心理的ー感情的観念 ( 表象 ) の拡大すなわち象徴的意義のうえからは、千古不渝の現象で 第二標準厩念 対象的ー人間的有意義の内容 ある。 フォルケルトの普通的典型的といえるもおそらくこ 第一標準における感情化せる直観は、多くは個々の 場合において言うのである。この個々の場合を拡大しの意義にほかならないであろう。 この拡大法は、対象的にいえば人間的有意義の内容 て意識に上れる事象をば、普遍的、典型的、総合的に 見ることが、また文芸に対するときの心理現象であるである。第一標準では、単に形式と内容との統一とい が、この心理現象は、観念 ( 概念にあらす ) の力を待ったのである。この標準のみならば、統一さえあれば、 たねばならぬ、ゆえにこれを感情的観念すなわち感情文芸は如何様の者でも宜しいわけになるのであるが、 を起す観念の拡大という。 そうでない、統一はなければならぬが、内容に制限約 ここに普遍的、典型的というこころをゲーテは徴束がある、これを人間的有意義の内容というものであ 的の文字をもって、現わしている。ゲーテは以為らく、る。 いっさいの芸術は現象の皮相にあらすして、現象の真人として価あるものを意義に充てるものを作る。こ 相を現わすべぎものである。真相とは事象の典型、すれが、フォルケルトの新案である。この有意義の意義 なわち根原的現象 Urphänomenon をいうので、このがすこふる難物たが、前の心理的名目と相対比すると、 意義よりいえばいっさいの文芸はことごとく象徴的でおのずから分明になると思う。裏をいえば、フォルケ あると。たとえば、ゲーテのイフィゲニエに見ゆる境ルト氏は平凡主義の文学や極端なる自然主義の文学を 遇のごときは今日の世にはまたとないことであろう、 ばこの標準のうえから排斥する人である。あまりに熕 しかしながら、イフィゲニエ姫の胸中に湧き出でた種瑣に陥れる写生文なぞもますお叱りを受けるべきほう 種の感想、憧憬、悲愁等は、人間の根原的現象として、であろう。 おもえ 0 0 当んこふ 4 はん 404
か意か知かの質間に接せざるべからず。これを前章に種のごとく比較的薄弱なるものに文学的勢力を添ふる の具なり。しかるに感覚的材料の優勢なるは前編に述 挙げたる諸例に徴し、また汎く古今の文例に見るに てんこく 「天哭す」といふの類もっとも多きに似たり。「星まばべたるがごとし。ある場合においては実に人事的材料 こく りト 4 う たきす」といふの類これに次ぐがごとし。哭すといふを凌駕す。今人事的材料すらも他の材料と連結してこ はわが情にちかき語なり。まばたきすといふはわが動れを文学的ならしむるに有力なりとすれば感覚的材料 作に似たるの語なり。前編に論述せる文学的材料の言のうちにて同様の用をなすもの多きは論を待たず。し ごじん 語をもって翻訳すれば、哭すとは人事的材料なり。またがって吾人は人事的材料対他材料より生ずる連想甲 た、きすとはわが動作を動作として目する点より見てのあるものを選んでこれを文学的なりとしこれに投出 感覚的材料なり。したがって投出語法とは人事的もし語法の名を与ふると同時に、感覚的材料を本位として これに配するに他をもってし前者をして後者を説明せ くは感覚的材料をもって他の材料を説明するの義とな る。なほ狭義にいへば同じく人事的感覚的なるにも関しむるの便宜を許さざるを得ず。これを許して一種の せず同類の材料にて、より多く人を動かすに足るもの形式のもとに纏めたるがすなはち投入語法なり。この あびはいち を求めて前者を説明するの意となる。いっそう狭義にゆゑにこの両者はその帰趣において相背馳して容れざ いへばわれに固有にしてまたもっとも我を動かすことるがごとくなるにも関せず、等しく文学的にして同程 多き情すなはち人事的材料をもってあらゆる他の材料度に存在の価値を認めらるべきものとす。しかして両 えら を説明するものを投出語法と称するも大過なきにちか者いづれを択ぶべきかは時、所の便宜にて決すべしと きがごとし。ゅゑに正確なる形式を得たるものを標本いふのほかなんらの商量を費やすの余地なきに似たり。 ふけ として論すれば投出語法とは人事的材料対第一、第三、たゞし作家性情の癖するところに耽って一を捨てて他 第四材料の連想法と認めうべく、これを利用して第四を取るを快とするものなきにあらず。こは間題外なり。 ひろ まと 200
