説 出版として世にきこえているが、次のようなニ。ヒソー ドもある。それまで漱石の著書は春陽堂や大倉書店か ら出版されていたのたが、そこに岩波がわりこんで来 て、これまた出版させてほしいと頼みこんだ。漱石が ようやく承諾すると、勢いづいた岩波は、「それしゃ 吉田精一 先生、ついでに、ぜひとも、出版する費用を貸して下 「こ、ろ」は、大正三年四月二十日から八月十一日まさい」と言ったというのである ( 夏目伸六「岩波茂雄 さんと私」 ) 。 で、百十回、「東京・大阪朝日新聞」に連載された。 漱石は数え年四十八歳である。その年の九月、岩波書真偽のほどはともかく、漱石がはじめて自費出版の 店から出版された。これは自費出版の形式であり、最ような形式で出版したのは事実である。しかし漱石は 初の費用は一切夏目側でもち、岩波はそれを消却してこのことに興味をおぼえ、装幀その他一切を自分で考 行き、それがすんでから、半期半期に利益を計算して案した。支那古代の石鼓文の石摺からとった装幀はの それを折半する方法たったという。漱石の死後にはこちの漱石全集に何回も用いられ、漱石といえばすぐそ の共同出版の熕をすてて、ふつうの出版の形式にもどれを思うほど特色のあるものになった。 ( 八月九日、 ったというが、ともかく「こ、ろ」は、岩波書店の処橋ロ貢あて書簡〈三三一ページ参照〉 ) 女出版もしくはそれに準じるものであった ( 安倍能成 「こ、ろ」についてははじめ漱石は、「今度は短編を 『岩波茂雄伝』 ) 。 いくつか書いてみたいと思います。その一つ一つには こうして『こゝろ』は岩波の大をなす基礎をなした 違った名をつけてゆくつもりですが、予告の必要上全 解説 355
解 集委員の手で秘せられてあった。昭和三十年八月の 「世界」に、はじめて小宮豊隆氏の解説をつけて発表 され、全集としては新版の小型本漱石全集 ( 岩波書店 ) にはじめてのせられたものである。このたび夏目純一 氏及び岩波書店の厚意で、ここに転載することを得た ことについて、感謝の意を表したい。 最後に同時代人の批評については、「こゝろ」の場 合適当なものを見出し得ず、止むなく、漱石の最初の 単行研究書である赤木桁平の『夏目漱石』 ( 大正六年五 月刊 ) からとった。『こ、ろ』出版を去る三年足らす だから、「同時代」と見てもよいかと思ったわけで る。なお文の中で和辻哲郎氏の「利己主義と正義との 争い [ とは、大正六年一月に刊行された「新小説ー臨 時号、「文豪夏目漱石」にのった、「夏目先生の人及び 芸術」をさしている。 359
「素人と黒人」は、大正三年一月七日から十二日まで声氏」大正十年一月 ) という批評がなげかけられてい 「朝日新聞」にのった。芸術におけるマンネリズム、人る。 格的な深みをもたぬたんなる技巧を職人芸として、軽漱石が秋声を批判はしても、作家として尊重してい かび 蔑し、創業者が素人なるべきことを論じたものである。 たことは秋声の「黴」 ( 明治四十四年 ) や「奔流」 ( 大正四 オリジナリティのない形式上のみの洗練をきらった漱年 ) のような長編を「朝日新聞」にのせていることか らもわかる。彼は自然主義に対立はしていても、鑑賞 石の面目が見えるであろう。 「文士の生活」と「文壇のこのごろ」はともに談話筆批評の目を感情で曇らせることはしなかったのである。、 記で、前者は大正三年三月二十二日、後者は四年十月「模倣と独立」と「無題」は講演である。前者は大正 十一日、ともに「大阪朝日新聞」にのった。前者はあ二年十二月十二日、第一高等学校で、後者は大正三年 一月十七日東京高等工業学校で行ったものである。