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検索対象: 夏目漱石全集 10
377件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 10

るものは一つもなか 0 た。けれども全面が平たく尋常ていたが、妻は女たけに心配して、このあいだも長い にでき上っているせいか、どこと指して、こ、が道楽手紙を重吉に遣って、いったいあのことはどうなさる幻 よろしく 臭いという点もまたまるで見当らなか 0 た。自分は妻つもりですかと尋ねたら、重吉は万事宜敷願いますと といろ / 、話した末、こう言った。 例のとおりの返事を寄こした。そのまえ聞き合わせた 「まあたいてい宜かろうじゃないか。道楽のほうは受時には、私はまだ道楽を始めませんから、大丈夫です け合いますと言っといでよー という端書が来た。妻はその端書を自分のところへ持 「道楽のほうってーーー。為ないほうをでしよう」 って来て、重吉さんもすいぶん呑気ね、また始めませ あたまえ 「当り前さ。為るほうを受け合っちやたいへんだ」 んって、いまに始められたひにや、大丈夫でもなんで じようだん 妻はまた先方へ行 0 て、決して道楽をするような男もないじゃありませんか、冗談じゃあるまいし、と少 うけあ じやございませんと受合 0 た。話はそれから発展しはし怒ったような語気を洩らした。自分にも重吉の用い じめたのである。重吉が地方へ行くと言いだした時に たこのまたという字がいかにも可笑しく思われた。妻 は、それがすっと進行して、もう十の九までは纏まっ に、当人本気なのかなと言ったくらいである。 ていた。自分は重吉のⅡへ立つまえに、わざ / 、先方妻が評したごとく、こういうふうこ、、 冫しつまでも、 へ出掛けてい 0 て、父母の同意を求めたうえで重吉を紙鳶が木の枝に引掛 0 て中途から揚が 0 ているような ありさまお 立たせた。 状態で推してゆかれては間へはいった自分達の責任と しす 重吉とお静さんとの関係はそこまで行 0 て、びたりしても、しまいには放 0 ておかれなくなるのは明らか と停ったなり今印に至ってまだ動かずにいる。もっと だから、今度の旅行を幸い、帰りにへ寄って、いわ も自分はそれほど気にも掛からない、今にど 0 ちからゆる「あのこと」をも 0 とは 0 きり片付けてきたら好 か動きだすだろう、万事はその時のことと覚悟を極めかろうという妻の意見に従うことに極めて家を出た。 ひっかゝ のんき

2. 夏目漱石全集 10

まくらもと 兄さんの枕元で一服しました。それから気持の悪い汗 てぬぐい ふろは 私は兄さんのこの言葉を、自分のどこへ応用してを流すために手拭を持 0 て風呂場へ行きました。私が ゅおけ あと いか気が付きませんでした。 湯槽の縁に立って身体を清めていると、兄さんが後か もり 「君は僕のお守になって、わざ / 、いっしょに旅行しら遣ってきました。二人はその時はしめてものを言い ているんじゃないか。僕は君の好意を感謝する。けれ合いました。私は「疲れたろう」と聞きました。兄さ どもそういう動機から出る君の言動は、誠を装偽 うりんは「疲れたーと答えました。 ひるぜんむか にすぎないと思う。朋友としての僕は君から離れるだ午の膳に向うころから兄さんの機嫌はだん / \ 回復 けだ」 してきました。私はついに兄さんに向って、さっき山 しばい 兄さんはこう断言しました。そうして私をそこへ取途で二人のあいだに起った芝居がかりの動作に言い及 残したま \ 一人でどん / \ 山道を馳け下りてゆきまびました。兄さんははじめのうちは苦笑していました。 ほとば した。その時私も兄さんのロを迸しる Einsamkeit, しかししまいには居住居を直して真面目になりました。 なんし du meine Heimat Einsamkeit! ( 孤独なるものよ、汝そうして実際孤独の感に堪えないのたと言い張りまし すま はわが住居なり ) というドイツ語を聞きました。 た。私はその時はしめて兄さんの口から、彼がたヾに 社会に立ってのみならす、家庭にあっても一様に孤独 であるという痛ましい自白を聞かされました。兄さん 私は心曜しい / \ 宿へ帰りました。さんは室の真は親しい私に対して疑念を持っている以上に、その家 だれかれうたぐ ー〈なかあお ん中に蒼い顔をして寐ていました。私の姿を見ても口庭の誰彼を疑っているようでした。兄さんの目にはお かあ いつわりうつわ を利きません、動きもしません。私は自然を尊む人を、父さんもお母さんも偽の器なのです。細君はことにそ 行 自然のま、にしておく方針を取りました。私は静かに う見えるらしいのです。兄さんはその細君の頭にこの ひとり ほうゆう お たっと とり みち とう からた ふたり 200