芸の力を借りてかかる統一がある「かのごとくー現わ ルトの標準論を読みゆくうち、仮象論の章に至って、 標準論として、他の科学、宗教、道徳等と文学を別たれるので、むしろ仮象として現われるところに妙があ がりようてんせい る。したごうて、有機的統一の迷いが起るわけである。 んためには、実に画竜点睛の妙があるように感じた。 本書五 ) に夏目氏が「シルレルの遊戯説あしからば究意見はいかん。 一〇二頁 ( ペー 前に述べた三個条の標準概念のほかに、有機的統一 るひはグロースの本能説等につきて、余は何事も言は んとするものにあらず」、とあるを見れば、遊戯説と相はなにがゆえに美的関係に必要があるのか。これが間 0 0 関係すること少からざる仮象説をも、氏は始めより度題である。そもそも理性なるものは、その形式的方面 外に置いたのであろう。その是非は今論ぜす、第四のよりいえば弁別力であるから、あるいは離しあるいは 標準概念に移る。 合する心理作用にほかならない。かるがゆえに、第四 の標準概念は、今まで少しも頭を擡げなかった理性に 心理的ー関係的心理作用の増盛 めいりよう むかっ 第四標準概念 向て声をかけたもので、明瞭秩序等の要求を充たすべ 有機的統一として 対象的ー の美的対象 、理性の出現を望んだ形である。 関係作用とはあるいは統合しあるいは分解する心理 美的現象は、有機的統一を得て、はじめて、人間の 作用の謂である。これを対象的に見るとき、有機的統理性の形式的要求を満足することができるのである。 一としての美的現象となるという意である。有機的統しかして、美的関係なるものは、人間の高尚なる発展 批一とは、種々相の中に統一あり、統一の中に種々相あのために存在するのである、理性の根本的要求は、美 人るものをいうので、首尾一貫した渾然たる統一体をい 的関係の中にもその満足を求むるは当然である。 時うのである、これを内容においてい この第四標準にあたるものを、「文学論」に求むれば、ー 、また形式にお いてこれをいう。しかし、有機的統一なるものは、文第四編文学的内容の相互関係はすなわちこの有機的統 もた
0 0 0 き文芸を網羅するものであると信じているのである。 答案にすぎない といっている。このよきかが物議を しからば、「文学論」では、この標準はどうであるか生ずるところであろうが、とにかく一の標準たるは疑 いない、文芸上の理想を別って、美、真、善、荘厳の と見るに、文学的材料を分って四種となし、その価値 的等級を詳論した第一編第三章、文学的内容の特質と四種となし、この四の理想を貫く統一的理想は、「い 題して文学的と科学的との比較、文芸上の真と科かにして生存するが最もよきかの問題に与うる答案」 学上の真を論じた第三編においても、この黛の標準概というのであるから、文芸の最大標準は吾人の生存上 念がない。博覚、人事、超自然、知識と分てる文学的最も善き方法を表現するにありということになる。フ お、しろ つらぬ 材料の弁別は面白いが、この四種の材料を貫く文学的ォルケルトは、これを、「人間的有価値有意義の現象」 特色とはなんであろうぞ、文学と科学とにおける真のと説いたのだ、そのいずれが、面白いかは、ここに判 比較論はめでたきものであるが、その科学の真とは異ずる限りにあらずとして、フォルケルトが第三の標準 概念に移る。 なれる文学の真、科学のとは異なれる文学のはい かなる特殊相を具備するものであるか、これがやがて 心理的ー実際的感情の排斥 第三標準概念 文芸の標準概念となるべきは、フォルケルトを待って 仮象の世界として - 」とら 対象的ー の美的現象 後ち知るべき柄ではない。文学論の著者、惜むらく はこの大切なる説明を逸しているようた。 審美関係は第一で情緒に充てる直観であった、その 翻って、「朝日」に出た、「文芸の哲学的基礎」を読情緒的直観は、次に拡大して、典型的現象を捕うるこ むにこのほうには、この標準が出ている。氏は、「文芸とになったのであるが、その審美関係は第三の標準概 には理想が必要である、理想とはなんでもない、いか念として、実際的感情を脱離するに至って、ますます にして生存するが最もよきかの間題に対して与えたるその本領を発揮するのである。いわゆる実際感情の脱 わか 0 0 406
