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらん でもいゝと、かまわずに置く。僕は二階にいる、大将 ( 5 ) じゅう は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣る門下生が集 まって来る。僕が学校から帰ってみると、毎日のよう に多勢来ている。僕は本を読むこともどうすることも しかた 正岡子規 こと ( 4 )
ョリ要用ナルヲ知ルペシ。 ハ第二ノゴトキ case ナリ。 R ハ best ナレドモ ldea コノ cases / ウチ 1 2 ハホトンド extreme ノガ 0 ニ近ケレ ' ハホトンド no 文章ナリトイフナリ。 リ。タヾシモットモ case デ実際ナシトイフモ可ナ important トナルハ 5 6 ナリ。元来 best Rhetoric トハ△ナラ△ノ idea ヲ Express シテ人ガ読ンデモ同 形同積ノ△ニ感ズルヲイフニアラズャ。換言スレ flimsy original idea ヲ original ノマ、ニ convey スルガ best Rhetor 一 c ナリ。 ュヱニタトヒ R ガ best ナリト ロト 7 蝨ンロ 7 ト申 モ idea ガ bad ナレバ bad ナ idea ヲ bad ナリニ convey スルニスギザレバ文章ハ bad ニシカナラズ。 君 / 言フ二条 / 文学者ノ目的ハ僕ハ大イニ不賛成ダ コレニ反シテ R ハ bad ニテモ ldea ガ best ナレ・ハ、 ケレドモ、シバラク君ノ言フトホリ右ノ二条ガ目的ナ best ナ ldea ガコノ bad Rhetoric ノタメイクプンカルニモセョ、君ノイハュル文章 (Rhetoric on 一 y ) デコ modify セラレテ best ナリニ express セラルル能ハ ノ目的ガ達セラルルト思ヒ給フヤ、マタハ (Rhetoric ズ、単ニ ordinary ノモノトナルニスギザルナリ モ必要ナリト思ヒ on 一 ) 「 ) ガコノ目的ヲ達スルニモット、 ムザウサ 小生ノヒラタク無造作ニ飾気ナク ldea ヲ express タマフャ。今一度御勘考アラマホシウ。 スナ スルガ妙文ナリトハ ( 3 ) ノ case ヲイフノミ ム呼ウサ 五女の祟りの眼病 ハチ best ナ ldea ヲヒラタク無造作ニ best ナリニ読 者ニ感ゼシムルナリ (which is only possible by me ・ 七月ニ十日 ( 日 ) 牛込区喜久井町一番地より松山市 コウ 1 アイ 湊町四丁目十六番戸正岡常規へ〔正岡子規『筆まかせ』 ans 0 一 the best Rhetoric !)0 章句ノ末ニ拘泥スルト 力リケ 0
ごと 習ひするが面白しと御意遊ばさばそれまでなり。一言のたわ言と水に流したまへ。七面倒な文章論かゝずと のお答もなし。たゞ一片の赤心を吐露して歳暮年始のもよきに、そこがそれ人間の浅ましさ、つひによけい かふ ( 1 ) あなかしこ なことをならべて君にまた攻せられて大閉ロ、なに 礼に代ることしかり。穴賢 ざふ・こんくわごん ごとも餅が言はする雑言過言とお許しゃれ。 御前この書を読み、冷笑しながら「馬鹿な奴だ」 ざふに 当年の正月は相変らす雑煮を食ひ寐てくらし候。寄 と言はんかね。とかく御前の coldness には恐入り そろ やす。 席へは五六回ほど参り、かるたは二返取り候。