人 行 いから、まあもう少しさきへ延そうというくるしい世のあたりをはた / 、いわせた。自分はまた急にこっち・ ともだち の中ですよと自分は彼に言ってやりたかった。するとで会うべきはすの友達のことに思い及んだ。 「奥さん、三沢という男から僕に宛てて、郵便か電報 岡田が「それに二人ぎりじゃ淋しくってね」とまたっ かなにか来ませんでしたか。今散歩に出た後で」 け加えた。 だいじようふ 「来やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻はそういう 三人ぎりだから仲が好いんでしよう」 「子供ができると夫婦の愛は減るもんでしようか」 ことはちゃんと心得てるんだから。ねえお兼。ーー好 ひとり いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来な 岡田と自分は実際二人の経験以外にあることをさも くって。二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らない 心得たように話し合った。 だいちあなた 宅では食卓の上に刺身たの吸物たのが綺麗に並んでんですか。第一貴方はあの一件からして罕化けてしま 二人を待っていた。お兼さんは薄化粧をして二人のおわなくっちゃならない義務があるでしよう」 あお うちわ 岡田はこう言って、自分の洋盃へ麦酒をゴポ / \ と 酌をした。時々は団扇を持って自分を扇いでくれた。 おしろい 自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉の注いだ。もうよほど酔っていた。 ビールわさびか 匂をかすかに感じた。そうしてそれが麦酒や山葵の香 よりも人間らしい好い匂のように思われた。 その晩はとう / \ 岡田の家へ泊った。六畳の二階で 「岡田君はいつもこうやって晩酌を遣るんですか」と 自分はお兼さんに聞いた。お兼さんは微笑しながら、 一人寐かされた自分は、蚊帳の中の暑苦しさに堪えか あとひきしよう」こ 「どうも後引上戸で困ります」と答えてわざと夫の方ねて、なるべく夫婦に知れないように、そっと雨戸を まくら みや を見遣った。夫は、「なに後が引けるほど飲ませやし開け放った。窓際を枕に寐ていたので、空は蚊帳越に そば ためし ( 1 ) すそ ないやね」と言って、傍にある団扇を取って、急に胸も見えた。試に赤い裾から、頭たけ出して眺めると星 におい さび や ひとりね みさわ うちとま あ た
そういう種類の不安を、生れてからまだ一度も経験しから汽車、汽車から自動軣それから航空船、それか たことのない私には、理解があっても同情は伴いませら飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。ど わか んでした。私は頭痛を知らない人が、割れるような痛こまで伴れていかれるか分らない。実に恐ろしい」 みを訴えられた時の気分で、兄さんの話に耳を傾けて 「そりや恐ろしい」と私も言いました。 いました。私はしばらく考えました。考えているうち 兄さんは笑いました。 おぼろげ 「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使 に、人間の運命というものが朧気ながら目の前に浮か さしつかえ んできました。私は兄さんのために好い尉謝を見出し っても差支ないという意味だろう。実際恐ろしいんし たと思いました。 ゃないだろう。つまり頭の恐ろしさにすぎないんだろ 「君のいうような不安は、人間全体の不安で、なにもう。 僕のは違う。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打っ 君一人だけが苦しんでいるのじゃないと覚ればそれま活きた恐ろしさだ」 るてん でしゃないか。つまりそう流転してゆくのが我々の運私は兄さんの言葉に一毫も虚偽の分子の交っていな 命なんたから」 いことを保証します。