象的な国、にまさって文学的である。 をかぎり、内観するならば、そこに明暗の質のちがう この分類の仕方もまたいささか機械的たという批評 雑多の内容がある。その中心の最も明瞭なものを焦点 があろう。宗教にしても、人生間題にしても、、 (Focus) とする。この焦点はまもなく移動して、また と混合して文学の材料となるのがふつうであると考え 別の焦点が識域の中心を占める。かようにして、 CI 第の意識冫 こおける、個人的一生の一時期におけるられるが、その点はしばらく措く。漱石によれば、文 学の内容はこの四種の材料に随伴する情緒を生命とす 、い社会進化の一時期における、というように三 冫しかなる るものであるから、四の材料が数量的こ、 種類に拡大観察することができるとしている。 原則の下に推移するか、増進するか、静止の状態にあ ところで文学は感情を随伴する経験を内容とする。 すなわち情縉的要のともなわないものは文学ではなるか、すなわち、新材料・新感覚などの間題を考察せ ねばならぬとした。 対象の世界は文化の発達、知識の進歩とともに、文 このような見地から漱石はます単純な覚経験の、 単純な感情を随伴するものからはじめて、次第に複雑学の材料も拡大され、それに従って、それに伴うも な経験のそれに検討を及ぼしている。こうして通常のまた増加する。その増加は感情転置法、感情の拡大、 生活経験を基本として、文学内容を分類すると、四つ感情の固執の三つの法則によってなされると漱石は考 はんちゅう の範疇、すなわち、 C 感覚的、い人事、超自然えた。ここにも彼の心瑁学的解釈の特色を見ることが できよう。 、知識というようになる。自然界はの標本、 善悪喜怒哀楽の人間の喜劇悲劇は、宗教は、人生次に彼はの性格内容について論じ、に伴う幻惑 こ対しておこす、作者が材 間重の観念は県のそれぞれ標本となる。 { はの具として、読者が著書冫 体の度に正比例するものであるから、 C 、はより抽料に対する創作時の、い作者の材料たるべき人間・ 、 0 報 9
文学論 べきは読者の了解しえたるところなるべきを信す。も学的内容たりうべきいっさいのもの、換言すれば (F ちろん、その個々として資格あるがゆゑにその合併し十 f) の形式に改めうべきものを分類すれば、 たるものもまた当然、しかあるべしと推論するにあら ′こじん の四種となるべく、自然界はの標本にして、の標 ず、魚も肉も野菜も米も麦もともにみな吾人食物の一 しばゐ 部たりうべきも、これ等のある両者を合はせ用ゐれば本は人間の芝居、すなはち善悪喜怒哀楽を鏡に写した 時に腹痛下痢を誘起するがごとく、以上に述べ来りしるもの、の標本は宗教的、国は人生問題に関する 内容の一つ / 、が文学的内容となりえたりとて、ある観念を標本とするものなり。 あは 人あるひはいはん。この他に心理学者のいはゆる審 特別の組み合せを行へば存外の失敗を来すことなしと はいひがたし。されども事実上概していへばこの種の美なるものあり。文学は一種の芸術なり、されば吾 りつ 聚合物は常に立淤なる文学的内容として重んぜらるる人がこれに対する感情はすなはち審美感想にあらずや、 まさ これを算入せざる理由いかにと。されども余は答へて ものにして、なほ二品料理は一品料理に勝ると一般な できふでき いはん。吾人が文学に対して生する情緒が概して審美 るべし。しかしてその取り合せの出来不出来、すなは あらた 的なることは明白なる事実なれども、こは、たゞまへ ち調和法に関しては別に章を史めて論するところある きた に挙げたるに付随して起り来るものにして、単独に かくのごとぎ一種の情緒あるにあらず。ゅゑにしひて 先にも述べしごとく、情緒は文学の試金石にして、 畍にして終なりとす。ゅゑに会百態のにおいて、審美的情緒なる語を用ゐんとせば、以上のうちに、あ いやしくも吾人がを付着しうるかぎりは文学的内容るものを引き抜きて、しか名づくれば足る。これ余が として採用すべく、しからざる時は用捨なくこれを文特別にこの項目を置かざりし所以なり。さればその審 学の境土の外に駆り出さざるべからす。しかして今文美情緒の起原に関する諸説、たとへば Schille 「の ゅゑん