と る程度まで率直に漱石の生活と生活感情が語られてい る点で、「文豪の私生活」の楽屋話としての興味がある。もに全集に入る前には単行本に入っていない。前のも のは忠実な筆記らしいが、あとのものは要領をしるし 後者は、秋声の傑作「あらくれ」に対する評として、 たものである。しかし主題となったイミテーションと 即ち自然主義の老熟した作風や行き方に対する批評と して首肯すべきものがあるのみならず、それを通じて、インデベンデンスとの関係、及びュニバーサルとパー 漱石文学の行き方を自ら語っている観のあるのが面白ソナルとの関係は、多少の照応がある。どちらかの一 。もっとも反対に秋声を援護する自然主義系統の側面に一辺倒するのでなく、両端をたたいて渉る、漱石 の学者らしい慎重さをここらに見出せるであろう。 からは、漱石は秋声ほどに生きた人間を描いていない 「日記」については、大正三年の部は在来漱石全集編 ではないか、 ( 近松私江「人及び芸術家としての徳田秋
釈 、注 集』が夏目漱石遣著として、はじめて岩波書店から出版 五十五年〈 1716 〉に作られた全四一一巻の有名な辞典 ) の されている。後記によれば小宮豊隆が輯写、野上豊一郎 心の条の抜き書きを子持ち罫で囲んだものが用いられて が分類した。 いる。岩波書店版の『漱石全集』の表紙にはこれが応用 されている。 三四 0 ( 1 ) 拙著の装幀三九二。へ 1 ジ三三一 ( 3 ) 参照。 三一一三 ( 1 ) 鳥居赫雄当時の「大阪朝日新聞」の主筆。号は三四三 ( 1 ) 岡田正之元治元年ー昭和一一年 ( 1864 ー 1927 ) 。 素川。漱石の朝日招聘に努力した。 漢文学者。文学博士。当時学習院教授を勤めており、弁 うえだびん 論部の部長であった。 ( 2 ) 上田敏君明治七年ー大正五年 ( 1874 ー 1916 ) 。 評論家・翻訳家。号柳村。京都大学教授。象徴詩の育て ( 2 ) 講演大正三年 ( 1914 ) 十一月十五日、学習院輔 の親として重要な位をしめる。 仁会で「私の個人主義」と題して行なった講演 ( 全集第 すなが 三三五 ( 1 ) 須永の話明治四十五年 ( 1912 ) の作品「彼岸 十二巻所収 ) 。漱石の過去の体験が相当精しく物語られ 過迄」 ( 全集第九巻所収 ) の中の一編。これを独立させ、 ており、漱石の生活と思想とを知るうえに、きわめて重 「現代名作集第一編」として、大正三年 ( 1914 ) 九月鈴木 要な資料となるものである。 ガラスど 三重吉が刊行した際の注意である。 三四四 ( 1 ) 吉永秀「硝子戸の中」 ( 全集第十一一巻所収 ) ( 六 はまむらよねぞう 三三六 ( 1 ) 浜村米蔵君明治一一十三年 ( 1890 ) 生れ。演劇評 ー八 ) に出て来る女性。 力いじよ 論家。 三岩 ( 1 ) 海恕ゆるすこと。 三三九 ( 1 ) 原稿中勘助が大正一一年 ( 1913 ) 夏に叡山で完成、 ( 2 ) 天台道士杉浦重剛の別号。重剛は三八 0 ・ヘージ 漱石のもとに送った『銀の匙 ( 後編 ) 』をさす。 一 = 六 ( 4 ) 参照。 かんばい まん ( 3 ) 感佩ありがたく感すること。 ( 2 ) なだ万灘万。大阪市今橋の有名な料亭・食料品店。 ( 3 ) 岩波岩波茂雄。岩波書店第一代店主。明治十四 ( 4 ) 文学博士三八〇べージ一一四一 ( 1 ) 参照。 年ー昭和一一十一年 ( 1881 ー 1946 ) 。 ( 5 ) 時刻の儀前出十一月九日の書簡に書かれている ( 4 ) 僕の句集大正六年 ( 1917 ) 十一月、『漱石俳句 学習院での講演についての詳細打ち合せである。
