顔 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 10
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1. 夏目漱石全集 10

行人 には世の中で自分ほど修養のできていない気の毒な人「君でも一日のうちに、損も得も要らない、善も悪も 間はあるまいと思う。そういう時に、電車の中やなに考えない、たゞ天然のま、、の心を天然のま、顔に出し むこがわ かで、ふと目を上けて向う側を見ると、 いかにも苦のていることが、一度や二度はあるたろう。僕の尊いと いうのは、その時の君のことを言うんだ。その時に限 なさそうな顔に出っ食わすことがある。自分の目が、 きざ ひとたびその邪念の萠さないぽかんとした顔に注ぐ瞬るのた」 おぼっか 間に、僕はしみん ( \ 嬉しいという刺激を総身に受ける。 兄さんはこう言われても覚東なく見える私のために、 、ー ) こら ) にノ ゅうべふたり 僕の心は旱魃に枯れかゝった稲の穂が膏雨を得たよう 具体的な証拠を示してやるというつもりか、昨夜二人 よみが に蘇える。同時にその顔ーーー何も考えていない。まっ が床に入るまえの私を取ってきてその例に引きました。 おちつきはら はずみ けだか たく落付払ったその顏が、たいへん気高く見える。目兄さんはあのおり談話の機でつい興奮しすぎたと自白 そうさく が下っていても、鼻が低くっても、雑作はどうあろうしました。しかし私の顔を見たときに、その激した心 うけが とも、非常に気高く見える。僕はほとんど宗教心に近の調子がしだいに収まったというのです。私が肯おう ひざま とんじゃく い敬虔の念をもって、その顔の前に跪すいて感謝の意と肯うまいと、それには頓着する必要がない、たゞそ を表したくなる。自然に対する僕の態度もまったく同の時の私から好い影響を受けて、一時的にせよ苦しい もてあそ じことた。昔のようにたゞうつくしいから玩ぶという 不安を免かれたのたと、兄さんは断言するのです。 ん 心持は、今の僕には起る余裕がない」 その時の私は前言ったとおりです。たヾ煙草を吹か 兄さんはその時電車のなかで偶然見当る尊い顔の部して黙っていただけです。私はその時すべてのことを わたくし 類のうちへ、私を加えました。私は思いも寄らんこと忘れました。独り兄さんをどうにかしてこの不安の裡 たと言って辞退しました。すると兄さんは真面目な態から救ってあげたいと念じました。けれども私の心が 度でこう言いましこ。 兄さんに通じようとは思いませんでした。また通じさ かんばっ で ましめ たっと まぬ

2. 夏目漱石全集 10

人 行 お重を連れて三越へ出掛た。 あ澄まされたひにや、愛想を尽かされるだけだから」 とわざ / \ 罵しったことがある。すると伝に聞いてい たお貞さんが目を丸くして、「まあ非道いことを仰し ふたり それから二三日して、父のところへ二人ほど客が来やること、すいぶんね」と言ったので、自分も少し一言 こうさいすき た。父は生来交際好のうえに、職業上の必要から、だいすぎたかと思った。けれども烈しいお重は平生に似 でいり っとめ いぶ手広く諸方へ出入していた。公の務を退いた今日すまったく自分の言葉を気に掛ないらしかった。「見 しりあいかん でもその惰性だか影響たかで、知合間の往来は絶えるさんあれでも顔のほうはまだ上等なのよ。鼓ときたら あたし 間もなかった。もっとも始終顔を出す人に、それほどそれこそたいへんなの。妾謡のお客があるほど冊なこ ( 2 ) 有名な人も勢力家も見えなかった。その時の客は貴族とはないわ」とわざ / \ 自分に説明して聞かせた。お 院の議員が一人と、ある会社の監査役が一人とであつ重の顏ばかりに注意していた自分は、彼女の鼓がそれ ほど不味いとはそれまで気が付かなかった。 父はこの二人と謡のほうの仲善とみえて、彼等が来その日も客が来てから一時間半ほどすると予定のと るたびに謡をうたって楽んだ。お重は父の命令で、少おり謡が始まった。自分はやがてまたお重が呼び出さ けいこ おばえ : り 0 い しのあいだ鼓の稽古をした覚があるので、そういう時れることと思って、調戯半分茶の間の方に出ていった。 いっしようけんめい ( 3 ) かいせき懸んふ にはよく審の前へ呼び出されて鼓を打った。自分はそお重は一生懸命に会席膳を拭いていた。 こうまん きよう の高慢ちきな顔をまだ忘れずにいる。 「今日はポン / / 、鳴らさないのか」と自分がことさら まえ 「お重お前の鼓は好いが、お前の顔はすこぶる不味い に聞くと、お重は妙にとぼけた顔をして、立っている ね。悪いことは言わないから、嫁に行った当座は決し自分を見上けた。 ごていしゅうたいきちかい て鼓をお打ちでないよ。いくら御亭主が謡気狂でもあ「だって今御膳が出るんですもの。忙しいからって、 こ 0 ひとり うたい でかけ ら まず す っ わ 3