心理的ー感情的観念 ( 表象 ) の拡大すなわち象徴的意義のうえからは、千古不渝の現象で 第二標準厩念 対象的ー人間的有意義の内容 ある。 フォルケルトの普通的典型的といえるもおそらくこ 第一標準における感情化せる直観は、多くは個々の 場合において言うのである。この個々の場合を拡大しの意義にほかならないであろう。 この拡大法は、対象的にいえば人間的有意義の内容 て意識に上れる事象をば、普遍的、典型的、総合的に 見ることが、また文芸に対するときの心理現象であるである。第一標準では、単に形式と内容との統一とい が、この心理現象は、観念 ( 概念にあらす ) の力を待ったのである。この標準のみならば、統一さえあれば、 たねばならぬ、ゆえにこれを感情的観念すなわち感情文芸は如何様の者でも宜しいわけになるのであるが、 を起す観念の拡大という。 そうでない、統一はなければならぬが、内容に制限約 ここに普遍的、典型的というこころをゲーテは徴束がある、これを人間的有意義の内容というものであ 的の文字をもって、現わしている。ゲーテは以為らく、る。 いっさいの芸術は現象の皮相にあらすして、現象の真人として価あるものを意義に充てるものを作る。こ 相を現わすべぎものである。真相とは事象の典型、すれが、フォルケルトの新案である。この有意義の意義 なわち根原的現象 Urphänomenon をいうので、このがすこふる難物たが、前の心理的名目と相対比すると、 意義よりいえばいっさいの文芸はことごとく象徴的でおのずから分明になると思う。裏をいえば、フォルケ あると。たとえば、ゲーテのイフィゲニエに見ゆる境ルト氏は平凡主義の文学や極端なる自然主義の文学を 遇のごときは今日の世にはまたとないことであろう、 ばこの標準のうえから排斥する人である。あまりに熕 しかしながら、イフィゲニエ姫の胸中に湧き出でた種瑣に陥れる写生文なぞもますお叱りを受けるべきほう 種の感想、憧憬、悲愁等は、人間の根原的現象として、であろう。 おもえ 0 0 当んこふ 4 はん 404
文学論 第一編文学的内容の分類 第一章文学的内容の形式 ( F + f ) ーー・・心理的説明 第二章文学的内容の基本成分 簡単なる感覚的要幸ーー触覚ーー温度ーー・・・味覚 , ーー嗅 人類の内部心理作用ーーー恐怖・ーー怒ーー争闘ーー同 感ーー God 一 va ーー父子間の同感ー・ - ! Rhodo 意気ーー Co ュ 0 s ーーー忍耐ーーー VioIa —Gri- selda ーーー両性的本能・ーー Coleridge のト 0 2 Browning のト 0 ~ ミま 0 g 、、 2 えに一 s ーーー複 雑情緒、、ー嫉妬ー・ー忠義ーー、。こーー抽象的 観念・・ー超自然的事物ーー・概括的真理ーー格一言 第三章文学的内容の分類および その価値的等級 目次 七四 感覚ーー人事ー、ー超自然ーー知識ー・ー審美 Ruskin の美の本源説。。ー耶蘇教の神ーー , 極楽 類霊ーー妖婆ーーー変化ーー人間の感応ーー超自然 の文学的効果ーーー人生と文学 第二編文学的内容の数量的変化 第一章の変化 識別力の発達ーー事物の増加 第二章の変化 感情転置法・ーー、。ゝ 3 ドーー・感情拡大法ーー・感 情固執法 第三章 に伴なふ幻惑 〔作家の材料に対する場合〕ー , 連想の作用にて醜を化 して美となす表出法ーーー描き方の妙ーーーの奇警 部分的描写ーー人事の両面解格 言の矛盾 〔読者の作品に対する場合〕ーー感情の記憶。ーー Mrs. Siddons ーーー自己関係の抽出ーーー G 】 oster ーー善悪 の抽出—Art for Art 派ーー非人情ーー - 崇高 詩人 CoIeridge の火事見物ーーー不徳ーー道化趣味 Fa 】 sta ー ! 純美感ーー知的分子の除去 第四章悲劇に対する場合 一 8 一宅 プしプし
