時 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 12
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1. 夏目漱石全集 12

〇己の頃は動物さえ見る顔だ。 「しかしあなたはその一人じゃないというの」 たれ 0 「愛はハシカのようなものたと誰か言ってましたね。「どうですか。自分がそうでなくったって、その人の つまり一度は誰でも罹らなければ済まないのでしょ 腹は理解できるじゃありませんか」 う」 「理解できるたけがそういう人に近い証拠よ」 「ハシカなら一度こっきりで済むけれども愛はそうは 「とう / \ 浮気ものにされてしまった」 いきません。二度でも三度でも罹りますからね。な ごろっぺんや ぞは私の知ってるたけでももう五六遍遣ってますよ」〇細君の話 「まあ気の多いこと。しかしほんとうの恋は一生に一 「私はそれを >< から聴きました。それからというもの 度しかないんじゃないでしよう か。私の知った人に好はどうしても女を信じることができなくなりました」 し ! い きな人とい 0 しょになれないために独身でいる人があ芝居を見るレーデーが役者を買う話 ります」 「私はそれをから聞きました。それからというもの とうせいむき 「そんなのは当世向じゃないんでしよう。 現代は固定はやはり女を信じる気になれません」 を忌むんたから」 「そうすると貴方も一度や二度じゃ済まなかった組 〇人はあるものを白だともいえます黒たともいえます。 ね」 しかも少しも自分を偽ることなしに。これは白と黒と 「どうして」 の両方が腹のうちに潜伏していて、白という時は白の 断「だってアナタの主張がそうだからよ」 立場から、また黒という時は黒の立場から一つものを ( 1 ) ちょうほう 記「主張じゃないわ。まったくそういう人があるんです眺めて説明するからです。丁宝なものです。 ( 2 ) もの」 Perfæt innocenæ and perfect hYlY)crisy おれ あなた 333

2. 夏目漱石全集 12

と、実際弱らせられる。彼等の多くはま 0 たく私の知は冨士登山の画を返せ / 、と三度も四度も催促して己 らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送りまない。私はついにこの男の精神状態を疑いたした。 きちが 返すこちらの手数さえ、まるで眼中に置いていないよ「おおかた気違たろう、私は心の中でこう極めたなり とりあ 向うの催促にはいっさい取合わないことにした。 うにみえるのたから。 はじめ ( 1 ) ばんしゅうさ そのうちでいちばん私を不愉快にしたのは播州の坂それから二三ヶ月経 0 た。たしか夏の初のころと記 憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎 越にいる岩崎という人であった。この人は数年前よく ひとり ( 3 ) うっとうしく はがき の中に坐っているのが鬱陶敷なったので、一人でぼっ 端書で私に俳句を書いてくれと頼んできたから、その 都度向うのいうとおり書いて送 0 た記憶のある男であぼっそこいらを片付けはじめた。その時書物の整理を る。その後のことであるが、彼はまた四角な薄い小包するため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、 おも めんどう を私に送 0 た。私はそれを開けるのさえ面倒だ 0 たか一冊すっ改めてゆくと、思い掛けなく坂越の男が寄こ ほう した例の小包が出てきた。私は今まで忘れていたもの ら、ついそのま、にして書斎へ放り出しておいたら、 下女が掃除をする時、つい書物と書物の間へ択み込んを、眼のあたり見て驚いた。さ 0 そく封を解いて中を 検べたら、小さく畳んた画が一枚 k っていた。それが で、まず体よく仕舞失くした姿にしてしまった。 この小包と前後して、名古屋から茶の罐が私あてで富士登山の図だ 0 たので、私はまたび 0 くりした。 たれ 届いた。しかし誰がなんのために送 0 たものかその意包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあっ 味はま 0 たく解らなか 0 た。私は遠慮なくその茶を飲て、それに画の賛をしてくれという依頼と、お礼に茶 のんでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登を送るという文句が書いてあ 0 た。私はいよ / \ 驚い 子山の画を返してくれと言ってきた。彼からそんなものた。 もら しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛 を貰った覚のない私は、打ち遣っておいた。しかし彼 おぼえ しまいな たら かん しら かたろ かげん 219

