記憶 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 12
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1. 夏目漱石全集 12

私はまだ母以外の千枝という女に出会ったことがない。 で頭の中に現れるだけなので、それから紺無地の絽の あと 母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今着物と幅の狹い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るも たど 遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿のはたヾ彼女の顔ばかりになる。母がかって縁鼻へ出 ばあ っていっても、おさんに見える。晩年に生れた私にて、兄と碁を打っていた様子などは、彼等二人を組み すがら かたみ は、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えら合わせた図柄として、私の胸に収めてある唯一の記念 れずにしまったのである。 なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子を着て、同 めがね すわ 私の知っている母は、常に大きな眼鏡を掛けて裁縫じ帯を締めて坐っているのである。 をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球の大私はついぞ母の里へ伴れてゆかれた覚えがないので、 さしわたし きさが直径二寸以上もあったように思われる。母はそ長いあいだ母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らし あごえりもと れを掛けたまミすこし顋を襟元へ引き付けながら、 ていた。自分から求めて訊きたがるような好奇心はさ かす 私をじっと見ることがしば / \ あったが、老眼の性質らになかづた。それでその点もやはりぼんやり霞んで やおおばん ( 1 ) よ を知らないそのころの私には、それがたゞ彼女の癖と見えるよりほかに仕方がないのだが、 母が四ッ谷大番 たしか のみ考えられた。私はこの眼鏡とともに、、 しつでも母町で生れたという話だけは確に聞いていた。宅は質屋 ふすまおも はりま ( 2 ) いくとまえ の背景になっていた一間の襖を想い出す。古びた張交であったらしい。蔵が幾戸前とかあったのたと、かっ しようじしだいむじようしんそくうんぬん のうちに、生死事大無常迅速云々と書いた石摺などもて人から教えられたようにも思うが、なにしろその大 あざやかに目に浮んでくる。 番町という所を、この年になるまで今だに通ったこと ろ かたびら 夏になると母は始終紺無地の絽の帷子を着て、幅の のない私のことだから、そんな細な点はまるで忘れて くろじゅす 狹い黒繻子の帯を締めていた。不思議なことに、私のしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今 ( 3 ) 記憶に残っている母の姿は、、 しつでもこの真夏の服装有っている母の記念のなかに蔵屋敷などは決して現れ っ いしずり たま し・こと まち あらわ しかた らふたり うち

2. 夏目漱石全集 12

る手傷そのものであった。二つのものは紙の裏表のご疑の目でじっと自分の心を眺めている。 とくとうてい引き離せないのである。 むか 私は彼女に向って、すべてをにす「時」の流れに従 つきあ 私が高等学校にいたころ、比較的親しく交際った友 って下れと言った。彼女はもしそうしたらこのたいせ ( 2 ) 達の中に O という人がいた。その時分からあまり多く つな記憶がしだいに知けてゆくだろうと嘆いた。 ゆきき しげ ほうゆう 公平な「時」は大事な宝物を彼女の手から奪うかわの朋友を持たなかった私には、しぜん 0 と在来を繁ぐ するような傾向があった。私はたいてい一週に一度く りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。 ぽか らいの割で彼を訪ねた。ある年の暑中休暇などには、 烈しい生の歓喜を夢のように暈してしまうと同時に、 ( 4 ) おおかわ ( 3 ) まさごちょう なま・ ~ 、 今の歓喜に伴う生々しい苦痛も取り除ける手段を怠ら毎日欠かさず真砂町に下宿している彼を誘 0 て、大川 の水泳場まで行った。 ないのである。 O は東北の人だから、ロの利き方に私などと違った 私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げ ても、彼女の創口から滴る血潮を「時」に拭わしめよ鈍でゆ 0 たりした調子があ 0 た。そうしてその調子が いかにもよく彼の性質を代表しているように思われた。 うとした。い くら平凡でも生きてゆくほうが死ぬより 何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼 も私から見た彼女には適当だったからである。 かくして常に生よりも死を尊いと信じている私の希の怒ったり激したりする顔を見ることができずにしま ( 5 ) ちょうしゃ った。私はそれだけでも十分彼を敬愛に価する長者と 望と助言は、ついにこの不愉快に充ちた生というもの して認めていた。 のを超越することができなかった。しかも私にはそれが おうよう 子実行上における自分を、凡庸な自然主義者として証拠彼の性質が鷹揚であるごとく、彼の頭脳も私よりは 立てたようにみえてならなかった。私は今でも半信半はるかに大きかった。彼は常に当時の私には、考えの した、 たっと だち とも

