思い - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 10
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1. 夏目漱石全集 10

人 行 ざんげ 深く懺悔したいと思う。 「お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで済むものと、 こども 自分が巻莨を吹かして黙っていると兄ははたして高を括ってるのか、子供じゃあるまいし」 「二郎」と呼びかけた。 「いえ決してそんなわけじゃありません」 まえ 「お前直の性質が解ったかい」 これだけの返事をした時の自分は真に純良なる弟で 「解りません」 あった。 自分は兄の間のあまりに厳格なため、ついこう簡単 に答えてしまった。そうしてそのあまりに形式的なの あと に後から気が付いて、悪かったと思い返したが、もう 「そういうつもりでなければ、つもりでないようにも くわし 及ばなかった。 っと詳く話したら好いじゃないか」 のち にが 兄はその後一口も聞きもせず、また答えもしなかっ 兄は苦り切って団扇の絵を見詰めていた。自分は兄 ふたり た。二人こうして黙っているあいだが、自分には非常に顔を見られないのをさいわいに、暗に彼の様子を窺 けいべっ な苦痛であった。今考えると兄には、なおさらの苦痛った。自分からこういうと兄を軽蔑するようではなは ャカー・ であったに違ない。 こよ、というより 1 も だ済まないが、彼の表情のどこか冫 おとなげ 「二郎、おれはお前の兄として、たヾ解りませんとい彼の態度のどこか には、少し大人気を欠いた稚気さえ あいさっ う冷淡な挨拶を受けようとは思わなかった」 現われていた。今の自分はこの純粋な一本調子に対し そな 兄はこう言った。そうしてその声は低くかっ顫えてて、相応の尊敬を払う見地を具えているつもりである。 いた。彼は母の手前、宿の手前、また自分の手前と間 けれども人格のできていなかった当時の自分には、た 題の手前とをかねて、高くなるべきはずの咽喉を、やだ向の隙を見て事をするのが賢いのだという利害の念 っとの思いで抑えているように見えた。 が、こんな間題にまで付け纏わっていた。 おさ わか ふる す むこうすき 四十三 うちわ まっ 131

2. 夏目漱石全集 10

人 行 を挾さむだけの資格を有っていない人間にすぎません聞きました。 でした。私は黙々として熱烈な一 = ロ葉の前に坐りました。 「そうは思わない」と私が答えました。 すると兄さんの態度が変りました。私の沈黙が鋭い兄「徹底していないと思うかーと兄さんがまた聞きまし なんべん こ 0 さんの鋒先を鈍らせた例は、今までにも何遍かありま 「根本的のようだ」と私がまた答えました。 した。そうしてそれがことん \ く偶然から来ているの そうめい です。もっとも兄さんのような聡明な人に、一種の思「しかしどうしたらこの研究的な僕が、実行的な僕に ろう ( 1 ) かん わくから黙って見せるという技巧を弄したら、すく観変化できるだろう。どうぞ教えてくれ。と兄さんが頼 破されるにきまっていますから、私の鈍いのも時にはむのです。 一得になったのでしよう。 「僕にそんな力があるものか」と、と思いも寄らない ( 2 ) こうぜっひとけいべっ 私は断るのです。 「君、僕を単にロ舌の人と軽蔑してくれるな」と言っ た兄さんは、急に私の前に手を突きました。私は挨携「いやある。君は実行的に生れた人だ。だから幸福な くかえ おちっ んだ。そう落付いていられるんだ」と兄さんが繰り返 に窮しました。 ( 3 ) ちょうこう 「君のような重厚な人間から見たら僕はいかにも軽薄すのです。 ぶぜん しゃべりちがい 兄さんは真剣のようでした。私はその時憮然として なお喋舌に違ない。しかし僕はこれでもロで言うこと むか 兄さんに向いました。 を実行したがっているんだ。実行しなければならない と朝晩考え続けに考えているんだ。実行しなければ生「君の知恵ははるかに僕に優っている。僕にはとて っ も君を救うことはできない。僕の力は僕より鈍いもの ぎていられないとまで思い詰めているんた」 になら、あるいは及ぼし得るかもしれない。しかし僕 私は依然として挨拶に困ったまゝでした。 そうめい より聡明な君にはまったく無効である。要するに君は 「君、僕の考えを間違っていると思うかーと兄さんが ほこさき まさ