3. 夏目漱石全集 12

昔一・なまあた、、 に考えの筋道が運んだ時、おり / 、何者にか扇動され君の名を呼んでみなければまだ安心ができないという て起る、「の頭は悪くない」という自信も己惣もたち気が彼の胸を価いて起 0 た。けれども彼はすぐその衝 うちか まち消えてしまった。同時にこの頭の働きをき乱す動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、 ふだん 自分の周囲についての不平も常時よりは高まってきた。再び彼女を揺り起そうとしたが、それも已めた。 だいじようぶ 「大丈夫たろう」 彼はしまいに投げるように洋筆を放り出した。 や 「もう巳めだ。どうでも構わない」 彼はようやく普通の人の断案に帰着することができ ランプ くらやみ 時計はもう一時過ぎていた。洋燈を消して暗闇を縁 た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になってい つきあた 側伝いに廊下へ出ると、突当りの奥の間の障子二枚だる彼には、それが何人もこういう場合に取らなければ けが灯に映って明るかった。健三はその一枚を開けてならない尋常の手続きのように思われたのである。 細君の病気には熟睡がいちばんの薬であった。長時 内に入った。 こども 子供は大ころのように塊まって寐ていた。細君も静間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めてい ありがた あおむけ る健三に、なによりも有難いその眠りが、静かに彼女 かに目を閉じて仰向に眠っていた。 まふた ( 1 ) かんろ そばすわ の瞼の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあた 音のしないように気を付けてその傍に坐った彼は、 のぞ ころもち頸を延ばして、細君の顔を上から覗き込んり見るような気が常にした。しかしその眠りがまたあ かざ だ。それからそっと手を彼女の寐顔の上に翳した。彼まり長く続ぎすぎると、今度は自分の視線から隠さ てのひら 女はロを閉じていた。彼の掌には細君の鼻の穴から出れた彼女の目がかえって不安の種になった。ついに睫 たわい げとざ る生暖かい呼息がかすかに感ぜられた。その呼息は規毛の鎖している奥を見るために、彼は正体なく寐入っ 則正しかった。また穏かだった。 た細君を、わざ / 、揺り起してみることがおり / \ あ った。細君がもっと寐かしておいてくれれば好いのに 彼はようやく出した手を引いた。するともう一度細 おだや っ ほう なんびと たね まっ 9

4. 夏目漱石全集 12

番け 子 - ね物時け よ に分 り細の 。家 : る供ー映が彼そ学をのれ 目 遅 ! 君針 ん 間 も彼 ど を る ほ の の は箱三帰 ど生だ結意な く 子 ば持にも 起 だは を抜むろ婚味 よ る かちはそ 来えい き く 胎をけた う 当 り の そ と は と の の細 内まる た寐 びか た方 を し さ つは 。る見傍君 なず針 に を いあ て の と老ふ考 自 健女 宿 り い ら冫 て に は に 、散奥 が で ん 冂 ま し に よ ん よ と 年 をあ ま ら て あ う 老 て な で の せ 送 が 、に った に ゆ い ん し て し、 つ ど通 っ畳 っ ら り た 力、 た オこ み る ま 0 。た歩ん じ と て に ぇ と し 朝 い手一 そ い進 いなな た し、 る枕 ても う う 髪 う た に か ん かこ顔赤を の 。変 も し 結て ら と を て毛 人 果ゆ い し っ た し片た 今 ま に な の て ど細 た端にな 、彼 た よ は り の 横る 。だり 君 細は すも が ほ ⅱ口ま の寐ね と で 気 は君今 に な健 物上て の ま な に の の 指れ、 引た 目 自 る い イ可 の 答夜 がも当宅う で 冫こ・ま い 日 っ て は彼 健は弁 の反彼不ふじ小こたた な も と も よ の 目 女ぜ 口・は 必を く た応は 貞てカ 。は 少 ! と はず き が は夜あ めす自寐ね強をそ健 解 っ頭 くな 起 っ冴さ宵こ ん き つ釈に る 分を く がは う き 、カ、 っ く のす 起 り痺な た し と っ なは て張ば り寐 。て を小 し て し あ しれカ . る った た縫また 寐 でな たあ ん と る な オこ ・つ 細物ま。ら 苦 がだ カ : あし し よ と よ た いい 君のそ た く と っ ん 々 であ は ただ し不観歇 の手う 、る な そ い に い自察私 態 寐も をしし う う な う 的 : 度已やてか健 呟然 し ら っ し の 力、 ク ) をめ自 きやの ら も カ : て里ー れか て て 悪 ~ な分起冫 を態や性 と し る ロ度 と 考れ常そ く る のう んかの だっ起て う のを代細 き の ま え な に 内彼 い彼 り 君 は た 日 で 。て 同 る わ で女 り と女 に に 時 のれ 洩もが 、対 後し 思 の 日 り い ただ ら彼単 っ弁何を る し の ナこ 彼 すに 。た解事 いと た な て ほ 女 時い び う り ら る でを 刀ヾ の ま う とす面言ど 、あ と に の しな 58