しかし兄さんの恐ろしさを自分 ことば 私のこの言葉はぼんやりしているばかりでなく、すの舌で甞めてみることはとてもできません。 なまぬ こぶる不快に生温るいものでありました。鋭い兄さん「すべての人の運命なら、君一人そう恐ろしがる必要 の目から出る軽侮の一暼とともに葬られなければなり がない」と私は言いました。 ませんでした。兄さんはこう言うのです。 「必要がなくても事実がある」と兄さんは答えました。 「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まるこそのうえ下のようなことも言いました。 とを知らない科学は、かって我々に止まることを許し「人間全体が幾世紀かの後に到着すべき運命を、僕は くるま てくれたことがない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから ひとり ー . ち・こう ひとり
( 4 ) なってるんだそうです」 話していた。この丸い小さな人がという公爵である あと うえしたむらさきじ ( 1 ) からくさ 幕の上下は紫地に金の唐草の模様を置いた縁で包んことを、自分が後で三沢から教わった。 であった。 その三沢は舞楽の始まるやっと五六分まえにフロッ まんなか 幕の前を見ると、真中に太鼓が据えてあった。そのクコ 1 トで遣ってきて、入口の金屏風の所でしばらく ちゅうちょ いろどり 太鼓には緑や金や赤の美しい色彩が施されてあった。 観覧席を見渡しながら躊踏していたが、自分の顔を見 そうして薄くて丸い枠の中に入れてあった。左の端に付けるやいなや、すぐ傍へ来て腰を掛けた。 ( 2 ) ひのし は火熨斗ぐらいの大きさの鐘がやはり枠の中に釣るし 彼と前後して一人の背の高い若い男が、年ごろの女 てあった。そのほかには琴が二面あった。琵琶も一一面を二人連れて、やはり正面席へはいってきた。男はフ あった。 ロックコートを着ていた。女はむろん紋付であった。 かおだち 楽器の前は青い毛氈で敷き詰められた舞をまう所にその男と伴の女の一人が顏立からいってよく似ている きようたい なっていた。構造は能のそれのように、三方の見所かので、自分はすぐ彼等の兄妹であることを覚った。彼 あいさっ らはまったく切り離されていた。そうしてその途切れ等は人の頭を五六列越して、三沢と挨拶を交換した。 あいきようた、 た四五尺の空間からは日も射し風も通うようにできて男の顔にはできるだけの愛嬌が湛えられた。女はこゝ ろもち顔を赤くした。三沢はわざ / \ 腰を浮かして起 のめす 立した。婦人はたいてい前の方に席を占めるので、彼 自分が物珍らしそうにこの様子を見ているうちに、 けんふつひとり 観客は一人二人と絶えす集まってきた。そのなかには等はついに自分達の傍へは来なかった。 ( 3 ) 「あれが僕の妻になるべき人だ」と三沢は小声で自分 自分がある音楽会で顔たけ覚えた Z という侯爵もいた。 きよう に告げた。自分は腹の中で、あの夢のような大きい黒 「今日は教育会があるので来られない」と細君のこと そば い目の所有者であった精神病のお嬢さんと、自分のニ かなにかを、傍にいた坊主頭の丸々と肥た小さい人に もうせん さ す こえ とぎ っ つれ や ら さと み 23 イ
のみか、いかに傍のものが非難を加えても、一度好き だと思い込んたら決して動かない。実に羨ましい信念 を有っている。だから異性の美醜に対する批判にかけ しろうとくろうと 我々の趣味のうちで最も平等にまた最も円満に、ほては、昔から素人黒人の区別を設ける必要もなく、め だれかれ きらいき とんど誰彼の区別なく発達しているものは、おそらく いめい自己特有の標準ですばり / \ と好ぎ嫌を定める 異性に対する美醜の判断たろう。 たけで、人も怪しまず、自分も疑わすに今日まで来た ひとり 自分はこのあいだ一人でこう考えて、ちょっと可笑のである。 こつけい しくなった。。、、 カ滑稽じみたその時の感じは決してわ このくらい直覚の鋭どく働らく女の目鼻ですら、差 おお懸い ′ロ が観察の真実を弱めるには足りなかった。