一日神 十二月卅一日 田の小亭と申すに艤と申す女義太たを聞き女子 漱石 ( 5 ) にてもかゝる掘り出し物あるやと愚兄とともに大感心。 子規御前 そこで愚兄余に言ふやう「芸がよいと顔までよく見え る」と。その当否は君の御批判を願ひます。 明治ニ十三年 ちゅう 米山は当時夢中に禅に凝り、当休暇中も鎌倉へ修行 まかり 四漱石の文章論 に罷越したり。山川は相変らす学校へは出でこず。過 じゅくちゅう 一月牛込区喜久井町一番地より松山市湊町四丁目十六日十時ごろちょっと訪間せしにまだ褥中にありて煙草 ひき げつきん 番戸正岡常規へ〔正岡子規『筆まかせ』より〕 を吸ひ、それより起きて月琴を一曲弾て聞かせたり。 いううつびやう いつも / \ のん気なるが心は憂鬱病にかゝらんとする いそがしき手習ひのひまに長々しき御返事わざ ~ 、 さふらふ ( 2 ) おっかはし下され候段、御芳志のほどありい ( 洋語最中なり。これも貴兄の判断を仰ぐ。とかくこのごろ わがたう にあらず ) 。かくまで御懇篤なる君様をなにしに冷淡は学校でも吾党の子が少ないからなんとなく物淋しく おもしろ の冷笑のとそしり申すべきや。まじめの御弁護にてい 面白くなし。なるべくはやくお帰り / ( 、。もう仙人も〃 たみ入りて穴へも入りたき心地ぞし侍るほどに、一時あきがぎた時分だらうからちょっと已めにして、この おもしろ はひ はべ やっ もち よ き しちめんだう そろよ さび
リン・ハワードは安らかに死ぬのが目的で俺にくれたよ ってロンドン塔内で暗殺された。 せいひっ 金鎖 / そして後悔しなかった / 俺が触れたらその首はひ ( 3 ) 正筆ある場面をそのまま描写する書きかた。 そくひっ ゆっと遠くへとんたもの / まわれよまわれヒュウヒュウ ( 4 ) 仄筆その場面を出さず、会話などにより暗示的 まわれ / にほのめかす書きかた。 ( 3 ) Queen Anne Anne B01eyn リチャード八世 ( 5 ) エーンズウォース William Ha 「「売 on Ains ・ の王妃。一五三六年に処刑。 worth ( 1805 ー 1882 ) イギリスの作家。歴史に取材し paul DeIaroche ( 1797 ー 1856 ) 。 ( 4 ) ドラロッシ た小説が多く、長編小説「ロンドン塔」 ( : The Tower フランスの画家。歴史に取材した作品が多い。漱石が参 0 一 London," 1840 ) などがある。 考にしたのは「エドワードの子供たち」で、原画はルー ( 1 ) ソルスペリ伯爵夫人 Countess 0 ( Salisbury ・フル博物館に所蔵されている。 ( 1473 ー 1541 ) 本名 Margaret Pole 前出注のクラレ ンス公爵の娘。 カーライル博物館 ( 試訳 )- ーー斧は鋭 ( 2 ) The axe was sharp, ・ ーク (H) 「 de Park) のことで、 く、鉛の重さ / 首に触れれば首はとぶ / まわれよまわれ一〈 0 ( 1 ) 公園 ( イド・。、 のんど チェルシーの北にある有名な公園。古くから政治的およ ヒュウヒュウまわれ / 女王アンは断頭台に白い咽を横た いけにえまつぶた び宗教的な個人演説や集会がおこなわれていることで知 えて / 諟期の一撃静かに待つよ / 斧は犠牲真二つ / まっ られる。 