3. 夏目漱石全集 12

草 一なかだち うち 夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしよう とした。また専有物たと信じていた。 まえ ( 2 ) たより まもなく島田は健三の目から突然消えて失くな 0 た。「これからはお前一人が依怙だよ。好いかい。し 0 か 河岸を向いた裏通りと賑かな表通りとの間に択まってりしてくれなく 0 ちや不可いよ」 しぶ こう頼まれるたびに健三は言い渋った。彼はどうし いた今までの住居も急にどこへか行ってしまった。お すなおこども 常とたった二人ぎりになった健三は、見馴れない変なても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与え ることができなかった。 宅の中に自分を見出たした。 みそ かどぐちなわのれん その家の表には門口に繩暖簾を下げた米屋だか味咐健三をものにしようというお常の腹の中には愛に駆 屋だかがあ 0 た。彼の記憶はこの大きな店と、茹でたられる衝動よりも、むしろ欲に押し出される邪気が常 大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食 0 たこに働いていた。それが頑是ない健三の胸に、なんの理 、こ。しかし自分の新しく移っ屈なしに、不愉快な影を投げた。しかしその他の点に とをいまだに忘れすにしナ ( 1 ) イメジ ついて彼はまったくの無我夢中であった。 た住居についてはなんの影像も浮かべ得なかった。 かたみ きれい 二人の生活はわずかの間しか続かなかった。物質的 「時」は綺麗にこの侘びしい記念を彼のために払い去 の欠乏が原因になったのか、またはお常の再縁が現状 ってくれた。 くや お常は会う人ごとに島田の話をした。口惜しい / \ の変化を余儀なくしたのか、年歯のゆかない彼にはま るで解らなかった。なにしろ彼女はまた突然健三の目 と言って泣いた。 ( 3 ) たゝ から消えて失くなった。そうして彼はいつのまにか彼 「死んで祟ってやる」 けんまく 彼女の権幕は健三の心をます / 、彼女から遠ざけるの実家へ引き取られていた。 ひと 「考えるとまるで他の身の上のようだ。自分のことと 媒介となるにすぎなかった。 四十四 すま み にぎや わか がんぜ ひとり

4. 夏目漱石全集 12

今度は健一二のほうが苦笑する番になった。彼はその 「君等は幸福だ。卒業したらなにになろうとか、なに をしようとか、そんなことばかり考えているんだか青年にフランスのある学者が唱えだした記憶に関する 新説を話した。 ら」 ( 3 ) お・は 人が溺れか、ったり、または絶壁から落ちょうとす 青年は苦笑した。そうして答えた。 まぎわ あなた 「それは貴方がた時代のことでしよう。今の青年はそる間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、 のんき 、、よこその頭に描き出すことがあるという事実に、この哲学 れほど呑気でもありません。なんになろうとカオ冫 をしようとか思わないことはむろんないでしようけれ者は一種の解釈を下したのである。 「人間は平生彼等の未来ばかり望んで生きているのに、 ども、世の中が、そう自分の思いどおりにならないこ とっさ その未来が咄嗟に起ったある危険のために突然塞がれ ともまたよく承知していますから」 なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍て、もう己は駄目だと事が極ると、急に目を転じて過 せちがら も世知辛くなっていた。しかしそれは衣食住に関する去を振り向くから、そこですべての過去の経験が一度 のぼ 物質的の間題にすぎなかった。したがって青年の答に に意識に上るのだというんだね。その説によると」 は彼の思わくと多少喰い違った点があった。 青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事 しあわ 「いや君等は僕のように過去に熕わされないから仕合状をいっこう知らない彼は、それを健三の身の上に引 いっせつな せたというのさ」 直してみることができなかった。健三も一刹那にわが 全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたも 青年は解しがたいという顔をした。 「あなただってちっとも過去に煩わされているように のとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。 はみえませんよ。やつばり己の世界はこれからだとい うところがあるようですね」 おれ なお おもしろ ( 2 ) ふさ ひき