3. 夏目漱石全集 10

紙 手 かす どうも咽喉が渇いてと間接な弁解をした。 「たいぶ飲んだんだね」 懸んさ 食事が済んで下女が膳を下げたのは、もう九時近く 「えゝお祭りで、少し飲まされました」 であった。それでも重吉はまだ顔を見せなかった。自赤い顔のことは簡単にこれで済んでしまった。それ ざぶとん てすりもた 分はひとりで縁鼻へ座蒲団を運んで、手摺に靠れなが からどこをどう話が通ったか覚えていないが、三十分 むこうざしき ら向座敷の明るい電気燈や派出な笑い声を湿っぽい空ばかり経つうちに、自分も重吉もいつのまにか、いわ 気の中から遠く、 0 てらない心持を詰らないなりにゆる「あのこと」の内で受け答えをするようにな 0 こ 0 引摺るような態度で、煙草ばかり吹かしていた。そこ ふすまあ へさっきの下女が襖を開けて、やっと入らっしゃいま 「いったいどうする気なんだい」 あと したと案内をした。その後から重吉が赤い顔をして入「どうする気だって、 むろん貰いたいんですが ってきた。自分は重吉の赤い顔をこの時はじめて見た。ね」 あいさっ ことば けれども席に着いて挨拶をする彼の様子といし 、言葉「真剣のところを白状しなくっちや下可ないよ。好加 あげさげ げん 数といい、抑揚の調子といい、すべてが平生の重吉そ減なことを言って引張るくらいなら、いっそきつばり のま、であった。自分は彼の言語動作のいずれの点に今のうちに断るほうが得策だから。 きわだ も、酒気に駆られて動くのだと評してしかるべぎ際立「いまさら断るなんて、僕は御免たなあ。実際叔父さ った何物をも認めなかったので、異常な彼の顔色につん、僕はあの人が好きなんだから」 うそ ては、別 ~ 冫し 」こ、うところもなく済ました。しばらくし重吉の様子にどこといって嘘らしいところは見えな て彼は茶器を代えに来た下女の名を呼んで、洋盃に水かった。 を一杯呉れと頼んた。そうして自分の方を見ながら、 「じゃ、もっと早くどし / ( \ 片付けるが好いじゃな、 ひきす で、 コップ かわ ひつば 301

