「だってそりや無理よ二郎さん。妾馬鹿で気が付かな いから、みんなから冷淡と思われているかもしれない ・けれど、これでまったくできるたけのことを兄さんに 対してしている気なんですもの。ーー妾やほんとうに ぬけがら 腑抜なのよ。ことに近ごろは魂の抜殻になっちまった んだから」 「そう気を腐らせないで、もう少し積極的にしたらど 自分は経験のあるある年長者から女の涙に金剛石は 「積極的ってどうするの。お世辞を使うの。妾お世辞ほとんどない、たいていは皆ギャマン細工たとかって だいきら 教わったことがある。その時自分はなるほどそんなも は大嫌いよ。兄さんもお嫌いよ」 うれ 「お世辞なんか嬉しがるものもないでしようけれども、のかと思って感心して聞いていた。けれどもそれは単 - 」とば もう少しどうかしたら兄さんも幸福でしようし、姉さに言葉のうえの知識にすぎなかった。若輩な自分は嫂 しあわ かれんた んも仕合せだろうから : : : 」 の涙を目の前に見て、なんとなく可憐に堪えないよう よござ あね 「宜御座んす。もう伺わないでも」と言った嫂は、そな気がした。ほかの場合なら彼女の手を取ってともに 泣いてやりたかった。 の言葉の終らないうちに涙をぼろ / ~ 、と落した。 「妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんにはお気に入らな 「そりや兄さんの気なずかしいことは誰にでも解って わたくし しんぼう いでしよう。しかし私はこれで満足です。これでたくます。あなたの辛抱も並大抵じゃないでしよう。 けれ だれ さんです。兄さんについて今までなんの不足を誰にも ども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎる こうしよう 言ったことはないつもりです。そのくらいのことは二ほど正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です : : : 」 ふぬけ 郎さんもたいてい見ていて解りそうなもんたのに : と ! あによめ 泣きながら言う嫂の言葉は途切れ / \ にしか聞こえ なかった。しかしその途切れ / イ \ の言葉が鋭い力をも こた って自分の頭に応えた。 なみたいてい ざいく ダイヤ 月 2
笹ようという気はむろんありませんでした。だからな兄さんの頭はその時分から少しほかの人とは変ってい んにも言わずに黙って煙草を吹かしていたのです。しました。兄さんはうか / \ と散歩をしていて、ふと自幻 、かしそこに純粋な誠があ 0 たのかもしれません。兄さ分が今歩いていたなという事実に気が修くと、さあそ んはその誠を私の顔に読んだのでしようか。 れが解すべからざる間題になって、考えすにはいられ ちがい 私は兄さんと砂浜の上をのそり / \ と歩きました。 なくなるのでした。歩こうと思えば歩くのが自分に違 く ・歩きながら考えました。兄さんは早晩宗教の門を潜っ なしが、その歩こうと田 5 うしと、歩く力とは、はたし おちっ てはじめて落付ける人間ではなかろうか。もっと強 いてどこから不意に湧いて出るか、それが兄さんには大 いなる疑間になるのでした。 言葉で同じ意味を繰り返すと、兄さんは宗教家になる こと ! ために、今は苦痛を受けっゝあるのではなかろうか。 二人はそんなことから神とか第一原因とかいう言葉 をよく使いました。今から考えると解らすに使ったの 三十四 でした。しかしロの先で使い慣れた結果、しまいには 「君近ごろ神というものについて考えたことはない 神もいっか陳腐になりました。それから二人とも申し あわ 合せたように黙りました。黙ってから何年目になるで 私はしまいにこういう質間を兄さんに掛けました。 しよう。私は静かな夏の朝の、海という深い色を沈め , 私がこ、でとくに「近ごろ」と断 0 たのは、書生時代る大きなの前に立 0 て、兄さんと相対しつ & 、再び ふたり の古い回想から来たものであります。その時分は二人神という言葉を口にしたのであります。 しかし兄さんはその言葉をまったく忘れていました。 ともまだ考えの纏まらない青二才でしたが、それでも けしき ふけ 私は思索に耽りな兄さんと、よく神の存在について思い出す気色さえありませんでした。私の質間に対す かす くちびるはし うんぬん . 云々したものであります。ついでたから申しますが、 る返事としては、たヾ微かな苦笑があの皮肉な唇の端 わか