3. 夏目漱石全集 10

ちがい いまおけいねん ( 5 ) こ、 おど いたには違ない。今尾景年君の鯉もその近所に躍って 、こ。鯉は食うのも見るのもあまり好かない自分であ おど る。ことにこの躍り方に至ってははなはた好かないの ( 6 ) やまもとしゅんきょ ( 7 ) あゆ である。それで山本春挙君は鯉の代りに鮎の泳いで、 きじまおうこく 木島桜谷氏は去年たくさんの鹿を並べて二等賞を取るところを描いてくれた。なるほど鮎はまさしく泳い った人である。あの鹿は色といい目付といし 、今思い でいる。そのうえ岩も水もおおげさに惜気なく描かれ 出しても気持の悪くなる鹿である。今年の「寒月」もている。けれどもこう大きく描く興味はどこから出て 不愉快な点においては決してあの鹿に劣るまいと思う。きたのだろう。商店で頼まれた広告絵じゃないでしょ 屏風に月と竹とそれから狐たかなんだか動物が一匹い うかと友人は自分に語った。 こうぎようたいかん ( 8 ) しようしようはつけい る。その月は寒いでしようと言っている。竹は夜でし広業大観二氏は両方とも蕕湘八景を見せていた。二 となあわ ( 9 ) はつけよ ようと言っている。ところが動物はいえ昼間ですと答人が隣り合せに同じ八景を並べているのは、八景好 えている。とにかく屏風にするよりも写真屋の背景にやという洒落のようにも見える、が実際両方を観てゆ したほうが適当な絵である。 くと、まるで比較にもなんにもならない無関係の画で へや よ ( 3 ) びわ さるすべり まじめ 次の室で感じの好い枇杞だの百日紅だのを見た後、 あった。広業君のは細い筆で念入りに真面目に描いて ( 間 ) どうてい とう / 、審査員連の顔を並べている第十二室に出た。 あった。ことに洞庭の名月というのには、川、 糸力い鱗の 、 4 ) なす ていねいきちょうめん こんかぎ するとそこに茄子の葉を丁寧に儿帳面にかつのべたらような波を根限り並べ尺してしまった。この子供のよ に描いた屏風があった。自分はその前に立って、これ うな大人のする丹念さが、君の絵に一種重厚の気を添 を一 展はなんの趣意だろうと考えた。もっとも茄子その物は えている。自分はさっき茄子の葉を見て、多少御苦労 はす 抗って漬物にしても恥かしくないような好い色をしてのような感じを起した。しかしこの波に対したときは、 びよう うのである。色彩の点になるとはなはた新らしいよう ではあるがなんだか自分の性に合わない。 つけもの きつね おとな 327