れうせう 年 ( 1880 ) 生れ。漱石と親交があった。 ( 5 ) 料峭春風が肌にうすら寒く感じられるさま。 元〈 ( 1 ) 橋ロ清明治十三年ー大正十年 ( 】 880 ー 21 ) 。 三 0 三 ( 1 ) 阿部次郎明治十六年ー昭和三十四年 ( 田ー一 画家。五葉と号す。東京美術学校時代から、漱石に親し 959 ) 。哲学者・評論家。理想主義・人格主義をとなえて 大正中期の理想主義思潮に影響を与えた。 み、絵はがきの交換などをしている。 らっかん ( 2 ) 三太郎の日記阿部次郎の感想評論集。大正三 ( 2 ) 落款書画に筆者が自筆で署名したもの、あるい 年 ( 1914 ) 四月、東雲堂より出版された。 は雅号の印をおしたもの。 はせがわまんじろう によかん 三 0 四 ( 1 ) あの馬の画「柳蔭人馬図ーをさすか。 一一究 ( 1 ) 長谷川万次郎評論家長谷川如是閑のこと。 すもう ( 2 ) 番づけ芝や相撲などの番組あるいは人名を格三 0 五 ( 1 ) 馬場勝弥明治一一年ー昭和十五年 ( 60 ーきお ) 。 こちょう や位に従って並べたもの。 翻訳家・随筆家。筆名孤蝶。 ひらいで ( 2 ) 平出君大正三年 ( 1914 ) 三月十七日に没した平 三 8 ( 1 ) 永井荷風明治十一一年ー昭和三十四年 ( 】 879 ー】 9 おさむ 59 ) 。小説家。 出修のことか。幸徳秋水事件の弁護に当たった弁護士で、 とうちょう 「明星」や「ス・ハル」に関係し、評論・短歌・小説など ( 2 ) 東朝東京朝日新聞のこと。 の筆を執っていた。 ( 3 ) 佐佐木信綱三八五ページ一一〈四 ( 1 ) 参照。 John Galsvvorthy ( 1867 ー 19 サン Guy de Maupassant ( 1850 ー 三 0 一 ( 1 ) ガルスオーシー ( 3 ) モー 33 ) 英国の小説家・戯曲家。 1893 ) フランスの小説家。フランス自然主義の代表的な 漱石 作家の一人で、わが国自然主義にも大きな影響を与えた 9 ( 2 ) 誰の小説でも、読んでいるうちに : しようふくじ はこれを「人工的インスピレーション」と呼んでいる ( 4 ) 鬼村元成当時神戸市祥福寺に住んでいた若い禅 ( 明治三十九年〈 1906 〉七月三日付高浜虚子宛書簡の中 僧。後にはやはり祥福寺の僧富沢敬道も加わって、しき など ) 。 りに漱石と手紙の上で交際をした。大正五年 ( 1916 ) こ の二人が上京した際、漱石は宿を提供し、素朴で真剣な ( 3 ) プラクチカル℃「 actical ( 英 ) 。実用的な。 せいふう その人柄を非常に愛した。漱石の死後机脇の手文庫の中 三 0 一一 ( 1 ) 津田亀次郎日本画家津田青楓の本名。明治十三
( 4 ) 林原 ( 当時岡田 ) 耕三大正七年ロ 9 一 8 ) 東大 追い求めて来た母親が、奇しくもちょうど一年前にこの 英文科卒。漱石の門下生の一人で、その著書の校正など 地で行き倒れになって死んだ愛児の大念仏 ( 供養のため をよくやっていた。 大勢集まっていっしょに念伝を唱えること ) に行きあわ せるというもので、そのこどもの最後の有様を物語るワ ( 5 ) 三四郎明治四十一年 ( 一 908 ) 「朝日新聞ーに連載一 かたり された小説 ( 全集第六巻所収 ) 。 キ ( 隅田川の渡し守 ) の語の部分は、ワキの最も重要な 役の一つとして重んじられている。 ( 6 ) それから明治四十二年 ( ち 09 ) 「朝日新聞」に かすづけ 連載された小説 ( 全集第七巻所収 ) 。 ( 4 ) 粕漬大分県名産ひめいちの粕漬のことで、この ) 門明治四十三年 ( 19m ) に「朝日新聞」連載さ 土地の出身である豊一郎は、しばしば漱石への贈り物と れた小説 ( 全集第八巻所収 ) 。 元六 ( 1 ) 玉稿原稿。相手のものを尊んでいったことば。 元五 ( 1 ) 野間真綱漱石の門下生の一人。 ( 2 ) 皆川正禧漱石門下生の一人。明治三十六年 ( 19 ( 2 ) 爆発大正三年 ( お 14 ) の桜島の大爆発をいう。 03 ) 東大英文科卒。 ( 3 ) マードックさん James Mu 「 dock ( 1856 ー一 9 ) イギリスの日本研究家。明治二十二年 ( 】 8 き ) に来元七 ( 1 ) 門間春雄明治二十二年ー大正八年 ( 富 80 ー】 0 】 9 ) 。 アララギ派の歌人。長塚節の門下。 日、中津中学校、第一・第四・第七高等学校などで英語 ほうわう ( 2 ) 鳳凰の瓦土をこねて方形長方形の平板とし、そ A History of を教えながら日本史の研究を行ない、 の上に鳳凰の模様を浮き彫りにして焼いたもので、奈良 Japan, 1903 ー 1925 ごを著した。のちにメルポルン大学 時代の建築物に、敷瓦、化粧材などとしてよく用いられ 日本学教授。第一高等学校時代の教え子である漱石が明 たもの。鳳凰模様のほかに、天人・唐草などの模様も使 治四十四年 ( 1911 ) 博士号を辞退した際、突然一一十余年 われ、一般に、磚と称される。 来の無音を破って、鹿児島から「今回の事は君がモラル、 ( 3 ) 微意自分の意志を謙遜していう語。 ・ハックポーンを有している証拠になるから目出たい」と すんちょ ( 4 ) 寸楮短い手紙。自分の手紙を謙遜していう語。 の手紙を送り漱石を喜ばせたのはこの人である。 せん 7
夏目漱石全集 第十一巻 & ろ他 昭和 48 年 11 月 15 日初版発行 著作者 編集者 発行者 印刷所 製本所 発行所 夏 江 角 目漱石 藤淳 田精 川源義 中光印刷株式会社 株式鈴木製本所 会社 4 朱式かとかわしよてん 会社角川書店 東京都千代田区富士見 2 ー 13 振替東京 195208 102 電話東京 ( 265 ) 7111 く大代表 ) Printed in Japan 落丁・乱丁本はお取替え致します 0393 ー 572711 ー 0946 ( の
夏目漱石全集 角川書店
高等中学校を卒業して東京帝国大学へ入っている。予備 クのものは三冊見えるが、この時教えたのは「フランス 門および第一高等中学校は五年で修了とされていたが、 革命考」 (Reflections on the RevoIution in France) 漱石は明治十九年、落第して二級をくり返した。 であろう。 はやみ ( 2 ) 速水君速水滉。明治九年ー昭和十八年 0876 ー 一一四一 ( 1 ) 博士を辞したり漱石は明治四十四年 ( 1911 ) 1943 ) 。心理学者。当時第一高等学校教授であった。 二月文部省から文学博士号を贈られたが、これを辞退し あべよししげ ( 3 ) 安倍能成明治十六年ー昭和四十一年 ( 一 883 ー】 9 ている。 66 ) 。評論家・哲学者・漱石門下生。 一一四一一 ( 1 ) マナー manner ( 英 ) 。態度。動作。 ひとばし ざ 一一三七 ( 1 ) 一ッ橋外現在の神田一ッ橋講堂付近一帯の称。 ( 2 ) お座なりその場のがれのいいかげんなことば。 ( 2 ) 高等商業東京高等商業学校 ( 一橋大学の前身 ) 。 = 豐 ( 1 ) インシグ = フィカント insignificant (# 央 ) 0 一一三〈 ( 1 ) カッパ ドシア Cappadocia, Kappadokia の 無意味な、つまらない。 