言うまでもなく、有意義有価値とは最も広い意味に観的感情の貴重なる対象となるのである。この意義よ 解すべきものだ。人間として価あるものという以上は、 りして、審美的関係が、はじめて大いなる人間的価値 いっさいの人生はことごとくその中に含まるるはもちの仲間入りをすることができるのだ。 ろんである。善悪正邪、尊卑、禍福等を舞台として起 という訳は、すべての大いなる人間的価値はことご る道徳的価値の人生を始として、宗教的い、芸術的とく個々相、皮相、表面相、虚無相等を折伏するから 3 、科学的国、価値の人生よりひいては、形而上的価で、たとえば、科学および哲学は種属および法則の認 値の人生国、および快楽派的価値 ( いわゆる美的生活 ) 識のためにカめてこれをなし、宗教は人間の感情を神 内、に至るまでことごとく網羅さるべきものである。 に向けてこれを為し、道徳は人としての理想的価値を これに反して、無意義なる内容、何者をも語らざる実現せんがためにこれを為すがごとし。たゞ、直観的 内容やあまりに奇怪に失せる内容はこの標準のうえよ感情という心理作用に拠って人間的有価値の現象を捕 り排斥すべきものだ。 捉するのは美的関係の特権である。へ ッペルが「真の きた さて、しからば、この第二標準概念は究意見のうえ詩人は自家の要求を掲け来って、全人類の要求を時す ひっきよう からは、どうなるのかといえば、その目的は左のとおるものなり」と言ったのは、畢竟、「人として有価値の 現象ーを捕うるの意にほかならない。 人として有意義なるいっさいの現象をば直観的感情以上はフォルケルトが第二標準の大意を述べたもの の対象とするときま、、 。しっさいの人生および世界の実である。氏のいわゆる「人として価値あるもの意義あ 人相は、その実相の人として価値ある以上ことごとく文るもの」のみがはたして文芸の特殊相であるかは、ず いぶん議論の出ることと思うが、フォルケルトは、従 時芸のうえに現われてくる、しかして、人間の本体真相 を伝うる豊富なる価値の内容は、かくのごとくして直来の善よりもなによりもこの標準概念がいっさいの貴 イの
文学論 第一編文学的内容の分類 第一章文学的内容の形式 ( F + f ) ーー・・心理的説明 第二章文学的内容の基本成分 簡単なる感覚的要幸ーー触覚ーー温度ーー・・・味覚 , ーー嗅 人類の内部心理作用ーーー恐怖・ーー怒ーー争闘ーー同 感ーー God 一 va ーー父子間の同感ー・ - ! Rhodo 意気ーー Co ュ 0 s ーーー忍耐ーーー VioIa —Gri- selda ーーー両性的本能・ーー Coleridge のト 0 2 Browning のト 0 ~ ミま 0 g 、、 2 えに一 s ーーー複 雑情緒、、ー嫉妬ー・ー忠義ーー、。こーー抽象的 観念・・ー超自然的事物ーー・概括的真理ーー格一言 第三章文学的内容の分類および その価値的等級 目次 七四 感覚ーー人事ー、ー超自然ーー知識ー・ー審美 Ruskin の美の本源説。。ー耶蘇教の神ーー , 極楽 類霊ーー妖婆ーーー変化ーー人間の感応ーー超自然 の文学的効果ーーー人生と文学 第二編文学的内容の数量的変化 第一章の変化 識別力の発達ーー事物の増加 第二章の変化 感情転置法・ーー、。ゝ 3 ドーー・感情拡大法ーー・感 情固執法 第三章 に伴なふ幻惑 〔作家の材料に対する場合〕ー , 連想の作用にて醜を化 して美となす表出法ーーー描き方の妙ーーーの奇警 部分的描写ーー人事の両面解格 言の矛盾 〔読者の作品に対する場合〕ーー感情の記憶。ーー Mrs. Siddons ーーー自己関係の抽出ーーー G 】 oster ーー善悪 の抽出—Art for Art 派ーー非人情ーー - 崇高 詩人 CoIeridge の火事見物ーーー不徳ーー道化趣味 Fa 】 sta ー ! 純美感ーー知的分子の除去 第四章悲劇に対する場合 一 8 一宅 プしプし
