明暗 - 断」月 ( 大正五年初夏ごろ ) 同時代人の批評 「明暗」評一 「明暗」評一一 「明暗」評三 四三六 中村星湖豊〈 相馬御風 = 四四五 相馬泰三 四咒 吉田精一
が記してある。外套がいらない暖かい土曜日とあるから三月ごろであろうか。五月から「明暗」に とりかかった ( このとき湯河原にいた ) というから、漱石の頭の中には「明暗」のことがいつばい だったわけである。そうすると、このノートは外国の長篇小説の筋を書き出したにしても、相当印 象をとどめていたと思われる。私が前に触れたあの表現法はヘンリイ・ジェイムズの作品のそれと 似ているそうであるが、私が演劇的だということで例にあげたドストエフスキイよりもジ = イムズ しかし、とにかくこのノートされた小説の筋はこのロシアの作家の「白 ふうなのかもしれない。 痴」にも似ているという人もある。といってノートの筋の終りの方は「白痴」とも違うようだ。へ ンリイ・ジェイムズの作品の筋とも大いに異なる模様だ。 どちらにしても、消極、サッド、ノーブル、シャイ云々というようなふうに人物を整理して考え たのは、ほかならぬ漱石自身なのだから、彼は頭の中で何ものかを確かめる気持があったのであろ う。何ものか、とはこれからかかる「明暗」の筋というのは大胆すぎるが、漱石好みの筋であるこ とは先す間違いな、。 「明暗」という作品をもしずっと距離をおいて遠望するとなると、ひょっとしたら、このノート の筋が浮きあがってこないわけでもない。それに面白いことは、「明暗」の筋についてノートは芝 居で見合いをするところまでであるが、清子のことをその名前さえもあるいは存在の気配さえも記 されていない。清子の出現があまりにも大問題であり大前提であるがためのことかもしれない。 468
考えない。 そこに漱石の作家としての「業」があり、また天才 漱石晩年の心境が、よりよく漢詩にあらわれており、が存したのだと私は考える。そして漱石はあれで行き萄 小説はイヤイヤ書いていたのだ、という、 一部に流布着いたのではなく、もっと豊かな可能性をもった、将 されている伝説は、私の肯定することを躊躇するもの来を期待し得た作家であり、またもし「明暗」が完成 である。あるいはそういうことを人に語ったであろう。されれば、あるいは彼の最大の傑作となったかも知れ ない、と見る説に、私は賛成するものである。 漱石は自らいうようにたしかに「明暗ーを書きつつ、 自己の「俗了」を感じたであろう。それほどに「明暗」 の世界は、外にはあらわれない人間の内面の「我 , の みにくさをあばき通している。不愉快な心理の解剖図 である。しかしそのことは、人間性の上澄みのみをす くいあげた小綺麗な小説と、全く別の性格を露呈して いる。漱石の小説の主題はエゴイズムの分析だと一言 で云われるけれども、「明暗」ほどその点で幅が広く、 徹底しているものはないのである。こういう人間の奥 おもり 底にまで錘を下ろして、根源的な醜さを計量すること のできたのは、作家としてのよい意味でのアクの強さ を示すものであろう。これほどのアクをもった作家が、 それを十分に表現しうる小説という様式から、容易に 解放されたろうとは考えない。
解 に、あるいは戯画めいた存在としてあやつられている幅を広めており、決して「一時の賑やかし」でない意 あとは、何としても否定できない。彼があわれまれる味を、あの作品に付与している。 それにも係わらず、推測される「明暗」の今後の発 べき一面と、尊敬されるべき一面をもつにもかかわら ず、読者は一種の反感を感ぜざるを得ないのではない展の上からいうと、もうこの小説における小林の使命 は終っているのではないか。今後は殆んど彼の登場す か。彼もまた「私」を脱却していない点で、まさに る場面はなくなるのではあるまいか、そうしてちがう 「明暗」の小世界の住人たるに恥じない。 漱石は、小林にも「それはそれとしての存在」をあ意味ではあるが、小林の荷ったほどの意味を、清子が 代ってになうことになるのではないか。とすれば、や たえ、津田・お延等と同様の資格をあたえているが、 それ以上のものではない。小林の言説を「ひどく上すはりこの作品は、津田の「精神更生」でないまでも、 べりのした々しいもので、さながら大道芸人の口上津田とお延との二人の関係なり、「私」なりが、事実に かいちよく よって戒飭される。そして、おのおのが、それ自身の の如く、徒らに雄弁であって一向刧実な力がない」と して、「一時の賑やかしにあ、いふ人物を事件の中へもち場に立ちつつ所を得るという結末におちつく、と 点綴したに過ぎない」 ( 谷崎潤一郎 ) という批評は、苛見るのが妥当であろう。 酷にすぎるであろう。小林は小林なりに存在理由をも「虞美人草」においての藤尾の死のような結末が、「明 っており、ほかの「明暗」の男女と「水と油」 ( 正宗白暗」にも予定されていたかどうか、容易に断言できな 、。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。 鳥 ) 的対照をなしているとしても、彼の他の本格的小 説、「それから」や「行人」や「ころ」やに見られそれとは別の話になるが、この作品を漱石文学の究極 ない存在であり、これを重要視した江藤の解釈はあやと見て、たとえば唐木順三のように「明暗」を書き上 まってはいない。たしかに彼がいることで、「明暗」のげたのちの漱石が、創作の筆を絶っだろうとは、私は