3. 夏目漱石全集 10

人 のら 自分はすぐこう聞いた。これよりほかに下女が今ご 自分は半ば春を迎えながら半ば春を呪う気になって ひばち すわ ゅうめしす いた。下宿へ帰ってタ飯を済ますと、火鉢の前へ坐っろ自分の室の襖を開けるはすがないと思ったからであ ・て煙草を吹かしながらぼんやり自分の未来を想像したる。すると下女は立ちながら「いゝえ」と答えたなり めもと りした。その未来を織る糸のうちには、自分に媚びる黙っていた。自分は下女の目元に一種の笑いを見た。 ほんろう さくらすみ 花やかな色が、新しくけた佐倉の炎とともにちらその笑いのうちには相手を翻弄し得た瞬間の愉快を女 びらめぎ しようてきむさぼ ちらと燃え上るのが常であったけれども、時には一面性的に貪りつ、ある妙な閃があった。自分は鋭く下女 つった むか に変色してどこまで行っても灰のように光沢を失ってに向って、「なんだい、突立ったま」と言った。下女 しきいぎわひざ いた。自分はこういう想像の夢から突然なにかの拍子はすぐ敷居際に膝を突いた。そうして「お客様です」 そ現在の我に立ち返ることがあった。そうしてこの現とや、真面目に答えた。 手段で結び 在の自分と未来の自分とを運命がどういう 「三沢だろう」と自分が言った。自分はあることで三 付けてゆくたろうと考えた。 沢の訪間を予期していたのである。 「い、え女のかたです」 自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、ちょ うどこんなふうに現実と空想のあいだに迷ってじっと 「女の人 ? 」 くちできゴと まゆよせ 自分は不審の眉を寄て下女に見せた。下女はかえっ 火鉢に手を翳していた、ある宵のロの出来事であった。 おのひとり 自分は自分の注意を己れ一人に集めていたというものて澄ましていた。 「こちらへお通し申しますか」 か、実際下女の廊下を踏んで来る足音に気が付かなか 「なんという人だい」 0 た。彼女が思い掛なくすうとを開けた時自分はは みあわ しめて偶然のように目を上げて彼女と顔を見合せた。 「知りません」 なまえ 「風呂かい」 「知りませんって、名前を聞かないでむやみに人の室 あが 205

4. 夏目漱石全集 10

分は母に「じゃその金でこの夏みんなを連て旅行なさたに違いなかろうと思った。 い」と勧めて、「また二郎さんのお株が始まった」と笑自分は岡田夫婦とい 0 しょに停車場に行った。三人 われたことがある。母はかねてから、もし機会があつで汽車を待ち合わしているあいだに岡田は、「どうで たら京大阪を見たいと言っていたが、あるいはその金す。二郎さんびつくりしたでしよう」といった。自分 なんべん ことば が手に入 0 たところ〈、岡田からの勧誘があ 0 たため、はこれと類似の言葉を、彼から何遍も聞いているので、 むか おおけさ なんとも答えなかった。お兼さんは岡田に向って、 こう大袈裟な計画になったのではなかろうか。それに ひとり しても岡田がまたなんでそんな勧誘をしたものだろう。「あなたこのあいだから独でお得意なのね。二郎さん だって聞き飽きていらっしやるわ。そんなこと、と言 「なにというたいした考えもないんでございましよう。 あや つけくわ あなた いながら自分を見て「ねえ貴方」と詫まるように付加 たゞ昔お世話になったお礼に御案内でもする気なんで ( 2 ) くろ えた。自分はお兼さんの愛嬌のうちに、どことなく黒 しよう。それにあのこともございますから」 うと こび お兼さんの「あのこと」というのは例の結婚事件で人らしい媚を認めて、急に返事の調子を狂わせた。お ある。自分はいくらお貞さんが母のお気に入りだって、兼さんは素知らぬふうをして岡田に話し掛けた。 そのために彼女がわざ / \ 大阪三界まで出てくるはす「奥さまもたいぶお目に懸らないから、すいぶんお変 りになったでしようね かないと田 5 っこ 0 もとおば ふところあや 自分はその時すでに懐が危しくなっていた。そのう「このまえ会 0 た時はや 0 ばり元の叔母さんさ」 岡田は自分の母のことを叔母さんと言い、お兼さん え後から三沢のために岡田に若干の金額を借りた。ほ ふそく かの意味は別として、母と兄夫婦の来るのはこの不足は奥様というのが、自分には変に聞こえた。 ( ー ) てん・は 填補の方便として自分には好都合であ 0 た。岡田もそ「始終にいると、変るんだか変らないんたか分りま・ れを知 0 て快よくこちらの要るだけすぐ用立ててくれせんよ、と自分は答えて笑 0 ているうちに汽車が着い さんがい き