5. 夏目漱石全集 12

ようにも考えた。 ていうじゃないか」 ・わたくし 「馬鹿じゃありません。そんなお世話にならなくって 「だからもっと解りやすいように。私に解らないよう だいじようぶ も大丈夫ですー な小むずかしい理屈は巳めにして」 周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえってこ、に 「それじやどうしたって説明しようがない。数字を使 あるのではなかろうかと推察した。 わずに算術を遣れと注文するのと同じことだ」 りこら・ なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ怜悧「だって貴夫の理屈は、他を捻じ伏せるために用いら わか すぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分れるとよりほかに考えようのないことがあるんですも と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたの , のは、まったく見当の違った方面にあった。そうして 「お前の頭が悪いからそう思うんだ」 こんにち 遣憾ながらその方面は、今日に至るまでいまたに細君「私の頭も悪いかもしれませんけれども、中味のない から きら の父母にも細君にも了解されていなかった。 空っぽの理屈で捻じ伏せられるのは嫌いですよ」 ふたり 「役に立つばかりが能じゃない。そのくらいのことが 二人はまた同じ輪の上をぐる / 回りはじめた。 解らなくってどうするんだ」 けんべい きすっ 健三の言葉はいきおい権柄すくであった。傷けられ なか と きげん た細君の顔には不満の色があり / \ と見えた。機嫌の 面と向って夫としつくり融け合うことのできない時、 直った時細君はまた健三に向った。 細君は已を得ず彼に背中を向けた。そうしてそこに寝 「そう頭からがみ / 、言わないで、もっと解るようにている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐそ 言って聞かしてくだすったら好いでしよう」 の子供を抱き上げた。 「解るように言おうとすれば、理屈ばかり捏ね返すっ 章魚のようにぐにや / \ している肉の塊と彼女との こども 卆三 ひとね か」ま - れ′ なかみ