説 月九日午後六時四十分、永久に呼吸をとどめたのであ星湖を最初の指摘者として、唐木順三の具体的分析な どに明らかなところであって、改めてくり返すに及ば 「明暗」は誰も云うように、こまかく、綿密に構成さない。そこから「明暗」一篇が津田の「精神史生記」 れた作品である。到るところに伏線が縦横に張られてであると、唐木は判断を下している。津田の病気が、 というのが いる。もっともそれは漱石の他の作品、たとえば「そ医者の診断によれば「結核性」ではない、 れから」や「心」にも共通する、建築的構成であるとひとくちにいえば、この判断の根拠である。 いえばそれまでであるが、しかしその緊密に入れ組ん そしてこの判断は多くの「明暗」批評のほゞ一致す でいる緻密さは群を抜いており、他のあらゆる作品をる見解である。津田の精神的な病気を治療しようとす 越えているように見える。結局は大団円にまで到りつる吉川夫人やお秀の作為の結果として、「奥さんらし いていないから、その伏線や構成の巧妙さを十二分に い奥さん」に教育される為に、何等かの手術をうける なっとくすることはできないけれども、筋の論理的なべきお延の運命がどうなるか。小林の予言にあるよう かいちよく 開展は、たといそれが「トゲトゲしく堅苦しい理智に に、津田がどういう形で「事実其物に戒飭される」か 依って進行」 ( 谷崎潤一郎 ) していようとも、否定するは、残念ながら具体的にはわからない。しかし一方で ことはできないのである。そのことがいろいろな批評「天ーにあたるものを暗示しつつも、今日残されている 家や研究者によって、たとえば小宮豊隆の「明暗の構「明暗」は、「私」に満ちた不愉快な人間ばかりが跳梁 成」のように、推理小説風な結末の推測を可能ならしし、角つき合せている世界である。手法としては「去 めた所以である。 私的」 ( 平野謙 ) かも知れないが、イデ工としての「去 この作品の意図が、最初の二、三節に象徴的に現わ私」はまだ姿を見せていないのである。 れていることは、すでに多くの批評家や研究者、中村もっとも以上の定説に反して、津田の病根を「結核 イ 53
久米はその日、即ち「忘れもしない、十一月の十六天去私」の実践として「明暗」が書かれていたとすれ 日」のことを、「漱石先生追慕号」と銘うった「新思潮」ば、漱石はもっと早くこのことばを門弟たちに語りか 終刊号 ( 大正六年三月 ) に書いている。それが彼等のけていたであろうから。 しかし「則天去私」ということばにこだわらないで、 健康な漱石の顔の見納めであったが、「共夜吾々は、 殆んど共場限りの雑談しか伺はないで、いつも十二時「則天去私」的な心境によって「明暗」を書き出した、 というなら、それはその通りにちがいない。そうでな 近くまで居残るのを、十時少し過ぎ辞去して了った。 後から聞くと、其時残った森田さんや安倍さんたちにければ久米や松岡等の文章にあるような発言のされる は、又々『則天去私』の文学観に就ての、一層詳しい 理由がない。 ということは「一一一口葉自体としては大した お話があったのたさうである。私は今でも猶あの時早こともない」 ( 平野謙 ) かも知れないが、作意の上では く帰ったのを悔んでゐる」 ( 臨終記 ) と書きつけてい 深い関係があり、少くとも作者のインテンションとし ては、これを「所謂『即天去私』の如きは、この ( 明 るからである。 これを要するに、「則天去私 , ということばが、文学暗の ) 人間臭い憎悪や軽蔑の上にうかんだ、片々たる 観、あるいは人生観として発言されたのは大正五年十浮舟にすぎない」 ( 江藤淳 ) と一蹴し去ることは、当を 一月以降と一応定めてよいが、それの内容を成す思想得ていないということになるのである。 さて、「明暗」は大正五年 ( 一九一六 ) 五月二十六日 は徐々に漱石の内面に培われていた。「明暗」がこの から十二月十四日まで、百八十八回にわたって、朝日 態度で書かれていると、作者自身の言明があるからに は、少くとも漱石は「明暗」を書きながら、この思想新聞にのった。漱石は十一月二十二日から発病して床 の地固めをして行ったと見てよいだろう。もしそれが につき、ついに原稿紙の右肩に小さく團と書いただけ 執筆のはじめから作りあげられており、意識的な「則で、一行一字をもつけることができないままに、十一一