4. 夏目漱石全集 10

簡 、からくる生活の区別が私とあなたとではそれほど懸絶すし、それからそれをかくためにはたいぶな労力を要 しておりません。したがってこれはまたほかに深い理する性質のものです。たからあまり丁寧にかきすぎて もまたたくさんかきすぎても厭味が出てまいります。 由があるのたろうと思います。このあいたの絵につい てお帰りのあとなおよく考えたところをちょっと申しひとっこれをかいて見せつけてやろうという気が出て くるのです。 上げます。あの画 2 ハックは色といい調子といいずい あなたの大きな画ではあの・ハックがあまりたくさん ぶん手数のか、った粉飾的気分に富んたものです、少 描きすぎてある、小さな画では ( 徳利に比して ) 丁寧 なくとも決して簡易卒直のものではありません。しか むそうさ ろところその前景になっているものがいかにも無雑作にかきすぎてある。それが双方とも私の意に満たなし な貧乏徳利と無雑作な二三輪の花です。そこに一種の原因の大なる一つかと考えます。御参考までにわざわ ふつりあい 矛盾があって看る人の頭に不釣合のを起させるのでざ申し上けます。あなたから見たらわざ / \ 聞く必要 しよう。もっとも西洋人が見たら貧乏徳利たかなんだもないかもしれないがあなたのように気取ることの嫌 な人があのックについて不意識の間に気取っている か分らないくらい吾々の持っている連想は起らないか もうげん もしれないが しかしあの徳利のかき方がいかにも簡ような結果になるから妄言に対する御批判を頃わした うけたま かんがえ クとはそのくなったのです。お考は今度お目にか、った節承わ 単でひと息きであるから精根を籠めた ( 、ハッ 一点で妙にすぐわなくなるのです。私はどうしてもそります。さよなら 夏目金之助 八月二十四日 うだと断言したいのです。 津田青楓様 それからあのバックについて一言申し上げますが あれは単独にいって好きですが、趣味からいうと飾り ( 2 ) ほうゆ 気の気分にみちたものでまあ豊腰な感じのあるもので わか 355

5. 夏目漱石全集 10

な直覚を有っていないのを深く恥ずるのである。 からいうと五六人もあったろうが、どれもおさんどん ( 5 ) 実際その日は非常の混雑であった。自分も自分の友であった。その横には春の山と春の水が、非常に大き 人も長くは一つ製作の前に佇ずむことを許されなかっく写されていた。自分はその大きさに感心した。 ぽたん ( 7 ) くげさま た。自分等は人の波に揉まれながら部屋から部屋へと次の室には綺麗な牡丹があった。お公卿様がおおぜ さしえ ( 8 ) ふたり 移って行った。すべての感想は、このせわしない動揺 いいた。三国誌の插画にあるような男も二人はかりい ざっとう ( 9 一はくらくてんちょうかおしよう の中に、閃めいたり消えたりして、雑沓の間を縫い回た。それから白楽天と鳥寞和尚が間答をしていた。 づたのである。 その次の室の入口に近いところで「平遠」というの のそ ばしよう つる 会場をはいってすぐ右にある広い室を覗くと、大きに出会った。芭蕉があって、鶴がいて、丸窓の中に赤 え な画ばかり並んでいた。その中に「南海の竹」と題しい着物を着た人がいた。そうして遠くの方の樹や土手 きんびようふ た金屏風があった。南海か東海かはもとより自分の関や水が、いかにもあっさりと遠くに見えた。自分はこ あくど たち、ちくそん 係するところではないが、その悪毒い彩色は少なかられが欲しいと思った。目録を調べると、田竹邨とい たけのこ ・ず自分の神経を刺激した。竹といい筍といし 、筍の皮う人の描いたもので、価は五百円と断ってあった。そ 一でんしゅう と ことみ \ く一種の田臭を放って、観る者を悩れで買うのは已めた。この隣りに「火牛」がいた。名 ( 2 ) ませているように思われた。自分はこのあいだ表慶館前は火牛だけれども、実は水牛である。もし水牛でな ( 3 ) びようじすゞめ ・で、猫児と雀をあしらった雅の竹を見た。このむらければ河財である。実に恐るべく驚ろくべき動物であ しろ いなかおんな 、だらけにお白粉を濃く塗った田舎女の顔に比較すべきる。そのあるものは鼻をさまにして変な表情を逞し ( ) からすさぎ 竹の前に立った時、自分は思わず好い対照としてすっ ゅうしていた。向う側には島と鷺が松の木にってい 。きりと気品高くでき上った雅邦のそれを思い出した。 た。もっとも鷺のあるものは飛んでいた。しかし両方 むかいがわ ( 4 ) りゅうきゅう この竹の向側には琉球の王様がいた。その侍女は数とも生活に疲れていた。そうして羽根の色が好くなか ひら ( 1 ) み へや おど ( 間 ) とま

