ろう。イツもトライチケもまずそこから説明してか からなければならない。 ( 大正五・一・ ー一一一「東京朝日新聞」 ) 「硝子戸の中」は大正四年一月十三日から二月二十三 日まで「朝日新聞」に連載された著者の小品である。 ( 大正四・三・二八 ) 『硝子戸の中』自序 3 卩
道草 硝子戸の中 私の個人主義 津田青楓君の画 点頭録 『硝子戸の中』自序 日記・断片 ( 大正四年ー五年 ) 書簡 ( 大正四年ー五年 ) 目次 一一九五 三四 0
注 ら連載されたのである。 原稿 ( 全部ではなし ) と引きかえに稿料を渡してもらい 小説家。明治二十五年ー昭和二年 たい。Ü題目は北浜銀行の破産といったふうのものを書三六一 ( 1 ) 芥川童之介 ( 1892 ー 1927 ) 。大正期の代表的作家。東京出身。東大英 きたい。四九月から書きだすから、書いただけその時に 文科卒。大正四年 ( 1915 ) 十二月、久米正雄とともに初 買ってくれまいか、という依頼を自分にした旨を書き送 めて漱石山房を訪間している。なお、この手紙が芥川に って、一考を求めている。 与えた影響はきわめて大きく、彼は、これによって強い ( 2 ) 御大典大正四年 09 こ ) 十一月十日、京都で 自信を持って文壇に歩みだすことができたが、大正五年 行われた大正天皇即位大礼をさす。 ( 1916 ) 三月二十四日、友人恒藤恭にあてた書簡の中で、 ( 3 ) 野村伝四第一巻五三六ページ一元四 ( 9 ) 参照。 彼は「それから夏目先生が大へん鼻をほめて、わざわざ 三五九 ( 1 ) 点頭録大正五年 ( 1916 ) 一月一日から一一十一 日まで「東京朝日新聞」に連載された。 長い手紙をくれた。大へん恐縮した。成瀬は『夏目さん があれをそんなにほめるかなあ』と云って不思議がって 三六 0 ( 1 ) 亡兄の名二五九ページ一一四三 ( 3 ) 参照。 いる。あれをほめて以来成瀬の眼には夏目先生が前より ( 2 ) 正一は手品師の名にもこれあり当時の有名 もえらくなく見えるらしい。成瀬は自分の『骨ざらし』 な奇術師帰天斎正一。 が第一の作で、松岡の『鴦崛摩』がそれに次ぐ名作だと ( 3 ) リョマチで転地漱石は前年末ごろからリウマ 確信している。」と書いている。 チ気味で左の肩から腕にかけて痛みを覚え、一月末から 東大文科系の文芸雑誌。明治四十年 その治療のため湯河原温泉に行った。 ( 2 ) 新思潮 ( 1907 ) 小山内薰が創刊、当時まで断続的に第四次まで ( 4 ) 知った人中村是公のこと。第一巻五〇二・ヘー 発行された。ここは、その第四次新思潮で芥川竜之介・ ジ一五七 ( 3 ) 参照。 久米正雄・菊池寛・成瀬正一・松岡譲などを同人として ( 5 ) 谷崎君のあとの小説谷崎潤一郎は大正五年 創刊された。 ( 1916 ) 二月から東京朝日新聞に小説「鬼の面」を連載 ( 3 ) あなたのもの芥川電之介の作品「鼻」。 している。そのあとをうけて「明暗」が五月二十六日か
びきだししま 「簟笥の抽斗に仕舞っておぎました」 式張った女だというんだ」 くちぶり 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。 彼女は大事なものでも保存するような口振でこう答 「じやどうすればほんとうに片付くんです」 えた。健三は彼女の所置を咎めもしない代りに、賞め る気にもならなかった。 「世の中に片付くなんてものはほとんどありやしない。 一 - 遍起ったことはいつまでも続くのさ。たゞいろ / 、 「まあ好かった。あの人だけはこれで片が付いて」 な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけのこ 細君は安心したと言わぬばかりの表情を見せた。 小ぬ ) づ とさ」 「なにが片付いたって」 「でも、あゝして証文を取っておけば、それで大丈夫健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は でしよう。もう来ることもできないし、来たって構い黙って赤ん坊を抱上げた。 とう 付けなければそれまでじゃありませんか」 「おゝ好い子だ / \ 。お父さまの仰しやることはなん わか 「そりや今までだって同じことだよ。そうしようと思だかちっとも分りやしないわね」 綫おせつぶん えばいつでもできたんだから」 細君はこう一一一一口い / ( 、、、、 いくたびか赤い頬に接吻した。 ( 大正四・ ~ ハ・三ー九・一四 ) 「だけど、あゝして書いたものをこっちの手に入てお くとたいへん違いますわ」 「安心するかね」 「え、安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」 「まだなか / ( 、片付きやしないよー 「どうして」 「片付いたのは上部たけじゃないか。たからお前は形 たんす うわべ 一カ たいじよう たきあ ひと わか おっ 200
