東京 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 12
59件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 12

注 の尾をつけた着物を着て、舞ったり逆立ちしたりする旅 芸人。「越後獅子」とも呼ばれ、新潟県西蒲原郡月潟地 方が発祥地。 品行。おこない。 ( 3 ) 操行 ( 4 ) 病気をした漱石は大正三年っ 9 】 4 ) 九月、四 度目の胃潰瘍にかかり約一か月病床に臥した。 やまがそこう 元和八年ー貞享二年 ( 1622 ー 1685 ) 。 一一 0 八 ( 1 ) 山鹿素行 江戸時代の者。儒学を林羅山に学び、兵学を北条氏長 に学ぶ。新宿区の宗参寺にその墓がある。 ( 2 ) 旧幕時 代明治時代に江戸時代を称した語。 あきかぜ 大正三年 ( 1914 ) 十月三十一日の ( 3 ) 私風の : 作。 ( 4 ) 猫の墓漱石の家の庭に作られていた「吾輩は 猫である」の猫の慕。 ( 5 ) その女夏目鏡子述『漱石の思ひ出』第五十二 章にもこの女について語られている。 きりてあぶり 一一 0 九 ( 1 ) 桐の手焙桐の木で作った火鉢。 三 0 ( 1 ) 単簡「簡単」に同じ。 ふつう「せけん」と読む。 三一 ( 1 ) 世間 三三 ( 1 ) 高等学校当時の第一高等学校をさす。漱石が 在学中のころは第一高等中学校と称されていた。 ( 2 ) O という人太田達人。岩手県に生まれ、第一 高等中学を経て明治一一十六年 ( 1893 ) 東京帝国大学物理 科卒業。のち、秋田中学校長などになり、大正二年 ( 19 13 ) 以後樺太中学校長をしていた。 まさごちょう ( 3 ) 真砂町文京区真砂町。 おおかわ ( 4 ) 大川の水泳場東京大学およびその予備門の学 生のための厚生施設として、当時、大川 ( 隅田川の通称 ) の両国付近の川岸にあった水泳場。 ちょうしゃ ( 5 ) 長者年長者。有徳者。 イギリスの言学者 三四 ( 1 ) スペンサーの第一原理 Herbert Spencer ( 1820 ー 1903 ) の主著 : First Prin ・ ciples こ ( 1862 ) をさす。 おおがんのん ( 2 ) 大観音文京区駒込蓬藜町にある光源寺の俗称。 大きな観音像があったが戦災で焼失した。 かばふと ( 3 ) 樺太ふつう「からふと」と称する。現在のソ 連領サ ( リンの日本称で、南半分は明治三十八年 ( 1905 ) 以後日本の領土であった。 物しをノ 三五 ( 1 ) とんびのような外套イン・ハネス ( 男子用の 外套の一種 ) をさす。その袖の形がトンビ ( 鳶 ) の羽に 似ているので、俗に「とんび」とも称した。 くりまんじゅう 太田達人が、昭和十一 ( 2 ) 栗饅頭はさっき : イ 23

2. 夏目漱石全集 12

夏目漱石全集 道 草他 昭和 49 年 8 月 15 日初版発行 著作者 編集者 発行者 印刷所 製本所 発行所 夏 江 角 目漱石 藤淳 田精 川源義 中光印刷株式会社 株式鈴木製本所 会社 キ未にかどかわしよてん 会社角川書店 東京都千代田区富士見 2 ー 13 振替東京 195208 102 電話東京 ( 265 ) 7111 く大代表 ) Prined ⅲ」 apan 落丁・乱丁本はお取替え致します 0393 ー 572712 ー 0946 ( の

