記憶 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 12
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1. 夏目漱石全集 12

草 かっこう に拵えたもので、鼓の胴の恰好に似た平たい底が畳へた。彼はむしろ潔癖であった。持って生れた倫理上の す 据わるようにできていた。 不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座 てもと しり ふきそうじ 健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引敷や縁側の塵を気にした。彼は尻をからげて、拭掃除 あかり き寄せて心を出したり引っ込ましたりしながら灯火のをした。足で庭へ出て要らざるところまで掃いたり なが あいさっ 具合を佻めていた。彼は改まった挨拶もせずに、「少水を打ったりした。 なお し油煙がたまるようですね , と言った。 物が壊れると彼はきっと自分で修復した。あるいは ( 1 ) ほや くす ( 2 ) まるじんきりかた なるほど火屋が薄黒く燻ぶっていた。丸心の切方が修復そうとした。それがためにどのくらいな時間が要 たいら 平にいかないところを、むやみに灯を高くすると、こ っても、またどんな労力が必要になってきても、彼は きた 決して厭わなかった。そ んな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。 ういうことが彼の性にあるば 「換えさせましよう」 かりでなく、彼には手に握った一銭銅貨のほうが、時 間や労力よりもはるかにたいせつにみえたのである。 家には同じ型のものが三つばかりあった。健三は下 「なにそんなものは宅でできる。金を出して頼むがも 女を呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。 のはない。損だ」 しかし島田は生返事をするぎりで、容易に煤で曇った 火屋から目を離さなかった。 損をするということが彼にはなによりも恐ろしかっ かげん 「どういう加減だろう」 た。そうして目に見えない損はいくらしても解らなか ひと・こと 彼は独り言を言って、草花の模様だけを不透明に擦った。 のぞ かさすきま った丸い蓋の隙間を覗き込んだ。 「宅の人はあんまり正直すぎるんで」 むか 健三の記憶にある彼は、こんなことをよく気にする お藤さんは昔健三に向って、自分の夫を評するとき きちょうめん ことば という点において、すこぶる儿帳面な男に相違なかっ に、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三 こしら しん こわ ちり うち わか

2. 夏目漱石全集 12

芥川竜之介様 限らないように思えますが、君のほうはそんな訳のあ 久米正雄様 り得ない作風ですから大丈夫です。この予言が適中す るかしないかはもう一週間すると分ります。適中した君がたが避暑中もう手紙を上けないかもしれません。 ら僕に礼をお言いなさい。外れたら僕があやまります。君がたも返事のことは気にしないでも構いません。 われ′ \ 牛になることはどうしても必要です。吾々はとかく 四三「新思潮」九月号の諸作 馬になりたがるが、牛にはなか / \ なり切れないです。 ろうかっ 九月一日 ( 金 ) 牛込区早稲田南町七番地より千葉県 僕のような老猾なものでも、たヾいま牛と馬とつがっ 一ノ宮町一ノ宮館芥川竜之介、久米正雄へ てめることある相の子くらいな程度のものです。 きよう けま あせっては可せん。頭を悪くしては不可せん。根今日は木曜です。いつもなら君等が晩に来るところ 気ずくでおいでなさい。世の中は根気の前に頭を下げだけれども近ごろは遠くにいるから会うこともできな ひま す い。今朝の原稿は珍らしく九時ごろ済んだので、今閑 ることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶し か与えてくれません。うん / \ 死ぬまで押すのです。である。そこで昨日新思潮を読んだ感想でも二人のと ころへ書いてあげようかと思って筆を取りだしました。 それたけです。決して相手を拵らえてそれを押しちゃ これはロで言えないから紙の上でお目にかけるのです。 不可せん。相手はいくらでも後から後からと出てきま おしろ ( 3 ) 今度の号のは松岡君のも菊池君のも面白い。そうし す。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押し ようす てゆくのです。なにを押すかと聞くなら申します。人て書き方だか様子だかどちらにも似通ったところがあ る。あるいはその価値が同程度にあるので、しか思わ 間を押すのです。文士を押すのではありません。 まとま とにかく纏った小品です。それ せるのかもしれない。 これから湯に入ります。 おもいっき 八月二十四日 から可い思付を見付けてそれを物にしたものでありま 夏目金之助 ( 1 ) あい だいじようぶ はす わか ふたり 37 イ

