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検索対象: 夏目漱石全集 10
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1. 夏目漱石全集 10

注 はんせつ 三六 ( 1 ) 半切全紙を縦に半分に切った紙にかいたもの。 ちゃがけ ( 2 ) 茶懸茶室の床にかける掛け物。 ( 3 ) 大徳寺京都市北区にある臨済宗大徳寺派本 山。千利休などが住んでいたことがあって茶道と関係深 く、中世の書などが多く所蔵されているので有名。 お ) まく ( 4 ) 黄臨済宗の一派。京都府宇治市に本山の万 福寺があり、古書の所蔵でも知られる。 ( 5 ) 上野の表慶館上野公園にある東京国立博物館 の一部。明治三十三年 ( 190e 、皇太子 ( 大正天皇 ) 御成 婚記念として東京市民が献上した建物で、同四十二年 ( 1909 ) に落成・開館した。なお、漱石はしばしばここ へ観に行っているが、以下の部分は、明治四十四年 ( 19 11 ) 十一月二十三日に観覧したさいのことが素材になっ ている。 三七 ( 1 ) 利休千宗易の号。永正十七年ー天正十九年 ( こ 20 ー 1591 ) 。茶道の名人。千家流の祖。その書状一通が 東京国立博物館に所蔵されている。 ごもっ ( 2 ) 御物「ぎよぶつ」ともいう。天皇家の所蔵品。 おうぎし ( 3 ) 王羲之中国晋代 ( 三世紀 ) の書家。ここにい う書は、王羲之の手紙を集めて一巻とした「喪乱帖」を さす。もとは奈良正倉院に所蔵されていたもので、真筆 ではなく、巧みな写本だといわれる。 おうきょ ( 4 ) 応挙円山応挙 ( 享保十八年ー寛政七年、一 733 ー 1795 ) 。江戸時代後期の画家。ここにいう絵は、大乗寺 ふすま ( 兵庫県城崎郡霄住町にあり、俗称応挙寺 ) の襖に描か れた絵で、現在は、懸物に改装され、東京国立博物館に 所蔵されている。 よく ( 5 ) 玉中国で産出する宝石の一種。玉で作った中国 の硯・香炉など多数が東京国立博物館に所蔵されている。 こうらいやき ( 6 ) 高麗焼朝鮮の高麗時代 ( 十ー十四世紀 ) の陶 器。東京国立博物館には多数所蔵されている。 かきえもん ( 7 ) 柿右衛門天正十九年ー寛文六年 ( 一 591 ー】 666 ) 。 江戸初期の陶工。姓、酒井田。佐賀県有田の人。赤絵磁 器の創始者。東京国立博物館には色絵皿・色絵鉢など約 五十点ほど所蔵されている。 天正二年ー明暦一一年 ( 1574 ー 1656 ) 。 ( 8 ) のんこう 陶工。京都の楽焼本家の三代目。通称は吉兵衛、のち、 吉左衛門と改め、剃髪後、道入と号した。 上野公園にあり、徳川家康・吉宗をま ( 9 ) 東照宮 つった神社。寛永年間 ( 十七世紀前半 ) の創建。 ( 四精養軒現在も上野公園にある西洋料理店。二 四五。ヘージ下八行目にでてくる築地精養軒 ( 明治四年