つぜん 前者にゆずったと見ることができる。さらに「英文学考えたように械然とわけることができるかどうかは別 形式論」は、文学を Form と Matte 「に区別し、その間題である。であるから漱石の試みたように、あ引 の Form の面に限って詳説しているのであるから、 るいは t-æについて、別々に論じることが可能であるか この講義につづく「文学論」は、自然「内容」の方面どうかもまたもう一つの間題である。しかしとにかく、 に関する研究の報告となったのであって、形式の面に文学を「認識的要素」と「情緒的要素」、いいかえれば ついてふれようとしていないのである。 知と情意とにわけて、それから出発するという態度そ もともと、「文学論」を論じるにあたり、形式と内のものが、心理学的な特色を語っているのである。 漱石は文芸の軌範もしくは上位のイデ工たる、美も 容とに分けてかかるということがすでに一つの間題で ある。それは「科学的」であるかもしれないが、「文学しくは芸術一般との関連において、美の一様式として 的」であるかどうかは疑間であろう。芸術の場合、形文学を眺めるということをしない。あるいはまた、文 芸を社会的な事実として、その発生や環境との関係に 式とはなれた内容はなく、内容をはなれた形式はない からである。しかしこれは便宜的な方法として、一応最も強く光をあて、意義や本質をもそこから説明しょ みとめてよい。次に問題となるのは、漱石の基本としうとする見方をもとらない。 この意味で彼の態度は哲 た F ( 観念 ) 十 ( ( 情緒 ) という公弐である。漱石は学的でもなければ、社会学的でもない。あくまでも、 これを疑うべからざる前提とし、これから出発して、 経験的な与件としての文学作品を出発点とし、それの r-æおよびの両面にわたって論を進めている。 内面的な解析を中心として歩を進めている。 内容に立入って解説すると、ます漱石は人精神を これもまた文学を論じる一つの態度であるに相違な 、。もちろん文学の場合に最も大きな要素として、根本的に「意識の流れ」と見、川の流れのように瞬間 ととの存在することは疑いえないが、それが漱石の の絶え間もなく流動すると考える。意識の一定の瞬間
文学論 { のみ存在して、それに相応すべぎを認めえざ る場合、いはゆる : fear 0 ( everything and fear ま nothing" のごときもの。すなはちなんらの理由なく して感ずる恐怖など、みなこれに属すべきものなり。 第一編文学的内容の分類 Ribot はその著「情緒の心理』にこの種の経験を四大 別してさらに付記して日く「かくのごとく人体諸機能 第一章文学的内容の形式 の合成的結果すなはち普通感覚の変化に基づき毫も知 およそ文学的内容の形式は ( F 十 3 なることを要的活動の支配を受けざる一種純正、しかも自治的方面 す。は焦点的印象または観念を意味し、はこれにを感情において見出だすことを得。」 以上三種のうち、文学的内容たりうべきはにして、 付着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象また そな は観念の二方面すなはち認識的要素と情緒的要すなはち (F + ( ) の形式を具ふるものとす。 素との結合を示したるものといひうべし。吾人につぎ詳述せんにその適例なる幾何学の公理ある が日常経験する印象および観念はこれを大別して三種ひは Newton の運動法則「物体は外よりカの作用す るにあらざれば静止せるものは終始その位置に静止し、 となすべし。 ありてなき場合すなはち知的要素を存し情的運動しつ、あるものは等速度をもって一直線に進行 要素を欠くもの、たと〈ば吾人が有する三角形の観念す」のごとき文字は単に吾人の知力にのみ作用するも のごとく、それに伴なふ情緒さらにあることなきもの。のにしてその際毫もなんらの情緒を喚起せず。あるひ に伴なうてを生ずる場合、たと〈ば花、星等はいふ、かの科学者が発見もしくは間題解決に際し最 高度の情緒を感じうるの理いかん。しかりこの情的要 の観念におけるがごときもの。 ごじん