5. 夏目漱石全集 10

人 行 「冗談い 0 ちや不可ない」と言 0 て岡田はい 0 そう大でもなるような語気で、その時の様子を多少誇張して 述べた。岡田はます / \ 笑った。 きな声を出して笑った。やがて少し真面目になって、 わるくち あなた それでもお兼さんがまた座敷へ顔を出した時、自分 「だって貴方はあいつの悪口をお母さんに言ったって は多少極りの悪い思をしなければならなか 0 た。人の 、うしゃありませんか」と聞いた。 じろう 悪い岡田はわざ / 、、細君に、「今二郎さんがお前のこ 「なんて」 「岡田も気の毒だ、あんなものを大阪下りまで引 0 張とをたいへん賞めてくたす 0 たぜ。よくお礼を申し上 おれ 0 ていくなんて。もう少し待 0 ていれば己が相当なのげるが好い」と言った。お兼さんは「貴方があんまり 悪口を仰しやるからでしようと夫に答えて、目では を見付けてやるのにつてー 自分の方を見て微笑した。 「そりや君昔のことですよー ゆかた 夕飯まえに浴衣がけで、岡田と二人岡の上を散歩し こうは答えたようなものの、自分は少し恐縮した。 め ろうば、 た。まばらに建てられた家屋や、それを取り巻く垣根 かっちょっと狼狽した。そうしてさっき岡田が変な目 遣をして、時々細君の方を見た意味をようやく理解しが東京の山の手を通り越した郊外を思い出させた。自 こ 0 分は突然大阪で会合しようと約東した友達の消息が気 むか まえ になりだした。自分はいきなり岡田に向って、「君の 「あの時は僕も母からたいへん叱られてね。お前のよ とう うな書生になにが解るものか。岡田さんのことはお父ところにや電話はないんでしようね」と聞いた。「あ かまえ さんと私とで当人達に都合の好いようにしたんたから、の構で電話があるように見えますかね , と答えた岡田 の顔には、たヾ機嫌の好い浮き / \ した調子ばかり見 よけいな口を利かずに默って見ておいでなさいって。 てひど えた。 どうも手痛くやられました。 自分は母から叱られたという事実が、自分の弁解に ( 1 ) めつ きま おっ ( 2 ) ふたり

6. 夏目漱石全集 10

「怒っちや不可ない」と彼が言った。「隠すんじゃな ふいちょう 、君に関係のないことを、わざと吹聴するようにみ ゆきがか 自分は行掛り上一応岡田に当って見る必要があった。 えるのが厭だから、知らせすにおこうと思っただけだ 宅へ電報を打っという三沢をちょっと待たして、ふら から」 自分はまだ黙っていた。彼は寐ながら自分の顔を見りと病院の門を出た。岡田の勤めている会社は、三沢 の室とは反対の方向にあるので、彼の窓から眺めるわ 上げていた。 みちのり 「そんなら話すがね」と彼が言いだした。 けにはゆかないけれども、道程からいうといくらもな むこう みまっ かった。それでも暑いので歩いてゆくうちに汗が背中 「僕はまだあの女を見舞てやらない。向でもそんなこ とは待ち受けてやしないだろうし、僕も必ず見舞に行を濡らすほど出た。 かなければならないほどの義理はない。が、僕はなん彼は自分の顔を見るやいなや、さも久しぶりに会っ た人らしく「やっしばらくーと叫ぶように言った。そ だかあの女の病気を危険にした本人だという自覚がど あいさっ うしても退かない。それでどっちがさきへ退院するに うしてこれまでたび / 、電話で繰り返した挨拶をまた しても、その間際に一度会っておきたいと始終思って新しくまのあたり述べた。 ことばろかい 自分と岡田とは今でこそ少し改まった言葉使もする 、た。見舞じゃない、詫まるためにだよ。気の毒なこ あいたがら とをしたと一口託まればそれで好いんだ。けれどもた が、昔をいえば、なんの遠慮もない間柄であった。そ あや おえ だ託まるわけにもいかないから、それで君に頼んでみのころは金も少しは彼のために融通してやった覚があ たのだ。しかし君のほうの都合が悪ければしいてそうる。自分は勇気を鼓舞するために、わざとその当時の してもらわないでもどうかなるだろう。宅へ電報でも記憶を呼起してか、った。なんにも知らない彼は、立 ちながら元気な声を出して、「どうです二郎さん、僕の 掛けたら」 あや うち へや よびおこ かえ なが