3. 夏目漱石全集 12

ごう に違ないというのがあなたの予期で、そういう女の裏ろいろな私の欠点から出て、毫も読者たる貴方の徳を 面には必ずしもあなたがたの考えられるような魂胆ば熕わすに足りないかもしれませんが、とにかく私の精 もっしあげ かりは潜んでいない、もっとデリケートないろ / 、、な神だけはそこにあることを御記憶までに申上ておきま す。 意味からしてもやはり同じ結果が出得るものだという ひとり おわりにのぞんで親切なる読者の一人として私はあ のが私の主張になります。 あなたのほうが真実でないとはいいません。しかしなたがいかなる種類階級に属する人であるかを知りた いと思います。 そのほうの真実は今までの小説家がたいてい書きまし 夏目金之助 七月十九日 た。書いても差支ありません、また陳腐でも構わない 大石泰蔵様 としたところで、もし読者が真実は例のとおり一本筋 はやがてん なものだと早合点をすると、小説はとんた誤解を人に 三八愉快を感ずる「明暗」執筆 吹き込むようになります。今までの小説家の慣用手段 あなた 八月五日 ( 土 ) 午後四時ー五時牛込区早稲田南町七 を世の中の一筋道の真として受け入れられた貴方の予 期を、私は決して不合理とは認めません。しかし明暗番地より神奈川県鵠沼七千二百番地和辻哲郎へ の発展があなたの予期に反したときに、なるほど今ま 拝復この夏はたいへん凌ぎいいようで毎日小説を ばしようかたわら で考えていた以外こ、にも真があった、そうして今自書くのも苦痛がないくらいです。僕は庭の芭蕉の傍に あた 分は漱石なるものによってはじめて、新らしい真に接畳み椅子を置いてその上に寐ています。好い心持です。 ほねお からだ 触することができたと、貴方からいっていたゞくこと身体の具合か小説を書くのも骨が折れません。かえっ のできないのを私は遺憾に思うのであります。そう思て愉快を感することがあります。長い夏の日を芸術的確 な労力で暮らすのはそれ自身においてはなはだ好い心 われないのは、私の手腕の欠乏、私の眼力の不足、 ちがい さしつかえ しの ね

4. 夏目漱石全集 12

けんめい なんにもならないようです。自分の発達を害するばか懸命に修業をしていますか。私は始終からだが悪くて りだと思います。したがって感化と模倣の区別をよく困ります。まあ病気をしに生れてきたような気がしま す。これからまた小説を書くので当分忙がしくなりま えてやるのも好い方法かと考えます。 なにか御返事を上けないのも失礼だと存じて一口おす。以上 五月六日 夏目金之助 答を致します。もとより深く考えたうえのことであり 鬼村元成様 ませんから粗雑至極のものです。以上 夏目金之助 三ニ「明暗」起稿につき朝日へ 三一神戸祥福寺の禅僧鬼村元成へ ( 三 ) 五月ニ十一日 ( 日 ) 午後三時ー四時牛込区早稲田南 町七番地より京橋区滝山町四番地東京朝日新聞社内山本 五月六日 ( 土 ) 午前十時ー十一時牛込区早稲田南町 松之助へ 七番地より下関市観音崎町永福寺内鬼村元成へ がしよう 拝啓このあいだ中から少々不快臥牀、それで小説 あなたの出来ものはもう全快したそうで結構です。 おそ 下関へ行かれたそうですがその辺でいお寺が見つかの書きだしが予定より少々遅くなって済みません。谷 はつか おしよう りますか。あなたはまだ若いから和尚さんになるのは崎君の二十日完了のはずのものが二十四日まで延びた ごしんしやく ねお 骨が折れるでしよう。しかしなれたらまた和尚さんらのもそれがための御斟酌かと存じ恐縮しています。こ 下関は一度町 しい便利たの自由が得られるでしよう。 の分では毎日一回ずつは書けそうゆえ御安心ください。 うち ( 2 ) あかぎこうへい ところで小生の宅へ来る赤木桁平と申す人が今度の を通ったことがあるだけで慥かな記憶がありませんが なんでも細長い町だと覚えています。富沢さんは勉強「明暗」の原稿をぜひ貰いたいと申します。私は断る いっしよう して知識になるといっていましたがこのごろでも一生のも気の毒ですから社へ聞き合せておこうと申しまし じゅう

