説 「天才論』、グロースの『人間遊戯の研究』、ルトールある。もし一般的な「文学論」としてならば、登張竹 ノオの『感情の生理』、その他、飛ールドウインの『道風の批評にあるように、「文学」一般の意義・目的・ 徳的意識についての社会的また倫理的解説』、ギョオ本質などからはいってゆくべきであろう。また材料と の『教育と遺伝』 2 、、ツドンの『芸術進化論』等。美学してもイギリスに限らず、大陸文学、あるいはアメリ しよう では、マーシャルの『苦痛・快感・美的感情の研究』、 力、さてはギリシア・ラテンから東洋のそれを広く渉 りよう リップスの『美学』その他などである。 猟する必要もないとはいえない。しかしそれらははじ それらの知識のうえに立って文学の科学的研究を行めから漱石の視野の外にあった。文学の意義・本質に おうとした意図が正しいか、どうかについてはしばらついての漱石の認識が、ジェームスあたりのプラグマ ティズムによっていることはすでに私の指摘したとこ く措く ( 文学史を科学たらしめようとする学者の中に は、こういう態度を否定する傾向もある ) 。ただ文芸ろで ( 拙著『自然主義の研究』上巻 ) 、それについては、 に即し、文芸のうちに独自の哲学的な基礎を発見する漱石は「文芸の哲学的基礎」その他でふれているので というよりは、自己の趣味判断をよりどころとしつつある。 も、文芸以外の場所に科学的根拠を借りたのが、よい したがって「文学論」は実は「英文学を通じて見た 意味でも悪い意味でも、漱石の「文学論」の特色である」とサプタイトルを置く必要がある。英文学といっ り、したがってそれは十九世紀後半の特色であった自てもその範囲は十七世紀、ほぼシェークス。ヒア以降よ 然科学的な文学研究とある程度平行するおもむきをもり十九世紀に至る期間のものに限定されている。 漱石は「文学論」に先行した「英文学形式論」の中 ここで注意すべきは漱石が大学の講義題目としてで、文学についてのいくつかの定義を下している。当 「英文学概説」の名のもとにこれを講じていることで然「文学論」の最初にあるべきこの種のものの欠落は、 っこ 0 417
・説 ことによって、「余は余の提起せる問題がすこぶる大の事情は、自伝的な小説「道草」の中のあちこちに書 かれている。 にしてかつ新しき」ものたりうると信じたのである。 「文学論」は、こういう彼の野望の、一部を表現した彼は寸暇をも惜しんで「机の前にこびり着いて」 ものである。「英文学形式論」や「文学評論」はまた ( 三 ) いた。そしてある時は「愉快に考えの筋道が運 その他の一部を提示したものであろう。ほかに、「文んだ時、おり / 、何者にか扇動されて起る『己の頭は 芸の哲学的基礎」や、「創作家の態度」や、「現代日本悪くない』という自信」 ( 五十一 ) をもったりした。そ の開化」などは、また残余の彼の企図のいくぶんかをのようにして、「鰍の頭というよりほかに形容のしょ こしら みたしたものであろう。それらをよせあつめて見れば、 うのないその原稿を、なるべくだけ余計拵えるのが」 漱石が刻苦して得るに至った、世界・人生・芸術に対 ( 五十五 ) 彼にとって「なによりの愉快であった、そ する見識を、ほぼ見わたすことができる。しかしそれして苦痛であった」 ( 同 ) のである。 らには精粗の差があり、精巧な組織をもった体系と見 ところで「文学論」に先立って、漱石は三十六年四 るには難がある。以上の諸部分をうって一丸とした、 月、東京帝国大学文科大学の講師に任じられて直後、 完全な意味での漱石の理論体系はついに完成されなか 同年六月まで、英文科の学生のみを対象として、「英文 ったといってよい 学概説」の講義をしている。これがのちの「英文学形 漱石が「文学論」の講義を東京帝国大学で試みたの式論」である。 は、序文にあるように明治三十六年九月から、三十八 しかし漱石のこの講義は、英文科の学生には不評で 年六月にかけてである。この前後の時期においての漱あったらしい。それは前任者の小泉八雲の講義が、き 石の努力は、留学時代からひきつづいて、専らこの講わめて文学的であったのと対照的に、きわめて理屈つわ ぽいものであったためである。そのうえに八雲に対す 義のノオトをつくることに最も多くさかれた。その間 おれ