砕な事実を訴えの材料にしない彼女は、ほとんど自分 自分は明日にも番町へ行って、母からでもそっと彼 の要求を無視したように取り合わなかった。自分は結等二人の近况を聞かなければならないと思った。けれ 果からいうと、焦慮されるために彼女の訪問を受けた ども嫂はすでに明言した。彼等夫婦関係の変化につい なんびと と同じことであった。 ては何人もまた知らない、 また何人にも告げたことが 彼女の言葉はすべて影のように暗かった。それでい ないと明言した。影のような稲妻のような言葉のうち ひらめを て、稲妻のように簡潔な閃を自分の胸に投げ込んた。 からその消息をぼんやりと焼き付けられたのは、天下 自分はこの影と稲妻とを綴り合せて、もしゃ兄がこの に自分の胸がたった一つあるばかりであった。 かんべき : う あいだじゅう癇癖の嵩したあげく、嫂に対して今まで なぜあれほど言葉の寡ない嫂が自分にたけそれを話 おちっ にない手荒なことでもしたのではなかろうかと考えた。したしたのだろうか。彼女は平生から落付いている。 ちょうもやく せつかん こうふんきよく 打擲という字は折襤とか虐待とかいう字と並べてみ今夜も平生のとおり落付いていた。彼女は勗奮の極訴 ると、忌わしい残酷な響を持っている。嫂は今の女だえるところがないので、わざ / \ 自分を訪うたものと から兄の行為をまったくこの意味に解しているかもしは思えなかった。だいち訴えという言葉からしてが彼 にあい れない。自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女女の態度には不似合であった。結果からいえば、自分 は人間たからいつどんな病気に罹るかもしれないと冷はさっき言ったとおりむしろ彼女から焦慮されたので けねん かに言ってのけた。自分が兄の精神作用に掛念があつあるから。 ひばち てこの間を出したのは彼女にも通じているはずである。 彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「なぜそう堅 くる したがって平生よりもなお冷淡な彼女の答は、美しい 苦しくしていらっしやるの」と聞いた。自分が「べっ むち 己れの肉に加えられた鞭の音を、夫の未来に反響させだん堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は ふくしゅう こわ る復讐の声とも取れた。 自分は怖かった。 「だって反っ繰り返ってるじゃありませんか」と笑っ おの いなすま ひゞき ひやゝ らふたり かえ かた 212
「絶対に所有していたのだろう」と私はすぐ言い直し象とがびたりと合えば、君の言うとおりになるじゃな し力」 ました。今度は兄さんも笑いませんでした。しかしま 「そうかな」 だなんとも答えません。口を開くのはやはり私の番で こ、ろもと 1 しこ 0 兄さんは心元なさそうな返事をしました。 「君は絶対々々と言って、このあいだむすかしい議論「そうかなって、君は現に実行しているじゃないか」 めんどう 「なるほど」 をしたが、なにもそう面倒な無理をして、絶対なんか ぼうん 兄さんのこの言葉はやはり茫然たるものでした。私 オしか 0 あゝい、つふ、つに解一に にはいる必要はないじゃよ、 はこの時ふと自分が今までよけいなことを言っていた 見惚れてさえいれば、少しも苦しくはあるまいがね。 ます絶対を意識して、それからその絶対が相対に変るのに気が付きました。実をいうと、私は絶対というも せつな 刹那を捕えて、そこに二つの統一を見出すなんて、ずのをまるで知らないのです。考えもしなかったのです。 かげ ほねお いぶん骨が折れるたろう。第一人間にできることかな想像もした覚がないのです。たゞ教育のお蔭でそうい う言葉を使うことだけを知っていたのです。けれども んだかそれさえ判然しやしない」 私は人間として兄さんよりも落付いていました。落付 兄さんはまだ私を遮ろうとはしません。いつもより えら おちっ いているということが兄さんより偉いという意味に聞 はだいぶ落付いているようでした。私は一歩先へ進み めんぼく こえては面目ないくらいなものですから、私は兄さん ました。 より着通一般に近い心の状態を有っていたと言い直し 「それより逆に行ったほうが便利じゃないか」 むか 一ら′ゅ - っ ましよう。朋友として私の兄さんに向って働き掛ける 「逆とはー 仕事は、だからたヾ兄さんを私のような人並な立場に こう聞き返す兄さんの目には誠が輝いていました。 もど 「つまり蟹に見惚れて、自分を忘れるのさ。自分と対引き戻すたけなのです。しかしそれを別な言葉で言っ さえぎ みいた おぼえ 284
