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検索対象: 夏目漱石全集 11
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1. 夏目漱石全集 11

づた。私の心は五分と経たないうちに平素の弾力を回「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないです 復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしよ」 まった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、 「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃ ( 2 ) こはる 春の尽きるにまのないある晩のことであった。 ありませんか」 先生と話していた私は、ふと先生がわざ / \ 注意し 先生はなんとも答えなかった。しばらくしてから、 いちょうたいじゅ てくれた銀杏の大樹を目の前に想い浮べた。勘定して「私のは本当の墓参りだけなんだから」と言って、どこ みると、先生が毎月例として墓参に行く日が、それかまでも墓参と散歩を切り離そうとするふうにみえた。 らちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課私と行きたくない口実だかなんだか、私にはその時の こども むか 業が午で終る楽な日であった。私は先生に向ってこう 先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はな 言った。 おと先へ出る気になった。 「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしよう「じゃお墓参りでも好いからいっしょに伴れていって ください。私もお墓参りをしますからー からぼ ) す 「まだ空坊主にはならないでしよう」 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味の まゆ 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてように思われたのである。すると先生の眉がちょっと そこからしばし目を離さなかった。私はすぐ言った。曇った。目のうちにも異様の光が出た。それは迷惑と かす とも 「今度お墓参りに入ら 0 しやる時にお伴をしても宜ごも嫌悪とも怖とも片付けられない微かな不安らしい ざんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩しものであった。私はたちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼 てみたい」 び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情はま か」 ひる ( 1 ) おも かたづ

2. 夏目漱石全集 11

今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖が私の手を去、かって先生が私に話そうと約東した薄暗いその過 ふる 顫わした。私は先生の手紙をたゞ無意味に頁だけ繰去、そんなものは私にと 0 て、ま 0 たく無用であ 0 た。和 きちょうめん っていった。私の目は儿帳面に枠の中に嵌められた字私は倒まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易 じれつ に与えてくれないこの長い手紙を自烈たそうに畳んた。 画を見た。けれどもそれを読な余裕はなかった。拾い おぼっか 私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病 読みにする余裕すら覚東なかった。私はいちばん仕舞 まくらべ の頁まで順々に開けて見て、またそれを元のとおりに人の枕辺は存外静かであった。頼りなさそうに疲れた 畳んで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い顔をしてそこに坐っている母を手招ぎして、「どうで すか様子は。と聞いた。母は「今少し持ち合ってるよ 一句が私の目にはいっこ。 うたよ」と答えた。私は父の目の前へ顔を出して、「ど 「この手紙があなたの手に落ちるころには、私はもう よ ( 1 ) この世にはいないでしよう。とくに死んでいるでしょ うです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と ありがと うなす 尋ねた。父は ~ 目肯いた。父ははっきり「有雌う」と言 もうろう った。父の精神は存外朦朧としていなかった。 虫ははっと思った。今までざわ / \ と動いていた私 しり の胸が一度に凝結したように感じた。私はまた逆に頁私はまた病室を退そいて自分の部屋に帰った。そこ をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然 たもと とっさ で倒に読んでいった。私は咄嗟のあいだに、私の知ら立 0 て帯を締め直して、袂の中へ先生の手紙を投げ込 なければならないことを知ろうとして、ちら / \ するんだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者 にさんちも 文字を、目で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうの家へ馳け込んた。私は医者から父がもう二三日保つ とするのは、たヾ先生の安否たけであった。先生の過だろうか、そこのところをは 0 きり聞こうとした。注 う」