と、 いの時まんざらとも思わないものを、大勢の中に放 は、絵なり彫刻なり音楽なり、いわゆる芸術と名けらして、居並んだ一人として、改めて眺めて見ると、気 すいぶん るるものの鑑賞力には、個人々々で随分な差等があり、の毒なほど引き立たなくなる。たくさんの綺麗な美人 よそおいこ また相応な目を有ち耳を有つ人でも、ある場合には、 が、人の注意を惹くために、装を凝らして秋波を送る ます かたむき 巧いのか拙いのか、ほとんど頭を郵めてか & る印象に と同じ傾のある展覧会を、自分のような鈍感なものが、 ようぼう あざやまとま すら困るのに、間題が婦人の容貌になると、誰でも好群集に紛れて素通りに通り抜けたところで、鮮かに纏 きらいじきげぎ - こ、ろえがお き嫌が直下に極ってしまうからである。この点になる った印象が残ろうはすがない。それを心得顔になんと こしら と我々は実に天品の鑑賞家で、一刧時一切所にふつり かいったら、あとから拵えた嘘になる。嘘にならな、 ほうゆう と断じて少しも迷わない。我々はいまたかって朋友の程度で感じたとおりを書けば、すこぶる貧しいものが 展一人から、あの女の顔に惚れようか惚れまいか、どうでき上る。自分は絵や彫刻を評するまえに、自分がこ幻 したものだろう、という相談を受けた例がない。それれ等の芸術に対して、女の顔を鑑賞するほどの明らか ば余興とか景物とかいうくらいのものである。 なづ あが うらや
目次 人 一山居士 秋の一日 人展と芸術 ハ石山房より 冂人続稿について 三 0 七
人 ひとみ ひとすみ 自分はその一隅にたヾ一人の知った顔を見出した。 眸子を転することなしに、しぜんと見られるように都 ( 2 ) 合の好い地位に坐っていた。 それは伶人の姓を有った目の大きい男であった。ある こうして首筋ばかり眺めていた自分は今比較的自由協会の主要な一員として、舞台の上で巧にその大きな かおだちすじかい せりふ な場所に立って、彼等の顔立を筋違に見はじめた。あ目を利用する男であった。彼は台詞を使う時のような るいは正面に動く機会が来るかもしれないと思った時、深い声で、誰かと話していたが、ほとんど自分達と入 ほおば 自分はチョコレートを頬張りながら、暗にその瞬間をれ代りぐらいに、喫煙室を出ていった。 「とう / \ 役者になったんたそうた」 捉える注意を怠らなかった。けれどもその女も三沢の 意中の人も、ついにこっちを向かなかった。自分はた「儲かるのかね」 ようぼう 「え、儲かるんだろう」 だ彼等の容貌を三分の二だけ側面から遠くに望んだ。 「このあいたなんとかを遣るということが新聞に出て そのうち三沢はまた盆を持ってこちらへ帰ってきた。 自分の房を通る時、彼は微笑しながら、「どうだい」と いたが、あの人なんですか」 言 0 た。自分はたゞ「御苦労さま」と挨携した。後か 「え、そうだそうです」 や ( 5 ) ら例の背の高い兄さんが遣ってぎた。 彼の去った後で、室の中央にいた三人の男はこんな 「どうです、あちらへ入らしって煙草でもお呑みにな話をしていた。三沢の知人は自分達にその三人の名を っちゃ。喫煙室はあすこの突き当りです」 教えてくれた。そのうちの二人は公爵で、一人は伯爵 いとぐちっ 自分と三沢とのあいだに緒ロの付き掛けた談話はこであった。そうして三人が三人とも公卿出の華族であ ふたり れでまた流れてしまった。二人は彼に導かれて喫煙室った。彼等の会話から察すると、三人ながらほとんど にはいった。煙と男子に占領された比較的狭いその室劇という芸術に対してなんの知識も興味も有っていな にぎや いようであった。 は思ったより賑かであった。 とら あと ( 1 ) れいじん ひとり