6. 夏目漱石全集 12

と踏んだという記憶をたしかに有ったうえの感じなの ゅ である。自分はその時終日行いていまだかって行かず という句がどこかにあるような気がした。そうしてそ の句の意味はこういう心持を表現したものではなかろ うかとさえ思った。 ことば これをもっとむずかしい哲学的な言葉でいうと、畢 きよう また正月が来た 竟ずるに過去は一の仮象にすぎないということにもな ( 3 ) こん・こうきよう また正月が来た。振り返ると過去がまるで夢のようる。金剛経にある過去心は不可得なりという意義にも ( 5 ) に見える。いつの間にこう年齢を取ったものか不思議通するかもしれない。そうして当来の念々はことん ( 、 せつな なくらいである。 く刹那の現在からすぐ過去に流れ込むものであるから、 この感じをもう少し強めると、過去は夢としてさえまた瞬刻の現在からなんらの段落なしに未来を生み出 存在しなくなる。まったくの無になってしまう。実際すものであるから、過去についていい得べきことは現 近ごろの私は時々たゞの無として自分の過去を観ずる在についてもいい得べき道理であり、また未来につい ことがしば / 、、ある。いっぞや上野へ展覧会を見に行ても下し得べき理屈であるとすると、一生はついに夢 よりも不確実なものになってしまわなければならない。 った時、公園の森の下を歩きながら、自分はある目的 をもってさっきから足を運ばせているにもか、わらず、 こういう見地から我というものを解釈したら、いく いまだかってちょっとも動いていないのだと考えたりら正月が来ても、自分は決して年齢を取るはずがない 、もうろ , 、 うち した。これは耄碌の結果ではない。宅を出て、電車に のである。年齢を取るように見えるのは、まったく暦 ( 2 ) と鏡の仕業で、その暦も鏡も実は無に等しいのである。 乗って、山下で降りて、それから靴で大地の上をしか 点頭録 しわざ とし こよみ ひっ 0 )

7. 夏目漱石全集 12

のである。 てるんだから」 うけ 「だから返すと言ってるじゃないか。だけど僕は金を 私はなんでも他のいうことを真に受て、すべて正面 とる訳がないんだ」 から彼等の言語動作を解釈すべきものだろうか。もし わか 「そんな解らないことを言わずに、まあ取っておきた私が持って生れたこの単純な性情に自己を託して顧み まいな」 ないとすると、時々とんでもない人から騙されること や かげ ! ひや 「僕は遣るんだよ。僕の本だけども、欲しければ遣ろがあるだろう。その結果蔭で財鹿にされたり、冷評か うというんだよ。遣るんだから本たけ持ってったら好されたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍 いじゃないか」 ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。 うそっき 「そうかそんなら、そうしよう」 それでは他はみな擦れらしの嘘吐ばかりと思って、 ことば かたむ 喜いちゃんは、とう / 、、本だけ持って帰った。そう はじめから相手の言葉に耳も借さず、心も傾けす、あ して私はなんの意味なしに二十五銭の小遣を取られてる時はその裏面に潜んでいるらしい反対の意味たけを しまったのである。 胸に収めて、それで賢い人だと自分を批評し、またそ みいた こに安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は 人を誤解しないとも限らない。そのうえ恐るべき過失 世の中に住む人間の一人として、私はまったく孤立を犯す覚悟を、初手から仮定して、掛らなければなら して生存するわけにゆかない。しぜん他と交渉の必要ない。ある時は必然の結果として、罪のない他を侮辱 がどこからか起 0 てくる。時候の挨携、用談、それかするくらいの厚顏を準備しておかなければ、事が困難 かけあい になる。 これらから脱却すること らもっと込み入った懸合 いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしい もし私の態度をこの両面のどっちかに片付けようと あ ひと ひと かたづ 25 イ

8. 夏目漱石全集 12

いったん てくれるんですって。だから好いけれども、 「お前は馬鹿だよ」 かおっき まれにはこんな顏付をするものさえあった。 役を退くと、もう相場師が構ってくれないから、みん うち な駄目になるんだそうです」 彼はまた宅へ帰って赤い印気を汚ない半紙へなすく 「なんのことたか要領を得ないね。だいち意味さえ解りはしめた。 らない」 しかた あなた 「貴方に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃ ありませんか」 二三日すると島田に頼まれた男がまた刺を通じて面 ゆきがか 「なにを言ってるんだ。それじや相場師は決して損を会を求めに来た。行掛り上断るわけにいかなかった健 きま しつこないものに極っちまうじゃよ オいか。馬鹿な女た三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び坐る な」 べく余儀なくされた。 おも 健三はその時細君と取り換わせた談話まで憶い出し「どうもお忙しいところをたび / \ 出まして」 彼は世事慣れた男であった。ロで気の毒そうなこと 彼はふと気が付いた。彼と擦れ違う人はみんな急ぎをいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこに 足に行き過ぎた。みんな忙しそうであった。みんな一も現わさなかった。 定の目的を有っているらしかった。それを一刻も早く「実はこのあいだのことを島田によく話しましたとこ 片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかろ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで よろ ちょうだい とこ 宜しい、その代りどうか年内に頂戴いたしたい、 ういうんですがね」 ある者はまるで彼の存在を認めなかった。ある者は 健三にはそんな見込がなかった。 通り過ぎる時、ちょっと一瞥を与えた。 かたづ こ 0 っこ 0 ひ ようりよう いちべっ す わか かた インキきた 190