3. 夏目漱石全集 11

と 悲 ほ 生さ 水 身 て で ー -1 ー 1 奥 を 奥す 自 し う た 私 そ ど はい を し、 い 0 分 く は 鉄第さ さ 切 う る り に と と あ お改 の な , も彳卸 ん突 つ ら ん や は 印め に う に は安先 も れ れ隠 っ る 然 だ 目 ら 悪 注さ火ひ心生 に て り る さ と い で け欠 し鉢な も な も と し れ ず よ 私 の さ し、 中 : だ と 辛た 点 のさ そ が よ ん 私 る り に ん 防 ろ う な 欠 灰い は と う 答 に が で が 、認す 涙 が ん 点 し 鉄 を ろ し、 つ を聞 」瓶掻か私め な う が 生 か な ん て た し、 し 、き は きが ん あ い ら あ て た た馴な保 り 改 た ん る な で た か し、 ば く で な く め ち ら 証 ら め ら さ や す いな し ら な し れ る ま し に 溜たる 、そ な っ ち た ま る 力、 で と ん涙 ら 慮 。す う 鳴 ん き い 奥 め て そ が た っ な る さ う で 。す わ 欠 出 て く だ 先 を れ ん か れ 点 て 生 ら け が わ は な る め ら ま れ っ に の て 聞 た水 大に 事 お と お る た る 、れ の と く き 注を 丈 は の 先だ 夫会 の ま の 1 ノ っ は を厭 3 て い そ そ あ蟠私 次ナ で は っ き ら う の 奥 折 い まカ 、の 第 た る り に た れ断結 ゾよ っ な さ り に 私 じ 臓 : 変 そ も オよ 果 ん が か ん め も た 先 か し に れ な を と そ は し 最 も だ の .4 一三 て た い 動 っ て の 。そ だ て 初 か き 気 は た な お 理 の ろ 自 自 の 世 に ま し で解 た い 生推 。話 う 分底 な 分 目 は た の の が も の測 中 奥 と を を を な じ 奥 し あ ら嫌こを 目目あし、 態を推嫌割 さ め さ て る 度突測 う い女 る わ 見 ん け は た ん は き し 結 ず ち れ て る と る の は 留とて 果 苦 で 自 ど て 私 う 見 っ と に極こあ い生 分 か の ち し め と し、 も ま の す と 頭 て た と る め る に て で 事 う 、奥 っ そ の 目 の 夫脳 る よ も 実 だ け が 要 う に 奥 て さ の に 良 : と れ そ 、間 と 厭 ! 点 訴 さ に と ん 人とす 落断 ど 世 は す 世 や の ん ん 冫こ に る も ら ち 的 の 逆 の対 は る る は ど 中 を 付 し な代 し 様 り と し ま 考 と う 、何 力、 い た り 子 か ん て つが 骨 ら あ カ : ん て や 力、 に の し、 によしよう

4. 夏目漱石全集 11

に暗い質ではありませんでした。しかし先祖から譲ら中にある美しいものの代表者として、はじめて女を見 れた迷信の塊も、強いカで私の血の中に潛んでいたのることができたのです。今までその存在に少しも気の めくら 付かなかった異性に対して、盲目の目がたちまち開い です。今でも潜んでいるでしよう。 ひざま 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪すきたのです。それ以来私の天地はまったく新らしいもの ました。半に哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのとなりました。 私が叔父の態度に心づいたのも、まったくこれと同 です。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下 がせん かれら に横わる彼等の手にまた握られてでもいるような気分じなんでしよう。俄然として心づいたのです。なんの あなた で、私の運命を守るべく彼等に祈りました。貴方は笑予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼 うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思いまの家族が、今までとはまるで別物のように私の目に峡 ったのです。私は驚ろぎました。そうしてこのま、、に す。しかし私はそうした人間たったのです。 わか ゆくさき たなごゝろひるが 私の世界は掌を翻えすように変りました。もっとしておいては、自分の行先がどうなるか分らないとい もこれは私にとってはじめての経験ではなかったのでう気になりました。 す。私が十六七の時でしたろう、はじめて世の中に美 くしいものがあるという事実を発見した時には、一度 にはっと驚ろきました。何遍も自分の目を疑って、何「私は今まで叔父任せにしておいた家の財産について、 遍も自分の目を擦りました。そうして心の中であ、美詳しい知識を得なければ、死んだ父母に対して済まな いそ いという気を起したのです。叔父は忙がしい身体たと しいと叫びました。十六七といえば、男でも女でも、 ねとまり 俗にいう色気の付くころです。色気の付いた私は世の自称するごとく、毎晩同じ所に寐泊はしていませんで よこた たち なか ! かたまり ひとり しかた 120

5. 夏目漱石全集 11

へや も立て切ってあると私の室との仕切の襖が、このあ立竦みました。それが疾風のごとく私を通過したあと いだの晩と同じくらい開いています。けれどもこのあで、私はまたあ、失策ったと思いました。もう取り返 いだのように、の黒い姿はそこには立っていません。しが付かないという黒い光が、私の未来を貫ぬいて、 んしようがいものすご 私は暗示を受けた人のように、床の上に肱を突いて起一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く照らしました。 ランプ のぞ あが き上りながら、きっとの室を覗きました。洋燈が暗そうして私はがた / 、、顫えだしたのです。 それでも私はついに私を忘れることができませんで く点っているのです。それで床も敷いてあるのです。 かけぶとんはねかえ しかし掛蒲団は跳返されたように裾の方に重なり合っした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に目を着けま なあて ているのです。そうして自身は向うむきに突ッ伏しした。それは予期どおり私の名宛になっていました。 私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期し ているのです。 私はおいと言って声を掛けました。しかしなんの答たような事はなんにも書いてありませんでした。私は もありません。おいどうしたのかと私はまたを呼び私にとってどんなに辛い文句がその中に書き列ねてあ からだ ました。それでもの身体はちっとも動きません。私るたろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥 ぎわ はすぐ起ぎ上って、敷居際まで行きました。そこからさんやお嬢さんの目に触れたら、どんなに軽蔑される かもしれないという恐怖があったのです。私はちょっ 彼の室の様子を、暗い洋燈の光で見回してみました。 と目を通したたけで、まず助かったと思いました。 その時私の受けた第一の感じは、から突然恋の自 せけんてい 白を聞かされた時のそれとほヾ同じでした。私の目は ( もとより世間体のうえたけで助かったのですが、そ ガラス の世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に 彼の室の中を一目見るやいなや、あたかも硝子で作っ た義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立に見えたのです ) 。 あ すそ むこ しきりふすま にうたち たちすく よこた ふる けいべっ 198