たくすばやく正確にーーーだから彼女は痛みもない / まわ ( 2 ) 演説明治三十四年 90 こ八月二十五日の日記 れよまわれヒュウヒュウまわれ / ソルスペリイの侯爵夫 当、・、 , つい に「 Hyde pa 「 k ヲ散歩ス、辻演説ヲ聴ク」とあり、同 人彼女は死ぬのが嫌だった / 気位高い奥方はとりみだし 年十二月十八日の正岡子規あて書簡ではそのありさまを てはなるまいから / 俺はこの斧をふりあげて、彼女の頭 。八一ペ 1 ジ参照。 伝えている三 を切ったのさ / その時以来圸はこ・ほれ切れ味鈍くなった そんぶうし の学者。先生。 ( 3 ) 村夫子本 のさ / まわれよまわれヒュウヒュウまわれ / 女王キャサ イ 70
注 る。 無精者 ) の弟とみなしたあて名。 らんざん ( ) こもだれこもを垂れさげた小屋。田舎に帰省し ( 四嵐山京都市内の北西部の地名で、川に臨ん ている子規の勉強部屋をこういったものか。 だ紅葉の名所。 三三 ( 1 ) 愚兄得々賢弟黙々前出七月九日子規あての手 ( Ⅱ ) 海気屋神田区小川町九番地にあった洋傘専門店 紙にある句 ( 三一九ペ 1 ・ジ下九行目 ) をさす。 「甲斐絹屋」のこと。 ( 2 ) 御老母子規は六歳で父を失ったため、この当時 = = 三 ( 1 ) 小子「私」の謙称。 から東京へ移って病死するまで、ずっと母八重、妹律、 ( 2 ) 驥尾よく走る馬の尾。先達者のたとえにいう。 けふちゅうざっし との三人暮しであった。 ( 3 ) 峡中雑詩正岡子規の漢詩。翌明治二十五年八月、 - せんくわ ( 3 ) 撰科五〇一「へージ一一五四 ( 5 ) 参照。 新聞「日本」に発表された。 かめ 一うそ ( 4 ) 亀の子「亀の子だわし」の略。日本人の発明と ( 4 ) 楚高くのびた雑木。転じて、多くのなかで特 して世界に誇れるものは「亀の子だわし」のみだなどと、 にすぐれていることのたとえ。 しばしば自嘲的にいわれたことがあった。 ( 5 ) 次韻他人の漢詩のあとにつづけて作詩すること。・ ( 5 ) 青楼妓楼。遊女屋。 ( 6 ) 幼学詩韻初心者向きに、漢詩を作る参考書とし て作られた韻書 ( 漢字を韻によって分類した字書 ) 。桂 ( 6 ) この面漱石のあばた面をさす。 め しゃ 林先生閲。成徳隣・檜長裕共編。享和三年 ( 1803 ) 初版。 ( 7 ) 眼医者漱石はこのころ毎日のように神田区駿河 あによめ 台にあった井上眼科へ通っていた。 ( 7 ) 嫂漱石の兄直矩の妻。この手紙によっても窺わ てふがヘ れるが、漱石は彼女に対して好感以上のものを抱いてい ( 8 ) 銀杏返し女のヘャスタイルの一種で、このころ ゅ 若い娘などが結った。 たのでないかともいわれる。 しゅせんさん / 、 ( ) 竹なが「竹」は当て字。ふつう「丈長 . 、と書く。 ( 8 ) 鬚髯鬆々あごひげとほおひげが乱れさがるさま。 もとゆい 和紙の一種で、それをたたんで髪の元結にしたもの。な ( 9 ) えせ居士「えせ」は、似ているが実はそうでな いこと。「居士」は、仏教語で、出家しないで仏教を信 お、一説にこの女が漱石の初恋の相手だったともいわれ