2. 夏目漱石全集 10

注 た当時の第一高等学校。 ( 9 ) 雅邦東京国立博物館には雅邦の作品が多数所 ( 4 ) 帝国文学東京帝国大学文科系の機関誌。 蔵されているので「あの画」については未詳。 ( 5 ) 内田内田栄造。明治二十二年ー明治四十六年 小細工。小手さきの器用さ。 ( 四小刀細工 C889 ー (1) 。随筆家・小説家。号は百閒・百鬼園。六 ( Ⅱ ) 和亭滝和亭。天保三年ー明治三十四年 ( 1832 高 ( 岡山 ) を経て東京帝国大学独文科卒業。中学時代か ・ 190 一ソ日本画。本名、謙、別号は蘭田。南画や中国の ら漱石に傾倒し、上京後漱石に師事した。 画風を学び、花鳥画を得意とした。 きりぬき ( 当孔雀和亭作「孔雀図」 ( 東京国立博物館所蔵 ) 三六一 ( 1 ) 切抜当時「国民新聞」に連載中の「桑の実」 の切り抜きをさすのであろう。 をさす。 ( 昭 ) 謝時臣中国明代の画家。字は思忠、号は樗仙。 ( 2 ) 門間春雄明治二十三年ー大正八年 ( 1890 ー 19 19 ) 歌人。福島県の人。家業 ( しようゆ醸造 ) のかたわ ( Ⅱ ) 雨の景時臣作「秣陵積雨図」 ( 東京国立博物館 ら長塚節に師事して歌を作り、その紹介で大正二年 ( 19 所蔵 ) をさす。 さぎ りゅう 一 3 ) 一月、漱石を訪ね、以後たびたび漱石の書画を求め ) 竹や鷺やそれから竜宗達作「禽獣梅竹図」 ている。『門間春雄歌集』が死後出版された。 四幅および「竜図ー一幅 ( いずれも東京国立博物館所蔵 ) をさす。 三六一一 ( 1 ) 高原操明治三十四年 090 ご東京帝国大学哲 学科卒業、同三十九年 ( 1906 ) 京都帝国大学政治科卒業。 郎明治二十二年ー昭和三十五年 ( 1889 三五九 ( 1 ) 和辻哲 朝日新聞社に入社、のち同社取締役、大阪朝日編集局長。 ー 1960 ) 。哲学者。明治四十五年 ( 1912 ) 東京帝国大学 disillusion ( 英 ) 。幻滅。 哲学科卒業。在学中「新思潮」 ( 第一一次 ) 同人となり文学 三六四 ( 1 ) ジスイリュージョン にも傾倒、のち、東京大学教授。 三六三 ( 1 ) 長塚長塚節。歌人。茨城県の人。 がんしんけい 中国唐代の政治家。書にすぐれていた ( 2 ) 著作和辻哲郎著『ニイチェ研究』 ( 大正二年十 ( 2 ) 顔真卿 月刊 ) をさす。 ことでも有名である。 はりばん ( 3 ) あの時の高等学校漱石が英文学を講義してい ( 3 ) 玻璃板「コロタイプーの旧称。 431

3. 夏目漱石全集 10

( 2 ) ワルテル当時の東京帝国大学のドイツ語教師 であろう。 びんぼうどっくり ( 3 ) 貧乏徳利の議論津田青楓著『漱石と十弟子』 のなかの「貧乏徳利の論争」によれば、印象派的点描の げてもの 背景に下手物の徳利を無造作に描いた青楓の静物画につ き、漱石が、安つぼい貧乏徳利のため全体の調和がこわ されている、と評したのに対して、青楓が作意を弁明し、 さらに手紙で、あの徳利は借り物ではなく自分の貧乏な 生活に密着した材料であり、漱石のような生活程度の高 い人の目には下品で不調和に見えるのだ、と書き送った ことをさす。それに対して漱石がこの手紙を書き、さら に青楓が反論の手紙を書いた。 三五五 ( 1 ) すぐわなく「そぐわなく」のなまり。 ほうゆ 「豊腴」のあやまり。地味がこえている ( 2 ) 豊展 ほうじよう こと。豊饒。 そうたっ 三五七 ( 1 ) 宗達江戸前期の画家。俵屋と称し、姓は野村 または野々村と推定されている。 こうりん 三犬 ( 1 ) 光琳江戸中期の画家。姓、尾形。宗達の図案 的・装飾的画風を大成し、光琳風といわれる独特の様式 を創造した。 ( 2 ) 墨竹東京国立博物館所蔵の宗達作「禽獣梅竹」 四幅のうち「竹」一幅をさす。 ほういっ 江戸後期の画家。宝暦十一年ー文政十一 ( 3 ) 抱一 年 ( 1761 ー 1828 ) 。姓、酒井。光琳の画風を学んで一家を なし、俳人としても知られた。 ほたるがり ( 4 ) 螢狩という俗な画東京国立博物館所蔵の抱一 作「宇治螢狩図」をさす。 びようぶ ( 5 ) 扇散らしの屏風扇形の紙に描いた絵を金屏風 に貼りつけたもの。ここは、東京国立博物館所蔵の宗達 作と伝える御物「扇面散屏風」一双をさす。 ( 6 ) 伊年宗達作と考えられる絵に「伊年」の印が あり、また、宗達以外の作と考えられる絵にもこの印が あるので、「伊年」という画家は何人もいたと思われ、宗 達の後継者たちが襲用したのであろうと推定されている。 ( 7 ) 二枚折二曲一双の屏風のこと。ここは、東京 国立博物館所蔵の伊年印のある「四季花卉図屏風」また は「四季草花図屏風。のいずれかをさす。 えしんそうず ( 8 ) 恵心僧都天慶五年ー寛仁元年 ( 942 ー 10 】 7 ) 。 源信。平安中期の天台宗高僧。著書『往生要集』で有名。 なお、彼の作と伝える多くの仏画・仏像が現存している が、どれも確証はなく、彼の依頼で作られたものではな いかと推定されている。 43 ひ