—Shakespeare, T ミ e ミ、 ~ 4 Act II. この内容はもとより忍耐に限らるるにはあらざれど sc. iv. ll. 96 ー 9. も、忍耐と恋の混和を巧みに描き出せる好例なりとす。 あだ Viola これをきき他し恋にことよせ、おのが切なき心 前者は恋を包むための忍耐なれども、こゝにはこ 情を打ち明くる。公間うて言ふ れと少しく趣を異にする堪忍の例を紹介すべし。そは 2 And whaes her history 7 妻が夫に対し柔順の徳を守るところにあらはれたるも えら ミ 0 ぶ . A blank, my lord. She never told her のにて、余が特にこゝにこの例を選みたるはこの情が よく文学的内容たりうるを証すると同時に他に一二の But let concealment, like a worm i' the bud 主意なきにあらず。夫人崇拝の西洋にありて、かゝる Feed on her damask ・ cheek 】 she pined in 例ははなはだ奇異の観あるべく、現に近世英文学にお thought. いてはかくのごときものを求むるもたうてい得がたか And with a green and yellow melancholy るべし。もとより桒が夫に対し堪へ忍ぶは世の常態な She sat, like patience on a monument, れば、いづれの世にもこの種の文学的内容多きはいふ Smiling at grief. Was not this love indeed ~ を待たざれども、こ、に述べんとする例のごときはま 】 ay say more, 「 ear ・ ことに西洋文学中無類のものなるべく、近代の婦人が はた deed 決して堪へあたはざる苦しさを堪へ果せるを描きしも 0 shows are more than will; for still we のなり。 Patient GriseIda (Maria Edgeworth の小説 prove 中 0 き G ミなるものあれども、その内容に 多大の類似あるにはあらず ) の物語は古来三大文豪の Much in our vows, but little in our 一 ove. ・ —ll. 112 ー 21. 手に触れたるものにして、① Boccaccio の『十日物 ( ママ ) た
禽獣の三種のについて論じている。ととはけっ不自然の垣をめぐらし , たものと見ている点に、漱石 きよく表現技巧の間題に帰し、これに説明を加えてい の面目が見えるのである。 るが、についてはふれていない。 これは一つには文 以上は第一編「文学的内容の分類」第二編「文学的 学内部の間題を逸脱するおそれがあるからであろうが、内容の数量的変化」の概要である。全体を通じて分類 一つには究極において文学の本質的意義に直結し、間 ないし叙述は、科学的を期したのであろうが、あまり はんさ 題が複雑になることを恐れたのであろう ( アリストテ にも繁瑣で、また平面的なきらいがあり、縦横に引用 レスのカタルシスなどはここに帰属する ) 。 されている英文学の教養知識については頭を下げさせ たた彼は読者がどのような心理でどのような幻惑をはしても、通常の読者を困惑させるものがある。これ 作品からうけるかについてはふれている。直接にはリ に対して第三編「文学的内容の特質」と第四編「文学 ポオの説に仮りて、文学が作者の技巧によって潤色さ的内容の相互関係」とはいくぶんともおもむきをこと れた間接経験であるがゆえに、量的・質的に直接経験にする。ことに第一二編がそうである。 との差異があり、それが快感をあたえる。もっとも読 第三編は文芸と科学の性格との対比にはじまり、 者は鑑賞に際して、自己関係、善悪の観念、知的分子「文芸上の真」と「科学上の真」の区別に終っており、 の三つを除去してのぞまねばならぬとした。これは漱何人も異存のないところであると同時に常識的でもあ 石自身もいうように、事あたらしい説ではないが、そる。第四編は「文芸上の真」を発揮する手段方法とし れを心理的な面から解説しているところに若干の特色ての修辞論である。 がある。さらに道徳を「一種の情緒」とし、道徳的分 修辞論とは、彼によれば、あたえられた材料をいか 子が文学の一大要素であることをみとめ、「道徳は文に表現すれば材料がも「ともよく詩化されるか、美化 学に不用なりといふは、当然広かるべき地面を強ひてされるかを解決する方法であり、それは世人のふつう 4 幻