つの仮構の世界を実験として生みだすというゾラの説は、小説論としてはまことに正統的で、それ 故に平凡ともいえるのだが、私が注目するのはゾラが当時の科学を、とくに下敷として用いたクロ 1 ト・ベルナ 1 ルの「実験医学序説」をまるで篤信者が聖書に対するように信奉していたことだ。 十九世紀において物理化学の権威は絶対で、それは精神現象を含めて人事の万般を規定すると信じ られていたが、ゾラはこの時代の風潮に完全にひたりきっている。同じことは漱石にも一言えはしな 、か。 Ribot や James は当時一流の心理学者ではあったにしても、全面的に信奉するほどの学説で はなかろう。ことわっておくが、私は漱石が時代の影響を濃くうけたからといって彼を批難しよう としているのではない。彼が、イギリス文学に対する或る場合には辛辣な筆致と、心理学者や社会 : とほほえましく思うのだ。 学者の学説に対する全面的信服の筆づかいとの差を、漱石すらも : 「文学論」では、漢詩、イギリス詩、虜乙説俳句と、国籍やジャンルの別なく、文学として 論じられている。その文学のとして感覚、人事、超自然、知識の四種類があるとされ、豊富な例 がひかれている。その論旨は堂々たるものだ。しかも冒頭より末尾まで筆にはいささかの混乱もな く描いては論し、論じては自己の体系を補強している。しかしこれだけ体系的に論じられながら、 論読んでいて印象が拡散するのは、やはりあまりにも豊富な例が並べられているからであろう。イギ リス文学をやる学生はこういう並列的記述を我慢して聴いているだけ忍耐心があるものなのかと驚 いてしまう。しかし、それはこちらが悪いので、イギリス文学をやる学生のようにここに引用して 427
うんぬん なる人」と一致符合せざること多かるべく、青年のい 学者のを云々すること重複に似たれども、多少その はゆる「女」は老人のいはゆる「女」とは大いにその着目点を異にするものなれば一応の説明を試むべし。 趣を異にすべし。しかしてこれ等の差違は言語の抽象 さて文学者もしくは文学的傾向を有する人は社会の どあひ こ・、ろゅ の度合に伴なうて進むものにして、かの抽象の極なる一階級を形成するものなれば、それ等の人々の心行き 哲学のごときものにありては、たゞ一つの言葉の意義もしくは観察法を論するにあたりてはいきほひこの階 ( 1 ) かうかん に関してさへ浩澣なる大著あること不思議ならす。 級と他の階級とを比較してその類似差違を見ること最 以上を約言すれば、およそ吾人の意識内容たるは も便宜なるべし。しかして普通は文学に対するに科学 人により時により、性質において数量において異なるをもってすれば、しばらく文学者対科学者 ( 哲学者を ものにして、その原因は遺伝、性格、社会、習慣等にも含む ) につき論するところあるべし。 基づくこともちろんなれば、吾人は左のごとく断言す ることを得べし。すなはち同一の境遇、歴史、職業に 第一章文学的と科学的との 従事するものには同種のが主宰すること最も普通の 比較一汎 現象なりとすと。 したがっていはゆる文学者なる者にもまた一定の およそ科学の目的とするところは叙述にして説明に が主宰しつ、あるはもちろんなるべし。しからば文学あらすとは科学者の自白により明らかなり。語を換へ 者のとよ 。いかなるものかを検するはこの種の講義にていへば科学は "How" の疑間を解けども "Why" おいて欠くべからざる要件と信す。されども文学者の に応するあたはす、いなこれに応する権利なしと自認 は文学そのもののとなってあらはるるをもって、 するものなり。すなはち一つの与へられたる現象はい すでに文学そのものの内容を論じたる以上は今さら文かにして生じたるものなるかを説きうれば科学者の権 164