5. 夏目漱石全集 12

( 5 ) はうへいこうしよう おちゃみず ( 6 ) ゃなぎばし のろ / 、砲兵工廠の前から御茶の水を通り越して柳橋 まで漕がれつ行っただろうと想像する。しかも彼等 の道中は決してそこで終りを告げるわけにゆかないの だから、時間に制限を置かなかったその昔がなおさら 私の家に関する私の記憶は、総じてこういうふうに たね 新びている。そうしてどこかに薄ら寒い憐れな影を宿回顧の種になる。 さかのぼあすまばし している。だから今生き残っている兄から、ついこな大川へ出た船は、流れを溯って吾妻橋を通り抜けて、 ( 7 ) いまど たちしばい ゅうめいろうそば いだ、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた今戸の有明楼の傍に着けたものだという。姉達はそ ( 8 ) 時には驚いたのである。そんな派出な暮しをした昔も こから上って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく あったのかと思うと、私はいよ / 、夢のような心持に設けの席に着くべく、小 屋へ送られてゆく。設けの席 ( 9 ) たかどま なるよりほかはない。 というのは必す高土間に限られていた。これは彼等の いみかざり ( 1 ) さる -C かちょう 、飾なりが、一般の目によく着く便 そのころの芝居小屋はみんな猿若町にあった。電車服装なり顔なり かんのんさま も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に 入れたがるからであった。 の先まで朝早く行き着こうというのだから、たいてい っ のことではなかったらしい。姉達はみんな夜半に起き幕のあいだには役者に随いている男が、どうぞ楽屋 ぶっそう へお遊びにいらっしゃいましと言って案内に来る。す て支をした。途中が物騒だというので、用心のため、 ちりめん ると姉達はこの縮緬の模様のある着物の上に袴を穿い 下男がきっと供をしていったそうである。 あとっ ( ) たのすけ ( Ⅱ ) とっしよう ( 2 ) つくど ( 3 ) かききょこちょう ( 4 ) あげば た男の後に跟いて、田之助とか訥升とかいう贔屓の役 彼等は筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、 せんす かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るの者の部屋へ行って、扇子に画などを描いてもらって帰 ってくる。これが彼等の見栄たったのたろう。そうし である。私は彼等がいかに予期に充ちた心をもって、 記念のためであった。 くるま お み あわ 23 イ

6. 夏目漱石全集 12

ありがた みあわ で、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合私はその時、君などの講義を有難がって聴く生徒がど せて、どうも秋刀魚は目黒に限るねといったような変この国にいるものかと申したのです。もっとも私の主 ことば な言葉を発したというのが話の落になっているのです意はその時の大森君には通じていなかったかもしれま りつば せんから、この機会を利用して、誤解を防いでおぎま が、私から見ると、この学習院という立派な学校で、 立派な先生に始終接している諸君が、わざ / \ 私のよすが、私どもの書生時代、あなたがたと同年輩、もし うなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きくはもう少し大きくなった時代、には、今の貴方がた ( 1 ) たいろう になろうというのは、ちょうど大牢の美味に飽いた結よりよほど横着で、先生の講義などはほとんど聴いた ことがないといっても好いくらいのものでした。もち 果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったの ろんこれは私や私の周囲のものを本位として述べるの ではないかと思われるのです。 ( 2 ) この席におられる大森教授は私と同年かまたは前後でありますから、圏外にいたものには通用しないかも しれませんけれども、どうも今の私から振り返ってみ して大学を出られたかたですが、その大森さんが、か って私にどうも近ごろの生徒は自分の講義をよく聴かると、そんな気がどこかでするように思われるのです。 現にこの私は上部だけは温順らしく見えながら、決し ないで困る、どうも真面目が足りないで不都合だとい うようなことを言われたことがあります。その評はこて講義などに耳を傾ける性質ではありませんでした。 なま 台終怠けてのらくらしていました。その記憶をもって、 の学校の生徒についてではなく、どこかの私立学校の女 義生徒についてだったろうと記憶していますが、なにし真面目な今の生徒を見ると、どうしても大森君のよう 人ろ私はその時大森さんに対して失礼なことを言いましに、彼等を攻撃する勇気が出てこないのです。そう った意味からして、つい大森さんに対して済まない乱 あや こゝで繰り返していうのもお恥ずかしいわけですが、暴を申したのであります。今日は大森君に託まるため こ 0 かえ まじめ おら うわべ 271