3. 夏目漱石全集 12

ろと回想している。そして三月には京都に遊びに行き、 そこで病気となったが、その折、姉危篤の電報をうけ とっている。この幼年時代の回想と、姉 ( 小説中の比 田の妻なっ ) の死とが、「道草ーを書く動機の一つをな したことは、はやく前人の説があり、否定できないと 思われる。 吉田精一 すでに自伝的な作品であるから、ここに語られてい 「道草 , は漱石の死の前年に書かれたもので、長編とる事実を、彼の経歴に照し合わせてみると、だいたい しては「心」につぎ、最後の完成した作品となった。次のようなリストができる。 大正四年 ( 一九一五 ) 六月三日から九月十四日にかけ明治三十六年 ( 一九〇三 ) 一月、イギリス留学より帰朝。三月、文京区駒込千 て、百二回にわたり「朝日新聞」にのり、その年の十 駄木町五十七に住居を定める。四月より第一高等学 月単行書として出版された。 。十月、三女栄子出生。 校および東京帝国大学こ呂ーー 「道草」は漱石の全長編の中で、最も自伝的な匂いの 漱石数え年三十七歳。 強いもので、ほかの作品が彼の婁験を描いたものだと 明治三十七年 ( 一九 0 四 ) すれば、これは彼の経験を描いた唯一のものといえる のである。 四月、明治大学講師を兼任。十二月、「吾は猫であ るーを書く。漱石三十八歳。 蠍石はこの作に先立って、一月十三日から二月二十 三日にかけて、三十九回にわたり「硝子戸の中」を発明治三十八年 ( 一九〇五 ) 表し、その中で、自分の子供の時分の思い出をいろい 一月、「猫」を「ホトトギス」に発表。同月、「倫敦 解説 391

4. 夏目漱石全集 12

道草 五 ( 1 ) 遠い所この小説は、漱石の作品中、私小説的 要素の濃厚なものとして知られ、主人公三の体験は、 ほとんどが、漱石自身の体験と密接につながっている。 ゆえに、ここにいう「遠い所」は、明治三十三年 ( 1900 ) 九月初めから漱石が約二年間の留学生活を送ったイギリ スがそれにあたることになる。 ( 2 ) 駒込帰朝後の明治三十六年 ( 1903 ) 三月、漱 石は牛込区 ( 現在、新宿区 ) 矢来町にあった鏡子夫人の 実家から家族をひきとり、前に友人斎藤阿具が住んでい た本郷区 ( 現在、文京区 ) 駒込千駄木町五十七番地の家 にひとまず落ちつき、三十九年 ( 1906 ) 十二月、同区西 片町十番地ろノ七号に転宅するまで、ここに住んだ。 せんだぎ おいわけ ( 3 ) 千駄木から追分へ出る通り駒込千駄木町か ら本郷の大通りに通ずる道。途中駒込追分町と向ケ岡弥 注釈 こまごめ 生町の第一高等学校の間あたりを通る。漱石は明治三十 六年 ( 1903 ) 四月から第一嵩等学校と東京大学で英文学 を講じている。 ( 4 ) 車屋車宿。車ひきをかかえて人力車や荷車な どを用てる家。 ねづごんげん ( 5 ) 根津権現現在の文京区根津一丁目にある根津 神社。須賀神社ともいう。 礼装の際にかぶる円く高い帽子。 六 ( 1 ) 山高帽 ( 2 ) 活計暮しむき。生計。 ちょうか ( 3 ) 町家商店。または商店街にある家。 たてよこ けじゅす ( 4 ) 毛繻子綿糸と毛糸を経緯にして綾織にした布。 滑らかで光沢があるので、衣服の襟や袖口に用いる。 きげんかい 七 ( 1 ) 機嫌買気分屋。感情の変化の激しいこと、そ のような性質の人。 うたいけいこ へ ( 1 ) 謡の稽古漱石は、英国留学前の熊本在住時代 から謡を始め、帰朝後も宝生新について稽古を続けてい る。 しゅせんど ( 2 ) 守銭奴金銭欲の強い人間。貯える一方で、活 用し散ずることを知らないもの。 てまえみそ 九 ( 1 ) 手前味唸自慢すること。「手味噌」ともいう。 おおぶろしき ( 2 ) 大風呂敷大げさに言うこと。またはそういう 408