4. 夏目漱石全集 10

行 重のことを彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が 見ても、まあ十人並以上たろうと、仲の善くない自分 それからしばらくのあいだは、先生の顔を見ても、 にも思えたが、惜いことに、 このたいせつな娘さんと 三沢のところへ遊びに行っても、兄の話はいっこう話は、まるで顔の型が違っていた。 題に上らなかった。自分は少し安心した。そうしてな 自分の遠慮に引き換えて、彼は平気で自分に嫁の候 ( 1 ) と うち るべく家のことを忘れようと試みた。しかし下宿の徒補者を推挙した。「今度どこかでちょっと見てみない ぜん 然に打ち勝たれるのがなにより苦しいので、よく三沢か」と勧めたこともあった。自分ははじめこそ生返事 の時間を潰しにこっちから押し寄せたり、また引っ張ばかりしていたが、しまいは本気にその女に会おうと り出したりした。 思いだした。すると三沢は、まだ機会が来ないから、 じゅんぐり 三沢は厭きずにいつまでも例の精神病の娘さんの話もう少し、もう少し、と会見の日を順繰に先へ送って をした。自分はこの異様なおのろけを聞くたびに、き いくので、自分はまた気を腐らした末、ついにその女 まぼろし っと兄と嫂のことを連想しておのずから不快になった。の幻を離れてしまった。 ことば それで、時々またかという様子を色にも言葉にも表わ反対に、お貞さんのほうの結婚はいよ / 、事実とな あらわ ちかづ した。三沢も負けてはいなかった。 って現るべく、目前に近いてきた。お貞さんは相応の さしひき うちじゅう うぶ 「君も君のおのろけを言えば、それで差引損得なしじ年をしているくせに、宅中でいちばん初心な女であっ ひや ゃないか」などと自分を冷かした。自分はもうちっと た。これという特色はないが、なにを言っても、じき あいきよう で彼と往来で喧嘩をするところであった。 顔を赤くするところに変な愛嬌があった。 かけみ よふけ 彼にはこういうふうに、精神病の娘さんが、影身に 自分は三沢と夜更に寒い町を帰ってきて、下宿の冷 添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお たい夜具に潛り込みながら、時々お貞さんのことを のぼ あによめ あ つぶ 193

5. 夏目漱石全集 10

「じやどんな意味で延さないんです」 「宅しやもう氷を取るんですか」 わか にさんち 解ってるじゃありませんか」幻 「どんな意味って、 「えゝ二三日まえから冷蔵庫を使っているのよ 自分には解らなかった。 気のせいか嫂はこのまえ見た時よりも少し窶れてい た。頬の肉がこ & ろもち減ったらしかった。それがタ「僕には解らない」 あたしあいそ 方の光線の具合で、顔を動かす時に、ちらり / \ と自「兄さんは妾に愛想を尽かしているのよ」 「愛想づかしに旅行したというんですか」 分の目を掠めた。彼女は左の頬を縁側に向けて坐って 「い、え、愛想を尽かしてしまったから、それで旅行 いたのである。 でかけ に出掛たというのよ。つまり妾を妻と思っていらっし 「兄さんはそれでもよく思い切って旅に出掛けました こんだ やらないのよ」 ね。僕はことによると今度もまた延ばすかもしれない 「だから : : : 」 と思ってたんたが」 「だから妾のことなんかどうでも構わないのよ。だか 「延ばしゃなさらないわよ」 ら旅に出掛けたのよー 嫂はこういう時に下を向いた。そうしていつもより 嫂はこれで黙ってしまった。自分もなんとも言わな もいっそう落付いた沈んだ低い声を出した。 あが 「そりや兄さんは義理堅いから、さんと約東した以かった。そこへ母が風呂から上ってきた。 ちがい 「おやいっ来たの」 上、それを実行するつもりだったには違ないけれども いや 母は二人坐っているところを見て厭な顔をした。 「そんな意味じゃないのよ。そんな意味じゃなくって、 そうして延ばさないのよ」 自分はぼかんとして彼女の顔を見た。 ほお おちっ 「もう好い加減に芳江を起さないとまた晩に寐ないで ふたり