( 6 ) かって君が「西行の顔も見えけり富士の山」といふ遊びあるきをり候へどもいまだ池塘に芳草を生ぜず腹 6 句を自慢したが、僕が先ごろ富士を見てふと口を価ての上に松の木もはヘず。これと申す珍聞もこれなくこ し そろ 出た名吟にはとても及ばず、かやうな手紙の後りに書のごろではこの消閑法にもほとんど怠屈つかまつり候。 もったい ( 7 ) やくめいそうすゐ くのは勿体なけれども別懇の間柄たから拝読さすべし。といって座禅観法はなほできず、濡茗漱水の風流気も その名吟に日く。 なければ、仕方なくたゞ「寐てくらす人もありけり夢 ひとしゃれ 西行も笠ぬいで見る富士の山 の世に」などと吟じて独り洒落たつもりのところ。瘠 まん おんびんせう 我ながら感々服々だ。しかしかやうの名吟をみだり我慢より出た風雅心と御憫笑くたさるべく候。シカシ ( 2 ) に人に示すは天機を漏らすの恐れあり、決して他言す 小生の病ひはいはゆるずるみ、べッたりにて善くもな べからず。またくだらぬ随筆中にたゝき込むべからず。らねば悪くもならぬといふ有様ゅゑ、風光と隔生を免 あなかしこ ( 9 ) かんけ かれたりと喜ぶこともなきかはりには韓家の後苑に花 み を看て分明ならすといふ嘆きもこれなし。眼鏡ごしに 漱石 れんぐわいしうかいだうあは 簾外の秋海棠の哀れに咲きたるををかしと眺むるくら 子規病牀下 さしつかへ ゐの事は少しも差支これなく候。されば時々は庭中に せみ 六漱石二十代の人生観 出て ( 米山法師のごとくこそ捉らね ) いろ / \ ない 八月九日 ( 土 ) 牛込区喜久井町一番地より松山市湊たづらを懿し候。茶の樹の根本に丹波ほうづきとかい 町四丁目十六番戸正岡常規へ〔正岡子規『筆まかせ』より〕ふ実の赤く色づきて寐ころげたるを何心なく手折りて、 爾後眼病とかくよろしからず。それがため書籍も筆ふと心つけば別に贈るべき人もなし。小さき妹にても けん ( 3 ) はうてぎありさま しぼ かひ 硯もことみ \ く皆放抛の有様にて長ぎ夏の日を暮しかあれかしと願ふも甲斐なし。撫し子の凋みたる間より ( 4 ) くわしょ ( 5 ) こくてんさと ききゃう ね、やむをえすくゝり枕同道にて華胥の国黒甜の郷と桔梗の一株二株ひょろ長く延びいでたるが雨にうたれ ( 1 ) まくら ひっ さふら ちたう と たんば ( 8 ) たを
簡 ) っ・つルら - つう 丸をしてデレリと陋巷にたれこめて御座るなり。この と少しく通がりて当座の間に合せに漱石となんしたり 顔に認め僘り、後にて考ふれば漱石とは書かで漱石と休みには「カーライル」の論文一冊を読みたり。二三 ( 8 ) ( 9 ) 日前より「アルノルドの「リテレチュア・エンド・ 書きしゃうに覚へ候。この段お含みのうへ、お正しく さやう ドクマ」と申すものを読みかけたり、御前かねて御趣 だされたく、まづはそのため口上左の様。 かたはら 米山大愚先生傍より自己の名さへ書けぬに、人の向の小説はすでに筆を下したまひしゃ。今度はいかな とんま ( 3 ) る文体を用ひたまふ御意見なりや。委細は拝見のうへ 文を評するとは「テモ恐シイ頓馬ダナ 1 」チョンチョ さふら ンチョン。 逐一批評を試むるつもりに候へども、とかく大兄の文 ( 2 ) くわう はなよ / 、として婦人流の習気を脱せす。近ごろは篁 そんりゅう 三子規の文体 村流に変化せられ、旧来の面目を一変せられたるやう しんそっ なりといへども、いまだ真率の元気に乏しく、したが 十ニ月三十一日 ( 火 ) 牛込区喜久井町一番地より ( Ⅱ ) うち ( 4 ) うて人をして案を拍て快と呼ばしむる個処少きやと存 松山市湊町四丁目十六番戸正岡常規へ〔正岡子規『筆ま そろ かせ』より〕 じ候。すべて文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平た ざうさ びやうく 帰省後はいかヾ。病はいかゞ。読書はいかゞ。執く造作なく直叙スルガ妙味と存ぜられ候。