6. 夏目漱石全集 10

行 し一もじゃ・く 岡田はこう言い捨てたなり、とう / \ 自分の用事を手が聞こうが聞くまいが、頓着なしに好きなことを喋 聞かずに二階へ上っていってしまった。自分もしばら舌って、時々一人高笑いをした。 くして風呂から出た。 彼は大阪の冨が過去二十年間にどのくらい殖えて、 これから十年立っとまたその富が今の何十倍になると あ いうような統計を挙けて大いに満足らしくみえた。 岡田はその夜だいぶ酒を呑んだ。彼はせひ都合して「大阪の富より君自身の富はどうだい」と兄が皮肉を 和歌の浦までいっしょにゆくつもりでいたが、あいに 言ったとき、岡田は禿け掛った頭へ手を載せて笑いだ く同僚が病気で欠勤しているので、予期のとおりになした。 らないのがはなはだ残念だと言ってしきりに母や兄に 「しかし僕の今日あるもーーーというと、偉すぎるが、 詫びていた。 まあどうかこうか遣っていけるのも、まったく叔父さ 「じや今夜がお別れたから、少しお過ごしなさい」とんと叔母さんのおです。僕はいくらこうして酒を呑 ( 2 ) たいへいらく 母が勧めた。 んで太平楽を並べていたって、それだけは決して忘れ あいにく自分の家族は酒に親しみの薄いものばかりやしません」 で、も彼の相手にはなれなか 0 た。それで皆な御免岡田はこんなことを言 0 て、房にいる母と遠くにい ことば なんべん こうむ 蒙って岡田よりさきへ食事を済ました。岡田はそれがる父に感謝の意を表した。彼は酔うと同じ言葉を何遍 ひと悪ん ′、りにえ こっちもかってだといったふうに、独り膳を控えても繰返す癖のある男だったが、ことにこの感謝の意は 人さかずきな 少しずつ違った形式で、いくたびか彼の口から洩れた。 盃を甜め続けた。 しようらい ( 3 一なたまん ( 4 ) がつお 彼は性来元気な男であった。そのうえ酒を呑むと、 しまいに彼は灘万のまな鰹とかなんとかいうものを、 ます / 、陽気になる好い癖を持っていた。そうして相 ぜひ父に喰わせたいと言い募った。 九 あが ひとり や えら しゃ

7. 夏目漱石全集 10

と言いました。今まで通ってきたうちで、兄さんの気 せて丈が長く生れた男で、僕は肥てずんぐり育った まね に入った所はまだ一か所もありません。兄さんは誰とお 人間なんだ。僕の真似をして肥ろうと思うなら、君は どこへ行ってもすぐ厭になる人なのでしよう。それも 君の丈を縮めるよりほかに途はないんだろう」 からだ そのはずです。兄さんには自分の身躯や自分の心から 兄さんは目からぼろ / ( 、涙を出しました。 あきら 「僕は明かに絶対の境地を認めている。しかし僕の世してがすでに気に入っていないのですから。兄さんは くせもの 界観が明かになればなるほど、絶対は僕と離れてしま自分の身軅や心が自分を裏切る曲者のように言います。 きよう ( 2 ) いたすら でほうだい 。要するに僕は図を披いて地理を調査する人だったそれが徒爾半分の出放題でないことは、今日までいっ ねとま ひかす さんか ( 1 ) ばっしよう のだ。それでいて脚絆を着けて山河を跋渉する実地のしょに寐泊りの日数を重ねた私にはよく理解できます。 ありま、 あなた ごが 人と、同じ経験をしようと焦慮り抜いているのだ。僕その私から有の儘の報知を受ける貴方にもとくと御合 うかっ は迂濶なのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂濶と知り矛点がゆくことだろうと思います。 こういう兄さんと、私がよくいっしょに旅ができる 盾と知りながら、依然として藻養いている。僕は馬鹿 とお思いになるかもしれません。私にも考えると、そ だ。人間としての君ははるかに僕より偉大だ」 かみ 兄さんはまた私の前に手を突きました。そうしてあれが不思議なくらいです。兄さんを上に述べたように たかも謝罪でもする時のように頭を下けました。涙が頭の中へ畳み込んだが最後、いかに遅鈍な私だって、 ぼたり / \ と兄さんの目から落ちました。私は恐縮しお相手はできにくいわけです。しかし事実私は今兄さ さしむか んとこうして差向いで暮していながら、さほどに苦痛 ました。 すくな を感じてはいないのです。少くとも傍で想像するより はよほど楽なのだろうと考えています。そうしてそれ さしつかえ 箱根を出る時兄さんは「二度とこんな所は御免だ」をなぜだと聞かれたら、ちょっと返答に差支るのです。 たけ 四十六 きやはん ふと みち て