4. 夏目漱石全集 10

家団体で、大正元年 ( 一 9 一 2 ) 十月第一回展を読売新聞社 三階で開催、翌十一月、会誌「ヒウザン」を創刊した が、翌二年五月第二回展開催後解散した。 たなみがくしよう 一一一螽 ( 1 ) 南海の竹田南岳璋の「南海の竹。 ( 六曲屏風 東京国立博物館の一部。明治四十二年 ( 2 ) 表慶館 落成。 ・かほう はしもとほう びようじすずめ ( 3 ) 猫児と雀をあしらった雅邦の竹橋本雅邦の 「竹林猫図」をさす。明治二十九年 ( 1896 ) 第一回日本 絵画協会共進会に出品したもので、現在は東京国立博物 館に所蔵されている。雅邦 ( 天保六年ー明治四十二年、 1835 ー一 909 ) は、江戸木挽町 ( 現在、中央区 ) に生れ、狩 のうまさつぶ 野雅信の門に入り、のち、美術学校教授として大観・春 草などの逸材を指導した明治画壇の巨匠。 りゅうきゅう ; 、こ山口瑞雨の「琉球藩王図」 ( 4 ) 琉球の王様力しナ ( 六曲屏風一双 ) をさす。侍女の数は三人ほどである。 田中頼章の「水郭の ( 5 ) 春の山と春の水が : 春」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。この時の三等賞作品。 ぼたん ( 6 ) 綺麗な牡丹があった石河有県の「春庭香艶」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。 げさま ( 7 ) お公卿様がおおぜいしナ 、こ磯田長秋の「宴」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。 さしえ ふたり ( 8 ) 三国誌の插画にあるような男も二人ばかりい た池上秀畝の「朔北」 ( 六曲屏風一双 ) をさす『三 国誌』は、正しくは「三国志」と書き、①魏・呉・蜀と いう三国の歴史を記した中国の歴史書『三国志』六十五 巻、②この歴史書にもとづいて作られた中国の長編歴史 小説『三国志演義』百二十編、③この中国小説を翻訳し よみはん 通俗化した江戸時代の読本『通俗三国志』五十一巻、 この読本に插絵を入れた『絵本通俗三国志』七十四巻が あるが、ここでは③または④をさしている。 ちょうかおしよう ( 9 ) 白楽天と鳥第和尚が問答をしていた今井爽 邦の「汝が居所却て危し」 ( 二枚 ) をさす。白楽天は、中 国唐代の詩人。名は居易。鳥欒和尚は、中国唐代の有名 な禅僧。姓は潘、字は道林。いつも老松の幹がとぐろを まいた上に座禅していたと伝えられ、白楽天と問答した ことも『伝灯録』などの禅書に記されて、有名な画題の ひとっとなっている。 たちかちくそん ( 四平遠田近竹邨の「平遠」。題名の意味は、平ら かで遠いこと。のびのびとひらけた平地の形容。 ( Ⅱ ) 火牛津端道彦の「火牛」 ( 六曲屏風一双 ) 。こ の時の一一等賞作品。火牛とは、源平合戦時代ごろ夜襲の イ 20