れた一七二六年ころまでをさすが、せまく限ってアン女 王の治世 ( 1702 ー 1714 ) をさすこともあり、またひろく は十八世紀文学を総称する時にも用いられる。 漱石は明 三五三 ( 1 ) 英国詩人が天地山川に対する : 治二十六年 ( 1893 ) 三月、「英国詩人の天地山川に対する 観念」という評論を「哲学雜誌」に発表している ( 全集 第一巻所収 ) 。 ( 2 ) Beers Henr} 「 Augustin Bee 「 , ( 】 847 ー・】 926 ) 。 アメリカの文学者。イエール大学の英文学教授であった。 ( 3 ) Oss ミイギリスの詩人マクファースン (James Macpherson, 1736 ー 1796 ) が、三世紀のケルト族の英 雄の子オシアンの原作を散文詩に訳したものと称して発 - Fragments 0 一 Ancient Poetry 表した三編の詩 ( 17 CoIIected in the Highlands' ) ( 176e : Fingal こ 62 ) 2 Temora ご ( 1763 ) ーーー・をいう。一」の詩がその後の ロマン派の詩人たちに与えた影響は大きい うつう ( 4 ) 鬱紆気が曙れないさま。 三五四 ( 1 ) ダ「 ertherism ゲ 1 テの小説『若いヴェルテルの ', 1774 ) しみ』 ( : Die Leiden des jungen Werthers' の主人公の悲しみに共鳴し、これを気取る風潮。 ( 2 ) Gothic 復活 G0thus は古典的美感に対立する 中世的なものに対する感情・趣味を意味する語であるが、 この情緒の勃興は英文学では十八世紀中葉以後で、十九 世紀にはいってロマン卞義復興 (Romantic Revival) とともに頂点に達する。 (the younger) 1728 ーー 1790 。 ( 3 ) Thomas 「 arton イギリスの批評家。その著 : The History of English poetry", ( 3V0 ア . 一 774 , 1778 , 】 78 こは最初の大部な英 詩史で、その中に : The Origin 0 ( Romantic Fiction in Europe" などの研究もはいっており、中世の G0th ・ icism に純出していた 0 ( 4 ) Reliques ミゝ c ~ e ~ 、 0 ミ『古語 拾遺集』。イギリスの聖職者パーシー (Thomas PercY' 1729 ー 1811 ) が中世の古い詩の中から選んで編集し、一 七六五年に出版したもの。これらの古謡はロマン主義の 興隆を助成する大きな力となった。 三五五 ( 1 ) Joseph Warton 】 722 ー】 88 。イギリスの批評 家。前注 Thomas の兄。ここに言及された著書 "An Essay on the Genius and 「 ritings 0f Pope こ ( 1756 ー 1782 ) は、ポープ流の悟性の詩を排して想像の詩を尊び、 ロマン主義への道をひらくのに貢献した。その他ヴェル ギリウスの翻訳、ポープの解注版などの著がある。なお イ 54
て、教訓を目的とするものではない。 念と連結して、はじめて、文芸の独立世界が浮び出る 芸術と科学と、知と情とを混同誤解せるゾラのごとのだともいえるであろう。 ぎはまれに見るところである、ゾラが文芸に対する この第二標準概念には「文学論」と似通える点が少 ・こびゅう 立脚地は根本的に誤謬である。 くない。「文学論」第二編第三章読者の幻惑はまさし 以上は心理的に見た第三標準概念である。これを対 くこの概念に相当する。なお詳しく言えば、感情の記 0 0 象的に見れば、仮象の世界としての美的現象となるの憶は前の没意志の中の ( ホ ) の (o) 対象的惑情にあ である。 たり、自己関係の抽出は ( ロ ) 自己関係の除却にあた この仮象には三様の見方がある。 ( 一 ) 仮象の感情、り、 善悪の抽出は ( 1 ) に相当する。また、第三編第 (ll) 仮象の霊化、 ( 三 ) 仮象の統一である。これは別一章において、哲学と詩との関係を説き、「文学者は哲 に、説明を要しないことと思うから、略して、究竟見学を詩化するを妨げす、詩を哲学化するにっては戈 本書 に移る。第三の標準概念の究竟見は左のごとし。 をまにしてわが主を撃つがごとし。