文学論 なるをもって、これをまた複反射運動と名づけうべし。の度合はたうてい本能に及ばざれども第四に来るべき されども生存ゃうやく複雑となるに従ひ、これ等の器実用判断に比すればなほ強しといひうべし。しかして 械的作用は幾多の障害不都合に遭遇し、何者かこれを実用判断はその力において普遍的判断に勝るものなり。 意識的に指導するにあらざれば生存の目的上自減を招 かくのごとく吾人人類の心的発展を尋ぬれば、本能の くに至ること明らかなり。しかしてこの必要に応じて自然的変遷を待って進歩したるものにあらず、まった 現はれたるものすなはち知力にして、これ幾多の経験く知力が経験を利用して本能そのものの発達区域を脱 を重ねて得たる適応的手段にほかならず、世にいふ習却し、常にその先駆をなせしものなること明白なり。 慣を意味するものなり。しかしてさらに進みて行動としかして本能的は最強のを有し、習慣的これに めいせき その結果を明晰に意識して処置するものを実用判断力次ぎ、これに次ぐに実用的判断をもってし、普遍的 r4 と名づけ、合理的なる点においてその効力、習慣の上の最も弱きは寡実なり。近く譬喩を設けていはんに、 あひあはれ にあり。かくのごとく論じ来りてその最後に置くべき同情、もしくは同類相憐むの理は、おそらく生物界に あひは 能力はいはゆる普遍的判断力にして、これすなはち過共通の本能にして、同族相食み闘争殺人一日として絶 しゆら しゅうがふ 去雑多の経験を総合して案出したる未来の指南車ともえ間なきこの修羅の浮世にも、事実はよく人類の聚合 なげう 目すべきものなり。 性を証し、母はその子のために身命を抛って悔いず。 反射運動は意識に上らざるものなればしばらく措き、本能に伴なふは常にか《、のごとく強大なり。しかし 第二の本能作用は吾人の構造に固有なる刺激に対するて実用的判断の一例と称しうる親切なるものはいかに なんびと 反動なればそのカの強大なることもちろんなり。しか これ何人も是認して実用しつ、ある尋常一様の道義に して習慣に至りては前者のごとく遺伝的に物体の構造ほかならざれども、時にはある結果を意識してその目 に編みこまれたるものにあらざるをも 0 て、その猛烈的のため一個人に対する一種の手段たるの意を含むこ のぼ まさ
文学論 { のみ存在して、それに相応すべぎを認めえざ る場合、いはゆる : fear 0 ( everything and fear ま nothing" のごときもの。すなはちなんらの理由なく して感ずる恐怖など、みなこれに属すべきものなり。 第一編文学的内容の分類 Ribot はその著「情緒の心理』にこの種の経験を四大 別してさらに付記して日く「かくのごとく人体諸機能 第一章文学的内容の形式 の合成的結果すなはち普通感覚の変化に基づき毫も知 およそ文学的内容の形式は ( F 十 3 なることを要的活動の支配を受けざる一種純正、しかも自治的方面 す。は焦点的印象または観念を意味し、はこれにを感情において見出だすことを得。」 以上三種のうち、文学的内容たりうべきはにして、 付着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象また そな は観念の二方面すなはち認識的要素と情緒的要すなはち (F + ( ) の形式を具ふるものとす。 素との結合を示したるものといひうべし。吾人につぎ詳述せんにその適例なる幾何学の公理ある が日常経験する印象および観念はこれを大別して三種ひは Newton の運動法則「物体は外よりカの作用す るにあらざれば静止せるものは終始その位置に静止し、 となすべし。 ありてなき場合すなはち知的要素を存し情的運動しつ、あるものは等速度をもって一直線に進行 要素を欠くもの、たと〈ば吾人が有する三角形の観念す」のごとき文字は単に吾人の知力にのみ作用するも のごとく、それに伴なふ情緒さらにあることなきもの。のにしてその際毫もなんらの情緒を喚起せず。あるひ に伴なうてを生ずる場合、たと〈ば花、星等はいふ、かの科学者が発見もしくは間題解決に際し最 高度の情緒を感じうるの理いかん。しかりこの情的要 の観念におけるがごときもの。 ごじん