5. 夏目漱石全集 10

たたし「洞庭秋月」の誤り。 等賞作品。 がん さるすべり 三一一ハ ( 1 ) 雁大観の「平沙落雁」に描かれている雁。 ( 3 ) 感じの好い枇杷だの百日紅だの吉岡華堂の あげは 「芭蕉、此把、百日紅、南京瓜ーをさす。 ( 2 ) 揚羽の鶴のように揚羽蝶のようにも鶴のよう にもみえるさまか。 ( 4 ) 茄子の葉を : : : 描いた屏風菊池契月の「茄 ( 3 ) 屈託がなさそう岸へ上ろうとする牛の背なか 子」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。三等賞作品。 いまおけいねん に坐って、ひっくりかえりそうになって見上げている人 ( 5 ) 鯉今尾景年 ( 審査員 ) の「躍鯉図」をさす。 やまもとしゅんきょ 物が描かれている。 ( 6 ) 山本春挙君「山本」は「山元」の誤り。京都 の画家。明治四年ー昭和八年 ( 1871 ー 1933 ) 。 ( 4 ) 雨に濡れた修竹大観の「湘夜雨」をさす。 あゆ やまもとしゅんきょ ( 5 ) 霧の晴れかゝった山駅大観の「山市晴嵐」 ( 7 ) 鮎の泳いでいるところ山元春挙 ( 審査員 ) の「嵐峡ーをさす。嵐峡とは京都の嵐山峡谷のことをい に描かれている。 ( 6 ) 舟に乗って月を観ている男「洞庭秋月」に描 てらさきこうぎよう しようしようはつけい 寺崎広業 ( 審査員 ) の「瀟湘八 かれている。以上に言及されていない残り四枚は「遠浦 ( 8 ) 瀟湘八景 景」、および、横山大観 ( 審査員 ) の「瀟湘八景ーをさ 雲帆」「烟寺晩鐘」「漁村返照」「江天暮雪」である。 ゅめどの やすだゆきひこ す。現在、前者は、神戸の小寺氏所蔵、後者は、東京国一三九 ( 1 ) 夢殿安田靱彦の「夢殿」。一一等賞を受けた作品。 立博物館に所蔵されている。題名の瀟湘八景とは、中国 現在東京国立博物館に所蔵されている。夢殿は、法隆寺 の湖南省にある洞庭湖の南岸に流れこむ浦・湘ふたつの 東院 ( 上宮王院 ) の本堂で、天平十一年 ( 739 ) 行信僧 河の周辺の八つの景勝のこと。 都が聖德太子の冥福を祈って創建したものと伝えられる。 しようとくたいし はつけよ ( 2 ) 聖徳太子飛鳥時代 ( 六、七世紀 ) の政治家。 ( 9 ) 八景好いや二つの「八景」が並べられて出来 具合を竸っているのを相撲にみたてて、行司の掛声の 仏教にあっく、法隆寺などを創建した。夢殿の秘仏とし 「八卦良いや」とかけてしゃれた。 て有名な本尊の観世音菩薩は、聖徳太子自作の等身像と幻 どうてい いわれる。安田靱彦の「夢殿」には、坐って冥想してい ( 四洞庭の名月広業の「瀟湘八景」の内の一枚。

6. 夏目漱石全集 10

注 郷・小石川・四谷・牛込区など、すなわち現在の文京・ ( 6 ) 高商当時、神田区一橋通町 ( 現在の千代田区 新宿区などの地区を称した ) の外側、すなわち、現在の 神田一ッ橋 ) にあったス東京 ) 高等商業学校」の略称。 北・豊島・中野区など ( 当時は郡部であった ) をさす。 のち、「東京商科大学」と改称、昭和一一十四年 ( 】 949 ) 以 いかっ 一 0 ( 1 ) 快豁ふつう「快活」と書くが、「豁」は、胸を 後、一ッ橋大学となり、東京都北多摩郡国立町 ( 現在の 打ちひらいたさまをいう。 国立市 ) に移転した。 すそ 一一 ( 1 ) 赤い裾赤い布で縁をつけた蚊帳の裾。 ( 7 ) 富士へ登って漱石は明治二十年 ( 1887 ) 夏、 しぼ 親友中村是公と富士山に登り、同二十四年 ( 一 891 ) 夏 ( 東一一一 ( 1 ) 絞り絞り染めに似た模様の花が咲く朝顔の品 種。 京帝国大学一学年在学中 ) にも是公および山川信次郎と 再登山している。一一三ページに出てくる富士登山の回想 ( 2 ) 敷島明治三十七年、専売制実施後最初に発売 された四種の巻きたばこの一種。 は、これらの経験がもとになっていると思われる。 ごてんは はしごたん ( 8 ) 御殿場静岡県御殿場市。富士山の東南のふも ( 3 ) 階子段ふつう「梯子段」と書く。 ひさし とにあり、富士登山東ロとなっている。なお、当時の東 三 ( 1 ) 廂「廂髪」の略。前髪と鬢とを前方へ出して結 海道本線は、現在の国府津ー沼津の区間が未開通であっ う東髪。明治三十七年頃から流行した西洋風の髪型。 たため、現在の御殿場線を通っていた。 ( 2 ) 手絡髪の根もとにかける布。 くるめがすり ひらのすい 〈 ( 1 ) 久留米絣福岡県久留米市地方で作られる ( 3 ) 平野水炭酸水 ( ソーダ ) の旧通称。 flannel ( 英 ) 。紡毛糸で織ったや ( 2 ) フランネル 一四 ( 1 ) 意地見るふつう「苛める」と書く。 あいだら こ、ろやす わらかい織り物。 ( 2 ) 心易だてで親しい間柄であるので遠慮なく。 おりせつ ( 3 ) 折節ふつう「おりふし」と読む。 一五 ( 1 ) 貞漱石は明治四十四年 ( こニ ) 五月、家事手伝 ふさ 九 ( 1 ) 見付けて「めつけて」と発音する。「みつけて」 をしていた妻の従妹山田房及び西村濤蔭の妹梅を親代り の江戸なまり。 となって続けて結婚させているが、この貞の結婚には、 ( 2 ) 山の手を通り越した郊外山の手 ( 当時の本 その時の経験が生かされているものと思われる。 395