8. 夏目漱石全集 10

「宅へ仕立物を持ってきた時分を考えると、まるで見ていた。、ルは立って、糊の強いのを肩へ掛けながら、 「どうたい と自分を促がした。嫂は浴衣を自分に渡 違えるようだよ一 母が兄とお兼さんを評し合った言葉の裏には、己れして、「ぜんたいあなたのお部屋はどこにあるの」と聞 ぬりぺい いた。手摺の所へ出て、鼻の先にある高い塗塀を鬱陶 がそれたけ年を取ったという淡い哀愁を含んでいた。 「おさんだって、もうじきですよお母さん」と自分しそうに眺めていた母は、「宜い室だが少し陰気たね。 よこあい 二郎お前のお室もこんなかい」と聞いた。自分は母の は横合からロを出した。 はりものいた 「ほんとうにね」と母は答えた。母は腹の中で、まだ いる傍へ行って、下を見た。下には張物板のような細 などうろう 片付く当のないお重のことでも考えているらしかった。長い庭に、細い竹がまばらにえて錆びた鉄燈籠が石 うちみす 兄は自分を顧みて、「三沢が病気たったので、どこへもの上に置いてあった。その石も竹も打水で皆しっとり 行かなかったそうだね . と聞いた。自分は「え、。と濡れていた。 「狭いが凝ってますね。その代り僕のところのように んだところへ引っかゝってどこへも行かすじまいでし かわ かけへだて た」と答えた。自分と兄とは常にこのくらい懸隔のあ河がありませんよ、お母さん」 る言葉で応対するのが例になっていた。これは年がす「おやどこに河があるの」と母がいう後から、兄も嫂 とりかえ むかしかたぎ こし違うのと、父が昔堅気で、長男に最上の権力を塗もその河の見える座敷と取換てもらおうと言いだした。 あげ 自分は自分の宿のある方角やら地理やらを説明して聞 り付けるようにして育て上た結果である。母もたまに かした。そうしてひとまず帰って荷物を纏めたうえま は自分をさん付にして二郎さんと呼んでくれることも たこ、へ来る約東をして宿を出た。 あるが、これは単に兄の一郎さんのお余りにすぎない と自分は信じていた。 ゆかたきか みんなは話に気を取られて浴衣を着換えるのを忘れ したてもの あて おの うっとう