巧」の必らずしも陳臠でない所以を説き、文章心理学省いて、スコットの「アイヴァンホー」を例として、 的な分野においての発展を示している。 それが成功した幻惑を産みえた事情を検討している。 次に空間的間隔論については、澂石は、この二方法漱石の見解は形式的には ( ミルトンのいわゆる「制 は、「哲理的」には作家の態度の間題に帰着するとした。限的視点」 The limited point ま view や、岩野泡 すなわち第一法は、作者の人格・見識・判断・観察を鳴の「一元描写論」に似ているが、それとも多少の違 読者の上に放射し、作者の前に叩頭させる方法であり、 いがある。彼等の場合は作品全体を統一する視点の論 第二法は、「作者の自我を主張せざる」作物で、「自我であるのに対し、漱石のほうは、作品の一部分のみの を主張するも、編中の人物を離れて主張すべき自我な描写手法であってもさしつかえがない。加うるに漱石 ぎをいふ。換言すれば両者の間に間隔の認むべきなく から見わば、彼等の主張や分類は「卑近」な間隔論に こんくわ して、同情の極油然として一所に渾化せるをいふ」と属するものとなるであろう。 いうものである。もしほしいままに例をひくなら、前 最後に第五編の「・集合的」について、模擬的、 者はトルストイ、後者はモオパッサンの作風をそれそ能才的、天才的の区別をこころみ、ついで意識推 れ代表的なものとすることができるかもしれない。 移の原則にふれているが、ここでは彼の心理学的な立 しかしこのように見てくれば文学上の間隔の問題は、脚地と、社会学的な見方とがミックスしている。天才 作者の主義や人生観や、小説の二大区別となるので、 論として注目すべきは、漱石が「几人と天才とはを 漱石はこれについて論じることをさけ、たんに形式の意識するの遅速によって」両者の間の根本的相違が生 方面から作物のうえに現われる効果を検して、もつばまれると考えている部分で、のちに。フレハノフが、両 ら第二法について述べている。この際「卑近 , ないわ者の相違を時代の進行方向を先取するかいなかにもと ゆるイッヒ・ロマン ( 一人称の小説 ) や写生文などはめたのとほほ軌を一にする。
禽獣の三種のについて論じている。ととはけっ不自然の垣をめぐらし , たものと見ている点に、漱石 きよく表現技巧の間題に帰し、これに説明を加えてい の面目が見えるのである。 るが、についてはふれていない。 これは一つには文 以上は第一編「文学的内容の分類」第二編「文学的 学内部の間題を逸脱するおそれがあるからであろうが、内容の数量的変化」の概要である。全体を通じて分類 一つには究極において文学の本質的意義に直結し、間 ないし叙述は、科学的を期したのであろうが、あまり はんさ 題が複雑になることを恐れたのであろう ( アリストテ にも繁瑣で、また平面的なきらいがあり、縦横に引用 レスのカタルシスなどはここに帰属する ) 。 されている英文学の教養知識については頭を下げさせ たた彼は読者がどのような心理でどのような幻惑をはしても、通常の読者を困惑させるものがある。これ 作品からうけるかについてはふれている。直接にはリ に対して第三編「文学的内容の特質」と第四編「文学 ポオの説に仮りて、文学が作者の技巧によって潤色さ的内容の相互関係」とはいくぶんともおもむきをこと れた間接経験であるがゆえに、量的・質的に直接経験にする。ことに第一二編がそうである。 との差異があり、それが快感をあたえる。もっとも読 第三編は文芸と科学の性格との対比にはじまり、 者は鑑賞に際して、自己関係、善悪の観念、知的分子「文芸上の真」と「科学上の真」の区別に終っており、 の三つを除去してのぞまねばならぬとした。これは漱何人も異存のないところであると同時に常識的でもあ 石自身もいうように、事あたらしい説ではないが、そる。第四編は「文芸上の真」を発揮する手段方法とし れを心理的な面から解説しているところに若干の特色ての修辞論である。 がある。さらに道徳を「一種の情緒」とし、道徳的分 修辞論とは、彼によれば、あたえられた材料をいか 子が文学の一大要素であることをみとめ、「道徳は文に表現すれば材料がも「ともよく詩化されるか、美化 学に不用なりといふは、当然広かるべき地面を強ひてされるかを解決する方法であり、それは世人のふつう 4 幻