7. 夏目漱石全集 10

ったから 平田松堂の「木 ( ど大きな松に蔦が絡んで : 々の秋」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。この時褒状を受けた 乍ーロロ 0 きり 広江霞舟の「白い雨」 ) 大きな桐の葉を : をさす。褒状を受けた作品。 いきいきとした感じがなく、着物の紋 ( ) 雀の紋 にかかれたみたいな雀をいったものか。 ももやま 三一一六 ( 1 ) 桃山式桃山時代 ( 豊臣秀吉の時代 ) におこな われた絵画・建築などの様式のことで、その作風は一般 に豪華・壮麗を特色とし、絵画では金箔地に泥絵の具で 描く手法がさかんにおこなわれた。 とみたけいせん うぶね ( 2 ) 鵜船富田渓仙の「鵜船」。褒状を受けた作品。 ( 3 ) 二枚折の屏風佐野一星の「ゆきそら」 ( 二曲 屏風半双 ) をさす。褒状を受けた作品。 いけだしようえん しかたくさんいた池田蕉園の「ひ ( 4 ) 美くし、女。 ともしごろ」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。褒状を受けた作品。 てんによ ( 5 ) 天女飛田周山の「天女の巻」をさす。褒状を 受けた作品。絵巻物式に描かれている。 かちどき ( 6 ) しやもを蹴合わせていた尾竹国観の「勝鬨」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。褒状を受けた作品。 ( 7 ) 不可思議なもの都路華香の「豊兆」 ( 六曲屏 こっかん 風一双 ) をさす。褒状を受けた作品。題名は、豊作、ま たは豊漁の前兆、という意味である。 いまむらしこう おうみはつけい ( 8 ) 近江八景今村紫紅の「近江八景」。一一等賞作 品。現在、東京国立博物館に所蔵されている。 かのう ( 9 ) 狩野日本画の一派「狩野派ーの略。室町後期 もとのぶ かのうまさのぶ の画家狩野正信が創始、その子元信が画風を確立、以後、 えいとくたんゅう 永徳・探幽などの名人が活躍、江戸末期まで画壇の中心 勢力をなした。 しじよう ( 四四条日本画の一派「四条派」の略。江戸後期 の京都の画家松村月渓 ( 四条通りに住み、呉春と号し た ) が創始、京都画壇の主流をなした。 ( Ⅱ ) 美術院派日本画家を中心とする美術団体「日 本美術院派」の略。明治三十一年 ( 1898 ) 、東京美術学 校長を辞職した岡倉天心を中心に、同時にやめた橋本雅 邦・横山大観・下村観山ら十七名の教職員により結成さ れたもので、毎年院展を開催、日本画壇の革新的・在野 的勢力として、日本画の近代性を推進した。 しか 三一一七 ( 1 ) たくさんの鹿を並べて木島桜谷の「草葉の 山」をさす。第五回 ( 明治四十四年 ) の文展に出品、二 等賞を受けた。 ( 2 ) 寒月木島桜谷の「寒月」 ( 六曲屏風一双 ) 。ニ 422