7. 夏目漱石全集 10

行 「どこか二人だけで話す所はないかな」 言いだした。 あたり 兄はこう言って四方を見渡した。その目はほんとう「権現様も名所の一つだから好いでしよう」 くるま ふたり かささ に二人たけで話のできる静かな場所を見付ているらし 二人はすぐ山を下りた。俥にも乗らず、傘も差さず、 むぎわらぼうし っこ 0 麦藁帽子だけ被って暑い砂道を歩いた。こうして兄と いっしょに昇降器、、乗ったり、権現へ行ったりするの 十七 が、その日は自分にとって、なんだか不安に感ぜられ かげ さしむカ ( 7 ) きぶっせい そこは高い地勢のお蔭で四方ともよく見晴らされた。 た。平生でも兄と差向いになると多少気不精には ( 1 ) きみ でら ( 2 ) こんもり おちっ めす ことに有名な紀三井寺を蓊鬱した木立の中に遠く望むかったけれども、その日ほど落付かないこともまた珍 ふもと ことができた。その麓に入江らしく穏かに光る水がまらしかった。自分は兄から「おい二郎二人で行こう、 さわべ けしき た海浜とは思われない沢辺の景色を、複雑な色に描き二人ぎりで , と言われた時からすでに変な心持がした。 じようるり ( 3 ) さが 出していた。自分は傍にいる人から浄瑠璃にある下り 二人は額から油汗をじり / 、、湧した。そのうえに自 まっ ( 4 ) けんがい ゅうべ はうろくむし 松というのを教えてもらった。その松はなるほど懸崖分は実際昨夕食った鯛の焙烙蒸に少し中てられていた。 を伝うように逆に枝を伸していた。 そこへだん / \ 高くなる太陽が容赦なく具合の悪い頭 しずか しかた 兄は茶店の女に、こ、いらで静な話をするに都合のを照らしたので、自分は仕方なしに黙って歩いていた。 からだ 好い場所はないかと尋ねていたが、茶店の女は兄の間 兄も無言のま、体を運ばした。宿で借りた粗末な下駄 が解らないのか、なにをいってもすこしも要領を得な がさく / \ 砂に喰い込む音が耳に付いた。 ちほうなまり ( 5 ) 、、 かった。そうして地方訛ののしとかいう語尾をしきり「二郎どうかしたか」 ~ 、りュ、え ゃぶ に繰返した。 兄の声はまったく藪から棒が急に出たように自分を ( 6 ) ごんげんさま しまいに兄は「じゃその権現様へでも行くかな」と驚かした。 わか の おだや みつけ ようりよう かぶ お まう わか っ

8. 夏目漱石全集 10

手 かせる必要もないからそれはそれなりにしておいて、 じゃあのことはどうするつもりだと尋ねた。「あのこ と」は今までの行き掛り上、重吉の立つまえにぜひと も聞いておかなければならない間題だったからである。 重吉は学校を出たばかりである。そうして出るやいすると重吉は別に気に掛ける様子もなく、万事貴方に よろしく なやすぐ田舎へ行ってしまった。なぜそんな所へ行くお任せするから宜敷願いますと言ったなり、平気でい のかと聞いたら別にたいした意味もないが、たヾ口をた。刺激に対して急劇な反応を示さないのはこの男の 頼んでおいた先輩が、行ったらどうだと勧めるからそ天分であるが、それにしても彼の年齢と、この間題の の気になったのだと答えた。それにしてもはあんま性質から一般的に見たところで、重吉の態度はあまり りじゃよ . , いか、せめて大阪とか名古屋とかなら地方で冷静すぎて、量未満の興味しか有ち得ないというふ も仕方がないけれどもと、自分は当人がすでに極めた うに思われた。自分は少し不審をいた。 ゆき というにもか、わらず一応彼の日行に反対してみた。 元来自分と妻と重吉の間にたゞ「あのこと。として その時重吉はたヾにや / \ 笑っていた。そうして今急一種の符牒のように通用しているのは、実をいうと、 にあすこに欠員ができて困ってると言うから、当分の彼の縁談に関する件であった。卒業の少し前から話が 約東で行くのです、じきまた帰ってきますと、あたか続いているので、自分達だけには単なる「あのこと」 も未来が自分のかってになるようなものの言い方をしでいっさいの経過が明かに頭に浮むせいか、べつだん なまえ た。自分はその場で重吉の「また帰ってきます」を改まって相手の名前などはロへ出さないで済ますこと 「帰ってくるつもりです」に訂正してやりたかったけが多かったのである。 れどもそう思い込んでいるものの心を、無益にざわ付女は妻の遠縁に当るものの次女であった。その関係 重吉のほうでも自分等を叔父さん叔母さんと呼んでい こ 0 しかた ふちょう あなた 295