また同じように言分があり、けっして細君の言分は健三を説得することは出来ないのと同じように、 健三の言分だって細君を説得できない。「道草」は正にそのことをこそ書いたもののように私は考 えている。 ところが「明暗」となると、たとえば「道草」の健三と同じような人物を登場させたとしても、 健三の言分に対して「道草」の場合ほどは同情的ではない。つまり手キビシイ。 勿論、「明暗」の津田は「道草」の健三と違って、自分のカで立派に金を稼いでいるし、子供も 何人かかかえている。昔の養父から請求される借金も、必ずしも払わなくともいいのに払いさえし ている。色々の点で違う。しかしそれは表面上のことであって、人間というものは、つきつめれば 津田も健三も似たりよったりの欠点をもっている。少なくともたとえ健三が対象であったとしても、 最初から手キビシク扱かおうとするのではないか、と思われるのである。その手キビシサにこそ作 家は喜びを抱いているために、その手キビシサに興味を抱くのでない人にはあまり面白くない。 いっても「明暗」では、たとえばお延に対しても十分に、その自分勝手さを描いているけれども、 「道草」にくらべるとあの細君に対するよりは、お延に対しての方が、十分にその言分をいわせて いる。十分にお延の立場にたち、お延の身になっている。それは最初からそうなのだ。言分もいわ せるが、それが即ち自分勝手な、ということがいわれている。こういう意味のキビシサなのだが、 それにしても若い人向きとはいえぬ。 460
明暗
性」のものと見、彼のうちに「心機一転」や「精神史「天 , とか「道ーとかでは解決されない、人間的次元の 生」は考えられないとして、むしろ津田とお延を中心対決である。小林に、代表されるものは、社会的弱者 とする人間のさまざまな組み合せによる、相対的なカたる人間の、社会的な秩序の破壊の意志、上流階級へ 関係の変化を主題とする作品と見たのは平野謙の所説の憎悪と復讐心である。この存在を強調することで、 である。平野の説は「明暗」の批評というよりも、「明家庭を中心とする「明暗」の内側の世界は、「小林によ 暗」にひきかけての文学の本質についての間題提起と って、代表される社会的・世俗的価値判断によって、 して重要な意味をもっているが、それはしばらく措き、外側から規定されている」と考えることになるのであ 立場から云えば、当然イデ工としての「則天る。 去私」とはほとんど無縁のものとなり、そして今後の 江藤のような解釈によれば、津田やお延たちの勿体 発展を待って重要な主題の展開と完成が行われるとい ぶった生活の仕方や、彼等の熕悶を贅沢の沙汰で、知 うふつうの考察に反し、「未完のまの現在のすがた識階級の遊戯以上には出ていないという所から、漱石 で見事な先駆的作品ということができる」という結論文学の歴史的限界をそこに設定する見方に反して、漱 に落ちつかざるを得ない。 これは卓抜ではあるが、作石の作家としてのあたらしい可能性を、「明暗」のう 者の主体的な意図には反する解釈というべきだろう。 ちに発見し、「明暗」以後の漱石に期待をかけること になるのは当然である。 もう一つの卓抜な新説は、こゝに登場する小林とい う人間に、津田・お延・お秀らをひきくるめただけの たしかに、小林の存在に、この意味でのアクセント にな、 重さを荷わせようとする、江藤淳の解釈である、云わをうつことは、漱石の今日的意義を拡大し、増長する ば、「相当の閑と金のある連中の内心の苦悩」に対しことになるであろう。だが一面小林が作者から深い同 て、別世界の、別階級の世界の対置である。それは情と理解をもって取り扱かわれてはいず、時に諷刺的 ひま イ 5 イ
島信夫 、説は、若い人にはそう面白くないというような気が 私自身の経験からいうと、「明暗」というる = する。私は二十歳前後に読んでそう思った。 そのころ、「門」や「行人」や「こゝろ」などにはひきつけられた。つまり「明暗」には大した ことも書かれていないし、何のために長々とこんなことを読み続けさせられているのか、分らない、 とでも思ったのだろう。 則天去私という言葉も当時から耳にしていたし解説にもあったはずである。だが則天去私を若い 論人がほんとうに分ったと思うのもむしろ不思議かもしれない。その反対に分らないからといってい 品 つきょに反対の方にまわり、別の解釈の立場に立った小説の読み方でもって割りきろうとするのも 作 おかしなことである。 作ロ疆 作者の意地っ張り