5. 夏目漱石全集 12

一巻三七八。ヘージ ) 参照。 明治二十九年 ( 2 ) 今度は熊本の高等学校に : 漱石は明治三十六年 ( 1896 ) 四月、熊本第五高等学校に赴任している。 一騫 ( 1 ) 私は高等学校へも : ・ ( 1903 ) 一月イギリス留学から帰国後、第一高等学校・ 明治三十三年 ( 198 ) ( 3 ) 命令どおり英国へ : 東京帝国大学・明治大学の英文学講師となった。 九月のことである。 イギリス留学中に構想し、東京帝国大 James Main Dixon ( 1856 ー 1933 ) 。 ( 2 ) 文学論 ( 4 ) ジクソン 学で講義した「文学論」のことで、明治四十年 ( 1907 ) イギリスの語学者。明治十九年 ( 1886 ) 来日、同二十五 五月出版された。 年 ( 1892 ) まで東京帝国大学で英語・英文学を講義した。 ま一一。 ( 英 ) 。二つ折り形。シェ 1 ク一一会 ( 1 ) 礼を正さしむる「えりを正さしむる」と同じ。 一一七六 ( 1 ) フォリオ ネルソンがトラファル ス。ヒアの戯曲の初期の版本の形式。 一穴七 ( 1 ) England expects めくらかきのそ ガル海戦のさいに兵士を激励するために発したといわれ ( 2 ) 盲目の垣覗き見ても見えない、という意味か るこ、こ、よ 0 ら、なんにもならないことのたとえ。 ( 2 ) ネルソン HO 「 a ( 一 0 Nelson ( 一 758 ー】 805 ) 。イ Henri Louis Bergson ( 1859 ー 毛七 ( 1 ) ベルグソン ギリスの艦隊総司令官。一八〇五年、フランス・イスパ 1941 ) 。フランスの哲学者。野村隈畔著「ベルグソンと ニヤ連合艦隊をジ・フラルタル海峡入口のトラファルガル 現代思潮」 ( 大正三年〈 1914 〉五月刊 ) など、当時さかん 岬の沖で撃減し、ナポレオンの野望をくじいたがこの海 に紹介された。 戦で戦死した。 ( 2 ) オイケン Rud01f Eucken ( 1846 ー 1926 ) 。ド ィッの哲学者。徳富蘇峰監修「オイケン」 ( 大正三年〈 19 一穴九 ( 1 ) 朝日新聞の文芸欄第七巻四四五ページ三一一三 ( 2 ) 参照。 14 〉九月刊 ) など、当時、さかんに紹介された。 ひひ みやけせつれい どれもこれも。 ( 3 ) 比々 ( 2 ) 三宅雪嶺さん三宅雄二郎 ( 万延元年ー昭和一一 明治 一一芫 ( 1 ) 文芸とはまったく縁のない書物を : ・ 十年、〕 860 ー 1945 ) 。評論家。明治十六年 ( 】 883 ) 東京大 三十四年 ( 1901 ) 九月二十二日夏目鏡子あての書新 ( 第 学哲学科卒業。当時「日本及日本人」の主宰者であった。 433

6. 夏目漱石全集 12

ろう。イツもトライチケもまずそこから説明してか からなければならない。 ( 大正五・一・ ー一一一「東京朝日新聞」 ) 「硝子戸の中」は大正四年一月十三日から二月二十三 日まで「朝日新聞」に連載された著者の小品である。 ( 大正四・三・二八 ) 『硝子戸の中』自序 3 卩

7. 夏目漱石全集 12

Rousseau ( 1712 ー 1778 ) の『懺侮録』 ( : Les Confes ・ 0 ( 1 ) 昔あるお大名が : に語られるもの。 sions こ ) 。一七七〇年に書き上げられ死後刊行された。 めぐろ ド・クインセイの ( 2 ) 目黒東京都目黒区地方。 ( 4 ) オ。ヒアムイーターの懺悔 たいろう 『アヘン常用者の告白』をさす。第八巻四一三ページ三九 一一七一 ( 1 ) 大牢すばらしいごちそう。 ( 2 ) 参照。 ( 2 ) 大森教授大森金五郎。明治一一十七年 ( 】 894 ) 東京帝国大学国史科卒業。漱石より一年後輩にあたる。 ( 5 ) 懺悔大正四年 ( 1915 ) の「断片」に「或人ハ このとき学習院教授。 告白ガイイトイウ。或人ハ告白ガ悪イトイウ。告白ガイ イノデモ悪イノデモ何デモナイ、人格 / アルモノガ告白一一七三 ( 1 ) 高等学校第一高等学校をさす。 ヲスレ・ハ告白ガョクナリ、シナケレ・ハシナイ方ガョクナ ( 2 ) 高等師範以前、師範学校・中学校・高等女学 ル / デアル。美人ガ笑エ・ハ笑ウ方ガョク泣ケ・ハ泣ク方ガ 校の教員を養成するために設けられていた学校。 ョクナル様ナモノデアル。悪女ハ何方シテモイケナイ / 毛四 ( 1 ) 京都の理科大学京都大学理学部の前身。 デアル」とある。 ( 2 ) 久原さん久原躬弦 ( 安政一一年ー大正八年、一 8 55 ー 1919 ) 。理学博士。第一高等学校長・京都帝国大学 一一六七 ( 1 ) 痛くあて字。ひどく。 総長などを歴任。 ( 2 ) 米噛あて字。耳の上の、物を噛むと動くところ。 かのうじごろう ( 3 ) 嘉納治五郎さん第二巻五〇三べージ一元三 ( 3 ) 私の個人主義 参照。 漱石は、明治二十八年 ( 18 ( 4 ) 一年の後私は : 一一六八 ( 1 ) 学習院華族・皇族の青少年教育機関として明 95 ) 四月、一年半ほど務めた東京高等師範学校英語教授 治十年 ( 1877 ) に創設された私立学校。現在の学習院大 嘱托を辞して、愛媛県松山中学校に赴任した。 学の前身。 ( 2 ) 岡田さん岡田正之。このとき学習院教授で弁毛五 ( 1 ) 知事戦前は中学校教員の任免権は各府県の知 事にあった。 論部の部長であった。 こめかみ 落語「秋刀魚の殿様」 イ 32