9. 夏目漱石全集 10

まえ ごんけ せつな 「お前は二郎かいー ある刹那には彼女は忍耐の権化のごとく、自分の前 : んせき 「そうですー に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹さえ認め まゆ あす られない気高さが潜んでいた。彼女は眉をひそめる代「明日の朝ちょっと行くが好いかい」 「へえ」 りに微笑した。泣き伏す代りに端然と坐った。あたか さしつかえ 「差支があるかい」 もその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待っ かのごとくに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意「いえ別に : 「じゃ待っててくれ、好いだろうね。さようなら」 味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いあるもの すくな であった。 父はそれで電話を司ってしまった。自分は少からず ろうま 一人の嫂が自分にはこういろ / ( 、に見えた。事務所狼した。なんの用事であるかをさえ確める余裕を有 かえみら ひるめし の机の前、昼餐の卓の上、帰り途の電車の中、下宿のたなかった自分は、電話口を離れてから後悔した。も ひばちまわり 火鉢の周囲、さまん \ の所でさまん \ に変って見えた。し用事があるなら呼び付けられそうなものたのにとす 自分は他の知らない苦しみを他に言わすに苦しんた。 ぐ変に思ってもみた。父が向うから来るという違例な そのあいだ思い切って番町へ出掛けて行って、たいた ことが、このあいだの嫂の訪間になんか関係があるよ うな気がして、自分の胸はいっそう不安になっこ。 いの様子を探るのがともかくも順序たとはしば / \ 胸 に浮かんだ。けれども卑怯な自分はそれをあえてする 下宿に帰ったら、大阪の岡田から来た一枚の絵端書 が机の上に載せてあった。それは彼等夫婦が佐野とお 勇気を有たなかった。目の前に怖い物のあるのを知り まぶた ながら、わざと見ないために瞼を閉じていた。 貞さんを誘って、楽しい半日を郊外に暮らした記念で むか すると五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電あった。自分は机に向って長いあいだその絵端書を見 話口まで呼び出された。 詰めていた。 ひきよう 幻 4

10. 夏目漱石全集 10

行 かんしやくもち 癇持であった。けれども一種天賦の能力があって、 ことま たくみ これは嫂の言葉であった。兄はしばらく彼女の顔を時にその癇繍を巧に殺すことができた。 こた 眺めていた。それからおもむろに答えた。 そのうちに明神様へお参りに行った母が帰ってきた。 「いやそうでもない。家に故障はなかったはすだ」 彼女は自分の顔を見てようやく安心したというような 「じゃ。むりに帰れば帰れたのね」 色をしてくれた。 嫂はこう言って自分を顧みた。自分は彼女よりもむ「よく早く帰れて好かったね。 まあ昨夕の恐ろし しろ兄の方に向いた。 さったら、そりやお話にもなんにもならないんたよ、 「いやとても帰れなかったんです。電車がだいち通じ二郎。この柱がぎい / \ って鳴るたんびに、座敷が右 なみ ないんですもの」 左に動くんだろう。そこへ持ってきて、あの浪の音が きのう 「そうかもしれない。昨日は夕方あたりからあの波がね。 わたしや今聞いてもほんとうにぞっとするよ 非常に高く見えたから」 うち 「夜中に宅が揺れやしなくって」 母は昨夕の暴風雨を非道く怖がった。ことにその連 きら これも嫂の兄に聞いた間であった。今度は兄がすぐ想から出る、防波堤を砕きにか、る浪の音を嫌 0 た。 答えた。 「もう / 、和歌の浦も御免。海も御免。欲も得もら かあ 「揺れた。お母さんは危険だからと言って下へ降りてないから、早く東京へ帰りたいよ」 まゆ 行かれたくらい揺れた」 母はこう言って眉をひそめた。兄は肉のない頬へ皺 自分は兄の目色の険悪な割合に、それほど殺気を帯を寄せて苦笑した。 とま びていない彼の言語動作をよう / \ 確め得た時やっと 「二郎達は昨夕どこへ泊ったんだい」と聞いた。 せつかち あげ 安心した。彼は自分の性急に比べると約五倍がたの 自分は和歌山の宿の名を挙て答えた。 なが たしか たら こわ てんぶ ゅうべ 牋おしわ 127