さればこそ へいすゐたふ 一はいかゞ 0 いかにしてこの長き月日を短く暮しめさ瓶水を倒して頭上よりあびるごとき感情も起るなく、 やから ちゅう おはみそか るるや。けふは大三十日なりとて、家内中大さわぎ胸中に一点の思想なく、たゞ文字のみを弄する輩はも なるに引きかへ、貧生のありがたさはなんの用事もなちろんいふに足らす。思想あるもいたづらに章句の末 らんまん こうでい むかぜん に拘泥して天真爛煖の見るべきなければ、人を感動せ く、たゞ昼は書に向ひ膳に向ひ、夜は床の中にもぐり こむのみ。気取りて申さば閑中の閑、静中の静を領すしむること覚東なからんかと存じ候。今世の小説家を ( 6 ) にぎきん るなり。俗に申せば銭のなきため、やむをえす握り睾もって自称する輩は少しも「オリヂナル」の思想なく、 ( 2 ) ( 1 ) ま ( 5 ) たま ころ おばっか ろう ひら
注 『資本論』がある。 ( 2 ) ミルトン五 8 ペ 1 ジ一一五一 ( Ⅱ ) 参照。 ぶふく ( 3 ) 一著述五三一ペ 1 ジ三天 ( 1 ) 参照。 ( 3 ) 撫腹腹がへって手を腹にあててなでたりするこ はやわよひつばり 三〈五 ( 1 ) 早寐宵張「朝寝宵張」のあやまりか。 とうび ちゅう ( 4 ) 千金の掉尾この上もないすばらしいしめくくり。 三〈六 ( 1 ) 浅井忠安政三年ー明治四十年 ( 1856 ー 187 ) 。 明治三十一年 ( 1898 ) 、東京美術学校教授となり、翌三十 三〈三 ( 1 ) 日英同盟明治三十五年 ( 一 902 ) 、日本とイギリ スの間に締結された同盟条約で、ロシアの極東進出を防 一一年 ( 1899 ) 、フランスに留学した。 ぎ、中国・インドの英国支配を維持しようとした攻守同 III<JP ( 1 ) インフルインフルエンザ。流行性感冒。 盟。 ( 2 ) 華族学校明治十年 ( 1877 ) 創設された学習院の ただす ( 2 ) 林公使林董 ( 嘉永三年ー大正一一年、 1850 ー 1913 ) 。 しゅうえん 外交官。明治二十四年 ( 1891 ) 、外務次官となり、二十八 ( 3 ) 終焉正岡子規は九月十九日に死んだ。 年 ( 1895 ) の日清戦争にさいし特命全権公使をつとめ、 ( 4 ) 倫通信本巻所収の「倫敦消息」 ( 一八九ペー ジ ) をさす。 三十三年 ( 180 ) 一一月、駐英大使となって、日英同盟締 ( 5 ) 白玉楼中国唐代 ( 望 8 ー 907 ) の文人李賀の故事 結に尽力、三十四年 ( 1901 ) および四十四年 ( 1911 ) に により、文学者・芸術家などが死後にゆく御殿をいう。 外務大臣となった。 っゝそで いんかん ( ) 筒袖洋服のことをおもしろく言ったもの。 三八 ( 1 ) 殷鑑遠からざる反省すべき滅亡の先例はすぐ三穴 1 かうきんとう 前の時代にあることをいい、他の失敗を見て、自分のい ( 2 ) 高襟党 ( イカラな人々。「高襟」は、 high collar を日本語に直訳したもの。 さめとすること。 ( 3 ) 自転車明治十九年 ( 1886 ) に日本へ輸入された ( 2 ) カール・マークス Karl Marx 田 8 ー 1883 ) 。 が一般に使用されたのは大正になってからであった。な ドイツの哲学者・経済学者。一八四九年以後ロンドンに お、漱石はこのころ自転車に乗る練習をしていた。四八 居住、科学的社会主義 ( 弁証法的唯物論 ) の立場を創始 八ペ 1 ジ三一 ( 3 ) 参照。 して階級闘争の理論をうちたてた。著作として有名な こと。