6. 夏目漱石全集 11

まむき も留まりました。私はその時やっとの目を真向に 見ることができたのです。は私より背の高い男でし 「私はと並んで足を運ばせながら、彼のロを出る次たから、私はいきおい彼の顔を見上げるようにしなけ ことば の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ちればなりません。私はそうした態度で、狼のごとき心 伏せといった方がまだ適当かもしれません。その時のを罪のない羊に向けたのです。 や 私はたといを騙し打ちにしてもかまわないくらいに 『もうその話は止めよう』と彼が言いました。彼の目 思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はあにも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私 ひきよう あいさっ りますから、もしだれか私の傍へ来て、お前は卑怯た はちょっと挨拶ができなかったのです。するとは、 ひとことさ、や と一言私語いてくれるものがあったなら、私はその瞬『止めてくれ』と今度は頼むように言い直しました。 間に、はっと我に立ち帰ったかもしれません。もし私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼が すき のどぶえくら がその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面し隙を見て羊の咽喉笛へ食い付くように。 たでしよう。たゞ X は私を窘めるにはあまりに正直で 『止めてくれって、僕が言いだしたことじゃない、も した。あまりに単純でした。あまりに人格が善良だっ ともと君のほうから持ち出した話じゃよ、 オしか。しかし たのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払うこと君が止めたければ、止めても可いが、ただロの先で止 を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこをめたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけ 利用して彼を打ち倒そうとしたのです。 の覚悟がなければ。、 しったい君は君の平生の主張をど はしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ましうするつもりなのか』 た。今度は私のほうで自然と足を留めました。すると 私がこう言った時、背の高い彼は自然と私の前に萎 たしな っ おおかみ 6

7. 夏目漱石全集 11

うの言葉を否定しました。すると奥さんは『あなたは ・自分で気が付かないから、そう御仰るんです』と真面 目に説明してくれました。奥さんははじめ私のような「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響してきまし 書生を宅へ置くつもりではなかったらしいのです。ど た。しばらくするうちに、私の目はもとほどきよろ付 りようけん こかの役所へ勤める人か何かに座敷を貸す料簡で、近かなくなりました。自分の心が自分の坐 0 ている所に、 はうきゅうゆたか おちっ 所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊ちゃんと落付いているような気にもなれました。要す しろうとや でなく 0 て、やなをえす素人屋に下宿するくらいの人るに奥さんはじめ家のものが、僻んた私の目や疑い深 ・だからという考えが、それでまえかたから奥さんの頭い私の様子に、てんから取り合わなか 0 たのが、私に のどこか にはい 0 ていたのでしよう。奥さんは自分の大きな幸福を与えたのでしよう。私の神経は相手から 胸に描いたその想像のお客と私とを比較して、こ 0 ち照り返して来る反射のないためにだん / \ 静まりまし のほうを揚たと言って褒めるのです。なるほどそんた。 な切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にか奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそん けて、揚た 0 たかもしれません。しかしそれは気性なふうに取り扱 0 てくれたものとも思われますし、ま ( 1 ) ないせいかっ おうよう の間題ではありませんから、私の内生活にとってほと た自分で公言するごとく、実際私を騰揚たと観察して んど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女たけ いたのかもしれません。私のこせつき方は頭の中の現 にそれを私の全体に推し広けて、同じ言葉を応用しょ象で、それほど外へ出なか 0 たようにも考えられます ・こまか うとカめるのです。 から、あるいは奥さんのほうで胡魔化されていたのか も解りません。 おっしゃ わか うち