7. 夏目漱石全集 12

あさぎ 通の講談ものとして考える程度であった。それでも彼 の浅置の表紙をした古い本を一二冊取り出した。そう してあたかも健三を江戸名所図絵の名さえ聞いたこと は昔出た風俗画報を一冊残らず綴じて持っていた。 こども とりあっか のない男のように取扱った。その健三には子供の時分本の話が尽きた時、 , 。 彼よ仕方なしに間題を変えた。 ちょう その本を蔵から引き摺り出してきて、頁から頁へとた「もう来そうなもんですね、長さんも。あれほどいっ きよう さしえ んねんに插絵を拾って見てゆくのが、なによりの楽みてあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日 ( 5 ) あ ( 1 ) する であった時代の、懐かしい記憶があった。なかにも駿は明けの日だから、遅くとも十一時ごろまでには帰ら むかいや のれん ( 2 ) えちごや なきゃならないんだから。なんならちょっと迎に遣り 河町という所にいてある越後屋の暖簾と富士山とが、 ( 3 ) しようてん ましようか 彼の記憶を今代表する焼点となった。 ゅうちょう この時また変化が米たとみえて、火の着くように咳 「この分ではとてもそのころの悠長な心持で、自分の き 研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にき入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。 したくっても出てこまい あせりあせ 三は心のうちでこう考えた。たヾ焦躁に焦躁って かどぐち くっぬぎげた ばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒で やがて門ロの格子を開けて、沓脱へ下駄を脱ぐ音が もあった。 兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はそ「やっと来たようですぜ」と比田が言った。 しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へは のあいだを繋ぐためか、しきりに書物の話をつゞけよ っこ 0 うとした。書物のことならいつまで話していても、健 「また悪いの。驚いた。ちっとも知らなかった。いっ 三にとって迷惑にならないという自信でも持っている から」 ようにみえた。不幸にして彼の知識。 よ、常山紀談を晋 がちょう なっ . しこ 0 おそ あ と

8. 夏目漱石全集 12

私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみのたことがある。そのころの私は昼寐をすると、よく変 こも しつでも籠っ 心が、母に対する私の記憶のうちには、、 なものに襲われがちであった。私の親指が見るまに大 た ている。愛憎を別にして考えてみても、母はたしかにきくなって、いつまで経っても留らなかったり、ある あおむき 品位のある床しい婦人に違なかった。そうして父より し。イに眺めている天井がだん / 、上から下りてき だれ も賢こそうに誰の目にも見えた。気なすかしい兄も母て、私の胸を抑え付けたり、または目を開いて普段と だけには畏敬の念を抱いていた。 変らない周囲を現に見ているのに、身体だけが睡魔の とりこ 「御母さんはなんにも言わないけれども、どこかに怖擒となって、いくら藻掻いても、手足を動かすことが あと いところがある」 できなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳 ことば 私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方からの分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこ あきら ひつばりだ 明かに引張出してくることが今でもできる。しかしその変なものに襲われたのである。 と れは水に融けて流れか、った字体を、きっとなってや私はいつどこで犯した罪か知らないが、なにしろ自 きわ っと元の形に返したように際どい私の記憶の断片にす分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それ めいりよう ぎない。そのほかのことになると、私の母はすべて私をなんの目的でなんに遣ったのか、その辺も明瞭でな とぎ にとって夢である。途切れ途切れに残っている彼女の いけれども、子供の私にはとても償うわけにゆかない おもかげ 面影をいくらたんねんに拾い集めても、母の全体はとので、気の狹い私は寐ながらたいへん苦しみだした。 ほうふつ ても髣髴するわけにゆかない。その途切れ / 、に残っそうしてしまいに大きな声を揚けて下にいる母を呼ん なかば だのである。 ている昔さえ、半以上はもう薄れすぎて、しつかりと はし・こたん おおめがね 二階の梯子段は、母の大眼鏡と離すことのできない、 はめない。 いしすり はりま しようじじだいむしようじんそくうんぬん ひるね あが ある時私は二階へ上って、たった一人で、昼寐をし生死事大無常迅速云々と書いた石摺の張交にしてある おっか ゆか ちがい ひとり こわ わか おさっ お 264