5. 夏目漱石全集 12

つきあい 向後いっさい付合をしちゃならないって仰しやったそ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、いたずらに皆 うじゃありませんか」 なの意見に反対するのだとばかり考えた。 健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時 十五 の光景をよく覚えていた。しかし彼は自分の父に対し も こも てさほど情愛の籠った優しい記憶を有っていなかった。健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健 こしら うんぬん おとな そのうえ絶交云々についても、そう厳重に言い渡され三のために小さい洋服を拵えてくれた。大人さえあま おぼえ り外国の服装に親しみのない古い時分のことなので、 た覚はなかった。 こども とんじゃく 「お前誰からそんなことを聞いたのかい。己は話した裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しな ぼたん かった。彼の上着には腰のあたりに釦が二つ並んでい つもりはないがな」 あ あにい ) しもふりらしやかた て、胸は開いたまゝであった霜降の羅紗も硬くごわ 「貴方じゃありません。お兄さんに伺ったんです」 あら ズン ごわして、きわめて手触りが粗かった。ことに洋袴は 細君の返事は健三にとって不思議でもなんでもなか たてみそ った。同時に父の意志も兄の言葉も、彼にはたいした薄茶色に竪溝の通った調馬師でなければ穿ないもので あった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引か 影響を与えなかった。 「おやじは阿爺、兄は兄、己は己なんだから仕方がなれて歩いた。 つきあい 彼の帽子もそのころの彼には珍らしかった。浅い鍋 、。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がない ( 2 ) 底のような形をしたフェルトをすぼりと坊主頭へ頭巾 んだから」 つきあ こう言い切 0 た健三は、腹の中でその交が厭で厭のように被るのが、彼にたいした満足を与えた。例の たま ごとくその人に手を引かれて、寄席へ手品を見に行っ で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその くろらしゃ た時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山 腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はたゞ おっ ぞこ がんこ てざわ き な みん

6. 夏目漱石全集 12

も胃の具合が好くなか 0 た。時々思い出したように運持っておいでよ。なに比田だって要りやしないやね、 動してみると、胸も腹もかえって重くなるだけであっ汚ない達磨なんか」 ようじん た。彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口 健三は買うとも貰わないとも言わずにたゞ苦笑して こゝろがけ わるしい へ入れないように心掛ていた。それでも姉の悪強には いた。すると姉はなにか秘密話でもするように急に調 敵わなかった。 子を低くした。 のりまき からだ ねえ まえ 「海苔巻なら身体に障りやしないよ。せつかく姉さん「実は健ちゃん、お前さんが帰ってきたら、話そう話 ごちそう きよう が健ちゃんに御馳走しようと思って取ったんだから、 そうと思って、つい今日まで黙ってたんだがね。健ち ぜひ食べておくれな。厭かい」 ゃんも帰りたてでさぞ忙しかろうし、それに姉さんが うま 健三は仕方なしに旨くもない海苔巻を頬張 0 て、嬢出掛けていくにしたところで、お住さんがいちゃ、少 かげんたばこ い加減煙草で荒らされたロのうちをもぐ / \ させた。 し話しにくいことだしね。そうかって、手紙を書こう ( 1 ) むひっ 姉があまり饒舌るので、彼はいつまでも自分の言い にも御存じの無筆だろう、 まえおき たいことが言えなかった。訊きたい間題を持っていな姉の前置は長たらしくもあり、また滑稽でもあ 0 た。 てならい おぼえ がら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼にはだ 小さい時分いくら手習をさせても記憶が悪くって、ど んだんむず痒くなってきた。しかし姉にはそれがいつんなに平易しい字も、とう / \ 頭へはいらず仕舞に、 こう通じないらしかった。 五十の今日まで生きてきた女だと思うと、健三にはわ 他に物を食わせることの好きなのと同時に、物を遣が姉ながら気の毒でもありまたうら恥すかしくもあっ ることの好きな彼女は、健三がこのまえ賞めた古ぼけた。 たるまかけもの た達磨の掛物を彼に遣ろうかと言いだした。 「それで姉さんの話ってえな、いったいどんな話なん 「あんなものあ、宅にあった「て仕方がないんだから、です。実は私も今日は少し姉さんに話があ 0 て来たん ひと しかた さわ ほおま わたし すみ こつけい