6. 夏目漱石全集 10

に人京したのである。 兼さんと話しているうちに、これなら岡田がわざ / 、 お兼さんは格子の前で畳んだ洋傘を、小さい包とい 東京まで出てきて連れて行ってもしかるべきだという っしょに、脇の下に抱えながら玄関から勝手の方に通気になった。 きまり むすめざかり り抜ける時、ちょっと極の悪そうな顔をした。その顔 この若い細君がまだ娘盛の五六年前に、自分はすで ひざかり ほてり は日盛の中を歩いた火気のため、汗を帯びて赤くなっ にその声も目鼻立も知っていたのではあるが、それほ ことば ていた。 ど親しく言葉を換わす機会もなかったので、こうして 「おいお客さまたよ」と岡田が遠慮のない大きな声を岡田夫人として改まって会ってみると、そう馴々しい 出した時、お兼さんは「たゞいま」と奥の方で優しく応対もできなかった。それで自分は自分と同階級に属 もちぬし ( 1 ) くるめがすり 答へた。自分はこの声の持主に、かって着た久留米絣する未知の女に対するごとく、畏まった言語をぼつぼ ( 2 ) じゅばん うれ やフランネルの襦袢を縫 0 てもらったこともあるのだっ使った。岡田はそれが可笑しいのか、または嬉しい よびおこ なとふと懐かしい記憶を喚起した。 のか、時々自分の顔を見て笑った。それだけなら構わ ( 3 ) おりせつ ないが、折節はお兼さんの顔を見て笑った。けれども お兼さんは澄ましていた。お兼さんがちょっと用があ めいりようおらっ お兼さんの態度は明瞭で落付いて、どこにも下卑た って奥へ立った時、岡田はわざと低い声をして、自分 おもかげ ひざ 家庭に育ったという面影は見えなかった。「二三日まの膝を突っつきながら、「なぜあいつに対して、そう改 こ、ろまち まち あいだがら えからもうお出たろうと思って、心待にお待申しておまってるんです。元から知ってる間柄じゃありません たゞ りました」などと言って、目の縁に愛嬌を漂よわせる か」と冷笑すような句調で言った。 ところなどは、自分の妹よりも品の良いばかりでなく、 「好い奥さんになったね。あれなら僕が貰やよかっ たちまさ 様子もいくぶんか立優ってみえた。自分はしばらくおた」 わき こうもり にさんち つ、み ひやか

7. 夏目漱石全集 10

へや うれ 下の室に入った。そうしてそこに芳江を傍に引き付けだの嬉しいことがありそうだのって、い ろー / \ のこと あによめみいだ はす ている嫂を見出した。 を言うから、向うでも恥かしがるんです。今も二階で 顔を赤くさせたばかりのところだもんだから、すぐ逃 うまっき げ出したんです。お貞さんは生れ付からして直とはま 食卓の上で父と母は偶然またお貞さんの結婚間題をるで違ってるんだから、こっちでもそのつもりで注意 しろちりめんおりや 話頭に上せた。母はかねて白縮緬を織屋から買っておして取り扱ってやらないと不可ません : ・ : ・」 いたから、それを紋付に染めようと思っているなどと 兄の説明を聞いた母ははじめてなるほどと言ったよ あによめ 言った。お貞さんはその時みんなの後に坐って給仕をうに苦笑した。もう食事を済ましていた嫂は、わざと めづかい していたが、急に黒塗の盆をおはちの上へ置いたなり自分の顏を見て変な目遣をした。それが自分には一種 席を立ってしまった。 の相図のごとく見えた。自分は父から評されたとおり 自分は彼女の後姿を見て笑いだした。兄は反対に苦だいぶ堂摺連の傾きを持っていたが、この時は父や母 はゞか こう い顔をした。 に憚って、嫂の相図を返す気は毫も起らなかった。 まえ 「二郎お前がむやみに調戯うから不可ない。あいう 嫂は無言のま、すっと立った。室の出口でちょっと ( 1 ) おぼこ ( 2 ) 乙女にはもう少しデリカシーの籠った言葉を使って振り返って芳江を手招きした。芳江もすぐ立った。 きよう やらなくっては」 「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞 ( 3 ) どうするれん 「二郎はまるで堂摺連と同じことだ」と父が笑うよう いた。芳江はそこに立ったま & 、どうしたものだろう ひとり なまた窘なめるような句調で言った。母だけは一人不かと思案する様子に見えた。嫂は「おや芳江さん来な おとな 思議な顔をしていた。 いの」とさも大人しやかに言って廊下の外へ出た。今 ちゅうちょ 「なに二郎がね。お貞さんの顔さえ見ればお目出とうまで躊踏していた芳江は、嫂の姿が見えなくなるやい のぼ むこ ノ 46