四人はまだ日の高い四時ごろにそこを出て帰路につ 違う高い二階が見えた。障子を取り払ったその広間の ( 1 ) かくおひ いた。途中で分れるとき佐野は「いすれそのうちま 中を見上げると、角帯を締めた若い人達が大勢いて、 おど おどり ) とりてぬぐい そのうちの一人が手拭を肩〈掛けて踊かなにか躍 0 てた」と帽を取 0 て挨携した。三人はプラ , トフォーム ( 2 ) たな いた。「お店ものの懇親会というところたろう」と評から外へ出た。 てすり 「どうです、二郎さん」と岡田はすぐ自分の方を見た。 し合っているうちに、十六七の小僧が手摺のところへ ひさし 出てきて、汚ないものを容赦なく廂の上へ吐いた。す「好さそうですね」 自分はこうよりほかに答える言葉を知らなかった。 ると同じくらいな年輩の小僧がまた一人煙草を吹かし あと おれつ ながら出てきて、こらしつかりしろ、己が付いているそれでいて、こう答えた後ははなはだ無責任なような から、なんにも怖がるには及ばない、 という意味を純気がしてならなかった。同時にこの無責任を余儀なく 粋の大阪弁で遣りだした。今まで苦々しい顔をして手されるのが、結婚に関係する多くの人の経験なんだろ よったり うとも考えた。 摺の方を見ていた四人はとう / \ 吹き出してしまった。 「どっちも酔ってるんたよ。小僧のくせに」と岡田が 一一一一口った 0 あなたみ 自分は三沢の消息を待って、なお二三日岡田の厄介 「貴方見たいね」とお兼さんが評した。 「どっちがですーと佐野が聞いた。 になった。実をいうと彼等は自分の余所に行って宿を 「両方ともよ。吐いたり管を捲いたり。とお兼さんが取ることを許さなかったのである。自分はそのあいだ できるたけ一人で大阪を見て歩いた。すると町幅の狭 答えた。 はつらっ 岡田はむしろ愉快な顔をしていた。自分は黙ってい いせいか、人間の運動が東京よりも溂と自分の目を ひとたかわらい 射るように思われたり、家並が締りのない東京より整 た。佐野は独り高笑をした。 よったり 十 ひとり やっかい
毒でもあるしね」 母は訴えるように自分を見た。 彼等の不平のうちには、同情から出る心も多量に すくな けねん 籠っていた。彼等は兄の健康について少からぬ掛念を 自分は父や母と相談のあげく、兄に旅行でも勧めて たちてぎわ 有っていた。その健康に多少支配されなければならなみることにした。彼等が自分達の手際ではとても駄目 い彼の精神状態にも冷淡ではあり得なかった。要するだからというので、自分は兄といちばん親密なさん ほっぎ に兄の未来は彼等にとって、恐ろしい X であった。 にそれを頼むが好かろうと発議して二人の賛成を得た。 「どうしたものだろう」 しかしその頼み役にはぜひとも自分が立たなければ済 これが相談の時必す繰り返されべき言葉であった。 まなかった。春休みにはまた一週間あった。けれども ひどり 実をいえば、一人々々離れているおりですら、胸のう 学校の講義はもうそろ / \ しまいになる日取であった。 ちでぼんやり繰り返してみるべき二人の一一一一口葉であった。 頼んでみるとすれば、早くしなければ都合が悪かった。 「変人なんたから、今までもよくこんなことがあった 「じや二三日のうちに三沢のところへ行って三沢から にはあったんだが、変人だけにすぐ癒ったもんだがね。でも話してもらうかまた様子によったら僕がじかに行 不思議たよ今度は」 って話すか、どっちかにしましよう」 こども きげんかい 兄の機嫌買を子供のうちから知り抜いている彼等に さんとそれほど懇意でない自分は、どうしても途 も、近ごろの兄は不思議たったのである。陰鬱な彼の中に三沢を置く必要があった。三沢は在学中さんを はれま 調子は、自分が下宿する前後から今日まで少しの晴間 保証人にしていた。学校を出てからもほとんど家族の なく続いたのである。そうしてそれがだん / \ 険悪の 一人のごとく始終そこへ出入していた。 むか あいさっ 一方に向ってまっすぐに進んでゆくのである。 帰りがけに挨拶をしようと思って、ちょっと嫂の室 「ほんとうに困っちまうよ妾たって。腹も立つが気のを覗いたら、嫂は芳江を前に置いて裸人形に美しい着 っこ 0 ふたり ェッキス いんうつ にん のぞ にさんち だめ 224