7. 夏目漱石全集 12

草 ちじくも 花果を携いで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、 でもやつばり年が年だからね。とても昔のように ー ) しり 尻を持ち込まれたりした。主人が箱入りのコンパスがせいに働くことはできないのさ。昔健ちゃんの遊び を買ってやると言って彼を騙したなりいつまで経ってに来てくれた時分にや、ずいぶん尻っ端折りで、それ も買ってくれなかったのを非常に恨めしく思ったこと こそお釜のお尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそ あやま もあった。姉と喧華をして、もう向うから謝罪ってきんな元気はありやしない。だけどお蔭様でこう遣って ても堪忍してやらないと覚悟を極めたが、い くら待っ毎日牛乳も飲んでるし : : : 」 あや さしよう こづかい ていても、姉が託まらないので、仕方なしにこっちか 健三は些少ながら月々いくらかの、 、遣を姉に遣るこ てもちふさた らのこノ ( 、出掛けていったくせに、手持無沙汰なので、とを忘れなかったのである。 かどぐち 向うでおはいりというまで、黙って門口に立っていた 「少し痩せたようですね」 こつけい あたしもちまえ 滑稽もあった。・ 「なにこりや私の持前たから仕方がない。昔から肥っ 古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな たことのない女なんだから。やッばり癇が強いもんた たんしようとう 記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になっ からね。癇で肥ることができないんだよ」 た姉夫婦に、今はたいした好意を有っことができにく 姉は肉のない細い腕をって健三の前に出して見せ くなった自分を不快に感じた。 た。大きな落ち込んた彼女の目の下を薄黒い半円形の こる ものう かさ 「近ごろは身体の具合はどうです。あんまり非道く起暈が、怠そうな皮で物憂けに染めていた。健三は黙っ て ひらみつ ることもありませんか」 てそのばさ / \ した手の平を見詰めた。 りつば 彼は自分の前に坐った姉の顏を見ながらこう訊ねた。 「で健ちゃんは立派になってほんとうに結構だ。お ありがと かげ まえ 「え、有難う。お蔭さまで陽気が好いもんたから、ま前さんが外国へ行く時なんか、う二度と生きて会う あどうかこうか家のことだけは遣ってるんだけれども、 ことはむずかしかろうと思ってたのに、それでもよく うち ( 3 ) 一ひど た や ばしょ ふと

8. 夏目漱石全集 12

わか てその見栄は金のカでなければ買えなか 0 たのである。私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、 帰りには元来た路を同じ船で揚場まで漕ぎ戻す。無式台のついためしい付の家は、町内にた 0 た一 あが むかえ ちょうちんっ ようじん 要心だからといって、下男がまた提灯を点けて迎に行軒しかなか 0 たからだろうと思う。その式台を上 0 た ) ばじよう そでがらみさすまた ( 9 ) つくぼう 。宅へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのところに、突棒や、袖搦や刺股や、また古ぼけた馬上 ぢようちん だろう。だから夜半から夜半まで掛って彼等はようや提灯などが、並んで懸けてあった昔なら、私でもまだ 覚えている。 く芝居を見ることができたのである。 はなやか こんな華麗な話を聞くと、私ははたしてそれが自分 の宅に起ったことかしらんと疑いたくなる。どこか下 この二三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病 町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。 つきあい ( 1 ) さむらいふん もっとも私の家も侍分ではなかった。派出な付合を気をする。そうして床に就いてから床を上げるまでに、 ( 2 ) なぬし しなければならない名主という町人であった。私の知ほゞ一月の日数を潰してしまう。 はげあたまじい 私の病気といえば、いつも極った胃の故障なので、 っている父は、禿頭の爺さんであったが、若い時分に ( 4 ) つみやぐ なじみ ( 3 ) いっちゅうぶし いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがな は、一中節を習ったり、馴染の女に縮緬の積夜具をし ( 5 ) あおやま てやったりしたのだそうである。青山に田地があって、くなる。医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、 あが そこから上ってくる米だけでも、家のものが食うには私にこの絶食を余儀なくさせるのである。だから病み むか ( 6 ) 不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三はじめより回復期に向った時のほうが、よけい痩こけ の番目の兄などは、その米を春く音を始終聞いたと言ってふら / 、する。一ヶ・月以上掛るのもおもにこの衰弱 たゝ 子ている。私の記憶によると、町内のものがみんなしてが祟るからのように思われる。 私の家を呼んで、 ' 野と称えていた。その時分の私の立胖が自由になると、黒枠のついた摺物が、時 ひかすっふ きま 235