8. 夏目漱石全集 11

ふつかうち ついての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗し した。二日家へ帰ると三日は市のほうで暮らすといっ ゆきき たふうに、両方のあいたを往来して、その日その日をかっていたように他から思われていたのに、 おちつき 三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つ 落付のない顔で過ごしていました。そうして忙がしい くちぐせ という言葉を口癖のように使いました。なんの疑起でした。しかも私の疑惑を強く染め付けたものの一つ でした。 らない時は、私も実際に忙がしいのだろうと思ってい たのです。それから、忙がしがらなくては当世流でな 私はとう / ( 、叔父と談判を開きました。談判という なりゆき いのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれどのは少し不穏当かもしれませんが、話の成行からいう みち も財産の事について、時間の掛る話をしようという目と、そんな言葉で形容するよりほかに途のないところ 的ができた目で、この忙がしがる様子を見ると、それへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまで こども うけと が単に私を避ける口実としか受取れなくなって来たのも私を子供扱いにしようとします。私はまたはじめか です。私は容易に叔父を捕まえる機会を得ませんでしら猜疑の目で叔父に対しています。穏やかに解決のつ くはずはなかったのです。 め小けも てんまっ 私は叔父が市のほうに妾を有っているという噂を聞遺憾ながら私は今その談判の顛末を詳しくこ、に書 きました。私はその噂を昔中学の同級生であったあるくことのできないほど先を急いでいます。実をいうと、 とも」ち 友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この私はこれより以上に、もっと大事なものを控えている 叔父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生のです。私のペンは早くからそこへ辿りつきたがって っ おぼえ いるのを、やっとの事で抑え付けているくらいです。 きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚のない私 は驚ろきました。友達はそのほかにもいろ / \ 叔父にあなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、 こ 0 うわさ 1 幻

9. 夏目漱石全集 11

ん。私はそのくらいの美くしい同情を有って生れて来からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気 こつけい しゅうち た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私分もあったのですから、自分に滑稽たの羞恥たのを感 は違っていました。 ずる余裕はありませんでした。私はまず『精神的に向 上心のないものは馬鹿た』と言い放ちました。これは ふたり 二人で房州を旅行している際、が私に向って使った ことば 「私はちょうど他流試合でする人のようにを注意言葉です。私は彼の使ったとおりを、彼と同じような から ふく して見ていたのです。私は、私の目、私の心、私の身口調で、再び彼に投け返したのです。しかし決して復 しゅう ぶすきま 体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もない 讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味を有っ むか ごん ように用意して、に向ったのです。罪のないは穴ていたということを自白します。私はその一言での あ ゆくて だらけというよりなしろ明け放しと評するのが適当な 前に橫たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。 しんしゅうでら くらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保 は真宗寺に生れた男でした。しかし彼の傾向は中 ようさい うけと 管している要塞の地図を受取って、彼の目の前でゆっ学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかった くりそれを眺めることができたも同しでした。 のです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事 ( 1 ) ほうこう が理想と現実のあいだに彷徨してふら / \ してい をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はたゞ ひとうち ( 2 ) なんによ るのを発見した私は、たゞ一打で彼を倒すことができ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたの しようじん すき るたろうという点にばかり目を着けました。そうしてです。は昔から精進という言葉が好でした。私はそ こも すぐ彼の虚に付け込んだのです。私は彼に向って急に の言葉のなかに、禁欲という意味も籠っているのだろ 厳粛な改たまった態度を示しだしました。むろん策略 うと解釈していました。しかしあとで実際を聞いてみ ふさ も

10. 夏目漱石全集 11

「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んで 行った。「何か御用ですか。と、母が仕掛た用をそのま よあし まにしておいて病室へ来ると、父はたヾ母の顔を見詰そんな事を持ち出すのも病人のために好し悪しだと考 めるだけでなにも言わないことがあった。そうかと思えていた。二人は決しかねてついに伯父に相談をかけ た。伯父も ~ 目を傾けた。 うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前に もいろ / 、世話になったねーなどと優しい言葉を出すニ = ロいたい事があるのに、言わないで死ぬのも残念た 時もあった。母はそういう言葉のまえにきっと涙ぐんろうし、と言って、こっちから催促するのも悪いかも じようぶ だ。そうしたあとではまたきっと丈夫であった昔の父しれず」 おも 話はとう / ( 、愚図々々になってしまった。そのうち をその対照として想い出すらしかった。 こんすい に昏睡が来た。例のとおりなにも知らない母は、それ 「あんな憐れつぼい事をお言いだがね、あれでもとは ねむり びど をたゞの眠と思い違えて、かえって喜こんた。「まあ ずい分酷かったんたよ」 まうき 母は父のためにで背中をどやされた時の事などをあ & して楽に寐られれば、傍にいるものも助かりま なんべん す」と言った。 話した。今まで何遍もそれを聞かされた私と兄は、 かたみ つもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念の 父は時々目を開けて、誰はどうしたなどと突然聞い ように耳へ受け入れた。 た。その誰はついさっきまでそこに坐っていた人の名 父は自分の目の前に薄暗く峡る死の影を眺めながら、に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とで やみ きて、その明るい所だけが、闇を縫う白い糸のように、 まだ遣言らしいものを口に出さなかった。 「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡状 のを見た。 態を普通の眠と取り違えたのも無理はなかった。 あわ しかけ ふたり 和 2