言うまでもなく、有意義有価値とは最も広い意味に観的感情の貴重なる対象となるのである。この意義よ 解すべきものだ。人間として価あるものという以上は、 りして、審美的関係が、はじめて大いなる人間的価値 いっさいの人生はことごとくその中に含まるるはもちの仲間入りをすることができるのだ。 ろんである。善悪正邪、尊卑、禍福等を舞台として起 という訳は、すべての大いなる人間的価値はことご る道徳的価値の人生を始として、宗教的い、芸術的とく個々相、皮相、表面相、虚無相等を折伏するから 3 、科学的国、価値の人生よりひいては、形而上的価で、たとえば、科学および哲学は種属および法則の認 値の人生国、および快楽派的価値 ( いわゆる美的生活 ) 識のためにカめてこれをなし、宗教は人間の感情を神 内、に至るまでことごとく網羅さるべきものである。 に向けてこれを為し、道徳は人としての理想的価値を これに反して、無意義なる内容、何者をも語らざる実現せんがためにこれを為すがごとし。たゞ、直観的 内容やあまりに奇怪に失せる内容はこの標準のうえよ感情という心理作用に拠って人間的有価値の現象を捕 り排斥すべきものだ。 捉するのは美的関係の特権である。へ ッペルが「真の きた さて、しからば、この第二標準概念は究意見のうえ詩人は自家の要求を掲け来って、全人類の要求を時す ひっきよう からは、どうなるのかといえば、その目的は左のとおるものなり」と言ったのは、畢竟、「人として有価値の 現象ーを捕うるの意にほかならない。 人として有意義なるいっさいの現象をば直観的感情以上はフォルケルトが第二標準の大意を述べたもの の対象とするときま、、 。しっさいの人生および世界の実である。氏のいわゆる「人として価値あるもの意義あ 人相は、その実相の人として価値ある以上ことごとく文るもの」のみがはたして文芸の特殊相であるかは、ず いぶん議論の出ることと思うが、フォルケルトは、従 時芸のうえに現われてくる、しかして、人間の本体真相 を伝うる豊富なる価値の内容は、かくのごとくして直来の善よりもなによりもこの標準概念がいっさいの貴 イの
て広義にて〒ステチッシュの義であるフォルケルトてある。 氏もいっさいの文芸を美すなわちシェーンの一字で フォルケルト以為らく、文芸に対するときの吾人の 判するのは不可なりという意見であるから、付言し意識が、観念を識域以下に没却して、直観と感情との ておく ) 。 一致融合を惹起すところに、文芸の究意見が成り立っ わか フォルケルトは、審美標準を四種に別つ。 わけである。吾人がファウストを読んだ場合に、ファ 心理的ー感情を充てる直観 ウスト中の人物にあるいは同情し、あるいは嫌厭する きわみ 第一の標準的概念 対象的ー形式と内容との統一 の極、ついにまったく、ファウスト曲中の人物をみず 直観はおのずから形式に向い、感情はおのすから内 から閲歴するのは、認識的観念を没しているのである。 容に向う。しかして、形式とは対象の表面相をいし この観念を没して ( もとより絶対ではない、比較的に 内容とは対象の意義をいう。その内容の意義には、対 いうのである ) 、観ると感ずるとが、合一融和する ひとりぶたい 象そのものにおける実相的意義と、象徴的意義との二ところが、文芸の独舞台で、他の意志を旨とする道徳 さんしよく 種あるはいうまでもない。 や、知ることを主とする科学なその、蚕食するを許さ 漱石の文学論第一編第一章の説明はまさしく、これざる天地である。世界人生に対して、外面的にはこれ 0 0 0 0 にあたっている。文学的内容の形式を観念と情緒とのを観照し、内心的にはこれを感情的に閲歴するところ 結合すなわち F 十となしたるは、とりも直さず、感が、すなわち文芸の世界および人生における独特の地 ・批情に充てる直観のことにあたるようであるが、フォル位である。 ケルトが直観 ( 観相とも訳す ) の文字を用いて、観念 フォルケルトの言うところは、右のごとしであるが、 時を用いざるところには、多少の意義が籠っている。そこれをば、文学論の第一間題として置いて、第二に移 0 0 0 の意義は第一標準概念の目的論 ( 究意見 ) に説明がしる。 おもえ ごじん イ 03