9. 夏目漱石全集 12

めないようになっていた。しかし私には移すまえ一度 念頭に置いていないように思われた。 私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてある布団のはっきりとそれを読んだ記憶があった。そうしてその 上に横になった。病後の私は季節に不相当な黒八丈の記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としてい えり めいせん 襟のかゝった銘仙のどてらを着ていた。私はそれを脱まだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常 におい めんどう あおむけね ぐのが面倒だから、そのま仰向に寐て、手を胸の上の匂が漂っていた。 あわ ヘクトーは元気なさそうに尻尾を垂れて、私の方へ で組み合せたなり黙って天井を見詰めていた。 背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口か ら流れる垂涎を見た。 はつあき あくるあさ 翌朝書斎の縁に立って、初秋の庭の面を見渡した 「どうかしてやらないと不可い。病気たから」と言っ こけ 時、私は偶然また彼の白い姿を苔の上に認めた。私はて、私は護婦を顧みた。私はその時まだ看護婦を使 かえ ゅうべ 昨夕の失望を繰り返すのが厭さに、わざと彼の名を呼っていたのである。 とくさ ばなかった。けれども立ったなりじっと彼の様子を見私は大の日も木賊の中に寐ている彼を一目見た。そ ことば うして同じ言葉を看護婦に繰り返した。しかしへクト 守らすにはいられなかった。彼は立木の根方に据えっ うち ちょうすばち ーはそれ以来姿を隠したぎり再び宅へ帰ってこなかっ けた石の手水鉢の中に首を突き込んで、そこに溜って あまみす こ 0 いる雨水をびちゃ / \ 飲んでいた。 だれ この手水鉢はいっ誰が持ってきたとも知れす、裏庭「医者へ連れてゆこうと思って、探したけれどもどこ すみころ ひっこ のの隅に転がっていたのを、引越した当時植木屋に命じにもおりません」 ろっかくがた 子て今の位置に移させた六角形のもので、そのころは苔家のものはこう言って私の顔を見た。私は黙ってい もら もんじ こ。しかし腹の中では彼を貰い受けた当時のことさえ が一面に生えて、側面に刻み付けた文字もまったく読オ っ おもて す ふとん うち よだれ いけな しつぼ

10. 夏目漱石全集 12

草 なび った。石と石の罅隙からは青草が風に驩いた。それでれた。彼はの底に引っ張り込まなければ巳まないそ みちちがい ぞうり ! き もそこは人の通行する路に違なかった。彼は草履攣の の強い力が二の腕まで伝わった時、彼は恐ろしくなっ さが あくるひ ま、で、何度かその高い石段を上ったり下ったりした。て、すぐ竿を放り出した。そうして翌日静かに水面に お ゆくて ひと 坂を下り尽すとまた坂があ 0 て、小高い行手に杉の浮いている一尺余りの緋鯉を見聞した。彼は独り怖が あおぐら 木立が蒼黒く見えた。ちょうどその坂と坂の間の、谷った。・ くにち かやふき になった窪地の左側に、また一軒の萱葺があった。家「自分はその時分誰とともに住んでいたのだろう」 ひっこ を表から引込んでいるうえに、少し右側の方へ片寄っ / にはなんらの記憶もなかった。彼の頭はまるで白 かけちやや ていたが、往来に面した一部分には掛茶屋のような雑紙のようなものであった。けれども理解力の索引に訴 かまえこしら しようぎ な構が拵えられて、常には二三脚の床几さえ体よく据えて考えれば、どうしても島田夫婦とともに暮したと えてあった。 いわなければならなかった。 よしずすき のそ 葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。 ふじだなっ その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出 りようはじさ・、 された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まってい それから舞台が急に変った。淋しい田舎が突然彼の まわり た。周囲には躑躅が多かった。中には緋鯉の影があち記億から消えた。 まろし うちおまろげ ( 2 ) れんじまどっ こちと動いた。濁った水の底を幻影のように赤くするすると表に櫺子窓の付いた小さな宅が朧気に彼の前 とり その魚を健三はぜひ捕たいと思った。 にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中 たれうち みはから にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折 ある日彼は誰も宅にいない時を見計って、不細工な えさ 布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌とともに池の中にれ曲っていた。 おびや 投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かさ彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終 ( 1 ) ほていちく すきま のほ ぶさいく さおほう だれ さみ こわ