こと。上古、小アジアの東部にあった国の名。 ( 2 ) アンプレッショニスト impressioniste ( ″い ) 0 ( 2 ) ポールド board ( 英 ) 。黒板。 印象派。十九世紀中ごろ、フランスのコローやマネによ ( 3 ) 風儀風習。作法。 って起された絵画の一流派。対象と光の交錯が生みたす すぎうらじゅうごう ( 4 ) 杉浦重剛先生安政二年ー大正十三年 ( 】 855 ー 徴妙なニ = アンスを重視し、影に色彩を発見した、とい われる。 1924 ) 。大学予備門長など勤めたのち官界を去り、日本 中学校校長として多くの英才を教育し、雑誌「日本人」 ( 3 ) クラシカル classical ( 英 ) 。古典的な。 を発行して国粋論を唱えた。晩年には今上天皇および皇 ( 4 ) ルーベンス Peter Paul Rubens ( 1577 ー 1640 ) 后に倫理学を進講している。 フランドル ( フランス、ベルギーにはさまれた北海沿岸 もの ( 5 ) 呼び者人気を呼び集めるもの。評判のもの。 の地帯 ) 生れの画家。豊饒な天才と旺盛な精力が、ベル ドマンド・ 一一四 0 ( 1 ) 工 。ハーク Edmund Burke ( 1729 ー ギーの宮廷画家という栄光につつまれながら、驚くべき 1797 ) イギリスの政治家・著述家。漱石蔵書中にバー 数の作品を生んた。裸婦などに見られる、明るく燃える 380
体の題が御入用かとも存じますゆえ、それを『心』と深めながら話が展開して行く。伏線を張って、結末を 致しておきます」 ( 三月三十日、山本松之助あて書簡不自然でなくするようにつとめる一方、アクセントを 〈三〇三ペ 1 ジ参照〉 ) といい送っている。それが意外次第に強め、の自殺に至って最高調に達するように 仕組まれている。論理的な漱石の作品のなかでも、こ にものびて長編の「ころ」になったのである。 漱石には珍らしいことだが、彼は岩波のために、これほど論理的な構成をもっているものは、他にないと いってよい。 の作の広告文までわざわざ筆をとっている。「自己の 主人公の深い倫理感から来る、人間に対する、ある 心を捕えんと欲する人々に、人間の心を捕ええたるこ いは、世間と自分とに対する愛想づかし、もしくは孤 、、ページ ) というのがそれである。 の作物を奨む」 ( 二 ~ / / 独な厭世観が、ついに自殺にまで追いつめられ、そし これは書店のために出版の成功を祈る気もちもあった に相違ないが、漱石の性格から見れば、「人間の心をて自殺によって先生の人格が完成されるに至る経過は、 捕ええたる、といい切ることは、この作自体に相当の読者をなっとくさせるだけの用意を十分にそなえてい る。このような「先生ーの性格や心理を造型するため 自信をもっていたことを思わせる。 事実「こゝろ」はよくできている作品である。きわには、作者その人が、きわめて潔癖な論理的性格でな めて論理整然たる布置がなされ、あらかじめ執筆の最ければならない。その意味でこの作品は主人公を通し 初から精密な建築設計図のようなものが組み立てられて作者自身が、かけねのない、自惚れを去 0 た自己の ていたか、と疑われるほどである。新聞の読み物とし内面を、静かに透徹した限でのぞきこんだものであり、 て、毎日すこしずつ書かれて行くのだから、そんなは稀に見る清潔な作家魂の反映というべきである。 ただこの作品の結末にあたる明治天皇の死と乃木大 ずはないのだが、それほど秩序整然と、謎を少しずつ 35 し