9. 夏目漱石全集 12

久の字形に切り組んで作ったその玄関の床は、つるつも必要ですね。しかしそう急にもゆくまいから、それ あとまわ こ、ろが る光って、時によると馴れない健三の足を滑らせた。 は後回しにして、せいみ、貯蓄を心掛けたらいでし しばふ 前に広い芝生を控えた応接間を左へ折れ曲ると、それ よう。二三千円の金を有っていないと、いざという場 と接続いて長方形の食堂があった。結婚するまえ健一一一合こ、 冫たいへん困るもんだから。なに千円ぐらいでき ばんさん わたし はそこで細君の家族のものといっしょに晩餐の卓に着ればそれで結構です。それを私に預けておおきなさる いたことをいまたに覚えていた。二階には畳が敷いてと、一年ぐらい経つうちには、じき倍にしてあげます かるた あった。正月の寒い晩、歌留多に招かれた彼は、そのから」 こー、ろえ うちの一間で暖かい宵を笑い声の裡に更した記憶もあ貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感 に打たれた。 ひとむねっ 西洋館に続いて日本建も一棟付いていたこの屋敷に 「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろ ふたり は、家族のほかに五人の下女と二人の書生が住んでい でいり た。職務柄客の出入の多いこの家の用事には、それだ彼の頭ではこの疑間の解決がとても付かなかった。 」ようがく けの召仕が必要かもしれなかったが、もし経済が許さ利欲を離れることのできない彼は、驚愕の念をもって、 ないとすれば、その必要も充たされるはずはなかった。細君の父にのみあって、自分にはまったく欠乏してい こしら 健三が外国から帰 0 てきた時ですら、細君の父はさる、一種の怪力をめた。しかし千円拵えて預ける見 ほど困っているようには見えなかった。彼が駒込の奥込のとうてい付かない彼は、細君の父に向ってその方 むか に住居を構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向法を訊く気にもならずについ今日まで過ぎたのである。 、、 0 、よ ってこう一一 = ロった 0 / . しらん / 「そんなに貧乏するはずがないたろうじゃよ 「まあ自分の宅を有っということが人間にはどうしてんほなんだって」 っこ 0 すま めしつかい み まね うちふか たず こんにち 1 イ 0

10. 夏目漱石全集 12

草 よさむよい ながひばら さしむか おもちゃ 彼等が長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵など 彼の望む玩具はむろん彼の自由になった。そのなか には、健三によくこんな質間を掛けた。 にはし絵の道具も交 0 ていた。彼はよく紙を継ぎ合 まえ とっ ( 2 ) さんばそう えぼしすがた わせた幕の上に、三番叟の影を映して、烏帽子姿に鈴「お前のお父さんは誰だい」 ゅびさ を振らせたり足を動かさせたりして喜んだ。彼は新し健三は島田の方を向いて彼を指した。 い独楽を買ってもらって、時代を着けるために、それ「じゃお前の御母さんは」 しぎわどぶ を汀岸際の泥溝の中に浸けた。ところがその泥溝は薪健三はまたお常の顔を見て彼女を指さした。 たち つみば これで自分達の要求を一応満足させると、今度は同 積場の柵と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、 な なんべん 彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱じようなことをほかの形で訊いた。 「じゃお前のほんとうのお父さんと御母さんは」 所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出し しかた ~ 、りか、え て見た。そのたびに彼はの間へ逃げ込む飃の穴を健三は々ながら同じ答を繰返すよりほかに仕方が そこ 棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑なかった。しかしそれがなぜだか彼等を喜ばした。彼 みあわ たもと いけど 等は顔を見合せて笑った。 えて、いくつも生捕りにして袂へ入れた。・ よそ ある時はこんな光景がほとんど毎日のように三人の 要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、余所から貰い ひとり とりあっか 受けた一人 0 子として、異数の取扱いを受けていたのあいだに起った。ある時は単にこれだけの間答では済 しつこ まなかった。ことにお常は執濃かった。 である。 「お前はどこで生れたの」 こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見え うちあ たかやぶおお 高藪で蔽われた小さな赤い門の家を挙け しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安がる赤い卩 て答えなければならなかった。お常はいっこの質間を 常に潜んでいた。 かわ まき おさ ら おっか き す 9