8. 夏目漱石全集 12

注 ら連載されたのである。 原稿 ( 全部ではなし ) と引きかえに稿料を渡してもらい 小説家。明治二十五年ー昭和二年 たい。Ü題目は北浜銀行の破産といったふうのものを書三六一 ( 1 ) 芥川童之介 ( 1892 ー 1927 ) 。大正期の代表的作家。東京出身。東大英 きたい。四九月から書きだすから、書いただけその時に 文科卒。大正四年 ( 1915 ) 十二月、久米正雄とともに初 買ってくれまいか、という依頼を自分にした旨を書き送 めて漱石山房を訪間している。なお、この手紙が芥川に って、一考を求めている。 与えた影響はきわめて大きく、彼は、これによって強い ( 2 ) 御大典大正四年 09 こ ) 十一月十日、京都で 自信を持って文壇に歩みだすことができたが、大正五年 行われた大正天皇即位大礼をさす。 ( 1916 ) 三月二十四日、友人恒藤恭にあてた書簡の中で、 ( 3 ) 野村伝四第一巻五三六ページ一元四 ( 9 ) 参照。 彼は「それから夏目先生が大へん鼻をほめて、わざわざ 三五九 ( 1 ) 点頭録大正五年 ( 1916 ) 一月一日から一一十一 日まで「東京朝日新聞」に連載された。 長い手紙をくれた。大へん恐縮した。成瀬は『夏目さん があれをそんなにほめるかなあ』と云って不思議がって 三六 0 ( 1 ) 亡兄の名二五九ページ一一四三 ( 3 ) 参照。 いる。あれをほめて以来成瀬の眼には夏目先生が前より ( 2 ) 正一は手品師の名にもこれあり当時の有名 もえらくなく見えるらしい。成瀬は自分の『骨ざらし』 な奇術師帰天斎正一。 が第一の作で、松岡の『鴦崛摩』がそれに次ぐ名作だと ( 3 ) リョマチで転地漱石は前年末ごろからリウマ 確信している。」と書いている。 チ気味で左の肩から腕にかけて痛みを覚え、一月末から 東大文科系の文芸雑誌。明治四十年 その治療のため湯河原温泉に行った。 ( 2 ) 新思潮 ( 1907 ) 小山内薰が創刊、当時まで断続的に第四次まで ( 4 ) 知った人中村是公のこと。第一巻五〇二・ヘー 発行された。ここは、その第四次新思潮で芥川竜之介・ ジ一五七 ( 3 ) 参照。 久米正雄・菊池寛・成瀬正一・松岡譲などを同人として ( 5 ) 谷崎君のあとの小説谷崎潤一郎は大正五年 創刊された。 ( 1916 ) 二月から東京朝日新聞に小説「鬼の面」を連載 ( 3 ) あなたのもの芥川電之介の作品「鼻」。 している。そのあとをうけて「明暗」が五月二十六日か