そういう種類の不安を、生れてからまだ一度も経験しから汽車、汽車から自動軣それから航空船、それか たことのない私には、理解があっても同情は伴いませら飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。ど わか んでした。私は頭痛を知らない人が、割れるような痛こまで伴れていかれるか分らない。実に恐ろしい」 みを訴えられた時の気分で、兄さんの話に耳を傾けて 「そりや恐ろしい」と私も言いました。 いました。私はしばらく考えました。考えているうち 兄さんは笑いました。 おぼろげ 「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使 に、人間の運命というものが朧気ながら目の前に浮か さしつかえ んできました。私は兄さんのために好い尉謝を見出し っても差支ないという意味だろう。実際恐ろしいんし たと思いました。 ゃないだろう。つまり頭の恐ろしさにすぎないんだろ 「君のいうような不安は、人間全体の不安で、なにもう。 僕のは違う。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打っ 君一人だけが苦しんでいるのじゃないと覚ればそれま活きた恐ろしさだ」 るてん でしゃないか。つまりそう流転してゆくのが我々の運私は兄さんの言葉に一毫も虚偽の分子の交っていな 命なんたから」 いことを保証します。しかし兄さんの恐ろしさを自分 ことば 私のこの言葉はぼんやりしているばかりでなく、すの舌で甞めてみることはとてもできません。 なまぬ こぶる不快に生温るいものでありました。鋭い兄さん「すべての人の運命なら、君一人そう恐ろしがる必要 の目から出る軽侮の一暼とともに葬られなければなり がない」と私は言いました。 ませんでした。兄さんはこう言うのです。 「必要がなくても事実がある」と兄さんは答えました。 「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まるこそのうえ下のようなことも言いました。 とを知らない科学は、かって我々に止まることを許し「人間全体が幾世紀かの後に到着すべき運命を、僕は くるま てくれたことがない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから ひとり ー . ち・こう ひとり
ある。 はれ 今直はお前に忽てるんじゃないかー 兄の言葉は突然であった。かっ普通兄の有っている品格にあたいしなかった。 「どうして」 「どうしてと聞かれると困る。それから失礼だと怒られてはなお困る。なにも文を拾ったとか、 おもてむき 接吻したところをみたとかいう実証から来た話ではないんだから。ほんとういうと表向こんな愚 おれ 劣な間を、いやしくも夫たる己が、他人に向って掛られた訳のものではない。ないが相手がお前 だから己も己の体面を構わすに、聞きにくい所を我慢して聞くんだ。だから言ってくれ」 あによめ ねえ 「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、ことに現在の嫂ですぜ」 自分はこう答えた。そうしてこう答えるより外になんという一言葉も出なかった。 「それは表面の形式からいえば誰もそう答えなければならない。お前も普通の人間だからそう 答えるのが至当だろう。 ( 略 ) 形式上の答えは己にも聞かさないさきから解っているが、たゞ聞 きたいのは、もっと奥の奥の底にあるお前の感じだ。そのほんとうのところをどうそ聞かしてく れ」》 ( 「兄」十八 ) ふみ 88 イ
いわく言いがたい不可解な気分が最後までつきまとう。二郎自身にその気 てあるとは一言いがたし があろうとなかろうと、彼は兄からこの嫂を奪う結果にな 0 たかもしれない。単なる衝動からそう いっそそのほうが、という理由だってなかったとは言い切れまい。しかし なったかもしれないし、 作者は「そのほんとうのところ」を ( ッキリとは書いていない。その代りに、もっともっと恐ろし い事をさりげなく書いているのである。 《自分は、自分にもっと不親切にして構わないから、兄のほうにはもう少し優しくしてくれろ と、頼むつもりで嫂の目を見た時、また急に自分の甘いのに気が付いた。嫂の前へ出て、こう差 しんそこ し向いに坐ったが最後、とうてい真底から誠実に兄のために計ることはできないのだとまで思っ た。自分は言葉には少しも窮しなかった。どんな言語でも兄のために使おうとすれば使われた。 けれどもそれを使う自分の心は、兄のためでなくってかえって自分のために使うのと同じ結果に なりやすかった。自分は決してこんな役割を引き受けべき人格でなかった。自分はいまさらのよ うに後悔した》 ( 「兄」三十一 ) 嫂の心をためせ、と命じられて出てきた二郎は、結局嫂の心には十分はいり込むことができぬま ま、他でもない自分の心をためすことになるのである。それにしても、人間は言葉には少しも窮し