二九四頁 ( 一 形式と内容との統一があるうえは、その内容力人Ⅲ ・、」 L し」とあるは、フォルケルトが没認識を説ける条に 的有意義である美的現象は、そが仮象たるに由りて、 思想的詩歌を説けると同一義である。ことに面白いの はじめてさらに大いなる人間的価値を有するに至るのは、漱石が「文芸の哲学的基礎」においてゾラを攻撃 である。なんとなれば、美的関係が仮象なればこそ、 していると同じ筆法で、フォルケルトが同じくゾラに その関係が意志を旨とずる道徳、認識を旨とする科学、矢を放っていることだ。 信仰を主とする宗教とはまったく独立せる天地を、没 たゞこゝに不思議に思うのは、夏目氏が、文学論に 意志、没材料、没知識のうちに確立することを得るのおいても、また、「文芸の哲学的基礎。中にも、いまた 0 0 0 である。仮象の世界に遊離する美的現象が、前の二概かって仮象論を説かざることである。吾人はフォルケ
手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学はいか余はもとより大学の教授にあらず、したが 0 てこれを なる必要あ 0 て、この世に生れ、発達し、退廃するか講義の材料に用ゐるの必要を認めず。また急にこれを を極めんと誓へり。余は社会的に文学はいかなる必要書物に纏むるの要なき身なり。当時余の予算にては帰 けんさん あ 0 て、存在し、隆興し、衰減するかを究めんと誓へ朝後十年を期して、十分なる研鑽の結果を大成し、し こ、ろえ かる後世に間ふ心得なりし。 あっ 留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六 余は余の提起せる間題がすこぶる大にしてかつ新し きがゆゑに、何人も一二年の間に解釈しうべき性質の寸の高さに達したり。余はこのノートを唯一の財産と して帰朝したり。帰朝するやいなや余は突然講師とし ものにあらざるを信じたるをもって、余が使用するい 0 さいの時を挙けて、あらゆる方面の材料を収集するて東京大学にて英文学を講すべき依嘱を受けたり。余 にカめ、余が消費しうるすべての費用を割いて参考書はもとよりか、る目的をも 0 て洋行せるにあらす、ま を購へり。この一念を起してより六七ヶ月の間は余がたか、る目的をも 0 て帰朝せるにあらず。大学にて英 生涯のうちにおいても 0 とも鋭意にも 0 とも誠実に研文学を担任教授するほどの学力あるにあらざるうへ、 究を持続せる時期なり。しかも報告書の不十分なるた余の目的はかねての文学論を大成するにありしをもっ けんせき て、教授のために自己の宿志を害せらるるを好まず。 め文部省より譴責を受けたるの時期なり。 余は余の有するかぎりの精力を挙げて、購へる書をよ 0 て一応はこれを辞せんと思ひしが、留学中書信に 片端より読み、読みたる個所に傍注を施こし、必要にて東京奉職の希望を洩らしたる友人 ( 大塚保治氏 ) の さだ とりはからひ MJ しめ ~ し こて、ほとんど余の帰朝前に定まりたるがごと 逢ふごとにノートを取れり。はじめは茫乎として際涯取計冫 ありさま のなかりしもののうちになんとなくある正体のあるやぎ有様なるをもって、つひに浅学を顧みす、依托を引 き受くることとなれり。 うに感ぜられるほどになりたるは五六ヶ月の後なり。 0
・」」論ずるつも の開化に及す影響およびその何物な りー ( 明治三十五年三月十五日、中根重一あて書簡 ) だ といっている。それは「哲学にも歴史にも政治にも心 さふらふ 理にも生物学にも進化論にも関係致し候ゅゑ自分なが そろ らその大胆なるにあきれ候」 ( 同 ) というほどに規模 吉田精一 の大きいものであり、一個人の能力を超えるおそれを 漱石が「文学論」を思い立った動機、およびそれをたぶんにもっていた。しかし「文学論」として徹底し どのように構築していったかということについては、 ようとすれば、ここまで行かねば漱石には満足できな 「文学論」につけた彼自身の序文が明らかに語ってい かったのであろう。事実また、よし表面にそれらの各 る。また小宮豊隆氏による精しい解説がすでに出てい部分がはっきり姿を現わさないまでも、世界・人生・ る。