9. 夏目漱石全集 12

の臭気があり麻酔作用がある。 ( 3 ) 大学にいるころ漱石は明治三十六年 ( 1903 ) とし ( 2 ) 年歯正しくは、「年齢」。 四月から四年間東京帝国大学英文科の講師であった。 よっ・や ( 4 ) 高等工業で講演大正三年 ( 1914 ) 一月十七日、 一一哭 ( 1 ) 四谷の大通り四ッ谷見附から新宿にいたる通 浅草蔵前の東京高等工業学校で「無題」と題して講演し りをさす。現在は「新宿通り」と呼ぶ。 たのをさすのであろう。 一一四九 ( 1 ) 寺田寅彦をさすと思われる。 一一五 0 ( 1 ) 喜いちゃん桑原喜市。牛込区 ( 現在、新宿区 ) 一一五七 ( 1 ) 浅草東京高等工業学校は当時浅草蔵前にあっ こ 0 谷柳町市ヶ谷小学校での漱石の友だち。 なかちょう ( 2 ) 講演四二五。ヘージ一三三 ( 2 ) 参照。 一一五一 ( 1 ) 中町新宿区中町。 にほんばしせとものちょう 一一哭 ( 1 ) 日本橋の瀬戸物町現在の中央区日本橋室町一 ふつう「主に」と書く。 ( 2 ) 重に 丁目付近の旧町名。 ( 3 ) 銀座江戸幕府の銀貨鋳造発行所。駿府 ( 静岡 もと ( 2 ) 伊勢本伊勢本亭。 市 ) にあったが、慶長十七年 ( 1612 ) 江戸尾張町に移転、 ( 3 ) 色物講談などに対して、落語・踊り・奇術な 享和元年 ( 1801 ) 蠣殻町に移転、明治一一年 ( 1869 ) 造幣 リ J を一いら % 局設置とともに廃止された。 ちょうば・こうし おおたなんぼ ( 4 ) 大田南畝寛延一一年ー文政六年 ( 1749 ー 1823 ) 。 ( 4 ) 帳場格子商家の帳場のかこいに立てた低い格 子。 江戸後期の狂歌人・小説家・随筆家。通称は直次郎、号 よものあから は南畆・蜀山人・四方赤良など。 ( 5 ) 井桁井戸の縁を木で四角に組んだもの。 なかいり なんぽゅうげん 一一五一一 ( 1 ) 南畝莠言大田南畝の随筆集。二巻。文化十四一一五九 ( 1 ) 中入相撲その他の興行の休憩時間のこと。 たなべなんりゅう 年 ( 1817 ) 刊。風俗・調度・文学・逸話など百般につき、 ( 2 ) 田辺南竜二代目田辺南竜。講釈師。明治十七 古書などからの抄録に感想を書き加えたもの。 年 ( 1884 ) 没。 ごうはっ 一一契 ( 1 ) 毫髪わずかなこと。 ( 3 ) 美音会第十巻四〇六ペ 1 ジ一六 O(N ) 参照。 れいろう しんとみざ ( 2 ) 玲瓏透明なさまの形容。 ( 4 ) 新富座関東大震災 ( 大正ナ一一年合 923 〉 ) まで イ 30

10. 夏目漱石全集 12

ました。しかし私は黙然としていました。獅を書いた 六月ニ十ニ日 ( 火 ) 午後一一時ー三時牛込区早稲田南 時多くの人は翻案か、または方々から盗んだものを並 町七番地より京橋区滝山町四番地東京朝日新聞社内山本 べたてたのだと解釈しました。そんな主意を発表した 松之助へ ものさえあります。 啓今日 ( 二十二日 ) の十九回目の道草の仕舞から むしゃのこうじ しやくさわ 武者小路さん。気に入らないこと、癪に障ること、 二行目にある「裡に強い健三の頭」は「理に強い健三 ちりあくた 憤慨すべきことは塵芥のごとくたくさんあります。その頭」です。意味が通じなくなるからちょ 0 と御注意 れを清めることは人間のカでできません。それと戦うを願います。 うんぬん よりもそれをゆるすことが人間として立淤なものなら私の原稿が汚ないのに校正を云々するのは気の毒で ば、できるたけそちらのほうの修養をお互にしたいとすから、たいがいはそのま、にしておきます。これも よろ 思いますがどうでしよう。 そのま & で宜しいので正誤には及びません、たヾ校正 私は年に合せて気の若いほうですが、近来ようやく者にちょっと通じておいてください。以上 そっちの方角に足を向けだしました。時勢は私よりも 六月二十二日 夏目金之助 先に立っています。あなたがそちらへ目をつけるよう 山本様 になるのは今の私よりもすっと若い時分のことだろう 一八朝日へ秋声連載の件 と信じます。以上 六月十五日 夏目金之助 六月ニ十五日 ( 金 ) 午後四時ー五時牛込区早稲田南 武者小路実篤様 町七番地より京橋区滝山町四番地東京朝日新聞社内山本 松之助へ 一七朝日へ「道草」の校正ミスを 拝啓私のあとの小説につきおって御相談のお約東 りつ ! うち 352