しをやる、ペテンに掛ける、めちゃくちゃなものであつでも説明するつもりでありますから。またそうした ります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と手数を尽さないでも、私の本意が十分御会得になった幻 見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなけなら、私の満足はこれに越したことはありません。あ こうむ ればならないのに、個人主義の基礎から考えると、そまり時間が長くなりますからこれで御免を蒙ります。 ( 大正三年十一月二十五日学習院輔仁会 れがたいへん高くなってくるのですから考えなければ において述 ) なりません。たから国家の平穏な時には、徳義心の高 ( 大正四・三 ・一一一一『輔仁会雑誌』 ) い個人主義にやはり重きを置くほうが、私にはどうし ても当然のように思われます。その辺は時間がないか ら今日はそれより以上申上げるわけにまいりません。 私はせつかくの御招待たから今日まかり出て、でき るだけ個人の生涯を送らるべき貴方がたに個人主義の 必要を説きました。これは貴方がたが世の中へ出られ た後、いくぶんか御参考になるだろうと思うからであ ります。はたして私のいうことが、あなたがたに通じ 、、ムこよ分りませんが、もし私の意味に不 たかどうカ禾冫。 明のところがあるとすれば、それは私の言い方が足り なしか、または悪いかだろうと思います。で私のい うところに、もし曖味の点があるなら、好い加減に極 めないで、私の宅までお出ください。できるたけはい
( 2 ) ヘクトー 硝子戸の中 その名をつけた犬。 : lliad ご (llias) 古代ギリシアの ( 3 ) ィリアッド = 0 一一 ( 1 ) 大きな戦争大正三年 ( 19 】 4 ) 七月二十八日、 詩人ホメーロスの作と伝える長編叙事詩。アキレスの怒 オーストリアがセルビアに宣戦したことに端を発した第 りを主題に、ギリシアがトロヤを占領したトロヤ戦争を 一次世界大戦をさす。日本も同年八月二十三日、中国に 描いたもの。 おける利権拡大と確保を目的にドイツに宣戦布告し、山 トロヤ ( 4 ) トロイ Troy (Troia)0 小アジアの西北隅に位 東半島・ドイツ領南洋諸島を占領した。 置するギリシアの古戦場。そこにトロヤ城があった。 ( 2 ) 議会が解散大正三年 ( 】 914 ) 十二月一一十五日、 アキルレウス Achilles (Achilleus) 「イリャス」 ( 5 ) アキリス 陸軍師団増設案否決によって衆議院が解散、翌年三月に の主人公。ギリシア軍の勇士で、敵 ( トロヤ軍 ) の英雄・ 総選挙がおこなわれた。 ヘクトルを討ち、その死体を戦車の後にしばりつけてト 当時は米価が騰貴したり ( 3 ) 米が安くなり : ロヤの城壁をまわる。 暴落したりして不安定な不況・好況がつづいて米価調節 チャリオット に関する勅令が公布 ( 大正四年合 9 し〉一月 ) されたり一一 ( 1 ) 軍車 cha 「 i0t ( 英 ) 。戦車。古代、戦争・ 走・行列などに用いた二輪馬車。 した。 すもう distemper ( 英 ) 。大の病気の ( 2 ) ジステンパ ( 4 ) 春の相撲当時一月に興行された大相撲春場所。 一種で、幼犬のかかりやすい急性伝染病。下痢・肺炎な 現在は初場所と呼ばれている。 どの症状を呈する。 一一 0 三 ( 1 ) マグネシア magnesia ( 英 ) 。夜間・室内撮影 ( 3 ) すぐ前の医者当時、早稲田南町漱石宅のすぐ 用のフラッシュ・パウダーに用いるマグネシウムの酸化 前には、中山という開業医が住んでいた。 物。 一一 0 六 ( 1 ) 無聊たいくつ。 = 0 四 ( 1 ) 日さん宝生新。第五巻四五三。〈ージ一毛公川 ) かくべえじし ( 2 ) 角兵衛獅子の子子どもが獅子頭をかぶり、鶏 参照。 Heetor トロヤ戦争の勇将。ここは、
( 9 ) 長生未向蓬薬去長生してまだ仙度に向って去 らず。 ( 四不老只当養一真老いずして、ひたすら真実を 養わねばならない。 三公一 ( 1 ) 独探の話成瀬正一の小説「航海」のことで、 大正五年 ( 1916 ) 十一月号の「新思潮」に掲載された。 ( 2 ) 哲学者松岡譲をさす。 ( 吉田精一 ) 445