ここにはそれ以上語ることはほとんどない。 歴史・社会などに対する認識を身につけなければ、根 ただのちに述べることとの関連のうえから、すこし本的に「文学論」を樹立するわけにはゆかない、とも だけここにふれておきたい。 いえるのである。 漱石はこの仕事をイギリス留学中に思い立った時、 漱石はまた「文学論」序文のなかで、文学書を行李 「世界をいかに観るべきやといふ論より始め、それよの底におさめて、「余は心理的に文学はいかなる必要 り人生をいかに解釈すべきやの問題に移り、それよりあって、この世に生れ、発達し、退廃するかを概めん 人生の意義目的およびその活力の変化を論じ、次に開と誓へり、余は社会的に文学はいかなる必要あって、 化のいかなるものなるやを論じ、開化を構造する諸原存在し、隆興し、衰減するかを究めんと誓へり」と覚 - 素を解剖し、その連合して発展する方向よりして文芸悟したことをのべている。それらの点にまで徹底する
「文学論」で最も面白いのは、おそらく集合的意識を りつ ! 説いた第五編であろう。文章も最も立淤で、雄健奔放、 気炎あたるべからざるものがある。これについても愚 見があるが、日を改めて高教を請いたい。 夏目氏の文芸上の意見としては、「文学論」よりも、 むしろ朝日に出た「文芸の哲学的基礎」のほうが論理 しこう 一貫して議論も面白く、系統も立っている。余の嗜好 よりいえば、余は、やはり、「草枕 . 、の文芸観がいちば ん好きだ。 以上は、余が文学論を読んだ ) えの感想の一斑であ る。フォルケルトの梗概の・こときは、肉を削り去った 骨のようなもので、ことに見苦しいものがあるが、致 方がない。加うるに、久しく、かかる理論的文辞を綴 きんしゆく らざるがために、筆端いよいよ窘縮して、不明の点、 生硬の訳辞等ことに多からんと思う。そはさて置き、 批いちいち文字のうえには現わしがたいけれど、文学論 人のために、余が暗示、警告を受けたところは、実に多 時大である。謹んで、著者に感謝の意を表す。 ( 明治四〇・七「新小説ラ 4 お
0 0 0 き文芸を網羅するものであると信じているのである。 答案にすぎない といっている。このよきかが物議を しからば、「文学論」では、この標準はどうであるか生ずるところであろうが、とにかく一の標準たるは疑 いない、文芸上の理想を別って、美、真、善、荘厳の と見るに、文学的材料を分って四種となし、その価値 的等級を詳論した第一編第三章、文学的内容の特質と四種となし、この四の理想を貫く統一的理想は、「い 題して文学的と科学的との比較、文芸上の真と科かにして生存するが最もよきかの問題に与うる答案」 学上の真を論じた第三編においても、この黛の標準概というのであるから、文芸の最大標準は吾人の生存上 念がない。博覚、人事、超自然、知識と分てる文学的最も善き方法を表現するにありということになる。フ お、しろ つらぬ 材料の弁別は面白いが、この四種の材料を貫く文学的ォルケルトは、これを、「人間的有価値有意義の現象」 特色とはなんであろうぞ、文学と科学とにおける真のと説いたのだ、そのいずれが、面白いかは、ここに判 比較論はめでたきものであるが、その科学の真とは異ずる限りにあらずとして、フォルケルトが第三の標準 概念に移る。 なれる文学の真、科学のとは異なれる文学のはい かなる特殊相を具備するものであるか、これがやがて 心理的ー実際的感情の排斥 第三標準概念 文芸の標準概念となるべきは、フォルケルトを待って 仮象の世界として - 」とら 対象的ー の美的現象 後ち知るべき柄ではない。文学論の著者、惜むらく はこの大切なる説明を逸しているようた。 審美関係は第一で情緒に充てる直観であった、その 翻って、「朝日」に出た、「文芸の哲学的基礎」を読情緒的直観は、次に拡大して、典型的現象を捕うるこ むにこのほうには、この標準が出ている。氏は、「文芸とになったのであるが、その審美関係は第三の標準概 には理想が必要である、理想とはなんでもない、いか念として、実際的感情を脱離するに至って、ますます にして生存するが最もよきかの間題に対して与えたるその本領を発揮するのである。いわゆる実際感情の脱 わか 0 0 406