カ . ュ / 言った。 きよう 「兄さんはなせまた今日までその話を為ずに黙ってい 自分はびつくりした。 「そんなことがあるんですか。三沢は接吻のことにったんです」と自分は最後に兄に聞いた。兄は苦い顔を いては一口も言いませんでしたがね。皆ないる前ででして、「する必要がないからさ」と答えた。自分は様子 によったらもっと肉薄してみようかと思っているうち すか、三沢が接吻したっていうのは」 みんな 「それは知らない。皆の前で遣たのか。またはほかにに汽車が着いた。 人のいない時に遣たのか」 「たって三沢がたった一人でその娘さんの死の傍に ステーショソ いるはすがないと思いますがね。もし誰もそばにいな停車場を出るとすぐそこに電車が待っていた。兄と てさげカバン 自分は手提鞄を持ったまゝ婦人を扶けて急いでそれに い時接吻したとすると」 乗り込んだ。 「だから知らんと断ってるじゃないか」 電車は自分達四人が一度にはいっただけで、なかな 自分は黙って考え込んだ。 「いったい兄さんはどうして、そんな話を知ってるんか動き出さなかった。 「閑静な電車ですね」と自分が侮どるように言った。 よ わたしたち 「これなら妾達の荷物を乗っけても宜さそうだね」と 「から聞いた」 とは兄の同僚で、三沢を教えた男であった。その母は停車場の方を顧みた。 しよせいてい あいだがら ところへ書物を持った書生体の男たの、扇を使う商 は三沢の保証人だったから、少しは関係の深い間柄 にんふう きわ なんだろうけれども、どうしてこんな際どい話を聞き人風の男だのが二三人前後して車台に上ってばら / , \ ・ に腰をはじめたので、運転手はついに把手を動かし 込んで、兄に伝えたものたろうか、それは彼も知らな ひとり やっ だれ みん そば っこ 0 ( 2 ) あな たす ( 1 ) し にが
うれ ありがた 恐ろしい。一代のうちならまだしもだが、十年間でも、対して嬉しいとも有難いとも思う気は起りませんでし 一年間でも、縮めていえば一か月間ないし一週間でも、た。私はやはり黙って煙草を吹かしていました。兄さ幻 俵然として同じ運命を経過しなければならないから恐んはだん / 、落ち付いてきました。それから二人とも うそ 一つ蚊帳にはいって寐ました。 ろしい。君は嘘かと思うかもしれないが、僕の生活の ・どこをどんな断片に切ってみても、たといその断片の 長さが一時間だろうと三十分だろうと、それがきっと とま あくるひ 同じ運命を経過しつ、あるから恐ろしい。要するに僕翌日も我々は同じ所に泊っていました。朝起き抜け はまべ に人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不に浜辺を歩いた時、さんは眠っているような深い海 ・安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験しを眺めて、「海もこう静かだと好いね」と喜びました。 なっ ている」 近ごろの兄さんはなんでも動かないものが懐かしいの 「それは不可ない。もっと気を楽にしなくっちゃ」 だそうです。その意味で水よりも山が気に入るのでし わか 「不可ないぐらいは自分にも好く解っている」 た。気に入るといっても、普通の人間が自然を楽しむ しもあ 私は兄さんの前で黙って草を吹かしていました。時の心持とは少し違うようです。それは下に挙げる兄 ことば わか 私は心のうちで、どうかして兄さんをこの苦痛から救さんの言葉でお解りになるでしよう。 い出してあげたいと念じました。私はすべてその他の 「こうして髭を生やしたり、洋服を着たり、シガーを くわ うわべ ことを忘れました。今までじっと私の顔を見守ってい銜えたりするところを上部から見ると、 いかにも一人 まえ こじき た兄さんは、その時突然「君のほうが僕より偉い」と前の紳士らしいが、実際僕の心は宿なしの乞食見たよ 言いました。私は思想のうえにおいて、兄さんこそ私 うに朝から晩までうろ / \ している。二六時中不安に おちっ に優れていると感じている際でしたから、この賛辞に追い懸けられている。情ないほど落付けない。しまい えら ふたり ひとり