注 の尾をつけた着物を着て、舞ったり逆立ちしたりする旅 芸人。「越後獅子」とも呼ばれ、新潟県西蒲原郡月潟地 方が発祥地。 品行。おこない。 ( 3 ) 操行 ( 4 ) 病気をした漱石は大正三年っ 9 】 4 ) 九月、四 度目の胃潰瘍にかかり約一か月病床に臥した。 やまがそこう 元和八年ー貞享二年 ( 1622 ー 1685 ) 。 一一 0 八 ( 1 ) 山鹿素行 江戸時代の者。儒学を林羅山に学び、兵学を北条氏長 に学ぶ。新宿区の宗参寺にその墓がある。 ( 2 ) 旧幕時 代明治時代に江戸時代を称した語。 あきかぜ 大正三年 ( 1914 ) 十月三十一日の ( 3 ) 私風の : 作。 ( 4 ) 猫の墓漱石の家の庭に作られていた「吾輩は 猫である」の猫の慕。 ( 5 ) その女夏目鏡子述『漱石の思ひ出』第五十二 章にもこの女について語られている。 きりてあぶり 一一 0 九 ( 1 ) 桐の手焙桐の木で作った火鉢。 三 0 ( 1 ) 単簡「簡単」に同じ。 ふつう「せけん」と読む。 三一 ( 1 ) 世間 三三 ( 1 ) 高等学校当時の第一高等学校をさす。漱石が 在学中のころは第一高等中学校と称されていた。 ( 2 ) O という人太田達人。岩手県に生まれ、第一 高等中学を経て明治一一十六年 ( 1893 ) 東京帝国大学物理 科卒業。のち、秋田中学校長などになり、大正二年 ( 19 13 ) 以後樺太中学校長をしていた。 まさごちょう ( 3 ) 真砂町文京区真砂町。 おおかわ ( 4 ) 大川の水泳場東京大学およびその予備門の学 生のための厚生施設として、当時、大川 ( 隅田川の通称 ) の両国付近の川岸にあった水泳場。 ちょうしゃ ( 5 ) 長者年長者。有徳者。 イギリスの言学者 三四 ( 1 ) スペンサーの第一原理 Herbert Spencer ( 1820 ー 1903 ) の主著 : First Prin ・ ciples こ ( 1862 ) をさす。 おおがんのん ( 2 ) 大観音文京区駒込蓬藜町にある光源寺の俗称。 大きな観音像があったが戦災で焼失した。 かばふと ( 3 ) 樺太ふつう「からふと」と称する。現在のソ 連領サ ( リンの日本称で、南半分は明治三十八年 ( 1905 ) 以後日本の領土であった。 物しをノ 三五 ( 1 ) とんびのような外套イン・ハネス ( 男子用の 外套の一種 ) をさす。その袖の形がトンビ ( 鳶 ) の羽に 似ているので、俗に「とんび」とも称した。 くりまんじゅう 太田達人が、昭和十一 ( 2 ) 栗饅頭はさっき : イ 23
田青楓君の曲 i せつかくの御依頼でこれだけのことを書きました。 むろん画家としての津田君の価値をどうこうするとい うほどのたいしたものではありません。まあ一場の茶 話ぐらいなところですから、そのつもりでお読みを願 うめくさ います。貴誌の埋草にされる分は厭いませんが、もし ・ヘージそ・つ 他に立派な評論などがあって、不足なく頁を揃えるこ みあわ とができるなら、これは掲載をお見合せくだすったほ うが、かえって私の素志に適うくらいのものなのです。 ( 大正四・一 0 ・一一『美術新報』 ) 9 、
説 いるのである。 んありはしまいかと思う」 ( 三十三 ) という反省とをも とうと たらしている。正直を尚び、ウソをきらう漱石には、 常人以上にこのの事実に苦しんだのである。その結「私の個人主義。は、大正三年 ( 一九一四 ) 十一月二 果として、「今の私は馬鹿で人に嚇されるか、あるいは十五日、学習院における講演に手を入れて書き直した 疑い深くて人を容れることができないか、この両方だものたが、特別な解説を必要としない。対手が旧制高 けしかないような気がする」とまで、不安で、不愉快等学校程度の学生であるので、比較的わかりやすく、 な気持を告白している。これは漱石の本音であったにていねいに彼のいわゆる「自己本位の立場を説明し ちがいないが、そうとしたら、いわゆる「則天去私」 たのである。「個人主義」ということばが、いくぶん とは相当の距離のある心境に相違ない。芥川龍之介が とも危険思想視された時代たから、この標題は一部の 語った晩年の漱石には、こういう 一面が見てとれるの危惧の種となったが、話をきいたあとで、「ああいう個 ではないかという感じがする。 人主義なら結構た」と、軍事教官某が賛成したという しかし、また「硝子戸の中 , のいくつかの追想や印逸話が伝わっている。 象が、スイートとでもいえそうな明るい詩青に包まれ ていることも否定できない。その最後の一節は、「冬 「点頭録」は、大正五年 ( 一九一六 ) 一月一日から、 だ冬だと思っているうちに、春はいっしか私の心を蕩九回にわたって「朝日新聞」にのせたものであって、 揺しはじめた , という述懐が象徴するような、美しい見られるように三部になっているが、ことにあとの 文章で終っている。閉された「硝子戸の中」から出て、「軍国主義、と「トライチケ」とからは、前々年勃発し 「硝子戸をあけ放って、静かな春の光に包まれながら」た第一次世界大戦に対する漱石の批判をきくことがで 「一眠り眠る」ことが、楽しい期待として、彼を待ってきる。漱石はもっと書きつづけるつもりであったらし 397