9. 夏目漱石全集 10

さっそく妻を遣って先方へ話をさせてみると、妻は で時々自分の家に出入るところからしぜん重吉とも知 あいさっ 〈亠になって、会えば互に挨拶するくらいの交際が成立女の母の挨拶だといって、妙な返事を齎した。金はな くっても構わないから道楽をしない保証の付いた人で した。けれども二人の関係はそれ以上に接近する機会 も企てもなく、ほとんど同じ距離で進行するのみにみなければ遣らないというのである。そうしてなぜそん いわれ えた。そうして二人ともそれ以上に何物をも求むる気な注文を出すかの、理由が説明としてその返事に伴っ しき 色がなかった。要するに二人の間は、年長者の監督のていた。 下に立つある少女と、また修業中の身分を自覚するあ女には一人の姉があって、その姉は二三年まえすで にある資産家のところへ嫁に行った。今でも行ってい る青年とが一種の社会的な事情から、互と顔を見合せ ひと せけんなみ もと て、礼義に戻らないだけの応対をするにすぎなかった。る。世間並の夫婦として別に他の注意を惹くほどの波 あが ま だから自分は驚いたのである。重吉が勗らず逼らず、瀾もなく、まず平穏に納まっているから、人目にはそ さしつかえ もら 常と少しも違わない平面な調子で、あの人を妻に貰いれで差支ないようにみえるけれども、姉娘の父母はこ たい、話してくれませんかと言った時には、君ほんとの二三年のあいだに、苦々しい思いをたえす陰で舐め かたづ うかと実際聞き返したくらいであった。自分はすぐ重させられたのである。そのすべては娘の片付いた先の おっと ( 1 ) ふみもち 吉の挙止動作がふだんにたいていは真面目であるごと夫の不身持から起ったのだといえばそれまでであるが、 く、この間題に対してもまた真面目であるのを発見し父母だって、娘の亭主を、業務上必要の交際から追い そむ わたくし た。そうして過渡期の日本の社会道徳に背いて、私の出してまで、娘の権利と幸福を庇護しようと試みるほ ( 2 ) さば 歩を相互に進めることなしに、意志の重みを初から監ど捌けない人達ではなかった。 ふぼ 督者たる父母に寄せ掛けた彼の行い振りを快よく感じ た。そこで彼の依頼を引き受けた。 ふたり ひとり もたら つきあい っ

10. 夏目漱石全集 10

あによめ 一今日は久しぶりにお前を伴れていって皆なに会わせ子が帰ってきた」と言った。嫂はたゞ「入らっしゃい ことばすくな ようとって 0 お前一郎に近ごろ会ったことはあと平生のとおり言葉寡な挨拶をした。このあいだの晩 一人で尋ねてきたことは、まるで忘れてしまったとい るまい」 うふうに見えた。自分も人前を憚って一口もそれに触 「え、実は下宿をする時挨携をしたぎりです , 「それみろ。ところが今日はあいにく一郎が留守だがれなかった。比較的陽気なのは父であった。彼は多少 きよう かいぎやく ひろうかい ね。お父さんが上野の披露会のことを忘れていたのがの諧謔と誇張とを交ぜて、今日どうして自分をおびき 出したかを得意らしく母やお重に話した。おびき出す 悪かったけれども」 ぎようさん こつけい という彼の言葉が自分には仰山でかっ滑稽に聞えた。 自分は父に伴れられて、とう / 、番町の門を潜った。 「春になったから、皆なもちっと陽気にしなくっちゃ 不可ない。 このごろのように黙ってばかりいちゃ、ま 座敷にはいった時、母は自分の顔を見て、「おや珍らるで幽霊屋敷のようで、くさ / \ するだけだあね。桐 うち ( 1 ) けんべい しいね」と言っただけであった。自分はほとんど権柄畠でさえ立派な家が建つ時節じゃないか」 なさけ かどしめん ずくでこ、へ引っ張られてきながらも、途々父の情を桐畠というのは家のつい近所にある角地面の名であ たー、り ありがた 難有く感じていた。そうして暗に家に帰ってから母に った。そこへ住まうとなにか祟があるという昔からの いち・こん あきち 会う瞬間の光景を予想していた。その予想がこの一一一 = ロ 言い伝えで、このあいだまで空地になっていたのを、 このごろになってようやくある人が買い取って、大き で打ち崩されたのは案外であった。父は家内の誰にも ひとり あわ 打ち合せをせずに、まったく自分一人の考えで、このな普請を始めたのである。父は自分の家が第二の桐畠 むすこ そば 不心得な息子に親切を尽してくれたのである。お重は になるのを恐れでもするように、いき / \ と傍のもの 逃げた飜たを見るような目付で自分を見た。「そらに話し掛けた。平生彼の居馴染んだ室は、奥の二間続 十 あ っ みん ばたけ りつば きり