作品 《「二郎己はお前を信用している。お前の潔白なことはすでにお前の言語が証明しているそ れに間違はないだろう 「ありません」 「それでは打ち明けるが、実は直の節操をお前に試してもらいたいのだ」 自分は「節操を試す」という言葉を聞いた時、ほんとうに驚いた。当人から驚くなという注意 ほうぜん が二遍あったにかゝわらす、非常に驚いた。たゞあっけに取られて、呆然としていた》 ( 「兄」二 十四 ) 人間の心ははかり知れす恐ろしいものだということは、凡俗の私どもでも知っている。ただふだ んはそれを忘れて暮らしているのである。兄の常軌を逸した申し出を「馬鹿らしい」とか「下らな い」とかいって撥ねつける二郎にしてもそうで、彼は静かに進行しつつあるらしい兄の狂気におび えこそすれ、その言葉の真の恐ろしさをここではまだ十分に味わってはいない。それを知るために は、彼は兄の言いつけ通り嫂と和歌山へ行って一晩泊ってこなければならないのである。偶然が二 人を暴風雨の宿に閉じ込める。二人は一つ部屋の一つ蚊帳の中に枕を並べて寝ることになるが、外 見はそれ以上の何が起こるわけでもない。だが二郎という一人の青年にとって、この体験はただそ れだけのことだろうか。嫂と義弟とのその夜の交渉に関しては、残念ながら手に取るように描かれ ため 387
こーこよ うして母の前に置いてあったさっきのプログラムを取 岡田の言葉のうちには多少の不服が籠っていたが、 同時に得意な調子もみえた。 って袂へ入れながら、「馬鹿々々しい、骨を折ったり調 「まるで大阪を自慢していらっしやるようよ。貴方の戯われたりーとわざ / ( 、怒ったふうをした。 じようたん 話を傍で聞いていると」 冗談がひとしきり済むと、自分の予期していたとお 、佐野の話が母の口から持ち出された。母は「この お亜さんは笑いながらこう言って真面目な夫に注意 たびはまたいろ / 、」といったような打って変った儿 しかつめ ちょうめん 「いえ自慢じゃない。自漫しゃよ、 帳面な言葉で岡田に礼を述べる、岡田はまた鹿爪らし 注意された岡田はます / \ 真面目になった。それがく改まった口上で、まことに行き届きませんでなどと おおげさ あいさっ 少し滑稽に見えたので皆なが笑いだした。 挨拶をする、自分には両方とも大袈裟にみえた。それ かみがたふう 「岡田さんは五六年のうちにすっかり上方風になってから岡田はちょうど好い都合だから、ぜひ本人に会っ からか あわ しまったんですね」と母が調戯った。 てやってくれと、また会見の打ち合せをしはじめた。 「それでもよく東京の言葉だけは忘れすにいるじゃあ兄もその話のなかに首を突込まなくっては義理が悪い あとっ ひやか ふたり りませんか」と兄がその後に随いてまた冷嘲しはじめとみえて、煙草を吹かしながら二人の相手になってい た。岡田は兄の顏を見て、「久しぶりに会うと、すぐこ た。自分は病気で寐ているお貞さんにこの様子を見せ ありがた れたから敵わない。まったく東京ものはロが悪い」とて、有難いと思うか、よけいなお世話だと思うか、 一「ロった 0 んとうのところを聞いてみたい気がした。同時に三沢 あにき 「それにお重の兄たもの、岡田さん」と今度は自分が が別れる時、新しく自分の頭に残していった美しい精 口を出した。 神病の「娘さん」の不幸な結婚を連想した。 あいだがら あによめ 「お兼少し助けてくれ」と岡田がしまいに言った。そ 嫂とお兼さんは親しみの薄い間柄であったけれど あなた たもと す つつこ
三山居十 うに覚えている。余は生きた池辺君の最後の記念とし てその姿を永久に深く頭の奥に仕舞っておかなければ ならなくなったかと思うと、その時言葉を交わさなか なごりお ったのが、はなはた名残惜しく思われてならない。池 辺君はその時からすでに血色がたいへん悪かった。け れどもその時ならロを利くことが十分できたのである。 ( 明治四五・三・ 309