8. 夏目漱石全集 10

注 際に、角に刀を結びつけ尾に点火し、敵陣へ突進させた 牛のこと。 とま もちづききんぼう からすさぎ ( 烏と鷺が松の木に留っていた望月金鳳 ( 審 番員 ) の「松上烏鷺図」をさす。 さくまてつえん まっくろ 『三五 ( 1 ) 大きな真黒な松が生えていた佐久間鉄園 ( 審査員 ) の「茂松清泉図」をさす。 佐竹永陵の「夏景山水・冬 ( 2 ) 山水の景色が : 景山水」をさす。この時の三等賞作品。 あらきじつば りすぶどう ( 3 ) 栗鼠が葡萄の幹を渡っていた荒木十畝 ( 審査 員 ) の「葡萄」をさす。 ( 4 ) 二等賞を捧げたい文展には毎回一等賞の該当 者がなく、二等賞が最高であったので、こう言った。 いけがみしゅうほ また ( 5 ) 木の股に鳥がたくさんいた池上秀畝の「梢 の秋」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。この時の三等賞作品。 おがたげつこう そう みつけ ( 6 ) 象がいて、見付があって尾形月耕の「山王 祭図」をさす。この時の三等賞作品。現在東京国立博物 館に所蔵されている。見付は城の外門。江戸城周囲には 四谷見付・赤坂見付などの見付があり、現在も地名とし て残っている。 さんのうまつり ( 7 ) 山王祭千代田区永田町にある日枝神社のこと を「山王様」と称し、この神社の祭礼は、神田の神田祭、 つの 浅草の三社祭とともに江戸三大祭といわれた。祭列を将 軍の上覧に供したことから「御上覧祭」「御用祭」など ともいわれた。 びようふ 芝景川の「稲の浪」 ( 六 ( 8 ) 屏風に稲の穂が・ 曲屏風一双 ) をさす。この時褒状を受けた作品。 おたけちくは ( 9 ) 天孫の降臨があった尾竹竹坡の「天孫降臨」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。 ( ) 天孫日本神話にでてくるニニギノミコトに対 する呼び名。アマテラスオオミカミの命令を受け、ニニ たかまがはらひゅう ギノミコトが日本国土をおさめるために、高天原から日 がたかちほ 向の高千穂の峰に降ったということを天孫降臨という。 はなやしき あさくさ ( Ⅱ ) 浅草の花屋敷浅草公園の遊園地の名称。菊人 形の見せ物もあった。 だん当ざか ゃなか 龜 ) 谷中の団子坂谷中は台東区の地名で野公園 の北側になる。団子坂は文京区駒込千駄木町にあり、そ こから谷中方角へ通じる坂で、明治末期まで、毎年秋に なると両側に菊人形を陳列し、見物客でにぎわった。 ( 当昔の男が四五人立っていた結城素明の「甲 ふたる馬」 ( 六曲屏風一双 ) をさす。この時褒状を受け よろいかふと た作品。戦災で焼失した。題名は、甲・胄で武装した軍 馬の意味。 4 幻