8. 夏目漱石全集 10

行 ・こだん 間にもこれほど病人があり得るものかとわざと驚いた 三沢は看護婦から病院のという助手の話を聞かさ ひま ような顏をして、彼等の様子を一順見渡してから、梯れていた。この < さんは夜になって閑になると、よく ねとま 子段に足を掛けた。自分が偶然あの女を見出だしたの尺八を吹く若い男であった。独身もので病院に寝泊り はまったくこの一瞬間にあった。あの女というのは三をして、室は三沢と同じ三階の折れ曲った隅にあった。 沢があの女 / 、と呼ぶから自分もそう呼ぶのである。 このあいだまで始終上履の音をびしゃ / \ いわして歩 すみ あの女はその時廊下の薄暗い腰掛の隅に丸くなって いていたが、この二三日まるで顔を見せないので、三 あらいがみくしまき うわさ 横顔だけを見せていた。その傍には洗髪を櫛巻にした沢も自分も、どうかしたのかねぐらいは噂し合ってい 背の高い中年の女が立っていた。自分の一暼はまずそたのである。 看護婦は << さんが時々跛を引いて便所へ行く様子が の女の後姿の上に落ちた。そうしてなんたかそこにぐ としまむこ ずぐすしていた。するとその年増が向うへ動きだした。可笑しいと言って笑った。それから病院の緝護婦が時 かなだらい あの女はその年増の影から現われたのである。その時時ガーゼと金盥を持ってさんの部屋へ入ってゆくと ころを見たとも言った。三沢はそういう話に興味があ あの女は忍耐の像のように丸くなってじっとしていた。 ぶあいきよう くもんあと けれども血色にも表情にも苦悶の迹はほとんど見えなるでもなく、またないでもないような無愛嬌な顔をし かった。自分は最初その横顔を見た時、これが病人のて、たゞ「ふん」とか「うん」とか答えていた。 顔だろうかと疑った。たヾ胸が腹に着くほど背中を曲彼はまた自分にいつまで大阪にいるつもりかと聞い げているところに、恐ろしい何物かが潜んでいるよう た。彼は旅行を断念してから、自分の顔を見るとよく に思われて、それがはなはだ不快であった。自分は階こう言った。それが自分には遠慮がましくかっ催促が ようう 段を上りつ \ 「あの女」の忍耐と、美しい容貌の下にましく聞こえてかえって厭であった。 包んでいる病苦とを想像した。 「僕の都合で帰ろうと思えばいつでも帰るさ」 のぼ ら み へや スリッ《 よる びつこ