9. 夏目漱石全集 12

を出した。 彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思 実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなか議のうちには、自分の周囲とよく闘いおおせたものた厂 がらくた った。むしろ物品であった。たゞ実父が我楽多としてという誇りもだいぶ交っていた。そうしてまだでき上 彼を取り扱ったのに対して、養父には今になにかの役らないものを、すでにでき上ったように見る得意もむ に立ててやろうという目算があるだけであった。 ろん含まれていた。 「もうこっちへ引き取って、給仕でもなんでもさせる彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこ からそう思うが可い」 の現在に発展してきたかを疑った。しかもその現在の 健三がある日養家を訪間した時に、島田はなにかのために苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。 かげ ついでにこんなことを言った。健三は驚いて逃げ帰っ 彼と島田との関係が破裂したのは、この現在のお蔭 こども。こころ た。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。であった。彼がお常を忌むのも、姉や兄と同化し得な その時の彼は幾歳だったかよく覚えていないけれども、 いのもこの現在のお蔭であった。細君の父とだん / \ りつば なんでも長いあいだの修業をして立派な人間にな 0 て離れてゆくのもまたこの現在のお蔭にか 0 た。一 きざ ひとそり 世間に出なければならないという欲が、もう十分萌し方から見ると、他と反が合わなくなるように、現在の ているころであった。 自分を作り上けた彼は気の毒なものであった。 「給仕になんそされてはたいへんだ」 なんべん かえ 彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。さい わいにしてその言葉は徒労に繰り返されなかった。彼細君は健三に向って言った。 はどうかこうか給仕にならずに済んだ。 「貴夫に気に入る人はどうせどこにもいないでしよう 「しかし今の自分はどうしてでき上ったのだろう」 よ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」 が あなた 卆ニ

10. 夏目漱石全集 12

しなかった。健三も訊いてみようとは思わなかった。有っていなかった。その経験もおおかたは忘れていた。 うなりごえ 生れ付ぎ心配性な彼は、細君の唸声をよそにして、ぶけれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の らぶら外を歩いていられるような男ではなかった。 干のように、何度も来たり去 0 たりしたように思え こ 0 産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。 こども 「一週間以内かね」 「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供っても あと 「いえもう少し後でしよう」 のは。ひとしきり痛んではまたひとしきり治まるんだ 健三も細君もその気でいた。 ろう」 「なんだか知らないけれどもだん / \ 痛くなるだけで すわ」 ことま あきら 日取が狂って予期より早く産気づいた細君は、苦し 細君の態度は明かに彼女の言葉を証拠立てた。じっ そばね ふとん おちっ まくらはす そうな声を出して、側に寐ている夫の夢を驚かした。 と蒲団の上に落付いていられない彼女は、枕を外して 「さっきから急にお腹が痛みだして : : : 」 右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着 「もう出そうなのかい」 けようがなかった。 「産婆を呼ぼうか」 健三にはどのくらいな程度で細君の腹が痛んでいる わか のか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔たけ「え \ 早く」 出して、細君の様子をそっと眺めた。 職業柄産婆の宅には電話が掛っていたけれども、彼 さす 「少し撫ってやろうか」 の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。 あか おっくう あわ 起き上ることの億劫な彼はできるだけ口先で間に合至急を要する場合が起るたびに、彼はいつでも掛りつ せようとした。彼は産についての経験をたゞ一度しかけの近所の医者のところへ駆け付けるのを例にしてい よる うち 155