9. 夏目漱石全集 10

注 にはたいてい插し絵がなかった。 ( 8 ) 名倉君名倉聞一。当時、東京朝日新聞社員。 三四三 ( 1 ) 渋川氏渋川柳次郎。号、玄耳。東京朝日新聞 社の社会部長。 ( 2 ) 与謝野の妻君詩人与謝野鉄幹の夫人晶子。明 治四十五年 ( 1912 ) 夏、鉄幹が遊学していた。ハリに遊び、 十月帰国。翌大正一一年 ( 1913 ) 二月「新小説ーに「帰っ てから」を書いたが、四月に四男アウギュストが生れた ので「朝日新聞」との約東が延期となり、五月に夫婦紀 行文集『巴里より』を単行本として出版、六月になって 小説「明るみへ」を「朝日新聞」に掲載した。中勘助の 「鰥の匙」は、「行人」とこの「明るみへ」との間を埋め るために掲載された。 ( 3 ) お寺中勘助は、このころ上野寛永寺山内真如 院の僧房を借りて住い、小説修業に励んでいた。 三四四 ( 1 ) 予告大正一一年 ( 1913 ) 四月七日に「銀の匙」 の予告 ( 作者のことば ) が「行人」の休載前最終回とい っしょに掲載され、小説は翌八日から六月四日までにわ たって連載された。 これに相当するも ( 2 ) 小生第一回の冒頭に : のは掲載されなかった。 三四五 ( 1 ) 光風会黒田清輝主宰の白馬会が明治四十三年 ( 1910 ) に解散したため、中沢弘光・三宅克己ら一部の 同志によって明治四十五年 ( 1912 ) に創設された洋画家 グループ。漱石は大正二年 ( 1913 ) 三月九日にこの展覧 会を見物した。 ( 2 ) 有島君有島生馬。本名、壬生馬。明治十五年 ( 1882 ) 生れ。小説家・洋画家。小説家有島武郎の実弟。 明治三十八年 ( 1905 ) から五年間ヨーロツ。 ( に留学。帰 国後、「白樺」同人として活躍、大正二年 ( 1913 ) 二科会 創立に参与した。 ( 3 ) 一つ半になる女子漱石の五女雛子のこと。明 治四十一二年 ( 一 910 ) 三月に生れ、翌年十一月に死んだ。 はじめ、小日向 ( 文京区 ) の本法寺 ( 夏目家の菩提寺 ) に埋葬したが、のち、雑司ヶ谷 ( 豊島区 ) の公営墓地に 移し、そのさい漱石が自分で小さい墓標を書いた。なお、 この手紙で津田青楓に設計を依頼した墓石は作られなか っこ 0 ( 4 ) 戸川明一一一明治三年ー昭和十四年 ( 1870 ー】 939 ) 。 英文学者。号、秋骨。明治学院で島崎藤村らと同期。の ち、慶応義などで英文学を講義した。 三四六 ( 1 ) いかゞに御座候ふや「銀の匙」は「那迦」の 427

10. 夏目漱石全集 10

生まれ。本名、亀次郎。はじめ日本画を学び、のち、浅 井忠らに洋画を学ぶ。大正二年 ( 1913 ) 二科会創立に参 加、昭和八年 0933 ) 脱会して日本画に転向した。南画 風の水彩画に熱中した晩年の漱石にとってもっとも親し い画友であった。 「行人」続稿について 三四 0 ( 1 ) 「行人。の残部「行人」は大正元年 ( 一日 2 ) 十 二月から「朝日新聞」に連載されたが、胃潰瘍再発のた め、翌年四月七日で中絶、その残部の続稿「塵労」は同 年九月十六日から連載された。 ( 2 ) 「明るみへ」大正一一年 ( 】 9 こ ) 六月五日から百 回にわたり「朝日新聞」に連載された与謝野品子の小説。 これのあとすぐ「行人」にひきつがれた。 書簡 三 3 一 ( 1 ) 森成麟造修善寺大患の際に、長与胃膓病〕院の 医員として漱石の看護にあたった人。 北国名産のズワイガニをさす。「行人」 ( 2 ) かに ( 兄 ) 第九章 ( 本巻七四ページ上段 ) に使われている。 りようあん ( 3 ) 諒闇天皇が父母の喪に服する期間 ( 一か年 ) 。 ここは、明治天皇の死による喪期。 さ。、あめ ( 4 ) 笹飴新潟県高田市の名産。 ( 5 ) ガンギ「雁木造り」の略。道路に面した家の軒 ひさし から庇を長く張り出し、その下を道路としたもので、雪 国の町に見られる。 四二五・ヘ 1 ジ三一元 ( 1 ) 参照。 ( 6 ) 津田亀次郎 さうく 三四一一 ( 1 ) 喪狗喪中の家の犬。 ( 2 ) 山本松之助当時、東京朝日新聞社員。 「行人」第三編。大正二年 ( 19 ( 3 ) 「帰ってから」 13 ) 四月七日、「行人」は、この編の最後で休載となっ こ 0 ( 4 ) 二つの作後出の中勘助の小説と前出の津田青 楓の小説をさすと思われる。 ( 5 ) 中勘助明治十八年ー昭和四十年 ( 1885 ー 1965 ) 。 小説家・詩人。東京府立四中・一高・東京帝国大学英文 科に学び、のち国文科に転じて、明治四十二年卒業。 おひたちき ( 6 ) 追立記ふつう「生立記」と書く。勘助の処女 小説「銀の匙」をさす。このとき漱石の推で「東京朝 日新聞」に前編が連載された。 ゑいりせうせつ ( 7 ) 絵入小説当時の新聞は現代とちがって、講談 や大衆的通俗小説には插し絵を入れたが、純文学的作品 イ 26