9. 夏目漱石全集 10

人 行 あと 嶮しい兄の目がすぐ自分の上に落ちた。自分はとうてていた。 「お前ほんとうに直と二人で和歌山へ行く気かい」 いこれでは約東を履行するよりほかに道がなかろうと また思い返した。 「え、、だって兄さんが承知なんですもの」 かあ 「そう / \ 姉さんと約東があったつけ」 「いくら承知でもお母さんが困るからお止しよ」 そらとぼ あいさっ 母の顔のどこかには不安の色が見えた。自分はその 自分は兄に対して、つい空惚けた挨拶をしなければ でどころ 不安の出所が兄にあるのか、または嫂と自分にあるか、 済まなくなった。すると母が今度は苦い顔をした。 ちょっと判断に苦しんた。 「和歌山は已めにお為よ」 「なぜです」と聞いた。 自分は母と兄の顔を見比べてどうしたものだろうと ちゅうちょ あによめ 躊躇した。嫂はいつものように冷然としていた。自分「なぜですって、お前と直と行くのは不可ないよ」 「兄さんに悪いというんですか」 が母と兄のあいだに迷っているあいだ、彼女はほとん いち・こん ど一言も口にしなかった。 自分は露骨にこう聞いてみた。 「直お前二郎に和歌山へ連れていってもらうはずだっ 「兄さんに悪いばかりじゃよ、 たね」と兄が言った時、隻よこヾ 女。ナ「え、」と答えただ 「じゃ姉さんだの僕だのに悪いというんですか , ぎよう けであった。母が「今日はお止しよ」と止めた時、嫂自分の間はまえよりなお露骨であった。母は黙って ねえ はまた「え、」と答えただけであった。自分が「姉さそこに佇すんでいた。自分は母の表情に珍らしく猜疑 んどうしますーと顧みた時は、また「どうでも好いわ」 の影を見た。 と答えた。 自分はちょっと用事に下へ降りた。すると母がまた 後から降りてきた。彼女の様子はなんたかそわ / \ し 自分は自分を信じ刧り、また愛し切っているとばか ふたり 3

10. 夏目漱石全集 10

( 4 ) なってるんだそうです」 話していた。この丸い小さな人がという公爵である あと うえしたむらさきじ ( 1 ) からくさ 幕の上下は紫地に金の唐草の模様を置いた縁で包んことを、自分が後で三沢から教わった。 であった。 その三沢は舞楽の始まるやっと五六分まえにフロッ まんなか 幕の前を見ると、真中に太鼓が据えてあった。そのクコ 1 トで遣ってきて、入口の金屏風の所でしばらく ちゅうちょ いろどり 太鼓には緑や金や赤の美しい色彩が施されてあった。 観覧席を見渡しながら躊踏していたが、自分の顔を見 そうして薄くて丸い枠の中に入れてあった。左の端に付けるやいなや、すぐ傍へ来て腰を掛けた。 ( 2 ) ひのし は火熨斗ぐらいの大きさの鐘がやはり枠の中に釣るし 彼と前後して一人の背の高い若い男が、年ごろの女 てあった。そのほかには琴が二面あった。琵琶も一一面を二人連れて、やはり正面席へはいってきた。男はフ あった。 ロックコートを着ていた。女はむろん紋付であった。 かおだち 楽器の前は青い毛氈で敷き詰められた舞をまう所にその男と伴の女の一人が顏立からいってよく似ている きようたい なっていた。構造は能のそれのように、三方の見所かので、自分はすぐ彼等の兄妹であることを覚った。彼 あいさっ らはまったく切り離されていた。そうしてその途切れ等は人の頭を五六列越して、三沢と挨拶を交換した。 あいきようた、 た四五尺の空間からは日も射し風も通うようにできて男の顔にはできるだけの愛嬌が湛えられた。女はこゝ ろもち顔を赤くした。三沢はわざ / \ 腰を浮かして起 のめす 立した。婦人はたいてい前の方に席を占めるので、彼 自分が物珍らしそうにこの様子を見ているうちに、 けんふつひとり 観客は一人二人と絶えす集まってきた。そのなかには等はついに自分達の傍へは来なかった。 ( 3 ) 「あれが僕の妻になるべき人だ」と三沢は小声で自分 自分がある音楽会で顔たけ覚えた Z という侯爵もいた。 きよう に告げた。自分は腹の中で、あの夢のような大きい黒 「今日は教育会があるので来られない」と細君のこと そば い目の所有者であった精神病のお嬢さんと、自分のニ かなにかを、傍にいた坊主頭の丸々と肥た小さい人に もうせん さ す こえ とぎ っ つれ や ら さと み 23 イ